Tuesday, June 26, 2012

fight against terrorism under the Great Kanto Earthquake


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog665.html
■■ Japan On the Globe(665) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 震災下のテロとの戦い

関東震災直後の混乱の中で、朝鮮人独立運動家たちは被災民に対して無差別テロを仕掛けた。

■1.「朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、、、」

関東大震災の翌年、大正13(1924)年5月、在東京英国大使館から、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド英首相に、あるパンフレットが送付された。『日本での朝鮮人大虐殺』と題した小冊子で、横浜の英国総領事あてに郵送されてきたものである。その中には、次のようなおどろおどろしい記述があった。[1,p245]

1923年9月1日ごろ(JOG注: 震災当日)、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、「朝鮮人の老若男女を街角で見つけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ」と指示した。・・・

騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。このようにして殺された人数は次の通りである。

ハダ(羽田?)2000、隅田川沿い400、品川300,サキダマケン(埼玉県?)駅400・・・

しかし、最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。「朝鮮人だ、朝鮮人だ」と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。・・・

2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと」だ。

「眼球をくり抜いて鼻をそぎ」というのは、中国や朝鮮でかつて行われていた虐殺方法だが、我が国では聞いたことがない。どうも「南京事件」と同様、中国や朝鮮が絡むと、そこに登場する日本人は突然、大陸・半島風の残虐さを発揮するようだ。

今日でも流布されている関東大震災における「朝鮮人虐殺」が、すでにこのように国際的な政治宣伝に使われていたのである。


■2.「そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではない」

この小冊子を本国に送るにあたって、在京英国大使館は次のようなメモをつけている。[1,p244]

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小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いのない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の著者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を扇動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。

東京や横浜の住民は恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではないと考えています。
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すなわち、英国大使館の見る所では:

・大震災後に多くの朝鮮人が虐殺された。
・日本の当局がそれを扇動したわけではない。
・住人は、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火した、と思った。
・そう思い込んだのは、根拠がまったくないわけではない。

当時の英国大使館といえば、中立的客観的な見方のできる立場にあった。当時の史実を丹念に分析した工藤美代子氏の労作『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』があきらかにしたところも、この英国大使館の見方を大筋で一致している。


■3.震災下のテロ

「住人たちが、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火したと思った」のは、「根拠がまったくないわけではない」、という点を工藤氏は詳細な事実で明らかにしている。それによると、真相は次のようであった。

震災前から朝鮮の独立運動家たちが、様々なテロ攻撃を計画し、実施してきていた。ちょうど、アメリカでの9.11事件を引き起こしたイスラム過激派のテロのように。

そこに発生した関東大震災を好機到来として、朝鮮人テロリストたちは一般家屋への放火や、一般の日本人民衆を殺害し、混乱を増大させて、独立運動を盛り上げようとした。

自衛のために、東京・横浜の各所で自発的に自衛団が作られ、一部の地域ではテロリスト集団との戦闘まで行われた。またその過程で、過剰防衛により殺害された朝鮮人もいた。

この混乱を抑えるために、戒厳令が敷かれ、軍・警察が騒乱を鎮圧した。政府は「朝鮮人は全部が悪いのではない」と必死で政情安定に努めた。

以下、工藤氏の著作から、ポイントとなる史実を追ってみよう。


■4.朝鮮人テロ集団

日本統治下の朝鮮半島では、食糧増産、医療の普及によって、急速に人口が増加した。併合前の1906年(明治39年)に980万人だった人口が、その後の20年間で1,866万人へと倍増した[a]。

その結果、職を求めて内地に移住する朝鮮人も増加した。在日朝鮮人の人口は、大正7(1918)年に1万4501人だったが、5年後の震災の年には8万617人と急増している。

その中に、朝鮮独立を目指すテロリストたちが混じっていて、さまざまな事件を起こし、それが次のように新聞に報道されていた。

「首相邸を襲わんとした鮮人の大陰謀露顕-爆弾数個と陰謀書類」
「在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見」
「大仕掛けの武器密売 拳銃1万挺、挺彈90万発」

「密売」とは、神戸在住のある日本人が青島の朝鮮独立家に大量の武器密輸を図ろうとして逮捕された事件である。このように震災の前から、朝鮮人テロリスト集団は活発な活動を続けていた。


■5.走り回る巡査、警鐘の響、ワーッと言う様な喊声(かんせい)

大地震は大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した。地震による家屋倒壊に引き続き、大火災が発生して、死者・行方不明者10万5千余人、家屋全・半壊23万戸、家屋全焼失44万7千戸、避難人数190万人以上とされている。

こうした大災害の直後には、警察も機能不全に陥り、略奪や暴動が起こりがちである。2005(平成17)年8月末にハリケーン「カトリーナ」に襲われたニューオーリーンズでは、市内のあちこちで黒人による暴動、放火が発生したと報じられている。

阪神淡路大震災の際には、被災地の人々の冷静な行動が世界を驚かせたが[b]、逆に言えば、大災害の後に無秩序状態になるのが、世界の常識なのである。

東京・大森に住むある夫婦は次のような体験談を残している。[1,p117]

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巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗って駆けて行く。それを捉えて「どんな形勢ですか」と訊ねると彼は「今○○の数300人程が団体を作って六郷川で青年団や在京軍人団と闘って居る。其中の5、60人が鞠子(まりこ)の渡し付近から馬込に入り込んだと云う情報がありました、そうして鞠子を渡った処で15、6人女や子供を殺したそうです。皆さん警戒して下さい」と叫びながらどこかへ飛んでいく。

