Tuesday, July 24, 2012

Yun Chung-Ok 尹 貞玉 the mother of the issue of comfort women

朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」―明日をともに創るために (三一新書)
尹 貞玉 (著, 原著)
Yun Chung-Ok 윤정옥(尹貞玉, 1925년 ~ )은 대한민국의 여성운동가이다.



http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/899938/

慰安婦を巡る発言【韓国人】尹貞玉その①
2009/02/07 17:28



私たちはお金を造るための巨大な鋳造機の小さな歯車になっているのではないだろうか。日本の鋳造機は地球上で最も大きく、周囲の多くの人々に害を与え、自然を最もひどく破壊しながら回っている。それでも日本が最も立派だとうぬぼれているようだ。人間が生きる上で、なにが大切かを知らないところに問題があるようだ。

・・・四六年もの間、口を閉ざして息をひそめて生きてきた元朝鮮人従軍慰安婦たちは、「民間業者がしたことだ」とか「見舞金を考えている」という言葉に呆れ返って、こぶしで胸を叩きながら立ち上がった。「私たちが望んでいるのはお金ではない」「犯罪人が誰を見舞うというのか」という言葉の真意が日本人には伝わらないようだ。・・・

言葉の上では日本は何度も謝罪した。しかし、それが真の謝罪でなかったことは、韓国人ばかりでなく良心的な日本人も知っている。

・・・同時に十五年戦争が今も日本の中だけでなく、アジア全域で終わっていないことを知ったのである。アジアのこのような状況は、侵略戦争をひきおこした日本政府の責任であるにも関わらず・・・

そのような政府の姿勢を変えうるのは、日本人一人ひとりの力だと思う。そのために日本人は自分の殻から抜け出し、人間性を回復することから始めなければならないのではないだろうか?・・・

朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」(1992年)


また昭和天皇を強姦と性奴隷制度(慰安所)の罪で裁いた女性国際戦犯法廷の日本側主催者の一人であった松井やよりは、尹貞玉のことをこのように紹介している。

「慰安婦問題の本質は天皇の軍隊が植民地朝鮮の若い娘たちを強制連行して天皇のご下賜品として兵士の性のはけ口にして、使い捨てにしたということです。これは国家の犯罪であり、国家の責任として償わなければ解決しません」と尹さんは日本での講演でも繰り返し強調する。

女たちがつくるアジア (1996年)




※ 尹貞玉は挺身隊問題対策協議会の初代代表。

15年戦争?








http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/900030/



慰安婦を巡る発言【韓国】尹貞玉その②
2009/02/07 17:12

朝鮮人女性たちが慰安婦として連行され始めたのは、日本が本格的に中国侵略を始めた1937年ごろと思われる。

・・・中国本土にたくさんの軍人が投入されるにつれて朝鮮人女性の連行を考えたのである。

・・・性病をもたない日本の未婚女性を慰安婦として連れて行くわけにもいかない。そこで考えたのが植民地朝鮮の未婚女性を連行することであった。日本は儒教国である朝鮮が娘たちに[1]厳しく貞操教育をすることを知っていた。

また、朝鮮の女性を慰安婦にした目的の一つは民族を衰退させるためであった。在日同胞の金一勉さんは『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』のなかで、日本は朝鮮民族を衰退させるために、その民族の基盤となる家庭、そしてその家庭の柱となる女性を破壊することが近道だと考えたのであろうと述べている。

もちろんそこには女性を男性の慰安物と考える女性蔑視思想が横たわっている。従軍慰安婦政策は日本の軍国主義、帝国思想と、男性中心主義による女性蔑視感が生んだ国策なのである。

「挺身隊(怨念の足跡)取材記」(1990年) 山下英愛訳

朝鮮戦争後の駐留米軍から外貨を獲得すべく、売春婦を養成し米軍キャンプ周辺の村へ送り込むことを国会で検討した韓国の場合(過去エントリー参照)、国策と言えようが、日本の慰安所を国策と言うのは無理があるような気がする。


[注1]そもそも娘に「厳しく貞操教育をする」ような親が女衒に娘を売るだろうか?もっとも、この時点では名乗り出た慰安婦がいなかったから、尹が誤解していたのも仕方ないのかもしれない。

日本がわが国の若い女性たちを、なぜ、どのように、どれほど連行し何をしたのか、なぜ戦後帰って来る人がいないのかを早く明らかにして、責任の所在を問うていたならば、今日のように基地周辺や観光地で外貨獲得のために外国人を相手に働く韓国の売春女性はこれほど多くなかったのではないかと思う。

沖縄その他で日本軍の慰安婦だったわが国の女性たちが戦後、連|合軍の慰安婦になったことを知り、この思いは一層切実である。

朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」(1992年)



※ 尹貞玉は挺身隊問題対策協議会の初代代表。





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Yun Chung-Ok尹貞玉を訪ねて【日本の人格が問われてる】朝日新聞
2010/11/29 20:21

※ ピロティホール「若い母親が慰安婦として連行された」そう信じた日本人も多かった


乳の張った若い母親が慰安婦として連行されたという話は、吉田清治の影響と思われる。現在では若い母親の話は出てこず、むしろ日本は12(14)歳からの少女が連行したという風に、「被害者」の幼さがアピールされることが多いようだ。

「私は無知でした」と「加害者」として打ちひしがれる日本人女性。挺対協の初代代表だったユン・ジョンオク(尹貞玉)は、挺身隊として動員された少女の一部が慰安婦に回されたと語っていたから、彼女の苦悩もひとしおだったろう。

この時期、慰安婦 問題は、「朝鮮人」女性の問題として認識されていたらしいことも記事の中から透けて見える。

このインタビューは91年頃のもの。取材は朝日新聞の井上裕雅記者。


「何万人もの若い朝鮮人女性が日本の手で従軍慰安婦として強制連行され、悲惨な最期を遂げました。今生きている人も心身ともに破壊されています。日本は責任をとろうとはしません。経済大国になったといわれますが、本当の”大国”とはいえないのではないでしょうか」。

韓 国・梨 花女子大の前教授で、韓国挺身隊問題対策協議会共同代表の尹貞玉(ユン・ジョンオク 65)はこう言って私の顔をじっと見た。日本各地で慰安婦たちの足跡を調べるために1991年8月末に来日した尹さんに、強行日程の中、短い時間だったが、インタビューに応じてもらった。

日本政府は信用できない

日本の植民地下で少女時代を送ったため、尹さんの日本語は流暢だ。

「アジアの平和をいうなら、日本は歴史を整理する必要があります。加害者としての日本、つまり侵略した責任を処理しなくては」

「相手が小さいと無視しようとする。その日本の”人格”が今問われています」

「・・・日本政府は信用できない。でも、日本政府と日本国民は違います。『アジアの平和と女性の役割』についてのシンポジウムが1991年5月末から6月初めにかけて東京と神戸で開かれましたが、そのとき日本の女性たちは真剣に取り組んでいました」

