Sunday, February 12, 2012

Korea and her Neighbors part6 from inside Kotatsu

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朝鮮紀行(6)-東学党の乱-



[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。

第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」は、元山滞在中に東学党の乱(甲午農民戦争)についての情報が飛び交っているというところから始まる。著者は、1894年6月17日に元山を発ち、19日に釜山に到着し、そこで日本の砲艦が停泊しているのを目撃し、肥後丸から220人の日本兵が上陸し、釜山の日本人街を警備していることを知る。町に動揺はないと記されている。しかし、6月21日に済物浦に到着すると、事態は切迫していることを肌で感じている。

著者の動きと、東学党の動きを調べてまとめてみる。著者が初めて朝鮮の地に踏み入れたのは釜山で1894年の2月である。このときすでに東学党は襲撃を行っている。2月15日に2000人の農民を率い古阜郡衙襲撃している(のち解散)。本格的な蜂起にとなるのは、4月下旬ごろから。その直前の4月14日に著者は、ソウルを舟で出発し漢江を遡っている。

イザベラ・バードの動きと東学党を巡る動き(1894年)
2月:バード、釜山に上陸する
2月15日:東学党、2000人の農民を率い古阜郡衙襲撃
3月:バード、済物浦に到着
4月14日:バード、ソウル発
4月19日:バード、驪州に着
4月25日:東学党、茂長で起兵
4月28日:東学党、古阜城再占領し按覈使李容泰放逐。全羅道各地より数千名が白山に集結
4月30日:農民軍行動綱領発表
5月2日:東学党、檄文発表す
5月3日:バード、永春を発ち漢江を下り始める
5月4日:東学党、泰仁占領し武器奪取し四大綱領を宣言
5月11日:東学党、全羅監営軍に圧勝す 以後、南下→茂長・高敞・霊光・咸平・羅州など制圧
5月25日:東学党、長城黄龍村戦闘し政府軍先発隊撃破す
5月31日:全州を無血占領→忠清道・慶尚道でも蜂起
6月9日:清軍、2,465名が牙山に上陸(以後、続々上陸)
6月10日:全州和約(農民軍の弊政改革を全面受け入れ、翌日農民軍解散)
6月12日:日本軍、済物浦に1個旅団上陸
6月17日:バード、元山発
6月19日:バード、釜山着
6月21日:バード、済物浦着。同日夜、国外退去を命じられ肥後丸で山東半島の芝罘(チーフー)へ向けて出発する。
6月26日:バード、遼東半島の付け根の牛荘に到着。
7月8日:バード、満州の奉天に到着。
7月25日:清国汽船高陞号を日本巡洋艦浪速が撃沈(豊島沖海戦、「朝鮮豊島沖海戦之図」)
7月29日:日本軍第1旅団は牙山・成歓の清国軍陣地を猛攻して平城へ敗走させた
8月1日:宣戦布告し日清戦争勃発
こうしてみるとイザベラ・バードが、漢江沿いに旅し、元山へ向かっていた時期に半島南部で反乱が起こっていたということがわかる。特に身の危険を感じたという記述もないし、逆に安全を脅かされることはないと記していることから、南部と北部では情勢が全く違っていたのということでしょうか。

5月2日に発せられた「檄文」について触れた部分がある。

東学党の檄文は国王への忠誠を敬語を用いてあらわし、ついで苦情をきわめて穏健なことばで述べ、つぎのことを忌憚なく主張している。…(略)…
…(略)…そこには改革の必要性がつよく訴えられていた。外国人に対する敵意をあらわしたような箇所はひとつもなく、この檄文が外国人への敵意を念頭において書かれたものとは思えなかった。
『朝鮮紀行』-第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」-
檄文では外国人排斥は唱えていないが、檄文より先に発表された「農民軍行動綱領」の中では、日本人を中心とした外国人排斥(逐滅倭夷)が唱えられている。

東学党の主導者について次のように記している。

主導者はどんな人物なのかいっこうにはっきりしなかったが、べつべつの場所に同時にあらわれ、神業的な力で民衆の信用を得ており、日本語と漢語ができるうえ、その手段、先の読み方、戦力の配置方法、そして西洋的なタッチのいくぶん感じられる戦術からいって、近代戦法の知識が多少ともあるのは明らかだった。
『朝鮮紀行』-第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」-
外国人の中には反乱軍に同情的な見方をする人々もいたようです。

