Thursday, August 23, 2012

Vietnam War,my village became hell, another war crime (the massacre by South Korean military)


私の村は地獄になった----ベトナム戦争、もうひとつの戦争犯罪(韓国軍による虐殺)
http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/748.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 19 日 21:46:00:0iYhrg5rK5QpI
(回答先: 敵が「非人間化」されていれば、「敵」を殺すことなど何でもない・・・百人斬り・据え物斬りも同じ 投稿者 木田貴常 日時 2004 年 10 月 19 日 18:12:19)

タイガーフォースの存在は聞いたことがあったが、こういう虐殺をしていたとは初耳である。
そこでタイガー「虎」にまつわる韓国軍部隊ののベトナムでの悪逆ぶりも思い出してしまった。

ベトナムにおけるもうひとつの「隠された」虐殺。
韓国軍は焼く延べ30万名(最大兵力5万人)もの「猛虎」部隊をベトナムに派遣して米軍の侵略に肩入れしていた。朴正キ大統領軍事独裁政権(米国の傀儡)のもと、空手などに長けた部隊が派遣され、狂気の民間人殺戮が繰り返された。

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私の村は地獄になった

http://210.160.208.40/search/20000412/wa_sug1.html

WORLD AFFAIRS 証言


Apocalypse Then

私の村は地獄になった


韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた


ロン・モロー(バンコク支局長)

今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24


WORLD AFFAIRS◇証言

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111894961


ベストアンサーに選ばれた回答
blue_moon_swampさん

ベトナム戦争時の、韓国軍の蛮行の一部

1969年10月14日、ベトナム南部の仏教寺院で韓国兵がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されるとこれに激怒,。
同僚を誘って銃器を乱射し、71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人を殺害した。

※韓国では、儒教以外の宗教を数百年間において差別している。
特に仏教(仏教徒)は迫害されているため、ベトナムの寺院の僧侶も虫けらの如く虐殺した。

1965年12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた。
彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した。

ある女性は、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.。
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててあった。
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていた。
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てた。
彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せた。 そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"。

韓国軍の虐殺現場は他にももっとある。
” 当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された。

韓国軍の良民虐殺の手口
・住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。

・住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。

・子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。

・女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。

・住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。

※韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ。
韓国の雑誌「ハンギョレ21」抜粋


ベトナム戦争の混血児問題
韓国がベトナム戦争に参戦した際、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人が「レイプ」「非管理売春」「現地妻を持ったこと」などにより、多くの混血児が生まれた。
特に現地妻との間に生まれた混血児の数は、2004年9月18日付の釜山日報の記事によれば、5千~3万人と推定されている。

ベトナムと韓国では、韓越混血児を「ライタイハン」と呼んでおり、ライはベトナムで軽蔑の意味を含めた「混血雑種」、タイハンはベトナムにおける「韓国」の名称である。
現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は行われていないが、最近、韓国人(父親)が認知しない場合でも、写真など客観的に関係を立証する資料があれば国籍を付与する法案を積極的に検討する事にした。
また「ライタイハン」自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある。
東亜日報、2002年7月26日。 。

日本に対して謝罪と補償を求める一方で、ベトナムに対しては補償はおろか謝罪すら行わないことはダブルスタンダードとの批判は免れない。一方で、日本軍兵士による犯罪行為を持ち出すことで韓国軍兵士による犯罪行為を相対化し矮小化しようとする動きがあることに対しては、フェミニストを中心に国内外から強い反論がなされている。


kawasaki_1900さん

韓国のX虎隊だったかな、強盗、恐喝、殺人、強姦、泥棒、放火・・

それを銃を持って行いますからたちが悪い、あまりのひどさに止めに入った南ベトナム軍との銃撃戦もあったとか?

韓国の将軍が異様に多い揚陸艦をベトナムに持ってきたのでアメリカ軍が調べたら

ベトナムで奪った物を満載していたとか、アメリカ司令部が「韓国軍は軍隊ではなく盗賊だ」といった話は有名

その物資のおかげで、韓国軍の名門部隊になってます>X虎部隊

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回答日時:2007/6/15 11:06:23
hagoromonomathuさん

朝鮮人の行為、本当ですよ、特に女性に対しては異常です、日本人が戦後帰国するときなにをされたかお調べなさい。

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回答日時:2007/6/15 07:59:59
ganchiyan18さん

戦争だから仕方無い、人権に関われば国債裁判で戦犯として
裁かれるわけだが、ベトナム戦争裁判がストックホルムでおこなわれたが、犯人のいないものだつた、東京でも行われたが同様でした



http://ameblo.jp/sankeiouen/entry-10992119059.html




韓国に向けて拡散希望 韓国がベトナムに残した癒えない爪あと
2011-08-25 07:00:00
한국이 베트남으로 떠난 후 손톱으로 오해 하지
2011-08-20 15:00:00

주제: 한국 역사
「 무렵의 것을 원하지도 않는 기억 」
베트남 중부 빈 딘 · 마을 탄 부 후크
(성 길 638 번, 1 번 국도에서 약 10 킬로미터 서쪽에 위치 하는)
사는 ヴォー · 티 내 딘 씨 (59)는 아들 앞에서 조용히 呟き 했다.



