http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf
http://space.geocities.jp/japanwarres/
雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る
浅野豊美
dead talks, Comfort women at the forefront in Yunnan-Burma
by ASANO Toyomi
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/521.html
1 はじめに《浅野論文》
雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る
1 はじめに《浅野論文》
注《浅野論文》
北ビルマ戦線で連合軍の捕虜となった日本軍「慰安婦」(以下括弧を付けずに用いることとする)の尋問記録と写真が発見され、それが話題を呼んでから既に5年余りが経過している。慰安婦達のその後の足跡を探るべく、筆者は1997年に米国で計40日余、1998年に台湾で8日余、関連資料の存在状況に関する予備的な調査を行った。残念ながらその足跡を現代にまで辿ることのできるような核心的な資料は今のところ発見できていない。しかし、その過程で北ビルマにおいて、慰安婦達が連合軍側に収容される前後の日常生活と戦線の状況を物語る数多くの写真資料と若干の文字資料を得ることができた。以下の本論では、こうした材料をもとに、社会史・国際政治史的な関心を織り込みつつ、いかなる環境の下に慰安婦達の生活は置かれていたのかについて、個人的な推測をまじえつつ論じてみたい。
慰安婦問題に関しては、強制性の有無・軍の関与の度合いという点に関して、論争が展開されてきた。しかし、よく考えてみると、こうした問題は慰安婦が呼び集められる過程、もしくは通常の慰安所の運営に関するもので、資料的な制約もあり、静態的な制度分析や統計を主な分析手法として依拠せざるを得なかった1)。しかし、筆者は総力戦体制下に出現した慰安婦制度が、それまでの公娼制度とどのような面で継続性を持ち、どのような面で断絶性を有しているのか、その性格が最も端的に示されるのは、最前線の戦場であると考える。戦場という生死を分ける極限的状況の中で、慰安所はどのような様相を呈していたのであろうか。本論は、北ビルマをケースとして分析を進め、慰安婦制度の有した性格の新たな側面を明らかにすることに貢献せんとするものである。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/522.html
2 北ビルマにおけるインパール作戦後から終戦に至る戦況
雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る
2 北ビルマにおけるインパール作戦後から終戦に至る戦況
注《浅野論文》
1944年初頭から開始されたインパール作戦が春を過ぎ敗色濃厚となる中、連合軍は逆に北ビルマと雲南方面から総反攻を開始した。慰安婦が大勢送られていた北ビルマでの本格的戦闘は、雲南前線方面では1944年5月11日から、最北端に位置するミチナ(ミイトキーナ)2)飛行場周辺では5月17日から始まった。激しい戦闘行為が終了し日本軍の抵抗が止んだのが、ミチナにおいては、8月3日の夕刻、雲南方面の拉孟(松山)では9月8日、騰越では9月14日である。
北ビルマと雲南方面の戦略的な重要性を踏まえつつ、この間の戦闘の経緯について述べよう。連合軍の北ビルマ反攻の戦略目的は、レド公路の開通にあった。これは、ベンガル方面から伸びるアッサム鉄道の終点にあたるレドから、アラカン山系を越えてミチナ→騰越→保山(もしくは→騰越→拉孟→保山)→昆明、そして重慶に到る援蒋ルートを再開することにあった。一方の日本軍は、南方の資源地帯と日本本土周辺を中国大陸の鉄道網を使って結び、海からの商船輸送が潜水艦攻撃によって途絶したとしても、それに代わる陸の鉄道交通網確立を目指して、大陸打通作戦を展開していた。北ビルマの確保は、重慶を中心とする中国の抵抗力を弱め、陸による南方圏との連結を目指す日本側の戦略目的達成のために不可欠であった。
