Thursday, December 8, 2011

sado lesson buji 無事

thanks to god to be able to spend this year in peace





但莫造作、祇是平常。爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。」(無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平常なり。外に向かって傍家に求過して、脚手にもとめんと擬す。錯りおわれり。
無事であることが貴いのだ、計らいをしてはならない、ただ、あるがままがよい。とかく外に向かって何かを求め手懸りとしようとする。それが誤りであるとする。
「つつがなく暮らしている人は、それだけで貴い人である」という意味です。


 年末になると、茶席で”無事”とか”無事是貴人”という語の掛物がかけられることが多くなります。
 私たちも年末になるとおかげさまで今年も無事越せそうでありがたいことなどと話したりしますが、この語が茶席でよく使われるのはこの一年間、災難にも遭うことなく無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わし、忙しい年末でも平穏に過ぎて無事に正月を迎えられるようにとの祈りからでしょう。

 しかし、禅語としての「無事是貴人」の意は違います。
 臨済録では、「無事是貴人、但だ造作すること莫れ、祗だ是れ平常なり」とあり、当然のことを造作なく当然にやることが平常で、無事、つまり、事もなくということである、そしてどんな境遇にあっても、造作なく当たり前のようにこなしていける人こそが貴ぶべき人=仏や悟りを意味する、と。
 つまり、自分の心にある仏のような純粋な人間性を発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということになります。
 そう考えると、茶席でも、年末だけでなく、使いたい言葉ですね。

 無事是貴人を思わせるこんな逸話があるそうです。
 池ノ坊流の創始者、池坊専応は、ある時、武野紹鴎に依頼されて花を活けました。あまりの見事さに感心した紹鴎は「あなたはどんな心境でこの花をお活けになりましたか」と聞きました。
 専応は「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」と答えました。
 沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もなく、無心に一生懸命に咲いているだけ、専応は上手に活けようとか、紹鴎を感心させようと小細工をすることもなく、造作なく、素直に花を一本一本挿していっただけ、ということになります。 
 茶も点前にとらわれず、造作なく素直に点てることができるようになりたいものです。


臨済宗の公式サイトではもう少しかみくだいて説明してくださっています。

「私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違(たが)わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。
それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。
私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
 「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と、臨済禅師は喝破(かっぱ)します。
求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。」

これを読んで思い出したのですが、私がまだ入門してまもないころ、先生の言葉で心に残っていることがあります。

「お点前が上手だからよい、というものではないのですよ。
先生の言葉を素直にきいて、そのとおり動くこと。
人のことを気にせず、自分のお稽古をしっかりすること。
和を乱さず、社中の人と仲良くすること。
それが大切


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