Tuesday, May 29, 2012

Kim Ok-gyun sensei,distress in Shanghai

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Kim Ok-gyun
金玉均先生、上海での遭難(高宗三十二年三月二十八日) 《前篇》
傑作(1)2009/3/28(土) 午後 9:30韓國・朝鮮アジア情勢 Yahoo!ブックマークに登録

李朝朝鮮の末期、朝鮮の政界は大きく分けて開明派・獨立黨(開化派)と事大黨(守舊派)とに分かれ、抗爭を繰り返してゐた。

開明派・獨立黨とは、明治維新に成功して近代化を果たしてゐた日本を手本として朝鮮の政治體制の近代化と開化を果たし、朝鮮の清國からの完全獨立を目指す黨派であり、主要な人物としては金玉均、朴泳孝、徐載弼などが居た。
一方の事大派とは、從來通りに清國に隷属し、其の影響力の庇護の下に舊來からの王族と兩班に依る王朝政治を目指す黨派であり、當時の朝鮮國王・高宗王の王妃であつた閔妃の一族が主な顔触れであつた。

しかし、當時の東洋情勢は、正に西歐列強からの蚕食の危機に瀕してゐたのであつた。
既に西暦1840~42年には清國が英帝から阿片戰爭を吹掛けられて敗北を喫し、英國とは南京條約を、米國とは望厦條約を、そして佛蘭西とは黄埔條約をと、次々に不平等條約を結ばされ、さしもの大清帝國も累卵の殆きに瀕してゐたのだ。英國は更に、西暦1852年には印度のムガール帝國を滅ぼして、印度を完全に植民地化した。

そのやうな時代情勢にも關はらず、李朝朝鮮は「日本の平安朝時代」と大差無い貴族政治の下に在り、それのみならず其等の貴族=兩班は暴政を恣にして庶民を壓迫し、法もへつたくれも無く氣嫌次第で笞刑等の刑罰を課したり、勝手に民を常民や白丁へと身分を落としたり、或ひは公然賄賂を要求するが如き有樣で、政治は中央も地方も腐敗堕落を極めてゐた。


此のやうな時代の中、金玉均先生は哲宗二年(日本の嘉永四年、西暦1851年)一月二十三日(太陰太陽暦、太陽暦:二月二十三日)に朝鮮忠清南道公州市で、安東金氏を本貫とする兩班であつた金炳臺の長男として生まれた。字は伯温(ペゴン、백온)。號としては、古●(●は竹冠に「均」、コギュン、고균)、古愚(コウ、고우)、又は南海牧牛子と號した。

六歳の時に從叔父である金炳基の養子となり、漢城(現・ソウル)にて成長した。養家は仙源文忠公の直系である世道金氏と云ふ由緒有る兩班の家であり、養父・金炳基も官三品を越え、守牧の地位を經て、後に江陵(カンヌン)府官に任じられた。

金玉均が十五歳の年であつた高宗四年(1866)に、朝鮮は大きな轉機を迎へた、
歐米からの二つの武力攻撃を受けたのである。米軍艦シヤーマン號に依る平壌攻撃と、佛蘭西艦隊に依る江華島攻撃であつた。

此の年は、日本では慶應二年に當たる。日本も朝鮮も、正に歐米列強からの「砲艦外交」に依つて、力づくでの「開國」を迫られてゐる時期であつた。
ところが、當時の李朝朝鮮では、朝鮮國王・高宗の父である大院君が實質的に政治權力を握つてゐたのだが、大院君は矯激な排外鎖國に邁進するばかりで、外國との交渉には一切應じる姿勢は見せなかつた。
日本は其の後間も無く、明治維新を迎へ、開國と近代化を推進すると共に、粘り強く不平等條約の改正に努めるのであつたが、李朝朝鮮は斯かる日本に對して「夷狄に魂を賣つた人非人」扱ひをして、關はりを絶つてしまつた。


