Tuesday, September 4, 2012

our forests in Korea,there were only young pines and bald mountains 100 years ago

http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/88b863a571011907f77b922d9095580d
【韓国】100年前の我が国の山林、「禿げ山と若い松だけ」[09/10]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1252538836/

山林科学院が1910年の『朝鮮林野分布図』を分析



100年前の我が国の山林は、どのような姿だったのだろうか?

8日、国立山林科学院によれば、1910年に製作された『朝鮮林野分布図』を使い、100年前の南北朝鮮全域の山林の姿を分析した結果、当時の全体の山林面積は1,585万ha(島嶼を省く)で、全国土の71%に達した。

山林の面積は現在の韓国地域の山林率(64%)よりも多かったが、木材資源を示す林木蓄積量は1?(1万?)あたり17立方?。現在の韓国(1?当たり103?)の16.5% 水準に過ぎなかった。

森の構成は大木の森(成熟林)が32%、若木の森(稚樹林)42%、禿げ山(無立木地)26%であり、大木の森の73%が北部地域に分布した。このうち特に咸鏡道(ハムギョンド)と平安道(ピョンアンド)に66%があった。

林床分布別では、松のような針葉樹林が43%で、クヌギの木のような広葉樹林(30%)よりも多かった。

北朝鮮地域は白頭山(ペクドゥサン)を中心に、比較的鬱蒼とした森が維持されていたが、韓国地域は白頭山脈の一部に大木が残っていただけで、海抜の低い低地帯には若い木と禿げ山が大部分を形成した。

100年前の我が国の山林は、トラが出沒するくらいに古木が鬱蒼としていたという予想とは違い、現在の水準よりも劣っている事が分かる。

『朝鮮林野分布図』は、日本の強占期に朝鮮総督府が朝鮮林の調査事業の一環として製作した、現存最古と同時に初の朝鮮半島全域の山林分布図。この地図は山林科学院緑色経済研究課のペ・ジェス博士が、1996年に日本の北海道大学の中央図書館で入手した物の写本であり、縮尺は50万分の1。

20万分の1の縮尺でも製作されていて、樹種分布(松、針葉樹、広葉樹)と所有区分(国有林、私有林、寺刹林)、林床分布(成熟林、稚樹林、無立木地)、封山(朝鮮末期に国家直属管轄の山林)というような情報を含んでいる。

山林科学院の関係者は、「この地図は、約5ヶ月という非常に短い期間に現地を調査して製作した為に正確度は落ちるが、100年前の我が国の山林の姿を見せる唯一の地図で、大変に貴重な資料だ」と話した。

ソース:大田=聯合ニュース(韓国語)
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2009/09/08/0906000000AKR20090908123300063.HTML


朝鮮林野分布図[ちょうせんりんやぶんぷず]

朝鮮総督府農商工部の編集にかかる明治45年(1912)刊行の50万分の一の地図です。地図に記載された解説によると「森林山野分布ノ大要ヲ一覧」するために、実地調査で作成した20万分の一の見取図を縮小して作成したとあります。また「微細ニ到テハ正確」ではなく、特に鴨緑江と豆満江の上流については、資料が乏しく、今後補修したいとも記載されています。図は、成林地・稚樹発生地・無立木地に色分けされ、所有者別・林野の種類別の各道別の面積等の表も記載されています。原図サイズ:252cm×132cm
国立公文書館 | Digital Gallery
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/ezu/chousen_rinya.html





<日本統治以前の朝鮮の惨状と、朝鮮半島の山々を甦らせた日本の山林緑化事業>

「朝鮮奥地紀行」(イザベラ・バード著 朴尚徳訳 平凡社東洋文庫平成六年刊)

<ソウル近郊の木が伐られて裸にされた丘、海岸、条約港、そして主要幹線道路などは印象的ではあるが、この国に大変好ましくない感じを与えている。南部朝鮮の多くの地域に在る材木貯蔵所は閑散としている。しかし、北部と東部地方の山々には、特に豆満江、鴨緑江、大同江、漢江の水源地を囲み地方には、まったくのところかなりの原始林がある>
P三六~三七
<肥後丸が寄港した対馬島は、私が日本を最後に見た所である。対馬島の紅葉した楓と花咲く西洋李、神殿が建っている高台、森の中の神杜へと通じている荘厳な石段、青々とした松林と金の羽のような竹の葉が、釜山の木が伐られて裸にされた褐色の丘が生み出す印象の、夏には心地良かろうが陽の差さない二月の日中には厳めしいその不気味さを強調していた>
P四十六、四十七
http://www.tamanegiya.com/kouheiunn21.7.3.html
http://www.tamanegiya.com/gaikokujinnobunnkenn.html



1903년 서울 근교 (촬영자 Herbert Ponting )

http://yeoksa.blog.fc2.com/blog-entry-461.html



「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社

1885年12月6日から86年2月29日にかけて、ソウルから北部朝鮮をへてポシェートに至るまで徒歩で踏破したペ・エム・ジェロトケヴィイチは、朝鮮について(李朝時代)
「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て撚料のために刈り取られている」、
「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た」、
「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生は殆ど見られない」、
「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は殆ど皆無で、燃料には藁と草が使われる」、(「朝鮮旅行記」)などと記述している。

朝鮮半島の林野状況については、統監府設置当時では、鴨緑江と豆満江流域などで原生林が見られる以外は、はげ山が多く荒涼とした景観となっていた。だから、はげ山といえぱ西にスペイン、東に朝鮮といわれたほどであった。ではなぜ朝鮮半島が、あれほどの山野荒廃、基岩露出、土砂流出という山河崩壊の惨状になったかについては、気侯や地質上の自然原因と人為的原因があったと考えられている。人為的原因については、乱伐といわれるものが原因で、冬季の薪材の需要と林政の不備、戦争災害もその原因の一つである。数百年来にわたる旱魃と洪水による悪循環によって、いっそう山河と大地は荒廃していった。朝鮮では古来、山林は個人所有を認めていなかったので「無主公山」といわれ、民衆は木を伐り、根まで掘っていくので荒廃していった。

朝鮮半島の荒廃した山野の復旧造林は、明治40年代から営林署の設立によって行なわれた。森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病虫害駆除、森林組合補助、林業試験場の整備、地方庁職員の増員を行なった。さらに愛林思想を育成するために、農林当局は1911年から毎年4月3日に記念植樹を行ない、それからの30年間で5億9000万本の植林を達成した。朝鮮半島の山河崩壊を緩和、阻止するために、禿山への植林と砂防工事が全国的に実施された。

『朝鮮半島の山林』(土井林学振興会出版)によれぱ、大正7年(1918年)以降から昭和17年までの施工面積は約17万7300ヘクタール、造林本数は6億622万4000本であった。

http://mirror.jijisama.org/syokuminti1.htm#sinrinn



国民新聞 1913.12.17-1913.12.28(大正2)
朝鮮統治の三年 (一~十一)
明治四十四年併合後第一回の神武天皇祭日を以て各地の官民挙て記念植樹の例を開きたるが同年の植付数は四百六十五万本にして大正元年は千十六万本大正二年は千二百四十三万本を植付け逐年其数を増加せり
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00472194&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA&TOP_METAID=00472194

<造林成績 逐年良好に向う>
京城日報 1924.5.15(大正13年)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00473938&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00473938



[書評] 臆断と独善の植民地収奪論
[李栄薫(イ・ヨンフン) /ソウル大学教授、経済学]
1910~1942年の間、韓半島全域にかけて約82億本の苗木が植えられた。それは解放以後今まで韓国政府が植えて来た苗木の数をしのいでいる。総督府は、朝鮮王朝から引き継いだ荒廃した山地を緑化するために、実に少なくない努力と費用をかけた。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/39903594.html
『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』
http://kimura-nobuo.cocolog-nifty.com/laboratory/2009/09/hy--e2a4.html#comment-38906273



朝鮮の禿げ山に植林したのは日本人
(パク・テヒョク著  醜い韓国人)  
日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(さんかん)
という監督官を村に置いた。また村人が山に入ることを禁じた。 私の小学校の日本人教師や、山
林局に所属していた山監や、若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。日本統治時代には、そのせいで禿げ山だった山々が緑に覆われるようになった。
・・・・・・・・・・
私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行われた。人々は話しに耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨク
シ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「力を合わせて朝鮮を蘇生させましょう。今の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵み
である雨水を蓄え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこ
で陸はいつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い茂れば、天の恵みの雨の40パーセン
トを、飲み水や水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄
えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。
・・・・・・・・・・
日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどが禿げ山だ
った。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村
の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。

しかし、独立後にまた勝手気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。」


忘れられた国土開発
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
History of Korea
http://www.geocities.jp/furen1002/KoreaHistory.html

「日本の統治により朝鮮人の生活は大幅に改善」と1920年代に米国人が論文 …容認しがたい挑発的主張だ
「教科書に描かれた李氏朝鮮の姿は誤り。本当は悲惨な時代だった」… 在米歴史学者
ソウル大名誉教授「日本の植民地時代抜いて近代化説明不可能」

北朝鮮に残した戦前の日本「資産」 開発のダムや工場など8兆円規模
http://nippon7777.exblog.jp/1701728/
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50057719.html



79 名前: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん Mail: 投稿日: 2009/09/10(木) 09:27:53 ID: zIbN0JSW
日帝支配以前は不毛の地であったと認めたのは進歩だけどな。
あとは誰のせいだと言い出すかだなw

88 名前: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん ? Mail: sage 投稿日: 2009/09/10(木) 09:32:06 ID: /m12YwQ6
>>79
最終的にはなぜか日本のせいになる。

141 名前: エラ通信 ◆0/aze39TU2 Mail: sage 投稿日: 2009/09/10(木) 10:13:26 ID: J05z5w6T
>>88
>>最終的にはなぜか日本のせいになる。

20年近く前に通ってきた道だな。
384 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2007/08/26(日) 17:35:12 ID:uBg7Jgz2
>>374
ちなみに、韓国政府の機関がまとめた『韓国林業50年史』という本には、次のような記述があります。

>植民地統治方法の一つとして山林警察制度を導入して取り締まり、
>規制主義で実施された他律的な山林保護政策は
>日帝に対する我が民族の反感を刺激することで
>抵抗表現としての山林破壊行為が正当化された。
>長期間このような意識が韓国民に存在することで
>自然に罪の意識なく利己的に山林を利用する行動が固着化されてしまった.

つまり、
「日帝が森林保護のために山林を厳しく取り締まったせいで、『森林を荒廃させる行為=日帝への抵抗表現』となってしまったニダ!」
と、韓国人が主張している、というわけです。

この発想…私には理解できませんw


↓(以下、日帝残滓物語)



【韓国】樹齢110年、韓国最古のムクゲ発見 ムクゲは日帝強占期に民族精気抹殺政策で大半が損なわれ古木はあまり残ってない★2[07/24]

韓国で最も古いムクゲの木が江原道江陵市で発見された。

国立山林科学院のパク・ヒョンスン博士は23日、「江陵市沙川面芳洞里の江陵朴氏の祭堂(祭祀〈さいし〉を行う堂)の前庭にあるムクゲの木は最高110年経つものとみられ、韓国で最も古いムクゲと推定される」と発表した。

このムクゲの木は高さ4メートル、幅6メートルで、根元の直径が0.5メートル、幹周りは1.5メートルに達する。韓国固有のムクゲで、今はピンク色の花が満開に咲き、美しい姿を誇っている。根元から地上50センチほどの高さから幹が三つに分かれ、広く枝を伸ばしている。

国立山林科学院による調査の結果、樹齢は90-110年と推定される。ムクゲの木は通常、樹齢20-40年ほどで、それ以上経つと枯れてしまう。このムクゲが長生きできたのは、適時に薬を与え、肥料をたくさん与えたためと分析されている。

江陵朴氏宗家のチョ・キルジャさん(79)は「16歳で嫁入りしたときから、このムクゲの木はあった。今ほどではないが、当時もだいぶ大きかったことを思い出す」と話した。

パク・ヒョンスン博士は「こんなに大きく、多くの花を咲かせるムクゲの木は初めて見る。ムクゲは毎日花を咲かせ散るため、たくさんの肥料が必要だ。遺伝的側面から研究資料として活用し、保護樹に指定して管理する必要がある」と述べた。

江陵市はこの木の現地調査に取り掛かり、江原道に保護樹指定を申請した。保護樹として指定されれば、今後は国や道の支援で環境改善や管理費用を充当するなど、江陵市が管理することになる。

ムクゲの木は日帝強占期に民族精気抹殺政策で大半が損なわれたため、韓国では古い木があまり残っていない。樹齢60年ほどの保護樹は江陵市連谷面柳洞里にある1本を含め、全国に3本ほどあるという。

http://www.chosunonline.com/news/20090724000051
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=8111



http://nidasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-1207.html

52 名前: オオバクロモジ(関西地方)[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 21:24:27.98 ID:bna5gZ8L
>>44
樹齢60年以上の木は相当珍しいのに
日帝が伐採したせいで3本しか残っていない。といいたいんじゃね。


48 名前: シロウマアサツキ(長屋)[] 投稿日:2009/07/24(金) 21:23:38.65 ID:kR+OqZzy
もしも、村の裏山に、材木になりそうな松林などがあれば、かならず郡守の官吏がやってきて、〈こんど、郡役所の改築をすることになった。ついては、○月○ 日までに、これこれのサイズの用材を○百本、おまえらの手で伐採して、郡役所まで運搬するように〉との私物命令を出されてしまう。

