Sunday, December 2, 2012

History of the repatriation from China and Korea part1

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引揚の歴史-1-
-概要-

引揚の概要


日本が引き起こした戦争に敗れたことにより海外に(外国の領土に)いた日本の軍人・軍属や民間人が一挙に大挙して、日本へ引き揚げてくることになった。
追い出されて帰ってくるわけになる。多くは叩き出される状態であったが、それはまださいわいな方で、アホな戦争をしましてやっぱり負けましたわいな、ほならバイナラ、ですむわけもく、ちょっと待たんかい、後片付けしてから帰らんかいと、戦犯容疑者や捕虜扱いなどの理由で、簡単には帰してもらえない者も多く生まれた。超困難を極めた逃避行のなか生きては帰れなかった者も多かった。
 こんな日がやがて来るなどと、誰も予測する者とてなく、予め用意をして引揚の手配して待っているなどという事はまったくなく、突如として発生した予見不可能な非常事態として、関係機関は押し寄せてくる厖大な人数の対処に迫られた。今引揚られても本土も荒廃しその上、大変な食糧難である。大量に引揚てきても生活の保障はできない、引揚げずにそこに当分はいてくれ、引揚げるなという考えもあったという。
『舞鶴地方引揚援護局史』(昭和36・厚生省援護局)は、次のようにいう。

 大東亜戦争の終結は、在外軍官民六百数十万の引揚と、それと時を同じうして、在留外国人百数十万の送還を必要とするに至った。これは未だかって例を見ない大きな且つ困難な問題であった。
 由来、戦争の終結とともに、出征軍人が戦場から帰還することは常識であるが、一般人が生活の根拠を失って世界の隅々から、かくも多数、しかも短期間に帰還することは、有史以来はじめてのことであって、その受入援護に当るものには、未経験の難事業であった。しかも終戦以来、すでに十三年を経過して、なお完了しないことは、まことに遺憾至極といわねばならない。

→「森寮における引揚孤児たちのいじらしい姿」としている。(『舞鶴地方引揚援護局史』より)
森寮


中国残留孤児や残留婦人と呼ばれている未帰還者は1万人とも推計されているが、上の『…援護局史』の発行から半世紀、63年を経ようとする今もなお完了する見通しがない。引揚は過去のことなどではなく、われわれは今尚この問題を未解決のままに引きづっている。
己が引き起こした戦争の結末であるが、その己が行為の尻すらハンパにしか拭けない呆れ立てる超無責任国政府の超怠慢怠惰な対応として長く長く歴史に汚名を残すこととなるであろう。

「かくも多数、しかも短期間に帰還することは、有史以来はじめて」。HP上に記録していくのも「未経験の難事業」となろう。私の生まれる以前の出来事で私は直接には見たこともなく、あちこちに残された資料をあたり復元してみようかと思う、舞鶴の郷土史家のつもりの者としては、ずっと気にはしているテーマなのである。
「引揚げ」は多くの舞鶴人には当たり前の歴史知識で「また岸壁の母か、それしかないんかい」くらいのさして興味も湧いてはこない受け止め方になろうが、全国的には、あるいは若い人たちには意外と感心があるようでもある。舞鶴の郷土史で一番興味が持てるのは引揚げ、という人も増えてこようかと思われる。

「私が何か入れ知恵をしたんではありませんよ、ご自身でそうおっしゃったんです。このごろの若い先生は本当によく勉強されていましてね、いやもう満点ですよ、優秀ですわ。」と校長先生が激賞される新任の先生(舞鶴出身ではないが)が最初に舞鶴で興味を向けたのは引揚の歴史であった。優秀先生、満点先生が興味を向けて下さるようならば、何か明るくなってくるような気持ちがしてくる。

さて、それは置いてでは、どこにどれくらいの人数が海外残されていたのであろうか。
同じ『…援護局史』の資料によれば、
引揚対象
 (イ)終戦前後は通信交通の不如意、軍隊の降伏、占領軍の管理等により、同胞の移動損耗の詳細は不明であったが、在来の資料等により当時は主要方面の在外軍官民の数は次のように推測されていた。

中国本土    一、五○一、二二五  関東州  二二三、○九三
満洲       一、一○五、八三七  北鮮   三二二、五四六
ソ連(外蒙を含む) 七○○、○○○  南鮮   五九四、七一四
樺太、千島     三七二、○一六
 これらの方面のうち、中国本土は中国軍の管理地域、満洲、関東州、北鮮、樺太、千鳥はソ連軍の管理地域、南鮮は米国軍の管理地域であった。