金玉均は、齡二十二歳にして科舉文科に莊元(首席)で以て及第し、高級官僚の道を歩み始める。
しかし、由緒有る兩班の家の出であり、科舉首席及第と云ふ、現體制で必ず出世する事が約束される場所に居ながら、現體制の主流である「對清從属・排外鎖國」政策には與せず、清國との宗属關係を斷ち日本の近代化を手本とした朝鮮の近代化を目指す「開化派・獨立黨」の中心的人物となるのである。

高宗十四年(明治九年、1876)から、日本との關係が修復され、日本への「修信使」の第一次派遣が開始された。其の第一次修信使として派遣された金綺秀の「日本見聞録」は、朝鮮の開化派人士に日本情勢を傳へる大きな役割を果たした。
更には、高宗十九年(明治十四年、1881)に、十二個班から成る日本視察團が派遣された。

視察團の參加者から日本の目覺しい近代化を聽いた金玉均は、自ら訪日する事を決意し、同年に初訪日を果たしたのであつた。
數次に亙つた訪日に際しては、興亞會(後の亞細亞協會)の集りにも出席し、朝鮮・日本・清國の三國の協調を目指した「三和主義」を提唱し、之に基づいた「興亞之意見」などを發表したりもした。

慶應義塾の福澤諭吉も、金玉均や朝鮮からの留学生に對して、宿所提供や資金援助など樣々な側面で、支援を惜しまなかつた。


此のやうに金玉均が「開化派」として日本との協調と朝鮮の近代化を主張する中、大院君を奉じる事大黨・守舊派の動きに對して、當の時の朝鮮國王・高宗は多分に「日和見主義」であつた。
それでも尚、金玉均は高宗王を自陣營側に引き入れる事に成功し掛けた。

高宗二十一年(明治十五年、1883)十一月二十九日(太陽暦)、高宗は金玉均を宮殿に呼び出し、「危機が勃発した際には、金玉均の計劃に從ふ」との王からの密勅を受けた。
之を受けて金玉均は同年十二月一日、クーデター計劃の細部計劃を策定する。

そして、其の三日後の十二月四日、郵征局落成式の祝賀宴に紛れての政變を發動した。
世に謂ふ「甲申事變」である。

高宗は遷幸を決めると共に日本の援軍を求め、此れに應じた竹添進一郎・駐朝鮮公使と朝鮮駐箚の日本軍部隊の一個中隊が驅けつけて、遷幸先の景祐宮と朝鮮王室の護衞任務を引き受けた。
斯かる情勢下、一夜の内に閔氏を中心とする事大黨の主要メンバーは悉く肅清された。

十二月五日、高宗に謁見に參じた米公使館附海軍武官を通じ、米公使に米國としての政變への賛否を問ふた所、米側は「朝鮮の内政改革を支持する」との回答を寄越した。
そこで、金玉均は新内閣の名簿を發表した。
金玉均は自らは戸曹參判に、領議政=李戴元、左議政=洪英植、前官營使・左捕將=朴泳孝、兵曹參判兼正領官=徐載弼などとするものであつた。

又、高宗王の稟議を戴いて十四箇條から成る改革の新綱領を發した。
其の一部を、「甲申日録」から抜粋する。
一、大院君は日を追つて還國される。朝貢の虚禮は廢止する。
一、門閥を廢止し、人民平等の權利を制定し、才能を以て官を選び、官を以て人を選ぶ事の無きやうにする。
一、國を通して地租の法を改革し、吏奸(官吏の不正)を杜ぎ、民の困を救い、國用を裕かにする。
一、内侍府(宦官や女官)を廢止し、其の中でも優才有る者は登用する。
一、前後奸貪にして國を害すること最も著しい者には罪を定める。
一、各道の還上(政府への償還穀)は永久に廢止する。・・・・・・
などと云ふ、當時の朝鮮としては劃期的なものであつた。