ミチナは、レド公路がイラワジ川を横切る要所で、それを越えると中国の雲南省に入る。騰越は明代以来の古い中国の城壁都市で、人口が4万人余りでその地方の中心であった。拉孟は騰越の少し南に位置し、イラワジ川の更に東に位置する怒江(サルウィン川)を渡る要所で、恵通橋という橋が架かっていた。この橋は、中国軍が退却する際に自ら破壊したため、そこが北ビルマの日本軍と、重慶・昆明を拠点とする中国軍の勢力を分ける境界となっていた。怒江の更に東には、メコン川があり、その間に保山という中国側の抵抗拠点があった。メコン川をわたれば、大理の近くを通って昆明に抜け、そこから重慶に至るという道筋であった。
また、最初の中継地の北ビルマ領内に位置するミチナは連合軍が航空路の安全を確保するためにも重要であった。それは、そこがビルマ北部の山間に開けた唯一の台地であり、西と北と東の3ヶ所に、それぞれの方角の名前を冠した飛行場が敷設されていたためであった。日本軍は、インドから重慶へと向かう補給用の航空路を遮断するためにミチナの飛行場から哨戒活動を行っており、このために連合軍の補給航空機は、ヒマラヤ山脈を越え大幅に北回りの航路をとって迂回しなければならなかったからである。
図1防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』(以後『イラワジ会戦』と略す)朝雲新聞社、1969年、付録「ビルマ素図」より引用)
北ビルマへの侵攻は、スティルウェルを司令官とする駐印軍の飛行機を使ったミチナへの攻撃と、中国人を司令官とする雲南・ビルマ遠征軍(第20集団軍)の怒江渡河、沿線主要都市の攻撃という、2つの異なる方向からの同時攻撃によって開始された。ミチナの西飛行場がすぐに占領されて以後、日本軍はその後方にある市街地へと退却し、自然の地形を利用して防御を続けた。フーコン峡谷からぞくぞく進行してくる連合軍をミチナより少し鉄道で南に下ったモガウン付近で押しとどめるための作戦が第18師団によって行われており、雲南方面から進行した中国のビルマ遠征軍に対しては第56師団による防戦が展開されていた。そのため、元来18師団に属していた丸山大佐を中心とするミチナ守備隊への兵力補充は思うに任せなかった。雲南方面を守備する第56師団に対しては、ミチナ守備隊に対して、応援部隊を派遣するように、第33軍から直接命令が下されたが、第56師団の参謀長の独断により、応援部隊の人員は極端に減らされ、増援部隊として派遣された水上少将には、十分な兵力が与えらないこととなったのである。また、雲南方面でも防衛の核となる決戦地が、怒江沿岸から東に入った内陸部の龍陵と決定されたために、沿岸に近く北に離れた騰越や拉孟の守備隊は完全に孤立し、やがて籠城戦を経て玉砕していくこととなる。以上が、ミチナと、雲南方面の大まかな状況である。次に、拉孟、騰越、ミチナの順で、慰安婦関係の断片的な資料をもとに各地の詳細な戦況と関連させつつ、どのような戦況下で慰安婦たちが死亡し、或いは捕虜となっていったのかを論ずることとする。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/523.html
3 拉孟近郊の松山陣地
雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る
3 拉孟近郊の松山陣地
注《浅野論文》
まず、写真Aをご覧頂きたい。これは、既によく紹介されている写真であるが、「松山」という場所で、1944年9月3日に撮影されたものである。松山とは、日本側で拉孟(中国語の表記は、「臘猛」)と呼び習わした街の近郊にある山の名で、日本側が強靭な陣地を構築して最後まで立てこもった場所である。
写真A 1944年9月3日松山にて アメリカ写真部隊撮影
この写真のキャプションには、「ビルマロード上の松山という地点の村で、中国第8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本女性」3)と記されている。一見して目に付くのは、汚れた着衣、1人の妊娠したお腹、左脇に笑顔で屈んでいる男性、その横に転がっている捕獲されたとみられる銃、などであろう。松山陣地と拉孟市街、ビルマルートとの関係については、図2を参照されたい。