・・・日本を追及する言葉の内容とは逆に、疲れを柔らかい笑顔に包んでいた。その表情が心に残った。

尹さんは、私との会見の中で、従軍慰安婦 問題について責任を認めようとしない日本政府と、日本人は別だ、といった。が、「考える集い」では、在日女性の間から「日本の民衆も謝罪を」「日本の女性は加害者の立場にいたのだ」という意見が出た。・・・



※ ユン・ジョンオク

8月24日の夜、大阪・森ノ宮ピロティ小ホールで開かれた「『朝鮮人従軍慰安婦 問題』を考える集い」には在日韓 国・朝鮮人の女性をはじめ、男性、日本人らが参加した。その数300人で、会場に入りきれないぐらい。従軍慰安婦 問題に対する関心の高まりがみえた。

尹貞玉さんの講演をはさんで十余人の参加者が同問題などについて自分の考えを発表、最後に「8・24アピール」を採択した。

大きな拍手に迎えられて登壇した尹さんはよくとおる声で話し始めた。日本語だ。メモをとる参加者が多い。

「慰安婦たちは『モ ノ』扱いだった。天皇の『下賜品』でした。『突撃一番』というコンドームをつけない軍人もいた。梅毒にかかり精神が錯乱した女性もいた。目が見えなくなっても軍人の相手をさせられた人もあったのです」

尹さんの講演に先立って語った日本人女性は声をしぼり出すようにして語った。

「世の中で一番いとしいものは自分の乳を飲んでいる赤ん坊ではないでしょうか。その若いお母さんたちが、何時に広場に集まれといわれ、赤ん坊を寝かせて集まると車に乗せられ、従軍慰安婦として連行されました。張る乳をおさえながらどんなに日本人を恨んだことでしょう。私は1944年、ソウルの朝鮮人の子供たちの学校に勤めていました。命令で子どもたちも軍需工場へ、ということで毎晩のように家庭訪問しました。私は無知でした。親御さんにとって私は鬼のように思えたことでしょう」

「日本の女性は従軍慰安婦のことをほとんど知らない。慰安婦のことがちゃんとされないと私は安心して死ねません」

加害者側にいた自分をさらけ出した話だった。

女たちの太平洋戦争③


http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/1254698/


慰安婦騒動の母は語る【尹貞玉】


※ 「慰安婦騒動の母」は何を語っていたか

挺身隊問題対策協議会を立ち上げ、日本糾弾を主導した尹貞玉の主張。インタビュアーは吉川春子元参議院議員。(2007年10月)

私は1943年に梨花女専(今の梨花女子大)の一年生でした。たぶん11月頃だったでしょう。事務室のストーブが赤く燃えていたのを覚えています。そんなに寒くなかったある日、一年生が本館の地下室に集められました。先生が数人、一方の壁に並んでいました。席についたら軍人らしき人が部下を何人か連れて入ってきて、このくらいの用紙(A4半分)と朱肉を私たちに渡して、「ここに両手の親指を押せ」と言いました。

・拇印ですね。

そうです。拇印をつくように命令されたけれど、私は内容を読む暇がなかったんです。でも空気が重苦しくて質問ができない。そして、生徒が拇印を押したら用紙をさっと回収しました。あの当時は [1]「処女供出」と言って未婚の女性のみ連れて行きましたので「処女供出」といいました。当時、[2]男性の専門学校では、学生を学徒兵としてどんどん連れていきました。

・学徒出陣ですか。

そうですね。名前は志願兵だったのですが、どんどん連れて行った。学徒兵を持っている親は息子が帰ってこないかもしれないと恐れ、女の子を持っている親は娘の処女供出の恐れで、当時の朝鮮はとても嫌な雰囲気でした。

韓国人にとっては口にしたくもない戦争ですよ。それに志願兵といって息子を強制的に連れて行かれる。娘は処女供出・・・・。あの時「慰安婦」という言葉を私たちは知りませんでしたよ。親日派の新聞「毎日申報」に「慰安婦急募」という広告が出ていたことを90年代になって知りました。当時は「東亜日報」も、「朝鮮日報」も強制的に閉刊させられていたんですよ。残っている親日派の新聞広告を誰が信じますか。父は「毎日申報」を取っていました。内容が事実でなくとも、戦争の成り行きをある程度推測できると言って。広告を読んだとしても、「慰安婦」が何を意味するかわかる人がどれくらいいたでしょうか。この「慰安婦」が「性奴隷」とは、想像できないでしょう。「慰安」といったら、前線に行って日本軍を慰労するための歌を歌う人とか・・・・。

・芸能人とか・・・・。

そうそう、おどりを踊るとか。それで印を押した翌日、私は学校を辞めました。私は拇印を押した文書の内容がてっきり挺身隊員連行に関するものだと思っていましたので。

そして戦争が終わった時、強制的に連れられていった学徒兵、労働者、兵士はどんどん帰ってきました。しかし [3]連れられていった韓国の女性は帰ってこなかった。あんなに、あんなに多くの女性たちがつれて行かれたのに・・・・。それで私はソウル駅に行って帰国する男性たちに聞きました。日本、中国、シンガポール、太平洋の島々から帰ってきた男性たちがいっぱいでしょう。あなたはどこから帰ってきたか、女性たちを見たことがあるかと聞いて歩きました。そのとき、大部分の男性は返事をしてくれませんでした。ごくごく少数だけがごく簡単に返事をしてくれました。ごく少数の返事の内容は、この子たちは「慰安婦」になった。慰安所に入れられてこうこうされたというので、これを聞いて私はびっくりし、衝撃を受けたんですよ。その衝撃が今まで続いています。

日本は、いつもほんとのことを言わない。[5]軍が関与していないとか、国民基金を渡すとか、二度の侮辱を受けました。安倍首相になったら [6]狭義の強制連行の証拠がないと言い、教科書はああいう風になるし・・・・。こうした日本の態度、それが一つの、私のエネルギーになったかもしれません。
[7]原注・連行された少女や女性たちのある程度は、「挺身隊」として日本の軍需工場等と当時の紡績工場等に送られた。 (アジアの花たちへ 吉川春子著)




[注1] 「処女供出」

ようするに学徒勤労動員のことを言ってるらしい。異郷に動員された朝鮮の少女と日本人の少女を安易に比べるべきではないかもしれないが、小説家の曽野綾子のこういう証言もある。

「私は、当時十三歳で、金沢市の化学工場に動員されていました。朝の七時から夜の六時まで女工として十一時間、食事と休憩を差し引いても十時間労働でした。栄養失調で結核になりかけたんですが、小説家になるような根性の悪い女ですから、それでも面白かったです。戦後は「私は女工だって務まったんだから」というハラがありました。差別語になるので女子工員と書き直してくれた編集者に「女工と言ったのよ、当時は」って(笑)。でも、別に不幸だとか思っていませんでした。戦中世代では私のようなのは、平均値的じゃないかと思いますけど」 (沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦郁彦 編)