베트남 전쟁 시대의 한국은 쿠데타로 정권을 탈취 한 이명박 정 희 씨가
제 5 ~ 9 대 째 대통령 (재임: 1963 년 ~ 1979 년)을 역임 했다.


베트남 전쟁 때 대한민국 병에 강간 했다 ヴォー · 티 내 딘 씨



행정부의 안정과 국가 경제 구조 조정으로 인해 많은 달러를 요구 하는 한국


미국에 걸쳐 총 31만 명의 군인을 베트남으로 파병.
1966 년 말, 미군 부 대는 2 개 보병 사단 (猛虎, 백 마),
해병대 여 단 (파랑 용), 유 사단 (남 십자 별)
약간의 공 병 등 4만 5, 000 명이 남부 베트남에 진주 했다.



당시 빈 딘 지방에서 북부의 クアンガイ 성,
クアン 남 국에 걸친 풍부한 농촌 지역에서는
남쪽으로 베트남 민족 해방 전선의 지배 아래에 있습니다.
先遣 특공 대에이 어, 파견 된 猛虎 사단을
빈 라덴은 성 クイニョン에 착륙, 65 년의 10 월.




猛虎은 도착 후 사단 해안선을 따라 국도 1 호선,
중앙 고원 プレーク에 이르는 국도 19 호선을 강렬 소탕 작전을 수행 하 고
현지에서 해방군으로 민간인을 학살 한 사건이 나
베트남 여성 강간 사건 등 수많은만 행을 일으켰습니다.


일 라이 タイハン의 ヴォー, 쉬 엔 씨 · 차량 등록

후크 라 탄 마을에 생긴 한국 군사 시설 내
(원래는 해방군의 군사 시설, 현재는 베트남 군 시설)에서
15 세 때부터 군인에 게 먹이를 주는 일을 하 고 있던 딘 씨.
20 살의 나이에 군사 시설 내에서 대한민국 군인 강간, 라이 タイハン 인 장남
· ヴォー · 타기 나 쉬 엔 씨를 身籠り.

후크 라 탄 마을에 진주 했던 한국 병도 73 년 1 월 27 일 파리 협약
(베트남 평화 협정) 체결을 경계로 철수.
「 베트남에 남겨진 라이 タイハン이 지역 외에도 4 사람이 있습니다 」 라고,
타기 나 씨는 말한다.




일 라이 タイハン ― ―. 한국은 베트남 여성들 사이에 태어난 2 세는 것.
「 포 」는 경 멸의 의미와 「 혼혈 」에서 「 タイハン 」는 「 한국 」의 베트남어 읽습니다. 베트남 전쟁, 아 멜 리 라디안을 비롯해 많은 혼혈을 생산 했다.
일 라이 タイハン 수는 부산 일보에 따르면 3 만명 이라는 말이 있습니다.
(부산 일보, 2004 년 9 월 18 일)

「 초등 학생 시절에 잘 못 되었습니다.
하지만 그 당시에는, 왜 나를 괴롭히는 되는지 알 수 없습니다 」
라고 말하는 타기 나 씨.
현재 베트남 유부와 15 세 ~ 12 세 어린이를 벌고,
가족 4 명이 행복 생계.




전후, 베트남 전쟁을 중요 하 게 다루는 것을 금기 하는 분위기를
존재 하 고 있던 한국. 결국 국민 들의 인식이 바뀌어가 고 있습니다.
앞으로 한국 정부가 국민 갱,
적극적으로 「 라이 タイハン 」으로 작업을 진행,
한국-베트남의 전후 보상의 하나 때문이 아닐까요.



韓国がベトナムに残した癒えない爪あと
2011-08-20 15:00:00


テーマ:歴史 韓国    歴史様の記事

「あの頃のことは、もう思い出したくもない」
ベトナム中部ビンディン省フック・タン村
(省道638号線沿い、国道1号線から約10キロ西に位置する)に住むヴォー・ティ・マイ・ディンさん(59)は、息子の前で静かに呟きました。

ベトナム戦争時代の韓国は、クーデターで政権を奪取した朴正熙氏が、第5~9代目の大統領(在任:1963年~1979年)を務めていました。


ベトナム戦争時に韓国兵にレイプされたヴォー・ティ・マイ・ディンさん


政権の安定と国内経済の建て直しのために多くのドルを必要とした韓国米国に従い、延べ31万人の兵士をベトナムに派兵。
1966年末には、韓国軍部隊は2つの歩兵師団(猛虎、白馬)、海兵旅団(青竜)、補給師団(南十字星)と、若干の工兵隊を含む4万5,000人が南ベトナムに進駐しています。

