Monday, January 16, 2012

the main street in Joseon capital city 六曹通り


http://dora-love-b.blog.so-net.ne.jp/2011-12-25-1

朝鮮人は目をそらすな!!독도 Dokdo 는 우리의 땅이다


@mrcrocent
近代化を自慢したいと思えば、朝鮮の写真を隠すことではなく、明­らかに。 最大繁華街六曹通りを隠す理由は何ですか

六曹通り 漢陽 Hanyang
http://washimo-web.jp/Trip/Seoul02/seoul02.htm


http://www.konest.com/data/spot_mise_detail.html?no=263

7.光化門
朝鮮時代の正宮、景福宮の正門として太祖4年の1395年に創建。当初「四正門(サジョンムン)」と命名されましたが、1425年に「光化門」へと変更されました。1592年の文禄の役で景福宮とともに焼失。約270年後の1864年(高宗1年)、景福宮再建の際にその姿を取り戻したものの、日本植民地時代の1927年に朝鮮総督府が景福宮東側に光化門を強制移転。1950年の朝鮮戦争で再び焼失し、1968年に鉄筋コンクリートで復元されるという波乱の歴史を経てきました。門に掲げられている額の「扁額」は、1968年の再建の際の朴正煕元大統領によって書かれたものが掲げられていましたが、2006年より行なわれた復元工事の際に高宗(コジョン)時代に書かれたのものがデジタルで復元されました。

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Seoul02.htm

現在復元工事中の光化門もまた日本との戦争と深い関わり合いがありました。1592年の文禄の役で景福宮とともに焼失。約 270年後に景福宮再建に伴ってその姿を取り戻したましたが、今度は日本植民地時代の1927年に朝鮮総督府が景福宮東側に光化門を強制移転。1950年の朝鮮戦争で再び焼失し、1968年に鉄筋コンクリートで復元されるという波乱の歴史を経てきたそうです。2006年より当時の場所に戻すための復元工事が行われており、2010年の完工の予定だそうです。

http://www.konest.com/data/spot_mise_detail.html?no=263
朝鮮時代、「六曹通り(ユッジョコリ)」と呼ばれ、王や商人、庶民たちが行き交う首都・漢陽(ハニャン)の中心道路だった世宗路。

http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/MA/MA_JA_9_6_1.jsp?cid=772926
時代漢陽の中心通りであった「光化門通り」が韓国を代表する広場として新しく生まれ変わりました。
広場のあちらこちらには、朝鮮時代から現在に至るまでの歴史の流れを一目で見ることが出来るたくさんのシンボルが隠れています。
まず、地下鉄5号線「光化門駅」から光化門広場へと続く地下道に造られた「ヘチマダン」に入ると、ソウルのシンボルであるヘチの造形物を目にすることが出来ます。更に、昨年9月に発掘されて復元させたヘチマダンの壁に展示された六曹通りの土層の原型も目にすることが出来ます。 六曹通りは、朝鮮太祖(1392~1398)の時に漢陽都城を作りながら造った道で、朝鮮時代の道路公法を見ることが出来る重要な遺跡です。

http://homepage2.nifty.com/hashim/seoul/seoul007.htm
光化門自体にも複雑な歴史があります。
・李成桂による李氏朝鮮建国(1392)の際に、景福宮の正門として造られました。
・16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵で焼失しました。
・1867年、大院君が景福宮とともに再建しました。
・1910年の韓国併合後に取り壊しが検討されました。
・1922年の柳宗悦の反対意見「失われんとする一朝鮮建築のために」などで取り壊しは免れましたが、1927年、景福宮の東側に移転されました。
・1950年、朝鮮戦争で焼失しました。(日本によってではなく、同胞によって破壊されたのは皮肉なことですね。)
・1968年に朴正熙政権によって鉄筋コンクリートで再建されました。しかし、当初の位置から北側に14.5メートルずれていました。(1968年から2006までに訪れた人が見ていたのがこれです。)
・2006年12月、韓国政府によって取り壊し作業が始められました。朴正熙時代色を薄めたい意向の表れとも言われています。
・新しい光化門は2009年に完成予定とされています。朴正熙政権がつくった所から南側に14.5メートルずらす予定となっています。当初の位置に戻るということです。