※ 実際にユンが勤労動員を経験していたら、後の慰安婦騒動はなかったかもしれない。

[注2] この当時、内地(現日本)ではすでに徴兵が始まり、男子は義務として兵役についていた。いうなれば強制連行である。朝鮮半島では、義務でなく志願(自由意志)であった。この志願者募集にあたって問題が皆無であったかは知らないが、倍率は高かったらしい。1943年では、6300人の募集に対して志願者数は303294人。倍率48.1倍という狭き門であった。下がそのソース。アジア歴史資料センターの資料より朝鮮及台湾ノ現況/2 朝鮮及台湾ノ現況の2を複写させてもらった。


※ 「韓国人には口にしたくもない戦争」「息子を強制的に連れていかれた」とユンは言うのだが・・・・


※ 残された公文書資料は、彼女の証言を裏付けてはいないようだ


[注4] 「連れられていった韓国の女性は帰ってこなかった」

戦時徴用された朝鮮人女性が帰って来なかったというのは事実なのだろうか?正直、自分はこのユンという人の話をあまり信用はしていない。

[注5] 「軍が関与していないとか、国民基金を渡すとか」

この辺は、もう一々繰り返したくないのだが、慰安所に軍が関わっているのは当たり前だ。軍が誘致したのだから。それは秘密でもなんでもない。「女性基金」は(あの)村山政権時代に作られたのだと言えば十分だろう。

[注6] 日本政府が朝鮮半島で「狭義の強制連行」を行っていたという証拠は今のところ見つかっていない。吉川は92年4月の参議院予算委員会で、政府が証拠を隠滅したと主張。

[注7] 「連行された少女や女性たちのある程度は、『挺身隊』として日本の軍需工場等と当時の紡績工場等に送られた」

この部分は吉川の補足だろうが、まるで徴発された朝鮮人女性の過半数が慰安婦にされたような書きようだ。



http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/708796/




宮古島に慰安婦の碑立つ
2008/09/07 21:26


※ 二年前、読谷村に建立された「恨の碑」。引き裂かれる家族を銃で殴りつけようとする日本兵。果たして朝鮮半島での徴用は、このような形で行われたのか?

前々から言われていたとおり、沖縄の宮古島に慰安婦の碑が建立されることになった。

琉球新報(08年9月7日) 魚拓

宮古島市民や日韓の研究者らでつくる「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」は7日、戦時中に朝鮮人慰安婦が宮古に連行された歴史を伝える「日本軍『慰安婦』の祈念碑」を12カ国約600の個人・団体からの賛同を得て同市上野野原に建立する。同会によると同様の祈念碑建立は国内初。建立前日の6日、同市平良で証言会があり、満州へ強制連行された元朝鮮人慰安婦が涙ながらに自身の悲惨な体験を語った。(以下略)

という事なのだが、これは2月にも週間新潮の記事になっていた(08.2.14)。当時のメモを引っ張り出してくると、こんな感じの内容だった。

●1月11日、宮古島を調査していた挺対協の尹・貞玉(ユン・ジョンオク)ら日韓合同調査団が市長を訪れ、市内の慰安所跡近くに記念碑を建立する計画に理解を求め、市長はこれに賛成の意を示した。
週間新潮の取材によれば、慰安婦の碑を中心に平和 公園を整備して観光地にするという構想もあるという。

●伊志峯市長の言い分 「碑を建てるのは私有地ということで、反対するわけにもいかない」

●土地の提供者の言い分 「・・市長は協力したいと言っていました。建立の費用についても、市からはお金は出せないが個人としてならカンパしたい旨を言ってくれた」

昨年の「わしズム」秋号に載った小林よしのりと金城和彦の対談には、「ひめゆりの塔」が有名になり観光地化したことで、周辺に店や碑が乱立したこと、見かねた人が土地を守ろうと大金を寄付したが、地主達は値上がりを期待してなかなか売ろうとしなかった事などが書かれていた。金城和彦氏は、「ひめゆりの塔」を建てた金城和信氏の長男だから、この辺の事情を良く知っているのだろう。「慰安婦の碑」はこの他にも東京、ソウル、沖縄本島にも作る計画だったはず。(週間新潮)慰安婦ツアーの聖地化を期待してるのだとすれば、残念な話だ。(いい過ぎだろうか?)

さて、昨日(6日)碑の建立に先立ち韓国人の元慰安婦が現地でスピーチを行った。しかし、実はこの人沖縄となんの関係もない。満州で慰安婦をしていたとか。同じく琉球新報から。

韓国の平安南道元山で生まれた朴さんは16歳の時に強制連行された。当時について「隣町に住む友達の家へ遊びに行く途中で日本の憲兵2人に『こっちに来い』と言われた。そのまま日本人の部屋に何日間か閉じこめられ、列車で中国へ連行された」と説明した。

満州では「着いた日からたくさんの日本人が(慰安所に)並んでいた。私は(性的)経験が無く、苦しくて反抗すると、軍人が私を包丁で刺した。今も傷跡が残る。一般兵も将校も来た」とつらい体験を告白した。

朴さんは1945年に慰安所を飛び出した。「帰るための列車に乗ると妹に似た人がいた。名を呼ぶと、(妹は)びっくりして顔を見た。そこで(妹も)強制的に連れてこられて慰安婦にされたことを知った」。朴さんの父は娘たちが慰安婦にされたことを知って怒りのあまり、4日後に亡くなったという。

誘拐したのが憲兵だったり、6年後に脱走した際たまたま同じ列車に妹が乗り合わせていたり、父親が怒りのあまり死んだりと、首を傾げるような箇所もあるけど、これは検証のしようもないのかな?
そして、こちらは共同通信の配信記事。 魚拓

石碑には日本語のほかハングルや中国語など12カ国語で「日本軍による性暴力を受けた一人一人の女性の苦しみを記憶し、二度と戦争のない平和な世界を祈る」などと刻まれた。

12ヶ国語で日本軍による性暴力をアピール。それもいいけど、その前にベトナムで何かする事があるような・・・。ちなみに、今回の慰安婦の碑ではないが、2年前に読谷村に建立された「恨之碑」。 「日本軍の性奴隷として踏みにじられた姉たち 軍夫として犠牲になった兄たちに深く頭を垂れる ・・・」という文章が刻まれているとのこと。

※ 追記 (9月10日)

実はこの「恨之碑」建立を報じるニュース(2年前の琉球新報)の中で、このような解説があった。

碑に刻まれている「恨」の文字について平良牧師は「恨は日本語でいう『恨みつらみ、その先にある復讐』ではない。朝鮮語で言う『恨(はん)』は『恨み、つらみ、その先にある報復』が当然であるような仕打ちを受けた者が、その傷を忘れるのでも、水に流すのでも、あたかも無かったかのようにするのでもなく、逆に心の底に深く刻みながらも、それを乗り越え、バネにして、新しい共生の道を築いていこうとする未来志向の思考を表す言葉です」と説明。

