Friday, November 25, 2011

Jan Janse Weltevree ヤン・ウェルテフレー

ヤン・ウェルテフレー korea  Jan Janse Weltevree

http://home.planet.nl/~taylorpj/derijp1.html
The first European in Korea.




ハメルは、済州でヤン・ヤンセ・ウェルテフレー (Jan Janse Weltevree) と出会った。
ウェルテフレーもまたハメルに先立つ1627年(仁祖5年)に、日本へ向かう途上、給水のために朝鮮に上陸したところを捕らえられたオランダ人であった。
彼の時は朝鮮も日本への送還を試みたが、キリスト教徒であることを理由に断られていた。
同時に捕らえられた2人のオランダ人は、丙子胡乱で命を落とし、ウェルテフレーは朴延(朴淵、あるいは朴燕とも伝えられる)と名乗って朝鮮王に仕え、ただ一人当地で妻を娶り暮らしていたが、王の命を受けてハメルらの通訳と尋問にあたった。
ウェルテフレー(朴延)は訓錬都監で中国人や日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。

彼らが逮捕されてまだ冷めやらぬ間に、ハメルらは王のための一種の新奇な貢物として、漢陽の王宮へ連れて行かれた。ウェルテフレーと信頼できる協力者によって、ハメルらは切迫した要請を王(孝宗)に伝えることができた。
即ち、彼らは王に対して、故国へ帰り、妻や子供たちと再会することができるように求めた。しかしハメルの日誌は、それを拒絶する王の沙汰による落胆を伝えている。ハメルらは訓錬都監に兵士として配属され、朝鮮国王から給与を受ける身となった。

朝鮮人が彼らの行動を制限し続けるつもりであることは、オランダ人にとって明白だった。
現地の慣習に従えば、彼らは奴隷も同然だった。

耐えかねた一行のうちの2人が清の使節に日本への送還を直訴したことは、一行の待遇を悪化させた。
朝鮮は清使に賄賂を送ってこの一件を事なきものとしたが、次第に彼らを持て余すようになり、廟議の末に全羅道へ送ることとした。生活の状態は、中央から派遣される役人の意向によって変転した。
時に給与が滞ったときには物乞いをして命を繋ぐこともあった。
1659年(孝宗9年)には熱病の流行で一行より多くの死者を出し、1660年(顕宗元年)から1663年(顕宗3年)の飢饉で、全羅兵営が彼らを養いきれなくなった後には、全羅左水営、順天、南原に分散されてしまった。
厄介者であった彼らに対して、朝鮮は次第に注意を払わなくなり、彼らは時に綿花の交易のため、周辺を航海することもあった。
そしてそれが、後の脱出に繋がることになった。
599:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/04(月) 19:37:59 ID:V3NLEubi
 日本でのハメル

1666年、彼らが囚われてから13年後、ハメルを含む8名が脱出に成功した。
彼らはどうにか小船を奪い、長崎県の五島列島に辿り着いた。
五島淡路守盛勝は彼らを保護し、オランダ商館のある長崎湾の人工島・出島へ送った。
長崎奉行はハメルらをオランダ商館に預け、朝鮮の事情や滞在中の生活について尋問した後に帰国を許可した。
いまだ朝鮮に滞在している「デ・スペルウェール」号の生存者についても、宗氏を通じて日朝間で送還の交渉が行われ、朝鮮への残留を希望した1名を除く7名が、対馬を経由して日本へ送られ、オランダ商館に引き渡された。

オランダでの認識

ハメルは故郷のホリンケムに帰って後、1692年に死んだ。
17世紀のオランダにおいてハメルは、冒険譚を持つ、多くの元東インド会社乗組員の、ある一人に過ぎなかった。
彼は、何ダースもの東インド会社の交易船が、戦い、災難を生き延び、発見を為し冒険を楽しんだ時代に、7つの海を旅していた。
彼の報告書によって述べられた出来事が、単に物珍しいものとしてのみ注目されたのは、意外なことではない。
東インド会社は改めて朝鮮との交易を検討したけれども、清と朝鮮の特別な関係、あるいは朝鮮と日本の外交関係によって見送られることとなった。

最近になって、ハメルの故郷は調査者として彼の役割を認めた。
その素晴らしい旅人に敬意を表す動きとして、ホリンケムの古い要塞町では、ハメルの彫像を誇らしげに飾っている。

ハメルがオランダにおいて認知されるようになったのは、20世紀初頭に、オランダ国内のある通りが彼の名にちなんで名付けられたことによっている。
その通りは今も、存在している。
600:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/04(月) 19:43:41 ID:V3NLEubi
ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』東洋文庫132, 平凡社, 1971.