それを実行できなければ、叛乱を企てたとかいう口実で牢屋につながれ、親戚が大金を集めて賄賂をおくって釈放させぬかぎり、死ぬまで投獄されっ放しになる。だから朝鮮では、いやしくも役人に目をつけられるおそれのありそうな潜在的動産は、住民みずからがすぐに燃料にしたりして消尽させておくのが生活自衛策なのだ、という。

これが1904年の話である。

もちろん、家屋の造作も、あまり立派にすれば危うい。屋根を瓦で葺いたりすれば、たちまち郡役所の官吏があらわれる。そして〈役所の事業に必要だから、おまえは○万円をいつまでに納めよ〉との私物命令を勝手に出されてしまうのだ。渋れば投獄されるのは、材木のケースと同じである。

こんな政治が何百年も続いているために、朝鮮の庶民はもはや誰もまじめに働こうとはしない。「平等にはなったが貧乏平等で産業も振わず道路も橋梁も鉄道もなく、勿論文化の向上も何もないのだと〔投宿先の朝鮮人は〕長大息を洩らし本音を吐いた」

――という(みすず書房『四王天延孝回顧録』 pp.15~16)。





名前: VIPPERな名無しさん 投稿日:2009/07/25 21:16


日帝や日本軍は最強やな
あのコピペどうぞ


名前: 名無し@ニダ速 投稿日:2009/07/25 21:28


とある場所から引用

自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。

吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、『見渡す山河は青々として繁茂し』、農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。

これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう。


あれ、青々としちゃってるけど…



http://www.ofof.net/doc/a10-2-09.htm


광해군이 내린 삼강행실 지금도 보전
구룡계곡(육모정) 주변의 주촌면 마을들


금방이라도 눈비를 쏟을 것 같이 잔뜩 흐린 날씨에 바람이 매섭다. 남원시를 벗어나면서 육모정쪽으로 방향을 잡았다. 이 달에는 만복대가 올려다보이는 주천면을 둘러보기로 했다. 주천면은 구례군과 경계를 이루며 면의 일부가 국립공원 구역으로 편입됐다.

서울 방면에서 출발한 차량들이 편안히 노고단을 오를 수 있는 코스로 남원에서 주천면을 지나 육모정과 구룡계곡, 그리고 정령치를 거쳐 성삼재 주차장까지 이르는 길을 많이 택한다. 이 길이 제일 가깝고 지리산의 진수를 맛볼 수도 있다.

만복대에서 발원한 옥수가 한국의 100명수 가운데 하나로 선정된 구룡계곡을 지나 원천천을 이루며 주천면의 한가운데를 지나 섬진강의 상류로 흘러든다. 먼저 주천면 안쪽 깊숙이 자리잡은 국립공원 북부관리사무소 구룡분소를 찾았다. 이곳 분소장인 노준상씨가 반갑게 맞는다. 노씨는 주천면이 고향으로 이곳 마을 사정에 대해 소상히 알고 있었다. 노씨의 안내로 육모정 바로 아래 호경리를 찾아 노상호(盧相昊·83) 할아버지를 소개받았다.











구룡계곡물이 ? 형국을 닮았다 하며 가정집에 우물을 파면 물이 솟아나 배가 가라앉는다 하여 지금도 이 마을엔 우물을 팔 생각도 않고 또 파지도 않는다 한다. 대신 산 위쪽의 풍부한 자연수를 연결하여 사용하고 있다.

8대째 이 마을에서 살아오신다는 노 할아버지는 10남매를 낳아 기르셨고 지금은 큰아들 내외와 살고 계셨다. 왜정 때는 한 개 부락에 1명씩 두었던 농업실천원 일을 맡아 마을 농사지도에 나서기도 했다.

남원시내가 가까워 일제 때는 시내의 용성국민학교를 다녔으며 왜놈 말을 배운다고 학교를 가지 않았으나 노 할아버지 16살 때 왜놈이 잡으러 와서 억지로 학교를 다니게 되었다 한다. 당시 국민학교는 학년당 3학급으로 송, 죽, 매 반이라 불렀고, 학급당 50여 명이 배웠다.

일제 때 집안이 정미업을 하며 비교적 여유있게 지냈으나 어느 날 지서에서 나와 정미업을 중지시켰다. 당시에는 공출을 나락으로 냈기 때문에 정미를 하지 못하게 했다. 이로 인해 끼니를 거르기 일쑤였다.

산에 올라 약초를 캐고 소나무껍질을 벗겨 이틀 정도 삶아 한 주먹의 수수를 넣어 식량으로 삼았다. 호경리는 밭이 드물어 주로 벼농사를 했고 명베 등을 짰으나 역시 공출로 다 내줘야 했다. 어쩌다 비료로 나오는 콩깻묵이 대신 식량이 되기도 했다.

노 할아버지의 어린 시절에는 마을 일대에 호랑이가 많아 밤마다 지금의 구룡계곡 쪽에서 호랑이가 울면 산이 울리곤 했다. 밤새 집 주위를 돌던 호랑이가 개, 돼지, 송아지 등을 물고 갔다. 노 할아버지 친척 되시는 분 중에는 산에 올라갔다가 호랑이를 만나 놀램을 진정치 못하고 사흘만에 돌아가시기도 했단다.

일제 때는 지금처럼 구룡계곡 옆을 따라 고기리로 올라가는 길이 없었고 구룡계곡 골짜기를 따라 산길을 올라다녔다. 여순반란사건 때 큰 피해는 없었으나 60여 회 반란군이 들이닥쳐 식량 등을 빼앗아갔다. 면소재지인 장안리에 있었던 지서는 주위를 대나무창으로 둘러싸 완전 요새화하여 반란군을 방어했다.

60년대 들어와 새마을사업이 시작되면서 마을에 급격한 변화가 오기 시작했다. 면사무소 직원들과 지서, 소방대원들이 동원되어 초가를 걷어내고 지붕을 슬레이트로 바꾸기도 했다. 현재 호경리 마을은 노인들만 마을을 지키고 있다 한다. 몇 년 전 노환으로 하반신이 마비되신 노 할아버지는 불편한 몸으로 오래된 기억을 더듬어 힘들었던 지난 날을 회고하셨다.

동네 위쪽으로 올려다 보이는 지리산 능선엔 하얀 눈이 덮여 있고 구룡계곡을 따라 고기리와 정령치로 오르는 도로가 그늘진 곳에 얼음이 얼어 통행이 금지되고 있었다. 도로사정을 모르는 차들이 매표소 입구로 몰려들었다가 되돌아나간다.


주촌면 제일 부자 마을이던 용궁리

호경리를 떠나 인근의 용궁리로 들어섰다. 호경리에서 잘 포장된 도로를 따라 야트막한 재를 하나 넘으니 아늑하고 양지바른 곳에 용궁리가 있었다. 한낮인데도 인적이 드물어 한참 마을을 돌아다니다 마을회관으로 들어서서야 이 마을에서 오래 사셨다는 황달수(黃達壽·76) 할아버지를 만날 수 있었다.

옆 마을이 고향이신 황 할아버지는 6.25 직후 용궁리로 이주하셨다 한다. 당시에는 50여 호가 모여 논밭농사로 근근히 생활을 꾸려 나아갔다. 인근 마을과 달리 이 마을에는 산수유나무가 많아 농가 소득에 적잖이 도움이 되고 있다. 산수유 열매를 기계로 씨를 빼고 보름 이상 바짝 말려서 약재로 팔면 작년 경우 근당 25.000원씩 받을 수 있었다.

용궁리(龍宮里)는 신라 진성왕 때 마을 인근에 부흥사라는 절이 있었고, 절의 형세가 편안해 마치 바다 속 용궁 같다고 하여 그렇게 불린다고 한다. 전해오는 이야기로는 당시 부흥사 중들의 작폐가 심하여 고승들의 미움을 받아 파근사(波根寺)란 별명이 붙여졌다. 그런데도 하도 많은 사람들이 모여들어 사람을 끊기 위해 빈대를 잡아다 놓았는데 이 빈대가 너무 많이 번성하여 더 이상 사람이 살 수 없을 정도까지 되면서 절도 망해버렸다 한다. 절의 자취를 알려주는 지명으로 중터, 너들검, 명대새, 왕답 등의 이름이 지금도 전해오고 있다.

430여 년 전에 서당이 생겨 유생들이 많이 나왔고, 한때는 주촌면에서 가장 부자가 많이 사는 마을로 손꼽히기도 했다. 옛날에는 마을에서 면소재지인 장안리가 안 보여야 용궁리가 잘 산다고 하여 마을 앞에 조산을 쌓기도 했으나 지금은 조산의 나무도 베어지고 논이 돼 버렸다 한다.

용궁리는 당초 부흥사 사하촌 성격으로 형성되었고 고려 말엽에 와서 채씨, 정씨 등이 마을을 이루고 살았다. 조선조에 들어와서는 서산 류씨가 주류를 이루는 정문동이란 마을이 있었고 지금도 일부 지도에는 표기되어 있으나, 단지 류씨 문중 땅으로만 알려져 있을 뿐 사람이 살지 않고 있다.

현재는 마을 뒤편의 영제봉을 중심으로 각종 산나물과 한봉 등을 사육하고 있는데 25호 정도의 작은 마을인 데다 농촌인구의 고령화 현상으로 인한 일손부족으로 농사를 짓지 못하는 집이 늘어나고, 객지 자식들이 보내주는 생활비에 의지하고 있다. 일제 때부터 꾸준히 이어오던 삼농사도 25년 전부터 끊겼고 마을 전체가 상당히 침체되어 있었다.

이 마을도 인근의 호경 마을과 같이 6.25 후에도 호랑이가 내려와 마을에 피해를 주기도 했다. 용궁리 어귀에는 일제 때 만들었다는 장안저수지가 있어 지금까지도 아래 마을에 농업용수를 공급하고 있다.











조경남 의병장군 탄생지 은송리

용궁리를 내려와 멀리 건너다보이는 산밑의 작은 마을 은송리를 찾았다. 은송리는 일제 때 내송리, 외송리, 은행리, 내촌리 등 몇 개 마을이 통합되어 은행 마을과 내송 마을로 불리면서 은 자와 송 자를 한 자씩 따와 불리게 되었다. 지금도 은행정 마을과 내송(안솔치) 마을은 상당한 거리를 두고 떨어져 있어 사실상 별개 부락 같았다.

행정 마을은 옛부터 이 마을에 은행나무가 많았다고 해서 붙여진 이름이고, 내송 마을은 풍수지리상 마을 뒷산의 고개가 풀밭에 누워있는 소의 형국이라 하여 한양 조씨가 정착했던 때에는 쇠고개 또는 우치동이라 불렀다. 그 후 마을 주변에 송림이 무성하고 평온하기 이를 데 없으므로 소나무를 상징하여 솔고개로 바꾸었는데, 지명이 한자화되면서 내송이라 바뀌게 되었다.

임진왜란 때는 이곳 출신 조경남 장군이 의병을 일으켜 많은 공을 세웠고, 특히 운봉 팔랑치에서는 왜구와 접전하여 대승을 거두기도 했다. 조 장군은 군사를 조련할 때 매일 구룡계곡 위쪽의 큰 소나무에 활을 걸어두고 쉬었다 하여 그 소나무를 장군소나무라 부르기도 한다. 이 노송은 지금도 600여 년을 버티며 자라고 있고 후세사람들은 이곳 이름을 솔정지라 부르고 있다. 특히 조경남 장군이 남긴 난중잡록은 그가 13세부터 53년여를 써온 일기로 임진과 정유 양난의 기록 등 중요한 역사적 자료로 평가받고 있다.

은송리에서 만난 80세의 김효신 할아버지는 90여 년 전 부모님이 이 마을로 들어와 정착하셨다. 은송리가 고향인 김 할아버지의 기억으로는 일제 때 36호가 농사와 무명, 삼베 등을 팔아 생활하는 마을이었고, 장날이면 운봉쪽 4개 면 사람들이 솔정지를 넘어와 남원장을 보러 다녔다.

이 마을에도 일제의 공출은 예외가 아니어서 삼베, 명베, 나락과 목화 등을 가져갔고 십분의 일 정도 주는 보상금으로 어렵게 지내야 했다. 주로 산에 올라가 나무를 해서 화목으로 팔았지만 나무 한 단에 5전을 받았다. 그것도 마을 주변 산에는 없어 깊은 산속까지 잡목을 베러 다녔다.

일제 때에는 주변 산이 대부분 민둥산이었으나 박 대통령 이후 산림녹화사업이 시작되었다. 4∼5년 전까지는 나무를 때는 집이 있었으나 요즘은 기름으로 대체됐다. 해마다 송이 버섯을 채취하곤 했으나 간벌을 못한 산에 나무가 무성해지는 바람에 나무끼리도 피해가 많고 송이는 아예 자라지 못하고 있다. 한때는 상품의 송이버섯 1kg에 25만 원까지 받았다.

일제 때 제일 고생했던 것은 가뭄이 들어 논밭이 갈라지면서 논에 수수, 조, 메밀 등을 갈아 먹은 일이라고 한다. 송치리에 4년제 주천보통학교가 있었고 졸업 후에는 남원의 용성국민학교 5∼6학년으로 편입했다. 인근 부락에 서당이 있어 여학생을 포함해 20여 명이 다녔고 천자문과 사자소학 등을 배웠다. 일정한 시간이 없이 서당엘 다녔고 1년에 쌀 1말의 수고료를 훈장님께 드렸다.