これについてDamedakoreaさんのブログの中で(トラックバック参照)質問させて頂いたところ、風来坊さんとDamedakoreaさんから、「恨」は文字通り「恨み」のことだと教えて頂いた。

未来志向の言葉だと土地の人に説明して、「恨みの碑」を日本の地に建立したとなれば、ちょっと問題ではないのか?

http://www.yoshitami.net/hibinokatsudo/2006.11/11.6.html


11月6日(月)

尹貞玉(ユンジュンヨク)先生とおばあたちの交流会


午後7時30分より、辺野古のティダの会事務所で、尹貞玉先生を迎えて交流会をしました。

先生は、従軍慰安婦問題の調査で沖縄へは4回目の訪問。初めて本島北部に来られ、「やんばる」の調査をされました。

ティだの会で、辺野古のおばあたちから、戦争の話と糸満での従軍慰安婦と思われる人たちのことについて聞き取りをされました。

尹貞玉先生の活動に関する文書を最後に掲載しました。









従軍慰安婦問題に関わったいきさつなどを、流暢な日本語で話された尹貞玉先生




辺野古のおばあたちの10年間の闘いの経過を、ヨシタミが説明しました。




ひめゆり部隊の生き残りとして、戦争体験を話された宮城清子先生




生々しい戦場の悲惨さをリアルに話された島袋文子さん。

「涙無しには語れません」と言って、隣のおじいさんは、座ったまま首が吹っ飛び、庭にころがっていたことや、幼い子供の内臓が飛び出していたことなどを、感極まる様子で話され、「だから、絶対に戦争をさせてはならない」と強調されました。

14歳の頃、近くに朝鮮人女性が多数居たこと、軍人が列をなしていた記憶をよみがえらせて、尹先生の質問に答えました。

















渡嘉敷ヨシさんは、戦争が終わったときに幼稚園児であったことや、捕虜になった記憶をたどりました。




相互の交流が終わって、金城繁師匠の三線と、京都から来たタケシ君の太鼓で、民謡を合唱しました。



ヨシタミも、琉球古典青年の踊りを披露しました。


http://8503.teacup.com/takio/bbs/213


「韓国女性指導者賞の大賞に、尹貞玉氏選定の記事を掲載します。また、尹貞玉先生とハンセン病問題、尹先生の思い出を掲載する 投稿者:滝尾 英二(TAKIO EIJメール 投稿日:2006年11月 1日(水)02時18分9秒   通報 編集済
福留範昭先生から滝尾宛てに、「韓国の過去問題に関する4記事」をメールで届けていただきました。その記事のうち、『滝尾英二的こころ』の掲示板には、「韓国女性指導者賞の大賞に、尹貞玉氏選定 (『韓国日報』)」を掲載します。また、『滝尾英二的こころPart2』の掲示板には、つぎの3記事を掲載します。

1) 韓国女性指導者賞の大賞に、尹貞玉氏選定 (『韓国日報』)
2) 日本の「竹島研究会」、鬱陵島などを視察 (『聯合ニュース』)
3)「韓国人の怨魂、安らかにお眠りください‥‥」、日帝強占期 北海道の炭坑事故で死亡 した473名「釜山日報 2006-10-31 12:33」(『釜山日報』)


韓国女性指導者賞の大賞を受賞された尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生は、すでに滝尾からお伝えしましたように、早くからハンセン病政策による被害者の問題に取り組まれています。長島愛生園にもその入所者のなかに、日本軍「慰安婦」の関係者がいることをお知りになり、この方に会って聞き取りするため、韓国から長島愛生園を訪問されています。

私(滝尾)にも当時、ソウルの西大門の近くにあった韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の事務局に、「ハンセン病問題と性ドレイ(「慰安婦」)の被害、その責任」の研究発表を挺対協会員にするよう尹貞玉先生から依頼があり、1996年4月17日に私は拙い「報告」をしたことがあります。その報告の通訳を山下英愛さんと共に、尹貞玉先生がやっていただきました。私が早口で「広島弁丸出し」の報告であったものですので、当時、梨花女子大学の大学院生だった山下英愛さんが、韓国語に通訳することに困っておられると、尹貞玉先生が代わって通訳される場面がありました。あれからもう10年以上経っています。

その後も、私は尹貞玉先生とたびたびお会いしました。拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』(広島青丘文庫、2000年3月発行)の389ページの写真にも掲載しているように、1996年2月11日には、私は尹貞玉先生と朝鮮総督府がつくったソウルの西大門刑務所内にあった「らい病舎」を訪れたことがあります。

小鹿島更生園補償請求訴訟が始まった2003年8月以降も、この訴訟の経過を尹貞玉先生にお話しして、たいへん有益なご助言を受けました。私の宿泊しているホテルの近くの食堂までお出でいただいたことも尹貞玉先生からは、自著もいただいたこともあります。お便りもたびたびいただいており、その手紙を私はたいせつに保存しております。

この度、尹貞玉先生が長いご活動などにより、韓国女性指導者賞の大賞を受賞されたという報道を読んで、感慨ひとしおです。どうか、ご健康に気を付けられて、私たち後輩の御指導を今後もしていただけるよう祈念しております。尹貞玉先生! この度の受賞、おめでとうございます。『滝尾英二的こころ』と『滝尾英二的こころPart2』のホームページを使って、お祝いの言葉といたします。

この報道を提供いただいた福留範昭先生、および翻訳していただいた森川静子先生に感謝いたします。

人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 韓国女性指導者賞の大賞に、尹貞玉氏選定 (『韓国日報』)
2) 日本の「竹島研究会」、鬱陵島などを視察 (『聯合ニュース』)
3)「韓国人の怨魂、安らかにお眠りください‥‥」、日帝強占期 北海道の炭坑事故で死亡 した473名「釜山日報 2006-10-31 12:33」(『釜山日報』)
4)「真実・和解のための過去事整理基本法施行令」の改正 (『国政ブリーフィング』)

1) *****************************************************************************

[韓国日報 2006-10-30 18:42]
【韓国女性指導者賞の大賞に尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏、若い指導者像には、金ヨンミ・プロデューサーを選定】

(写真あり)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=038&article_id=0000351028&section_id=102&menu_id=102

大韓YWCA連合会(会長・朴ウンギョン)は、第4回韓国女性指導者賞の大賞に尹貞玉(ユン・ジョンオク)韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)指導委員、若い指導者賞に紛争地域専門PDの金ヨンミ氏をそれぞれ選定した、と30日明らかにした。

挺対協初代共同代表を務めた尹委員は、従軍慰安婦問題を公論化し、女性の人権を回復することに寄与したという評価を受けた。

金氏は、ソマリアに拉致されたドンウォン丸の船員たちを韓国のメディアで最初に現地で取材して報道し、忘れられていったドンウォン丸事件に対する関心を呼び起こした。

授賞式は、来月2日プレスセンターで開かれる。

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=038&aid=0000351028


한국여성지도자상 대상 윤정옥씨 선정
한국일보| 기사입력 2006-10-30 18:42 | 최종수정 2006-10-30 18:42 기사원문

젊은 지도자상엔 김영미 PD

대한 YWCA 연합회(회장 박은경)는 제4회 한국여성지도자상 대상에 윤정옥 한국정신대문제대책협의회(정대협) 지도위원, 젊은 지도자상에 분쟁지역 전문 PD인 김영미씨를 각각 선정했다고 30일 밝혔다.

