Friday, February 10, 2012

Change of wartime regime and women's gender in Korea By Park Sunnyo

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5283/7/Honbun-4173_04.pdf


V.戦時体制と女性性の変化



 紺の制服スカートのひだも二十六であった。二十六から一つ多くても、一つ足りなくてもやはり服装違反になった。スカートの長さは地上三十センチ。朝会時に二百名の女学生たちが並んで立っているのをみると奇異な光景であった。一定の空間に一直線に引いた少女たちのスカート。しかしこの女学校の少女たちはその厳しい規則でさえ一種の自負心をもって守っていった。それはこの学校が都内で唯一の公立学校であるということからくる優越感であった…戦争が土壇場になるとわが学校の厳しい規則は角度を異にし、率先戦闘体制に入った。その結果、日本紀元二千六百年代に生まれた少女たちといって二十六のひだを立たせたわれわれの紺の洋服スカートはモンペに変わった。カバンの代わりに背なかには国防色のリュックサック、そして脇には綿を厚く入れて刺し子にぬった黒い防空帽が背負われた…われわれは作業なかにもショートパンツの代わりにだらりとした長いモンペを着なければならなかった。男子学生も動員され来ている作業場で皇国娘たちの素足を出してはまたどんなことが起きるか分からないからである。
           パク.スンニョ1


 日中戦争をきっかけに総動員運動が始まって以来、生活刷新という名で施行された日常生活への統制には、パーマネント.ウェーブや華美な化粧と服装を禁止する、女性の服装と容貌への規制が含まれていた2。1940年以後、民族系新聞と女性雑誌の廃刊、言論統制などで量的に以前ほどではないが、植民権力側の統制と介入をはじめ、戦時にも持続的に女性の服装と容貌を論じる記事が掲載された。女性性あるいは女らしさの本質は固定されたものではなく、歴史的に偶発的であり、競合されるものと指摘された通り3、戦争という社会的危機は女性の外みの美しさに対する統制だけでなく、女性性の本質に関する新たな言説や論議を生み出すようになった。こうした言説は植民権力と男性知識人、女性たちの間で共通した性格もあるが、各社会集団がそれぞれ処した政治的、社会的利害関心と目的によっておのおの違う方式で女性性を規定しようとした点が浮き彫りになる。よって、ここでは服装と化粧、ヘアスタイルを含んだ女性の容貌をとりまく全般的な変化をのべるよりは、それぞれの集団が規定する女性性の概念と意味の差異と変化を表すために、開化期から戦時に至るまで女性の容貌を取り巻いて繰り広げられた論議をつうじていかなる過程で女性性が再定義され、女性の身体と服装が政治的勢力競合の場になったかを探る。
1 パク.スンニョ「アイラブユー」『韓国短編文学選集13』(正音社、1972)66-7頁。
2 「生活刷新の強化」『総動員』1939.8.18-20頁。
3 Phil Goodman, “‘Patriotic Femininity’: Women’s Morals and Men’s Morale
during the Second World War,” Gender & History, Vol.10 No.2 August 1998, pp.278-93.