ところが、此の政變劇は眞に呆氣無く終焉を迎へた。

十二月六日、袁世凱率ゐる清國軍(兵力約二千名)の介入に依り、朝鮮を一氣に近代化する事を目論んだ政變は、あつさりと潰されてしまつたのだ。
清國軍は高宗の座ます宮殿を包圍し、日本公使館を襲撃し、更には漢城市中では略奪・暴行・放火と暴虐の限りを盡した。支那の軍隊の不規律振りと残虐非道である事は、何時でも何處でも斯うなのである。

竹添公使は日本軍部隊の撤退を決意、其の後は百餘名に過ぎぬ「朝鮮革命軍」が奮戰するも、衆寡敵せず程無く壞滅した。


そして、金玉均は同志と共に一旦は日本公使館に匿われた後、日本への亡命を餘儀無くされる。
十二月十一日に仁川港から船で朝鮮を離れた金玉均は、井上角五郎らの助けで日本に亡命する。
日本亡命中には、「岩田秋作」と名乘つていた。



※ 寫眞解説
・ 金玉均先生肖像寫眞
・ 金玉均の書(小山宗一に與ふ) 『宜爾寶家』



・・・・・・《後篇》へと續く・・・・・・

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・・・・・・《前篇》から續く・・・・・・


朝鮮の維新革新は、遂に成つたかに見えた。

だが、其の八日後の十二月六日、袁世凱率ゐる兵力約二千名の清國軍隊が介入して來た。政變で危く失脚し掛けた閔氏一派が、清國北洋軍閥の袁世凱に援助を要請したのである。清國軍は日本軍の僅か一個中隊(兵力・約三百名)でしかない守備隊の護衞を破つて高宗の潜行先である景祐宮を包圍し、更には日本公使館に襲撃を加へた。それのみならず、漢城市中では支那軍と支那兵の通弊である略奪・暴行・放火が横行し、街は阿鼻叫喚の巷と化した。

斯くして、此の甲申政變は實に呆氣無く潰えてしまつたのであつた。
其の後も暫時は「朝鮮革命軍」が奮戰したものの、その兵力は僅か百餘名に過ぎず、壓倒的な兵力を擁する清國軍の前には衆寡敵せず、程無く壞滅してしまつた。

此の状況を觀て、竹添進一郎公使は日本軍部隊の撤収を決意し、竹添公使は自らも部隊と共に漢城からの脱出を圖つた。
日本軍敗走で去就を迫られた金玉均ら開化派人士は、多くは守舊派の毒牙に掛けられて死するよりは竹添公使に追從して一縷の命を繋ぐ事に期待を懸けた。だが、洪英植と朴泳教の二人と士官生徒七名とは「死するとも御駕に從ふ」と主張して北廟に赴いたが、忽ち反對黨らと清國兵に取り圍まれ、彼等は其の場で斬殺された。金玉均や朴泳孝らは高宗王に暇を乞ふて昌德宮兩側を傳ひ北山山麓に至り、更に校洞の日本公使館に向つた。竹添公使と日本軍將兵、そして金玉均等は、漢城市内のあちこちで度々市街戰を繰り返しながらも麻浦から漢江を渡つて仁川へと向ひ、そして日本船「千歳丸」で海路日本へと脱出した。
此の時、國王の使者として差し遣はされたメルレンドルフが開化黨員の引渡しを要求したが、千歳丸船長は船長權限を楯に頑として撥ねつけ、漸くながらも日本人としての矜持と侠氣を守舊派らに見せ付けた。


物心兩面での支援に一縷の期待を繋いで日本に亡命して來た金玉均等であつたが、日本の政府は彼等を甚だ冷淡に取り扱つた。
井上馨外相は當初は面會すらも拒み、漸く面會に至つては「日本は準備も無しに清國と交戰する事は出來ない」と述べ、次いで「これからの貴公らの自活の策でもよく講じて欲しい」と冷たく言い放つばかりであつた。日本側の表立つての立場としては致し方の無い發言ではあるが、金玉均等がさぞ落膽したであらう事は想像に難くはない。
未だ若い徐戴弼は、年長の同志等が引き止めるのを振り払つて、井上外相に對し「これが日本の武士道の本體か。我々は貴國を信じてきた。しかし、今になつては貴國は我々を裏切りながら、少しも顧みない。これ以上何も期待しない」と述べ、間も無く朴泳孝・徐光範と共に米國へと渡つて行つた。續いて鄭蘭教と申應熙も日本を離れ、日本には金玉均ら四名が殘るのみとなつた。
もう既に此の時には、金玉均らは日本政府からは「厄介者」としか見られぬ存在となつてゐた。