정대협 초대 공동대표를 지낸 윤 위원은 종군위안부 문제를 공론화, 여성 인권을 회복하는 일에 기여했다는 평가를 받았다.

김씨는 소말리아로 납치된 동원호 선원들을 한국언론 최초로 현지에서 취재, 보도해 잊혀져가던 동원호 사건에 대한 관심을 불러일으켰다.

시상식은 내달 2일 프레스센터에서 열린다.

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http://www.truetruth.org/know/know_04.htm





군위안부 문제가 청산해야 할 민족수난기의 중요한 문제로 떠오른 것은 1980년대 후반에 와서다. 당시 이화여자대학교 영문학과의 윤정옥 교수는 군위안부 문제를 사회적 여론으로 이끌어내는데 선구적 역할을 하였다. 윤정옥 교수는 1970년 경부터 군위안부 자료를 수집하였고, 1980년에는 군위안부로 일본에 끌려갔다가 귀국하지 못한 배봉기 할머니를 방문하였는데 이것이 군위안부 운동의 출발점인 셈이다.
당시 오끼나와에 거주하고 있던 배봉기 할머니가 한국여성이며, 군위안부 피해자라는 사실이 밝혀지면서 이 문제가 국내에서 제기되었다. 한편 1988년 서울 올림픽을 앞두고 많은 일본인들이 한국을 ‘기생관광’지로 여기고 찾기 시작하였다. 이는 한국 정부의 홍보에도 힘입은 바 있는 부끄러운 일이다. 이에 교회여성연합회와 이화여대 일부 학생들이 국제공항에 나가 “기생관광반대 시위”를 벌이기도 하였다. 이 때 과거 역사 속의 ‘정신대’ 문제가 곤론되었고, 그에 관한 학술 심포지엄도 교회여성연합 주최로 개최되었다. 그 때 윤정옥 교수가 그동안의 조사를 발표하고 점차 이 문제에 대한 사회적 관심을 환기시켜 나갔다.

그 후 윤정옥 교수는 일본, 태국, 파푸아뉴기니아를 답사하고 1988년 군위안부의 발자취를 찾기 위해 일본을 횡단하였다. 이러한 그의 부단한 노력은 1990년 1월 윤정옥 교수의 일본답사기가 [한겨레신문]에 연재되면서 세상에 모습을 드러내게 되었다. 이어 그해 5월 노태우 대통령의 방일에 즈음하여 이화여자대학교 여성학과 대학원생들의 적극적인 노력으로 군위안부 문제에 대한 성명서가 발표되었다. 여기에는 한국여성단체연합회, 한국교회여성연합회, 여대생대표자협의회가 참여하였다. 이러한 움직임은 군위안부 문제를 일제시기 민족의 수난사로 받아들이는데 그치지 않고 여성에 대한 폭력의 일환으로서 여성운동의 큰 줄기의 하나로 군위안부 문제가 자리매김하는 계기가 되었다. 이렇게 군위안부 문제는 해방 후 약 50년이 지나서야 규명해야할 우리역사의 중요한 이슈로 떠오른 것이다.


군위안부 문제 해결을 위한 의지가 무르익으면서 운동에 견인차가 되는 단체들이 생겨났다. 그 대표적인 단체가 ‘한국정신대연구소', ’한국정신대문제대책협의회', '나눔의 집'이다. 이밖에도 지방에 있는 여성단체 및 시민모임들의 노력으로, '일본군위안부문제의 올바른 해결을 위한 민족운동부산본부', '경남 정신대문제대책을 위한 시민연대모임', '대구여성회 정신대문제 대책위원회', '정신대할머니와 함께하는 시민모임(대구경북)', '훈할머니돕기 불교후원회(대구)' 등이 결성되어 활발한 운동을 펼치고 있다. 아래에 대표적인 단체 몇 개만 예를 들어 그 활동을 살펴본다.
<한국정신대연구소>

한국정신대연구소는 정신대 문제 전반에 대해 연구/조사하는 국내 유일의 연구단체이다. 1990년 5월 여성계에서 군위안부 문제에 대한 일본의 사죄와 보상을 촉구하는 성명서를 발표한 후 그 해 7월 당시 이화여대 영문학과 교수인 윤정옥 교수를 중심으로 [정신대연구반] (현재 연구소의 전신)이 만들어지게 되었다. 윤정옥 교수와 이화여대 여성학과 대학원생 4명이 참여한 이 모임은 군위안부 문제에 대한 본격적인 연구작업을 착수하면서 군위안부 문제에 대한 자료 수집과 국내 답사를 통해 피해자와 피해사례를 찾는 작업을 했다.
현재 한국정신대연구소는 위안부 관련문서를 찾아내는 일과 더불어 국내외 군위안부 피해자를 발굴하여 증언을 채록하는 작업을 집중적으로 하고 있으며 이를 바탕으로 다양한 연구를 하고 있다.

<한국정신대문제대책협의회>(약칭 정대협)

1990년 11월 발족식을 갖고 구성되었다. 군위안부 문제에 관심을 갖고 있는 여성단체를 비롯한 여러 사회단체들이 회원자격으로 소속되어 있다. 정대협은 군위안부 문제를 국내외에 알리고 일본정부를 상대로 피해자들에 대한 보상을 촉구하는데도 중추적 역할을 하였다. 또한 일본정부에서 군위안부 문제의 진상을 부정하는 망언을 계속하자 더 이상 우리 정부가 방관해서는 안 된다는 강한 요구의 하나로 1993년 '일제하 군위안부 피해자 생활안정 지원법'을 국회에서 통과시키게 하였다.
현재 정대협은 군위안부 피해자들에 대한 지원활동 뿐 아니라, 국제기구 등에 군위안부 문제의 진상과 그 심각성을 알리고 여론을 조성하여 군위안부 문제를 해결하는데 큰 역할을 하고 있다.

<나눔의 집>

나눔의 집은 군위안부 피해자들의 공동거주지라는 의미를 넘어 수요집회의 적극적인 참여, 국내외 피해자 발굴 등 군위안부 문제의 진상을 국내외에 알리는데도 큰 역할을 하고 있다.
나눔의 집은 군위안부 피해자 문제가 사회의 중요한 이슈로 떠오른 속에서도 피해자에 대한 지원대책이 전혀 만들어지지 않았던 1992년에 불교 조계종의 적극적인 노력으로 만들어지게 되었다. 1992년 6월 서울 서교동에서 시작된 나눔의 집은 공동생활을 원하는 할머니, 거동이 불편해 누군가 돌보아야 하는 할머니, 가족이 없어 혼자사는 할머니들이 이룬 공동체이다. 현재의 나눔의 집은 독자가가 터를 기증하여 1995년 12월부터 경기도 광주 퇴촌면에 정착하게 된 것이다. 그리고 역사기념관이 지어져 진실을 알리는 역사교육의 장으로 활용되고 있다.




