Wednesday, August 22, 2012
Visiting the land of ancient Koguryo
Complex of Goguryeo Tombs
고구려 고분군(高句麗 古墳群)은 유네스코 세계유산으로 등록된 조선민주주의인민공화국에 있는 고구려 시대 후기의 고분군이다. 대부분이 평양직할시와 평안남도 남포에 걸쳐 있다.
2004년 7월 1일, 유네스코 세계유산 위원회(WHC) 쑤저우(蘇州) 회의에서, 중화인민공화국 랴오닝 성과 지린 성에 걸쳐 소재하는 고대 고구려 왕국의 수도와 무덤군과 함께 세계유산으로 등록되었다.
http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/pyang-11.htm
平壌地域の高句麗古墳壁画
6. 安岳3号墳
安岳3号墳、西側傍室 南壁、女性主人公 右側 侍女
安岳3号墳、西側傍室 西壁、男性主人公
安岳3号墳、西側傍室 南壁、女性主人公
平壌地域の高句麗古墳壁画
安岳3号墳、東側回廊 東壁、行列図 車に乗った男性主人公
安岳3号墳、東側傍室 東壁、車庫
http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/yet-8.htm
高句麗いにしえの地を訪ねて(8)
高句麗初期の壁画、舞踊塚
広開土王碑から通化-集安公路の方に行き、果樹という村から左に曲がって行くと国内城へ行く田舎道が出る。 この道に沿って行くとすぐに右側に舞踊塚と角抵塚がある。二つの墓は果樹園の間に上下に並んでくっついているが、 上が舞踊塚、下が角抵塚である。
< 舞踊塚の石室に入り電灯を点けると、1500年もの間隠れていた高句麗の映像が再現され始めた。3坪ほどの小さな 部屋であるが、その中に天地の全てが入っていた。いかにして1500年以上過ぎた絵が、ついこないだ描いた絵のように 鮮明な色彩をそのまま収まっているのか?優れた美的感覚で華麗に描いた腕前に、自然に感嘆する。 小さな空間に生前の生活はもちろん、死後の世界の生活までまとめて表現出来る画家であれば、単純に技能工 としての画家ではなく、当時の社会の生死観をはっきり示せる眼目と思考力を持った人であることが判る。
石室の左側の踊りの絵
(破損が深刻である)
生々しい高句麗の生活図
壁画の内容は大きく壁面と天井に分けられるが、壁面は墓の主人が生前に過ごした生活を表現した生活図であり、天井 部は死後の天国を描いたものだ。門に入ればすぐに内壁(北東側)の主人公が客を迎える絵がある。 二人の夫人を従えた主人公が白羅冠を被ったまま両腕を組んで座っており、その横に小さく描かれた侍者が 片膝をついて食べ物を差し出している。料理が乗っている膳を間において客人のような人と面会している。 一番下には頭だけが見える8名の侍女が並んでいて、主人公が身分の高い人物であることを示している。 主人公がいる内壁から見ると、右側の壁(北西側)に有名な狩猟図が描かれている。速度感と緊張感がみなぎる 猟場の一番上には白馬に乗って走り、上半身だけ後ろを向いて雄と雌二匹の鹿に向けて矢を放つ力強い武人が 描かれており、中央では黒い馬に乗って逃げる虎に向けて矢を放つ真似をして脅し回っている。 この狩猟の絵でも、一番遠くにいる武人が一番大きく、一番近くの対象を一番小さく描き、遠近の比例を徹底して無視 し、中心の人物を大きくクローズアップするという破格の細部表現方式が目をひく。 この狩猟図は表現が古めかしくて下手に見えるが、広々とした空間配置と生き生きした筆遣いのため、 高句麗古墳壁画初期の代表作として知られた作品だ。主人公がいる内壁から左側(南東側)には、舞踊図が 描かれている。この舞踊図のためにこの墓の名が舞踊塚となっており、この絵がこの墓の壁画を代表すると言える。 舞踊図は右側下段に服装が各自異なる歌手7名が歌う歌に合わせて、上段に5名の踊り手が何も持たずに 壻踊りを踊っており、舞踊団を率いる先頭舞踊手が舞踊団を見ながら一緒に踊っている。 絵の左側には上下二つの家があり、3人の女性が料理を持って出て来ている。
