http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1393491209/l50
コンサルタントの宋文洲氏が27日、ツイッターに「ミヤンマで俘虜を惨殺する日本兵。イギリス老兵が公開」という文面とともに1枚の画像を投稿した。「俘虜」は「ふりょ」と読み、捕虜の意味である。
画像には、欧米人の風貌をした高齢者が“惨殺”の場面とされる写真を持って指で示す姿が写っているのだが、この人物が持っている写真は、今回新たに「公開」されたという性格のものではなく、古くから出回っている写真だ。
http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/elephant/articles/youju_11_40.html
戦没者慰霊碑の彼方に
大倉忠夫
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蝶の写真 沖縄戦は私が湾国民学校高等科一年を終わる頃始まった。航空基地のどまん中の中里に住んでいた私にとって、沖縄戦とは、沖縄に来襲した米軍部隊のグラマンやシコルスキー、ロッキードなどと呼ばれる各種の米軍機が空から襲いかかってくることであった。それは沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わったとされる六月ニニ日とは関係がなかったから、戦闘から逃げまわるだけしかない子供としての戦争体験は八月一五日まで続いたのである。この体験は善かれ悪しかれ私の人生に影を落としており、五〇年を経ても逃れようがない。私は時々歴史とは何だろうか、と自間する。沖縄の芥川賞作家大城立裕が書いた「神女(のろ)」という小説は琉球王尚徳の喜界島遠征を題材にしている。しかし私たちの島にこの史実を証明する資料はない。琉球王府の残した歴史書である中山譜によれば、明国の成化二年二月二八日琉球王が自ら五〇艘余りの船で二千余の兵を引き連れて喜界島に到着したという。これまで屡々兵を出して喜界島を征服しようと試みたが効き目がなく「王怒りて日く、ただに功なきのみならず、却りて侮辱せらる、吾宜しくみずから軍兵を率いて賊兵を平らげんと」。この戦闘は遠征軍にとって大変な苦戦だった様子で「賊兵港口に柵を立て塁を築き矢石雨の如し、決して進むべからず」という状況で、王国軍は大勢の戦死者を出し、計略で喜界島防衛軍を欺き一週問程かかってやっと上陸できたという。上陸した王国軍は「火を放ち屋を焼く、喊声天に振るう」という。わが島人の方は「賊兵大いに驚き、魂、体に付かず、降る者無数なり。賊首、力窮し、擒にせられ誅を受く」というのである。勿論これは王様の権威を領域内に広めることを目的とし編纂したものであろうから人民の抵抗に価値は置かない。私たちが征服にやって来た琉球王に立ち向かった島の祖先の抵抗の歴史を琉球王側の書物でしか知り得ないというのは寂しい。今は庶民も文字を持っている。庶民の歴史は庶民の方法で庶民が残さなければならないと思う。
蝶の写真 第二次世界大戦が終わって五〇年経とうとしている。戦争体験者は圧倒的少数者になりつつある。と同時に戦後を働き詰めに働いたこの世代は今漸く己れの時間を得て書き残すべきことを書き始めている。二年程前のこと、「鹿児島たより」という同郷者のミニコミの消息欄に、もと海軍整備兵の宮原清三氏が「沖縄戦線最後の砦喜界島海軍基地」という本を自費出版されたという記事が小さく載った。宮原氏は喜界島の島中出身という。私は早速宮原氏に本の購入を申し入れたところ、寄贈するということで遠慮なく頂いた。本は決して上出来のものとは言えなかったが、自らの喜界島航空基地における戦争体験を消してはならないという宮原氏の真撃な思いが伝わってきて私はその思いに感動した。私は調査中の、大戦末期喜界島基地から沖縄へ向けて飛び立ち帰って来なかった特攻隊について宮原氏に情報を与えたり、教えを受けたりするようになった。
その宮原氏から喜界島航空基地戦没者慰霊碑の建立を企画しているとの通知が届いた。宮原氏にとってはあの基地で戦死した同僚や送り出した特攻兵の顔を思い出すにつけ、自分たちの生きている内に慰霊の碑を建てなければいずれ忘れられていくという切羽詰まった思いがあったのであろう。私も、あの大戦で島が経験したことが次第にその痕跡を薄めていくことに焦燥を感じていた。忘れたくても忘れてはならないことがある。あの大戦末期、島が経験した悲劇は島の歴史上稀有の事件であった。歴史上滅多に起こらないことを私たちは目撃したのである。戦没者慰霊碑は消えかかった記億を呼ぴ覚まし未来の島の人にこの島が経験した未曾有の災難を考えるきっかけを与える。この慰霊碑建立を呼びかけて来たのが島出身の、軍豚の中では下級の元兵士であったということが心に響いた。反戦反軍論者の私は慰霊碑建立について思想的に恐らく彼とは異なる地平にいたけれども、建立については積極的に賛同した。
蝶の写真 平成六年一〇月二三日、除幕式があり私も参列した。それは宗教色のまったく感じられない儀式で、あっけない程に簡素なものであった。碑は喜界空港と海の間の工事中の公園予定地に、そこだけは僅かに植え込みが施されて佗しげに建っていた。何れは周囲も整備され公園の中の重要なポイントになるだろう。私は元巌部隊(南西諸島航空隊)喜界島派遣隊の老兵士たちがどのような気持ちで碑に向かっていたか分からない。戦後五〇年という歳月はあの戦争を現実感のない遠い物語にしようとしている。島の老婦人たちが老兵士たちに懐かしげに話しかける。私とは五、六歳しか違わない筈であるのに、私とは関係のない世界がそこに繰り広げられていた。死者への思いは胸に迫るものがなく総てのことが坦々と形式的に、事務的に運ばれていく。参列者の中の異色は、終戦直前の喜界島基地から出撃して奇跡的に生き残った特攻隊長岡本元海軍中尉であった。昭和二〇年八月一三日の夕刻、五機の爆弾装着ゼロ戦が喜界島から沖縄に向けて飛び立った。彼らは喜界島に二か月間潜伏していたのである。この作戦的には無駄な特攻出撃命令は、ポツダム宣言受託の外国放送を聞いて錯乱した第五航空艦隊司令長官宇垣中将の責任だと私は思っており、いずれその調査結果を文章にしたいと考えている。それは兎も角、岡本元中尉の口からこの特攻隊の存在した事実が具体的に島の人の前で語られ、現地の新聞に掲載されたことはこの慰霊碑除幕式の思わぬ功績であった。しかし歴史というものは過去の事実を知るという所に立ち止まっては物語を楽しむ以上に現代的意味を持ち得ない。私たちは過去の事実に対して、何故、という問を発し、悲劇の再発を防ぐ手だてを考えなければならない。無数の何故がある。あの大戦中、喜界島で起こった最大の悲劇は巌部隊が撃墜して捕虜にした米軍飛行士トーマス少尉とキンカーン中尉を殺害したことである。奄美大島古仁屋で捕らえられ徳之島に送られた米軍捕虜は殺されず終戦後米軍に引き渡されている。何故喜界島では殺されてしまったのか。私は日本軍側の戦死者の多さとも関係があるのではないかと密かに考えている。この事件は、戦後横浜で行われたBC級戦犯裁判で喜界島事件と呼ばれている。喜界島に来ていた第五航空艦隊司令のS中佐の他に巌部隊や宮本部隊(飛行場工作隊)の兵士たち、総計五人が被告席に立たされた。二名に死刑が宣告され、内一名は減刑され、処刑されたのはS中佐だけである。戦犯に指名されながら逃げおおせた者もいるという。喜界島の戦争を考える時、この事件から目をそらす訳にはいかない。除幕式で碑を見上げながら、私は遠くの空を見ていた。
目を狙え目をという語にどきりとす戦の島の森に見しこと
(朝日歌壇・平成六年八月二一日)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第11号(1995年,東京)より転載した。
http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/elephant/articles/gravestone.html
墓標
大倉 忠夫
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蝶の写真 一九四五年三月末、沖縄周辺に米軍機動部隊が来襲した。鹿児島と沖縄の中間の海上にあって特攻機の中継基地となっていた喜界島はたちまち米艦載機の跳梁する所となった。庭の片隅に掘った簡易な防空壕の真上を機銃の弾着が駆け抜け地響きとともに敷地内に落ちた爆弾の黒煙が壕内に風圧を伴ってなだれ込む凄まじさに私たちは半壊した家を棄てて近くの横穴式墓地跡に逃げ込んだ。度肝を抜かれていた私たちには残っていた無縁仏の墓石もただの石でしかなかった。こうして昔の風葬後での穴居生活が始まった。米軍機が上空にいないわずかな隙を見ては水汲みに走り火を使い、夜になって畑に出るという生活であった。新聞もラジオもなく沖縄がどうなっているのか私たちには全く情報は伝わってこない。五月も半ばを過ぎた頃、島の守備隊長は全島民に対し中央高地の軍指定の壕に入るよう命令した。米軍の上陸が迫っているという(WEB master 註2)。暗闇であった。弟妹の手を引く父母を見失うまいと私は持てるだけの荷物を手にしてサトウキビ畑の広がる平地を横切り中央高地を支える斜面の森に入っていった。指定された壕は巨大な岩の下を掘り下げたもので岩の下敷きになりそうな感じがして怖かった。中は頭がつかえて立つこともできない。翌日から雨になった。粘土質の床はぬかるみ体を横にすることも座ることもままならない。ススキを刈ってきて厚く敷いて寝たが背中に水はじわりと伝わって来た。一日中することもなく、見晴らしのよい所に出て西海岸の方を見ていると低く垂れ込めた雲から米軍機が現れては私たちの村の辺りを爆撃して、また雲の中に入っていく。まさに高みの見物であった。私は島全体が私たちと同じ目に遭っていると思っていたが猛爆を受けているのは飛行場とその周辺の集落だったのである。