当時、ビンディン省から北のクアンガイ省、クアンナム省にかけての豊かな農村地帯は、
南ベトナム解放民族戦線の支配下にありました。
先遣部隊に続き、派遣された猛虎師団がビンディン省クイニョンに上陸したのが、65年の10月。



猛虎師団は上陸後、海岸線に沿った国道1号線と、中部高原プレークに至る国道19号線沿いに激しい掃討作戦を実行し、現地で解放戦線とみなした一般市民を大量虐殺する事件やベトナム人女性をレイプする事件など、数々の蛮行を起こしました。


ライタイハンのヴォー・スアン・ヴィンさん

フック・タン村に出来た韓国軍施設内
(元は解放戦線の軍施設、現在はベトナム軍施設)で、
15歳のときから兵士に食事を供給する仕事をしていたディンさん。
20歳の頃に軍施設内で韓国兵にレイプされ、ライタイハンである長男、ヴォー・スアン・ヴィンさんを身籠りました。

フック・タン村に進駐していた韓国兵も73年1月27日のパリ協定(ベトナム和平協定)調印を境に撤退。「ベトナムに残されたライタイハンは、この地域だけでも4人はいます」と、ヴィンさんは言います。



ライタイハン――。韓国人とベトナム人女性の間に生まれた2世の事。
「ライ」は軽蔑の意味を持つ「混血」で、「タイハン」は「大韓」のベトナム語読み。ベトナム戦争は、アメラジアンをはじめとし、多くの混血を生みました。
ライタイハンの数は、釜山日報によると3万人と言われています。
(釜山日報・2004年9月18日)

「小学生の頃、みんなによくいじめられました。
でも、その当時は、なぜ私がいじめられるのかわかりませんでした」
と話すヴィンさん。
現在は、ベトナム人妻との間に15歳と12歳になる子どもを儲け、
家族4人で幸せに暮しています。







戦後、ベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在していた韓国。ようやく、国民の意識が変わりつつあります。
今後、韓国政府が国民一団となって、積極的に「ライタイハン」問題に取り組むことが、韓国のベトナムにおける戦後保障のひとつになるのではないでしょうか。


http://www.koreanpinklady.com/sub2.html



http://ameblo.jp/campanera/theme-10002864557.html








http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L000424/1p944o07.html


국방부의 복지부동
<한겨레21>의 정보공개요청 묵살…"무슨 도움 되느냐" 해묵은 이야기만


(사진/지난 3월21일 <한겨레21>이 국방부 공보기획과로 발송한 '중앙정보부의 청룡여단 제1대대 제1중대 수사기록' 공개요청)

이제 열쇠는 국방부가 쥐고 있다.

69년 중앙정보부의 조사기록이 남아있다면, ‘제2 밀라이 사건’의 진상은 남김없이 규명될 지도 모른다. 그러나 국방부는 말이 없다.

<한겨레21>이 ‘중앙정보부의 양민학살 조사’ 사실을 안 것은 지난 3월15일이었다. <한겨레21>은 1주간의 보충취재를 한 뒤 국방부에 사실확인을 요청했다. 3월21일이었다. ‘해병대 사령부와 중앙정보부의 청룡부대 1대대 1중대 수사기록(1969년) 공개요청.’ 국가정보원쪽에서는 대공수사 기록이 아닌 청와대 특명수사는 해당 부처로 이관한다고 밝힌 상태였다. 또한 정부문서기록보관서는 국방부 자료를 취급하지 않고 있었다.

그러나 국방부는 시간만 끌었다. 그러다 4월 초쯤 취재팀의 성화에 마지못해 답변했다. “없다”는 것이었다. 국방부 공보기획과의 영관급 간부는 “없는 것으로 안다. 보존연한이 15년”이라고 말했다. 왜 보존연한이 15년인지는 물론 설명하지 않았다. 국방부의 입장을 보다 정확히 꼬집어 말하자면 ‘알고 싶지도, 찾고 싶지도 않다’는 것이다.

사실 지난 1월쯤 국방부의 한 장성이 <한겨레21>로 연락을 한 적이 있다. 그는 ‘한국군 양민학살’ 문제에 관심을 표명하면서 베트남 정부쪽 한국군 양민학살 자료를 얻고 싶다고 했다. 마치 이 문제에 대한 특단의 대책이라도 마련할 것처럼. <한겨레21>은 베트남 문화통산성이 발행한 ‘남베트남에서의 남조선 군대의 죄악’을 포함해 두툼한 10여권의 자료를 현지에서 조달해 건넸다. 그뒤 국방부가 사소한 제스처라도 취했을까? 그 장성은 <한겨레21>이 ‘중앙정보부 양민학살 조사’ 정보공개요청과 관련해 연락을 하자 “왜 30년도 넘은 이야기를 들쑤시느냐”며 닳고닳은 이야기를 다시 꺼냈다. 심지어는 “<한겨레21> 기자들이 입신출세와 부귀양명을 위해 양민피해 문제를 떠들고 있다”는 악담까지 했다.