여순반란사건 때 마을 이장 일을 보았던 김 할아버지는 낮에는 마을 이장일을 보고 밤에는 지서에서 살았다. 지서에서는 30∼40대 사람들을 산속의 반란군 감시에 내보내 마을 사람들이 여러 명 죽기도 했다. 6.25 후에는 빨치산을 피해 산속에 굴을 파놓고 4∼5명씩 들어가 자기도 했다.

40여 년 전인 신축년에는 큰 수해가 나 마을의 일부를 쓸어가 버려 대통령과 농림장관이 마을을 시찰하기도 했고, 그 후 정부에서 돌집을 지어 주어 지금도 이 마을에는 당시 지은 돌집이 한 채 남아 있었다. 주천면 사람들은 비가 안 오면 바로 뒷산인 해발 455m의 장백산(長白山)에 기우제를 지낸다.

인근의 삼막골이란 골짜기에는 움막집이 있었고 돌부처가 조각이 돼 있다 하여 미륵정이란 지명이 남아있다.

밖으로 나서니 비가 제법 내리고 있었다. 은송리를 내려오다 길게 뻗어있는 시골길에 비를 맞으며 걷는 노인을 만나 다시 마을로 모셔다드리고 인근 마을인 호기리를 찾아들었다. 이 마을에선 46년의 교직생활을 마치고 8년 전 정년퇴임하신 노동환(盧東煥·76) 할아버지를 만났다. 여느 할아버지답지 않게 또박또박 옛일을 기억하시며 말씀을 이어가신다.



남원 4대 명당의 하나 호기리

일제 말기 20살 때 황연임(72) 할머니와 결혼하여 3남2녀를 키웠다. 12대조의 선산이 이 마을에 있는 지리산 토박이로서 어느 누구보다 주천면 사정에 밝았다. 호기리는 범실(虎谷),안으실(安谷), 신기(新基) 마을 세 개 부락을 합쳐 부르는 행정상 이름이었고, 노 할아버지는 호곡 마을에 살고 계셨다.

호곡 마을은 고려시대 박씨 성을 가진 사람이 정착하여 조선 태종조까지 약 300여 년 정도 살다 흩어지고, 이 때부터 풍천 노씨가 정착하여 농사를 지으며 500여 년간 살아온 집성촌이다. 남원시에서 발간한 남원 마을 유래에 의하면 호곡 마을은 원래 범실이라 불렸고, 범실은 마을의 형국이 호랑이가 엎드려 있는 형국인 복호명당이 있다는 데서 유래했다.

호곡 마을 입구 조금 못간 곳에 바위에 부처 모양이 새겨져 있어 부처모퉁이라 부르는 곳이 있는데, 지리산에서 내려온 호랑이가 부처모퉁이에서 개를 보고 잡아먹으려 하자 맞은 편 개울 건너 할개미란 곳에서 사자가 나오는 것을 보고 호랑이가 엎드렸다 하여 붙여진 이름이었다. 이 호랑이를 보고 장수가 활을 겨누었다 하여 할개미라 불렀다 한다.

신기 마을은 400여 년 전 모양씨 성을 가진 사람이 생활 터전을 찾아 새로 생긴 마을이라 하여 새터(新基)라 불리웠다 한다. 남원의 4대 명당인 동복호, 서선녀, 남비룡, 북장군 중 동복호가 바로 이 호곡 마을이라며, 풍수가들이 명당을 찾으러 지금도 이 마을을 방문하고 있다 하였다.

논밭농사가 주를 이루었지만 해방 후 한때 수박농사를 많이 했었다. 옛부터 다른 마을과 달리 봉건적 사고방식이 심하여 일하는 것을 부끄럽게 여겨 경제적으로는 고된 생활을 해야 했다. 여름농사로 겨울 한 철을 넘겼다.

옛날에는 서당이 있었다 하여 서당터, 서당동산이란 이름이 전해오고 있고 한문도 많이 배웠다. 왜정 때도 간혹 학교 다니는 아이들이 있었으나 노 할아버지의 조부께서는 학교 가면 왜놈 글을 배운다고 못 가게 하셨다. 노 할아버지의 아버지가 몰래 학교를 보냈다가 조부께 들켜 매도 많이 맞았다. 일제 때는 마을에 서당이 없어 조부께 한문을 배웠다. 국민학교는 면소재지에 주촌국민학교가 있었고 지금의 원천초등학교는 6.25후에 생겼다.

일본인 교장이 있던 주촌국민학교는 4년제로 교실 2개에 한 교실에서 1, 2학년 그리고 다른 교실에선 3, 4학년이 수업했다.

왜정 때의 식량 고통은 공출에서 비롯되었다. 실제 논밭의 생산량보다 부과된 공출량이 언제나 많았다. 할당량을 못 채우면 면사무소에 불려가 꿇어 앉혀 놓고 매질을 하였다. 만주지방에서 나온 콩깻묵을 비료로 사용하라고 배급하였으나 이것을 물에 불려 비료성분을 빼고 깻묵만 골라 먹었다.

쑥과 소나무껍질로 연명했지만 나중에는 그것도 귀해 더 깊은 산속으로 들어가야 채취할 수 있었다. 호박잎은 고급음식이었고 호박넝쿨을 끓여 먹었다. 그것마저 못 먹은 사람들이 있어 왜정 말기에는 식량난이 말도 못했다.

호곡 마을에는 이 마을 출신의 선비에 대한 이야기가 전해온다. 380여 년 전 광해군 시절 집현전 사헌부지평이란 벼슬을 지낸 노형하의 고향이 호곡 마을로, 그 후손들이 지금도 유품을 보관하고 있다. 노형하의 조모 음성 박씨는 원래 금지 사람인데 지관으로 축지법도 사용하였다.

여자이기 때문에 드러내지 못하고 밤에만 숨어서 활동하였는데, 자손의 번창을 위해 명당자리를 찾아다니던 중 주천리 하주는 굶지 않고 평범히 살 수 있겠고, 용담은 만석꾼은 나겠으나 벼슬이 없겠고, 범실(호곡)은 청빈하지만 벼슬이 날 명당자리라 여기고 거처를 옮겨왔다.

그후 손인 노형하가 21세에 장원급제하여 집현전 사헌부지평을 지내는 위세를 풍미하였으나 35세에 암살당했다. 피살 당시 자손도 없고 젊은 나이에 죽은 것을 애석히 여긴 임금이 삼강행실도와 옥촛대를 하사품으로 내렸다 한다. 옥촛대는 분실되었고 10대손인 노상옥씨가 아직도 삼강행실도를 보존하고 있다.

이 마을 뒷산에는 돼지 모양의 바위가 있어 지도에도 표기되어 있을 만큼 유명한 저바위(돼지바위)라 불리고 있다. 마을 뒷산에는 나무가 많아 옛날에는 소나무 낙엽을 긁어 한 짐을 만들어 팔면 17∼18전을 받아 쌀 한 되 정도를 사오곤 했다. 자주 돌아오던 집안 제사에는 5원 정도 들이면 잘 차린 제사라는 얘기를 들었다.

당시 남원의 농업학교가 지금의 중학교 3년제 격이었지만 월 5원의 수업료를 냈고 국민학교가 월 5전이어서 봉투에 도장을 받아왔다. 노 할아버지는 1944년 농업학교를 졸업하고 45년 남원에서 교편을 잡으면서 92년 원천초등학교 교장을 마지막으로 46년간의 교직을 마치셨다.

여순반란사건과 6.25를 지나면서도 다행히 마을에 큰 인명피해는 없었으나 재산상의 피해는 많았다.

시간이 많이 지났다. 인자하고 차분하게 말씀하시는 노 할아버지는 역시 전형적인 교직자의 자세였다. 할머니께서 편찮으셔서 걱정이라고 하셨다. 두 분의 건강을 빌며 호기리를 떠났다.


http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2009/09/08/0906000000AKR20090908123300063.HTML



돼지·뱀·개구리 서로 견제하는 형상의 용담리

남원시와 주천면 경계에 위치한 용담리(龍潭里)를 찾았다. 마을 이장을 50년 가까이 했다는-아마도 우리나라 최장기 이장직 경력일 것이다-이준모(李浚謨·72) 할아버지를 만났다. 며칠 전 이장직을 내놓으셨단다. 요즘은 서로 이장직을 맡지 않으려고 해서 그나마 젊은 사람들이 이장 일을 보고 있다고 한다.

용담리는 신라 말기에 김해 김씨가 현재의 마을 앞 원천천 건너 산자락 밑에 몇 가구가 모여 살다가 풍수지리설을 참작하여 마을 자리가 좋지 않다는 의견을 모으고 현재의 용담리 자리로 옮겼다고 한다. 이때 영천 이씨들이 많이 들어와 가장 많은 성씨가 되었고, 마을 앞을 흐르는 원천천의 풍부하고 맑은 물을 이용하여 부근의 기름진 땅에 농사를 지으며 번창하기 시작하였다.

용담이라는 이름은 도선국사가 창건한 용담사 유래와 관련이 있다. 마을 앞을 흐르는 원천천의 깊은 냇물(소)에 용이 못된 이무기가 살았는데 용이 되려다 하늘로 오르지 못한 이무기가 해마다 몇 차례씩 뭍으로 나와 농작물을 쓸어버리는 등 주민들의 두려움의 대상이 되었다. 도선국사가 근처를 지나가다가 이 사실을 알고 절을 지어 용담사라 하여 부처님의 힘으로 이무기의 피해를 막았다고 한다. 그 후로부터 이무기의 피해가 씻은 듯이 없어져 마을 이름이 되었다고 한다.

마을 부근의 지형이 풍수적으로 세 동물이 견제를 하는 형상이라고 한다. 용담고개를 돌면 산 위에 저바위(돼지바위)가 있고, 맞은편 하천 건너편에 뱀산이 있고, 뱀산 앞에 개구리바위가 있는데, 뱀이 개구리를 잡아먹으면 돼지가 뱀을 잡아먹겠다고 하자 뱀이 개구리를 잡아먹지 못했다고 한다. 이 세 동물이 서로 견제하는 것이라 하여 남원 양씨들이 명당자리라 여기고 이곳에 묘를 썼다.

이 할아버지는 정오택(68) 할머니와 사이에 5남매를 낳았다. 8대 선조께서 이 마을로 들어와 정착하셨다 한다. 왜정 때는 80여 호가 벼농사, 길쌈, 누에 등을 길렀으나 식량 공출로 식량이 없어 옥수수, 콩깻묵 등을 먹어야 했다.

현재 용담리는 남원시가 가까워 남원에 직장을 둔 외지인이나 음식점 등을 하기 위해 들어온 사람들로 110여 호가 모여 살고 있으나 민박은 없고 인구 이동이 다른 마을에 비해 많은 편이라고 한다. 이 마을은 400여 마지기(1마지기 200평)의 논농사를 하는 평범한 시골 마을이었다.

왜정 때도 현재의 마을의 형태를 그대로 유지하고 있었고 어렸을 때도 지게 지고 나무하기 위해 솔정지를 넘어 소나무를 하러 가면 하룻길이 걸리는 먼 곳까지 다녀와야 했다. 마을 인근 산에는 땔감으로 쓸만한 나무들이 거의 없이 다 베어졌다. 나중에는 나무마저 없어 억새 비슷한 나무대로 지붕도 잇고 땔감으로도 썼다. 약초도 거의 캐지 않았다.

남원장에 나가도 규모도 그리 크지 않았지만 특히 기억나는 것은 소들이 많아 우시장은 크게 열렸었다 한다. 가까운 남원장이었지만 소를 끌고 나가면 왕복 하룻길이 되었다. 멧돼지가 많았던 때는 고구마밭에 피해가 심해 밤이면 깡통을 매달아 두드리며 밭을 지켰다. 여순반란사건 때는 별 피해가 없었으나 6.25 때는 마을에 빨치산이 자주 들어왔다.

용담리도 주민들이 대부분 환갑을 넘었고 예순 안쪽은 10여 명에 불과한 고령 마을이었다. 110여 호 가구 수에 비해 토박이는 절반밖에 되지 않는다고 했다.

계속 내리는 겨울비 속에 주천면을 떠나 이내 남원시 한 복판을 지난다. 울긋불긋한 네온사인이 명멸한다. 난중잡록의 한 귀절이 생각난다. 400여 년 전 왜구가 남원성을 공격하여 성이 함락되고 화염에 쌓인 모습을 주천면에 인접한 지리산 정령치와 고리봉에서 보고 황령암으로 급히 내려갔다는 구절을 떠올려 본다. 주천면과 남원시를 돌아나오며 그 날의 함성을 들어본다. 600년이 넘었다는 솔정지의 소나무는 그 함성을 기억하고 있을까.











<100>

`조선임야분포도'
(대전=연합뉴스) 일본강점기인 1910년 조선총독부가 조선임적조사사업 일환으로 제작한 `조선임야분포도'(축적 50만분의 1) 사본. 백두산을 중심으로 비교적 울창한 숲이 유지되고 있던 북한지역과 달리 남한지역은 백두대간에만 일부 큰나무숲이 남아있을 뿐 해발이 낮은 저지대에는 어린나무와 민둥산이 대부분을 이루고 있는 것을 보여주고 있다. 2009.9.8 << 국립 산림과학원, 전국부 기사 참조 >>
jchu2000@yna.co.kr

산림과학원, 1910년 `조선임야분포도' 분석

(대전=연합뉴스) 정찬욱 기자 = 100년 전 우리나라 산림은 어떤 모습이었을까.