蝶の写真 当時、私は国民学校(小学校)高等科二年で一三歳であった。三月の終了式は実施できず四月になっても学校は開かれないまま二年生に進級していた。一級上の連中は高等科卒業ということで資格はどうなっていたか分からないが守備隊に徴用された。私たちは学校の授業もなく緊急配備下の軍隊にも動員されず親たちのように食べ物の心配もせず、島で一番自由な立場にあったのかも知れない。一三歳という子供の特権を利用して大人達の不安をよそに豪の周辺を遊び回っていた。
その日は久しぶりに雨が上がった。私は三、四人の学童グループと早速行動範囲を広げて森の中の小道を上の方に登ってみた。やがて空が開けて平らなところに出た。そこで私たちは奇妙な人に出会ったのだ。その人は道端にしゃがんでいた。肩からまとった毛布の間から出ている異様に長い裸の脛が微かに震えていた。目には白い包帯が巻かれ、くすんだような銀髪が包帯の上に垂れていた。
「アメリカやあらんな?」私たちの声にその人は見えない顔を上げ何かを言うように唇を動かしたが声にはならなかった。やがて私たちは兵隊に追い払われた。
蝶の写真 喜界島にはもう一人、トーマスという名の捕虜がいた。『雲流るる果てに(増補版)』に「聖書を抱きて」の遺書を残している本川譲治(慶大)が第一回出撃で喜界島に不時着した際トーマスに会っている。軍歴一年半、コロンビア大学出身の士官候補生と名乗ったという。 トーマスは間もなく斬首され、本川は五月一一日再出撃して特攻死した。私が山中で会ったあの人は噂にも上らなかった。記憶は薄れ「事実」は語らないことによって幻のように消えていった。
しかし私は折にふれてはあの人の唇の動きを思い出した。英語を習い始めると「あなたは誰? どこから来たの?」という問いを英文で呟いてみたりした。
蝶の写真 時は流れた。一五年前、私は本屋で上坂冬子の『巣鴨プリズン一三号鉄扉』を手に取った。偶然開いたページに「喜界島事件で処刑された海軍大佐佐藤勇の遺族には遺書はもとより身辺雑記の一片すら届いていない」という記述があった。私は知らなかったが、ここで喜界島事件というのは捕虜斬首の件に違いない。
私はBC級戦犯関係の資料を漁り始めた。求めている資料はなかなか見つからなかったが、一〇年ほど前古本屋で『戦犯裁判の実相』という本を見つけたのをきっかけに連絡した研究者からガリ版刷りの「横浜裁判一覧表」を入手した。喜界島事件は二件記載されていた。
「昭和廿年四月頃喜界島にて米俘虜アーサー・エル・トーマス海軍少尉の処刑を故意かつ不法に命じ強制指揮し且許容せり。同年五月頃同島にてディビッド・シー・キンカンノン(米俘虜)を前記俘虜と同様処刑し、他のものはこれに参加せり」との起訴理由概要が記載され、前記佐藤氏の他、K大佐、Y大尉、T少尉が被告人となっている。佐藤氏とT少尉が絞首刑、他の二人は有期刑であった。外の一件の概要の記載は次の通りである。
「昭和廿年五月頃喜界島に於て米俘虜ディビッド・キンカー
ン中尉を斬首せる事に依り該俘虜を故意且不法に殺害せり」
この件では佐藤氏が二〇年、M大尉が七年の有期刑であった。ディビッド・シー・キンカンノンとディビッド・キンカーン中尉は同一人物であろう。一九九五年一二月、私はアメリカの「情報の自由」法を使って喜界島事件の戦犯裁判記録を入手した。ダンボール箱で送られてきた英文の記録はまだ読んでいないが、ようやくあの人の名前を確認するところまで辿り着いた。
David. C. Kincannon
蝶の写真 長い旅であった。いったい何のために? 私にもよく分からない。たぶん、米国から見れば所在も定かでない喜界島の山中で遥か故国の家族に思いを馳せながら死んでいったであろうあの人の墓標がずっと私の心の中に立っていたのだ。私があの人の墓標だった。
『自由と正義』'96年11月号(日本弁護士連合会発行)の巻頭エッセーを転載
※追記
佐藤氏は減刑されず、S二四年七月九日に死刑の執行を受けた。
T少尉は死刑判決が確認されたままS二六年九月一日に元軍医大
尉と共に最後の特別減刑で死刑執行を免れた。 (大倉忠夫)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第13号(1997年,東京)より転載した。
WEB master 註2:昭和20年05月、米軍が喜界島上陸を計画していた事実が最近明らかになっており、沖縄県公文館史料編集室の資料によると「予定日」は05月17日であったとされている。
WEB master 註3:写真は喜界島を北限とするオオゴマダラ蝶の成虫、および幼虫、さなぎ。
http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html
本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士
横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件
(注)( )内は、「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)の番号、及び「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)に示された事件番号を示す。
(注)以下に列挙した各事件のうち、千葉県一宮町事件、父島事件、台湾軍軍律裁判事件は、横浜裁判で裁かれたものではないが、日本国内で起こった事件、または関連深い事件なので、一緒に記載しておく。
目次
千葉県日吉村事件 千葉県佐原町事件
千葉県紙敷村事件 千葉県一宮町事件
東京立川憲兵隊事件 東部軍一戸中佐事件
東京上野憲兵隊事件 東京陸軍刑務所飛行士焼死事件
東部憲兵隊事件 東海軍事件
中部軍・中部憲兵隊事件 高知憲兵隊事件
西部軍事件 喜界島事件
宮古島事件 石垣島事件
父島事件 台湾軍軍律裁判
【参考文献】
≪千葉県日吉村事件≫
(GHQ報告書3号、350号、624号、871号 再審記録25号、270号)
裁判の期間:1946年4月5日〜20日(境野鷹義は1948年1月7日〜21日)
1945年5月25〜26日の東京大空襲時の深夜、1機の29が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に墜落し、搭乗員11人のうち4人は墜落死したが、5人は捕虜になり、残り2人は瀕死の重傷を負っていた。
夜明けとともに、捕虜5人は茂原憲兵隊員によって連行されたが、重傷の2人は日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊(隊長は満淵正明大尉)に預けられた。
中隊では手当を施す術もなく、2人の米兵は放置され、1人は間もなく死亡するに至り、もう1人のDarwin T.EMRY少尉も苦しみ続けていた。中隊長の満淵正明大尉は、命が助かる見込みはないとして処刑を決意し、集まって来た100人以上の村民が見守る中で衛生兵の境野鷹義曹長に命じて斬首させた。その後、菊地重太郎少尉の指示によって、EMRY少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。
戦犯裁判で中隊長の満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死のために武士の情けで介錯したもの」と主張し、「武士道裁判」と呼ばれた。
判決の結果は、満淵正明大尉は死刑、処刑実行者の境野鷹義曹長は無期懲役(戦後逃亡を続けていたため、分離裁判)、刺突演習を指示した菊地重太郎少尉は懲役25年、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1〜2年となった。
≪千葉県佐原町事件≫
(GHQ報告書395号 再審記録276号)
裁判の期間:1948年4月12日〜5月13日
1945年6月23日、千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)近郊の久賀村(現・多古町)の山中にP51が墜落し、操縦士のJohn V.SCANLAN Jr.中尉がかなりの傷を負って佐原国民学校に置かれていた第152師団司令部へ連行された。
彼は傷の手当を施されることなく、やがて、数人の兵士たちによって学校の前庭に引き出され、群衆の前に引き出されて殴打を受けた。その後、詰めかけた群衆の数は数千人にもふくれあがったので、彼は改めて校庭へ移され、そこでさらに群衆から殴打暴行を受けた。その間、衛生兵が何度かカンフル注射を繰り返したが、数時間後に死亡するに至った。