(ロ)これらの内で舞鶴に上陸帰還したものは
中国本土         五三、一七三   樺太  二、一○三
関東州          二七、○四九   北鮮  二、三七五
満洲          一一一、四八一   南鮮 一四、二三五
ソ連(外蒙を含む)  四五三、八四九
である。
 なお、この他に、当局の処理した沖縄、台湾、東南アジア各地、インドネシア諸島、マライ諸島、ニューギニア諸島、南北アメリカ、和蘭等からの帰還者二百数十名があったが、ことごとく便船による他港上陸者であった。
→引揚方面概観図(『舞鶴地方引揚援護局史』より)


どの国を侵略対象としてしていたかがよくわかる資料であるが、もう少し詳しく知りたいもの。
引揚の様相は、引き揚げてくる地域によって異なっていた。
同書は、方面別に特徴点を挙げている。

終戦後の状態と引揚の概況
 各方面の状態は一様ではないが、降伏とともに、敗戦国民として悲境に陥ったことと、生活基盤の喪失、治安の混乱、ときに悪疫の流行に会い、物心両面にわたり不測の苦難に当面したことは共通であった。ただし、軍隊はソ連軍管理地域を除いて、おおむね建制と秩序を保持していた。
 引揚は、ソ連軍管理地域を除き、昭和二十年から開始され、昭和二十一年には、大体、完了した。


(イ)中国引揚
中国本土では蒋政府主席の方針により比較的寛大に取扱われたが、軍隊は華北は昭和二十年十月十日、華中は同年九月九日、華南は同年九月十六日、武漢は同年九月十八日降伏調印式を行ない、各方面の集中営に収容された。満洲と異り、総司令官が軍官民の引揚を指導することができたことから、計画実施が円滑であったが、一部の軍民技術者が留用され、また山西省のように軍隊の一部が治安を分担させられるものも生じて引揚の機を失し、ついに国共紛争の渦中に巻きこまれ、絶大な苦難に直面したものもあった。
 軍民は、逐次、引揚と生活を容易にするため鉄道等、交通上の要点に集結した上、華北にあっては北京、天津、青島、連雲港(鄭州、開封方面は上海)に、華中武漢にあっては上海に、華南にあっては広東に移動し、昭和二十年十月から塘沽、青島、連雲港、上海、広東等から乗船し、主として、博多、佐世保に、一部は仙崎、舞鶴等に帰還した。
 昭和二十一年六月には大部の引揚を終ったのであったが、この頃から国共の紛争ようやく戦乱化し、昭和二十四年一月平津地区、同五月上海地区、同十月広東地区相ついで中共軍の手に落ち、同十一月ついに重慶の陥落となり、引揚に決定的な影響を与え中断するに至った。
 中共軍の本土進攻は、これに留用されていた満洲方面の男女同胞多数の本土への移動となり、その戦況の進展に伴って、遠く越南戦線に進出し、さらに朝鮮動乱の勃発によってその一部の北鮮進出とさえなった。中共政権の樹立後は、華北、華中、中南、西北、西南地区の開発のため、大連、満洲の残留邦人技術者、学者の留用移住が行なわれ、これらの人々の引揚の遅延となった。
 昭和二十八年、北京において、いわゆる三団体と中国紅十字会の間に引揚協定が成立し、これらの残留者の引揚が行なわれ、途中曲折があったが、昭和三十三年八月まで続行され、目下再び中断している。この間、昭和二十五年にはソ連から戦犯容疑者九六九名が中共政府に移管され、満洲に拘禁されたが、その少数を残し昭和三十一年に帰還した。現在、中国(満洲を含む)に残っている同胞は約六千であって、その大部は中国人と結婚した婦人であり、主として満洲に住んでいるが、その生活はあまりよくない。