<한겨레21>이 305호 표지이야기로 다룬 김기태씨 증언과 관련해서도 국방부는 ‘방해꾼’의 면모만을 보였다. 보도 직후 취재팀과 만난 김기태씨는 국방부의 한 장성이 전화로 은근히 엄포를 놓았다며 걱정했다. “선배님, 왜 참전군인 전체의 명예를 더럽히십니까. 전범에는 공소시효가 없습니다.”

국방부 관계자들에게 군인정신이란 무엇일까. <한겨레21>은 그들에게 무리한 역사의식을 요구한 것일까.




http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L990426/1p944q0c.html

아, 몸서리쳐지는 한국군!
베트남전 24돌에 돌아보는 우리의 치부, 베트남 전범조사위의 끔찍한 기록들

(사진/베트남전에서 베트공의 진지를 수색·파괴한다는 작전상의 명분은 대량학살을 정당화시켜 주었다.)

전쟁은 이런 곳에서도 일어났을까. 둥근 어깨의 산등성이 그리고 초록의 들판, 그 위로 하얗게 부서져 내리는 햇살, 야자수와 망고와 파파야, 바나나 나무들…. 창 밖을 흐르는 풍경엔 나른한 열대의 평화로움만이 펼쳐진다. 태양이 작열하는 들녘에는 허리를 땅에 엎디어 논밭을 일구는 베트남 여인네들의 삿갓모자만이 드문드문 섬처럼 떠간다. 한낮의 태양에 달구어져 엿가락처럼 휘어버릴 듯한 거리엔 허리를 곧추세우고 자전거를 달리는 여학생들의 하얀 아오자이 자락이 무거운 바람 속을 구름처럼 떠돌기도 한다. 과연 우리는 저토록 가녀린 몸피의 여인들에게까지 총부리를 들이댔을까. 이성은 간데없고 광기만이 오롯이 남은 인간들이 저지른 살육의 현장, 그 아픔의 속살을 헤집으려 나서는 한 ‘남추틴’(남조선)의 심사를 아는지 모르는지 버스는 중앙선도 없는 아스팔트 위를 끝도없이 달렸다.

살아남은 노스님의 증언

"1969년 10월14일, 베트남 남부 판랑지역에서 남한 군인들이 린선(Linh Son)사 스님들을 향해 총기를 휘두르는 사건이 발생했다. 사이공의 보고에 따르면 남한군 한명이 린선사에서 베트남 여성을 희롱하다 주지승에게 쫓겨나자 이에 격분, 동료들을 몰고 와 총기를 난사한 것으로 알려진다. 은 이 사건으로 71살의 주지승, 69살의 노승, 41살의 여승, 15살의 행자승 등 4명이 사망한 사실을 베트남 정부가 공식 인정했다고 보도했다.(<인민군대>지 1969. 10. 24)"

(사진/당시 린선사에서 유일하게 살아남았던 푸 스님.)

필자는 2년 전, 베트남 정치국에서 나온 ‘전쟁범죄조사보고서- 남베트남에서의 남조선 군대의 죄악’이라는 자료의 일부를 어렵게 손에 넣을 수 있었다. 나는 이 자료를 아직은 검증되지 않은 베트남쪽의 일방적인 보고서, 그러나 언젠가는 풀어야 할 숙제로 책상서랍 안에 묵혀두고 있었다. 그리고는 ‘아버지 세대에 저질러진 잘못이지만’ 한국과 베트남간의 서로 죽고 죽여야 했던 ‘아픈 역사의 매듭을 풀기 위한’ 작은 노력의 일환으로 베트남을 방문한 한국 시민단체 ‘나와 우리’ 일행에게 처음으로 이 자료를 공개했다. ‘나와 우리’는 지난해에도 일본 시민단체가 띄운 피스보트(Peace Boat)에 올라 한국군의 베트남 양민학살 현장을 돌아보며 증언을 채록한 바 있다. “일본인의 도움을 빌려 한국인의 문제를 되돌아본다는 사실이 가슴아팠다”는 그들은 이제 ‘한국인의 힘으로’ 부딪쳐보자는 의지를 모아 또다시 긴 여정에 오른 것이다. 필자는 첫 기착지인 판랑까지 동행하기로 했다.

베트남 남부 해안가에 위치한 판랑은 관광안내 책자에도 나오지 않는 조그만 고장이다. 가장 번화가임이 분명한 버스정류장에는 택시 한대 보이지 않고, 걸어서 찾아간 호텔에도 그 흔한 냉장고 한대가 없었다. 다만 ‘늑맘(베트남 생선소스)의 고장’이라는 명성답게 비릿한 소금기가 대기를 가득 메우고 있을 뿐이었다. 우리 일행은 먼전 린선사를 찾아나섰다. 그러나 자료 속에 나와 있는 린선사는 전쟁통에 사라지고 없었다. 찜통 같은 더위와 너털거리는 버스에 시달리며 8시간이나 달려온 발걸음이 허탕이나 치게 되는 건 아닌가 조바심이 나면서도, 한편으론 왠지 모를 안도의 한숨이 흘러나왔다.