戦犯裁判の結果は、第152師団参謀長の霜田千代士大佐が懲役40年、同参謀の新郷良夫少佐が懲役5年、酒井興三中尉が懲役5年、高橋一中尉が懲役5年、本宮宇之助中尉が懲役5年などの他、暴行に加わった佐原町民4人も懲役1年となった。
第152師団長の能崎清次中将、同高級副官の笠井平馬少佐、佐原町民7人は、直接の関与はないと認められて無罪となった。
≪千葉県紙敷村事件≫
(GHQ報告書1834号 再審記録296号)
裁判の期間:1948年3月11日〜30日
1945年4月15〜16日の川崎空襲時、1機の29が千葉県市原郡白鳥村(現・市原市)に墜落し、搭乗員11人のうち2人は墜落死したが、9人はパラシュート降下して捕虜になった。
このうちMarvin G.GREENSPAN伍長は夷隅郡紙敷村(現・大多喜町)に降下して、16日昼過ぎに警防団員に捕まり、手を縛られて湯倉付近まで連行され、西畑小学校に駐屯していた陸軍203部隊に引き渡された。この時、兵士と市民がGREENSPANに暴行を加えたので、彼は縛られていた両手を解き放ち、100メートルほどの距離を逃亡した。兵士たちが追跡し、田村一平少尉の命令で奥光政上等兵と南出多七上等兵が彼を斬殺した。
戦犯裁判の結果は、田村一平少尉は懲役12年、奥光政上等兵と南出多七上等兵は無罪となった。
≪千葉県一宮町事件≫
(GHQ報告書155号、254号、624号)
1945年8月15日午前、千葉県長生郡西村(現・長南町)にイギリス海軍の艦載機が撃墜され、Fred HOCKLAY少尉が捕虜になった。
彼は一宮町の一宮国民学校に置かれていた第147師団426連隊本部へ送られた。この前後、日本の敗戦を告げる「玉音放送」があり、426連隊長の田村禎一大佐は、師団司令部にHOCKLAY少尉の処遇を問い合わせたところ、147師団参謀の平野昇少佐は、「連隊で処置せよ」という意味の指示を与えたとされる。当時の軍隊では「処置」という言葉は「処刑」の意味で使うことが一般的であり、田村禎一大佐は、部下の藤野政三大尉にHOCKLAY少尉の処刑を命じた。藤野政三大尉は夕方、HOCKLAY少尉を山中に連行し、殺害した。
この事件は横浜裁判でなく、香港のイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けた。
≪東京立川憲兵隊事件≫
(GHQ報告書163号 再審記録217号)
1945年8月8日午後、東京の中島飛行機武蔵製作所を空襲した1機のB29が、北多摩郡谷保村(現・国立市)に墜落し、搭乗員12人のうち10人は墜落死、2人が捕虜になった。
彼らは立川憲兵分隊へ連行され、このうち1人は翌日の夕刻に東京憲兵隊司令部へ送られたが、もう1人のSerafine MORONE軍曹は、翌日の午後、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐の指示で、近くの錦国民学校(現・立川市立第三小学校)の校庭に連れていかれ、集まった800人の市民から2時間にわたって竹の棒で殴打され、重態に陥った。空襲警報で市民が立ち去った後、彼は憲兵隊員によって近くの正楽院墓地へ連行され、首切り役を買って出た立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、その場に埋められた。
矢島七三郎少佐らは、敗戦後すぐ遺体を掘り返して焼却し、病院の医師に「墜落死」との死亡証明書を書かせるなど、証拠隠滅をはかったが、匿名の投書などにより、事件は米軍の知るところとなった。
戦犯裁判の結果は、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐は無期懲役、補佐役の関昇憲兵准尉は懲役20年となったが、処刑実行者の立川陸軍航空廠の将校の身元は判明しなかった。
≪東部軍一戸中佐事件≫
(GHQ報告書773号、1293号 再審記録265号)
裁判の期間:1947年12月22日〜1948年1月16日
1945年3月10日の東京大空襲時、1機のB29が茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市伊奈町)に墜落し、搭乗員11人のうち8人は墜落死、3人が捕虜になった。このうち2人は無傷であったが、もう一人のLeland P.FISHBACK少尉は重体であった。
彼はトラックで東京憲兵隊司令部に運ばれたが、空襲下の混乱もあって、どの病院からも引き取りを拒否された。その間、東部軍から園部六郎軍医中尉が診察に来たが、助かる見込みもないとして手当をせずに帰った。結局、憲兵隊が身柄を引き取ることになったが、処置方法に困り、一戸公哉中佐の指示で、翌々日に東京憲兵隊の本川貞中尉と何人かの兵士が付き添って、憲兵隊司令部の近くの東京外国語学校(現・東京外国語大学)の構内へ連行し、防空壕の中で斬首し、ゴミと砂礫の中に埋めた。
戦犯裁判の結果は、一戸公哉中佐は死刑(再審で懲役25年)、捕虜を斬首した本川貞憲兵中尉は死刑、斬首と埋葬に協力した桑原正雄憲兵軍曹は無期懲役、FISHBACKの治療を拒否した園部六郎軍医中尉は懲役2年、現場へ付き添った東部軍兵士3人は無罪となった。
≪東京上野憲兵隊事件≫
(GHQ報告書1139号 再審記録306号)
1945年5月25〜26日の東京大空襲時、1機のB29が足立区入谷町に墜落。搭乗員11人のうち2人は墜落死、8人が捕虜になったが、残る1人Dwight M.KNAPP少尉は逃亡し、荒川放水路の支流付近で捜索中の警防団員にピストルを発射し、2人を殺害(1人は後日死亡)した。
その2日後、彼は西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、警官に捕らえられて東京上野憲兵分隊に引き渡されたが、分隊長の堀江アキラ少佐は、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」との指示を受けたために、部下の野口悦二曹長に命じて千住新橋付近の河原で米兵を処刑させた。
戦犯裁判の結果は、堀江少佐は戦後自決。野口悦二憲兵曹長は懲役12年、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は懲役10年となった。
≪東京陸軍刑務所飛行士焼死事件≫
(GHQ報告書255号、351号 再審記録78号)
裁判の期間:1948年3月24日〜7月8日
1945年5月25〜26日の東京大空襲時、渋谷の東京陸軍刑務所が炎上、収容されていた日本人の囚人約400人は無事脱出したが、米捕虜飛行士62人は救出されずに焼死した。そのうえ、この時逃れ出ようとした何人かの米兵は日本人の看守により斬殺されたという。ただし、『戦犯裁判の実相』では、看守は留置場の扉を開き、飛行士のうち23人を外へ出したが、塀に阻まれて逃げ場を失い窒息焼死したものであり、不可抗力であったとする。
戦犯裁判の結果は、東京陸軍刑務所長の田代敏雄大尉が死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川正男少尉が死刑(再審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の神戸初明軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の神本啓二軍曹が死刑(再審で懲役10年)、看守の大久保又一曹長が死刑(再審で懲役10年)となった。
≪東部憲兵隊事件≫
(GHQ報告書110号 再審記録294号?、295号、310号、369号)
(A)捕虜飛行士の虐待事件
裁判の期間:1948年5月24日〜10月13日
東部憲兵隊(東京憲兵隊)司令部(東京都千代田区九段)に収容された多くの捕虜飛行士に対して、適切な居住設備、衣服・食事・医療処置などを与えず、疾病その他の苦痛を与えたこと、病気や負傷に対して十分な手当を加えず、17人の捕虜飛行士を死に至らしめたこと、暴行・虐待を加えたことなどにより、東京憲兵隊関係者が責任を問われた。
戦犯裁判の結果は、藤野鸞丈中佐が懲役5年、杉原栄一憲兵少佐が懲役5年、和知信重少尉が懲役8年、根本常少尉が懲役3.5年、川野正二軍医少将は無罪。東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐は、捕虜の待遇不良のため、捕虜の疾患負傷等を惹起、死亡者を出したとして、上野憲兵隊事件とあわせて懲役10年となった。
(B)捕虜飛行士毒殺事件
1945年3月〜6月ごろにかけて、捕獲飛行士が憲兵隊へ連行されて来た時、重体であった者に対して外山敏男大尉の指示で、東部軍の平野健二軍医中尉、憲兵司令部付の森末軍医少佐、東部軍司令部付の長谷部見習軍医士官らが毒薬を注射、合計9人を毒殺したとされる。
森末軍医少佐と長谷部見習士官は戦後自決。戦犯裁判において被告側は「助かる見込みのない者に対する安楽死」と主張したが、結局、外山敏男大尉と平野健二軍医中尉が無期懲役となった。
≪東海軍事件≫
(GHQ報告書16号、73号、209号、261〜267号、1502号 再審記録251号、289号)