이 문제에 대한 한국 정부의 대응을 살펴본다.
먼저 한일간의 식민지 지배 배상 요구는 1965년 박정희 집권 당시인 제3 공화국에서 이른바 김종필-오히라(大平正芳) 각서와 한일기본조약으로 일단락되었다고 주장되는 점이다. 이것이 이후 이 문제를 해결하기 위한 정부의 노력에 계속 커다란 걸림돌로 작용한다.
1990년 5월 노태우 대통령의 방일 때 ‘일본의 전쟁 책임문제’가 한국 내에서 거론되면서 강제 연행자의 명부 작성을 일본 정부에 협조 요청하였으나 일본 정부는 65년 “일한청구권, 경제협력협정”에 이미 모든 보상을 다 끝냈다며 ‘보상에 대신하는 어떤 조치’를 생각해보겠다고 답하였다. 또 1991년 12월 6일, 동경 지방재판소에 피해 배상 소송을 제기한 군위안부 출신 원고측이 “한일 협정에도 개인의 청구권은 소멸되지 않는다고 하여, 정부간의 교섭에서는 안 된다 하더라도 한국 국민 개인은 일본 정부에 보상을 요구할 수 있다”고 주장하였으나 일본의 가또 관방장관은 “정부 관계기관이 관여했다는 자료가 발견되고 있지 않아 대처하기 곤란하다”고 입장을 밝혔다.

91년 9월 정부는 ‘정신대 실태조사대책위원회’를 구성하였고, 12월 외무부는 일본 대사에게 이 문제에 대한 사실을 밝힐 것을 요청하였다. 동시에 미야자와 일본 총리의 92년 1월 방한 예정에 앞서 한국 정부는 이 문제를 공식적으로 제기하기로 방침을 정한 후 91년 12월 도쿄에서 개최된 한일아주국장회의에서 일본에 우선 철저한 진상 규명을 강력히 요구하였다. 그리고 미국, 일본, 영국, 네덜란드 등 10개국 해외주재 공관에 관계자료를 조사하도록 지시하였다. 그 후 미국국립문서보관소에서 일본군이 위안부 모집, 수송, 관리 등에 개입한 사실을 입증하는 문서를 발견하였다. 이 문서는 인도-버마 전선의 미 전시정보국 심리전 팀이 미얀마의 미트키나에서 일본군이 도망칠 때 붙잡힌 조선인군위안부 20명과 위안소 관리자 2명을 심문하여 작성한 조서이다. 비슷한 시기에 일본의 주오대 요시미 요시아키(吉見義明) 교수가 일본 방위청 방위연구소에서 찾아낸 공문서 등이 이 문제에 대한 중요한 자료가 되어 일본을 압박하였다.

결국 92년 1월에 이뤄진 한일정상회담에서 노태우대통령의 문제 해결을 위한 요청에 따라 일본의 반성과 사과가 있었다. 이어서 이상옥 외무장관이 “이 문제는 당시 청구권 교섭에서 논의되지 않았다”고 말하고 이때(92년 1월) 정부는 ?정신대문제실무대책반?을 설치, 계속 협의하며 전국의 시 군 구청에 피해자 신고센터를 설치하고, 2월 25일부터 6월25일 사이에 신고를 받았다. 그 결과 총 390건 중 근로정신대 235명, 군위안부 155명이 신고하였고 그 중 생존자는 각각 139명과 74명이었다. 이후에도 이같은 피해자의 신고와 증언은 계속 이어졌으며, 한일 역사교과서에 사실을 올바로 기록, 교육하여 과거에 대한 올바른 인식을 갖고 밝은 미래의 한일 관계를 가꾸어 가도록 정부도 노력할 것을 밝혔다.
93년 3월 김영삼 정부는 진실 규명과 사과는 받되 배상 청구는 않겠다고 한 후 피해자 생활안정 지원금과 영구임대주택 우선입주권 등을 지급하였다. 95년에는 교육부 산하 광복 50주년 기념사업위원회에서 “청산하지 못한 일제 시기의 문제 학술 세미나”를 개최하기도 하였다. 이후 98년 5월 김대중 정부는 피해자들에게 한꺼번에 3,150만원의 생활지원금을 지불하였으며 위안소에 관련한 일본인에 대한 입국 금지 조치를 내리기도 하였다.

국회에도 [정신대진상소위원회]를 만들어 96년 6월 이미경의원 외 여성의원 8명이 이 문제를 공식적으로 제기하였고 97년 2월 정대협과 함께 일본을 방문해 해결을 촉구하였다. 5월에는 “한일역사교과서의 문제점과 올바른 기술 방향”을 주제로 간담회를 개최하였고, 2002년 발행되는 중고교 역사교과서에 본 내용을 포함하기 위해 노력하기로 하였다. 그리고 29명의 의원이 ?일본군위안부문제 연구모임?을 발족하고 일본에 국제법적 책임을 요구할 것도 검토하였으며, 일본의 ?여성을 위한 아시아 평화국민기금?에 대하여 90%가 넘는 270명의 의원이 반대 서명을 하였고 그 결과를 일본 총리와 의회에 전달하였다. 동시에 전범자 출입국 규제 방안 및 국회결의안을 채택하였다.
김대중 정부에서 매월 생활지원금이 50만원으로 인상되었으나, 대일 관계에서 이 문제에 대한 특별한 관심을 표명한 바가 없이 소극적인 태도로 일관하고 있다. 이같은 대일 노선은 노무현 새정부에서도 변함이 없고 다만 여성부에서 이 문제에 대한 지속적인 관심과 지원을 놓지 않고 있어 그나마 다행이다.


정대협이 일본정부에 내건 우리의 요구는
1. 일본정부는 진상을 구명하고 정당하게 배상하라
1. 일본정부는 전범사실을 인정하고 전범자를 처벌하라
1. 일본정부는 위령탑 등을 건립하고 진심으로 사죄하라
1. 일본정부는 역사교재에 진실을 알리고 바르게 교육하라 등이다.
이에 대해 일본정부는 계속 무시하는 자세를 취해왔다.