다음날 아침, 우리 일행을 판랑까지 안내했던 베트남 학생에게서 급한 전갈이 왔다. 원래 호치민에서 판랑으로 들어서는 길목에 서 있던 린선사는 전쟁중에 폭파됐고, 판랑에서 나창으로 가는 길에 같은 이름의 절이 다시 세워졌다는 것이다. 우리는 한달음에 그 절로 달려갔다. 그리고 그곳에서 당시 유일한 생존자인 푸(78) 스님과 현장 목격자인 응웬티유엔한(45)을 만날 수 있었다. 여기까지 오는 동안 내내 필자를 짓누르곤 했던 불안이, 부인하고만 싶었던 이야기가 눈앞에 현실이 되어 나타났다.

아이건 산모건 사정없이…

(사진/'잊고싶은 전쟁'. 한국군에 죽은 베트남인의 숫자는 공식통계로만 4만1450명이다.)

“따이한 군인들이 먼저 스님들을 향해 총을 쏘았어요. 이어서 살려달라며 달아나는 여자 보살님에게도 총을 쏘았지요. 그리고는 시체를 모두 불태웠어요.” 유엔한의 증언이다. 당시 겨우 15살이던 그는 두려움에 질려 고함도 지르지 못하고 숨어만 있었다고 고백한다. 린선사는 모두 다섯 스님이 거처하는 자그마한 절이었다. 그때 푸 스님은 주지스님보다 먼저 마을에 내려가 초상집에서 독경을 읽고 있었다. 증언의 대부분은 유엔한을 통해 이뤄졌고, 그 절의 유일한 생존자인 푸 스님은 말이 없다. 당시의 이야기를 하면서도 사람들은 그때 그 학살의 주인공인 따이한의 후예들을 살뜰히 배려한다. 시원한 차를 내오고, 과일을 깎아 권하고, 파파야를 먹느라 지저분해진 입을 닦으라고 물까지 받아다 줄 때는 울컥 눈물이 솟았다.

푸 스님이 마을에서 돌아왔을 때 절은 이미 난장판이 돼 있었다. 푸 스님은 불에 그을린 다섯 스님의 시신을 인근의 아오방 절로 옮겼다. 시신탈취에 대한 불안에서였다. 이 소식이 전해지자, 판랑지역 전역의 학교가 휴학을 결의했고, 학생들과 불교도들이 일제히 봉기에 나섰다. “베트남 정부는 양민학살을 즉각 중단하라!” “따이한은 베트남을 떠나라” 등등 피맺힌 함성이 온통 판랑을 휩쓸었고, 스님들의 시신은 12일이 지나서야 화장할 수 있었다.

“화장을 하고도 스님들을 안식시켜드리지는 못했어요. 스님들을 모실 절이 사라졌기 때문이지요. 스님들의 뼈를 항아리에 고이 담아 모셔오다가 지난해에야 이 절에 안치해 드렸지요.” 푸 스님이 나직한 목소리로 말을 이었다. 남한 군인들의 총기난사 사건으로 폐허가 된 절은 그뒤 또다시 폭격을 맞아 형체도 없이 사라졌다. 그리고는 지난해 불교도인 재미 베트남 동포의 도움으로 다시 절이 서게 됐다. 푸 스님은 30년 만에야 주지승으로 이 절에 돌아올 수 있었다. 절 옆으로 당시 죽음을 당했던 스님들의 유골이 모셔진 3층탑이 있다. 우리 일행은 그 앞에 고개를 숙이고 스님들의 명복을 빌었다.

어쩌면 우리가 린선사에서 들어야 했던 이야기는 지금부터 만나야 하는 수많은 증언들 중에서 가장 듣기 편안한 이야기가 될지도 모른다. 대웅보전 자리에서 내려다보면, 하늘과 바다와 들판이 한눈에 들어왔다. 어디에 눈길을 주어도 한없이 평화롭기만 한, 한없이 정겹기만 한 풍경들, 그러나 그 속엔 또 얼마나 많은 이야기들이 숨겨져 있는 걸까. ‘나와 우리’ 일행은 한국군의 군사작전이 가장 치열하게 전개됐던 중부지방으로 또다시 길을 떠나고, 필자는 연신 린선사를 뒤돌아보며 떨어지지 않는 무거운 걸음을 되돌려 호치민으로 돌아왔다.