A. 日中戦争以前までの女性の容貌変化と女性性の定義

 儒教が支配する前近代社会における女性の外的美しさとその追求は警戒の対象であった。両班層女性は外部の視線が届かない家の奥の女性だけの空間に蟄居し、服装は身体の線を隠す形態であった。女性は外み美よりは内的美徳を備えるため努力するよう期待され、容貌は常に清潔と端正の維持のみが強調された4。外形的に理想的女性像は男の子を産む確率が高いように健康で豊満な体格であった5。こうした女性像は所帯の暮らしを担い、跡継ぎ息子を産まねばならない妻に適用される基準であった。妾をもつことが容認されていた前近代社会で男性の性的欲望の対象であった妾や妓生6
にはみた目の美しさが求められた。こうした二重規準によって両班家の女性たちの華美な化粧や服装の流行は男性によって批判され、統制の対象であった7。
 19世紀末、鎖国政策を続けた伝統社会から諸外国の圧力による開港と修交を締結する政治的変化のなかで、伝統的服装とヘアスタイルも変化の圧力にさらされた。1881年と1883年日本と合衆国を訪問した外交使節団の韓服姿は訪問地の人々を驚かせたが、彼らは帰国の際には洋服を買ってきた。その後、こうした官吏の洋服の接触により二度の衣制改革で官服を簡素化した。1895年には「断髪令」を下し、王と大臣たちがまげを切って断髪をし、1900年には官吏の服装を欧米式に改めた8。乙巳条約9以後、日本の政治的干渉と圧力、伝統的儒教思想、その短期間の強制的施行のため断髪と西洋式服装は儒教知識人だけでなく、民衆の間でも初期には反発と拒否感をもたらした10。政治的に開化派は洋服、守旧派は韓服に固執し、服装はそれ自体のもつ実用性よりはむしろ政治的意味がより大きい重要性をもつようになった。
4 前掲『韓国の女訓』62頁。
5 チョン・ワンギル他『韓国生活文化100年』(ジャンウォン、1995)45頁。
6 妓生は日本の芸者に相当する。
7 「化粧をし、きれいな服装を着るものは妖邪な婦人であり、髪の毛が乱れ頬に垢があるものは怠惰な女だ…紅と白粉を濃く塗ると小鬼とどこがちがうのか!そうしたことから昔の人は婦人が時俗によって装うのを許さなかった。」前掲『韓国の女訓』62-3頁。
 女性の髪と服装は断髪令と洋服着用といった近代的国家改革の対象に含まれなかった。しかし、女性の服装とヘアスタイルもやはり開化の流れのなかで変化し始め、その過程は植民勢力と既得権層である男性集団間の勢力競合から自由ではなかった。断髪と洋服を着用した高宗とともに皇妃厳妃も当時西洋で流行したS型シルエットのドレスを着た。最初の海外留学生であったユン.チオの夫人イ.スクキョンや合衆国公館長のキム.ユンジョンの夫人コ.スンヨンなどが合衆国からの帰国時に夫とともに洋服を着用した11。開化期これら少数上流層女性たちの洋装は、夫と同行した外国旅行先であるいは国内で、社会的地位上開化した文明人としてみられるために洋服を選んだ夫によって要求され、また特権的地位の象徴でもあった。彼女たちのドレスは当時西洋で流行していた非活動的で装飾的なスタイルであり、また彼女たちが一般女性と接触があまりない上流層であったために、一般女性の服装にまでは影響を与えなかった。上流層の女性以外に最初の女子西洋医パク.エスタやハ.ランサのように20世紀初期合衆国に留学した女性たちも帰国時には洋装であった12。彼女たちは帰国後洋装で活発に社会活動をしたが、当時洋裁法の発達や製作条件、西洋生地の入手条件上、彼女たちの洋装も洋服の導入と普及へ直接的な影響を及ぼさなかった。
 女性衣服に関する論議は、国家の近代的改革のためには女性の社会的地位向上と女性教育が必要である、という改革論者の論議から出発した。つまり、女性教育の必要性の台頭により、女性の外部への出入を制限した朝鮮時代内外法の問題点が指摘され始まったのである。これにより女性が外出時着用せねばならなかったジャンオッやスゲチマ13着用の不便さが指摘されたが、これらを廃止する代わりに傘携帯の上疎を提出した14。「女子教育会」では女性たち自らジャンオッ廃止を主張した15。これとともにジャンオッの代わりに男性の外出着であるトゥルマギを着る女性も増え始め16、またジャンオッの代わりに帽子着用を奨励する論議も起き、帽子製造会社も設立されたが、帽子はあまり普及しなかった17。要するに、ジャンオッを一挙に廃止せず、帽子や傘を使用し依然として身体の一部をある程度隠そうとした傾向から、内外法によって身体露出を忌避する慣習が女性自身たちに如何に強く体化されていたかがわかる。
8 ユヒギョン.キムムンジャ『韓国服飾文化史』(キョムンサ、2002)345-9頁。
9 1905年韓国と日本が結んだ条約で、植民化する前に日本が韓国の外交権などを奪う五つの条文からなっている。
10 ユ・ソンオク「開化期西洋服飾流入の衝撃と受容」『伝統文化と西洋文化<II>』(成均館大学校出版部、1987)250頁。
11 ナム.ユンスク「韓国現代女性服飾制度の変遷過程研究」(世宗大学校家政学科博士論文、未刊行、1989)70-3頁。
12 ユ.ヒギョン『韓国服飾史研究』(梨花女子大学校出版部、1989)641頁。
 ジャンオッ廃止とともに活動に不便な韓服の改良を主唱する論議が台頭し、1906年帝国新聞の論説は政府が女子衣服の上下を同色にし、当時流行していた短い上衣を長くすることを提案した18。「女子教育会」でも女子衣服の改良問題はその定期的討論会の重要主題の一つであった。この団体では改良服の具体的考案を添付した建議文を政府へ提出し承認を受けた。彼女たちが提示した改良韓服は実用性を重視し濃い色の生地を使用し、上衣を長くしたうえ、スカートは動きやすいように筒状に縫い合わせた形であった19。
 こうして女性の衣服改革は男性の場合のように国家改革により短期間で洋服に変わったのではなく、民間の論議を経て徐々に始まった。改良された韓服をいち早く着始めた集団のなかには20世紀初期西洋宣教師からキリスト教を受け入れ、それを伝播するために社会活動をした伝道婦人たちがいた。彼女たちは西洋女性の服装に注目し上衣を長く、胸幅を多少大きくしたうえ、スカートは膝下まで短くし、幅を減らして動きやすいようにしたが、こうしたスタイルは一般女性にまでは拡がらなかった。むしろ一般婦女子たちの間では足を覆う長いスカートと朝鮮中期以後の非常に狭い袖と短い長さの上衣の流行が続いた20。したがって、同じ韓服でも、形においてキリスト教信者や社会活動をする女性とそうでない女性との間に大きい差が生じるようになった。髪形も伝道婦人たちは従来とは異なるスタイルをした。トレ髪という髪型はソウルのミッション系女学校の上級班女学生の間ではやったスタイルであった。しかし、次第に伝道婦人たちがこの髪型をまね、教会まげあるいは伝道婦人まげとも呼ばれるようになった21。1920年代平安道安住では婦人の間でこの髪型がはやると、男性たちはそうした髪形をした女性に対し、村の公共施設の使用を禁止する制裁を加えた22。これは西洋宣教師をつうじて宗教を受け入れた女性は宗教だけでなく、他の文化的要素も受け入れたことを意味し、またソウルの女学生集団を中心に生まれた流行に対しても開放的であったことを示す。これとは対照に外国文化受容を拒否した男性集団は従来の自分たちのジェンダー体系における優位を失わないために、男性より先に西洋文化に開放的な女性の行動を牽制しようとしたことがうかがえる。
13 頭から膝下まで覆うベールのようなもの。
14 『帝国新聞』1898.10.12.
15 パク・ヨンオク『韓国近代女性運動史研究』(韓国精神文化研究院、1984)87頁。
16 前掲「開化期西洋服飾流入の衝撃と受容」256頁。以後トゥルマギは女性韓服の外出服に普遍化した。
17 前掲『韓国近代女性運動史研究』54頁。
18 『韓国服飾史研究』640頁。
19 前掲『韓国近代女性運動史研究』92-4頁。彼女たちのデザインには上衣とスカートをつなぎ縫ったワンピース形態もあった。
20 前掲『韓国服飾文化史』296頁。
 女性の服装と髪型により可視的変化をもたらしたのは女学生集団であった。1908年設立の最初の女子官立学校であった漢城高等女学校(現在の京畿女高)は設立時から女性の非活動的かつ非経済的な服装改善のために、韓服を改良して上下を黒にし、従来のジャンオッやスゲチマの代わりに黒い傘を携帯するようにした23。つづいてほかの女学校でもスゲチマを廃止し黒い傘を導入すると、これは一般婦人の間にも流行として広がり、傘の収入が大幅に増加した24。
 両班家の娘たちを対象にした明信女学校(現在の淑明女高)は1907年の設立当時最初に洋服を制服として導入した。イギリス式の赤紫のワンピースにボンネットを着用させたが25、こうした欧米スタイルは女学校の制服としては唯一のものであり、当時の一般女性の服装と比べても大変異質なものであった。こうした制服制定の背景にはこの学校の設立の中心だった「韓日夫人会」の影響が大きかったと思われる。「韓日夫人会」は日本の愛国婦人会が乙巳条約以後朝鮮に派遣された日本の高位官吏夫人たちに韓国の貴族夫人を糾合させ組織した団体であった26。明信女学校は日韓併合に先立ち、上流層子女の日本化教育を行うために設立された教育機関であった27。よって、制服への洋服導入は朝鮮併合前に朝鮮に対して「文明化」施行をはっきりとみせるための意図と受け取れる。しかし、1910年の韓日併合後、朝鮮民衆の反発と抵抗を治めるため武断政治を行い始めた後、明信女学校の制服も伝統韓服に改められた。それは朝鮮女性の教育目標が従順的な植民地女性養成に置かれ、洋服着用をつうじて開化や進歩を追求するよりは、伝統服を着せることによって従順と忍耐、犠牲といった伝統的かつ儒教的な女性規範によって女性の規律化を図ることがより効率的だ、と判断したためと思われる。
21 前掲『韓国服飾史研究』644頁。
22 ユ.スキョン『韓国女性洋装変遷史』(一志社、1990)187頁。
23 京畿女子中高等学校『京畿女高60年史』(京畿女子中高等学校、1968)17-9頁。
24 前掲『韓国近代女性運動史研究』54頁。
25 淑明女子中高等学校『淑明50年史』( 淑明女子中高等学校、1956)51頁。
26 愛国婦人会は日本の皇后を総裁にし、日本の軍国主義を支持する役割を果たした団体で、1905年以後韓国に派遣された日本官吏の夫人たちは全員この団体の会員であった;パク.ヨンオク「韓日夫人会の組織背景と活動」『韓国学論叢』(ヒョンソル出版社、1974)67-8頁。
27 その一つとしてこの学校では日本人女教師による日本式礼儀作法教育が重要視された。
 上述のように、断髪令に女性たちは含まれなかったが、近代的教育を受けた新女性を中心に新しい髪形が登場した。伝統的な髪型に変化をもたらした集団は20世紀初頭に合衆国や日本に留学して帰国した女性たちであった。彼女たちの新しい髪形は単なる欧米の真似ではなく新しい社会的アイデンティティーの表現であった。つまり、伝統的な髪型は女性の婚姻如何を区分するだけであったが、留学後教鞭をとった彼女たちは学生でもなく、未婚でもない韓国社会で初の職業女性として前例のない自分たちの社会的身分を表すために、意図的に外国の髪型を選んだと思われる。こうした新しい髪形が女学生の間に話題と模倣を引き起こしたのは髪型自体の斬新性よりも、近代教育を受けた女性としての彼女たちの社会的活動と地位が、女学生集団に羨望と追従の対象になったことを意味する。これとともに、開化期女学生の間で流行した髪形はキガリ髪であるが、この髪型は既成世代には耳を覆う形が父母のいうことを聞かず拒否を意味すると思われ、一名不孝髪と呼ばれ批判された28。こうした批判にもかかわらず、この髪型が女学生の間で流行したのは、女性たちが家を出て新しい文物と知識を学ぶ経験をつうじ、従来女性に与えられた伝統的規制から抜け出そうとする自我意識が芽生え始めたことを意味する。
 女性の髪形に対する社会的議論の的は断髪であった。1920年代欧米で流行し始めた断髪(ボブスタイル)を最初に敢行した集団は妓生たちであった。すでに20余年前に国家改革によって断髪した男性たちは女性の断髪については断髪女性の道徳性を問題視し始めた。男性の断髪は個人嗜好の問題としてみなされなかったが、女性の断髪は女性個人の品行や身持ち、道徳性の問題としてみられ、その動機の適合性について論議された。したがって、妓生であれ近代教育を受けた新女性であれ、断髪決行前に一定の「堅固な意識」が求められたが29、初期に断髪した女性は如何なる理由により断髪したかにかかわらず、軽率、虚栄かつ浮薄な西洋流行の追従者といった非難から免れることはできなかった。1930年代には唯一の女性高等教育機関であった梨花専門にも断髪した学生たちが現れ始めた30。当時教授(後に総長)だったキム.ファルラン(金活蘭)が1920年代すでに断髪をしていたにもかかわらず31、学生たちにはしばらく断髪の自由が許されなかった32。
28 前掲『韓国女性洋装変遷史』159頁。
 1920年代大半の女学校制服は、韓服の多少長く白いチョゴリ(上衣)に赤紫や黒など濃い色の膝下丈の韓服チマ(スカート)に統一された33。1930年以後から日帝は経済性と活動性を生かすという理由で女学校の制服を洋服に変えたが、それは男子学校や朝鮮の日本人女学校に比べると遅れた改革であった34。こうした制服の洋服への改正前に女学生たちが韓服をつうじて民族意識を表現した一連の事件があった。1926年朝鮮王朝の最後の皇帝であった純宗の崩御時、女学生たちは自発的に喪章をつけ、伝統喪服の白い韓服で登校して日本人教師たちをあわてさせた35。これは女性たちが装いをつうじて帝国主義支配の不当性を主張し、これに抵抗する政治的意思を表現した事件であった。こうした傾向は日本に留学した女性の場合にもみられる。東京に留学した女性たちもやはり密に開かれた韓国留学生の純宗追悼式に喪服で参列した。また、平素、日本人女学生のように伝統和服や洋服を着たが、卒業式などには韓服を着て自ら民族的アイデンティティーを表そうとした36。いいかえれば、日本では和服や洋服、韓服と、服装選択の幅が増え、韓服は民族的アイデンティティーや植民主義への抵抗表現の手段として選ばれたのである。これとは対照的に教師として任地に赴くときは洋服が選択された。それは「韓服は非能率的かつ非経済的と考えたため自ら模範をみせ、その模範をもって学生たちを教えようとした」近代教育を受けた女教師として率先して不合理な伝統を廃止しようという使命感の表れであった37。また、日本女性も入学が難しい東京帝国大学の試験に植民地女性として受かり、聴講生になれた自信感の表れでもあった38。
29 オムブ「妓生と断髪」『長恨』1927.1.32-4頁。
30 ミンスクヒョン.パクヘギョン『ハンガラム、ボムバラメー梨花100年野史』(ジインサ、1981)166頁。
31 金活蘭『その光のなかの小さい生命』(梨花女子大学校出版部、1999)173-5頁。
32 前掲『韓国女性洋装変遷史』234頁。
33 こうして改良された韓服は正規女学校の制服であったが、農村夜学の女学生にまで広まった。パクピルスル口述・ジョキュウスン整理『名家の内訓』(ヒョンアムサ、1996)。これは制度教育の恩恵を受けられなかった女性たちも近代教育が女性に与える機会と解放の可能性を希望し、彼女らと同一の服装をすることによって、伝統的旧女性と自分たちとを区別しようとした意志を表現したとみられる。
34 男学校の制服は1915年頃から洋服を採用し、女学校より10年以上早かった;前掲『韓国生活文化100年』149-50頁。また、在朝鮮日本人女学校の制服も1920年代にすでに洋服であった;前掲『之蘭の庭から』54頁。日本で女学生の制服が着物から洋服に変わったのは1920年代中半頃だが(村上信彦『服装の歴史3』(理論社、1987) 173頁)、朝鮮の日本人女学校もこの時期に洋服に改定したと推定される。
35 前掲『京畿女高60年史』44頁;淑明女子中高等学校『淑明70年史』(淑明女子中高等学校、1976)123-4頁;前掲『ハンガラム、ボムバラメー梨花100年野史』160頁。
36 ソン.クムソン『去華就実』(徳成女子大学校出版部、1978)159-60頁;前掲『之蘭の庭から』93頁;イ.スクジョン『道に沿って歩いたら』(チャンウォンサ、1973)44頁。また、イ.スクジョンは日本天皇の暗殺模擬事件で拘束されたパク.ヨルの愛人金子文子が法廷結婚宣言をするときに着るように伝統的婚礼服を貸してあげた;前掲『道に沿って歩いたら』43頁。
 1920-30年代には徐々に女性の洋装が増え始めたが、完全に洋服を着るというよりは韓服にセータやコートを合わせて着たり、傘や靴、バッグをもつといった韓服と洋服、または西洋式付属品を折衷するスタイルが一般的であった39。女性雑誌や新聞でも1920年代には洋服よりも、改良した下着やエプロンといった小物の作り方が主に紹介された。1930年代に入っても前半期まではセーターや帽子の編み方など編物法を紹介する程度であった。また、服の新調に関する調査では新女性4名中3名が韓服と回答した40。女性の教育と余暇活動、職業活動などで活動領域が家の外へと拡大されたが、韓服の非活動性と手入れの非合理性、保健衛生上の欠点が指摘されながらも、洋装よりは改良韓服の奨励にとどまるなど消極的な姿勢であった。海外留学から帰国した新女性たちは帰国初期の1920年代には洋服を着ても、後に結婚と出産、教師や知識人となって社会活動をするようになると、ほとんどが韓服に転じた41。日本では家政学者たちが生活改善運動の一つとして国民の衣生活を根本的に和服から洋服に転換しようとしたような社会的動きは朝鮮では起こらなかった42。家政学者や家事科教師たちは女性の基本服は韓服のままで、染色や部分的改良にのみ重みを置く傾向にあり、代わりに少数のデザイナーたちが洋裁を教え洋服普及の先頭に立った43。
37 前掲『去華就実』169頁。ソン.クムソンは1920年代中半女学校赴任時、断髪に半そでのワンピース姿であった。このため彼女はその地方で「新女性第1号’とうわさされた。
38 前掲『道に沿って歩いたら』52-3頁。とくに彼女は、1920年代日本で植民地女性として日本女性の先を行く洋装を自慢げな経験として回顧した。
39 前掲『韓国生活文化100年』154頁;イム.ジョンヒョク「女子流行界の一年」『新家庭』1933.12.40-4頁。
40 この調査で「洋服’と答えた一人は以後女性誌に洋裁法寄稿を担当したイム.ジョンヒョクであった;「春を飾る心」『女性』1936.4.31-5頁。
41 ほとんどの新女性たちはスカートの長さを膝下まで短く改良した韓服を着た。しかし、なかには再び長いスカートの韓服を着るケースもあった;キム・ミリサ「衣服改良問題」『新女性』1924.11.26-7頁。また、有名な新女性であったナ・ヘソクも海外旅行には断髪に洋装だったが、帰国後は髪を伸ばして結い、長い韓服を着た。
42 前掲 Molding Japanese Minds, p.129.
 しかし1920年代末にはバスの女車掌の制服が洋服に改められ、デパートの店員や下級女事務員、女学校制服の洋服化など制度面から徐々に洋服が拡がったが、男性集団は洋服の活動性や便利性を認めることよりも「開化を自慢する」と批判し、韓服に「朝鮮女性の固有美」と貞淑美があると礼賛し44、「我が民族の美」をもつ韓服着用の減少を憂慮した:

 われわれの「ダンギ」がなくなってすでに長く、独特の「われわれの味」の美がすでに消えて長い。一つの国一つの民族の歴史がその国と民族から離れられないのと同じように、われわれは「われわれの味」の美として体を飾ることに忠実すべきであろう…新年からその洋風流行の仮面を脱がないのか45。

男性たちにとって女性の韓服姿は植民治下でもっとも外部に現れる民族固有の性質を意味する。早くに断髪をし、洋服に変えることによって、開化と文明化の流れに乗じた男性たちがこの時期になって、女性の韓服を民族の象徴として意味化し、女性に伝統の守護者になることを求めた。これは植民体制下で固有の文化と慣習が変質または破壊されていく過程での男性の植民権力への抵抗の方式でもあるが、植民化以前の社会での伝統的ジェンダー関係を維持しようとする欲求を表す。それは男性の既得権が維持できる基が儒教と大家族制度といった家父長制文化であるためである。女性への伝統服の求めはこうした男性たちの退行的ジェンダー関係志向から起因したものである46。
 韓服をつうじた女性の貞操美と文化的固有美への期待とともに男性たちは既存の伝統社会で享楽対象としての女性たちと家庭を守る妻という二つの部流の女性が容貌でその区別が曖昧になったことを憂慮し始めた47。女性たちは同じ空間で容貌を装い48、身分差が現れない洋服を着ることによって妓生や女級、職業女性、一般婦人、女学生の服装と容貌に著しい区分がなくなった。こうした現象は女性集団を区分してきた男性にとって家父長制に脅威を加えるものとみなされた。また、男性の洋服はモダンと進歩を意味したが、女性の欧米化した服装と容貌は奢侈と虚栄とみなされ、如何なる階層の女性であれ洋装女性はその費用を賄えないほど消費をすると批判された49。男性たちは経済的に窮乏した朝鮮で女性の衣服奢侈を抑制すべきだと主張したが50、それは植民地従属経済の問題を女性の服装問題に帰する論理的飛躍であり、また、女性が消費の主体として家族でなく自分のための消費を行うことへの批判でもあった51。
43 1922年最初のデザイナーイ.ジョンヒが洋裁を教え、1930年代末には日本で洋服デザインを学んだチェ.キョンジャが洋服店経営後、初の洋裁学院を設立した。前掲『韓国女性洋装変遷史』173,210頁。
44 イ.サンホ「流行提案」『女性』1936.4.
45 チャ.ヨンス「三四年流行口癖」『新家庭』1934.12.56-7頁。
46 Knaussはフランス植民地下アルジェリアで、男性たちが伝統的宗教や家父長制家族など「伝統’に回帰しようとしたことを指摘した。それは、宗教と家父長制家族が植民化以前の過去とをつなぐ重要なリンクになるためであり、そのために家父長制家族の重要性も大きくなった。前掲 The Persistence of Patriarchy, pp.20-2.
 こうした批判に対して新女性たちは女性の「学識」や「品性」「人格」などにかかわらず、女性に対してはただ容貌のみで人格を判断する社会を批判する対抗言説を展開した:

 ひどい場合、白粉を付けた女は淫乱と指目し、美しい服を着たものは不良者と指目しています。そしてできるだけ黒く青い顔で木綿の衣服を着た者が唯一貞操の意味を証明するかように、自慢として思うのが今日の現象であります。怠けてお金がなく化粧ができなかった者にも必ず行為端正と賞賛します。またこうすると朝鮮は文明するといいます52。

それだけでなく、女性の流行を非難する男性言説に反撃を加え、男性も流行を追い、服装と容貌に消費される費用も少なくないと指摘した53。しかし、女性たちのこうした男性批判は男性の女性批判に比べその数が非常に少なかった。
47「女学生制服と校票問題」『新女性』1923.10.18-20頁。
48 美容師イ.ボベ氏「朝鮮に美人がいない原因は何」『女性』1937.6.70-1頁。この記事によると、午後二時の美容院は「妓生、一般婦人、女学校の教師ふうの人、この春女学校を卒業した娘たち」など多様な階層の女性たちが集まり「とにかく混んでいてうるさいほど」である。
49 イギリスの植民地インドでも、男性は西洋女性を真似るインド女性を嘲弄と道徳的戒めの対象にした。男性は、いかなる社会的変化にも女性は精神的「美徳」を失わず、西洋化してはいけない、と考えた。Partha Chatterjee, “The Nationalist Resolution of the Women’s
Question,” in Kumkum Sangari & Sudesh Vaid, eds., Recasting Women in India:
Essays in Colonial History, Rutgers University Press, 1999, pp.240-3.
50 イ.ヨン「朝鮮女子と奢侈」『女性』1934.9.90-1頁。
51 ハム.デフン「朝鮮新女性論」『女性』1937.2.16-8頁。
52 ナ.ヘソク「婦人衣服改良問題」『東亜日報』1921.10.1.
53 フンブ「ノルブ瓢」『槿友』創刊号 1929.5.104-5頁。
 韓服の非合理性を指摘した家政学者や女性知識人たちが洋服を提案せず韓服にこだわったのは、個人的に彼女たちがブルジョア階層として韓服の選択と手入れにかかる労働を自らしなくても済んだため、洋服に転換する必要性を切実に感じなかったためでもあろう。また、洋服着用に伴う社会的偏みを意識したうえ、当時まだデザインや素材の種類が多様でなかった洋服よりは、韓服で個性と美を表現すのによりなれていたためと思われる。
 最後に、朝鮮女性の女性性規定に関連するのは朝鮮に居住した日本人男性または植民権力の妓生に対する関心と視線の性格である。日本人男性は朝鮮の妓生に多大な関心をもち、妓生をモデルに写真葉書だけでなく鉄道局の広報用ポスターや観光案内パンフレットなどを多数発行した54。こうした印刷媒体は併合初期から1940年代まで続いたが、その間の女性の容貌変化、すなわち洋服や断髪をした女性たちの登場にもかかわらず、常に少しも改良されてない韓服に伝統髪姿の妓生がモデルとしてとられた。それはいいかえれば、韓服は、植民者男性あるいは植民権力が停滞している受身のイメージを朝鮮女性のイメージとして刻もうとするのに活用した、象徴的道具の一つであったといえる55。

B.戦時女性性の再定義

1.戦時女性の容貌に対する社会的統制と愛国的女性性
54 総督府が発行した妓生に関する多数の出版印刷物や妓生葉書がそれを物語る。京城新聞社社長青柳網太郎は、朝鮮全国の妓生総605名の身上明細を個人別評価と写真を合わせて『朝鮮美人宝鑑』(1918)を発行した。イ.ギョンミン「妓生はいかに作られたか1」『黄海文化』冬号(セオル文化財団、2002)334-45頁。同「妓生はいかに作られたか5」『黄海文化』冬号(セオル文化財団、2003)375-92頁。
55 Knaussは、アルジェリアに移住したフランス男性たちが本国のフランス男性に対する劣等感のために、ベールを脱いだアルジェリア女性を撮ったエロチックな葉書を多数製作し、フランスに送ったことを指摘した;前掲 The Persistence of Patriarchy, pp.25-7.
Knaussの論旨を従うと、日本人男性たちも同様に、本国男性に比べ外地にいることによる劣等感をもち、一方では一夫一妻の近代的家族規範のため妾をもつことができず、妾をもったり妓生と楽しむ植民地男性に対して性的劣等感をもっていたといえる。したがって、蟄居する一般女性でなく、容易に接近可能な妓生の写真葉書を製作し本国に送ることで植民地女性を性愛化し、朝鮮男性には侮蔑の目を向け、内地の日本男性に対しての劣等感を回復しようとしたと思われる。京城が日本人のための観光案内書に性的空間として描かれたのもこうした脈絡から説明できる。帝国主義下ヨーロッパ人たちも他の文明圏を性的快楽の場所として理解し、異民族との性的接触に拒否感を感じるよりは、むしろそうした機会を期待した。要するに、こうした日本人男性の不安な男性性回復のために、韓服を着た妓生の姿をつうじて、朝鮮女性の女性性は運命に順応する無気力な女性として描かれた、と思われる。
 日中戦争以後、戦時体制への急変により女性の服装も戦時社会統制の対象になった。戦時下、女性の服装に対する政策は大きく二分される。一つは併合以来推進されてきた色服(または色衣)の奨励であり、もう一つは画一化した戦時服への転換と普及の問題であった。この二つは日帝末期まで並行して推進されたが、服装の形態から分けると、色服は伝統的な韓服であり、戦時服は日本から導入したモンペといえる。植民権力が併合以来朝鮮人の服装に対し一貫して主唱したのは色服の奨励であった。それは朝鮮民衆の衣服が白であるために、その洗濯にかかる時間と燃料を節約し、女性の労働力を生産労働に転じる目的から白服を染めて着ることを勧奨した。しかし、末期になるにつれてその強制度が強まり、民衆の反発を買ったりもした。染色奨励は韓服自体は服装としてそのまま維持することを意味したが、総督自身も朝鮮女性の韓服を肯定的に評価し、それを維持しようとした:

 事実、朝鮮婦人の衣服は世界第一といえる。なぜなら、西洋女性の衣服 をみてもどこか女らしいところが少なく、あまり俳優のように華麗で品 がないし、また中国女性の衣服は体の形そのまま表して醜いだけでなく 非常に非活動的であり、また、われわれ内地の和服もやはりかさばってとて も働きにくいが、朝鮮婦人の服はまずみてとても優雅で品があるようにみ えるし、美しいし、また働くにも…不便ではなく、またその値段も非常 に安そうで、美観上よく、実用的でまた経済的であり、これ以上いいも のがないと思われる56。