일본정부가 처음으로 이 문제에 대한 공식적 입장을 표명한 것은 1990년 6월 참의원 예산위원회에서 사회당 모또오까 쇼지(本岡昭次)의원이 위안부의 조사를 정부에 요청한 것에 대한 답변이었다. 이 때 노동성 직업안정국장은 ?종군위안부에 대해서는 옛날사람들의 이야기를 종합해보니 민간업자가 그러한 분들을 데리고 있었던 것 같고 그 관계에 대해서는 실정을 밝히지는 못한다?고 대답하여 일본군의 관여를 전면 부정하였다.
그러나 1991년 여름, 김학순할머니가 위안부정책의 피해자임을 밝히고 그 해 12월에 일본정부를 상대로 소송을 제기하게 되었다. 또 그 직후인 92년 1월에는 요시미 요시아키(吉見義明)교수가 일본 방위청 방위연구소 도서관에서 발견한 위안소 관련 자료가 공개됨으로써 일본정부는 더 이상 군의 관여를 부정할 수 없어 부분적으로 인정하고 형식적 사과를 하기에 이른다.
이어 1992년 7월과 다음해 8월에는 위안부문제에 관한 조사결과를 발표하였다. 제1차 발표에서는 위안부의 모집, 위안소의 설치, 경영, 감독 등 제목만을 나열하고 있을 뿐 구체적인 실상에 대한 언급은 없었다. 제2차 발표에서는 방위청, 법무성, 외무성, 문부성에서 발견 된 자료를 비롯하여 국립 공문서관, 국회도서관, 미국 국립공문서관에서 발견된 자료들이 포함되어 있었다.

제2차 조사결과의 발표와 함께 관방장관이 담화를 발표하였다. 거기서는 위안소가 당시의 군 당국의 요청에 의해 설영된 것이며 위안소의 설치, 관리 및 위안부의 이송에 대해서는 구일본군이 직접 또는 간접으로 관여한 사실을 인정하였다. 또 위안부 모집에 대해서는 군의 요청을 받은 업자가 주로 이것을 담당하였으나, 그 경우도 감언 강압에 의하는 등, 본인들의 의사에 반하여 모여진 사례가 수많이 있고 또 관헌 등이 직접 여기에 가담한 경우도 있었던 것이 밝혀졌다고 하여 군의 관여와 동원의 강제성을 인정하였다. 특히 식민지 조선에서의 위안부 동원을 들어, 그것이 큰 비중을 차지한 것과 그 모집, 이송, 관리 등도 감언, 강압에 의하는 등 대체로 본인들의 의사에 반하여 행해졌다고 하여 불충분하나마 강제성을 인정하기에 이르렀다. 또한 이 문제가 다수 여성의 명예와 존엄을 깊이 상처 준 문제?이며 그 피해자들에 대해 진심으로 사과와 반성의 뜻을 밝힌다고 하였다.

그러나 두 번에 걸쳐서 발표된 자료는 위안부정책의 전체상을 밝히기에는 너무도 적으며 부분적인 것에 지나지 않았다. 구 내무성 자료, 후생성 등의 자료는 전혀 조사가 미치지 않았으며 정부 및 방위연구소 도서관에도 아직 방대한 양의 자료들이 존재하는 것이 알려지고 있다. 그럼에도 불구하고 일본정부는 이 두번의 발표로 조사를 마무리하였으며 진상구명을 위한 적극적 노력을 보이지 않고 있다.
한편 한국인 피해자들에 대한 보상문제에 관해서는 샌프란시스코 평화조약 및 1965년의 한일협정으로 이미 해결되었다는 입장을 취하고 있다. 그리하여 일본 수상이 내한할 때 위안부문제로 형식적으로 사과는 하지만 한국 피해자측이 요구하고 있는 개인배상에 대해서는 계속 거부하는 자세를 보여 왔다.
또 1994년 2월 한국인 피해자와 운동단체가 일본 검찰청에 위안부정책에 관여한 일본군 관계자의 처벌을 요구하는 고소장을 도쿄지방검찰청에 제출하려고 하였으나 수령조차하지 않았다.

1994년 여름에 출범한 사회당 무라야마총리 시절에는 위안부문제에 관해 폭넓은 국민참가의 길을 모색하기로 하고 이후 여당 3당으로 ?전후 50년문제프로젝트를 발족시켜 그 산하에 종군위안부등 소위원회를 설치하였다. 이 위원회의 조사를 토대로 하여 1995년 7월, 여성을 위한 아시아 평화 국민기금을 설립한다. 이것은 위안부문제에 관해서 도의적 입장에서 책임을 져야 한다는 취지 아래 만들어진 것이다. 그러나 기금정책은 일본정부의 법적 책임을 회피하고 이 문제를 종결시키고자 하는 의도아래서 진행되고 있다고 할 수 있으며 피해각국의 운동단체와 피해자들의 맹렬한 반대를 사고 있다.
또한 일본 정부는 1992년부터 유엔 인권위원회에서 위안부문제에 관한 토의가 시작되자 이 문제는 유엔 창설전의 문제이며 유엔은 그러한 문제에 대해서 아무 권한도 없다고 주장하고 이후 유엔에서 나온 어떠한 조치에 대해서도 거부하는 자세로 일관하고 있을 뿐이다.

1998년 4월 위안부에 대해 승소 판결이 나온 시모노세키재판에서는 재판소가 현행 헌법상 위안부처럼 극단적 인권침해일 경우 보상 입법의 의무가 일본정부에 있음에도 불구하고 국회가 그동안 입법의무를 게을러왔다는 견해를 밝혔다. 이에 대해 일본정부는 국회에는 헌법상 입법의무가 없다고 주장하고 항소하였으며 기존의 태도를 바꾸지 않았다. 이 재판은 대법원까지 가서 기각됨으로써 1심의 유죄 판결조차 백지화하고 말았다.


1992년부터 유엔 인권위원회에서 위안부문제에 관한 토의가 시작되었고 1993년 6월의 빈(Vienna) 유엔 세계인권회의에서 전시하 성노예 문제에 관하여 과거도 포함하여 모든 문제에 유엔이 대응한다는 것을 확인하였다. 이같은 유엔과 국제 사회에서의 이 문제에 대한 대응을 살펴본다.

일본군위안부 문제는 국제법적으로는 '인도에 반한 죄'이며, ‘전쟁범죄’이다. 국제사회는 세계사에서 다시는 이러한 범죄가 일어나서는 안 된다는 점에 주목하여, 다각적으로 이 문제의 해결을 위한 활동을 벌여 왔다. 국제여성운동, 인권운동, 평화운동을 위한 세계의 시민단체와 UN, ILO 등의 국제기구에서 이 문제를 다루고 전범인 일본정부에게 압력을 가하고 있다.
국제사회의 움직임으로 먼저 일본, 한국, 필리핀, 대만, 태국, 홍콩, 일본 6개국(이후 태국이 빠지고 인도네시아가 참여)의 시민단체들의 연대활동을 들 수 있다. 이들 국가의 시민단체들은 1992년 제1회 아시아연대회의를 개최한 후 매년 참가국을 돌며 연대회의를 열고, 서로 정보를 교환하며, 유엔 등 국제 장에서 협력하고 있다.