8일 국립 산림과학원에 따르면 1910년 제작된 `조선임야분포도'를 이용, 100년 전 남북한 전역 산림의 모습을 분석한 결과, 당시 전체 산림면적은 1천585만ha(도서 제외)로 전 국토의 71%에 달했다.

산림 면적은 현재 남한지역의 산림율(64%) 보다 많았지만, 목재 자원을 나타내는 임목 축적량은 1만㎡(1ha)당 17㎥로, 현재 남한(ha당 103㎡)의 16.5% 수준에 불과했다.

숲의 구성은 큰나무 숲(성숙림) 32%, 어린나무 숲(치수림) 42%, 민둥산(무립목지) 26%였으며, 큰나무숲의 73%가 북부지역에 분포했고 이중 특히 함경도와 평안도에 66%가 있었다.

임상 분포별로는 소나무와 같은 침엽수림이 43%로, 참나무 같은 활엽수림(30%) 보다 많았다.

북한지역은 백두산을 중심으로 비교적 울창한 숲이 유지되고 있었지만, 남한지역은 백두대간에 일부 큰나무숲이 남아있을 뿐 해발이 낮은 저지대에는 어린나무와 민둥산이 대부분을 이뤘다.

100년 전 우리나라 산림은 호랑이가 출몰할 만큼 고목(古木)이 울창했을 것이라는 예상과 달리, 지금 수준보다 훨씬 못한 것을 알 수 있다.

`조선임야분포도'는 일본강점기 조선총독부가 조선임적조사사업 일환으로 제작한 현존 최고(最古)이자 첫 한반도 전역 산림분포도다. 이 지도는 산림과학원 녹색경제연구과 배재수 박사가 1996년 일본 북해도대학 중앙도서관에서 입수한 것으로 사본이며 축적은 50만분의 1이다.

20만분의 1 축척으로도 제작됐고 수종 분포(소나무.침엽수.활엽수)와 소유 구분(국유림.사유림.사찰림), 임상 분포(성숙림.치수림.무립목지), 봉산(조선 후기 국가 직속관할 산림) 등과 같은 정보를 담고 있다.

산림과학원 관계자는 "이 지도는 약 5개월이라는 매우 짧은 기간에 현지를 답사해 제작한 탓에 정확도는 떨어지지만 100년 전 우리나라 산림의 모습을 보여주는 유일한 지도로 매우 중요한 사료"라고 말했다.

jchu2000@yna.co.kr



http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b08cyousen_map/next/02shinrin_download.html

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10074627&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1





朝鮮林野区分調査進捗 (一〜三)

山林課長 斉藤晋作氏談



(一)

朝鮮に於ける林野の区分調査は彼の土地調査局の宅地及び耕地等の調査事業と相俟て夫々所有権を確定し課税の正鵠を計る等新領土の統治開発上急務中の最大急務たり同時に之が施設経営は治水計画乃至漁業等に重大なる関係を有し最も有利有望の事業なるは今更ら余の叙説を待たずして何人も知悉する所の如し余は昨年青島に出張して同地の山林経営に就き視察したるが同地は朝鮮に比して約十年の進歩を示し居れり而も朝鮮最近の施設経営は非常長足の勢を以て進行しつつあるを以て遠からず之を凌駕するに至るべし
古来朝鮮の林野に関しては台帳様の簿書もなく更に其大体を知るべき図面様のものも備わらず他に統計的数字も皆無にして殆んど之が整理上の考案を立つるに由なかりしを以て去る明治四十三年当局は各道に踏査員を派遣して所謂林籍調査を行わしめたる後二十万分の一の林野分布図を調製したり斯くて林相を区分して成林地、稚樹発生地、無立木地を明にし更に所有及び管理を区分して管理機関を有する国有林野例えば封山、牧場、柴場、管理機関を有せざりし国有林野主として公山と称するもの、寺院に於て管理せる林野、其他の私有林野を明瞭にし之に依りて各種林野の分布状況を知るを得たると同時に各道に於ける各種林野面積も亦図上計算に依って其概況を知るを得たり斯の如くして古来全く暗黒なりし朝鮮の林野は茲に始めて其大要を明示するを得たり而して此林籍調査の結果に基き去る明治四十四年度より林野区分の調査に著手するに至りたり元来林野の調査整理は区分調査と整理調査の遂行を俟って之が完了を告ぐるを得べく当局は先ず区分調査より著手し更に之が進捗に伴い整理調査に著手するの計画を立てたり而して区分調査は大正二年度に於て同年度以降九箇年継続事業を以て完了せしむる計画を立て之が調査は民願多き地方及び多かるべき地方を先にし以て民願処理の敏活を期し又た鉄道沿線地方を先にし衆目に触るる禿山赭丘の青化及び鉄道保安の功果を急ぎ更に保護監視所の設置地方を先にし保護又は監視する区域を明にし且つ地元民に保護を命ずるの準備に資し同時に五万分の一地図を有する地方を先にし土地調査局の土地調査進捗に従い該地図の作製を待ちて漸次之を進め以て労費の節約を期し進んで都邑附近の如き係争を惹起し易き地方を先にするの方針に出でたり尚整理調査は来年度より著手する予定なり
本年中四割完了 朝鮮全域は一万四千百二十三方里にして内千五百三十三方里は営林廠に於て調査することとなり居れり左れば山林課に於て調査すべき総面積は一万二千五百九十方里なり而して右の内今日迄の調査終了区域は千七百十六方里割ち一割七分に当れり更に目下著手中の区域は千二百三十方里即ち約一割にして不日著手すべき地域は千六百十三方里即ち約一割五分を算し以上全部の調査を終らんか三割七分を終了する割合にして本年度内には約四割の調査を完了する予定なり現下十五組の調査班全道に出張し炎天に屈せず降雨をも物ともせず早朝より薄暮に至る迄孜々営々として野外勤務に従事し夜間は不自由なる温突内又は天幕内にて昼間調査の結果を整理し又は地図の調製に従事する等有ゆる艱難辛苦を嘗めつつ専ら之が進捗に昂めつつあり
(二)

区分調査の標準

林野区分調査著手の順序は前述の如くなるが今少しく区分調査の標準を語らんに該調査は国有私有又は縁故者を有する国有林野の区分境界等を定め之が実地に於ける保護殖林に便せんとするものにして即ち国有林野の内国土保安又は森林経営等の為め将来国有として保存の必要ある箇所所謂要存置予定林野と何人にも貸下又は売却し得る第一種不要存置林野との地域を査定し標準とするものなり今四十四年度著手以来の調査功程を示せば左の如し

[図表あり 省略]

表中大正三年度調査面積の狭小なるは四月以降六月迄の二箇月分なるを以てなり本年度調査完了予定は十三万八千町歩を算し居れり又た要存置予定林野及び第一種不要存置林野を除く私有林野、縁故林野、部落有予定林野は今後著手すべき整理調査に譲り又は整理調査を待たずして区分調査の結果既に確定せるものあり而して之等の林野は一戸宛二町歩乃至三四町歩を残し居れり
林野の処分件数

森林令に於て国有林野の造林貸付に就き事業成功の上は其土地をも無償譲渡するの特典を設けられて以来貸付造林の希望者続出し又た林野の売却及び林産物の売却を出願するもの少なからず之等願件に対する実地調査は明治四十四年度より著手し来りたるが其調査処分は当然区分調査の進行に俟たざる可からざるや論なく今最近迄の処分件数を表示せんか如左

[図表あり 省略]

即ち四十四年度以来区分調査の一大進行に伴い処分件数も亦俄に増加し居れり而して前記の件数は許可件数にして此外不許可下戻となりたるもの少なからず左れば全部の出願件数は夥しきものにして之が処分は容易のことにあらざるなり尚査了面積中には処分に関係なき要存地予定林野と処分し得る不要存置林野をも含めり今左に最近迄の造林貸下内鮮人別を示さんか

[図表あり 省略]
植林思想の普及

之に依て是を見るに造林貸付出願者の増加は逐年非常なる率を以て進み居れり殊に注目すべきは朝鮮人の出願者多数を占め居れる一点にして斯は朝鮮人聞に於ける愛林及び植林思想の普及発達を示すものにして実に喜ぶべき現象なりと云わざる可からず更に鮮人殖林思想の発達を証するに著しき例証を挙げんか

[図表あり 省略]

にして本表に現われたる計数は内鮮人を合計したるものなるも其大部分は朝鮮人に属せり曾ては地方庁より無代配附を為たる樹苗をも往々其儘に抛擲して顧られざりしものも今や進んで之を植栽するに至り往時は配附申込者五万本に過ぎざりし地方も今や百万本に達するに至れり斯の如くして殖林事業に対する朝鮮人の覚醒的奮起漸く見るべくものあるに至りたるは余の愉快に堪えざる所なり
(三)

林況保安林調査

区分調査と共に著手しつつあるは林況及び保安林の調査にして林況調査は大正元年中平北雲山郡及び慶南欝陵島の林野に対して之を行いたり雲山郡は曾て蓊欝たる森林を有せしも同郡に於ける金鉱業の発展に伴い到る所濫伐され今日に於ては殆んど昔時の美観に接する能わず、以て速やかに整理の方法を講ずるの要あるを認め約五万町歩の林野を調査せり又欝陵島の林野は著名森林の一なりしに近年討伐盛んなりとの風説あるを以て約五千町歩の林況を調査し保護の方法を講じたり更に保安林調査及び編入は国土の保安水源の涵養等の為め必要と認めたる箇所に対し本府又は地方庁に於て調査を行い夫れ夫れ保安林に編入の手続を為しつつあり大正二年度に於ては十月迄に水源涵養及び風致の為め必要なる箇所七箇所一千四百六十九町歩を保安林に編入し同月末現在の保安林は百八十六箇所一万三千九百九十七町歩を算せり而して之等の林況及び保安林調査は機続的計画にあらず機に臨み必要に応じて行いつつあり

[図表あり 省略]
陵園墓森林調査

更に調査済となれるものの中にて主なる事業は陵園墓森林の調査なりき李王家歴代の墳塋に附属せる土地及び林野は日韓国政府時代に於て其外垓字を国有に移属せしめ内垓字の管理及び保護を農商工部に一任されたり然るに歴代墳塋中其附属林野に内垓字と外垓字との区別あるものは京城附近に新設せる数箇所に過ぎず其他は之を判定するに足るべき証跡なく従て李王家に属するものと国有に属する地域との境界不明なりしを以て明治四十四年三月之が整理の標準を協定し同年四月より四十五年一月に至り調査班を派遣し又は各道に委嘱して之を調査し大正元年中に全部を査了したり即ち陵三十五箇所園及び壇十二箇所墓四十九箇所胎封山二十四箇所にして其内李王家に属すべき分は其私有財産として李王職に引継たり
林野と治水関係

林野調査と治水関係は最も注意を要する所にして即ち水力利用、洪水予防、灌漑用水、飲用及び雑用水関係等にして之等の関係に就ては充分に調査しつつあり又た各河川流域に於ける林野調査の概況は左の如し
▲栄山江 潭陽地方の一局部を除くの外本年度内に査了見込▲蟾津江 本年度内に南方水源地方を査了し北方水源地方は東京及び九州大学演習林に属するを以て両大学と協議の上明年度に於て査了の見込▲洛東江 治水上大関係ある密陽川流域全部及び各水源地方の約三分の一は本年度内に査了の見込南江の重要水源地は九州及び京都大学の演習林に属するを以て両大学と協議の上明年度に於て査了の見込▲漢江 水源地方内重要の部分約三割は本年度内に査了の見込▲錦江 本年度内に水源地方の大部分を査了する見込▲臨津江 最も荒廃の虞多き京元沿線に近き部分即ち全流域の約半分は調査済▲大同江 兼二浦其の他の治水上関係多き下流の枝川全部は本年度内に査了し水源地方は逓信局の調査及び土地調査局五万分一地形図調製の結了に従い調査の見込▲清川江 下流の一部は本年度内に査了するも水源地方は大同江流域に同し▲大寧江 本年度内に全部査了の見込▲鴨緑江 営林廠の調査は本年度内に約四分の一を結了する見込▲域川江 本年度内に全部査了の見込▲豆満江 営林廠の調査は本年度内に水源地の大部分を査了する見込
水源地殖林方法として余は左の方針を立て居れり国の殖林する所と私人の殖林する所とを分ち私人の殖林する所を更に国有地と私有地とに分ち尚国有地の地元民をして行わしむる所と其他をして行わしむる処とを区別するを要す先ず第一に所有者の殖林(私有林野)二、占有者の殖林(縁故者を有する国有林野)三、部落の殖林(部落有予定林野)(以上二三は第二種不要存置林野)四、無制限者の殖林(第一種不要存置林野)五、国の殖林(要存置予定林野)之れなり更に之を治水関係より順序を立つれば左の如し