金玉均は各所を轉々とした末、身の自由を奪はれた事實上の「流配」として、小笠原に二年間、そして北海道には二年四箇月間滞在する。

金玉均が正式に「流刑」を解かれたのは、明治二十三年(1890)十一月二十一日であつた。
十一月二十二日付の「國民新聞」は、此の間の状況を次のやうに傳へてゐる。
「金玉均氏解放せらる。京城の大變、身を日本に隱してより春花秋月、徒ろに憂愁困苦の中に送りたる韓客金玉均氏は、先年政府のために横濱に退去せしめられて北海に移され此程は願を以つて出京なりしが、昨一日午後二時、麹町區警察署の警部大庭貫一氏は命を金氏に傳々曰く、自今以降、解放す、何の日何の處に住居するとも差支へなしと、されば從來毎月五十圓づつ支給せしも自今廢止せり、と傳ふ。知らず今後氏の舉動果たして如何。」

金玉均は、自由と引換えに自活の道を模索しなければならなかつた。亡命生活も末頃には、日本國内での官民の同情も薄れつつあつた事も小さくはなかつた。或る時、朝鮮開化を訴へに長崎方面に旅した際には、旅の途中で無一文となつてしまつて汽車の切符すら賈へぬ程に、生活に困窮してゐた。


之とほぼ時を同じくして、金玉均には刺客の魔の手が忍び寄りつつあつた。
此れは單に朝鮮國王の手の者のみならず、金玉均が「日本の手先」であると勘繰つた清國の袁世凱一派も亦、金玉均を亡き者にしやうと暗躍してゐたのであつた。身柄の解放から、其の上海での横死までには三年半しか時間は殘されてはゐなかつたのであつた。

日本に亡命してより約十年、金玉均は焦りを感じつつあつた。未だに朝鮮の近代化と革新は果たし得ず、然も政治資金は思ふやうには集まらず・・・。
そこに付け込んだ者が居た。李逸植は「刺客」の正體を隱して朴泳孝や金玉均への接近を圖つた。そして、政治資金の援助を申し出て信用を得て行つた。そして李は之と同時に、金品と官職とを餌に、佛蘭西歸りの洪鐘宇を金玉均暗殺の實行犯として誘ひ込むのに成功してゐた。

李逸植がそのやうな惡辣な腹積りを持つてゐるとも知らずに、金玉均は李逸植に政治資金調達の良策は無いかを相談してしまふ。
ここぞとばかりに李逸植は、金玉均に清國への渡航を勸め、清國で北洋大臣の李鴻章・李經芳父子と會見し、彼等に頼つて資金工作をする事を持ち掛けた。更には、旅費も支辨しやうとまで言ふ。
此の姦計に、金玉均はまんまと乘せられてしまつた。
冷やかさを増す日本での扱いぶりに業を煮やし掛けてゐた所へ、予てからの持論である朝鮮・日本・清國の三國の協調と云ふ「三和主義」の理想が、理性的な判斷力を終に抑へてしまつたのだ。