무엇보다 중요한 것은 UN의 움직임이다. 이 문제의 해결을 위해 UN이 갖는 의미는 매우 중요하다. UN이라는 권위 있는 국제기구가 내리는 판단이 일본정부에게 강력한 힘을 갖기 때문이며, 또한 UN을 무대로 세계의 시민단체들이 연대를 할 수 있기 때문이다. 정대협이 1992년 이 문제를 유엔 인권위원회에 제기한 이래, 필리핀, 일본의 단체들도 인권위 산하의 소수 민족차별 및 보호 소위원회, 그리고 다시 인권 소위 밑의 현대형 노예제 실무회의에 매년 참석하는 한편, 세계인권대회(1993년 비엔나)와 세계여성회의(1995년 베이징)에도 참석하여, UN에서 이 문제를 조사하고 올바른 해결 방안을 세워줄 것을 요청했다. 이러한 활동의 결과로 인권위 여성폭력문제 특별보고관 라디카 쿠마라스와미는 ‘전쟁 중 군대 성노예 문제에 관한 조선민주주의공화국, 대한민국, 일본에서의 조사보고서’를 1996년에 제출, 이 보고서에서 일본 정부는 위안소 설치가 국제법 위반이었음을 인정하고 이에 대한 법적 책임을 질 것, 피해자가 고령이므로 빠른 시일 내에 해결할 것, 즉 진상구명, 공식사죄, 역사교육, 책임자 처벌 등의 필요성을 강력히 권고했다.

다른 한편 1998년과 1999년에 인권소위원회에서도 게이 맥두갈 위원이 ‘전쟁중 여성에 대한 폭력’ 에 대한 보고서에서 무력분쟁시의 조직적 강간, 성노예, 기타 노예관행에 관한 맥두걸보고서를 발표하여 다시 한번 세계에 주지하였다. 이러한 유엔의 권고는 일본 정부에 큰 타격을 주었으나, 여전히 책임 있는 해결에까지 이르고 있지는 않다.
이밖에 상설중재재판소(PCA)에서 이 문제를 다루도록, 정대협과 일본 단체들이 시도했으나 일본 정부의 동의가 필요한 절차에서 좌절했다. 국제법률가협회(ICJ)도 한국, 일본, 필리핀, 북한을 방문하여 조사한 후, 1994년 매우 설득력 있는 보고서를 제출하여, 일본정부에게 피해자에 대한 적절한 조치를 취할 것을 요구했다.

1995년부터는 국제노동기구(ILO)에 한국 및 일본의 노동조합들이 군위안부 동원이 ILO의 강제노동금지규약 위반임을 호소하기 시작했다. 이 활동은 곧 효과를 나타내 조약 및 기준 적용 전문가 위원회의 1996년, 1997년 보고서에 위안부 동원 및 착취가 강제노동금지규약의 위반이며 일본 정부는 이에 대한 적절한 보상을 촉구하라는 내용이 실렸다. 1999년 보고서에는 다시 그 규약 위반 사실을 확인한 위에 피해자가 고령이므로 빠른 시일 내에 피해자가 원하는 방식의 배상을 실시할 것을 촉구했다.
그래도 꼼짝 않는 일본 정부에 대해 민간들이 법정을 열어 단죄함으로서 세계여론에 호소하자는 움직임도 구체화한 바 있다. 이는 베트남 전쟁 범죄를 논의하기 위해 모인 러셀 법정을 모델로 한 것으로, 일본 및 아시아 피해국의 시민단체들이 연대, 협력하고 세계적인 학자, 변호사, 운동가와 함께 2000년 12월에 도쿄에서 ?일본군성노예 전범 국제 여성법정?이 개최된 것이다.
이밖에도 미국과 캐나다를 비롯한 세계 각국의 우리 교포들이 모임을 만들어 이 문제 해결을 위해 활동하고 있으며, 미국의 주요 대학 등에서 학위논문 등의 형태로 연구가 계속되고 있다.




한국을 비롯한 피해국들의 사죄와 배상 요구에 대해 일본정부가 고심하여 내놓은 안이 1995년 ‘여성을 위한 아시아평화국민기금’(이하 국민기금)이다. 정대협의 회원단체 모두가 이 기금에 반대하였으며 그에 상응하는 운동으로 국민모금운동을 시작하였다. 일본의 ‘국민기금’을 무력화시키고 일본정부의 법적 배상이 되기까지 우리 정부와 국민이 할머니들을 위해 모금활동을 하기로 하고 이를 위해 별도의 조직을 만들 필요가 있다고 논의되었다. 준비과정을 거쳐 1996년 10월 18일 ‘강제연행당한 일본군 ‘위안부’ 문제 해결을 위한 시민연대’(이하 시민연대) 발대식을 하였다. 이 모임에는 정대협 회원단체 뿐 아니라 참여연대, 경실련, 환경운동연합 등 굵직한 시민단체들은 거의 다 참여하였다.

이 모금활동에는 국내 최초로 주간지인 [한겨레21]뿐 아니라 한국일보, 방송사인 SBS와도 함께 하였다. [한겨레21]에서 이 ‘온겨레 돕기운동’을 시작한 배경에는 유엔 인권위원회가 피해자에게 사죄하고 배상하라는 권고했음에도 불구하고 ‘국민기금’으로 위로금을 지급해서 해결하려는 일본의 태도에서 비롯한 것이다. 직접적인 제안은 이 문제를 올바로 해결하고 승화시켜 동아시아의 새로운 삶의 길을 열자고 한 김영호(경북대 교수)였다. 그는 [한겨레 21] 제124호(1996년 9월 5일자)에서 “정신대 할머니들을 돕는 국민적 성금운동과 21세기를 위한 동아시아 마샬 플랜을 제안”했다. 이 글을 보면 ‘국민기금’을 거부한 할머니들의 결단에 감동해서 국민들이 성금을 모아드리고 그 운동에 지식인들이 앞장서야 하고 이미 몇몇 지식인들은 원고료나 강연료를 받지 않고 모금에 보낼 것을 결의했다고 한다.

이효재 정대협 공동대표도 그 다음호의 특별기고에서 “민간단체를 내세워 정부의 법적인 책임을 회피하려는 일본정부의 계략을 뜨거운 성금운동으로 분쇄하고 정신대할머니 돕기 운동을 아시아 시민연대운동으로 이끌자”고 호소했다. 이런 지식인들의 움직임에 이 잡지 편집진에서 먼저 성금을 모으면서 이 운동을 시작했다.
?한겨레21?의 1996년 10월 31일부터 1997년 5월 15일까지 7개월 동안의 특별한 노력에 힘입어 이번 모금은 초등학생부터 각 대학 총학생회와 동아리 단위의 모금은 물론 종교단체에서도 참여하였고 대학교수와 일본의 시민들과 단체에서도 참여한 것으로 이 문제의 공감대를 확산한 좋은 계기였다.
총 5억 5천원 1십1만원을 모은 시민연대는 이 돈을 ‘국민기금’을 받은 할머니들을 제외한모든 피해자들에게 나누어드리고 1997년 5월 28일 해산하였다. 이런 적극적인 운동에 힘입어 1998년 5월 한국정부가 국민기금에 상응하는 돈을 지급하게 된 것이다.

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