上の記事のように、総督自身が日本女性にも洋服の代わりに奨励したいというほど朝鮮女性の伝統衣装を美的、経済的、機能面で好評したのは珍しい。総督が1930年代末に韓服の長所を述べたのには、政治的に日中戦争以後合衆国との関係悪化で西洋文化に対する牽制が作用したと思われる。また、国内的にもこの時期すでに総督は日本で制定された男性の戦時服である国民服を着用し、官公吏と教師に国民服の着用を強要し、よって日本より先に朝鮮では男性の国民服着用が普及し始まった時期である57。つまり、男性の服装に対しては画一化した戦時服をつうじて規律化と物資統制を図っていたが、女性の服装に関しては別途の政策を立てていなかったのである。総督が洋服を「女らしいところが少なく、華麗で」あると批判したことから、洋服の浸透を食い止め韓服を奨励することによって、伝統的な従順と質素を朝鮮女性の女性性として期待したと思われる。
56 N記者「南総督との一問一答記」『女性』1938.11.21-2頁。
57 コン・ジェウク「日帝の衣服統制と国民服」『日本帝国主義の支配と日常生活の変化』(韓国社会史学会2005年度特別シンポジウム資料集)。
 また、韓服を奨励し愛用した日本女性として津田節子がいた。津田は民間団体として総督府の政策を支持し、実践した緑旗連盟の婦人部部長を務めるなど、日帝末期もっとも目立った社会活動をした在朝鮮日本人女性であった。彼女は対外活動時には自ら韓服を着用し、また、自分が韓服愛用者であることを知らせることに躊躇しなかった58。要するに、彼女の韓服着用は植民権力の意図と一致するばかりでなく、自ら植民権力の意図を代弁し、実践したとみられる。しかし、彼女が日本で高女卒業後、東京女子高等師範学校(現御茶ノ水大学)の臨時教員養成課程在学時(1922-24年)には学級で唯一洋装した学生であった59。彼女は洋服と帽子を自ら作って着、「当時では珍しかった洋服をうまくきこなし」た「すてきな東京娘」であった60。日本で女性の洋装が一般化する前の1920年代にすでに洋服を着るほど進歩的であった彼女が朝鮮にきてからは洋服を着ず、むしろ韓服を着用したうえに、ほかの日本女性にも韓服着用を勧めた理由は何であったか61。これは二つの点から説明できる。津田節子が韓服を着始めたのは彼女が清和女塾の学監を受けもち、高女卒の朝鮮駐在日本人女性の教育を担う傍ら、緑旗連盟婦人部部長として朝鮮家庭生活の「改善」と朝鮮女性の皇民化のため言論に文を発表したり講演と放送に出演するなど対外的な社会活動を活発に展開し始めた時期である。この時期彼女は和服と韓服、洋服のなかから戦略的に韓服を選ぶことによって、朝鮮女性に融合と和合でくるんだ内鮮一体を宣伝しようとしたと思われる。彼女が理解した内鮮一体とは「具体的な実現は婦人の手で」行われるものであり、それは日本女性が「朝鮮女性の姉として責任と自覚」をもちつつ遂行すべきものであった62。もう一つは洋服がもつ進歩と西洋化のイメージである。1920年代日本でも女性の洋装に対する一般社会の反感が存在するほど女性の洋装は進歩を意味した63。家政学者や家事科教師たちは一般女性の洋装を勧め、その普及のために努めた。津田も家政学者として生活改善運動に参加した母の影響で早くから洋服を着たと推察するのは難くない64。しかし、彼女が朝鮮にきて以来、植民者としての立場から一貫していた観念は日本が朝鮮の「西欧」となり、朝鮮を導くという「使命感」であった65。よって、日本女性同様、植民地女性に進歩と開化を意味する洋服を奨励する意図は起こりえなかった。より進歩的な立場で朝鮮女性を導くべきと考えた日本女性たちに朝鮮は常に変わらない伝統と在来として認識されており、そのため朝鮮女性に洋服を勧めると内地女性と植民地女性の間にあるべき進歩と在来、文明と野蛮という差がなくなるからである66。そこで、自分が着てその便利さと合理性をすでに体験した洋服を日本女性には勧めたが67、朝鮮女性たちには洋服を勧めなかった。その代わり、彼女が「朝鮮婦人のなかで目覚めた人たち」とみた家政学者や家事科教師たちを集め、朝鮮の生活を「改善」する目的で韓服の改良問題を論議するようにした。
58「朝鮮の家庭生活を語る」『緑旗』1941.5.津田は韓服の長所を強調したが、彼女の韓服に対する理解はうわべだけのものである。彼女は、5-6年前から韓服を着用してきたというが、韓服の下着についてはまったく知らず、洋服の下着を着るといった。こうした自分の無理解を恥と思わないのは、彼女の朝鮮文化に対する優越意識を示す一端だ、と思われる;前掲『現代朝鮮の生活とその改善』18,23頁。
59 清和の会編『白き花』(清和の会、1974)166-8頁。
60 前掲『白き花』96,105頁。
61 韓服を着用した彼女の影響で、彼女が塾監をした清和女塾の学生たちの間でも一時韓服がはやった;前掲『白き花』149頁。
62 前掲『現代朝鮮の生活とその改善』3-4頁。満州で満州女性教育に携わった日本女性も、その土地の生活をまず学び、それに改良を加え、植民地で新しい文化を建設する、という意識で中国の衣服を意図的に着用した。こうした考えは、女性は「愛」で植民地建設に参加するという論理にもとづいている。いいかえれば、植民支配の男女役割分担であるが、男性は武力侵略を、女性は婦人対象教化事業など文化的に植民地社会を改造する、という認識である。広瀬玲子「「婦女新聞」にみる満州認識――戦争とジェンダ――」『北海道情報大学紀要』第15巻 第2号(2004)41-71頁。
 1940年頃からは総力戦体制に移行し、軍優先の物資供給のため民間人に対しては配給制を実施し、日本に継いで朝鮮でも「奢侈品禁止令」を出すなど多様な方法で消費抑制を始めた68。とくに、女性に対しては服装と髪型などがすべて社会的統制の対象となった。戦争の長期化につれ、華美な服や化粧、パーマネントウェーブは個人主義と西洋かぶれの非国民行為と非難された69。
63 日本で1920年代に洋服を着た女は道でからかわれたりした;Miriam Silverberg, “The
Modern Girl as Militant,” in Gail Lee Bernstein, ed., Recreating Japanese Women, 1600-1945, University of California Press, 1991, p.256.
64 津田の母は、先駆的な家政学者の一人として1900年最初の高等女学校用家事教科書『家事教本』を著した塚本ハマである;前掲「朝鮮統治と日本の女たち」128頁。塚本は1920年代生活改善運動に参加し、日本人の服装を美しさと便利さ、経済性から考慮したうえで、和服を止め、洋服で統一することを主唱した。日本の生活改善運動では、朝鮮とは違い、伝統服の改良問題は登場せず、一貫して洋服への切り替えを奨励した;井上雅人『洋服と日本人』(広済堂出版、2001)142頁。
65「まづ生活を高めなければならないと感じました。併し私共は徒らに生活の程度を高めようとするのではない。また、西欧的生活を以って文化的と称し、そこへ近づかうと努力するのでもありません。」;前掲『現代朝鮮の生活とその改善』3頁。こうした「使命感」や「責任の重大さ」は、社会活動に参加した在朝鮮日本女性たちの文で度々みられる共通点である。
66 津田は朝鮮時代末期以来韓服の色と形態が変わってないと指摘し、こうした「無変化」を韓服のもっとも大きい利点として挙げた;津田節子「朝鮮婦人服礼賛論」『女性』1938.11.24-5頁。しかし対照的に、朝鮮人の間では上衣とスカートの長さと形態、生地の変化から現れる流行の激しさを指摘、批判する言説が非常に多い。
67 津田がリーダーであった緑旗連盟婦人部では活動と能率、健康のため洋服着用を提案した;「京城における働く女性の生活」『緑旗』1941.4.166頁。
 日常生活での戦時化が必要とみた日本は服装統制のため1940年、男性の準軍服として、非常時には軍服として活用でき、資源と経費節約に役立つ目的で「国民服」という国防色の服を制定した70。朝鮮でも同時期に「国民服令」が公布され、男性官公吏と教員、学生に戦時服として国民服の着用が義務化された71。
 日本で戦時女性服として制定されたのは「婦人標準服」である。これは戦時防空訓練や銃後支援活動など女性の社会活動が増えるにつれ、伝統的な日本の和服は活動性と機能性が劣るため機能的な装いの必要から考案された72。しかし、そのもう一つの目的は、服装の標準化をつうじて女性間の階層や地域、教育水準などにおける差をなくし、多様な女性集団を均質化することにあったと思われる73。戦時の機能的女性服の必要性は早々に支那事変以来議論され始めたが、政府より先に新聞社や女性雑誌社が懸賞募集を開催し、多様な形の戦時服が登場した74。「婦人標準服」は厚生省が民間からの懸賞募集をつうじて1942年に定めたもので75、募集規定には国民服で規定した活動、保健、体位のほかに住居との適応性、家庭での製作が可能であることが追加された。洋服形の甲形と和服形の乙形、そしてこれらの各形に下衣としてモンペを組み合わせた活動衣があったが、全7種の標準服は政府の普及努力にもかかわらずほとんど普及しなかった76。ただし、標準服のなかで活動衣に指定されたモンペだけは戦時ほとんどの日本女性に普及した。モンペは元々明治期以前から東北地方など関東以北の寒冷な農村地方で男女共用に用いられたズボン形態の作業服である77。都市の女性たちが初めてモンペを着るようになったのは関東地方で防空訓練が始まった1933年頃であった。当時は着る人が少数だったが、女性団体によるモンペ製作講習会が開かれるなど着用が勧められ、徐々に増えた78。都市ではモンペが美的でないという反対世論もあったが79、勤労動員と防空訓練に続いて本格的な空襲が始まると、モンペは女性の間で急速に浸透していった80。
68 「長期戦暮らし三原則、明朗・簡潔・質素で!」『朝鮮日報』1940.7.10;「奢侈品禁止令、明日から実施」『毎日新報』1940.7.24など多数。
69 「精動京城連盟で決議」『毎日新報』1940.8.20.
70 前掲『洋服と日本人』44-50頁;板垣邦子『昭和戦前・戦中期の農村生活』(三嶺書房、1992)199頁。
71 朝鮮における「国民服令」の公布は日本と同時だったが、実際には日本より早い1938年8月にすでに国民服の着用を強制し、官公吏と教員、学生の間に着用が一般化された(「朝鮮の家庭生活を語る」『緑旗』1941.5)。 これは植民地でファシズム体制がより一層強要されたことを意味する。
72 前掲『昭和戦前・戦中期の農村生活』198-9頁。
73 ファシズム体制と女性の衣服統制に関しては以下を参照されたい。Eugenia Paulicelli, “Fashion, the Politics of Style and National Identity in Pre-Fascist and
Fascist Italy,”Gender & History, Vol.14 No.3 November 2002, pp.537-559.
74 前掲『服装の歴史3』176-7頁。
75 廣澤栄『黒髪と化粧の昭和史』164頁。
76 前掲『洋服と日本人』53-5、136頁。板垣は標準服が未だに普及しない理由を、発表時点上衣類配給制実施と重なり衣類事情が悪化した点、デザインに人気がなかった点を指摘した。前掲『昭和戦前・戦中期の農村生活』200頁。
 朝鮮で女性服に対する統制がもっとも早く行われたのは女子教員服であった。女教員の制服はツーピース形の洋服だったが、これは「女教員の服装が奢侈な感じがひどく、統一した服が必要だ、という指摘から定められた」としたが81、時期的に総督府が日本より先に1938年国民服着用を指示すると同時に男子教員の国民服着用に合わせて女教師にも制服を定めたと思われる。韓服の代わりに洋服を制服として規定することで民族傾向を取り除き、また皇民化教育担当者としての責任意識を強くさせるとともに、戦時に必要な活動性と緊張感を促す目的からでた政策だったと思われる。
 朝鮮でも女性の代表的戦時服になったのはモンペであったが、戦時体制初期から戦時服としてモンペが確定され導入されたわけではない。モンペが初めて紹介されたのは総督府が政策的普及を図る前の1939年民間団体である「朝鮮婦人問題研究会」での生活改善論議からである。前章で述べたように、この研究会は総督府の皇民化政策を支持する活動をした津田節子の主導下で朝鮮家庭生活の「改善」のために家政学者など女性知識人たちを集め組織した団体であるが、ここで農村女性の農作業に便利なように労働服の必要性を主唱し、その具体的形態が考案された。この「女子労働服」は腰を紐で結び、下を細くしたモンペスタイルの半ズボンに、腰を紐で締め袖先を細くした上着になっている82。この労働服はモンペという名前を使わず、ある家事科教授が考案したものと記述されているが、実際に、モンペのもっとも大事な特徴である紐を使った点、幅の広いズボンの裾が縮む形態、そして直線形裁断を用いた点から韓服とは類似点がなく、日本のモンペに非常に近い。しかも、1、2年前に日本の官制女性団体などで「活動に便利な女性の非常時服装」として発表された服のなかでのモンペ形とその素材とデザインがかなり似ていた83。これは「朝鮮婦人問題研究会」の服装改良に関する活動が日本での婦人服改良の論議を参照し、朝鮮の服装文化に合うように修正する過程を経ず、日本的服装から多くの点を取り入れたことを示す84。とくに注目すべき点は、この女子労働服を考案するようになった趣旨である。この服を考案した家政学者は「朝鮮では労働を蔑視し、女性が働かなかったために労働服がなかったが、これからは女性も働かねばないから労働服が必要だ」とし、田植え作業に便利なように半ズボン形態の労働服を提案した。これは女性知識人たちが農村女性の生活や健康を重んじるよりは植民権力の立場のたって労働生産性向上のみを優先したうえ、生産労働と家事労働に苦しむ農村女性の生活に対しては無知だったことを表す。また、家政学者として保健衛生の側面から服をデサインするという基本的な考えも欠如している。この労働服は「朝鮮婦人問題研究会」の地方巡回講演などをつうじ農村女性たちに勧奨され、1930年代末に既にモンペが「女子労働服」という名で朝鮮に導入されていたことを示す例である。
77 小池美枝ほか『日本生活文化史』(光生館、2002)128-9頁。
78 前掲『昭和戦前・戦中期の農村生活』197-200頁。村上信彦『服装の歴史5』(理論社、1987)33頁。戦時以前「生活改善同盟会」でもモンペを女性の労働服として奨励した;前掲『洋服と日本人』221頁。
79 前掲『服装の歴史3』178頁。
80 前掲『洋服と日本人』59頁。
81 「教学刷新一策で教員服装を制定」『毎日新報』1937.6.24;「女先生たちの清楚な制服」『毎日新報』1938.8.6.
82 前掲『現代朝鮮の生活とその改善』54-7頁。
 より公式的にモンペという名を使って着用が記事化されたのは、愛国班活動が強化され、愛国班で女性たちを防空訓練に動員するようになり、服装の活動性のためモンペを勧奨し始めた1940年11月頃である85。愛国班への女性参加を増やし、『国民総力』では京城の模範愛国班長として3名の男性と3名の女性班長を紹介したが、この記事では女性班長が「防空訓練に廃物を利用して作ったモンペを着て街頭に出て猛烈に活動している」と宣伝した86。男性の国民服とは違い、モンペは一定の法的措置はとられなかったが、1941年には作り方が紹介されるなど着用の促進が持続され、愛国班員を中心にモンペが拡がり始めた87。また、モンペとともに「戦時形婦人服」や活動服を勧める記事も登場したが、この「戦時形婦人服」もその形態は裾が縮んだズボンでモンペと変わりなかった。1942年には日本で「婦人標準服」の公布と同時に朝鮮でも標準服に関する言及が登場した。被服協会朝鮮支部は日本で決められた「婦人標準服」を朝鮮女性に奨励しつつ、「朝鮮婦人が着る衣服に似たところが多くある点が注目すべきだ」とした88。しかし、日本で「婦人標準服」制定の基本理念は西洋に対抗し日本婦人の服装たる「日本的性格を表現」することに置かれ89、実際に洋服形は下衣はスカートで上衣は和式であり、また和服形は和服を若干改良した形であって、「朝鮮婦人の衣服に似たところ」はどこにもない。したがって、こうした宣伝は日本で行われたように、家政学者や衣服専門家を中心に論議や研究を踏む段階をもたず、和服の特徴の強い服をそのまま取り入れ朝鮮女性に「奨励」するための方策であったと思われる。日本で「婦人標準服」が浸透しなかっただけに、朝鮮でも「婦人標準服」は奨励にとどまり、強制投入はされなかった。日本での戦時女性の服装統制の実際的目的が生地の消費抑制にあったのと同様に90、物資統制の厳しかった朝鮮でみ慣れない形態の新しい服を新調するよう要求する必要はなかったであろう。
83 前掲『昭和戦前・戦中期の農村生活』198-9頁。
84 実際にこの研究会に参加した家政学者たちの多くが日本で家政学を学び、また和服を着た個人的経験から「和服のように働くときは腰をきちんと結ばないと力が出ない」という趣旨から作業服に腰紐を使ったなど、日本の衣服文化に対する依存性が表れる;前掲『現代朝鮮の生活とその改善』58頁。
85 日本でもやはり1940年隣組が組織され、防空訓練にモンペを着用するよう強要したので、朝鮮と日本でほぼ同時期にモンペ着用が奨励されたものと思われる;村上信彦『服装の歴史4』(理論社、1987)24頁。
86 「京城の模範愛国班長」『国民総力』1941.1.86-8頁。
87 「一斉にモンペを着よう」『毎日新報』1941.8.10;「変わりつつある流行界」『毎日新報』1941.10.4.
 したがって、標準服に関する言及は1942年のわずか1年ほどで終わり、以降徐々にモンペ着用を進める記事が増加し、結局女性の戦時服規定はモンペ一つに統一された。新聞の家庭欄にはモンペの作り方だけでなく91、モンペの上に着る上着や、頭と首、肩まで被る防毒帽、救急薬や包帯を入れる救急カバンの作り方も紹介されたが92、モンペの上に着る上着は上と下に二つずつポケットのついたジャケットスタイルで男性の軍服に非常に似ている93。
 1943年になると、モンペ着用への要求がより強くなり、平常時の着用を促すばかりでなく94、大日本婦人会のような女性団体の会員を動員し街頭で服装検査をさせる方法もとられた95。また、モンペは防空活動のための機能性とともに女性の屋外労働時勤労能率向上のための作業服としても積極的に勧奨された:
88 「婦人標準服を着よう、陸軍倉庫被服協会が奨励指導」『毎日新報』1942.6.13.
89 前掲『洋服と日本人』257頁。
90 同56頁。
91 「モンペ、同じことなら、格好よく通常服に着ましょう(2)」『毎日新報』1943.5.19.家庭と文化欄。
92 「モンペ、同じことなら、格好よく通常服に着ましょう(1)」『毎日新報』1943.5.18.家庭と文化欄。1944年4月の毎日新報の家庭欄には防毒面と防毒帽を被っている女性の姿が固定的に登場する。
93 「モンペ、同じことなら、格好よく通常服に着ましょう(3)」『毎日新報』1943.5.21.家庭と文化欄。
94 「長いチマ(スカート)脱いでモンペで出よう」『毎日新報』1943.5.16; 「女子はモンペを必ず着ること」『毎日新報』1943.6.13.