ヘンドリック・ハメル (Hendrik Hamel) は、1653年7月に難破し済州島に漂着したデ・スペルウェール号の乗組員で、同僚七人と1666年8月に日本に脱出するまで13年間朝鮮に幽閉された。
南蛮人36名漂着の報を受けた朝廷は、1627年に慶州で捕えられたオランダ人朴延(ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー)を派遣した。
朴延は訓錬都監で中国人・日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。
漂着翌年の1654年5月、死亡者1名を除く全員がソウルに入り、訓錬都監に配属された。
朝廷はオランダ人の存在が清国にもれることをおそれ、清使の来訪時には軟禁して監視をつけた。
しかし1655(孝宗6)年4月、オランダ人2名が清使にとりすがって帰国を訴えた。
朝鮮側は清使に多額の賄賂を贈り、この事件をもみ消した。
訴え出たオランダ人2名は獄死した。
朝廷は生存者33名を全羅道に送り、兵役に従事させた。
人治主義の国らしく、温厚な長官が赴任して来たときはよかったが、冷酷な長官が来ると悲惨で、食糧も衣服も十分に供与されず、物乞いで糊口をしのぐはめになった。
1666(顯宗7)年時点で生存者は16名となっていたが、この年の8月にハメル以下8 名は船で脱出し、五島列島で捕えられ長崎奉行所に送られた。
翌年幕府はハメル一行の帰国を認め、一行は11月にバタビアに到着した。また幕府は、残るオランダ人の引渡しを朝鮮側に求め、生存者7名は1668年6月に釜山で引き渡され、出島のオランダ商館に入った。
ハメルは手記の中間部で朝鮮の政治・社会情勢を記述しているが、当然あまりよくは言っていない。
後に朝鮮のステレオタイプとなる項目のうち、刑罰の恣行や男尊女卑や家屋の貧弱さ等が既に現われている。後進性については、日本や清の侵略のせいだという朝鮮人の見解を伝えている。


ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』(生田滋訳)東洋文庫132, 平凡社, 1971.

すなわち夫を殺した妻は、多くの人々の通る道傍に肩まで土に埋められ、その傍に木の鋸が置かれます。
そしてそこを通る人々は貴族以外は彼女の頸をその鋸で挽いて死にいたらしめなければなりません。
……夫が妻を殺した場合、それについて然るべき理由のあることが証明できる場合は、
その理由が姦通であってもなくても、その罪によって訴えられることはありません。
……過失致死犯は次のようにして罰せられます。
彼等は酸っぱい、濁った、鼻をさすような匂いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。
当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗人は非常に沢山います。
その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。 (p. 41)
一般の人々は彼等の偶像の前で、ある種の迷信を行います。
しかし彼等は偶像よりも自分の目上の人に対してより多くの敬意を払います。
大官や貴族は偶像に対し敬意を表するということをまったく知りません。
なぜならば彼等自身がそれよりも偉いと考えているからです。 (p. 43)
大官たちの家は非常に立派ですが、一般の人々の家は粗末なものです。
これは自分の考えに基づいて家を建築することは誰にも許されていませんし、総督の許可なしに屋根を瓦でふくことも許されていないからです。 (p. 46)
この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。
夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。
したがってこの国は人口が多いのです。 (p. 48)
教師は子供たちに対してつねに先人の学識と、高い学識のおかげで出世した人々のことを例に挙げます。
子供たちは昼も夜も勉強にはげみます。
こんな幼い生徒が自分の習う知識の大部分を含む書物を立派に説明することができるのは、驚くべきことです。 (p. 49)
彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。
彼等をあまり信用してはなりません。
他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。 (p. 52)
彼等は病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。
病人はただちに自分の家から町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれます。
そこには彼らを看病する者の外は誰も訪れませんし、誰も彼等と話をしません。
その傍を通る者は必ず病人に向かってつばを吐きます。
病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨ててしまいます。 (p. 53)
この国はタルタル人がこの国の主人となるまでは、非常に豊かで楽しい国で、人々は食事や飲酒や、その他考えられるあらゆる楽しみにふけってばかりいましたが、
現在では日本人とタルタル人のために国土が非常に荒らされてしまいましたので、凶作の年には食糧が充分に行き渡るかどうか危ない状態です。
それは彼等が重い貢物を、特にタルタル人に納めなければならないからで、タルタル人は通常年に三回それを徴収に来ます。 (pp. 53-54)

605:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/04(月) 20:03:43 ID:NwZ+2f0q
>>603
(1)朝鮮の外交権は清にあるんで、貿易をするには清の判断を仰がないと行けないが、
清がそんな事を許可する訳はない。(ピンハネできない)。結局。
朝鮮→清→オランダ 
朝鮮→琉球国→日本→オランダ
での交易ルートしかない。

(2)当時の朝鮮にはロクな港湾設備もないんで、行き帰りは日本か清を経由しないと行けない。
ただでさえ、外国には厳しい日本と清が、(1)で示した正規ルートを辿らず、ダイレクトに
朝鮮の荷物を積んだ貿易船の入港を許可する訳がない。
606:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/04(月) 20:09:27 ID:a1y6pOfp
旅行会社の韓国ツアーで紹介されていた。
復元された船を見学できるそうです。(行かないけど)

ハメル漂流船
http://www.leefamilykorea.com/kankou-jeju-hamel.htm

住所: 済州島 南済州郡 安徳面 沙係里 
観覧時間: 8:30~18:00(入場は17:20まで)
観覧料金: 大人2,500ウォン 青少年1,500ウォン

14:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/01/04(月) 20:29:48 ID:E4lqG2pL
>>608
1911年時以前の歴史は、識字率6%以外の奴隷モドキ白丁は知らない。マス塵を今牛耳ってるのは
其の無知蒙昧白丁の子孫。編集局中枢部を乗っ取った論説主管!若宮啓文(現コラムニスト)「竹島は
チョンに譲れ!」、宇(社説「黙れ皇族!)」筆者、市川速水「ジャガはチョンには1000年前から有る!」筆者ら
チョンの朝日トンスル新聞記者等が其の代表例。
因みに日本は其れ以前でも70%以上だった。

18世紀の識字率はロンドンが20%程度パリが10%未満江戸が70%以上
http://ameblo.jp/campanera/entry-10054758697.html

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