Wednesday, September 7, 2011

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「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮の社会革命の難しさの根源は、その伝統的な身分階級制度にある。甲申改革当時の金玉均ら改革派たちの主張によれば、朝鮮社会の門閥や封建的身分制度こそ不平等の根源、国政腐敗、国力衰弱の主因と指摘している。両班階級は、その能力や才能とは無縁な生まれつきの血縁関係によって規定される伝統的な身分制度であった。朝鮮半島は、1894年になって、ようやく「四民平等」を宣言した。そのときから、賎民(奴婢など)もやっと両班や良人と同じように戸籍を持つように戸籍法が改正された。しかし、甲午改革は「三日天下」ですぐに失敗した。朝鮮総督府は、実質的に法律によって階級差別廃止を行なったのであった。

李朝末期には、奴婢が公賎(官庁に所属した奴婢)と私賎(両班などに所有された奴婢)に分けられ、私賎は男子が少なく、女子がほとんどであった。婢(女の奴隷)は日韓併合当時、まだ一人三十円で売られていた。婢に特定の夫はおらず、何人かの間で替えていくのが風習であった。しかし、婢は主人の所有物であったから、その生まれた子供もまた主人の所有に属し、その子もまた転売されていくので、婢の子孫は、女子であれば、ほとんど世々代々奴隷として浮かぶ瀬あらんやといわれた(まさしく性奴隷)(『朝鮮農業発達史』『同・政策編』小早川九郎編著、友邦協会)。

朝鮮農民は、両班に差別され、白丁(被差別民)がまた農民に差別された。この階級社会ではトラブルが絶えなかった。このような朝鮮社会の病弊は、けっして一朝一夕で克服できる問題ではない。今日の韓国社会に至ってもそういえる。甲申改革は「三日天下」で失敗に終わったから、国王の命令によって「甲申政綱」が回収されたために、その正確な原案を知ることができない。今日に伝わっている「甲申政綱」の具体的内容は、資料によってその詳細が多少異なる。いずれにしても近代国家としての本格的社会改革は、朝鮮総督府からであったというべきだろう。

また、李朝時代の地域的差別は、西北地方と東北地方の出身者が、完全に官界から排除され、官吏は中央だけから送られた。もちろん、国家による地方差別は公然と制度化された。『経国大典』には、咸鏡道、平安道、黄海道の人は、官憲への登用はもちろん、鷹師への起用さえ禁止する条項があったほどだ。平安道人は、平安道奴、西漢、平漢、平奴、避郷奴と蔑視されていた。朝鮮総督府はこれらの差別を廃止したが、残念ながら、今日の韓国社会では、地域的な差別が厳然として存在している。それは朝鮮半島の永遠なる民族的課題とさえいわれている。このような見捨てられた地方民、つまり東北、西北朝鮮の地方民は、被差別民だから、門閥を重んじる京城の両班たちは、ほとんど西北地方の人との婚姻を禁止し、つき合いさえなかった。というのは、東北、西北の地方民は、ほとんど任官を受けられなかったので、婚戚関係を持ったところで何の役にも立たないからである。ましてや京城の人間から見れば、東北、西北地方は、重罪人の禁固や流配の地にすぎなかった。咸鏡道人を「水売り」、「咸鏡道奴」、「咸鏡ネギ」と軽蔑し、敬遠するのは、伝統的な差別意識からくるものであった。

人種差別や地域差別は、朝鮮半島だけではなく、日本人社会にもある。韓国人、朝鮮人に対して、優越意識を持っている日本人のいるのは確かであろう。しかし、李朝社会ほどの人種差別と地方差別を持つ民族は、ほとんど考えられない。朝鮮総督府は、日韓合邦後、「内地延長主義」の原則をずっと堅持しつづけていた。それは朝鮮半島にとって、まさしく破天荒な政治原則であった。仮りにそれがしばしば有名無実であっても、少なくとも李朝以来、あるいは遠く溯れば三韓、三国時代以来の地域差別、さらに李朝以来の階級差別の歪みを是正する、一つの大きな契機となっていた。今日の韓国社会は人種差別にも、地域差別にも、悩みつづけている。しかし、階級差別を法的に禁止したのは朝鮮総督府時代からである。朝鮮総督府の時代は、多くの失政もあったことは確かであろうが、政治的変革以上に大きな社会変革を完遂した。この事実については、李朝体制を視野に、その延長としての朝鮮総督府とは何かをその原点から見ることが必要ではないだろうか。

李朝社会は、なぜあれほどしつこく自ら韓民族を両班、中人、良人(常民)、賎民に分け、厳しく階級差別したのであろうか。その理由は「礼儀之邦」という考え方にある。法治社会が確立される前に、階級社会を規定するものは「礼」であった。中国では周の時代には、だいたい「繁文縟礼」(こまごまと規定されている規則・礼式など)によってすべての人間関係が規定されていた。「法」が「礼」に代わって人間の社会的諸関係を規定するようになったのは、春秋戦国時代からである。朝鮮があれほど「朱子家礼」(朱子学による規範)に心酔し、繁文縟礼にとらわれつづけてきたのは、その国王、両班を中心とする階級支配を維持するために、必要だったからである。
***************************************以下は「宮廷女官チャングムの誓い」のホームページから抜粋
宮廷女官って?(階級・身分制度)
朝鮮王朝の身分制度は、少数の支配者層とその他大勢の被支配者層から成り立つピラミッド状の構造でした。すなわち王、両班、中人と、良人、賎民に分かれていました。貴族的特権階級の両班(ヤンバン)は官僚職を事実上独占、世襲する人々で、それに続く中人(チュンイン)は、科挙<注釈5>の雑科に合格し、通訳、陰陽学、医学、音楽などの技術系官職に従事する人々を指しました。良人(ヤンイン)は常民とも言われ、その大部分は農民でした。良人にも科挙の受験資格がありましたが、納税や多様な役の負担を強いられ、勉強する余裕などありませんでした。最下層の賎民のうち、最も多くを占めたのは公私の奴婢で、最も差別をうけたのは白丁(ペクチョン)です。奴婢は、宮廷などで働く公奴婢と両班などの私人に属する私奴婢に分かれ、合わせて全人口の十~数十%を占めていました。同じ賎民でも白丁は職業、居住地、衣服にわたるまで厳しい制限と強い差別をうけていました。

王とその一族が暮らす宮殿には、多くの女官が働いていました。女官たちはそれぞれ専門職を持ち、また全員が王と婚姻関係にあるとみなされ、実質はその生涯を独身ですごしました。女官になるには、幼いうちに宮中に入り、まずは見習い<センガッシ>として仕事を始めます。その過程でさまざまな選抜を経て一人前の女官<内人:ナイン>になるのです。見習い時代を含め約30数年の年功を積み、ふさわしいと認められれば、女官の中で最も高い身分「尚宮(サングン)」の地位を与えられます。ドラマに登場する最高尚宮(チェゴサングン)は、水剌間(スラッカン)<注釈6>の女官を束ねる責任者のことで、最高尚宮の上に立ちすべての女官を統率するのが女官長、提調尚宮(チェジョサングン)でした。

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