東海軍(第13方面軍)では、1945年4月7日に名古屋市近郊で捕獲したB29搭乗員3人は東京に送り、4月24日に静岡県沖で捕獲したB29搭乗員3人は名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送った。これらのB29搭乗員は市街地無差別爆撃でなく、軍需工場を爆撃したものであったため、捕虜に準じた扱いを受け、終戦後本国へ帰還することができた。
しかし、それ以後に捕まった38人のB29飛行士は、市街地無差別爆撃との理由で処刑されるに至った。
(A)軍律裁判による11人の処刑
裁判の期間:1948年1月22日〜3月4日
1945年5月14日の名古屋空襲時、名古屋市西区児玉三丁目と伊勢湾に撃墜された2機のB29の搭乗員11人が捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部(名古屋城内)へ送られた。
彼らは7月11日に東海軍の軍律会議にかけられ、2時間ほどの審理の後、無差別爆撃との理由で全員が死刑判決を宣告され、翌日、東春日井郡小幡ケ原射撃場で斬首により処刑された。
戦犯裁判の結果は、軍律会議の検察官役を務めた伊藤信男法務少佐が死刑(再審で無期懲役)、審判官役を務めた松尾快治少佐が懲役20年、陪席審判官役の山東広吉法務中尉が懲役20年、同じく片浦利厚中尉が懲役15年となった。
(B)軍律裁判なしの27人の処刑
上記以後に捕まった27人の搭乗員は、軍律裁判も省略し、2回にわたって斬首により処刑された。
6月28日 瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で11人を斬首。
7月14日 東海軍第2兵舎裏で16人を斬首。この処刑は、軍司令部に勤務する軍人・軍属100人ほどが遠巻きに見守る中で行われ、刺突演習という残酷な方法がとられたとの証言もある。
これら38人の飛行士の遺体は現場に埋葬されたが、敗戦後東海軍は証拠隠滅をはかり、遺体を再発掘して火葬にした。
戦犯裁判において、東海軍司令官の岡田資中将は自己責任を認め、部下をかばうとともに、米軍に対しては「無差別爆撃こそ国際法違反であり搭乗員の処刑は正当。軍による搭乗員の虐待はなく、むしろ激高した民衆から危害を加えられるのを防いだ。斬首刑は、日本古来の武士道にもとづく処刑方法であり、野蛮とは言えない」と主張して「法戦」を挑んだ。
判決の結果は、死刑執行は岡田資中将のみ。高級参謀の大西一大佐が死刑(再審で無期懲役)、米村正熊大佐が懲役25年、足立誠一中佐が懲役17年、保田直文少佐が懲役15年、処刑実行者の山田仂雄中尉が懲役20年、成田喜久基中尉が懲役30年、菅井康治少尉、田辺光夫見習士官、谷田具潔見習士官、桑田春雄曹長、川上末高軍曹、鶴田義亮軍曹、信田英司軍曹、山本英三郎軍曹、近藤清元軍曹、藤田隆義軍曹、古山又一軍曹、土山敏之伍長、林重朝上等兵が懲役10年となった。
≪中部軍・中部憲兵隊事件≫
中部軍管区では、1945年3月から敗戦までに57人のアメリカ飛行士が捕獲され、このうち55人が処刑、あるいはケガや病気に対する医療処置の欠如のため死亡し、2人だけが情報収集のため東京へ送られ、戦後本国へ帰還した。
(A)軍律裁判によるネルソンとオーガナスの処刑
(GHQ報告書12号 再審記録123号)
裁判の期間:1947年7月18日〜8月28日
1945年3月17日の神戸空襲時、1機のB29が生田区再度山に墜落、搭乗員11人のうち9人は墜落死。Robert W.NELSON少尉とAlgy S.AUGANUS軍曹の2人が捕虜になった。
彼らは中部憲兵隊司令部(大阪城前)へ送られて取り調べを受けた後、5月に石切の大阪陸軍刑務所に身柄を移された。この間に中部軍による法的処置の検討が加えられ、7月18日午前に中部軍司令部(大阪城内)で軍律裁判が行われた。
裁判官役は中部軍情報参謀の山中徳夫少佐と法務部の小野武一大尉、検察官役は法務部の荻矢頼雄中尉、通訳は森隆夫曹長で、審理は1時間ほどで終わり、山中少佐は、2人のアメリカ飛行士が無差別爆撃で市民を殺傷したとして死刑を宣告した。ネルソンは、「爆撃が日本の法律や国際法に違反することは知らなかった。我々は軍の命令に従っただけで、それが死刑に値するというなら、あらゆる国の兵士は全部死刑になるだろう」と抗議したというが、もちろん取り合われなかった。
午後、2人はトラックで大阪府泉北郡の横山射撃場(現・和泉市福瀬町)へ連行され、事前に掘られた穴の前に座らされ斬首された。2人は穴の中にころがり落ちたが、オーガナスは死にきれず、うめき声をあげて苦しんでいたので、1人の日本兵がピストルでとどめをさした。
敗戦後、隠蔽工作が行われ、2人の遺体は掘り返されて焼却されたうえ、死因として、大阪城が爆撃された時に爆死したという話が考え出された。この案は間もなく破綻したが、その後も、処刑が斬首でなく銃殺であったと虚偽の報告がなされたが、これも後に真相が判明した。
戦犯裁判の結果は、8人が起訴され、中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役30年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は懲役3年、中部軍法務部長の太田原清美少将は死刑(再審で無期懲役)、中部軍情報参謀の山中徳夫少佐は懲役25年、中部軍法務部の小野武一大尉は懲役30年、中部軍法務部の荻矢頼雄大尉は懲役3年、松森英雄中尉は懲役10年、大阪陸軍刑務所長の中道貫治大尉は懲役3年となった。
(B)53人の飛行士の虐待・殺害事件
(GHQ報告書136号、150号、1503号 再審記録328号)
裁判の期間:1948年8月2日〜1949年1月3日
中部軍管区では、上記のネルソンとオーガナスが捕まって以後の捕虜飛行士の取り扱いは、主として中部憲兵隊(大阪憲兵隊)にまかされていた。その間に、留置中に傷病死する者や、重傷を負っていて毒殺された者があり、また、1945年6月頃に出された憲兵司令官大城戸三治中将からの「秘密の私信」により、軍律裁判をも省略した処刑が行われた。
6月〜7月 6人を3回にわたって中部憲兵隊司令部で毒殺。毒殺の理由は、伝染病や墜落時の負傷で重態の者を、助かる見込みなしとして処分。
7月5日 大阪府信太山演習場で5人を射殺
7月20日 大阪府信太山演習場で15人を射殺
8月5日 大阪市の城南射撃場で14人を射殺
8月15日 「玉音放送」の後に証拠隠滅の目的で、大阪市の真田山陸軍墓地で5人を処刑。
5月〜8月 8人は中部憲兵隊に留置中、医療処置の欠如と虐待によって死亡。
戦犯裁判の被告の数は29人で、16人が有罪、13人が無罪となった。
憲兵司令官大城戸三治中将は、「秘密の私信」で事実上の処刑命令を出した責任を問われて無期懲役、それを受けて処刑を決定した中部憲兵隊長長友次男中将は無期懲役、それを容認した中部軍司令官の内山英太郎中将は懲役40年、中部軍参謀長の国武三千雄中将は無期懲役、捕虜取り扱いの中心にいた中部憲兵隊藤岡英雄中佐と志内猪虎磨少佐は無期懲役。中部憲兵隊員の安城浩中佐、浜本次郎准尉、浜田留吉曹長、森隆夫曹長、和田安夫准尉、中部軍参謀大庭小次郎大佐、中部軍民間人通訳中野正元、中部軍情報参謀山中徳夫少佐は懲役2〜15年。憲兵司令部本部長石田乙五郎中将、憲兵司令部外事部長山村義雄大佐は懲役1年であった。ただし、再審において石田乙五郎、山村義雄両名の懲役1年は取り消されて無罪となった。
なお、大城戸、石田、内山、国武、長友、山村、大庭、安城、藤岡、山中、和田については、捕虜飛行士殺害について敗戦後隠蔽工作を行ったことも罪とされている。隠蔽工作というのは、ネルソンとオーガナスについては、上述の通りであり、その他の飛行士ついては、他所へ移送中に空襲で爆死し、14人だけが獄中で病死したことにして、真田山陸軍墓地に偽の墓標を建てたことなどである。
一方、中部軍の高山弘明大尉と法務部の小野武一大尉の2人は、この事件には無関係として、また処刑実行者の中部憲兵隊員小林秀一准尉、杉浦隆三郎准尉、小西新八伍長、森本成己曹長、大筏武一軍曹、高橋伊三軍曹、竹田勉曹長、館野リョウイチ兵長、津野一義兵長、松田定哉兵長、大西正樹一等兵などの下士官以下の11人は、命令を避け得なかった立場が認められて無罪となった。
≪高知憲兵隊事件≫
(GHQ資料539号、1256号 再審記録152号)
1945年6月22日に高知市内に撃墜された1機のB29の搭乗員のうち7人は墜落死、4人が捕虜になった。
このうち3人は高知憲兵分隊から呉の海軍刑務所を経て、大船海軍捕虜収容所へ移送され、戦後本国へ帰還したが、重傷を負っていたTheodore W.PRINCE軍曹は、いったん高知陸軍病院に収容されながら、憲兵隊の命令で他の3人の捕虜と一緒に中部155部隊の営倉に移され、間もなく死亡した。
戦犯裁判の結果、この処置が不当であったとして、高知憲兵分隊司令官代理の山本丈夫中尉が無期懲役、中部155部隊の田村甫軍医大尉が懲役25年、同じく見習軍医高見信一郎准尉が懲役20年、高知陸軍病院の筒井肇軍医大尉が懲役5年となった。
≪西部軍事件≫
(A)九州大学医学部生体解剖事件
(GHQ報告書604号、712号 再審記録290号)
裁判の期間:1948年4月12日〜5月27日