 モンペ姿も凛々しい農村婦人の雄雄しい食糧戦の増産報…女はみなモン ペ姿で麦を刈る様子が非常に力強くみえた…何処へ行っても女はみなモンペを着て凛々しく働いているのをみて聞いたら、郡内に約2万9千着のモンペが準備され女子は警察署、郡庁など急使から家庭婦人までみな作業服に着ている事実を知った。結局一家に二着はモンペをもっているという…96

これは戦争とともに食糧生産がより重要になったことを意味し、また、住む地域によって都市女性には防空活動が、農村女性には食糧生産が戦時国家が求める主な役割であったことを表す。
 1944年8月からはモンペが「婦人決戦服」「婦人国民服」と称されつつ、「モンペ必着運動」が展開された。モンペ着用者でないと、バスや電車の乗車が拒否され、集会場や官公署への出入も禁じられる強制施行に至った97。モンペ着用の強制は具体的に次のように施行された:

 ―婦人は外出や旅行時だけでなく、家庭でもモンペを着、いつでも防空活動ができるようにする。
 ―モンペは古着を利用し、新しい生地で作ったり、華麗な色や、特異な形で作ってはいけない。
 ―特別な理由や事情がない限り、 婚葬礼やその他の儀式にも必ずモンペを着るようにする。
 ―官公署、学校、会社、工場、組合、食堂や商店の従業員は必ずモンペを着るようにする。
95 「服にも必勝体制」『毎日新報』1943.9.4.大日本婦人会は以降国民総力朝鮮連盟とともにモンペ着用運動を展開した;「男女決戦服装実践7日まで準備、8日から一斉励行」『毎日新報』1944.9.7.
96 「モンペ姿も凛々しく婦人屋外労働徹底―高知事視察談」『毎日新報』1943.6.23.このほかにも「婦人作業服制定-屋外労働を積極助長」『毎日新報』1943.5.15;「婦人作業服配給」『毎日新報』1943.6.13.
97 「決戦服装の常時化」『毎日新報』1944.6.30.社説;「婦人モンペ必着運動」『毎日新報』1944.8.5; 「決戦服装、街頭指導隊出動」『毎日新報』1944.8.23;「男女決戦服装実践」『毎日新報』1944.9.7.
 ―各種集会場、府民館、映画館、劇場、食堂の出入門には「モンペを着ていない婦人は出入をおやめ下さい」という掲示をする。
 ―電車、バスでも「モンペを着ていない婦人は、乗車しないで下さい」という文をつけ、婦人たちの反省を促す。
 ―警察官の協力を得て、モンペを着ていない女性たちの反省を促す98。