 (ロ)満洲引揚
満洲・関東州で最も辛酸をなめたものは、国境方面と奥地にあった開拓団、義勇隊、一般在留邦人であって、ソ連軍の進入とともにその戦禍をこうむり、次いで治安の混乱により匪害に会い、家財をすてての逃避行となったため、その惨苦は筆紙につくせぬものがあった。特に降伏とともに軍官要人はことごとくソ連軍に逮捕されたため、救護の運営に指導者を失ったことは一層その被害を大きくした。
 ソ連軍の進駐とともに軍隊は武装解除のうえ、作業大隊に改編し、その大部は昭和二十年九月から翌年にかけて入ソし、一部は現地で使役されたが、ソ連軍の撤退にさきだち解散された。作業大隊の編成に際し、奉天、新京等では一般在留邦人のこれに加えられたものが少なくなかったのみならず、ソ連軍の駐留全期間にわたり多数の軍官民が受刑者またはその容疑者としてソ連に送致された。
 国境方面と奥地から避難したものは、ハルビン、チチハル、新京、吉林、奉天、大連等の要地に雲集し、住宅、食糧、医療等の不足に苦しみ、多数の死者を出したのであるが、国府軍の進駐とともに米・中両軍の指導下に、昭和二十一年五月から引き揚げることができた。すなわちいわゆる葫蘆島からの百万人引揚であり、第一期は昭和二十一年五月から十月、第二期は同十一月から十二月、第三期は昭和二十二年六月から十月、第四期は昭和二十三年六月から八月までであって、主として博多、佐世保、仙崎に帰還したが、当局にもその一部が上陸した。
 第三期の末期以降は国共の戦闘のため引揚行動が極めて困難となり、第四期には新京以北との連絡の断絶、奉天、
錦州間交通の中断となり、ついに米軍の空中輸送によって辛うじて脱出帰還するものさえ出る状態となり、数万のものは中共軍の勢力下にある北東満と大連に残留することを余儀なくされた。このころから生活に窮した婦人で中国人等の家庭に遁入し、その家族となるものが激増したようである。
 終戦前後北鮮に遁入したものは約六万といわれているが、そのうち約二万は再び満洲に復帰したようである。関東州は比較的平穏であったが、ソ連軍の進駐とともに、技術者の多くは留用され、その撤退後は中共政府に再留用され、これらのものが、後に華北、西北、西南、中南、華中地区の建設のため中国本土へ移住させられたことは前述のとおりである。またソ連軍が旅順を軍事基地とするとともに、その在留邦人は大連方面に強制移住させられた。かくて昭和二十四年九、十月には一時的に、大連から同地と満洲各地の老人、病弱者、婦女子等の引揚があった。
 昭和二十八年三月、北京協定が成立し、中国本土のものとともに秦皇島、塘沽から舞鶴に向い引揚が再興されたが、目下中断している。中共軍の勢力下に入ってからは、主要都市に日本人会、日本人の多い機関には日僑団体が組織され、おおむね延安系等のものの領導下にいわゆる民主教育が行なわれ、所によっては同胞あいはむ悲劇もあったようである。なお附記せねばならぬことは、昭和二十、二十一の両年にソ連抑留者中の病弱者、約二万が琿春、綏芬河、黒河経由で逆送され、延吉、敦化、牡丹江、掖河、黒河等に収容されたが、多数の死亡者を生じた。そしてその一部は健康恢復とともに再び入ソし、他は現地に留り昭和二十二年以降の引揚にあたり帰還していることである。

(ハ)北鮮引揚
北鮮においても、ソ連軍の進入とともに国境地帯では戦禍を譲り、咸鏡北道の邦人は興南、元山方面に避難した。軍隊は武装解除後、延吉、古茂山、富坪、宣徳、興南、平壌等に集結し、作業大隊に改編されたうえ、昭和二十年九月から翌年九月にわたり、大部は興南等より海路ソ連に、一部は鉄道または徒歩により入ソした。満洲から流入した避難邦人は、主として、新義州、平壌、鎮南浦等の要点に集中したが、一部は満洲に反転した。右のような事情から邦人の集結地は生活に窮迫し、ついに三十八度線を突破して南鮮に脱出せねばならなくなった。この方面の引揚は、昭和二十一年末の米ソ協定成立前は、陸・海両路から三十八度線を突破し、南鮮経由で博多、佐世保、仙崎等に上陸し、極めて少数が興南から乗船して帰還した。北鮮引揚の大部(約三十万)はこの時期にはこのように自動的に行なわれたものであるが、技術者(約一千名)は留用され帰還できなかった。昭和二十一年十二月、米ソ協定成立後は、興南、元山から送還され佐世保、舞鶴などに上陸したが、依然三十八度線を突破脱出し南鮮経由で帰還するものが跡を絶たなかった。昭和二十三年末ソ連軍のこの方面撤退に伴い、米ソ協定は履行せられず、引揚が中絶したが、三十八度線からの脱出は朝鮮動乱の勃発まで続いていた。昭和三十一年二月、平壌において両国赤十字社間に引揚協定成立し、同年四月ただ一回の引揚があり、少数のものが遮湖から舞鶴に帰還した。ここに特筆すべきことは、昭和二十、二十一の両年ソ連抑留者中の病弱者約三万が.海路清津、興南を経て古茂山、興南に逆送されたことであり、このうちから多数の死亡者を出したが、その残存者の多くはその後の引揚において帰還している。従って現在残留しているものは極めて少数(約二百名内外)であって、そのほとんどは現地人と結婚した婦人である。