図2防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、284頁より引用。
この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である4)。「ラウンドアップ」の同年11月の記事によると、松山で捕虜となった慰安婦は、朝鮮人が4人で日本人が1人とされており、写真に出てくる慰安婦4人と同じである。また合計で5人という数字は、中国側でビルマ遠征軍司令長官から蒋介石に送られた9月7日の記録5)に、「敵婦五名」を「俘虜」にしたとあることからも裏付けられる。
「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。ビルマと雲南の国境地帯を北から南に流れている怒江(別名:サルウィン河)前線から寄せられたものと但し書きがついている。また、ランドル記者が慰安婦にインタビューをした際に通訳を務めたのは、「満州から脱出してきた日本語を話す中国人学生」で、恐らく写真の左端に笑顔で写っている青年がそれだと考えられる。
写真から一見してわかるのは、過酷な環境に長期間置かれてきたことである。写真に写っている汚れた着衣は、船がシンガポールに寄港した際に買った綿製の洋服であったという。2年間にかくも汚れてしまったわけだが、特に6月7日から3ヶ月間に及んだ孤立無援の戦いの中で、着の身着のままの状態が長く続いたのであろう。それは衣服のみならず、髪の毛の様子からも窺われる。7月中旬に第1貯水槽が破壊されると、水道施設の機能は停止し、守備兵は夜間に水袋を背負って川まで降りて給水を続けたという6)。水が欠乏していたのである。
インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。
1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC" organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。
行き先が、シンガポールのはずであったのに、ビルマの北の果て、最前線に実際は送られたことに対して、彼女たちには何の説明もなかったことが分かる。況や、そこがどのような場所で、いかに危険な場所であるかに対しても、何の説明も行われなかったのは明確であろう。
一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。この日本人女性は35歳で、それまで職業として売春を行ってきた人物である。彼女も松山の包囲掃討作戦の最中に同じように捕虜となった。この女性の写真と考えられるのが、写真Bであり、写真Aと同じ場所で同じ9月3日に撮影されたものである7)。写真から丁度35歳ぐらいの日本人女性であることが分かるであろう。松山で捕虜になった日本人女性は9月7日にもさらに1人いたことが、写真C8)からもわかるが、写真Bの日本人女性と4人の朝鮮人慰安婦の写真が、松山で9月3日に時間と場所を同じくして撮影されていること、先に紹介したように、9月7日付の中国軍記録でも5人の「敵婦」が捕虜となったとされていること、以上の2つから考えて、この監督をしていた35歳でプロの売春婦上がりの日本人女性というのは、この写真Bの女性に間違いはなかろう。すると、写真Cの女性のことが気になるが、『ラウンドアップ』の当該記事の冒頭では、合計で10人の日本と朝鮮の女性が捕虜になったと記されていることから、写真Cの女性を含め、9月3日以後徐々に、慰安婦の数が増えて、『ラウンドアップ』のいう10人に達したものと考えられる。
写真B1944年9月3日、松山にてアメリカ写真部隊撮影
写真C 1944年9月7日、松山にてアメリカ写真部隊撮影