第一 要存置予定林野 大体殖樹を要せず保護取締に依りて殖林の目的を達することを得るもの即ち此部分は小費を以て大面積の殖林を急成するを得
第二 第一種不要存置林野 大体半部は天然稚樹保育により半部は植樹に依り殖樹を要す
第三 第二種不要存置林野 大体七分は天然稚樹保育に依り三分は植樹に依り殖林を要す
第四 私有林野 大体八分は天然保育二分は植樹

斯の如くして治水関係殖林上より考うるも最先に査了を要するは第一及び第二の地域を明にすることなり之れ明治四十四年度より林野区分調査を開始し更に昨年度に於て大正十年度迄に全部査了案を立てたる所以なり尚殖林上に有する余の意見は一二にして留まらざるも更に後来の機会を俟たん以上述べ来りたる所に依りて当局が朝鮮の林政上如何に周到なる注意を払い如何に之が調査整理に努力しっつあるかを知るに足らん(完)
データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館



http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/39903594.html


ここでも怒っていたイ・ヨンフン教授/臆断と独善の植民地収奪論(3)
2008/1/11(金) 午前 11:10『時代精神』からのメッセージアジア情勢
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[書評] 臆断と独善の植民地収奪論
『日帝植民地政策と植民地近代化論批判』(シン・ヨンハ、文学と知性社2006年)

[李栄薫(イ・ヨンフン) /ソウル大学教授、経済学]
季刊『時代精神』2006年冬号
http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD200604&num=65



(翻訳3)


残った誌面を活用して、愼教授が最近作で提起した総督府が国土の50.4%を収奪したという主張(21p、271p)が抱えている問題点を簡単に指摘しておく。この主張は愼教授の以前の著作にはなかった。愼教授の新しい主張は、日帝が林野調査事業を通じて518万余町歩に達する大量の民有林を国有林として収奪したことを主要根拠としている。まず、愼教授自身と国史教科書が過去40年間日帝の土地収奪を説明して来たその中心対象は、林野ではなく農耕地であったことを明確にする必要がある。論議の対象をこっそりと林野に移すことは正しくない。

日帝が土地調査事業を通じて把握した全国の農耕地は487万町歩だ。そのうちの国有地は、1918年末現在で12万7千余町歩だ。この2.6%の国有地は、前に説明したとおり武装調査団によって強奪されたのではない。しかも、それさえ1924年まで縁故の小作農に法定地価で払い下げられ、以後国有農地は事実上消滅した。愼教授はこれらの土地が東洋拓殖株式会社や日本移民に払下げられたという過去40年間の教科書の主張を繰り返しているが、信じるに足る事例を提示する必要がある。

全体農地の97.4%になる民有農地において武装調査団の掠奪像に関する愼教授の説明は、無理なことこの上ない。愼教授の説明どおり民有地総1,910万余筆地のうち99.5%が、持ち主の届け出のとおりに所有権が査定された。そのように、武装調査団が乱暴を働く余地は始めから無かった。愼教授は、全国的に9,355筆(0.05%)の無申告地が発生して国有地に編入されたことを収奪の標本として強調している。しかしながら、その当時よりも所有権意識が発達した今日においても、全国の土地を届け出ることにすれば墳墓地や雑種地を中心にそれ位の無申告地は発生するものと決まっているので、初めから論理の立つ主張ではなかった。

愼教授がこのようなさし迫った矛盾から脱するために新しく開発した論理が、まさに林野調査事業を通じた民有林518万余町歩の収奪だ。また、過去40年間の国史教科書の権威を借りて国民的記憶という位置を占めた農地40%収奪説が深刻な批判に直面するや、その収奪説の成立に一番貢献が大きかった愼教授が代案として立てたのが林野を含む国土の50.4%収奪説だと言える。この新しい収奪説は果して成り立つか。

1908年の森林法制定、1911年の森林令公布、1917~1924年の林野調査事業の実施を経て韓半島の林野制度が旧来の無主共産体制から近代的な所有制度へ移行したことは、これに関する既存の研究が概して納得するところだ。その過程で創出された国有林と民有林は、1927年現在総1,616万余町歩のうちそれぞれ955万余町歩と661万余町歩だ。また、国有林は「縁故者のいない林野」618万余町歩「縁故者のいる林野」337万余町歩に分けられる。後者の「縁故者のいる林野」は、縁故者が所有権を立証する客観的根拠が不足したため国有林に編入されたのだ。まさにこの部分の国有林を申教授は収奪の根拠として重視している。

ところが愼教授が注目したのはそこまでだった。以後植民地末期まで、この縁故国有林を中心にどんな事が起ったのかに関して愼教授は敢えて無視している。愼教授も指摘しているように、総督府は国有林を一定の造林実績を収めた人に払い下げる造林貸付制度を実施した。総督府の山林政策は、当時あまりにも荒廃していた山地を青々とさせるための緑化主義を基本にしたし、造林貸付制度はそれに応じた国有林の管理政策だった。これに関しては、最近出たイ・ウヨンの博士学位論文『朝鮮時代-植民地期の山林所有制度と林相変化に関する研究』(成均館大学、2005年)を有益に参照することができる。この制度によって大量の国有林が民有林に払下げされた。それによって、1934年現在、国有林は南部地方で44万余町歩(8.0%)という小さな比重に過ぎなかったし、江原道と咸境道などの北部地方では530万余町歩として相変らず少なくない48.8%の比重を占めた。造林貸付の民族別実績を見れば総件数8万件で、朝鮮人が97.1%の圧倒的割合を占めたが、面積では日本人の単位造林面積が大きくて朝鮮人の比重は52.9%にとどまった。

要するに、総督府が朝鮮人の民有林を大量に収奪したという愼教授の主張は、総督府山林政策の基本志向に対する理解が不足したまま、造林実績によって多数の縁故国有林を民有林として払下げた林野調査事業以後の山林政策の実態に対する何らの検討なしに性急に提起されたものと言える。結果的に見れば、朝鮮時代の無主公山体制の下から事実上私有林へ成長して来た農民たちの林野に対する権利は、総督府の段階的政策と農民自らの主体的な対応、特に造林を通じて、今日のような私有林へ転換された。

1910~1942年の間、韓半島全域にかけて約82億本の苗木が植えられた。それは解放以後今まで韓国政府が植えて来た苗木の数をしのいでいる。総督府は、朝鮮王朝から引き継いだ荒廃した山地を緑化するために、実に少なくない努力と費用をかけた。その点で、たとえ外から入って来た占領権力だとしても、総督府は近代的意味の公権力だった。その公の世界で展開された山林政策を、愼教授は謀利輩たちが暴れ狂う「私」の世界として描写した。1910年の調査によれば、韓半島林野の26%はそれこそ裸の無立木地だったし、42%は1町歩当たりの立木蓄積が10立方メートル未満の 穉樹発生地だった。そのような荒れた山野は、元々貪欲な謀利輩たちが群がる対象にならなかった。

私は、愼教授には、18世紀以来の朝鮮の山野がどんな状態であったのかということに対する歴史的理解が欠けていると判断する。彼は植民地期の山林政策に関する史料を最後まですべて読まなかったのみならず、その歴史的前提である朝鮮時代の山林についてはほとんど何も分からないまま、性急にも国土の50.3%収奪という新しい学説を申し立てた。繰り返しになるが、私が彼の最新著作に対して通常の書評を書かないのは、その本で取り上げられた14の章が、皆そういう酷い先入観と不足した調査と性急な臆断と批判を無視する独善で書かれたものに過ぎないからだ。

(終)



<コメント>
朝鮮総督府の植林政策については、京城日報の記事がありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/29227897.html

これは韓国併合から大正11年までの約12年間の数値ですが、イ・ヨンフン教授の調査では、併合の全期間を通じれば84億本になったということですね。



http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/29227897.html

緑も増えた 10億本
2007/2/24(土) 午前 6:35朝鮮総督府の行政アジア情勢
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<造林成績 逐年良好に向う>

京城日報 1924.5.15(大正13年)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00473938&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00473938


朝鮮の林相は衰廃を極め、林業の生産は到底その需要を満たすに足りぬ状勢であるから、林産物、特に燃料の生産増加を図ることが最も緊切である。そこで、初期の造林樹種としては、生長旺盛で活着の的確なものを奨励する方針の下に、ニセアカシヤ、白楊の類を選び、林野内の適地又は海岸の荒蕪地等に植栽を勧奨したのである。

今、造林事業の状況を見るに、明治44年にはその面積4,019町歩、樹数1,152万4000本に過ぎなかったが、大正11年には累計面積36万4,843町歩、樹数10億5,870万4000本を算するに至った。試みに最近の統計を示せば左の通りである。


大正8年   大正9年   大正10年  大正11年  

国費     246,000本  404,000本 1,680,000本   1,684,000本

地方費    1,051,000本 729,000本 1,612,000本  2,940,000本

民営   117,807,000本 156,720,000本 143,949,000本 145,564,000本

合計   119,200,000本 157,953,000本 147,241,000本 150,198,000本


明治44年からの累計
国費   14,815,000本
地方費  14,267,000本
民営  1,028,622,000本
合計  1,058,704,000本(⇒ざっと10億本)

データ作成:2003.9 神戸大学附属図書館


<コメント>
併合当時、朝鮮の山は禿山が多かったのを、総督府が10億本の植林をして緑豊かにしたと言われますが、その10億本というのはこのデータのようですね。これで見ると総督府が直接施行した量(国費分)は全体の1.5%程度であって民営施行が大部分を占めていますが、民営施行と言っても補助金交付、苗木の手配その他行政の支援があったはずなので、「総督府が10億本植えた」との言い方も別に間違いではないと思います。





http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD200604&num=65

2006년 겨울호
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[서평] 臆斷(억단)과 獨善(독선)의 식민지수탈론
『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』, 신용하, 문학과 지성사, 2006

[李榮薰(이영훈) | 서울대학교 교수, 경제학]
신용하 교수가 지난 6월에 출간한 『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』에 대한 서평을 『시대정신』의 편집부로부터 주문받고서 거절하지 못한 것은, 내가 지난 1993년과 1997년에 신 교수를 심하게 비판한 적이 있어 미안한 마음이 있고, 또 그 비판에 대해 그간 침묵해온 신 교수가 이번에 출간한 책에서 혹 어떤 대응이라도 하지 않았을까 궁금했기 때문이다.

대부분의 독자들은 내가 10년 전에 행한 신 교수에 대한 비판을 잘 알지 못할 것이기 때문에 우선 그에 대해 간략히 소개한다. 해방 후 한국인들이 한국인으로서 아이덴티티를 확인하고 주체성을 확립함에 있어서 반일 민족주의가 얼마나 큰 역할을 수행해 왔는지에 대해서는 새삼 지적하기도 싱거울 정도이다. 그 반일 민족주의의 핵심 내용은 일제가 식민지기에 우리 민족을 그야말로 야만적으로 수탈하였다는 것이다. 이러한 수탈 담론은 해방 후부터 정치인이든 연구자든 여러 사람들에 의해 심심치 않게 이야기되기 시작했다.

중ㆍ고등학교 국사교과서에 수탈 담론이 명확히 모습을 드러낸 것은 1960년대부터라고 생각된다. 1962년 역사교육연구회라는 단체가 저술한 국사교과서에 일제가 조선 농민의 토지를 절반이나 빼앗았다는 내용의 기술이 처음 나타났다. 뒤이어 1967년에는 민영규와 정형우가 지은 국사교과서에서 일제가 토지조사사업을 통해 국토의 40%를 수탈하였다는 기술이 나타났다. 이러한 1960년대의 경과에 관해서는 『시대정신』 28호(2005)에 실린 나의 「국사교과서에 그려진 일제의 수탈상과 그 신화성」이란 논문을 참고할 수 있다.

1904년 러일전쟁 이후 1920년대까지 한반도 연안부의 저습지와 未墾地(미간지)를 중심으로 일본인들의 토지 투자가 있었다. 그들은 헐값으로 대량의 미간지를 매수한 다음, 제방을 쌓고 저수지를 파고 수로를 뚫고 농법을 개량하여 미간지를 비옥한 논으로 개간하였다. 그렇게 생겨난 일본인의 농장이 남한의 경우 전체 농경지의 10%를 차지하였다. 거기서 생산된 쌀은 모두 일본으로 移出(이출)되었다. 일본인 농장은 식민지기 조선 농촌사회의 기본 구조를 이룬 식민지 지주제의 첨병이자 상징이었다.

실체가 이러했던 일본인의 조선 농촌으로의 진출을 두고 위와 같이 1960년대의 교과서는 일제가 토지조사사업을 통해 전 토지의 40~50%를 빼앗았다는 식으로 쓰기 시작했다. 그런데 이 수탈 담론의 중대한 약점은 누구도 40% 또는 50%라는 수치를 증명한 적도 없고, 수탈의 과정이나 양상을 구체적으로 밝힌 적도 없다는 사실이다. 그것은 입소문과 같았다. 누군가 최초로 일제가 토지를 수탈하였다고 속삭이자 수많은 사람들의 입을 거치는 과정에서 솜사탕처럼 부풀려진 것이 40~50% 수탈설이라고 할 수 있다.

