Wednesday, August 17, 2011

poem made by MongRyong in 春香伝 Chunhyangjeon (춘향전, 春香傳)

一杯美酒千人血(일배미주천인혈): 아름다운 술 한잔은 천(千)백성의 피요

數碗肥膏萬姓膏(수완비고만성고): 여러그릇의 비게는 만백성의 땀이니라

人淚落時天淚落(인루락시천루락): 사람이 눈물을 흘릴때 하늘도 눈물 흘리고

笑聲高處哭聲高(소성고처곡성고): 웃음소리 높은 곳에 울음소리 높구나

A full barrel of delicious wine made by blood for thousand people.
delicious dinner on several beautiful bowl are paste fat of common people.
people's tear are falling when the  candle gutter
raising shout of glee but hear grudge voice on hidden.

the lyrics MongRyong made in 春香伝 Chunhyangjeon was based of the poem made by Chinese Emperor.to able to be reading or singing Chinese poem Kanshi 漢詩 was proof of ryanban;noble class in korea,then we can say that MongRyong was very smart.

http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/book/2004-07/09/content_1586683.htm





“恭錄嘉慶七年禦制罵廷臣詩”,全詩如下:


滿朝文武著錦袍,閭閻與聯無分毫;一杯美酒千人血,數碗肥羹萬姓膏。人淚落時天淚落,笑聲高處哭聲高;牛羊付與豺狼牧,負盡皇恩為爾曹。

一杯美酒千人血的简介:满朝文武着锦袍,闾阎与联无分毫;一杯美酒千人血,数碗肥羹万姓膏。人泪落时天泪落,笑声高处哭声高;牛羊付与豺狼牧,负尽皇恩为尔曹

金樽美酒千人血 金樽(きんそん)の美酒は千人の血 金の樽のうまい酒は多くの民の血であり
玉盤佳肴萬姓膏 玉盤の佳肴(かかう)は万姓の膏 きれいな皿のうまい料理は多くの民の体のあぶらである
燭涙落時民涙落 燭涙落つる時 民の涙落ち ろうそくの涙が落ちるとき民の涙が落ち
歡聲高處怨聲高 歓声高き処 恨声高し 歓声の上がるところでは恨み声が上がる

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嘉慶帝

The Jiaqing Emperor (Chinese: 嘉慶帝; pinyin: Jiāqìngdì; Mongolian: Sayishiyaltu Yirugertu Khaan, 13 November 1760 – 2 September 1820) was the seventh emperor of the Manchu-ledQing dynasty, and the fifth Qing emperor to rule over China, from 1796 to 1820.

He was the son of the Qianlong Emperor. During his reign, he prosecuted Heshen (和珅) (the corrupt favourite of Qianlong) and attempted to restore the state and curb the smuggling ofopium inside China. from wiki

english wiki doesn't write any mention of First Opium War, First Anglo-Chinese War.

乾隆帝の第十五子として生まれ、乾隆帝が85歳の時(乾隆60年)に乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝が死ぬまでは実質的に乾隆帝が皇帝だった。

乾隆帝が1799年(嘉慶四年)に死ぬと嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣和珅(珅は王編に申)を誅殺した。周りの人間全てが和珅のことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは和珅を信任し続けたために乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、和珅は国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。和珅から没収した財産は実に国家の歳入の十年分に当たったといわれている。

和?に代表されるように乾隆帝中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。嘉慶帝はこれを修繕しようと試みるが、あまり芳しい結果は得られなかった。この頃の中国の人口は100年前が2億ほどだったのに対して4億を突破していた(全体的にみれば比較的平和な状勢が続いたこと、そして何より、この頃に新大陸原産の作物であるトウモロコシやサツマイモ、落花生などが導入され、農業生産が伸びたためである)。しかしその一方で農業耕地はわずか一割ほどしか増加しておらず、必然的に一人当たりの生産量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。そうした民衆は匪賊となり、白蓮教を紐帯とすることで政府に対する反乱となった。このような反乱は乾隆帝末期から起きていたが、中でも天理教徒の乱ではわずか80名足らずではあるが、反乱軍に紫禁城にまで踏み込まれ、(癸酉の変)矢を壁に射立てられた(この跡は現在でも残っている)。

嘉慶帝は『己を罪する詔』(皇帝自身による自己批判文書)を出し、事態収拾に当たったが上手くいかない。政府軍の満州八旗は三世の春の長い平和により堕落しており、汚職には巧みであったが実戦にはまるで弱く、反乱軍に連戦連敗であった。窮した政府は反乱軍討伐を郷勇(きょうゆう)と呼ばれる義勇兵軍団に頼ることになった。この方策は成功し何とか反乱を鎮圧することができた。

これと平行して海では海賊が横行し、清の船を襲っていた。これは艇盗の乱と呼ばれる。この海賊の後ろ盾にはタイソン党の乱でベトナムの支配者になった阮氏三兄弟がいた。賊と阮氏の関係は解りきっているのだが阮氏に訴えても知らぬ存ぜぬで通されてしまう。政府は対策を李長庚に命じた。1802年に阮氏政権が阮福暎に倒され阮朝が誕生したことで事態は好転し、後ろ盾を失った海賊を李長庚は討ち滅ぼした。

こうして清は何とか乱を乗り切った。しかしかつて「万に満てば敵すべからず」と言われた満州族の軍隊が今では全く役に立たないことを暴露したことは、多数派の漢族に対する満州族支配に大きな不安を抱かせた。また反乱を鎮圧した郷勇が発展して、のちに曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、満州族の地位を危ういものとした。

さらに南の阮福暎の後ろにはフランスが迫ってきており、この頃からイギリスから密輸入されるアヘンが急激に増大していた。鎖国の夢を破る西欧諸国の足音がひしひしと迫ってきていたのである。アヘンがのちのアヘン戦争を引き起こし、郷勇から発展した軍閥政権が清を滅ぼしたことを考えると、清の滅亡の萌芽はまさにこの時代にあったと言える。

なお、陵墓は清西陵にある。 from wiki

Heshen or Hešen (Chinese: ; pinyin: Héshēn; Wade–Giles: Ho-shen, 1746 - February 22, 1799), from the Manchu Niuhuru clan, was a Manchu official of the Qing Dynasty, a favourite of the Qianlong Emperor.

http://en.wikipedia.org/wiki/Heshen

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