以上、「婦人服装戦時化要綱」によると、都市に住む女性であれば、モンペを着ずには日常生活を円滑に行えないことが明らかである。それだけでなく、モンペ製作には古着を使うことが求められたが、こうしたモンペを公共の場や、 婚葬礼のような儀式にも着るようにし、これを守らない女性には行政の力で反省を促した。これらのことから「モンペ必着運動」が単なる奨励の次元でなく、相当な強制力を伴う社会的統制であったことがわかる。
 女性の服装統制は女性団体や女学校の制服にも変化をもたらした。青年団女子部の制服は上着は国防色の男子用シャツのようなもので、下衣はスカートであるが非常時には裾を絞り、乗馬用ズボンのようなスタイルに変えられる形態であった99。図で提示されなかったために正確な形態は確認できないが、活動性を追及しながら基本的にはスカートの形態を維持し、女性服としてはなるべくズボンを避けようとした意図がうかがえる。ところが、こうしたズボンに変形されるスカートは先に日本で雑誌社や政府の標準服懸賞募集に応募した作品の一つであった100。要するに、戦時期朝鮮女性の制服に関する規制とその具体的な対策は朝鮮社会内で論議されるよりも、相当部分が日本での服装改正事項をそのまま導入したといえる101。
 1930年代洋服に改正された女学校制服は1942年に再度変更された。新しい制服はその特徴が「国防的、衛生的」な点にある、としたが、変更の主な理由は戦時に不足した生地の節約にあった102。従来のセーラ服を廃止し、ひだのあるプリーツスカートはタイトスカートに変えられるなど可能な限り単純なデザインに変更された103。専門学校の制服は女学校より遅れて1939年に韓服から洋服に変えられたが104、1941年にはスカートの代わりにモンペが制服として導入された105。女学校のモンペ制服はズボンと似ているが、裾にカフスを付け絞るようにし、モンペの特徴を維持した形である。これは女学校側が「モンペは許容するが、ズボンは許容できない」とする日本軍部と総督府の基本方針に従いつつ、醜いモンペを適当にズボン化した結果と思われる。女性のズボン着用に拒否感をもっていた日本軍部は裾の広いズボンは「英米的」という理由で許容せず、その代わり機能的にも不完全なモンペに「日本精神の象徴」という意味を付与し、モンペに対する批判論を阻止した。軍部が女性にズボンを許容しなかったのは、ズボンを男性の専有物とみなし、女性のズボン着用は男性と同等な権利の要求と認識したためである106。さらに、モンペを強要したのは、モンペは男性のズボンとは違うという考えとともに、モンペが日本の伝統服であったためである。これには、伝統服の勧奨をつうじて国家の伝統を強調し、民族のアイデンティティーを形成させ国民としての愛国心を吹き込もうとする国粋主義的思想も含まれている107。しかし、朝鮮での日本の伝統服であるモンペの強要は、画一化された服装規制をつうじて繊維の節約や規律感を維持できたかも知れないが、モンペが朝鮮女性にはみ慣れない服であったために、愛国心や戦争意識を吹き込むのに効果的ではなかった。事実、戦争末期の1944年に至ると、日本ではモンペに日本精神を付与する「モンペイデオロギー」は弱まり、ズボンの美と機能性を好む世論によってズボンに関する新聞記事なども徐々に増え始めた108。また一方、空襲に対処してほとんどの女性が自発的にモンペを着用するようになり、強制的なモンペ必着運動は施行されなかった109。これとは対照的に朝鮮では末期までモンペが拡散されず、強制的方法が動員されたのは、国家のモンペ奨励策程度では呼応しないくらい女性たちのモンペに対する反応がよくなかったことを示す。また、モンペ導入過程において日本で提起されたように、モンペが農村女性の作業服として都市女性には適合しないという論議も起こらなかった110。日本ではモンペは国家的に奨励されたが強制ではなく、日本女性が戦時の緊迫した状況である程度自発的に選択した結果であり、また「国民の相互作用としての流行」という側面もあった111。しかし、朝鮮では総督府の一方的な決定によって導入され、行政により強制された点がもっとも大きい差であるといえる。
98 「モンペは家庭でも必着運動、全鮮に展開」『毎日新報』1944.8.11.
99 「女子部制服制定」『毎日新報』1941.3.5.
100 前掲『洋服と日本人』177頁。
101 同様に、日本服スタイルの上着とスカートであった大日本婦人会制服も、京城の2万2千会員たちに日本の本部で制定された通りに作って着るよう伝達された;「制定された大日本婦人会服-家で古着で作られる」『毎日新報』1942.8.1.
102 「男女中等生の制服、新学期から全鮮的に統一」『毎日新報』1942.3.19.
103 「この春新しく登場する女学生制服」『毎日新報』1942.3.31.
104 当時朝鮮には女子専門が2校あった。淑明女専は1939年開校時に洋服を制服にしたが、梨花女専は同じ年韓服から洋服に変えた。『淑大50年史』(淑明女子大学校、1988)33頁。「梨専校服問題」『女性』1939.3.65頁。
105 『梨花百年史』(梨花女子大学校、1994)282頁。こうした女子専門のモンペ制服は1941年専門学校制服の国民服への改正に合わせたものと思われる。
106 前掲『服装の歴史3』180-6頁。男性の女性のズボン着用に対する拒否感は戦時下の日本に限られたことではない。西洋でもズボンは男性の専有物と認識され、はじめてズボンを試した女性たちは社会の非難に直面せねばならなかった;G.Duby & M.Perrot『女性の歴史(下)』(セムルキョル、1994)463頁。
107 前掲“Fashion, the Politics of Style and National Identity in Pre-Fascist and
Fascist Italy,”pp.541-6.
108 前掲『服装の歴史3』185頁。
109 前掲『服装の歴史4』25頁。
 女性の戦時服として標準服や作業服、モンペ着用の勧奨と並んでそれ以前の時期から強調された改良韓服と色服(衣)の着用も持続的に展開された。物資不足の戦時期に韓服の改良は標準服の導入より一般民衆には現実的により実践可能なことであったため、色服着用の規制はより強くなった。1938年9月「朝鮮婦人問題研究会」の会員たちは総督府の後援で地方巡回生活改善講演に出たが、その際、彼女たちは「婦人国防服」という、国防色の改良された韓服を揃って着た112。国防色を選んだのは生活改善目的ではなく、当時男性の国民服着用が展開され始めたのをいち早く韓服に反映した結果であり、いいかえれば、韓服のミリタリールックを作り出したといえる。女性知識人たちが自ら韓服の改良と染色を実践した服を着ることによって戦時政策への協力を示し、また、そのほかの一般女性たちにもこうした典型を示したのである。韓服の改良は機能的側面よりは生地の節約方法に焦点を合わせ、スカートを筒状にし、上着の長い前結びの代わりにボタンをつける方法が求められたが、末期に進むに従い、強制の度合いが強化され、大日本婦人会の幹部たちを動員し街頭で前結びを切って、切りとった結びで傷痍軍人の座布団を作る運動にまで展開させた113。こうした服装統制とともに戦時期の新聞と雑誌には限られた資源を使い、衣類不足を解消する方法と要領に関する記事が絶えず家庭欄に登場した114。古着を使って服を作り、新調しないようにいわれ、服装は実用性と倹しさのみ強調された。
 服装だけでなく化粧と髪型に関する規制も並行して行われた。まず断髪に対する規制が施行され、1920-30年代に新女性として断髪でモダンさを表現した女性たちが戦時下では国家規制により髪を結いあげなければならなかった115。1939年に禁止されたパーマネントウェーブは、1943年に至っては税金が課せられるほど強制性をおびた116。化粧も望ましくないものとみなされ「自然そのままが衛生的かつ経済的で時間も節約」されると宣伝された117。パーマネントをかけたり化粧をした女性は「南洋地方の娼婦のような雰囲気」をみせ、同じ空間で働く男性を誘惑するために、社会安定に脅威になるものとみなされた:
110 前掲『昭和戦前・戦中期の農村生活』199頁。
111 前掲『洋服と日本人』216-7頁。
112 『朝鮮思想界概観』(緑旗連盟、1939)57-8頁。
113 『釜山日報』1944.2.8.
114 『毎日新報』1940.10.8、1940.11.12など多数。

 京城は今なほ紅毛化粧法が盛んで、若い女性の多くは電髪を得々とし、毒々しい口紅をつけ、頬紅を真紅にして…南洋地方の娼婦のやうな風をみせています。しかもそれが役所なり銀行会社の勤め人に多いやうです。勤め先でも注意を与えたらどんなものでせうか118。

とくに、太平洋戦争突入以後は戦争の名分が東洋からのイギリスと合衆国勢力の追い出しに置かれることによって、化粧とパーマネントは退廃的な英米女性を真似る非国民的行為とみなされた119。この時期女性の容貌は、個人の貞操や性的品行といった女性としてのセクシュアリティーを判断し、ひいては国家と関連して欧米の「堕落した」意識をもっているかいないか、これによって日本国民としてふさわしい意識をもっているかいないかを試す試金石になったといえる。よって、化粧に関する記事も自然美を生かす薄い化粧が「健康化粧法」として勧められ120、物資不足と価格上昇への対処方法として代用品の使用や、家で作る方法も紹介された121。しかし、こうした美容記事は容貌の装いを抑圧する国家政策によりその数が段々減り、末期にはほとんどみられない。しかし、こうした現象とは対照的に戦時期の新聞や雑誌にはさまざまな種類の化粧品広告が絶えず掲載された。そのほとんどは東京や大阪などの大都市に本社を置く日本製化粧品だった。戦時日本の化粧品産業は戦略物資を買うためのみ返り物資として軍部の支援を受けながら高級化粧品の大量生産を持続した122。主に中国へ輸出されたが、朝鮮も日本化粧品産業の重要な販売地であったことがわかる123。
115 「金活蘭氏の断髪廃止」『女性』1939.3.64頁。
116 『毎日新報』1943.1.15.
117 「婦人への頼み」『総動員』1939.7.14;「新しい化粧の秘訣」『毎日新報』1940.10.2;「春と婦人化粧、明朗で凛々しく」『毎日新報』1942.2.26.など多数。
118 「紅毛化粧法を排撃せよ」『国民総力』1942.3.8-9頁。
119 「半島に誓う軍国女性の決意堅し」『国民総力』1942.2.39頁。
120 「化粧品秘訣」『朝鮮日報』1939.8.29頁;「現代女性の顔化粧は」『春秋』1941.6.256-8頁。
121 「化粧品も代用品を使え」『毎日新報』1938.8.19;「果汁で作る化粧水」『朝鮮日報』1939.8.13;『毎日新報』1941.9.12、1942.7.14.など。
 戦時日本製化粧品の広告は女性の性的魅力を目立たせる華美な化粧を制裁する国策を超えない範囲で健康美と清潔、使い勝手のよさや経済性を主に訴えた。クリームと化粧水、白粉の3つの成分を凝縮した製品を時間の節約、使用の便利性という側面から「近代的スピード化粧料」と宣伝した。また、健康美を重視する社会的雰囲気に乗じて、皮膚をよくするビタミンが添加された化粧品、勤労動員などで増えた野外活動の対策としてハンドクリームや美白作用のある洗顔クリームなどが登場した。これらの日本製化粧品広告は物資不足にもかかわらず、女性は自分の容貌を「女らしく」みせるよう努めるべきで、これらの化粧品が女性の容貌を美しく維持するために効果的だというメッセージを伝えようとした。
 女性の外見美の追及に対する抑圧は表面上はすべての物資を軍隊に優先して調達するためであるが、実際には戦争で女性が男性だけの空間と仕事を独占し、潜在的に女性解放をもたらすという男性の不安からきた。つまり、戦時に女性たちが伝統的な男性領域である公的領域での活動機会が増加するにつれ、従来のジェンダー体系の混乱に対する憂慮と不安があったことを反映している。したがって、植民権力は植民社会の安定的統治のために既存のジェンダー秩序を維持、強化しようとし、その結果、性的二重規範と不平等を促進する言説が強化したのである124。華美な服装と容貌は敵国であるイギリスと合衆国をまね、個人主義を叫ぶ反社会的行為として規定され、国家が求める女性性とは不足した資源を活用し勤倹と消費節約を実践するばかりでなく、国家と社会全体のため自分の欲求を進んで犠牲にする資質を意味した。これに加え従順と謙譲、誠と定義された帝国日本女性の伝統的婦徳が女性性の模範であり典型として示された。したがって、戦時期には1920-30年代よりも抑圧的かつ日本化された女性性が求められたのである。
122 日本軍部は、中国から戦略物資を買い入れるための物資として、高額で小さく運送が容易だという利点から高級化粧品を選択した。資生堂が軍部の委託を受け、大量生産をするようになった;前掲『黒髪と化粧の昭和史』176頁。
123 たとえば、1934年化粧品の輸入額は259万余ウォンであったが、そのうち朝鮮で生産された化粧品はわずか10万余ウォンに過ぎなかった。「化粧品は自ら作って使いましょう」『女性』1937.2.68-9頁。
124 第二次世界大戦時合衆国で、女性の労働市場への参加が増えると、女性の道徳性に関する不平等な言説が一層強化された;前掲 “‘Patriotic Femininity’: Women’s Morals and
Men’s Morale during the Second World War,” p.280.