果樹園に並んでいる舞踊塚と角抵塚
下の家の右側には馬に乗って家を出る主人と矢を持つ侍従が付き従っているが、犬が一匹先導しているのが目につく。 墓の主人が客人を接待する絵の右側に狩猟図を描き、左側には文化生活の味を楽しむ歌と踊りを描いたのは、文武を 兼備した当時の貴族の生活を見せてくれる良い例だと言えよう。
天井に繰り広げられる天国のパノラマ
天井の構造はいずれも8段に築かれ、上に行くほど狭くなるようにした平行八角支石式である。平行支石の1段目に 三角形の火炎文16個を描き現世と天国を区別し、続いて2段目に天に登る蓮華と蓮華峰をかわるがわる描き、天国から蓮華を通して 化生するという仏教式の化生法を浮き彫りにしている。平行支石の3段目には、各種のめでたい動物と仙人を描いた。
南東面には舌を長く出して右を向いて走る白虎と琴を弾く二人の人物を描いており、南西面には真ん中で おんどり二羽が向かい合って立っている。北面は、青龍と木、座った人物を描写し、北東面は二人の力士が テッキョンのような武術を競う姿を描いた。5層からなる八角支石部には、太陽と月を含めた各種の星座、 めでたい動物達、笛を吹いたり琴を弾く仙人達が多様に表現されており、高句麗時代の人々の死後の世界に 望む天国が生々しく描かれている。
舞踊塚天井の天国の世界
殺さぬ矢じりの秘密
舞踊塚の代表的作品である狩猟図を目を注いで見れば、すぐにでも飛びそうな矢先がちょっと変だということが分かる。 矢じりというものは、尖っていて相手に刺さると決定的な一撃を与えることが出来ることものだが、 まるで石ころのような矢先を使っているのだ。伽揶時代の矢じり、慶州の沙正洞で出土した新羅の狩猟図に出て来る矢じり、 敦煌石窟にある狩猟図の矢じりなどはいずれも尖った矢じりである。従って、この高句麗の矢じりは非常に特異であるといえる。 鹿を捕らえる武人や虎を狙う武人、いずれもこんな矢じりを使っているのは、それだけの理由があるのだろう。 今までこの理由については、二つの説がある。一つは殺さずに気絶させたり麻酔をかけて生け捕るためのものだという説、 音を立てて相手を驚かせる鳴鏑というものだという説である。高句麗山城から出土した高句麗時代の矢じりを分析して見ると、 狩猟図の矢じりは二つの説がいずれも適合する。石ころのような形ではあっても丸いのは音を出すための仕掛けであり、 2本で作られた先端だけが矢じりになっているものである。矢じりの先を尖らせず、生け捕るのに使い、 骨や角に穴を開けて矢先に挟んで音がするようにした、弓の国高句麗の傑作品である。
http://japanesearts.cocolog-nifty.com/silkroad/2005/08/post_b5ea.html
高句麗壁画と明日香・奈良
東京大学で行われた関野貞のシンポジウムに行った折、「世界遺産 高句麗壁画古墳展」の招待券をいただいたので、見に行ってきました。場所は赤坂のツインタワービル1階、国際交流基金フォーラムです。
この展覧会は2004年、7月に世界遺産に登録された「高句麗の首都と古墳群」を共同通信社が取材し、開催したもので、中国と北朝鮮にまたがる地域の紀元前1世紀から7世紀までの壁画古墳の写真と石室の再現、またビデオでの紹介もあり、関野貞らが調査した時の模写図も出陳されていました。
平山郁夫氏が総監修をした図録の地図には、35の古墳が載せられていましたが、展示ではそのうちの16の古墳が取り上げられていました。展示は古墳の石室内を思わせる黒の内装の中、写真にスポットが当てられていて、集中して写真が見られる感じがしました。
