Sunday, February 12, 2012

Korea and her Neighbors part8 from inside Kotatsu

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朝鮮紀行(8)-日清戦争-

[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。

第十六章「奉天」は、奉天についてに概略から始まる。

現王朝との関係により、二六万人の人口を擁するこの都市は公式に清帝国第二の都市であり、北京の「省庁」はひとつの例外をのぞいて名目上はここにも同じものが置かれている。
『朝鮮紀行』-第十六章「奉天」-
以後、あらゆる面を詳細に記し、奉天を紹介している。観察眼と取材力に改めて驚かされる。

第十七章「奉天の動揺」は、奉天滞在中は日本との戦争の噂で持ちきりであったというところから始まる。第十三章の東学党の乱から日清戦争勃発までの奉天で体験した変化を主に記している。以下バードに記述に従い、時系列にまとめてみる。

日清戦争(1894年)
6月7日
天津条約に基づき、清は朝鮮に援軍を派遣することを日本に通告する。これに対して日本も同様に軍を派遣することを通告する。
清は、牙山に3,000人の兵を上陸させ、日本は済物浦とソウルを占領する。
清は、外交文書の中で朝鮮を「わが国の属国」と2度表記するが、日本はこれを認めず、朝鮮統治に関して日清合同で行ってはどうかと3項目の提案を清側に示す。
財政管理の調査
中央官吏、地方官吏の選定
国防および国内平和維持を目的とする訓練を受けた軍隊の創設
これに対して清側は「朝鮮は自力で更正すべし」、「日本軍はいかなる折衝も求めず徹底すべし」とこの3項目を退ける。この提言を日本側は拒否する。
7月14日:日本は、「軍をこれ以上送れば、好戦的行為とみなす」と清に通告する。
7月20日:日本は「朝鮮国王に対して清国軍への撤退命令を要求し、それに応じなければ、「決定的手段」を講ずると威嚇した。」
列強各国は、両国に同時撤退を提案する。
7月23日:日本が「決定的手段」に出て国王を幽閉し、国王の父である大院君が実権を握る。
7月25日:清国兵1200名を運搬中の輸送船が、日本の巡洋艦浪速に撃沈される。
7月29日:牙山の戦いで日清が衝突し、清軍が撃退される。
7月30日:朝鮮は清との条約を破棄する旨を通告する(清の朝鮮への宗主権を認めない)。
8月1日:日清、宣戦布告。
このような情報は奉天滞在中は入ってこず、奉天は7月中旬ごろまでは全く平静であったと記している。当時の奉天の様子は、清の他の都市に比べて外国人が滞在しやすく、城内も比較的安全で1人で出かけて写真を撮ることができたなどと記している。「洋鬼子」という侮蔑語に「立派な」という接頭語が付いていたとある。

しかし、清軍が通過するようになった7月下旬頃から情勢が一変する。清の兵士たちが通過するだびに、町で手当たり次第に略奪行為を行うようになり、西洋人に対する風当たりも強くなり、奉天から40マイル離れた遼陽では、キリスト教の宣教師が撲殺されたと記している。

行軍する清の兵士達の武器についても詳細に観察している。前時代的で種類も多く、そのため玉を捜すだけで一苦労で、とても日本軍に勝てそうにないと断言している。牙山の戦い以降になると清の兵士達も勝てない戦いであるということを自覚しだしたようで、西洋人を見ると「こいつらの洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」と言ったり、反乱し護衛から撃つぞと威嚇された際に「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したと記している。

戦況が悪化し、反外国人の気運も更に激しくなり外国人にとって危険な状態となり、著者は8月20日に奉天を脱出し、8月25日に牛荘に到着している。

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