그럼에도 이 40~50% 수탈설이 지금까지 40년을 넘도록 국사교과서의 서술로 면면히 이어져 오면서 국민적 기억으로 확고히 자리 잡는 데는 신용하 교수의 공로가 컸다. 신 교수가 토지조사사업(이하 ‘사업’으로 약칭)에 관한 연구를 시작한 것은 1977년이다. 이후 1979년에 신 교수는 3~4편의 논문을 모아 『조선토지조사사업연구』(지식산업사)라는 책을 출간했다. 이 책은 ‘사업’에 관한 최초의 본격적인 연구서라는 큰 의의를 지니고 있다. 신 교수는 이 책에서 총독부가 편찬한 ‘사업’에 관한 보고서를 비롯한 여러 자료를 활용하여 일제가 ‘사업’을 시행한 목적이 토지에 대한 농민의 소유권ㆍ경작권ㆍ개간권 등 일체의 권리를 부정하고 수탈하기 위함에 다름 아니었다고 주장하였다. 권리를 부정당한 농민들의 저항을 억누르기 위해 총독부는 무장조사단을 결성하였다. 그 무장조사단의 강압적인 측량과정을 신 교수는 “한 손에는 피스톨을 다른 한 손에는 측량기를 들고”라고 문학적으로 표현하였다.

그런데 1982년 경상도 김해군에서 ‘사업’ 당시의 토지신고서를 비롯한 원자료들이 대량 발견되었다. 1985년부터는 그 자료를 이용한 새로운 연구 성과가 배영순과 조석곤에 의해 발표되기 시작하였다. 특히 조석곤은 ‘사업’ 당시에 국유지인가 민유지인가를 둘러싼 소유권 분쟁에 있어서 상당한 양의 토지가 민유지로 판정 받았음을 구체적인 자료를 통해 명확히 하였다. 신 교수의 주장처럼 일체의 분쟁이 피스톨을 든 무장조사단에 의해 강제적으로 진압된 그러한 야만적 상황은 아니었다.

이후 1992년 나는 ‘사업’ 당시의 총독부 官報(관보)를 검토하다가 1911년 3월, 곧 ‘사업’의 초기에 총독부가 국유지로 조사된 토지 가운데 민유지가 혼입된 것을 원소유자에게 돌려주라고 도장관에 명령을 내리는 기사를 발견하였다. 나는 이를 단서로 1910~1918년에 걸쳐 국유지의 면적이 연도별, 도별, 지목별로 어떻게 변해왔는지를 추적해 보았다. 국유지는 1910년 9월에 11만 8천여 정보, 1918년 12월에 12만 7천여 정보였다. 이 두 수치에 근거하여 신 교수는 ‘사업’ 기간에 발생한 소유권 분쟁이 일체 억압된 것으로 보았다. 수많은 분쟁이 일어났음에도 국유지의 면적이 오히려 늘었기 때문이다.

그런데 위와 같이 국유지의 면적을 세밀히 추적한 결과, 同 8년간 놀랍게도 9만 9천여 정보의 국유지가 추가로 조사되고 9만 1천여 정보의 국유지가 민유지로 돌려졌음을 발견하였다. 이에서 명확하듯이 일체의 분쟁이 억압되고 말았다는 신 교수의 주장은 국유지의 면적이 연도별, 도별, 지목별로 어떻게 변하고 있었는지에 관한 그야말로 기초적인 演算(연산) 작업조차 행하지 않은 가운데 제출된 臆斷(억단)에 불과하였다. 나는 그러한 취지로 신 교수를 비판하는 논문을 1993년 『역사비평』22호에 「토지조사사업의 수탈성 재검토」라는 제목으로 발표하였다.

이어 1997년 김홍식 교수를 대표로 한 ‘사업’에 관한 공동연구서 『조선토지조사사업의 연구』(민음사)가 출간되었다. 이 책에서 우리는 ‘사업’의 구체적인 실태에 대한 실증적 이해를 심화시킴과 동시에 조선시대 토지제도와의 관련성에서 ‘사업’이 지닌 연속적이면서도 단절적인 역사적 의의를 추구하였다. 이후 지금까지 ‘사업’에 관해서는 별다른 논문이나 연구서가 나오지 않았다. 그런 점에서 자화자찬일지 모르나 위 책은 ‘사업’에 관한 현재의 연구수준을 대변하고 있다.

이 책에서 신 교수는 다시 한 번 비판의 도마에 올랐다. 신 교수가 피스톨과 측량기를 든 무장조사단이 민유지를 국유지로 약탈했다면서 애써 제시한 여러 사례는 ‘사업’의 보고서에 소개된 분쟁을 제멋대로 각색한 것에 불과하다는 취지의 비판이었다. 예컨대 ‘사업’의 보고서는 구황실의 內需司(내수사) 장토에서 343건의 분쟁이 발생하였는데, 민유의 주장은 어떻고, 국유의 주장은 어떻다는 식으로, 1918년 말 당시까지도 진행 중인 분쟁의 내용을 객관적으로 소개하고 있을 뿐이다. 그런데 신 교수는 그 343건의 분쟁지가 모두 국유지로 강제 편입되었다고 단언하였다. 그러면서 세력 없는 농민들이 총독부의 무단정치에 맞서 민유임을 주장했기 때문에, 그 주장은 충분히 근거가 있는 것이라고 해설하였다. 그렇지만 아무리 세력 없는 사람들의 주장이더라도 그것은 옳을 수도 있고 틀릴 수도 있다. 그 점을 전제하지 않으면 역사학자가 굳이 먼지 묻은 자료를 뒤지며 실증 작업에 몰두할 이유가 처음부터 없다고 하겠다.

그런데 김해에서 발견된 ‘사업’의 원자료를 통해 김해의 내수사 장토를 둘러싼 분쟁에서 민유임을 주장한 사람들의 면모를 확인하면, 당시 김해에서 최대의 지주인 許發(허발) 진사를 비롯하여 1904년 이후 이곳에 들어와 토지를 매수한 일본인 등의 대지주들이 수두룩하였다. 그들은 결코 세력 없는 농민들이 아니었고, 오히려 농촌사회의 지배계층으로서 일제의 협력자라 불릴 만한 사람들이었다. 이렇게 현장 수준으로 내려가 분쟁의 실태를 확인하면, 사례마다 복잡 다양한 가운데, 세력 없는 농민의 토지가 무장조사단에 의해 강탈되었음과는 실로 무관한 복잡한 이해관계의 충돌을 확인할 수 있다. 그 점을 연구실에서 상상의 날개를 펼친 신 교수는 짐작조차 할 수 없었다. 솔직히 말해 신 교수의 ‘사업’에 관한 연구는 거의 소설과 같은 수준이었다. 그렇게 표현하지는 않았지만 1997년의 위의 책에서 나는 그러한 취지로 신 교수를 비판하였다. 그리고 그것은 한 연구자에게 가해질 수 있는 비판으로서는 더 이상의 다른 예를 찾기 힘들 정도로 통렬한 것이었다.

그러한 민망함이 있었기에, 앞서 이야기한 대로, 나는 신 교수의 최근작 『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』에 대한 서평 부탁을 사양하지 못했다. 이 책에서 ‘사업’에 관한 부분은 제7장 「일제의 ‘토지조사사업’ 실시와 토지약탈 및 농촌 사회경제의 변화」이다. 나는 당연히 그 章을 먼저 읽었는데, 어느 정도 예상하긴 했지만 참으로 크게 실망하였다. 신 교수가 ‘사업’에 관해 지금까지 주장해온 것들이 거의 그대로 옮겨져 있기 때문이다. 그렇다면 이전의 그 유명한 著作(저작)으로도 충분할 터인데, 무엇 때문에 100쪽에 가까운 지면을 낭비해 가며 위와 같은 제목의 글을 새로 쓴 것인지가 잘 납득되지 않는다.

무엇보다 그가 ‘사업’에 관한 기존의 論著(논저)들을 나열 소개하고 있는 대목(동서, 182쪽)에서 앞서 언급한 1997년 출간의 「조선토지조사사업의 연구」가 포함되어 있지 않다. 또한 ‘사업’에 관한 연구서라면 1991년 일본에서 나온 미야지마 히로시(宮嶋博史) 교수의 『朝鮮土地調査事業史の硏究』(동경대학 동양문화연구소)를 빼놓을 수 없는데, 그 책 역시 빠져 있다. 다시 말해 신 교수는 ‘사업’에 관한 1990년대 이후의 연구 성과를 무시하고 있으며, 그런 식으로 그간 자신에게 제기된 일체의 비판에 귀를 막고 있다.

이제 독자들에게 내가 왜 이 글을 통상의 서평 형식으로 쓰고 있지 않은 지 양해를 구할 차례이다. 통상의 서평이라면 먼저 책의 구성과 내용을 압축적으로 소개한 다음, 그것의 의의를 평가해 주고, 연후에 評者의 의문을 조심스럽게 제기하는 순서로 쓰인다. 그런데 나는 신 교수의 위 책에 대해 그런 통상의 형식으로 예의 바르게 비평할 별다른 유인을 발견하지 못한다. 연구자는 자신의 학설에 가해진 비판에 성실히 답변할 의무가 있다. 비판이 틀렸음을 논박하거나, 약간의 과오가 있지만 나의 학설은 여전히 타당하다거나, 아니면 자신의 과오를 인정하면서도 여전히 이러저러한 문제가 남아 있다든가 등으로 대응해야 함이 연구자가 취할 마땅한 자세이자 직업윤리이다. 아니면 끝까지 침묵함으로써 더 이상의 혼란을 야기하지 않는 최소한의 미덕을 발휘할 필요가 있다. 신 교수는 이상의 어느 것도 아니다. 내가 그의 최근작에 대해 통상의 서평을 포기한 이유가 이와 같음에 대해 독자 여러분의 양해를 부탁드린다.

남은 지면을 활용하여 신 교수가 최근작에서 제기한 총독부가 국토의 50.4%를 수탈하였다는 주장이(21, 271쪽) 안고 있는 문제점을 간략하게 지적해 둔다. 이 주장은 신 교수의 이전 저작에는 없던 것이다. 신 교수의 새로운 주장은 일제가 임야조사사업을 통해 518만여 정보에 달하는 대량의 민유림을 국유림으로 수탈하였음을 주요 근거로 삼고 있다. 우선 신 교수 자신과 국사교과서가 지난 40년간 일제의 토지 수탈을 이야기해옴에 있어서 그 중심 대상은 임야가 아니라 농경지였음을 명확히 할 필요가 있다. 논의의 대상을 슬그머니 임야로 옮기는 것은 옳지 않다.

일제가 ‘사업’을 통해 파악한 전국의 농경지는 487만 정보이다. 그 가운데 국유지는 1918년 말 현재 12만 7천여 정보이다. 이 2.6%의 국유지는 앞서 설명한대로 무장조사단에 의해 강탈된 것이 아니다. 그것조차 1924년까지 연고 소작농에게 법정 地價(지가)로 불하되어 이후 국유 농지는 사실상 소멸하였다. 신 교수는 이 토지들이 동양척식주식회사나 일본 이민에 불하되었다는 지난 40년간의 교과서 주장을 되풀이하고 있으나, 믿을 만한 사례를 제시할 필요가 있다.

전체 농지의 97.4%가 되는 민유 농지에서 무장조사단의 약탈상에 관한 신 교수의 설명은 궁색하기 짝이 없다. 신 교수의 설명대로 민유지 총 1,910만여 필지 가운데 99.5%가 소유자가 신고한 대로 소유권이 사정되었다. 그렇게 무장조사단이 설칠 여지는 처음부터 없었다. 신 교수는 전국적으로 9,355필지(0.05%)의 無신고지가 발생하여 국유지로 편입되었음을 수탈의 표본으로 강조하고 있다. 그렇지만 그때보다 소유권 의식이 발달한 오늘날에도 전국의 토지를 신고하게 하면 분묘지나 잡종지를 중심으로 그 정도의 無신고지는 발생하기 마련이므로 처음부터 논리가 서는 주장이 아니었다.

신 교수가 이러한 窮迫(궁박)한 모순으로부터 벗어나기 위해 새롭게 개발한 논리가 바로 임야조사사업을 통한 민유림 518만여 정보의 수탈이다. 또한 지난 40년간 국사교과서의 권위를 빌려 국민적 기억으로 자리 잡은 농지 40% 수탈설이 심각한 비판에 직면하자, 그 수탈설의 성립에 가장 공헌이 컸던 신 교수가 대안으로 내세운 것이 임야를 포함한 국토의 50.4% 수탈설이라고 할 수 있다. 이 새로운 수탈설은 과연 성립하는 것인가.

1908년의 삼림법 제정, 1911년의 삼림령 공포, 1917~1924년의 임야조사사업의 실시를 경과하면서 한반도의 임야제도가 舊來(구래)의 무주공산 체제에서 근대적인 소유제도로 이행하였음은 이에 관한 기존의 연구가 대체로 수긍하는 바이다. 그 과정에서 창출된 국유림과 민유림은 1927년 현재 총 1,616만여 정보 가운데 각각 955만여 정보와 661만여 정보이다. 다시 국유림은 ‘연고자 없는 임야’ 618만여 정보와 ‘연고자 있는 임야’ 337만여 정보로 나뉜다. 후자의 ‘연고자 있는 임야’는 연고자가 소유권을 입증할 객관적 근거가 부족하여 국유림으로 편입된 것이다. 바로 이 부분의 국유림을 신 교수는 수탈의 근거로 중시하고 있다.

