Sunday, November 11, 2012

the train trip around Manchuria and Korea,The Goverment Railways of Chosen

http://nekonote.jp/korea/old/life/etc/rail.html

朝鮮総督府鉄道局
The Goverment Railways of Chosen


"Holiday! Holiday!
let's celebrate Enthronement of the Japanese Emperor,let's do family travel
Yuseong hot Spring
Onyang hot spring
Suwon Kaesong
Ombori hot Spring
Korea Government-General Railway Bureau "


「休日!休日!
御大典奉祝 家族旅行
儒城温泉
温陽温泉
水原開城
朱乙温泉
朝鮮総督府鉄道局」

即位の礼(そくいのれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。wiki

조선총독부 철도국(朝鮮總督府 鐵道局)은 일제강점기 조선에 설립된 조선총독부 소속의 관청이다. 조선총독부 철도의 관리와 운영, 사설 철도, 육상 운송 업무 등을 관장하였다.wiki


昔の新聞記事や広告を眺めると当時の暮らしが分かるような気がします。

時間があると眺めて楽しんでいます。

また 面白い広告を見つけたのでご紹介します。

この記事は昭和天皇の即位の式典で公休日になるので家族旅行に出かけませんか?と呼びかける新聞広告です。

ハングルですから もちろん対象は韓国の人たちです。

日本人向けに日本語の広告も別に出しています

画像:
昭和3年/11/02の東亜日報から


http://liondog.jugem.jp/?eid=6





大邱
大邱について「朝鮮満洲旅行案内」(昭和7年 鮮満案内所)には

慶尚北道庁の所在地、朝鮮第四の都会南朝鮮第一の商業都市にして古来朝鮮三大市場の一として知られ、水陸交通上至便の位置を占め、且つ慶州方面へ行く東海中部線の分岐点として、其経済圏は慶北、慶南両道に及んでいる。
とあります。
それを反映してか、手元の資料の中で大邱の写真は以下のように市場のものばかりです。
「朝鮮之風光」(昭和5年 朝鮮総督府鉄道局)より『毎市白衣を以て肩摩轂撃の殷盛を呈する大邱の朝鮮市場』
「半島の近影」(昭和12年 朝鮮総督府鉄道局)より『大邱の市場』
「朝鮮満洲旅の栞」(昭和13年 南満洲鉄道株式会社東京支社)より『大邱・市場』
そのうち、写真は「朝鮮之風光」のものですが、実は上記の3点は同一の写真が掲載されています。


「釜山鴨緑江間写真帖」(年不祥 朝鮮総督府鉄道局)の『大邱市場』という写真はそれらとは別カットです。


なお、「朝鮮満洲旅行案内」(昭和4年 鮮満案内所)によれば大邱の人口は8万2500余人でそのうち内地人は2万4800余人。「朝鮮満洲旅行案内」(昭和7年 鮮満案内所)だと9万5000余人で内地人2万8000余人。「朝鮮満洲旅の栞」では10万5800人で内地人2万7640人となっています。

工業では製糸業が盛んだったようで、「朝鮮満洲旅の栞」には朝鮮製糸・大邱製糸・片倉製糸の名が挙げられています。

ちなみに、大邱神社についてはこちらをどうぞ。

「全国官国幣社写真帖」(昭和12年 愛知県神職会)より

http://liondog.jugem.jp/?cid=5

http://liondog.jugem.jp/?cid=3




http://senohatch.cocolog-nifty.com/top/2005/07/post_0f20.html


July 04, 2005

「のぞみ」と「ひかり」

現在は東海道・山陽新幹線を走る「のぞみ」と「ひかり」,戦前は朝鮮半島で使われていた名称です。
1933年4月,釜山~奉天間を結んでいた急行に「ひかり」という名称が付けられ,翌1934年11月に新京へ延長されるとともに,新たに釜山~奉天間の急行には「のぞみ」という名が付けられました。
時刻・所要時間は時期によって異なりますが,↓にあるのは1936年7月の時刻表です。これを見ると「のぞみ」は朝7時半に釜山を出て,京城を15時半,新義州を23時49分に出て,奉天に翌日朝6時40分に付きます(所要時間23時間10分)。「ひかり」は逆に19時20分に釜山発,京城を翌日早朝3時15分,新義州を11時24分発で,新京に21時に到着(所要時間25時間40分)。ちなみに釜山~新京は1530.4kmあるので,平均速度が約60km/h,当時としては早い方でしょう(当時の時刻表は12時表記なので,午後の分はゴシック体で区別されてる)。
「のぞみ」は1944年1月に,「ひかり」も植民地支配の崩壊により廃止されますが,40年以上も経て再び肩を並べるようになったのは,何かの偶然なのでしょうか。
※「テンイネ」・・「テン」は「展望車」,「イ」は「1等」(「2等=ロ」,「3等=ハ」),「ネ」は「寝台車(「寝る」)」

↓写真1:展望車「テンイネ3形」(朝鮮総督府鉄道局編『朝鮮旅行案内』1934年)