斯くして、明治二十七年(1894)二月頃から日本の親しい同志に清國渡航の意向を洩らし始めてゐたのだが、頭山滿翁や犬養毅などは夙に洪鐘宇や李逸植らを怪しい人物だと見抜いて居り、頭山翁などは「彼らは唯の鼠ではない。迂闊に交りを續けると九匁の功を一簣にかくやうなことがあるぞ」と警告したのだが、金玉均は「僕もさう思つてゐるのだが今更どうにも仕方がない。虎穴に入らずんば虎兒を得ずといふ譯だ。天は我々を只で生んでくれたものでもあるまいから心配してくれるな」と自らを勵ますやうな口吻を洩らすばかりであつた。
頭山滿翁は金玉均の身を深く案じて、此のやうに必死に清國行きを考へ直すべく説得に努めたのだつたが、金玉均の意志は堅く、表向きには「京阪地方に旅行する」と云ふて、三月十日に東京を出立した。そして一旦大阪に逗留して渡航準備を整えた後、三月二十三日に日本郵船會社の汽船「西京丸」に乘つて上海へと神戸港を出帆した。
實は金玉均自身、李逸植や洪鐘宇が「刺客」である事には既に氣付いてしたもののやうである。大阪滞在中に、書生の和田少年に對して「權兄弟や洪や李は、實は私を殺しに來てゐる連中だ。しかし私はあの連中に殺されるやうな男じやない。心配するな。たださういふ連中であることを心得てゐてくれればよい」と語つてゐたとされる。

三月二十七日の午後、西京丸は上海に入港し、金玉均等は日本人の經營する旅館「東和洋行」に入り、金玉均と書生の和田進次郎は二階一號室に入り、刺客・洪鐘宇は隣室の二號室に入つた。



・・・・・・《後篇》に續く・・・・・・

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先覺・金玉均先生墓前祭(H22.3.27)に參列して、日韓近代史を思ふ 《後篇》
傑作(0)2010/3/29(月) 午前 5:15韓國・朝鮮アジア情勢 Yahoo!ブックマークに登録

・・・・・・《中篇》から續く・・・・・・


翌三月二十八日。
洪鐘宇は朝鮮服に着替えて、午後三時頃に一號室を訪問した。金玉均は洋服の上衣を脱して籐椅子に横臥し、小説を讀んでゐた。
洪鐘宇は、和田進次郎が階下に下りた隙を窺つて、隱し持つてゐた拳銃を取り出して狙撃した。第一彈は左頬舌下方を貫通して腦に達し、第二彈は腹部に、第三彈は左背部に命中した。
戸外へと慌てて逃走する洪の姿を怪しんだ和田少年は、東和洋行の建物を出て追跡を圖つたが、北大橋附近で見失つた。
二階に宿泊してゐた海軍大佐・島崎忠好が變事を階下に急報し、和田少年は直ちに金玉均の傍らに驅け寄つたが、金玉均は既に瀕死の状態にあり、醫師を呼んだもののその到着を待たずに絶命した。享年四十四歳。
李朝朝鮮末期の開化派・獨立黨の巨人・金玉均先生は、祖國朝鮮を石もて追はれる如くに去つてから十年餘、閔妃一派の手の刺客の手によつて、遠く上海の地に於いて落命した。嗚呼。
歴史に「假定の話」は嚴に禁物だとは申せ、もしも「甲申政變」が成功してゐたのであれば・・・。其の後の朝鮮の政治と社會、そして日本との關係は、其の後に現に朝鮮が辿つた道とは大きく違つたものとなつてゐたであらう事は間違ひあるまい。

金玉均の遺體は、日本へと運ばれる手筈であつた。だが、和田少年が船會社と交渉してゐた隙に清國官憲の手に依つて持ち去られてしまひ、翌三月二十九日に上海を出港した清國軍艦「咸靖」で、朝鮮へと運ばれた。
金玉均の遺骸は四月四日に楊花津(切頭山)に着くと、四月十四日に「大逆不動罪」の罪名に據つて首・胴・手足などを六つに分斷される「凌遅處斬刑」に處された。バラバラにされた遺骸は處刑の其の場で三叉状に組まれた木棒に吊るして三日間に亙つて曝され、後に朝鮮八道でも曝された。更に其の後、遺骸の一部は生地・公州に送られて梟首された。何とも、むごい限りである。