西部軍司令部(福岡城内)に留置されていたB29飛行士のうち8人が、1945年5月17日、22日、25日、6月2日(日時は推定)の4回にわたって、九州大学医学部で、肺の摘出手術、海水を代用血液とする手術などの生体実験の材料とされて殺された。犠牲になった米兵のうち6人は、5月5日に熊本県上空で日本海軍の戦闘機の体当たり攻撃を受け、大分県竹田市に墜落したB29の搭乗員である。この墜落機は搭乗員11人のうち7人がパラシュート降下し捕らえられたが、機長のワトキンスは情報収集のため東京へ送られ、残りの6人が西部軍司令部に留置されていたものである。その他の2人は、5月頃に大分県や宮崎県で捕獲された別のB29の搭乗員と推定される。
生体解剖が誰の発案と指令によって行われたものかは未だに不明な点があるが、西部軍偕行社病院副院長の古森拓軍医見習士官が、懇意にしていた西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐や九州大学第一外科部長の石山福二郎教授に働きかけたのがきっかけと言われる。この発案に、佐藤吉直大佐や西部軍の他の幹部も同調し、司令官の横山勇中将も暗黙の了解を与えたらしい。
このような背景として、1945年4月か5月頃、大本営から「今後は、飛行機の操縦士及び情報価値のある捕虜のみ東京に送るべし」との指令が伝えられ、また、6月には東京の憲兵司令官大城戸中将からの「捕虜は厳重に処置せよ」との指令が各軍管区憲兵隊に伝えられるという状況があり、西部軍の幹部も、捕虜飛行士を軍律会議も省略して処刑するのは中央の意図と受け止めていた可能性が強い。その結果、「どうせ殺すなら医学実験に役立てる」という発想が受け入れられたものと推定される。西部軍の関与は、最初の解剖の日には西部軍参謀の佐藤吉直大佐、同じく薬丸勝哉中佐、相原嘉十郎大尉らが飛行士とともにトラックで九州大学へ同行し、手術にも立ち会っていたことからもはっきりしている。
戦犯裁判の結果は、西部軍関係者16人と九州大学関係者14人が起訴され、西部軍関係では、司令官の横山勇中将が死刑(病死により判決棄却)、参謀長の稲田正純中将が懲役7年、参謀次長の福島久作少将が懲役15年、伊藤章信法務部長が懲役10年、参謀の龝田弘志大佐が無期懲役、航空・捕虜管理参謀の佐藤義直大佐が死刑(再審で無期懲役)、薬丸勝哉中佐が無期懲役、五位山真治大尉が懲役10年、相原嘉十郎大尉が懲役20年など、9人が有罪、7人が無罪。
九州大学関係では、平尾健一助教授が死刑、平光吾一教授が懲役25年、五島四郎研究生が懲役6年、牧野栄一郎研究生が懲役9年、森良雄講師が死刑(再審で懲役25年)、森本憲治九州大学医局長が無期懲役、野川延吉研究生が懲役25年、笠幹研究生が懲役3年、仙波嘉孝研究生が無期懲役、田代次郎研究生が懲役15年、田代友禧研究生が懲役15年、久保敏行研究生が懲役15年、鳥巣太郎一助教授が死刑(再審で懲役10年)、筒井静子看護婦が懲役5年など、14人全員が有罪とされた。なお、手術の中心になった九州大学第一外科部長の石山福二郎教授は起訴の前に自殺、古森拓軍医見習士官は空襲により敗戦前に死亡した。
この他に、古森拓軍医見習士官が生体解剖の後、飛行士の肝臓を偕行社病院に持ち帰り、偕行社病院の5人がこれを試食したとして起訴されたが、証拠がなく全員無罪となった。
(B)搭乗員斬首事件
(GHQ報告書420号 再審記録288号)
裁判の期間:1948年10月11日〜12月29日
1945年5月頃以降に西部軍司令部に収容された飛行士40〜41人を、6月〜8月に3回にわたって処刑。
6月20日 西部軍司令部の裏手にある福岡市立高等女学校(現・赤坂小学校)の校庭で、8人を斬殺。これは、前日の福岡大空襲に対する報復として、西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、法務部長の伊藤章信少将らの容認の下に行われたものと言われる。現場で指揮をした和光勇精法務大尉が2人、池田金芳准尉が2人、大西保見習士官が1人、冬至堅太郎主計大尉が3人を斬首した。
8月10日 福岡市南郊の油山の刑場で8人を斬殺。これは広島・長崎の原爆に対する復讐の意味も考えられる。西部軍参謀次長の友森清晴大佐らの同席の下、参謀の射手園達夫少佐が指揮し、法務部の和光勇精大尉、吉田寛二中尉、大野峰弘少尉、乙須徳美中尉、楢崎正彦少尉らが処刑を実行。野田英彦見習士官と山本福一少尉は、捕虜2人に対して空手で殺害できるかどうかを試した。その後、楢崎正彦少尉が袈裟切りを試した。最後の1人は、大槻隆見習士官が弓矢で殺害できるかどうかを試した後、大野峰弘少尉が斬首した。
8月15日 「玉音放送」の後、福岡市南郊の油山の刑場で、証拠隠滅のため生き残っていた16〜17人を斬殺。佐藤吉直大佐、楠本留之助少佐らの指揮の下、中山博二大尉、橋山登憲兵中尉、赤嶺輝雄中尉、毎田一郎中尉、窪山秀人軍曹、土山徳蔵曹長、猪上光繁軍曹、松木末勝軍曹、長岡政治伍長らが処刑を実行。
戦後の米軍の取り調べに対して、捕虜飛行士が1人もいないことの説明に困った西部軍では、九大生体解剖事件の捕虜など10人は広島へ送られて原爆で死亡、一部は東京へ空輸される途中、飛行機が撃墜されて死亡などと隠蔽工作を行ったが、結局は全てが白日のもとにさらされた。
戦犯裁判の結果、西部軍司令官横山勇中将、参謀長の稲田正純中将、法務部長の伊藤章信少将、参謀次長の友森清晴大佐、航空・捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、参謀の薬丸勝哉中佐、参謀の射手園達夫少佐は無期懲役、楠本留之助少佐は懲役40年、参謀次長の福島久作少将は懲役15年、参謀の龝田弘志大佐と参謀の神猪一郎中佐は無罪となった。
処刑実行者の冬至堅太郎主計大尉は死刑、和光勇精法務大尉、中山博二大尉、毎田一郎中尉、楢崎正彦少尉、赤嶺輝雄中尉、橋山登憲兵中尉は無期懲役、相原嘉十郎大尉は懲役5年、加来孝信少尉は懲役25年、野田英彦見習士官は懲役25年、大槻隆見習士官は懲役30年、山上均見習士官は懲役25年、山本福一少尉は懲役30年、大西保見習士官は懲役20年(再審で10年)、吉田寛二法務中尉は懲役30年、大野峰弘法務少尉は懲役30年、池田金芳准尉は懲役20年、土山徳蔵曹長は懲役20年、窪山秀人軍曹は懲役20年、猪上光繁軍曹は懲役10年、松木末勝軍曹は懲役20年、長岡政治伍長は懲役10年、乙須徳美中尉は懲役30年となった。
一方、雪野孔士大尉、村田定由中尉、中村実少尉、西部軍司令部付の江夏徳次憲兵少佐らは、直接の関わりはないとされたらしく無罪となった。
≪喜界島事件≫
(GHQ報告書2278号、2279号 再審記録317号、318号)
1945年4月11日、鹿児島県喜界島で米海軍の艦載機が撃墜され、Arthur L.THOMAS少尉が捕虜になった。喜界島に駐屯していた海軍第五航空艦隊(司令部は鹿屋)隷下の喜界島飛行部隊司令官佐藤勇少佐と、第五航空艦隊司令部から視察のために派遣されていた木田達彦海軍大佐は、THOMAS少尉の身柄を鹿屋へ送ろうとしたが、沖縄戦の最中で輸送が難しく、鹿屋からも「適当に処置せよ」との指示が来たため、4月末か5月初め頃、THOMAS少尉を処刑した。この時、吉田政義大尉が現場で指揮を取り、谷口鉄雄大尉が斬首した。
戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が死刑、木田達彦大佐が懲役40年、吉田政義大尉が懲役40年、処刑実行者の谷口鉄雄大尉が死刑(再審で無期懲役)となった。
5月10日、喜界島で米軍の艦載機が撃墜され、David C.KINCANNON大尉が飛行場設営部隊によって捕虜になった。彼も本土への輸送手段が難しいとして、佐藤勇少佐の承認の下、5月中旬頃、飛行場設営部隊の大島宗彦大尉によって斬首された。この時は村民も処刑を見物していたという。
戦犯裁判の結果は、佐藤勇少佐が懲役20年、処刑実行者の大島宗彦大尉が懲役7年となった。佐藤勇少佐は第1回目の処刑の責任と合わせて死刑を執行された。
≪宮古島事件≫
(GHQ報告書347号、1086号 再審記録335号)
裁判の期間:1948年7月6日〜7月20日
1945年4月23日、米軍の艦載機が沖縄県宮古島で撃墜され、搭乗員のJoseph F.FLORENCE少尉が日本の海軍警備隊に捕獲された。
彼は、身柄を本土または台湾に送るのが困難として留め置かれ、日本軍の飛行場の爆弾の除去などの危険な仕事をさせられていたが、米軍が上陸して来た時には軍の配置をしゃべる恐れがあるとして、7月11日に、宮古島第28師団情報参謀の陸路富士雄中佐が外村魚治少尉に処刑を命じ、外村少尉は部下の兵士3人とともにFLORENCEを射殺した。
敗戦後、彼の遺体は掘り返されて焼却され、証拠隠滅がはかられた。
戦犯裁判の結果は、28師団情報参謀の陸路富士雄中佐は懲役35年、外村魚治少尉は懲役9年、竹内次郎軍曹は懲役3年、畑野耕造憲兵伍長は懲役3年となった。
≪石垣島事件≫
(GHQ報告書665号、876号 再審記録258号)
裁判の期間:1947年11月26日〜1948年3月16日