↓写真2:「内鮮満主要列車時刻表」(『朝鮮公論』1936年7月号)



↓写真3:このテンイネ3形,現在一両だけ現存(鉄道博物館にて.せのはっち撮影)


http://www.kumanekodou.com/gallery/gallery.cgi?no=86



「朝鮮旅行案内記(朝鮮総督府鉄道局発行)」昭和9年

http://liondog.jugem.jp/?page=1




天津(2)
さて、ここでは天津の都市の沿革を紹介することが目的ではないので割愛しますが、「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)の以下の記述を挙げておきます。

天津の外国租界は北清事変前後に設定されたもので最初は日英仏伊独露白墺の八租界であつたが、欧州大戦によつて独露白墺の四租界は回収され、現在残つてゐる各国専管の租界は日英仏伊の四つだけである。

まずは日本租界を見てみましょう。

「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)によれば日本租界の面積は約40万坪、天津在住の邦人50690人のうち24932人が日本租界に住んでいます(昭和15年6月現在)。

「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『天津日本租界』


「北支之展望 附蒙彊地方」(昭和15年12月25日 大亜公司北京支店)より『旭町』


絵葉書「北支那の大都 天津の景観」より『繁栄する日本租界旭街の景観』


「大日本帝国の領事館建築」(田中重光 2007年10月15日 相模書房)によれば日本租界設定前の領事館はアメリカ租界内にありましたが、1915年に日本租界内に新築移転されました。

「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『天津に於ける日本総領事館』


「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『天津日本租界にある大和公園の一景』


「北支之展望 附蒙彊地方」(昭和15年12月25日 大亜公司北京支店)より『大和公園』


絵葉書『天津 日本租界・大和公園内北清記念碑』


手元にある資料では正確な場所が分からないので租界内にあるのか不明ですが、日本に関わるものを。

絵葉書「北支那の大都 天津の景観」より『日本北支駐屯軍司令部正門の偉観』


「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『軍司令部前の旗行列=天津=』



「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『衆議院議員の皇軍慰問=天津=』












「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『日本語短期講習生=天津=』


なお、天津神社はこちらをご覧ください。








天津神社

狛犬あり



「北支之展望」(昭和15年 大亞公司北京支店)より

http://nekonote.jp/korea/old/rail/carriage/plary.html

プレーリー型タンク機関車


プレーリー型タンク機関車は  京城-釜山間の京釜線に使用する為 京釜鉄道株式会社が米国より18両を輸入しました。京釜線は日露戦争の準備で速成工事が 行われた為、急勾配が多かったのでプレーリー型タンク機関車が 主に使われました。
草梁-省峴間の比較的平坦な区間(58哩)はコンソリデーション型 テンダー機関車が使用されました。

京釜線は明治38年1月から 永登浦-草梁間の営業運行が開始。

明治35年12月30日 京釜鐵道会社は京仁鉄道を吸収合併、機関車含む全てが京釜鉄道の所有になりました。
明治39年7月1日 統監府の鉄道国有化で京釜鐵道はすべてを統監府鐵道局の経営に移管しました。

明治37年2月 日露戦争が始まると満州方面に輸送経路が必要とされ、京城-義州間の
鉄道建設を進めるため陸軍参謀本部下に臨時鉄道監部が組織されました。

臨時鉄道監部は米国から急勾配に強いプレーリー型タンク機関車を52両輸入、建設資材の
運搬・営業運転に使用しました。
48両は京義線に配置、4両は馬山線で使われました。

明治38年3月 龍山-安州の営業運転開始
明治39年8月31日 軍用線から国営(統監府鐵道局)に移管

京釜鐵道から18両、臨時軍用鉄道から52両の合計70両のプレリー型タンク機関車を保有
その後 私鉄振興の為に7両を私鉄に譲渡、

明治44年 ドイツから 新に9両を購入、大正元年、同じくドイツから5両を購入、合計77両の保有で
昭和20年の敗戦を迎え、すべてを残して帰国しました。

独立した北朝鮮と韓国が使用したプレリー型タンク機関車の割合は不明

機関車のプレイリー型の鉄道局での呼称は、最初に作られたのが プレイで、それから、プレニ、プレサ、プレシ、 プレコ、プレロ、プレナ、プレハ、のように使われて いました。
朝鮮総督府鉄道(交通局)では「ハ」が最終で次はなかったと思います。

機関車以外では数字を「い、に、さ、し、こ、ろ、な、は」のような表現を 使うことはなかったようです。




プレーリー型タンク機関車
車軸配置:1C1
車輪:2-6-2
製造:米国ボールドウヰン会社

画像:
朝鮮鉄道史 第一巻 554頁
(朝鮮総督府鉄道局)


プレーリー型タンク機関車
車軸配置:1C1
車輪:2-6-2
製造:ドイツ・ボルジッヒ会社

画像:
朝鮮鉄道史 第一巻 554頁
(朝鮮総督府鉄道局)

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