更に記事は続く。松山には全部で24人の女の子がいて、「慰安」以外にも兵士の衣服の洗濯や料理、洞窟の清掃などの義務があったという。しかし給料は全く支給されず、故郷からの便りも届かなかった。中国軍が松山を攻撃した際に、女の子たちは地下壕に避難したが、元々いた24人のうち、14人は砲撃によって殺害された。日本軍兵士からは、もし中国軍に捉えられたら、ひどい暴行を受けることとなると教え込まれ、皆その話を信じきっていたという。彼女たちは国元の家族を守るため本当の名前は口にしたがらないが、この2年間に強いられた生活で、日本人の指導者達に対するかつての無邪気な信頼はすっかりひっくり返ってしまったと異口同音に語っていた。
以上紹介した記事の中で、第1に印象深いのは、手紙が届けられず、報酬も貰えなかった点である。末端の兵士にとって何より元気付けられる故郷からの手紙は、慰安婦達にとっても同様であったはずである。身寄りの少ない貧しい女性を中心に慰安婦を選んだとしても、故郷に全く音信を伝える必要がないわけがなかろう。記事に出てきたような怪我をした父親と、何らの連絡も取れなかったというのはいかなるわけであろう。精神的な支えもなく、給料という現実の報酬もなく、「慰安」と兵士の身の回りの世話に追われる彼女たちの実態は、「奴隷」とさして変わらなかったのではなかろうか。慰安婦の生活を戦況の中で考察してこそ、こうした位置づけが意味を持ってくると考える。実際に彼女たちを拉孟に連れて行った女衒である「K」について、以下のような会話が記録されている9)。
「悔しい思いをしとります…」それは、1943年のことだ。彼の慰安所にいた「慰安婦」達も各地を転々と移動したが、拉孟の部隊に行った頃から戦況は悪化の一途をたどり、とうとう中国軍に包囲され、身動きできなくなった。その頃K氏は軍御用商人の仕事に移り、彼の手から離れた「慰安婦」達は、実質的には部隊付きになっていた。「私の友人の下士官に女の行方を聞いたんですよ。そしたら、慰安婦を壕に入れろという命令が下り、その直後に手榴弾を投げ込んで殺したというんですわ」
この回想の中の1943年は、実際は、1944年の誤りであろう。手榴弾を投げ込んだことに関しては、中国軍の9月6日の記録の中に、松山の「黄家水井」に日本軍の死体が106体、遺棄されており、その中に中佐の死体1体、「女屍」6体があったことを付け加える10)。もしかしたら、これが「壕に入れろという命令」により、手榴弾を投げ込んで殺した慰安婦だったのかもしれない。
最後に象徴的なのは、船で南方へと出港する際に、吹き込まれた共栄圏の理想が、最前線での生活の中で恐ろしいまでに裏切られていったことであろう。それは、慰安婦を連れていった「女衒」達にとっては、最前線に送り込まれる女性達の不安を鎮めるためにした物語のようなものに成り果てていた。アメリカのランドル記者の取材が、そうした日本人や朝鮮人のモラルや動機に向けられていたことが、『ラウンドアップ』の記事から読みとることが出来る。この点は、後述するミチナのケースで、心理情報作戦を遂行するための材料収集を目的として、慰安婦の尋問記録が残されたことと考え合わせ、資料として残される記録自体の性格や歴史的価値を吟味する上で興味深い。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/528.html
注
- 当事者の記憶との乖離を埋めることができなかったのは、そのような分析手法にも問題があったといえるかもしれない。
- 英語名は「Myitkyina」、中国名は「蜜支那」、よって日本側では「ミイトキーナ」或いは「ミチナ」と2通りで呼ばれた。ビルマ語の発音に近いミチナを使うこととする。
- RG111 SC230147( BOX85)( National ArchiveⅡ Washington D.C. )CBI-44-29969 3SEPT.1944 LOT #10158..写真裏面のキャプション原文は以下の通り。PHOTOG:PVT. HATFIELD; FOUR JAP GIRLS TAKEN PRISONER BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY AT VILLAGE ONSUNG SHAN HILL ON THE BURMA ROAD WHEN JAP SOLDIERS WERE KILLED OR DRIVEN FROM VILLAGE. CHINESE SOLDIERS GUARDING GIRLS.