2.植民地男性性と保守的女性性言説の強化
 戦時下の新体制運動など植民権力主導の生活刷新プロジェクトに賛同した男性たちは女性を享楽的で、奢侈と虚栄心のある集団として他者化した。戦時女性の容貌を規制する国策は自由奔放と女性解放、既存のジェンダー体系に挑戦する「生意気な」新女性を嫌悪する男性集団の理解関心とかみ合った。そのために、1920-30年代の新女性やモダンガールの容貌に対する批判は戦時体制下持続するばかりでなく、より一層強化された125。新女性の服装と髪型は流行や奢侈と非難の的になり126、「化粧のない街は女性美の新体制」であり127、「美容院も知らず、お出かけもよくせず、服もあまり欲しがらず、母を助けて…家事にのみ勤しんでいる」女性が戦時にふさわしい「国策形娘」と賞賛された128。女性の性的魅力をあらわにする容貌は女性個人の私的問題ではなく、社会と国家に害を及ぼす「反国家的、反社会的、反戦的」行為とみなされた129。
 戦時男性たちが理想化する女性性とは母や主婦であって、母性と家庭性を優先視することによって女性を脱性愛化しようとした。母性は神聖な任務であり、女性のもっとも重要な役割であるばかりでなく130、女性の身体発達を向上させ、女性美を完全なものにさせる、とみなされた:

 女性が生産するのは病気でなく、もっとも聖なる天職の一つであります…子供を産むことによってホルモンの作用が円満になり、肉体の美しさがより一層健康に現れるのであります…より脂肪質であるか発育が不完全な婦人は子供を産むことによって…体質が改革され女性美が現れたりします…女性美は母性愛を体現することによってより一層輝くのであり…131

125 キム.ムンジブ「乾柿髪様式」『女性』1939.6.56頁。
126 夏蘇「ゴム靴と縮髪と」『朝光』1942.1.162-8頁; チェ.イルソン「女人奢侈の後日談」『春秋』1941.2.200-3頁。
127 チョン.インテク「化粧のない街」『朝光』1940.10.162-3頁。
128 パク.テウォン『女人盛装』(キップンセム、1989)174-5頁。
129 キム.クッチョン「風俗時評―モンペとチマ(スカート)の問題」『朝光』1944.12.22-5頁。
130 キム.ジンソブ「私の女性観」『春秋』1941.5.170-9頁。
131 医学博士キム.ソクファン氏談「女性美の完全は母性愛から発露される」『朝鮮日報』1939.11.8.
母性の義務を果たす女性は公共の場でなく家庭にいるが、家庭という枠を離れて近代的余暇と都市生活を楽しむ新女性や有閑マダムは軽薄と模倣という民族の劣等性をもつ集団としてみ下された132。当然、家庭の維持は女性が職業をもつことより重視された133。奢侈や虚栄は女性のみがもつ本性として認識され、こうした傾向の強い新女性たちは「家庭に対する神聖な義務」をおろそかにするものとみなされた134。よって、家庭問題や夫の浮気は自覚に欠ける妻の責任と認識された135。
 新女性の容貌と服装は西洋文化への模倣と憧憬の行為と規定された136。男性たちは新女性の西洋模倣は容貌の模倣にとどまらず、「女性が男性と同等な人格と個性をもった存在であるという個人主義的西洋思想」と女性解放思想への模倣である、と指摘した137。植民政策に同調した男性であるほど、より保守的な女性抑圧を主唱したが、それは被植民地人として植民者を模倣する機制であり138、植民者の位置から啓蒙言説を展開することによって、ジェンダー関係における優越的位置を再確認するものであった。個人主義的西洋思想に対する警戒は伝統的女性道徳と価値継承を強調することに回帰した139。「東洋の婦徳」や謙遜と忍耐など伝統的婦徳が強調され140、こうした伝統的な女性性への回帰は服装においても新女性と女学生を中心に拡散された洋服を牽制し、再び長いチマ(スカート)の韓服を理想的な衣服として礼賛する言説を作り出した。女性の生活のための活動性や便利さは考慮されず、韓服はもっとも美しく、優雅な服として賞賛された141。
 これとともに、西欧(とくにイギリスと合衆国)を排斥する時代思潮により、東洋女性の美徳を強調するなかで、日本女性が理想的な女性像として提示された。とくに、日本女性の礼儀作法は夫に対してより恭順かつ従順であると思われ、朝鮮女性がみ習うべき女性性として奨励された:

132 イ.イル「電車と新体制」『女性』1940.11.62-3頁。
133 イ.マンギュ「女性と職業―家庭婦人としては不可能である」『東亜日報』1939.9.25.
134 キム.グァンソブ「女性と奢侈」『女性』1940.9.30-2頁。
135 鍾路署長伊坂和夫(イ.ジョンファ)「決戦下の鍾路を語る」『朝光』1943.11.59-60頁。
136「戦時国民生活強調座談会」『朝光』1941.9.54-65頁。
137 上田龍男(イ.ヨングン)「母の戦陳訓(4)」『毎日新報』1942.3.23.
138 ユン.デソク「植民地人の二つの模倣様式」『韓国学報』104号、2001、秋、56頁。
139 オ.ヨンスン「女人倫理観」『朝光』1943.6.82-9頁。
140 キム.オソン「女性の教養問題」『女性』1940.5.18-9頁; 上田龍男(イ.ヨングン)「戦時女子読本。婚姻。」『毎日新報』1943.6.10.
141 「朝鮮婦人衣装問題批判」『女性』1938.11.26-7頁。
 室内の礼儀作法に対しては朝鮮女性が内地女性をみ習う点が多いです。このような内地人生活に対する習俗を結婚前に女はある程度まで涵養するのは、今後時勢の趨勢により非常に必要なことと知って…142

モンペの強制後、モンペ代わりにズボンを着る女性が現れると143、女性のズボン着用は「男を刺激するための格好であり、男を真似る行為」として批判された144。「男性服」であるズボンを着る女性は男性の既得権を脅かす存在として認識され、こうした行為は朝鮮女性自らの意思や必要によって生まれた現象としてはみなされず、先にズボンをはき始めた西洋女性を真似る行為としてのみみられた。一方、モンペが徐々に浸透すると、醜いモンペをなるべく美しく着るよう求める意みも現れた:

 モンペの本意を超えない範囲内ではいくらでも体裁に有意し格好よく美しく着るべきである…戦争をしていても美しい生活の維持と創造に絶えず注意を払わなければ、われわれの大国民たる自慢は支えにならない145。

 結局、いかなる言説であれ、依然として女性の容貌は男性の観察と評価の対象になり、非難でなければ賞賛が与えられたことがうかがえる。とくに、戦時女性の理想像が母性と家庭性へ忠実であるものに定義され、植民地男性たちも植民権力と同様に全体主義的立場から女性の性的魅力の表現を男性への脅威であり、社会的害悪としてみなした。こうした容貌に対する批判は軍国主義によって新たに登場したのではなく、それ以前の時期の女性抑圧的傾向が戦争という体制変化によって強化されて現れたといえる。

3.戦時新しい女性性の模索
①国家主義と女性性の結合
142 ケ.グァンスン「女子青年の教書」『毎日新報』1941.11.17;また、「内地の例をみると、夫が外出する時や戻ってくる時、礼節が悟られているが、朝鮮女性はそれが不足ではないですか。」「20代娘たちの理想を聞く座談会」『女性』1940.6.50-7頁;このほかにもソク.テウ「正座の力と半島女性」『朝光』1942.3.185-7頁など。
143 この時期のズボン着用は、近代韓国女性が運動服以外に日常服としてズボンを着るようになった最初の時期と思われる。
144 パルボ「モンペ進軍譜」『朝光』1943.8.60-6頁。
145 チェ・マンシク「モンペ是是非非」『半島之光』1943.7、『チェ・マンシク全集10巻』(創作と批評社、1989)460-6頁。
 上述したように、1920年代中半には先を競って洋服を着て、注目を浴びた新女性たちが1930年代中半以降は徐々に韓服へ転ずるようになった。その理由として、個人的には彼女たちが結婚や出産、あるいは教師などの職業活動をするようになり先端を行く洋服よりは既婚女性として普遍的な韓服を選ぶようになった点、社会的には洋服が車掌や店員、女給など下級職業女性の制服になったり、また、いわゆる新女性に比べ教育や職業的地位がより劣るモダーンガールの間に洋服が広がり、彼女らと服装の差別化をはかろうとした意図とも考えられる。こうした傾向は戦時体制になると、知識人女性たちが一般女性の服装を「無批判、無趣味」であるために、彼女らを指導する機関や装置の必要性を指摘したことからもかいまみえる146。彼女たちは、非常時の国家に奉仕すべきであるという国家主義的思考にもとづき、女性の服装と容貌を流行や奢侈と規定した:

 私は一般朝鮮女性たちが、何より指輪をたくさんはめているのをみるが、これはある意味からみて、くだらない装飾物としか思われません。これは虚栄の根本原因の一つではないでしょうか…今、国家は非常時です…国家を思い、国家に奉仕するということを忘れてはなりません147。