自分はこれは誠に容易ならざる事と思った。(略)警鐘の響が四方八方から起こる。ワーッと言う様な喊声(かんせい)がどこからか聴こえる。(中野栄談「福岡日日新聞」大正12年9月23日。伏字部分は他の関係資料によれば朝鮮人を指す蔑称が入る)
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巡査が走り回り、四方八方で警鐘が鳴り、「ワーッと言うような喊声(大勢で突撃するときなどにあげる叫び声)が聞こえる。「朝鮮人による暴動」は流言飛語に過ぎないとするには、あまりにもリアルな情景である。


■6.馬のまぐさを保管する倉庫から爆発音

2日の午後になって、不審火が空屋、小学校、商業ビルなどから新たに発生し、市内をさらなる混乱に陥れた。その一つにこんな体験談が新聞に報じられている。[1,p125]

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これより先、越中島の糧秣廠(JOG注: りょうまつししょう、軍が馬の秣(まぐさ)を保管している倉庫)にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約3千人が雲集していたところが、その入口の方向に当って異様の爆音が連続したと思うと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。

そして爆弾は所々で炸裂する。3千人の避難者は逃場を失って阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞った。
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馬のまぐさを保管する倉庫に爆弾が置いてあるはずもないし、火の気があるはずもない。しかし、乾燥したまぐさは火をつければ、勢いよく燃え上がる。誰かの仕業だろうと疑うのは、当然である。

在京軍人団や青年団が捜査した結果、爆弾を携帯している朝鮮人が見つかった。厳重に詰問した結果、捕らえられた朝鮮人は、「今年のある時期」に日本政府高官が集合するから、これを狙って爆弾を投げ、次いで東京全市至るところで爆弾を炸裂させて市民を皆殺しにしようとしていた、と白状したという。

「今年のある時期」とは、この年12月27日に予定されていた摂政宮(昭和天皇)ご成婚の御大典であろう。朝鮮人テロリストらは、御大典を狙って爆弾を準備していたが、大震災の混乱を好機到来と、爆弾テロを前倒しで実行したようだ。

白状した朝鮮人は、自警団により首をはねられた。こういう例が「虐殺」された人数にカウントされているのだが、テロ行為で殺された3千人と言われる避難民の方は、一顧だにされない。


■7.政府の治安回復努力

震災の直後に発足した山本権兵衛内閣は治安回復に乗り出した。9月2日に東京全市、京浜地区に戒厳令が敷かれ、各地から総数約5万の兵が配備された。その戒厳令司令官から次のような命令が出された、と「東京朝日新聞」の4日付け手書き号外が報じた。[1,p157]

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武器を持つ忽(なか)れ

朝鮮人が全部が悪いのではない。鮮人を不当にイジメてはならぬ。市民で武器を携えてはならぬと戒厳令司令官から命令を出した。
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朝鮮人テロリストの襲撃がなかったとは、一言も言っていない。ただ襲撃は一部のテロリストによるもので朝鮮人すべてが悪いのではない、治安維持は軍に任せ、市民は武器を持つな、というのである。

同時に戒厳令司令部は過剰防衛として日本人367人を逮捕した。彼らに殺害された朝鮮人は233人と公表されている。

軍や警察は、朝鮮人を保護するために、習志野陸軍廠舎、市内各警察署などに6800人を収容した。彼らにはテントで雨露をしのぎ、毛布を配られ、握り飯が支給され、負傷者には赤十字と軍医から手当を施された。

この時点で、190万人の日本人被災者の相当部分が、野宿をしたり、食糧不足に苦しんでいた事情と照らし合わせなければならない。


■8.震災下のテロとの戦い

工藤氏の調査によれば、震災直後に東京とその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9800人。ここから軍・警察に収容された6800人を除くと約3千人。この中に、震災被害者とテロリストとして殺害された人数が含まれる。

工藤氏は、朝鮮人も多く居住していた本所区、深川区の震災による死亡率が約15パーセントであることから、多くの朝鮮人の家屋が劣悪だったことを加味して死亡率を20パーセントと仮定して、約9800人の20パーセント、すなわち2千人近くが震災被害者だと推定している。

とすると、3千人から、推定震災死亡者2千人を引くと、1千人ほどがテロリストとして殺害された朝鮮人の数となる。1千人規模が殺されたとは今日から見れば大変な事だが、その一方で朝鮮人テロリストによる放火や爆弾によって殺された日本人もいた事を忘れてはならない。

先に紹介した越中島の糧秣廠の爆弾攻撃だけでも3千人が死んだと言われている。そして同様の放火事件が各地で起きている。殺害された日本人も、数千、数万という規模になるだろう。

震災下の混乱の中で、朝鮮人テロリスト集団が日本人被災者に対して無差別攻撃を仕掛け、せっかく大震災を逃れた被災者たちが多数殺された。市民を護るべく、自発的に住民の自警団が立ち上がり、テロリストたちと戦った。その過程で、当然、無辜の朝鮮人も巻き添えになって殺された。そういうテロとの戦いが、震災下にあったのである。

こういう背景を伏せて「朝鮮人虐殺」だけを取り上げ、なおかつ犠牲者数を2600人とか、5千人とか、果ては2万人以上だというのは、「南京大虐殺30万人」[c]と同じ、悪質な政治宣伝である。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。

b. JOG(20) 阪神大震災:真実は非常の時に現れる
ひたすらに自衛隊を黙殺し、国家権力を縛ることが、民主主義であり、平和主義であるとする社会党的妄想が、災害に対する準備を怠らせ、被害を大きくした。

c. JOG(079) 事実と論理の力
南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 工藤美代子『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』★★、産経新聞出版、H21

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