- RG338 Records of Allied and US Army commands, CBI Theater of Operation RG338-290-D-5-3 Public relation Section Box (OldSystem) No. 791-792 : Roundup(日時不明1944年11月).『ラウンドアップ』は、CBI(中国-ビルマ-インド)方面に駐留するアメリカ軍が出していた週刊新聞。The CBI Roundup is a weekly newspaper published by and for the men of the united states Army Forces in China, Burma and India from news and pictures supplied by the staff members, soldier correspondents the United press and the war department. この記事は、同資料を切石博子調査員の協力の下で、筆者と秦郁彦日本大学教授が閲覧している最中に、同教授が発見されたものである。また、ワシントンの資料館で長期間独自に資料調査を進めていらっしゃる方善柱杏林大学教授も、既にこの資料を発見しておられ、当地で面会した際にこの資料の存在について御教授頂いた。関係の方々、特に粘り強く資料閲覧を続けられ、快く資料の提供に応じて下さった秦教授には改めて感謝申し上げたい。
- 松山が9月7日午後4時に完全に中国第8軍主力によって制圧された際に、「敵軍九名、内有中尉一員、此外並俘敵婦五名」を「俘虜」にしたとある。「遠征軍司令長官衛立煌自保山報告攻占松山及俘獲與我軍傷亡情形電-民国三十三年九月七日」『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編 作戦経過』中国国民党中央委員会党史委員会、1981年、505頁。この史料の存在と閲覧に関しては、台北にある中央研究院近代史研究所の研究員、朱浤源氏と、その弟子の林宗達氏から便宜を賜った。朱浤源氏は駐印遠征軍中の将軍に関する伝記研究を長年にわたって進めている。孫立人は、蒋介石と共に台湾に渡った後、一時はアメリカとの個人的パイプ故に全軍の司令官ともなったが、やがて蒋介石から疑いを掛けられ長期間軟禁状態に置かれてきた。こうした個人的パイプは、ビルマでの戦いの最中に築かれたものであるし、台湾で孫立人が初めて台湾で組織した、「女青年大隊」は、ビルマ戦線で目撃した米軍の女性部隊をモデルとしたとも考えられる。いずれにせよ、朱浤源氏は、孫立人が台湾の民主化によって解放された直後に、孫立人と面会しインタビューもしておられるので、近く長年の成果をまとめられる予定である。関係資料についての閲覧をさせていただいたことに対して、厚く感謝申し上げ、孫立人研究の一刻も早い完成を願って止まない。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、277頁。
- RG111 : SC230148 写真の裏側には、以下のようなキャプションが付されている。A JAPANESE GIRL CAPTURED IN VILLAGE ON SUNGSHAN HILL BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY. WHEN ALL JAP MEN WERE KILLED IN CAVE, THE CHINESE SOLDIERS FOUND THIS GIRL HIDING IN CORNER OF CAVE. CHINESE SOLDIERS CALLING ARMY HQS. TO TELL OF THE CAPTURE. (大文字原文)
- RG111 : SC247349。9月7日に撮影された写真には以下のようなキャプションが付けられている。Tec 5 Myer L. Tinsley, Yarnaby, Okla., gives first aid to Japanese girl wounded by Chinese 8 th Army artillery and taken prisoner from cave on Sung Shan Hill where Jap soldiers were all killed trying to hold the cave. Two Chinese soldiers display captured Jap flag. China, 9/7/44; Signal Corps Photo #CBI-44-29992(Pvt. Charles H. Hatfield), from 164 Sig Photo Co, released by PRD 7/15/46. Orig. neg.Lot 12541 pg.
- 西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、136頁。
- 陸軍一級上将黄杰『嗔西作戦日記』国防部史政局、1982年、307頁。
- 前掲『イラワジ会戦』、289頁。
- RG111 : SC212091(CBI-44-60370)キャプションの原文は以下である。15 Sept 44 PHOTO BY T/4 FRANK MANWARREN BODIES OF JAP TROOPS AND WOMEN (下線部は手書きにより挿入)KILLED IN THE CITY OF TENGCHUNG WHEN THE CHINESE TROOPS STORMED THE TOWN.
- CBI-44-60371, 15 Sept 44 PHOTO BY T/4FRANK MANWARREN BURIAL PARTY STARTING TO WORK AT INTE□□NG(2文字手書きにより修正、INTERRNGと読める。しかしINTERROGの書き間違えか)THE WOMEN KILLED AT TENGCHUNG WHILE THE JAPANESE AND CHINESE TROOPS FOUGHT OVER THE CITY. MOST OF THEM ARE KOREAN WOMEN KEPT INT HE JAP CAMP.