1945年4月15日朝、沖縄県石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍の艦載機1機が撃墜され、Vernon L.TEBO中尉、Warren H.LOYD一等飛行通信兵曹、Robert TUGGLE Jr.一等飛行機関兵曹の3人がパラシュート降下し、石垣島の海軍警備隊に捕獲された。
彼らは情報聴取の後、その夜に海軍警備隊本部近くの荒地へ連行され、TEBO中尉とTUGGLE兵曹は斬首された。LOYD兵曹は激昂した数十人の日本兵によって刺突演習の材料とされて殺された。死体は穴に埋められたが、敗戦直後に証拠隠滅のために掘り返され、焼いて灰にして海中に投げ捨てられたという。戦後、匿名の投書が米軍に寄せられ、事件が発覚した。
横浜裁判では46人が起訴され、そのうち41人が絞首刑の判決を受けた。その後減刑が行われ、最終的には海軍警備隊司令官の井上乙彦大佐、幕田稔大尉、副司令官の井上勝太郎大尉、榎本宗憲中尉、田口泰正少尉、成迫忠邦兵曹、藤中松雄兵曹の7人に絞首刑が執行され、将校3人と兵曹29人が5年〜無期懲役となった。
≪父島事件≫
(GHQ報告書137号、388号、392号、2704号)
小笠原諸島の父島で、1944〜45年に捕まった米艦載機の捕虜飛行士7人が、1945年2月〜3月ごろ相次いで殴打、斬首、銃剣刺突などにより処刑され、日本軍守備隊の幹部らが死体から肉を切り取って食するという猟奇的な事件があった。この人肉事件は食料の不足から生じたものではなく、好奇心あるいは敵愾心から起こったものである。
この事件はグアム島のアメリカ裁判で裁かれ、陸軍守備隊の司令官立花芳夫中将、的場末勇少佐、中島昇大尉、伊藤喜久二中佐、海軍守備隊の吉井静雄大佐の合計5人の絞首刑を含む26人が有罪となった。
≪台湾軍軍律裁判≫
(GHQ報告書582号 再審記録208号)
台湾で捕虜になったアメリカ飛行士54人のうち14人を台湾軍の軍律裁判にかけ、1945年6月19日に銃殺。
台湾軍法務部の将校8人は上海のアメリカ裁判で裁かれたが、小池金市法務大尉のみは横浜裁判で裁かれ、懲役4年の判決を受けた。
【参考文献】
◇「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)1号〜2798号(国会図書館憲政資料室所蔵)
◇「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946−1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)(国会図書館憲政資料室所蔵)
◇『米国戦略爆撃調査団報告書』25巻66号(国会図書館所蔵 英文)
◇小山仁示訳『日本空襲の全容 〜マリアナ基地B29部隊〜』(1995年 東方出版)
◇渡辺洋二『本土防空戦』(1983年 株式会社朝日ソノラマ)
◇原田良次『帝都防空戦記』(1981年 図書出版社)
◇東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』(1995年 青木書店)
◇茶園義男編『BC級戦犯横浜裁判資料』(1985年 不二出版)
◇別冊歴史読本『戦争裁判 処刑者一千』(1993年 新人物往来社)
◇小菅信子/永井均解説・訳『GHQ日本占領史第5巻 BC級戦争犯罪裁判』(1996年 日本図書センター)
◇岩川隆『孤島の土となるとも 〜BC級戦犯裁判〜』(1995年 講談社)
◇岩川隆『神を信ぜず』(1976年 講談社)
◇北博昭『軍律法廷』(1997年 朝日新聞社)
◇大谷敬二郎『昭和憲兵史』(1966年 みすず書房)
◇全国憲友会編『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部 1988年)
◇巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』(1985年 不二出版)
◇福林徹「米捕虜飛行士殺害に関する中部軍・中部憲兵隊事件」(大阪国際平和センター紀要 『戦争と平和』所収 2002年)
◇横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会編『法廷の星条旗』(2004年 日本評論社)
◇上坂冬子『昭和史三部作 〜生体解剖・巣鴨プリズン13号鉄扉・慶州ナザレ園〜』(1995年 中央公論社)
◇東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』(1979年 株式会社文芸春秋)
◇上野文雄『終戦秘録九州8月15日』(1975年 白川書院)
◇秦郁彦『第二次大戦航空史話』中(1996年 中公文庫)
◇秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(1999年 文春文庫)
◇吉田一彦『ドゥーリットル日本初空襲』(1989年 三省堂)
http://blogs.yahoo.co.jp/takahiro992002/9412442.html
奄美諸島の発光事件(4)-喜界島編2-
2007/6/14(木) 午後 10:37防諜沖縄県
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多くの資料・証言が残されている喜界島であるが、スパイ取締りの実態はどうだったのでしょうか。当時第40震洋隊で震洋の搭乗員だった岡田逸樹さんに話を聞くことが出来ました。岡田さんは昭和20年2月佐世保軍港より輸送船高栄丸で出航、低気圧の通過による東シナ海の大時化のおかげで潜水艦の攻撃を受けることなく、2月11日頃奄美大島の名瀬港に入港しました。4、5日か一週間くらい奄美に滞在し、機帆船で喜界島早町港に上陸しました。
岡田さんによると、発光事件の容疑者として島人かの地元住民が部隊に監禁されています。自身も当直勤務のとき隧道に監禁された島人を監視し、事情を聞きましたが、事実は不明だったとのことです。後日その島人の家に招待されて両親や家族と楽しいひとときを過ごしましたが、それは岡田さんの接し方が優しかったのでそのお礼だと言っていたそうです。岡田さん自身は純朴で勤勉な島人を初めから信じていましたが、当時の噂として夜間の海岸でこのような事件があるので部隊では警戒を厳重にしていたとのことです。
この証言の内容は「奄美諸島の発光事件(3)―喜界島編―」で紹介した、兵力を増やして捜索にあたり「容疑者」を捕まえて約一ヶ月尋問したが、犯人との証拠がなくて釈放した、との第40震洋隊が打った電文の内容に合致しています。
では「容疑者」とされたのはどのような人だったのでしょうか。容疑者の多くは沖縄から移り住んだ糸満漁民でした。彼らは夜間に水中電灯を持って海で漁をしたので、それを見た特攻隊の兵隊が何かの信号と誤解して、10人くらいを早町の兵舎にいれてしまったそうです。早町では夕方の6時になれば通行禁止にしてあり、そこを知らないで通る人もスパイ容疑で逮捕されました。しまいには知的障害者の人までスパイ容疑で捕まっています。
(註1)また喜界島の守備隊は電燈携帯者と行商人をスパイと見なして尋問したとも伝えられています。(註2)
沖縄戦で日本軍が住民をスパイ視し、多くの無実の住民を逮捕し殺害したことはよく知られています。喜界島の場合は幸にも犠牲者はでませんでしたが、沖縄戦と全く同じことが行われていたのです。このことは沖縄戦における住民スパイ視を考える上で非常に重要です。
(註1)沖縄国際大学社会学科石原ゼミナール編『あし1989年度 第10号 喜界島調査報告書』(沖縄国際大学文学部社会学科石原研究室 1990)P80
(註2)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 1958)P113
http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/12/c_133110146.htm
More evidence exposes Japanese atrocities in China
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TAIYUAN, Feb. 12 (Xinhua) -- A villager in north China has stumbled upon a book about the trials of Japanese biological troops during WWII, with details of atrocities in China.
Zhao Yungang in Changzhi City, Shanxi Province, told Xinhua on Wednesday he found the book accidentally at the bottom of a chest while tidying up the affairs of his grandfather.
The book of more than 600,000 Chinese characters, published in 1950, is a Chinese translation of a volume printed by a Moscow publishing house.