그런데 신 교수는 여기까지만 주목하였다. 이후 식민지 말기까지 이 연고 국유림을 중심으로 어떠한 일이 벌어졌는지에 관해 신 교수는 애써 외면하고 있다. 신 교수도 지적하고 있듯이 총독부는 국유림을 일정한 조림 실적을 거둔 사람에게 불하하는 造林貸付制度(조림대부제도)를 실시하였다. 총독부의 산림정책은 당시 너무나 황폐한 산지를 푸르게 만들기 위한 綠化主義(녹화주의)를 기본으로 하였으며, 조림대부제도는 그에 부응한 국유림의 관리 정책이었다. 이에 관해서는 최근에 나온 이우연의 박사학위논문 『조선시대-식민지기 산림소유제도와 林相(임상)변화에 관한 연구』(성균관대학교, 2005)를 유익하게 참조할 수 있다. 이 제도에 따라 대량의 국유림이 민유림으로 불하되었다. 그에 따라 1934년 현재 국유림은 남부지방에서 44만여 정보(8.0%)의 작은 비중에 불과하였고, 강원도와 함경도 등의 북부지방에서는 530만여 정보로서 여전히 적지 않은 48.8%의 비중을 점하였다. 조림대부의 민족별 실적을 보면, 총 건수 8만 건에서 조선인이 97.1%의 압도적 비중을 차지하였는데, 면적에서는 일본인의 단위 조림면적이 커서 조선인의 비중은 52.9%에 그쳤다.

요컨대 총독부가 조선인의 민유림을 대량으로 수탈하였다는 신 교수의 주장은 총독부 산림정책의 기본 지향에 대한 이해가 부족한 가운데 조림 실적에 따라 다수의 연고 국유림을 민유림으로 불하한 임야조사사업 이후의 산림정책의 실태에 대한 하등의 검토 없이 성급히 제기된 것이라고 할 수 있다. 결과적으로 보면, 조선시대의 무주공산 체제하에서 사실상 사유림으로 성장해 온 농민들의 임야에 대한 권리는 총독부의 단계적 정책과 농민 스스로의 주체적인 대응, 곧 조림을 통해 오늘날과 같은 사유림으로 전환하였다.

1910~1942년의 기간 동안 한반도 전역에 걸쳐 약 82억 본의 묘목이 심어졌다. 그것은 해방 이후 지금까지 한국 정부가 심어온 묘목의 수를 능가하고 있다. 총독부는 그가 조선왕조로부터 인수한 황폐한 산지를 녹화하는 데 실로 적지 않은 노력과 비용을 들였다. 그 점에서 비록 바깥에서 들어온 점령 권력이라고 하나 총독부는 근대적 의미의 공권력이었다. 그 公의 세계에서 펼쳐진 산림정책을 신 교수는 모리배들이 날뛰는 私의 세계로 묘사하였다. 1910년의 조사에 의하면 한반도 임야의 26%는 그야말로 벌거벗은 無立木地(무립목지)였고, 42%는 1정보당 입목축적이 10㎥ 미만의 穉樹發生地(치수발생지)였다. 그렇게 황폐한 산야는 원래 탐욕스런 모리배들이 도모할 대상이 못 되었다.

나는 신 교수에게 18세기 이래 조선의 산야가 어떤 상태였는지에 대한 역사적 이해가 결여되어 있다고 판단한다. 그는 식민지기의 산림정책에 관한 사료를 끝까지 다 읽지도 않았을 뿐 아니라, 그 역사적 전제인 조선시대의 산림에 관해서는 거의 아무 것도 알지 못한 채, 성급하게도 국토의 50.3% 수탈이라는 새로운 학설을 제기하였다. 반복되고 있지만, 내가 그의 최근작에 대해 통상의 서평을 쓰지 않은 것은 그 책에 담긴 14개 章 모두가 그렇게 지독한 선입관과 부족한 조사와 성급한 억단과 비판을 무시하는 독선으로 쓰인 것들에 불과하기 때문이다.

"이영훈 : 서울대학교 한국경제사 박사. 現 다산학술문화재단 이사, 낙성대경제연구소 소장, 경제사학회 연구이사. 저서로는 『수량경제사로 다시 본 조선후기』, 『해방전후사의 재인식(공저)』, 『국사의 신화를 넘어서(공저)』 등이 있음" - 편집자 주






http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2590.html

韓国=私たちはマツを愛しているのか、日本盆栽業界で韓国松は最高の名品nida
【社説】
私たちはマツを愛しているのか=韓国
中央日報 2013年08月07日14時38分
http://japanese.joins.com/article/794/174794.html




【社説】私たちはマツを愛しているのか=韓国
2013年08月07日14時38分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment89hatena0
わが民族の象徴の木であるマツが三重苦に直面している。最近、日本盆栽業界で慶尚北道清道産のマツが最高の名品素材として扱われているという。日本では森が茂り背が低い素材を探すのが難しいうえ、マツ材線虫で日本のマツが被害を受けたからだ。最近は韓国でも街路樹と団地の植木用としてマツの人気が高まっている。このため全国の山から、形のよい健康なマツが次々と大都市に運ばれている。日本に密輸出するため名品素材をこっそりと運ぼうとして摘発されるケースも増えた。

私たちが知らない間にマツは過酷な運命に苦しんでいる。山林庁によると、地球温暖化で南部地方で毎年数十万本のマツが枯死している。1998年に日本から渡ってきたマツ材線虫もマツには今でも脅威だ。もちろん2005年に制定された「マツ材線虫病防除特別法」は大きな役割をした。マツ材線虫病の木は同年の56万本から、2011年には1万2000本ほどに急減した。マツ材線虫防除をあきらめた日本・中国と違い、韓国は完全撲滅を目前にしている。しかしかつて500億ウォン(約43億円)以上だった防除予算が半分以下に減り、昨年からまたマツ材線虫が猛威を振るっているのは不吉だ。

韓国国民の67.7%はマツが好きだという。2位のイチョウ(5.6%)とは圧倒的な差だ。そのマツを守るための社会的関心が求められる。まずマツ材線虫が完全に消えるまで防除予算を惜しんではならないということだ。違法な運搬はより強力に取り締まらなければならない。政府と地方自治体の偏見も正す必要がある。まず大型マツは移植を自制しなければならない。病虫害に弱いマツにとって、アスファルトで覆われ、公害が激しい都心は致命的だ。全国の松林は50年前に比べてすでに半分以上も消えた。2050年には江原道の山間にしか残っていないという警告もある。一日も早く遺伝工学を組み合わせた新しい育種技術開発など国家的レベルの対策が必要だ。














まあ~た始まった・・・

韓国では、茶道・華道・柔道・剣道・空手・折り紙等々と同様に盆栽の起源泥棒も、精力的に活動しています。

■盆栽 (韓国起源論)
http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/177.html


ソース
捏造は段々エスカレートしていく。

1993年
アメリカに日本の盆栽が流行したときに韓国移民系新聞に「そもそも 盆栽は中国から韓国を経て日本に入ったもの であるのにアメリカ人たちは盆栽=日本文化だと思っている。そうでないという事実を我々は彼等に(教えなくては)ならない」
引用:日本の驕り韓国の傲慢(呉善花・渡部昇一)徳間書店

2000年
http://www.netomo.com/cgi-bin/transkj.cgi?my.dreamwiz.com/okbonsai/frame1.htm
盆栽は中国唐ときザンフェテザミョ(章懐太子墓)の壁画に描かれたもので推すの8世紀以前から盛行したのを分ることができてわが国はいつに中国で盆栽が入って来たかは確かではないが現在まで発掘されたものをよく見れば考慮(高麗)時代に宰相を務められた李奎報1168~1241)先生の同国以上グックジブ(東国李相国集)に記録された可否中育英(家盆中六永)で石留、竹、サックチァン背を歌って、また130余年後に田緑生1318~1375)先生は映盆松イラン市を作られたのにその時は分(方)に植えられた松を歌ったもので推してみるの考慮(高麗)時代盆栽が士人たち間に広く作られて来たのを分ることができる.また考慮(高麗)末期の作品に伝えて来る考慮(高麗)自首(刺繍, 字数)屏風<4界分(方)程度>切っても松、梅花、ドンベックなどの盆栽を見ることができる.そして朝鮮時代世宗時の学者姜希顔先生の養花小録に盆栽行って見ることに対する詳しい記録が残ってある.
★ 大概の文化が中国から入るのわが国を通じるの日本に渡ったように盆栽もわが国を経るの日本に渡って行っただろう推測される.
★現在日本は盆栽がとても発達していて日本によるの世界各国に広がるのアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、アルゼンチン、オーストリア、戸主(豪州)など多くの国ではやっている.そして世界盆栽連盟が結成されるの毎年日本大い版で世界盆栽連盟が主催する盆栽、首席展示会が開かれている

2009年
「14世紀に盆栽あった」~「日本宗主国」論に反論するための証拠『四季盆景図四幅屏風』[09/06/17]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1245334455
http://news.joins.com/component/htmlphoto_mmdata/200906/htm_20090617022548a000a010-001.JPG
『四季盆景図 四幅屏風』 宝物第563号 高麗14世紀 一幅横40.5㎝縦66㎝

盆栽(プンジェ)は「縮み指向の日本」を象徴する代表的な文化です。「盆栽」といえば日本を思い浮かべるほどで、日本の盆栽の歴史が私たちより先んじていると言えば首を縦にふる方が多いでしょう。

このような日本の盆栽宗主国の主張に待ったをかける文化財がまさに『四季盆景図 4幅屏風』です。
14世紀作品のこの屏風に描かれいるの梅(春)・レンゲ(夏)・ブドウ(秋)・松(冬)等植木鉢に咲いた四季の花木と器物です。
四季盆景図は製作時代不詳、描かれているのは盆花。

日本で最初に盆栽の原型が現れる『春日権現験記絵巻』は、1309年作で、平安・鎌倉時代の春日明神の霊験集。
西行(1118~1190)の一生を記した『西行物語絵巻』にも盆栽が出てくると言われる。

盆花・盆景・盆栽
唐にあったのは盆花・盆景 であり、盆栽では無い。
盆花 唐代に 遣唐使(8-9世紀)が持ち帰った 園芸法。器の中で花などの植物を育てる事。
盆栽タイプの盆景は元明代(14-16世紀)と言われる。植木鉢や囲いの中で樹を育てるもの http://bokupapa.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_27.html
盆景 唐代(7-9世紀)に完成したと言われる。日本では7-8世紀に記録がある。お盆の上でミニ庭園を造る、ジオラマの一種。
盆栽 盆景を元に 平安末期(11-12世紀)に発祥した と言われる。松などを鉢、小鉢に植樹し、木の形の表現のみで世界を完結させた代物。鎌倉時代に禅の影響を受け、室町時代に庭園の要素を排除し鉢木となり、江戸時代に興隆し現在の形になったとされる。










■盆栽の起源は韓国~
「日本宗主国」論に反論するための証拠
『四季盆景図四幅屏風』
2009年06月18日
http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/904194.html


>最近、日本盆栽業界で
慶尚北道清道産のマツが
最高の名品素材として
扱われているという。

えええええええええ?????
そんな話、聞いたことも無い!!

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★高松の盆栽業者、
アジアへ熱視線/ニーズ高まる
2010/03/12 09:56
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/economy/article.aspx?id=20100312000108
松盆栽の全国シェア8割以上を誇る高松市の盆栽生産者が
今、アジアに熱い視線を送っている。
国内の盆栽市場は縮小傾向にある一方、
中国でのマンションやビルの増加などに伴い、
庭木や盆栽の需要が拡大しているためだ。
2011年秋には高松で
「アジア太平洋盆栽水石大会(ASPAC)」の開催が決定。
産地の国際的な知名度アップが見込めることから、
海外販路の拡大への期待が高まっている。

松盆栽のメッカ・高松市の鬼無、国分寺地区。
県の盆栽出荷調査では、1992年に7億8800万円あった
出荷額は、08年には半減の3億8100万円まで落ち込んでいる。
県鬼無植木盆栽センターによると、国内市場は70年代を
ピークに愛好家の減少などの影響でしぼんでいるという。

一方、海外ではアジアを中心にここ数年、
高い技術力で生産する日本の庭木や盆栽のニーズが一気に高まった。
日本の盆栽を含む植木の総輸出額は、04年の8億9千万円に対し、
08年が約5・7倍の51億円。
輸出額の8割以上を香港、中国、ベトナムなどのアジア圏が占め、
約7千人の盆栽愛好家がいるイタリアも上位に入った。
本年度、イタリアの盆栽需要を調査したジェトロ香川の清水文裕所長は
「海外では本場・日本の盆栽が高い評価を受けており、
これからも欧州やアジア圏の市場性はある」とみる。

ただ、
輸出に期待を高める生産者にハードルとなっているのが、
国ごとに異なる検疫体制。一概には言えないが、
例えば欧州向けでは、指定のほ場で生産した上で、
植物防疫所による検疫が義務付けられており、
それだけ生産コストが高くなる。
さらに中国は土壌の持ち込みが禁止されているなど、
厳格な体制が敷かれており、
ほとんどの生産者は国内の仲介業者を通じて輸出している
のが現状だ。

欧州向けの盆栽を手掛ける尾路旭松園(高松市鬼無町)では、
指定のほ場約100平方メートルで五葉松とシンパク約500鉢
を生産。円高の影響で、欧州への輸出は減少している半面、
アジア向けの売り上げは、この2年間で、年間約500万円に
跳ね上がった。園主の尾路悟さん(50)は
「安価な韓国産や中国産は脅威だが、
日本の伝統や技術を“売る”という形で、
海外での販路拡大が生き残る道」と話す。
(引用ここまで)