- 前掲『イラワジ会戦』、80-87頁。
- 陶達綱『嗔西抗日血戦写実(民国三三年-三四年)』中華民国国防部史政編訳局、1988年。
- 中国語原文は「狼狽不成人形」。眼をぎらぎらさせ、髪の毛が汚れきった浮浪者などに使う言葉で、日本語の狼狽とは異なる。この点は、坪田敏孝氏からご指摘頂いた。
- 「遠征軍第二十集団軍総司令霍揆彰自保山報告攻占来鳳山及騰衝経過電-民国三十三年九月十四日」、中国国民党中央委員会党史委員会『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編作戦経過』1981年、507-508頁。
- 三浦徳平『一下士官のビルマ戦記-ミートキーナ陥落前後』葦書房、1981年、247-248頁。
- 前掲『イラワジ会戦』、59頁。
- カール・ヨネダ『アメリカ情報兵士の日記』PMC出版、1989年、100頁。
- 前掲『イラワジ会戦』、53頁。
- RG111 : SC262578 写真の裏に付いているキャプションの原文は、以下の通り。Sgt. Karl Yoneda, San Francisco, Calif., Japnese interperter( interpreter の誤りか), questions Kim a Japanese "Comfort Girl" at the M.P.Stockade on the Air strip, while Edward J. St.John, Franklin, Maos. Stands guard in the rear. Kim served as a nurses aid in Myitkyina. Burma, India. 3 Aug 1944. (財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成⑤』(以下『政府調査資料⑤』とのみ記す)龍溪書舎、1998年、215頁にも、同写真及びそのキャプションが写真製版にて掲載されている。
- カール・ヨネダの日記を翻訳したとされる、『アメリカ情報兵士の日記』(PMC出版、1989年)によれば、その経歴は以下の通り。1906年ロサンゼルスに生まれる、1913年来日、広島中学校に学ぶ、1926年帰米後、労働運動に従事、1933年アメリカ共産党日本語機関紙『労働新聞』主筆。1942-45年米軍情報部軍曹として従軍、1957年国際沖仲仕・倉庫員組合の活動家、1983年サンフランシスコより名誉表彰状。この経歴には、書かれていないが、戦後のマッカーシズムの時代には、元OWIのオーウェン・ラティモア同様ひどい弾圧を受けたはずである。
- ヨネダ、前掲書、4-5頁。
- 同上、74頁。
- 同上、96頁。
- 同上、97-98頁。
- 同上、101頁。
- 同上、109頁。
- Won-loy Chan, Burma The Untold Story.,Presidio Press, 1986, pp.3~4.
- 同上、pp. 92-93.
- 原文は、"Kim was a "comfort girl" and looked the part in an above-the-knee length dress that was obviously all she was searing." 西野留美子は、「looked the part in ~dress」の部分を、「膝上までの衣服しかつけていないように見えた」と訳しているが、これはlookが第2文型の動詞であり、その補語として、the part が機能しており、theという定冠詞が、その直前のcomfort girlを指していることを見逃している。英語構文の理解が不可能なまま、何とか日本語にこじつけた訳といわざるを得ず、チャンからは彼女が慰安婦という役のように見えたというのが直訳である。西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、131-132頁。
- Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49., October 1, 1944. RG226 OSSE154 BOX 102 FIELD STATION FILESKANDY - REG - INT -7 thru 8 A-1, Entry 154, OWI miscellaneous material. この資料の写真製版は、『政府調査資料⑤』203-209頁に収録されており、日本語訳は吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、439-452頁に掲載されているが、脱出の経過に関しては449頁を参照。