「『逆賊』金玉均」暗殺成功の報は、朝鮮宮廷では狂喜亂舞を以て歡迎された。李鴻章は朝鮮王廷に對して「祝電」を打つた。民衆も又、金玉金の死を上下舉つて祝したのだと傳へられる。
それ故もあつてか、日本では没後百十六年にもなる今でも尚、斯く墓前祭が執り行はれてゐるのにも關はらず、金玉均先生の祖國・韓國で墓前祭や追悼行事が行はれたと云ふ話は寡聞にして耳にした事が無い。


金玉均先生の日本での葬儀は、五月二十日に淺草の東本願寺で執り行はれ、約二千名が會葬したと傳へられる。今の青山墓地の金玉均先生の墓所は、其の葬儀の當日に建てられたものである。書生であつた和田進次郎が持ち歸つた金玉均先生の遺髪と服の裾の切れ端を納め葬つたものであり、交詢社を中心に集まつた故人の友人等で結成された「故金玉均氏友人會」に依つて建立されたものである。
建立當初の墓地幅は十五尺、「金玉均君之墓」と記された二尺角の墓標が立てられ、其の上を板葺き屋根で覆はれてゐたと傳はる。そして後の明治三十七年(1904)に、金玉均先生の嗣子・金英鎭氏が各有志の支援を得て現在の墓碑を建てたのださうである。
日本國内には他にも、東京都文京區向ヶ丘の眞淨寺に、金玉均に深く私淑してゐた甲斐軍治氏が建立した墓地がある。甲斐軍治は漢城で寫眞師として活躍してゐたのだが、金玉均先生慘刑の地から遺髪を掠め取り、それを眞淨寺に埋葬したものだと云ふ。

尚、現在行はれてゐる青山墓地での金玉均先生墓前祭は、そもそもは青山靈園外人墓地改修問題に對して、然るべき對應が取られる事を願つて、四年前に再開されたものであると聞く。
日本の官は、昔も今も猶、金玉均先生に對して斯くも冷たく當たるのか。


金玉均先生の没後、日本の輿論は朝野を舉げて清國の横暴に對して憤激し、遂に日清間に戰端が開かれる事となり、日清役終結後に朝鮮國は清國の属邦から脱して一應の獨立を果たして「大韓帝國」と國號を改めたものの、其の大韓帝國は程無く日本の保護國と化され、日韓民間志士の呼號する「日韓合邦」の理想とは程遠い強權的な「韓國併合」への道を辿ることとなる。

これら「日韓合邦」と「韓國併合」との二つの概念は、嚴に峻別されなければならぬ。朝鮮の歴史や傳統、そして國情を無視して力づくで推し進められた「韓國併合」は、「日本の御蔭で朝鮮は近代化した」との肯定的な評価も一部には有るとは申せ、表にはなかなか出て來ぬ怨恨を韓人に植ゑ付ける結果を殘してしまひ、現實問題として後々までも少なからぬ禍根を殘す結果となつた事を否定し切れるものではないものと、私は考へる。
今回の墓前祭に參加された、昭和三年生まれの韓國の退役空軍軍人の古老は、「十七歳までの私の人生は素晴らしいものであつた。志願して帝國陸軍に入隊し、航空隊で勤務させて貰つたが、日本陸軍は精強で士氣旺盛な素晴らしい軍隊であつた。そして、朝鮮と内地での差別は殆ど感じなかつた。しかし、日本の手を離れてからの韓國は目茶目茶だ、特に金大中・盧武鉉政權時代の十年間は・・・」と言つて下さつたが、矢張り「韓國併合」と其の後の治世の幾つかの部分には大きな瑕疵が有つた事を、我等は虚心坦懐に認めない譯には行かないであらう。