It details prosecutions for preparing and using bacterial weapons, of 12 Japanese officers including Otozo Yamada, last commander-in-chief of the Japanese Guandong Army in northeast China.
The trials were held in Lhabarovsk in the Soviet Union in December 1949. The book includes indictments, confessions, defense statements and verdicts, as well as photocopies of Japanese orders for preparing and using germ weapons, and transporting live humans for experiments.
According the book, Yamada confessed to judges that a large number of people were kept in the cells of Unit 731 for experiments. He told the court that the Japanese army adopted three ways of using bacterial weapons: bombs or directly spreading them by planes or on the ground.
Yamada was sentenced to 25 years in prison and released in 1956.
More than 10,000 people were killed at Unit 731 in the Chinese city of Harbin. Civilians and prisoners of war from China, the former Soviet Union, the Korean Peninsula and Mongolia fell victims to the gruesome anti-human atrocities of the Japanese.
http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/19/c_133127773.htm
China urges int'l alert for Japanese comments
RSS Feedback Print Copy URL Large image More English.news.cn | 2014-02-19 18:03:39 | Editor: Yang Yi
BEIJING, Feb. 19 (Xinhua) -- China on Wednesday urged the international community to be on alert for any comments which attempt to vindicate Japan's invasion history and challenge post-war world order.
Chinese Foreign Ministry spokesperson Hua Chunying's comments came in response to a question regarding recent Japanese comments.
Chairman of Japan's public broadcaster NHK Katsuto Momii insisted there was nothing wrong with his earlier remarks on "comfort women", a euphemism for sex slaves during World War II.
Last month, during his first press conference as NHK president, Momii said comfort women were common in countries at war at that time, and that media "cannot say left when the government says right."
Apart from Momii's comments, an aide to Japanese Prime Minister Shinzo Abe had expressed disappointment at U.S. criticism of Abe's shrine visit. "It's us who are disappointed," said Seiichi Eto in a message recently posted on the YouTube video-sharing website.
Hua said China has taken note of reports that reveal Japanese political forces clinging doggedly to a wrong view of history, with no repentence for the atrocities the Japanese militarism brought to victim countries.
"They are still attempting to vindicate their aggression and challenge the victory in WWII and post-war world order," Hua told a routine press briefing.
"These are consistent with Japanese leader's mistakes that ran counter to history," she added.
Hua reiterated that international order and historical justice never tolerate any challenge.
"Some people in Japan time and again deliberately distort and deny history, and pose a challenge to the conscience of mankind. I want to ask, what do they really want?" said the spokesperson.
She urged alarm and opposition of all peace-loving countries and people over Japan's mistakes.
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http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-02/13/c_133112172.htm
Abe urged to admit wartime atrocities
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By Wang Fan
BEIJING, Feb. 13 (Xinhuanet) -- Murayama says PM should honor 1995 apology for Japan's past actions.
Former Japanese Prime Minister Tomiichi Murayama said on Wednesday that Japanese leader Shinzo Abe "has no choice but to honor the Murayama Statement" and urged him to be honest about Japan's wartime aggression.
Murayama's remarks came amid increasing tension in Northeast Asia over Tokyo's reluctance to fully shoulder responsibility for forcing Asian women into sexual slavery during World War II and the Sino-Japanese War. Murayama, 90, is on a three-day tour of South Korea that began on Tuesday.