女性知識人たちは国家や男性の「奢侈弊害論」に同調し、朝鮮女性は時局認識が足りないとか148、ドイツに敗れたフランスの例を挙げ、女性の奢侈が国家敗亡に至るとまで国家主義的論理を展開した149。
 戦時体制に同調した女性たちは、モンペに対しても肯定的な反応をみせた。ほとんどのモンペ支持論者たちは「スカートばかり着ていた女性たちが初めてモンペを着たときはぎこちなくて恥ずかしかったが、今はその動きやすさを知って堂々とモンペを着て防空活動の先頭に立っている」といった内容を共通して述べている150。つまり、体制に協力的であった女性たちは国家が期待する女性の戦時活動を支持したために、モンペに対する抵抗を抑え、モンペをそうした銃後活動に適した服装として受け入れる立場をとったのである。また、一方、ある女性たちは政治目的よりは現実に戦時の衣類不足問題がモンペを着ることで解消できるという、経済効率的側面からモンペを肯定的に認めた151。
146 イ.スクジョン「婦人と衣装」『女性』1938.3.36-7頁。
147 ホン.スンオク(女学校教師)「装飾品やめ貯金にはげましょう」『毎日新報』1940.11.12.
148 ユン.ウンヘ氏談「戦時の生活このままいいか(1)」『毎日新報』1942.1.17.
149 豊川淑宰(イム.スクジェ)氏談「戦時の生活このままいいか(3)」『毎日新報』1942.1.20.
150 パク.スンチョン『大東亜』1942.5.104-5; ファン.チョリム氏談「スランスカート脱いで凛々しいモンペ服」『毎日新報』1942.7.4.

②戦時の新たな流行
 前述のように、1930年代前半までは洋裁に関する記事がそれほど多くなかった。しかし、1930年代後半に至って多様な種類の洋服の作り方に関する記事が増え始めた。とくに、夏は「婦人家庭服」または「簡単服」「ネリダジ152」という家庭で家事労働時便利で単純な洗濯に強い半袖ワンピースや、作業服の作り方が紹介された153。このように家庭で簡単に作れる洋服は、以前から提起されてきた韓服の非活動性と非経済性に対する問題意識から出発したが、その解決策として従来のように改良された韓服の奨励ではなく、家庭で作れる簡単な洋服をこの時期になって始めて導入したことは注目に値する。実際、簡単服は日本で関東大震災以後1920年代後半から広がり始めた「アッパッパ」や「簡単服」とその形態と素材がかなり似ていて154、簡単服は名称も日本のものと同じであるために、その服の影響を受けた可能性が大きいと思われる。日本でこうした服が庶民の間で自生的に伝播され広まった服であることを考慮すると、朝鮮でもやはり簡単服が政策的に奨励されたのではなく、その実用性と活動性が朝鮮女性にもアピールできたうえ、作り方が簡単で誰にでも家庭で容易に作れたために普及したと思われる。しかも、こうした洋服がこの時期に広まった背景には女学校、専門学校、女教師などの制服が洋服に変わるなど、洋服を着る女性が増えた時代的流れもあったであろうが、もう一つには戦時主婦の家事労働や地域活動など銃後活動の増加により、服装の活動性と機能性が重視され、洋服に対する認識変化が伴ったためといえる。簡単服のほかに、外出着としてふさわしいブラウスやフレアー・スカートの作り方が紹介され、また韓服着用時には必要でなかったブラジャーやスリップなど、洋装に必要な下着の作り方が紹介されたのはこの時期洋服の広まりを立証する例として考えられる155。また、この時期女性雑誌『女性』の表紙画にはジャケットや半袖ワンピースなど非常にモダンなスタイルの洋服を着た女性が登場している。実際こうした洋服の外出着は戦時の防空活動や労働など植民権力が主唱した服装改善の主な目的とは何の関連もない。洋服の裁断法を紹介した洋裁専門家たちは戦時女性の屋外活動を強調する社会的傾向をうまく利用することによって、非活動的な韓服を踏襲してきた一般の考えを変え、便利で機能的な服装を普及しようとした意図を貫徹したと思われる156。便利な衣服の必要性とともに新しい服を作らず、古着の利用を求めた政策も衣服文化に変化をもたらした。女性知識人たちも主婦が手ずから使わない衣類で衣服を作るのは家庭経済に役に立つといった側面で奨励したが157、現実に生地や衣服の不足は既存服を直し、必要な衣服を作る必要性を増大させた。女性団体や教育機関を中心に洋裁講習が増え158、それらをつうじて学生の制服や子供服など簡単な洋服の家内製作も増加したと推測される。
151 パク.ユブン氏談「女の武装はモンペだ!」『毎日新報』1944.8.5.
152 ワンピースのように上下続きの服。
153 「婦人家庭服」『女性』1936.7.23-4頁;「家庭婦人の衣服改良問題」『われわれの家庭』1936.10.41-3頁など。
154 前掲『洋服と日本人』147-52頁。
155 ハ・ランゴン「夏によい洋装(1)」『女性』1940.8.104-6頁;「夏によい洋装(完)」『女性』1940.9.62-4頁;「着こなしのためには下着から改良」『女性』1937.8.88-9頁;「婦人の衣服と色彩の調和」『女性』1937.11.92-3頁。

③女性性維持の戦略
 戦争末期の服装と化粧に対するより強力な取締りが施行される以前まではある程度「流行と奢侈」も持続した。狐毛のえりまきをして街を闊歩する女性たちの姿が「好ましくない風景」として新聞紙上に掲載されたり159、また統制にもかかわらず「チマ(スカート)は長くなり、チョゴリ(上着)は短くなる」など流行の変化が続いていた160。ある女性洋裁師は、新たな服飾としてモンペのスタイルを研究し、作り出しているとしながら、「男性の批判のように服飾に美を無視することはできない。戦時下にも女性美は存在する」と寄稿した161。戦時女性の服装改善が国家の服装統制の枠を超えることはできなかったが、モンペ着用の強制化以前にはキュロットスカートのような服を紹介、奨励する創造性もみられた162。女性知識人たちはモンペ姿の美的問題に関して言及しなかったが、実際に都市では醜いモンペを「男のゴルフ.ズボンのように作った格好いいモンペ」や古着でなく新しい生地で作ったモンペを着た女性がしばしばみかけられた163。また、高価なモンペを洋服店で作ることもあって、当局では百貨店や洋服店でのモンペの注文制作を禁じた164。つまり、モンペに対して国家規定に違反する女性たちがいたことがわかる。だが、これは植民主義に対する民族主義的抵抗というよりは、農村女性の作業服であるモンペを都市の女学生や新女性、知識人女性に強要する全体主義的画一性に対する女性たちの一つの消極的抵抗表現といえる。軍国主義によって強制された要求にも自分たちのアイデンティティーの一部をなす女性としてのアイデンティティーを失いたくない女性たちは「女性性の感性を維持」しようとし、こうした女性としての主体的対応は肯定的な女性性の構築を意味し、ひいては支配的男性性に対する挑戦としてみることができる165。
156 たとえば、ハランゴンによると、「女性の社会的進出は歴史的必然の至りであります…在来国民生活の規範とその価値的み解を再批判し、われわれ国民の服装問題を改善し、とくに国防忠実、生産拡充を唱えるこのとき現代女性の敏活な活動力を培わねばなりません。」ハランゴン「夏によい洋装(1)」『女性』洋装(1)」『女性』1940.8.104-6頁。
157 祥明実践女校長裵祥明「自分の服は自分で作ろう」『毎日新報』1942.4.7;淑明女専任淑宰氏談「裁縫は主婦の美徳」『毎日新報』1942.7.27.
158 「大成学院主催で裁縫講習」『毎日新報』1941.7.30;「興亜家庭塾主催洋裁縫講習会」『毎日新報』1941.8.10;「女其青主催で廃品洋裁講習」『毎日新報』1941.9.26.など。
159 『毎日新報』1942.1.17.
160 夏蘇「ゴム靴と縮髪と」『朝光』1942.1.162-8頁。
161 「防空服の結実に一婦人会員談」『朝光』1943.8.66-7頁。
162 「時局に映った新しい衣装風景」『毎日新報』1942.5.8.
 女性たちのモンペに関する言説はほとんどが政策を支持し、モンペ着用を勧奨する内容であった。しかし、拡散するモンペ着用に関して都市の一部ブルジョア層女性たちを中心に慎重にモンペに対する抵抗感が現れた。その抵抗感はモンペが日本の衣服であるという点ではなく、「女らしい服」でないという点にあった。つまり、モンペは活動性を強調した服で働くときはいいが、スカートではなく男のズボンのような服であるために、女らしくなく女性性を損なう服である、というものであった。彼女たちはモンペは働くときのみ着ることによって、「東洋人としての女らしさ」や伝統的女性らしさを守らねばならないという主張を展開した166。皮肉にも、日本は西洋に対抗して日本的アイデンティティーを生かすためにズボンを許容せず、モンペを採択したが、モンペが日本の伝統服であるという経験や認識のなかった朝鮮女性は、モンペが活動性のみを重視したズボンのような服であるために、東洋女性としての自分たちの女らしさをおかすと考え、反対に韓服に固執しようとする傾向が現れた。女性たちの韓服に対する愛着は、専門学校で制服を韓服から洋服に改定するとき起きた学生たちの反発からも読み取れる。学生たちが反発したのは従来の指摘とおり、韓服が民族的服装であるためだけではない。韓服のもつ民族的アイデンティティーに加え、韓服が女性としての美しさと自分たちの女性性が表現できる服装であったためで、これは解放後洋服制服が「田舎くさくてきらい」という理由で、ほとんどの学生たちが再び韓服を着るようになったことからもうかがえる167。モンペに対する抵抗感はモンペが女性としてのアイデンティティーをもたせてくれる韓服の代わりができないにもかかわらず、それを外部から強制されたためである。韓服は当時ほとんどの女性にもっとも自然で便利な服であったために、朝鮮でモンペは女性たちの自発的な選択にはならなかった。
163 「虚栄を捨てよう、決戦下に住むわれわれの服モンペの使命を認識せよ」『毎日新報』1943.6.23. 家庭と文化蘭。
164 「“モンペ”実戦型を着ろ」『毎日新報』1943.7.23.
165 前掲 “‘Patriotic Femininity’: Women’s Morals and Men’s Morale during the
Second World War,” pp.278-9.
166 「戦時生活と婦人道徳座談会(4)」『毎日新報』1942.1.8.
167 前掲『ハン・ガラム、ポム・バラメー梨花100年野史』166-75頁。解放直後、梨花女専学生の約10%のみが洋服を着た。1940年この学校の卒業生たちが『女性』誌の座談会参席時着ていた服はすべて韓服であった。「梨花女専今春卒業生座談会」『女性』1939.6.24-32頁。; 女学校卒業班学生たちもやはり韓服を好み、卒業後も続けて着たいと答えていた;「座談会、制服の娘たちは何を考えているか」『女性』1940.7.33頁。

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