wiki
Gwanghwamun (Hangul: 광화문; Hanja: 光化門)
李成桂による漢陽遷都(1394年)の際に、景福宮の正門として建設された。
1553年の大火で焼失。
豊臣秀吉の文禄の役(1592年)のさい、朝鮮民衆に放火され再び焼失(景福宮参照)。
19世紀に大院君が民衆を徴発し再建させた。
1910年の日韓併合後、植民地期には朝鮮総督府がこの門の取り壊しを検討したが、日本の白樺派の美学者柳宗悦らの働きかけで保存されることになった。
その後、1950年の朝鮮戦争で焼失。
朴正煕大統領の時の1972年に鉄筋コンクリートで再建された。
2010年に位置を移動した上で扁額をハングルから漢字に変えたものに再再建された。



http://jp.miceseoul.com/highlights/culture-and-history.html
1395年に建てられた景福宮の名には、「新しい王朝が大きな福を享受して繁栄する」という意味がこめられており、風水思想に基づいて北方背後に主山である北岳山がそびえ、正門である光化門の前には広い六曹通り(現在の世宗路)が伸びています。その前には、 案山(風水地理で、家の敷地や墓地の向こう側にある山)の南山が連なっており、内水の清渓川が流れています。位置する場所の良さが理由か、朝鮮王朝は実に600年の長きにわたって続きました。


その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失した。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した[1]。
その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。

朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』二十五年(1592年)4月14日(癸卯)条には、民衆によって略奪・放火されたと明記されており、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』にもその時の様子が記されている。日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣『吉野甚五左衛門覚書』には「五月二日の夕くれに、都は是より一日路と聞こえし所の河バた(端)にて、都のかた詠むれバ、放火のけぶり(煙)立登り、…(中略、翌朝入京すると)…くうでん(宮殿)・ろうかく(楼閣)数々に、だいりだいり(内裏々々)に火を掛けて、上下万民ことごとく、唐国さして落ちにける」との記録がある。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に焼失したとしている。(wiki)


Gyeonghoeru (Hangul: 경회루; Hanja: 慶會樓), also known as Gyeonghoeru Pavilion, is a hall used to hold important and special state banquets during the Joseon Dynasty.[7] It is registered as Korea's National Treasure No. 224 on January 8, 1985.[7][8]
The first Gyeonghoeru was constructed in 1412, the 12th year of the reign of King Taejong, but was burned down during the Japanese invasions of Korea in 1592. The present building was constructed in 1867 (the 4th year of the reign of King Gojong) on an island of an artificial, rectangular lake that is 128 m wide and 113 m across.[8]
Constructed mainly of wood and stone, Gyeonghoeru has a form where the wooden structure of the building sits on top of 48 massive stone pillars, with wooden stairs connecting the second floor to the first floor. The outer perimeters of Gyeonghoeru are supported by square pillars while the inner columns are cylindrical; they were placed thus to represent the idea of Yin & Yang. When Gyeonghoeru was originally built in 1412, these stone pillars were decorated with sculptures depicting dragons rising to the sky, but these details were not reproduced when the building was rebuilt in the 19th century.[8] Three stone bridges connect the building to the palace grounds, and corners of the balustrades around the island are decorated with sculptures depicting twelve Zodiac animals.[8]
Gyeonghoeru is represented on the 10,000 won Korean banknotes (1983-2002 Series).
(enlish wiki)

Seoul in 1897
Korea (corea) capital, named Hanseong 한성; 漢城


Seoul. 1936
Keijo- Seoul, Korea in 1936, under Japan rule




West gate 1896, Joseon dynasty



Pyongyang, Joseon dynasty

<숭례문> by 김영택

Sketch as found in recent Chosun article. Gim Yeongtaek (김영택) based his 2007 work on pictures from 1900, right before Seoul came to have street cars and utility poles.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A4%BC%E9%96%80

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