外国人のなかにも東学党に共鳴する声はあった。なぜなら悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態で、あまりな搾取に対して、よくある農民蜂起を超えた規模で武装抗議するための時は熟していると考えられたからである。
『朝鮮紀行』-第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」-
東学党に日本人も参加している。有名なところで内田良平という人物がいる。下関から釜山に密航し「天佑侠」なる東学党を支援する団体のメンバーになっている。孫引きになるが、『國士内田良平傳』には次のようにあるらしい。

韓国が、清国と示し合わせて日本を出し抜き、東学党の鎮定を清国に依頼するであらうことも殆ど明らかであった。そこで、良平は一日も早く韓国政府と清国の機先を制して東学党と連絡し、東学党を援けて韓国の弊政を改革せしむると共に、韓国に親日政権を確立させねばならぬと考へたのである
『國士内田良平傳』(参考サイト:内田良平◆日韓合邦運動の支援と挫折)
内田良平は、東学党が敗れた後、日韓併合論者として奔走したようです(黒龍会を結成)。1906年には韓国統監府嘱託として、初代統監の伊藤博文に随行してしている。この辺りのいきさつについては不勉強なのでよくわからない。また、朝鮮側で併合への世論作りに尽力した一進会会長の李容九も当時は東学党の反乱に参加している。

今の韓国内で、この東学党の乱の意義はどのように定義されているか少し気になった。浅学ながら、この東学党の乱が最初で最後の大規模な帝国主義に対する武装抵抗運動であったと思う。当初は、朝鮮政府に対する抵抗であり日清の介入を招いたことから双方合意で一旦解散している。しかし、日清戦争後に日本軍を後ろ盾とする政府軍と戦ったという記述を目にした。それ以後、表立った抵抗運動を知らない。となると、今の韓国内では高く評価されている反乱なのかなぁと思ったりもする。

日本側から見れば東学党の乱は、日本軍を駐屯させ、清を朝鮮から追い出す絶好の契機を与えてくれたという見方が大勢で、それ以上掘り下げられているものをあまり見ない。日清戦争以後の政局についての記述は、この章ではされておらず、第二十一章、第二十二章辺りで述べられているようなので、楽しみである。

『朝鮮紀行』第十三章に戻る。バードは6月21日に済物浦に到着し、事が尋常でないことに気づく。日本の軍艦6隻、アメリカの旗艦、フランスと清の軍艦が2隻ずつ、ロシアの軍艦1隻の計12隻の軍艦が集結し、日本軍が大量に上陸を開始しているのを目撃している。これに伴う済物浦のパニック状態になり、800人の清国人が脱出したと記している。日本軍が6,000人の軍隊を上陸させ、ソウル郊外の南漢山に本営した行動にに対して、その手際のよさに驚き、各国が完全に出し抜かれたともある。

彼女は、こうした日本の動きを次のように分析している。

済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものでもないことがわかっていたはずである。ぐらついた日本の内閣が失墜か海外派兵かの二者択一をせまられたのだとさまざまなすじは言い、またそう信じた。しかしこれはまったくのこじつけである。日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地がない。朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食料についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを測り、三ヵ月分の米を朝鮮でびちくしていたのであるから。そしてその一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にまでも足を運んで清国の強気と弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミーの銃器、旧式で鋳ぞこないの多いカロネード砲について報告していたのであるから。
『朝鮮紀行』-第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」-
この情報量、彼女は何者なのでしょうね。「著者まえがき」には次のようにある。

朝鮮政局のあらましに関する章は公的な文書と一般には接触できないすじからの情報をもとにしている。
『朝鮮紀行』-著者まえがき-
日本兵については、下記のように記している。

どの兵士も自分の任務を心得、それを全うする気でいるように見える。高慢なところはひとつもない。軍服を着て充分に武装した矮人(こびと)たちは、明からに目的を果たす心づもりで朝鮮に来ている。
厳格に統制された折り目正しい矮人の大隊は着実にソウルへと進軍しつつあった。
『朝鮮紀行』-第十三章「迫りくる戦争/済物浦の動揺」-

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