"여성 돌아가며 강간한 뒤 살해"

한국군은 잔혹한 대량학살을 일삼아 남베트남민족해방전선(NLF)조차 가급적 직접적인 교전은 피하려 할 정도였다고 전해진다. 전선도 없고 적이 누군지도 모르는 베트남전에서 베트콩의 근거지를 수색, 파괴한다는 작전상의 명분이 남녀노소를 가리지 않는 학살행위를 정당화시켜 주었다. 필자가 가지고 있는 기록은 그 내용이 워낙 끔찍해 자세히 밝히기에 부담이 없지 않았지만, 그 일부를 여기에 소개한다.

1965년 12월22일, 한국군 작전병력 2개 대대가 빈딘 성, 퀴년시에 있는 투이프ㄱ 군, 프ㄱ호아 사(使), 턴지앙 촌에 500여발의 대포를 발사한 뒤 “깨끗이 죽이고, 깨끗이 불태우고, 깨끗이 파괴한다”는 구호 아래 수색소탕작전을 펼쳤다. 그들은 이 마을에서 12살 이하 22명의 어린이, 22명의 여성, 3명의 임산부, 70살 이상 6명의 노인을 포함, 50여명이 넘는 양민을 학살했다.

"… 랑은 아이를 출산한 지 이틀 만에 총에 맞아 숨졌다. 그의 아이는 군화발에 짓이겨진 채 피가 낭자한 어머니의 가슴 위에 던져져 있었다. 임신 8개월에 이른 축은 총알이 관통해 숨졌으며, 자궁이 밖으로 들어내져 있었다. 남한 병사는 한살배기 어린아이를 업고 있던 찬도 총을 쏘아 죽였고, 아이의 머리를 잘라 땅에 내동댕이쳤으며, 남은 물통은 여러 조각으로 잘라내 먼지구덩이에 버렸다.

그들은 또한 두살배기 아이의 목을 꺾어 죽였고, 한 아이의 몸을 들어올려 나무에 던져 숨지게 한 뒤 불에 태웠다. 그리고는 12살 난 융의 다리를 쏘아 넘어뜨린 뒤 산 채로 불구덩이에 던져넣었다…"

판랑에서 헤어진 지 이틀 만에 퀴년시를 조사중인 ‘나와 우리’ 일행에게서 전화가 왔다. “찾았어요! 당시 따이선 현 인민위원회 주석 말이에요.” 1966년 3월19일과 20일 이틀간에 걸친 ‘베트남 중부 각 성의 전쟁범죄조사회의’에서 남한 군대의 죄악상을 낱낱이 밝혔던 응웬탄퐁을 이르는 말이다. “손에 들고 있는 이 자료가 점점 두려워지는군요. 어쩌면 우리는 이 자료를 더 보충해야 할지도 몰라요. 빈딘성을 중심으로 이 자료에 소개된 네 지역말고도 한국군의 학살현장이 더 있다고 하는군요.” 당시 응웬탄퐁의 보고에 따르면 66년 1월23일부터 2월26일까지 약 한달 동안 맹호부대 3개 소대, 2개 보안대대, 3개 민간자위대에 의해 이 지역에서만 모두 1200명의 주민이 학살됐고, 그중에는 한명도 남김없이 몰살당한 가족이 8가구나 됐다. 또한 1535채의 가옥과 850만t에 이르는 양식이 불태워졌고, 649마리에 이르는 물소가 총탄에 맞아 죽거나 불태워졌다.

이러한 수색소탕작전은 일차적으로 융단폭격 등으로 작전지역을 공개하고, 한국군 등 지상군이 현장에 투입되어 마을에 남아 있는 주민들을 즉결처분한 뒤 집을 불사르고 불도저 등으로 마을 전체를 밀어버리는 방식으로 전개됐다. 생존자들의 한국군에 대한 증언에서 공통되는 점은, 무차별 기관총 난사, 대량살육, 임산부 난자살해, 여자들에 대한 강간살해, 가옥 불지르기 등이다. 생존자들의 증언을 토대로 한국군들의 양민학살 방식을 정리해보면 몇 가지 공통된 유형이 나타난다.

-주민들(대부분이 여성과 노인, 어린이들)을 한데 끌어모은 뒤 다시 몇개의 그룹으로 나눈 다음 기관총을 난사해 몰살시킨다.

-주민들을 한집에 몰아넣고 총을 난사한 뒤 집과 함께 죽은 자와 산 자를 통째로 불태운다.

-아이들의 머리를 깨뜨리거나 목을 자르고, 다리를 자르거나 사지를 절단해 불에 던져넣는다.

-여성들을 돌아가며 강간한 뒤 살해하고, 임산부의 배를 태아가 빠져나올 때까지 군화발로 짓밟는다.

-주민들을 마을의 땅굴로 몰아넣고 독가스를 분사해 질식사시킨다.

한국군의 대량학살이 자행된 곳에는 아이들의 입에 캔디나 케이크가 물려 있었다. 노인들의 입에는 담배가 물려 있는 경우가 많았다. 아마도 마을사람들을 안심시키면서 한곳으로 모으는 한 수단이었던 듯하다.