"All previous prime ministers of Japan said they would inherit the Murayama Statement. Abe has also stated that he would inherit the statement. I believe there has been no falsehood in that pledge," Murayama said during his lecture to South Korean lawmakers at their parliamentary headquarters.
During his time in office in 1995, he made an official apology called the "Murayama Statement" that takes responsibility for Japan's past atrocities and wartime aggression during its colonial rule.
Qu Xing, president of the China Institute of International Studies, warned that the current Japanese government has sought opportunities to deny the nation's wartime crimes.
"Several prominent figures in Japanese politics have publicly defended the so-called legitimacy and necessity of forcing women into sexual slavery in times of war, saying that many nations had also done the same thing," Qu said.
Abe stunned the international community last May when he told the Japanese parliament that "so far there has been no unified definition of 'aggression'".
That same month, Yoshihide Suga, Japan's chief cabinet secretary, also triggered controversy after he stated without any elaboration that the Abe cabinet would continue to "inherit the spirit of the Murayama Statement".
Seoul-based JoongAng Ilbo newspaper said the remarks "deliberately shied away" from keywords including "colonial rule" and "comfort women".
Yang Bojiang, deputy director of the Institute of Japan Studies at the Chinese Academy of Social Sciences, said "it is unlikely" that Abe will reverse course on the comfort women controversy because of his perspective on the history of WWII.
Last month, Katsuto Momii, the new president of Japanese public broadcaster NHK, added to the controversy by claiming that the use of sex slaves, which in Japan were called "comfort women", was common in all countries involved in WWII. Momii later retracted his remarks.
South Korean President Park Geun-hye said in a January interview with CNN that she "hopes the current Japanese leaders will make sure they inherit the Murayama and the Kono statements and refrain from words and acts that put their sincerity into doubt".
Murayama said he was assured that Abe would recognize the Murayama Statement because he cannot deny Japan's past invasions. He added that anyone who denies the Murayama Statement should resign from his Cabinet post.
The Associated Press warned on Wednesday that time is running out for aging former comfort women of South Korea to receive compensation. It also reported that "anger in Seoul is (being) met with frustration in Tokyo".
"The Japanese seem to be of the view that whatever they do will not be enough to satisfy the Koreans, so why bother?" Ralph Cossa, president of the Pacific Forum CSIS think tank in Hawaii, told AP.
On Tuesday, Murayama met three South Korean women who were forced into sexual slavery at a Japanese military brothel during WWII. Murayama became the first former Japanese prime minister to meet with the former "comfort women".
(Source: China Daily)
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http://news.xinhuanet.com/english/indepth/2014-01/28/c_133080836.htm
Commentary: Japan's trick in history education risks generations of confrontation
English.news.cn 2014-01-28 15:10:01 More
by Liu Tian
TOKYO, Jan. 28 (Xinhua) -- Local media reported Tuesday that the Japanese education ministry will revise its teaching manuals, in which the Diaoyu Islands -- an integral part of Chinese territories, will be described as "Japan's integral parts."
The fact-twisting manuals for junior and senior schools will confuse Japanese students about what the true history is, risking breeding generations of confrontation.
Japan's rightists have for long attempted to whitewash Japan's wartime past through revising textbook, which has outraged its Asian neighbors that suffered Japanese brutal wartime aggression.
The new provocative act in the education area, furthermore, has proved that impacts of the right-leaning Prime Minister Shinzo Abe's administration has touched the country's social level, especially after the wrong words on "comfort women" by Japan's public broadcaster NHK's new boss on Saturday.
Abe boasted he upheld a doctrine of "active pacifism," but his doings pointed to the opposite.
During his one-year rule, Abe's administration repeatedly unleashed provocative acts by approving the national security strategy, the defense program guidelines and a five-year defense buildup plan to further expand its military.
And Abe himself, while sparing no efforts to revise his country's war-renouncing constitution, paid a visit to the notorious Yasukuni Shrine, where 14 Japanese Class-A World War II criminals are honored.
Such moves has led to international criticism and hightened regional tensions and it was also self-evident what Abe was doing was jeopardizing regional peace and stability.
As the saying goes, friendships between peoples hold the key to sound relations between states.
However, such whitewashing and fact-twisting tricks will be bound to make the path for Japan to improve ties with its neighbors more bumpy, not mention the trust- and friendship-building in the long run, as Japan's younger generations, the future of a nation, are kept from truth by the reckless Abe administration.
http://news.xinhuanet.com/english/china/2014-01/10/c_133035597.htm
China Focus: Japanese biological warfare crimes documented
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CHANGCHUN, Jan. 10 (Xinhua) -- Wartime documents have revealed evidence of Japanese biological warfare crimes and atrocities committed by Japanese Unit 731 during World War II.
The Japanese documents released on Friday by Jilin Provincial Archives regarding "biological warfare" show in detail Japanese troops' activities in building "bacteria forces" in its colonial regions and using human beings for experiments to develop biological weapons.
The documents are dated from 1936 to 1945 and include 81 rolls of more than 400 pieces of paper and over 70 audio-visual archives.
According to a report of a Japanese military police on Aug. 9, 1937, the document stipulated the code name of "biological warfare" as "biological prevention" or "plague prevention." Since then all "biological warfare" matters were referred to by the Japanese military using the code name.
"It explains why so few Japanese biological warfare materials could be found in public documentation," said Gao Wei, leader of the research team at the provincial archives.
Another 77 rolls of documents recorded that 372 people were sent to Japanese Unit 731, a covert biological and chemical warfare research and development team, for "Special Transfer." The people were from China, the then Soviet Union and Korea.
"Special Transfer" means sending prisoners who no longer had any use to the "bacteria forces" for experimentation to develop biological weapons, said Gao.
The documents also recorded an order by the Japanese Kwantung Army to catch rats. The Japanese army gave more than 20,000 rat-traps to citizens and asked them to catch 450,000 rats. The army rewarded those who caught the most number of rats.
The documents said that Ishii Shiro, who was in charge of biological warfare, had attended "plague prevention" meetings on several occasions.
Gao argued that the rat catching was carried out to develop plague.
"We have found that once the Japanese troops occupied a region, they would send a bacteria army there," Gao said. "Documents prove that biological warfare was the Japanese forces' major invasion strategy."
According to the archives, Japanese "bacteria forces" including Unit 731 started biological warfare in more than 20 provinces and cities of China on 161 occasions, claiming more than 270,000 lives and causing more than 2.37 million people to be infected by plague.
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BEIJING, Jan. 7 (Xinhua) -- Everyone is entitled to a dream. But Japanese Prime Minister Shinzo Abe seems to be having a dangerous one that may drag Japan toward a nationalist dead end and risk jeopardizing regional stability.
In a New Year message, Abe reaffirmed his resolve to revise the country's pacifist constitution written after Japan's defeat in WWII. By revising the war-renouncing constitution, Abe aims to lift the ban on the right to exercise collective self-defense, making it possible for Japan to wage war. Full story
SEOUL, Jan. 2 (Xinhua) -- South Korea's top diplomat repeated his condemnation of Japanese politicians for their visit to the controversial war shrine, describing the visit as a big stumbling block to peace and cooperation in the region.
"As seen in the Japanese Prime Minister Shinzo Abe's recent visit to the Yasukuni Shrine, the history-revisionist attitude of Japan's political leadership brought isolation upon itself and served as a big stumbling block to peace and cooperation in Northeast Asia," Foreign Minister Yun Byung-se said in his New Year's message on Thursday. Full story
BEIJING, Dec. 30 (Xinhua) -- Four days after Japanese Prime Minister Shinzo Abe's visit to the controversial Yasukuni Shrine, disappointment and condemnation over his reckless move are still mounting.
Singapore on Sunday expressed its regrets over Abe's visit, fearing that his act "is likely to evoke further negative feelings and reactions in the region." Full story
BEIJING, Dec. 28 (Xinhua) -- Japanese Prime Minister Shinzo Abe's visit to the notorious Yasukuni Shrine in Tokyo that honors Japan's war dead including convicted war criminals in World War II is but a flagrant denial of the just trials of Japanese warmongers guilty of crimes against humanity.
Abe on Thursday visited the war shrine, which has been seen as a symbol of Japan's past militarism as it enshrines 14 Class-A WWII war criminals. Full story