はっきりとは覚えていないのですが、80年代の中ごろにも1度、デパートの中のギャラリーで開催された高句麗古墳の壁画の写真を見に行ったことがありました。うる覚えではありますが、確か、安岳3号墳と江西大墓の写真が出ており、四神図がとても流麗な線で描かれていたという印象が残っています。
壁画は4世紀、5世紀の頃は風俗画のようなものが多く、埋葬された人物たちの暮らしがどんなものであったかが描かれているようでした。りっぱな宮殿のような建物の中に夫婦が礼装をして座り、周囲には香炉を持った侍女や食事の用意をする女たち、あるいは臣下か貢物を持ってきた男なのかが並んでいたり、相撲をとる力士がいたり、飾り立てた馬にまたがり、自らも長い羽飾りのついた兜をつけた兵士の行列、牛車や馬をひく馬子、狩猟に出かける男たち。そんな絵が、あまり上手ではない筆で描かれていました。
しかし、その絵の中では馬だけは、どれも上手に描かれているようにも見えました。人間や木などの表現がさほどではないのに、厩や流鏑馬のようすは生き生きと描かれており、この絵を描いた人々は北方の騎馬民族の流れを持った人たちだったのかしら、と思いました。
星宿の図も古くから描かれており、重要な画題であったようです。牽牛と織女が描かれていたり、北斗七星があったり、日本にも伝わっているものです。
5世紀の末の双楹塚になると玄武、青龍、白虎、朱雀の四神が出てきます。明日香の古墳でも見られる文様です。また、忍冬唐草文や蓮華のような文様が美しい筆で描かれるようになりますが、それは、私たちが法隆寺や東大寺などの遺物の中に見るものと似てきます。この双楹塚の前室と奥室の境には八角の石柱が立つのですが、その上には法隆寺で見られるような人字型の割束が壁画として描かれています。わが国の壁画古墳や古代寺院につながっていくものが、ここにはありました。
勉強不足で、詳しい文化の流れがわからないのですが、5世紀から6世紀にかけての高句麗壁画には神仙思想をメインにして、仏教の要素も入り、でもまだ未整理、という感じをうけました。ここで連想したのが中宮寺の『天寿国繍帳』でした。いろいろな要素が混ざりあっている雰囲気がそう思わせたのかもしれません。
ところが、このことはそう、とんでもない思いつきではないことが、後でわかりました。帰ってきてから、以前にもご紹介した『壁画古墳の謎 日本古代史の原点を探る』(講談社)を読み返していると、森浩一氏の発言に、天井と壁の境に鉄釘の打ってある古墳があり、もしかするとそこに例えば『天寿国繍帳』のようなものを一定期間架けて死者を弔うことがあったのではないか、というものがあったのです。こうした古墳は関東などで見つかっているもので、終末期の古墳だそうです。
もし、そうだとすると、所変われば品変わる、で、高句麗の古墳壁画は日本にきてから刺繍というものに替わっていったことになります。平安ごろから法隆寺などで使われたらしい星曼荼羅なども、源流はあの古墳の星宿図だったかも、と想像はどんどん広がります。
『壁画古墳の謎』の中で、江上波夫氏は「高松塚の壁画にはいろいろなものが重なっている」ということを述べられています。群像の表現は唐、女性のスカートは高句麗、四神や日月星辰図は中国の六朝・・・・・・とさまざまな文化が流れ込んで、あの絵になっているというのです。その基調といえば高句麗だけれども、それだけではなく、いくつかの文化がミックスされて日本のものとなっているというのです。
これが日本という国の特徴なのでしょう。ある意味では節操の無いほど、貪欲に多くのものを吸収してしまうのです。それは北からも南からも、半島からも大陸からも人がやって来たため、生物学的にもいろいろな脳を持つ人間が集まっている、ということかもしれません。こんな日本の特徴を、これからも活かしていけるといいのに、と考えました。
ともあれ、日本文化の源流のひとつ、高句麗の古墳が世界遺産としてこれからも守られていくことを、喜びたいですね。
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