(ニ)樺太千島引揚
樺太、千島にあっては 軍隊は降伏とともに作業大隊に改編され、その大部はシベリア、カムチャッカ、北樺太に送られ、一部は現地で使役されたのち解散した。在住邦人は国境附近の戦闘により、戦禍をこうむったのみならず、千島にあったものは樺太に強制移住させられたが、収容施設に集結させる等のことはなかった。従って終戦直後数万のものが北海道に向って脱出して来た。この方面の引揚は昭和二十一年十二月米ソ協定の成立するまで行なわれなかった。米ソ協定成立とともに同月真岡(ホルムスク)から送遠され函館に上陸したが、昭和二十四年七月中断した。昭和三十二年三月にいたり、テボシヤン通告により同年八月以降真岡から、主として樺太地区残留者とその家族である朝鮮人の帰還が行なわれ舞鶴に上陸した。この地区の同胞中には、樺太、千島において受刑し、シベリアに送られたものが、はなはだ多く、そのうちには満刑後もシベリアの各地に移住させられているものがある。現在樺太の残留者は約七百名と考えられるが、その多くはソ連人または朝鮮人と結婚した婦人であり、ソ連籍または朝鮮籍を取得し、各地に自由に生活している。千島には残留者はないようである。

(ホ)南鮮引揚
南鮮はもっとも平穏地区であり、わが本土にも近いため終戦後いち早く引揚船が配船され、九月以降注文津、釜山、鎮海、木浦、群山、仁川等から仙崎、博多、佐世保等に帰還し、昭和二十一年五月には、大体、引揚を完了した。しかし、北鮮からの脱出者が跡を絶たなかったためと、南鮮の一部残留者はその後も時々帰還した。昭和二十五年六月朝鮮動乱の勃発してからは、南鮮の生活困窮邦人(朝鮮人の妻である元日本婦人)と、北鮮脱出邦人の帰還が増加し、毎月釜山からの便船によって門司、神戸、大阪等に上陸したが、現在にいたってもまだ時々帰還している。


(ヘ)ソ連引揚
ソ連に抑留されたものは.その後の調査により約五十七万五千と推定された。このうち捕虜は、昭和二十年九月からおおむね翌年十一月までの間に、その他の被捕者は昭和二十年からおおむね昭和二十五年の間(樺太にあっては最近まで)にシベリア(約四十七万二千)、中央アジア(約六万五千)、欧露(約二万五千)、外蒙(約一万三千)に送られ、東はカムチャツカ等ベーリング海に面する地方、北はナリリスク、ヴオルクタ等北極海に近い極北地方、西はドニエプロ河の流域にわたる広大な地域の、一般捕虜収容所約一千二百カ所と監獄、強制労働所等の特種収容所約五百カ所に収禁された。
 昭和二十年九月から翌年十一月ごろの間、その病弱者約五万は黒河、綏芬河、ポセツト、ウラジオから陸海両路により、満洲と北鮮に逆送され、また昭和二十五年には戦犯容疑者九百六十九名が満洲に移され、中共政府に引き渡された。
 ソ連に入ってからは、酷烈な気候、食糧の不足、住居の不備、衛生施設の不良等の悪環境に加え、過重な労働、時々の悪疫の流行により想像を絶する辛酸をなめ、特に、昭二十、二十一年は多数の人々がその生命を失った。抑留者は鉄道とその附帯物の建設(約三○%)、採炭採砿とその附帯労働(約一四%)、一般土木建築(約四三%)、生産工業(約一一%)、その他(約四%)に就労させられたようである。昭和二十一年ごろから各地に民主運動が勃興し、昭和二十二年民主委員会、昭和二十三年反フアシスト委員会が誕生して、収容所内に権力を振い、生活、労働、戦犯摘発、帰還順位の決定等に利用されるようになってからは、同胞相剋の悲劇を招来し、環境の不良と合して抑留者の物心両面の辛苦はその頂点に達した。
 この方面の引揚の開始は、他地域に比しもっともおくれ、昭和二十一年十二月、米ソ協定の成立により、ようやくその緒につき、ナホトカから舞鶴と函館に帰還したのであるが、遅々として進まず、毎年冬季数カ月の休止を見たのみならず、昭和二十五年四月にいたり戦犯、一般受刑者、満刑解放者を残し中絶した。昭和二十八年十一月モスコーにおいて両国赤十字社間に引揚協定が成立して引揚が再開され、毎年数回少数の満刑者がナホトカから舞鶴に帰還して来た。
 さらに、昭和三十一年十月、日ソ共同宣言に伴い、戦犯全員の釈放となり、同年十二月戦犯とその他の満刑者がナホトカから舞鶴に帰還したので引揚の大部を終了することができた。
 しかしマガダン、ハバロフスク、クラスノヤルスク、モスコー各地区や中央アジア等には満刑解放者等約百七十名のものがまだ残留している。