日本の大亞細亞主義の志士たち、殊にも「日韓合邦運動」の主唱者たる内田良平翁は、日韓が手を相携へて共に發展に邁進するの理想を含んだ「日韓合邦」とは程遠い、總督府の武斷的且つ強權的な朝鮮統治政策の在り方を強く批判してゐた。
内田良平翁が主宰する黒龍會が編纂した「日韓合邦秘史」では「その統治に於いて全然韓人の民情風俗を無視し、壓迫睥睨ただその主權を頑守するの外、何等の能事を示さなかつた」と論難され、黒龍倶楽部編の「國士内田良平傳」では寺内正毅・初代朝鮮總督の統治政策に就いて「寺内總督の官僚的な武斷政治と同化主義の植民政策は、眞に朝鮮統治の眞諦を解するものとは言へなかつた」と斷ぜられてゐる。
韓國併合成立後も幾度にも亙つて、朝鮮施政改革に關する意見書を政府に對して提出してゐる。中でも大正三年四月の「朝鮮統治制度に關する意見書」で内田翁は、「(1)朝鮮の國情に適應した立法議院を設立し、朝鮮人に參政權を與へること、(2)地方議會を組織し、自治の權利を朝鮮人及び移住民に付與すること、(3)朝鮮人の戸籍法を制定して徴兵制を布き、國民皆兵を實現すること、(4)文武官任用の門戸を大規模に解放すること、(5)朝鮮大學を京城に設け、日鮮人の思想の同化統一を圖ること」などを求めた。
更に内田翁は同志を糾合し、民族的結合に依り内鮮人間における徹底的渾融同化を圖る事を目的とし、而して朝鮮に於ける制度の改善・人種の平等擁護・朝鮮人功勞者の表彰等の實現の爲に、大正十年二月に「同光會」を設立した。
内田翁の朝鮮政策改善への熱い思ひは、晩年に至るも衰へる事は無かつた。昭和十年二月にも時の朝鮮總督・宇垣一成陸軍大將に對して、「内鮮人の差別的待遇を撤廃しなければ、合邦は完成しない」と云ふ事を強く主張し、遂には其の旨を宇垣總督に同意させるに到つた。


金玉均先生の上海での横死から、既に百十六年もの歳月が過ぎ去つた。
そして、かの「韓国併合」から、今年は丁度百年目の節目の年となる。

今や朝鮮半島は、南北に二分されてから約六十年を閲する。所謂『民主主義』を基調として戰後日本に勝るとも劣らずアメリカナイズされた「大韓民國」と、社會主義を基盤としつつも金日成・金正日父子を父と仰ぐ「朝鮮民主主義人民共和國」とが、北緯三十八度線附近の非武裝地帯を挾んで嚴しく對峙してゐる。
日本國は、そして日本人たる我々は、これからどのやうに朝鮮・韓國と對し、そして付き合つてゆけば良いのであらうか。北鮮の日本人拉致問題は、確かに由々しき問題である。だが、それのみを攻撃材料として北鮮を闇雲に敵對視して制裁を科するばかりでは問題は解決し得ず、また却つて惡意ある第三國の不當な干渉に付け込まれる一因とも成り得やう。韓國の「反日感情」、互ひの國の左寄りのマスメデイアや教職員組合が無責任にも煽り立てた結果、實情から遠く離れた觀念論的世界に於いて大きく増幅されてゐる。或ひは、日本での「嫌韓感情」は、所謂『保守派』等の感情的な對應のために必要以上に拗れつつある。そして、竹島問題は、所謂『從軍慰安婦問題』は・・・。

答を見出さむとするも、容易に之を見出し得ず、私は天を仰ぐばかりである。僅かに日本海や玄界灘を隔てたのみの隣邦でありながら、否、なまじに文化的にも血縁的にも近い隣邦であるが故にこそ、寧ろ斯くも難しい關係となつてしまふのであらうか。
然し、日韓・日朝の問題を先送りするばかりでは、我等は再び歐米の「餌食」とされてしまふのではあるまいかと、少なからず危惧の念を抱くのである。
日韓の東亞先覺の當時の思ひとは、如何なるものであつたのであらうか。

抜けるやうな青空の下、開き掛けた櫻花の木陰の墓前で斯く考へを致してゐたら、金玉均先生の語り掛ける聲が何處かからか聞えたやうな氣がした。

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