과연 그대들에게 진정한 반성은 있는가

우리에게도 베트남전은 잊고 싶은 전쟁이다. 한국은 1964년 의료지원단과 태권도 교관 등 270여명을 사이공 남쪽 붕타우에 파견함으로써 베트남전에 군사적인 개입을 시작했다. 이후 65년에서 73년까지 약 30만명의 전투부대를 ‘베트남 정부의 요청’이라는 미명 아래 베트남전선에 투입했다. 이 과정에서 한국군들도 4960여명이 전사했고 10여만명이 부상당했다. 그러나 한국군은 또한 적군인 베트남인을 4만1450명이나 죽이는 전승(?)을 거두기도 했다. 아군 사망자수의 10배에 이르는 적군을 전사시킨 것이다. 그것도 공식적인 통계상으로만!

이제 전쟁은 끝났다. 그러나 종전 24년을 맞는 이 순간에도 지구상의 한켠에서는 새로운 총성이 울려온다. 한국에서는 코소보에서의 인권을 외치는 목소리도 높다. 20세기의 상처가 아물기도 전에 21세기의 또다른 상처 하나를 낳고 있는 것이다. 가해자이든 피해자이든 상처받은 ‘오늘’을 치유하는 과정이 없이는 우리에게 미래가 없을 것이다. 비록 그것이 양심에 칼을 대는 아픔을 통해서만 가능하다 할지라도.

역사는 우리에게 의문부호 하나를 던져놓는다. 과연 그대들에게 진정한 반성은 있는가.


http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11381003189.html


ベトナムの民間人虐殺に関する1999年の記事 (その1)
2012-10-16 16:23:44
テーマ:不思議の国のアリラン



韓国でもっとも左派とされる新聞の記事で、殆どが証言で出来ています。


内容について責任は取れません。


ただ、「知らない」ならそれで終わりです。

こういう記事が存在しているのを「知る」ことで、肯定も否定もできるようになるからです。





内容が内容なだけに、「残酷なものはダメ」という方は読まないでください。人体切断とか普通に出てきます。


↑すみません。私の方が「疲れて」しまって、1と2に分けることにしました。残酷な内容は2に出てきます。





一部です。当たり前ですが、「筆者」は私ではありません。




1999年ハンギョレ21の記事「あ!体が震える韓国軍~ベトナム戦犯調査委の残酷な記録」(の一部)


・筆者は2年前、ベトナム政治局が出した「戦争犯罪調査報告書-南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪」という資料の一部を、苦労して手に入れることができた。 私はこの資料をまだ検証されていない、ベトナム側の一方的な報告書、しかし、いつかは解かなければならない宿題として机の引出しの中に入れておいた。

そして、「父の世代に行われた誤りではあるものの」、韓国とベトナムの、殺し殺されなければならなかった「辛い歴史の絡みを解くための」小さい努力の一環としてベトナムを訪問した韓国の市民団体「私と私達」一行に、初めてこの資料を公開した。

「私と私達」は昨年にも日本市民団体が出したピースボート(Peace Boat)に乗って韓国軍のベトナム良民虐殺現場を見回って、証言を収録したことがある。 “日本人の助けを借りて韓国人の問題を振り返ってみるという事実に胸が痛かった”という彼らは、今回は「韓国人の力で」ぶつかってみようという意志を集めて、また再び長い旅に出たのだ。 筆者は初めての目的地であるパンランまで同行することにした。



・パンランでは民間人虐殺事件の唯一の生存者、プー氏と、ウンウェンティユエハン氏に会うことが出来た。


↑プーさん(78歳)


プーさんは当時、町に降りていた。15歳だったウンウェンティユエハンさんは隠れて生き延びることが出来た。

今まで筆者を押しつぶしていた不安が、否認したい話が目の前で現実のものとなった。



・1969年10月14日、ベトナム南部パンラン地域でm韓国軍人がリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を発車する事件が発生した。 サイゴンの報告によれば、韓国軍1人がリンソン寺でベトナム女性に悪戯をし、住持僧侶(主職僧侶)によって追い出された。

軍人は激怒、同僚を連れてきて銃器を乱射した。

はこの事件で71歳の住職僧侶、69歳の老僧、41歳の女僧、15歳の行者僧(見習い僧侶のようなもの)など4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した(<人民軍>紙1969.10.24)。

当時、ベトナム政府とタイハン(韓国人)に関する反感がすごかったという。


パンランの人たちは、その虐殺犯たちと同じ国から来た私達に果物や冷たい水を出すなど、とても優しかった・・・涙が出そうになった。


それでも、ベトナムで私達が聞いた話の中では、これが一番楽なものだったかもしれない。


↑写真は「忘れたい戦争」から。韓国軍に殺されたベトナム人は公式統計で41,450人だ。






ベトナムの民間人虐殺に関する1999年の記事 (その2)+α
2012-10-16 17:46:26
テーマ:不思議の国のアリラン




その1はここです↓
http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11381003189.html