- 東南アジア翻訳尋問センター「心理戦尋問報告第二号」1944年11月30日、吉見編、前掲書、459頁。
- 前掲書。
- Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.48(Interrogation of Miyamoto Kikuye)RG226 OSS E154 BOX 101. この資料を最初に発見されたのは方善柱先生であり、「米国資料に現われる韓人〈従軍慰安婦〉の考察(韓国語)」(『国士館論叢』第37集、1992年)という論文がまとめられている。その中ではキムが、最初慰安婦とされたものの、実は、看護婦であったことが、日付を根拠に簡単に触れられている。またこの尋問記録は、キムがひどい差別的待遇に置かれてきたことを証明する資料として位置付けられている(234-235頁)。
- Chan、前掲書、94頁。ここで、チャンはミチナ陥落の3日の時点で、約21名の慰安婦がそこにいたとも述べているが、チャンの意図は、3日に少なくとも21名がいて、その内1人は3日の時点で捕虜になり、その残りの20名余が3日の夜に脱出し、1週間後に捕虜となったという形の事実理解を組み立てることにあった。これを見ても、慰安婦達の脱出が、実は31日の夜であったという尋問記録をチャンが見ていないのは明らかである。
- 前掲『政府関係資料⑤』215頁。
- 前掲『イラワジ会戦』51、53頁。
- 吉見編、前掲書、452頁。
- 同上、459頁。
- 同上、458-459頁。
- 同上、464頁。
- 菊山砲第十八連隊史編集委員会「砲声」(太田毅『40年目のビルマ戦』葦書房、1983年、237-238頁より重引)
- 吉見編、前掲書、456頁。ハ(河)の名前は、Hとのみ記載されている。
- RG226 OSS E154 BOX 101 Interrogation of U KIN NAUNG and TAN LEO.
- 文玉珠語り・森川万智子解説『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、179-180頁にも、ビルマ中部にあるビルマ第2の都市マンダレーに駐留した55師団が、イギリス軍の残したスコッチウィスキーや、武器・食料・車両を自由に使っていた記述がある。
- 和田春樹「『慰安婦』問題の歴史を考える」、大沼保昭・下村満子・和田春樹編『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、8頁。
- この説は、筆者が、ワシントンで調査をしていた折、方善柱教授から最初に示唆を受け、それを更に私なりに展開したものである。
- Chan、前掲書、95-97頁。
- 西野、前掲書、133頁にも、同じ個所からの翻訳があるが、何故慰安婦達が笑い、泣き出したのか、チャンは何故胸を締め付けられるように感じたのかについて、訳出に誤りがある。
- ラングーンにいた朝鮮人の慰安婦は、「アリラン部隊」と呼ばれていた。榊山潤『ビルマ日記』南北社、1963年、194頁。55師団司令部付の慰安婦であった、文玉珠も1942年7月10日釜山から出発した輸送船に、ミチナに送られた女性達と共に乗り込んでいたが、船中では出身地対抗演芸会が頻繁に開かれ、朝鮮各地域の様々なバリエーションのあるアリランが最後に歌われたという。この船には、全部で703名の朝鮮の女性達がのっており、もしかすると、拉孟に送られた慰安婦達も、6月ではなく7月にこの船で送られたのかもしれない。文玉珠、前掲書、52、181-182頁。
- Chan、前掲書、95頁。ここでチャンは、「それまで女性の売春婦が日本人に奉仕しているという話を聞いたことはあったが、半分しか信じていなかった。しかしそれが今目の前にいる」という表現で驚きを示している。これを見ても、最初に捕虜となったキムのことを「慰安婦」と認定したのは、後のことであることが分かる。
- 文玉珠、前掲書、182頁。
- 小野沢あかね「『国際的婦女売買』論争(1931年)の衝撃-日本政府の公娼制度擁護論破綻の国際的契機-」、津田塾大学『国際関係学研究』No.24、1997年、93-110頁。1931年来訪した国際連盟婦女売買調査団に対し、日本政府は公娼制度を擁護すべく、強制性を伴わない売春斡旋を婦女売買とは認めないとする見解に立って反論したが、前借金契約の違法性や、女衒などの芸娼妓斡旋業の不道徳性自体に対しては沈黙せざるを得ず、それが内務省をして公娼制廃止へと歩み出させるまでに至ったことが述べられている。日本軍による慰安婦制度は、こうした前借金契約の違法性を不問にし、売春斡旋業者を許可制とし管理することを本質としていたといえよう。
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