★Korean Hornbeam Bonsai
2013.6.22
http://indoorbonsai.biz/2013/06/22/korean-hornbeam-bonsai/

このサイトによると、
BONSAIの人気が高いイタリアのローマで
図々しく「Korean Bonsai」として
ワークショップなんぞを開催しているんですよ。

しかも
”優秀でとてもよく洗練された
古い韓国シデ盆栽”
というキャッチフレーズで・・・


中国がルーツを主張するのは許せるのですが
http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/177.html
盆花・盆景・盆栽

唐にあったのは盆花・盆景 であり、盆栽では無い。
盆花
唐代に 遣唐使(8-9世紀)が持ち帰った 園芸法。
器の中で花などの植物を育てる事。
盆栽タイプの盆景は元明代(14-16世紀)と言われる。
植木鉢や囲いの中で樹を育てるもの

盆景
唐代(7-9世紀)に完成したと言われる。
日本では7-8世紀に記録がある。
お盆の上でミニ庭園を造る、ジオラマの一種。
盆栽 盆景を元に 平安末期(11-12世紀)に発祥した
と言われる。
松などを鉢、小鉢に植樹し、木の形の表現のみで
世界を完結させた代物。
鎌倉時代に禅の影響を受け、室町時代に庭園の要素を
排除し鉢木となり、
江戸時代に興隆し現在の形になったとされる。

★江戸の盆栽 1
http://blogs.yahoo.co.jp/koichiro1945/22139805.html

★浮世絵に見る江戸時代の園芸
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/ukiyoe/iwasatop.htm

★「盆栽 ~魅惑の小宇宙~」
http://www.kyoto-sousei.jp/seminar/210228_1.html


一方、朝鮮半島では
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★100年前
私たちの山林..禿山に幼い松だけ
聯合ニュース 2009/09/08 14:46
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2009/09/08/0906000000AKR20090908123300063.HTML
朝鮮林野分布図
(大田(テジョン)=聯合ニュース)

日本強制占領期間の1910年朝鮮総督府が組選任
赤潮謝辞業一環で製作した
'朝鮮林野分布図'(蓄積50万分の1)写本.
白頭山(ペクトゥサン)を中心に比較的うっそうとした森が
維持されていた北朝鮮地域と違い
韓国地域は白頭山脈にだけ一部大きい木立が残っているだけて
海抜が 低い低地帯には若い木と禿山が大部分を成し遂げて
いるのを見せている。

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山林科学院、1910年'朝鮮林野分布図'分析

(大田(テジョン)=聯合ニュース)
チョン・チャヌク記者= 100年前我が国山林はどんな姿であったか。

8日国立山林科学院によれば1910年製作された
'朝鮮林野分布図'を利用、100年前韓国、北朝鮮全域山林
の姿を分析した結果、
当時全体山林面積は1千585万haで全国土の71%に達した。

山林面積は現在の韓国地域の山林率(64%)より多かったが、
木材資源を現わす林木蓄積量は1万㎡(1ha)当たり17立方mで、
現在の韓国の16.5%水準に過ぎなかった。

森の構成は大きい木の森(ソンスンニム) 32%、
若い木の森(チスリム) 42%、禿山(ムリムモクチ) 26%
であり、大きい木立の73%が北部地域に分布したし
この中で特に咸鏡道(ハムギョンド)と平安道(ピョンアンド)
に66%があった。

臨床分布別には松のような針葉樹林が43%で、
クヌギのような広葉樹林(30%)より多かった。

北朝鮮地域は白頭山(ペクトゥサン)を中心に
比較的うっそうとした森が維持されていたが、
韓国地域は白頭山脈に一部大きい木立が残っているだけで
海抜が低い低地帯には若い木と禿山が大部分を成し遂げた。

100年前我が国山林は、
虎が出没する程古木がうっそうとしたことという予想とは別に、
今の水準よりはるかにできないことが分かる。

' 朝鮮林野分布図'は、日本強制占領期間の朝鮮総督府が
組選任赤潮謝辞業一環で製作した現存する最古のものであり
初めての韓半島全域山林分布図だ。
この地図は山林科学院緑色経済研究課ペ・ジェス博士が
1996年日本、北海道大学中央図書館で入手したことで
写本であり蓄積は50万分の1だ。

20万分の1縮尺でも製作されたし数種分布(松.針葉樹.広葉樹)と
所有区分(国有林.私有林.サチャルリム),臨床分布(ソンスンニム.
チスリム.ムリムモクチ),峰山(朝鮮末期国家直属管轄山林)等
と同じ情報を含んでいる。

山林科学院関係者は
「地図は約5ヶ月という非常に短い期間に
現地を現地調査して製作したために
正確度は落ちるが
100年前の我が国の山林の姿を見せる
唯一の地図で大変重要な資料」だと話した。
(引用ここまで)
------------------------------------------------------
当時の朝鮮では、寒い冬を乗り切るオンドルのために
朝鮮人は勝手に山に入って材木を切って来ってしまう。
植林することがないのでハゲ山ばかりだった事がわかる。

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朝鮮総督府が、たった5か月の調査で
' 朝鮮林野分布図'を製作し、順次植林事業を行った結果が
現在の「韓国の森」なのだ・・・

だから、高麗時代の文献で「盆花」の記録を発見しても
庶民レベルで植物を愛でる風習どころか
盆栽の技術発展やら指南本の出版などという、
江戸時代に花開いた盆栽文化なんて、
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「盆栽売り」

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『江戸名所図会』より「薬師堂門前の植木市」


こんな光景、朝鮮には存在しないだろう・・・

茶の木栽培の文化も無いので「茶道」が発展しないのと同様
”中国からいつ入ってきたかわからない文化”
なんていう現状では、王侯貴族や高僧のみが知っていただけの
朝鮮民衆には全く縁の無い外来文化なのでしょう・・・


★「BONSAI」
守るものと変えるもの
http://bn.bk-web.jp/2010/0402/person.php
矮小(わいしょう)化の魔術、盆栽は、
「BONSAI」(ボンサイ)として世界の共通語になった。
「松盆栽の産地・高松」は全国シェア80%を誇り、
海外にも知られるが、高齢化と後継者不足は、
伝統技術で生きる他の国内業界と変わらない。
大型盆栽の需要が激減、小型化、低価格化の波を
もろにかぶっているところも、
中小企業共通の悩みだ。
(中略)
明治初期に盆栽隆盛に貢献した人たち
※鬼無地区
村人に接ぎ木を伝授した高橋周輔。
松柏の苗木で巨利を得た北山太作。
高橋に学び米国からリンゴの苗を輸入した鬼無甚三郎。
甚三郎の技術に注目して松やヒノキを盆栽に仕立て、
販路を朝鮮半島から琉球まで広げた渡辺半太郎。
(以下略)

>マツ材線虫防除をあきらめた日本・中国と違い、
韓国は完全撲滅を目前にしている

相変わらず、韓国の記者は平気で嘘をつく・・・
私の地元では、毎年6月に2回
松くい虫防除の為に、ヘリで松林の薬剤散布を行っているよ。

★松枯れ予防ネットワーク
http://www.matugoro.net/index.html

★病害虫や動物被害から森林を守る!
松くい虫被害~林野庁
http://www.rinya.maff.go.jp/j/hogo/higai/matukui.html

★枯れ松防除補助制度
http://www.town.hayama.lg.jp/about/a_12/pine.html

>最近、日本盆栽業界で慶尚北道清道産のマツが
最高の名品素材として扱われているという。

こんなデマを、宣伝文句にして
「日本の方から来ました」商法で
海外で、盆栽ウリナラ起源を吹聴しているのでは???

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朝鮮総督府の造林事業
ウィキより
>造林事業[編集]
1910年頃の朝鮮半島の林野分布図(朝鮮総督府農商工部作成)。緑色:成林地、立木の密度完全なる物を1としその0.1以上を有するもの。桃色:稚樹発生地、鎌にて刈りうる程度の稚樹発生地にして密度0.1以上のもの。黄色:無立木地、密度0.1未満の疎林地及稚樹疎生地又は草生地岩石地等。1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった[75][76]。

朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。1924年の京城日報によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている[77]。造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。
[ 2013/08/09 04:21 ] たつや [ 編集 ]




http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/3152519
2013/8/7 中央日報  社説
私たちはマツを愛しているのか=韓国


わが民族の象徴の木であるマツが三重苦に直面している。最近、日本盆栽業界で慶尚北道清道産のマツが最高の名品素材として扱われているという。日本では森が茂り背が低い素材を探すのが難しいうえ、マツ材線虫で日本のマツが被害を受けたからだ。最近は韓国でも街路樹と団地の植木用としてマツの人気が高まっている。このため全国の山から、形のよい健康なマツが次々と大都市に運ばれている。日本に密輸出するため名品素材をこっそりと運ぼうとして摘発されるケースも増えた。

私たちが知らない間にマツは過酷な運命に苦しんでいる。山林庁によると、地球温暖化で南部地方で毎年数十万本のマツが枯死している。1998年に日本から渡ってきたマツ材線虫もマツには今でも脅威だ。もちろん2005年に制定された「マツ材線虫病防除特別法」は大きな役割をした。マツ材線虫病の木は同年の56万本から、2011年には1万2000本ほどに急減した。マツ材線虫防除をあきらめた日本・中国と違い、韓国は完全撲滅を目前にしている。しかしかつて500億ウォン(約43億円)以上だった防除予算が半分以下に減り、昨年からまたマツ材線虫が猛威を振るっているのは不吉だ。

韓国国民の67.7%はマツが好きだという。2位のイチョウ(5.6%)とは圧倒的な差だ。そのマツを守るための社会的関心が求められる。まずマツ材線虫が完全に消えるまで防除予算を惜しんではならないということだ。違法な運搬はより強力に取り締まらなければならない。政府と地方自治体の偏見も正す必要がある。まず大型マツは移植を自制しなければならない。病虫害に弱いマツにとって、アスファルトで覆われ、公害が激しい都心は致命的だ。全国の松林は50年前に比べてすでに半分以上も消えた。2050年には江原道の山間にしか残っていないという警告もある。一日も早く遺伝工学を組み合わせた新しい育種技術開発など国家的レベルの対策が必要だ。

http://japanese.joins.com/article/794/174794.html?servcode=100&sectcode=110&cloc=jp|main|top_news

引用ここまで



”日本盆栽業界で慶尚北道清道産のマツが最高の名品素材として扱われているという”・・・ああ、これは・・・・・何度も紹介したウィキの「韓国起源説」の中にも「盆栽」という項目がありますが、起源を主張したのは09年6月17日付けの中央日報であるということでした。
あいにく韓国版でして、ウィキからググっても記事が表示されなかったんですが、ちゃんと2ちゃんねる関係のブログで保存されていました。

「2ちゃん的韓国ニュース」さんのところなんですが、一応は”盆栽(プンジェ)は「縮み指向の日本」を象徴する代表的な文化です”・・・と書きながらすぐに”このような日本の盆栽宗主国の主張に待ったをかける文化財がまさに『四季盆景図 4幅屏風』です”・・・などと妄言を。
「四季盆景図 4幅屏風」というのは





こんなものだそうで14世紀の作品なんだそうですが、ウィキの解説は”実際の盆栽の起源は6世紀に中国で生まれ、遣唐使によって盆景として持ち帰られたものが、平安末期からの武士文化の中で磨かれ、日本独自に発展したものである。『四季盆景図 4幅屏風』は14世紀に朝鮮に盆栽のようなものが存在したと言う証拠にはなりえるものの、何故それが即「日本の盆栽の起源」になるのかは根拠不明。記事内でも説明はない”・・・ということでして説明としては十分かと。

まあ折り紙を見たって分るでしょうが、08年の中央日報では”韓国人たちの頭の中から紙文化に対する認識がほとんど消えた1989年には韓国折り紙協会を設立”・・・というように当然ながら日本の折り紙を参考にして韓国式折り紙を始めたオッサンが昨年は”千羽鶴は日本がいち早く高めた国力を基礎に世界に広めた習俗だ。それでも折り紙の宗主国は日本にはならない”・・・と居直っていました。

あまり声を上げない日本人もさすがに”そのような史実を示す資料があるなら提示してほしいですね”・・・と言っていましたが、韓国人に実証を求めるとは無謀な・・・・・または物知らずな(笑)。

このように韓国人の怪しげな主張を紹介していきますと夜が明けても間に合いませんので、この程度にしておきますが”日本に密輸出するため名品素材をこっそりと運ぼうとして摘発されるケースも増えた”・・・とは馬鹿馬鹿しい。
お前らなどは伝統的家屋村を造成するにも”韓屋なのに韓国産の松ではなく日本産の集成材を使用”・・・するという無様なことをやっていたんだし。

それにしても”全国の松林は50年前に比べてすでに半分以上も消えた”・・・ですか。100年前には”白頭山脈に一部大きい木立が残っているだけ海抜が低い低地帯には若い木と禿山が大部分を成し遂げた”・・・というところから日本が植林を進めたのですが・・・・





何しろ総督府はこういう林野分布図を作成するところから始めたのですから。しかしムダだったようで・・・・・韓国じゃ日帝の禁止した人身売買やら性奴隷やらが復活しているんですし。







酒もムダでは?


http://ameblo.jp/22558833/entry-11518238086.html



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