・他に、筆者か持っている記録の一部を公開する。


残酷表現、ご注意お願いします



韓国軍は残酷な大量虐殺を日常行っていて、南ベトナム民族解放電線(NLF)さえもできるだけ直接的な交戦は避けようとするほどだったと伝えられる。



1965年12月22日、韓国軍作戦兵力2個大隊がウィーンディーン省、クィニョン市にあるトンジアン村に500余発の大砲を発射し、「きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する」というスローガンの下、捜索掃討作戦を広げた。


彼らはこの村で12歳以下の22人の子供、22人の女性、3人の妊産婦、70歳以上の6人の老人を含む、50人余りを越える良民を虐殺した。

「ランは子供を出産して二日後に銃に撃たれて亡くなった。 彼女の子供は軍靴で踏みにじられ、血だらけになって母の胸の上に投げられた。

妊娠8ヶ月のチュックは弾丸に貫かれて亡くなり、子宮が外に持ち出されていた。

韓国兵士は一歳の子供を背負っていたチャンも銃で撃ち殺し、子供の頭を切って地に投げ飛ばし、残った体はバラバラに切り出してホコリくぼみに捨てた。

彼らはまた、二歳の子供の首を折り曲げて殺し、ある子供の体を持ち上げて木に投げつけて殺した後、火に焼いた。 そして12歳になったユングの足を撃って倒した後、生きたまま火の中に投げ入れた。



・当時の報告によれば、66年1月23日から2月26日まで約一ヶ月の間、猛虎部隊(部隊のニックネーム)3個小隊、2個保安大隊、3個民間自衛隊によってこの地域(ビンディン省を中心とした地域)だけで全1200人の住民が虐殺された。その中には1人も残らず抹殺された家族が8世帯。1535軒の家屋と850万tに達する食糧が燃やされ、649匹に達する水牛が殺された。


それでも、パンランで分かれた「私と私達」からの連絡によると、被害報告を追加しなければならなくなったという。



・このような捜索掃討作戦は一次的にじゅうたん爆撃の後、韓国軍など地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分し家を燃やし、ブルドーザーなどで村全体を押しつぶす方式だった。


生存者の韓国軍に対する証言で共通する点は、無差別機関銃乱射、大量殺戮、妊産婦卵子殺害、強姦殺害、家屋への放火などだ。


生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみれば、いくつ共通した類型が現れる。

-住民たち(大部分が女性と老人、子供たち)を一ケ所に集めた後、いくつかのグループに分けてから機関銃を乱射して抹殺。

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と共に死亡者と生きた者をまるごと燃やす。

-子供たちの頭を破壊したり首をはねて、足を切るか手足を切断して、炎の中にに投げ捨てる。

-女性たちを回しながら輪姦した後に殺害し、妊産婦の腹を胎児がはみ出されるまで軍靴で踏みにじる。

-住民たちを村のタングル(地に掘ったトンネルのような穴)に追い詰めて毒ガスを噴射、窒息死させる。


韓国軍の大量虐殺が強行されたところには、子供たちの口にキャンディやケーキが、老人たちの口にはタバコが入っていた。 多分、村の人たちを安心させながら一ケ所で集める手段の一つだったようだ。


http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L990426/1p944q0c.html





↓は2000年の記事です


・・・去る1月頃、国防部のある将星(将軍)がハンギョレ21(本エントリーのソース)に連絡をしてきたことがある。

彼は「韓国軍の良民虐殺」問題に関心を表明しながら、ベトナム政府側の韓国軍良民虐殺資料が欲しいと言った。 この問題に対する何かの対策でも用意してくれるような雰囲気だった。ハンギョレ21はベトナム文化通産省が発行した「南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪」を含んだ分厚い10冊余りの資料を現地で調達し、渡した。


その後、国防部は何もしていない。


将星は<ハンギョレ21>が「中央情報部良民虐殺調査」情報公開を要請した件と関連して連絡をすると、

「なぜ30年も前の話を掘り出すんだよ」と、いつもの話をするだけだった。

さらには「ハンギョレ21の記者たちが立身出世と富貴揚名のために良民被害問題で騒いでいる」という悪口まで言い出した。




・<ハンギョレ21>が305号の表紙の話(※ベトナムで非武装青少年29人を爆弾で殺したことをハンギョレに証言した人)で証言したK氏は、取材チームと会って、心配していた。軍から電話があったらしい。

「先輩、なぜ参戦軍全体の名誉を汚すんですか?戦犯には控訴時効なんかありませんよ」



http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L000424/1p944o07.html



※2年か3年後、K氏は「韓国軍全体がそんなことをしたような誤解を呼んでしまった」と謝罪し、ハンギョレ21は謝罪文を載せました。






最後に何かオチが欲しいけど、今日はここで終えたいと思います・・・が、悔しくて追記↓



ただひとつだけ・・・70年~100年前の話で国民をコントロールしているのはどこの国でしたっけ。

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