これらは方面別にみた、概要であるが、次に年度別に見てみよう。


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(参考)
森寮
森寮は大森神社(彌加宜神社)の近くにあり、確か日之出寮と呼んでいたが、私が子供の頃、中学生の頃まではあったと記憶している。今は建てかえられて市営日之出団地になっている。
→森寮。初期は引揚者用、のちに出迎え家族宿舎となった。と書かれている。
孤児、無縁故者の取扱い
 この期において取扱ったものは第二九表のとおりである。
 このうち、孤児は、相談係において孤児相談調査カードを作成し、送出を延期して森寮に収容し、引取り人の調査を行ない、肉親に引取られるよう努めたが、その発見のできないものは、戦災援護会(同胞援護会)の協力を得て雪渓園(京都市上京区北野)に収容した。

(二九表によれば、昭和21~24に、援護局が扱った孤児は合計101名。無縁者は合計142名)

また無縁故者も相談係において無縁故者相談カードを作成し、送出を延期して森寮に収容し、縁故先を調査して定着先の世話に努めたが、その発見のできないものは戦災援護会(同胞援護会)の協力を得て、なるべくその本籍地において住宅、職業の斡旋につとめ、止むを得ないもののみ、同和園(京都市東山区醍醐)に収容することとした。
 これらの孤児のほとんど全部に近いものは、満洲からの引揚者であって、戦争終結前後の混乱のため、その肉親と別離したもので、多くは近隣の引揚者の保護により引き揚げて来たものであって、もっとも惨ましい戦争の犠牲者である。なお当時葫蘆島、大連、北鮮からの引揚が輻輳したのと、引揚者が多数であって相談業務も不徹底のときであったから、この取扱い数以上の孤児、無縁故者の存在したことが想像せられる。

 1937(昭和12)以降の日本軍の地域別兵員数
朝鮮 35万4000人
中国(満洲を含む) 222万1500人
台湾 22万7900人
インド・ビルマ 24万6900人
フィリピン 61万3800人
中部太平洋諸島(グアム、サイパン、テニアン、アンガウル、ペリリュー、トラック諸島、ギルバート諸島など) 34万7400人
仏領インドシナ 10万8700人
タイ 11万2400人
英領マラヤ、オランダ領東インド 48万6700人
ニューバニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島 39万2800人 ↑↓ 『一九九五年八月一五日に』(朝日文庫)による。
「旧日本軍の地域別兵員数は厚生省資料による。敗戦時に生存した軍人・軍属数に、37年以降敗戦までに死んだ軍人・軍属数を加えた」と注がある。下はそれを図にしたものであるが、その地の主な「輸移出品」も書かれていて、何をするために兵隊が海外へ行っていたかもわかる。








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-引揚の歴史-
引揚の概要(このページ)
引揚の概要2:援護局開設までの時期
引揚の概要3:「上安時代」

32隻の引揚船
-舞鶴引揚記念館-
舞鶴引揚記念館:設立の趣旨
舞鶴引揚記念館:シベリア抑留
舞鶴引揚記念館:満蒙開拓団







引用文献
『舞鶴地方引揚援護局史』

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