Wednesday, May 15, 2013

studying about "comfort women" again now, by Pak, Yu-ha

http://togetter.com/li/488629

新連載【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(1) 日韓のとげ


朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)
박, 유하(1957-) 2011年12月13日

今、ふたたび「慰安婦」問題が浮上しています。ここ数年、「慰安婦」問題は、日本では政府の立場からは「終わった」ことになっています。おそらく一般市民たちの間でもすっかり忘れられていたことでしょう。




大統領府に近い光化門前で元慰安婦や支援者が問題解決を訴えた。そのあと日本大使館前に移り、992回目の水曜集会を開いた=2011年10月19日、ソウルで



しかし、韓国ではいまでも、駐韓日本大使館の前で当事者たちや支援団体のデモが続いています。来る12月14日には、20年前から毎週行ってきたデモが1000回を迎えるということで、記念碑を建てる計画までが進んでいます。

そのような韓国の動きを受けて、日本でも「日本軍『慰安婦』被害者に正義を!」との趣旨で「日本全国、世界各地で同時に行う『韓国水曜デモ1000回アクション』」というものが開かれ、「外務省を『人間の鎖』で包囲」する計画が進んでいます(http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/fc3837c00b5271fd63dbcc5652f9d300」。そして同じごろに 、アメリカではホロコストを経験した生存者と慰安婦を会わせる 企画も進んでいるといいます(http://japanese.joins.com/article/817/145817.html)。

一方、日本では12月号の『正論』が「韓国よ、いい加減にせんか」というタイトルの特集を組んで、この秋以降「慰安婦」問題に関しての動きが活発になったことを受けて韓国を激しく批判しています(西岡力「危険水位を超えた『慰安婦』」対日謀略」、呉智英「道徳という道具と歴史の真実」) 。市民の方でも、韓国側の14日のデモに抗して、「正しい歴史を次世代に繋ぎましょう」として「12.14水曜デモ1000回への抗議行動&集会『 慰安婦の嘘は許しません!なでしこアクション2011』」というタイトルの反対デモを呼びかけています。

このデモの特徴は、タイトルが示しているように、女性たちが中心になっていることです(http://sakura.a.la9.jp/japan/)。ツイッタ-などでも、 「慰安婦はうそつき」「お金をもらった」「軍は関与していない」などの議論が沸いていて、数年前からの『嫌韓流』の主張と通低するような感情が、今、新たに日本社会に巻き起こっているように見えます。

そのような潮流を受けてか、『産経新聞』は2007年に「慰安婦」問題をめぐる発言で世界的な注目を引いた安倍晋三元首相に新たにインタビューをし、安倍首相が謝罪したことで一件落着したかのように見えた当時のことに関して、実のところ「謝罪したことなどなかった」とする答えを引き出しています。安倍氏によると、あの時「慰安婦」問題に関しては議論しなかったのに、あたかも謝罪したかのような発言がアメリカ側から出たにすぎない、というのです(2011・11・23)。それを受けて韓国のメディア はすぐに、「謝罪する気持ちがないながら謝罪したふりをしたのか」と 、反発しました。

このような状況から見えてくるのは、「慰安婦」問題とは単なる日韓間の問題ではなく、日本内の問題でもある、ということです。一体どうして日本はこの問題をめぐってここまで激しく対立するようになったのでしょうか。・・・・・



【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(2) 不信の存在
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2011年12月25日

●「これまでの経過と現状」
まず「慰安婦問題」をめぐるこれまでの経過を簡単に整理しておきます。

1990年1月、韓国の女性学者ユン・ジョンオク氏が「挺身隊取材記」を韓国の「ハンギョレ」新聞に連載し、韓国ではこの問題が広く知られるようになります。

日本ははじめ「民間業者が軍とともに連れ歩いた」として軍の関与を否定します。それを受けて韓国では、多くの女性団体が日本政府に抗議する書簡を送り、「慰安婦」問題を解決するための「韓国挺身隊問題対策協議会」が発足します(最初のうちは 「慰安婦」と「勤労挺身隊」が混同されて、韓国民の怒りを大きくした側面もあります)。

そして翌1991年、金学順氏がはじめて「慰安婦」だったとして名乗り出、12月には「元慰安婦」たちが日本の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴しました。そこで日本政府も調査に乗り出します。1992年、軍の関与を示す資料が見つかり、宮沢内閣はこの年と次の年にかけて二度調査結果を発表し、1993年当時の官房長官河野洋平氏による「河野談話」を発表して謝罪を公式に表明します。同じく1993年にはフィリピンからも「元慰安婦」だったと名乗り出る人があり、「慰安婦」問題は日韓以外の国家も含む問題として国際化するようになります。

1994年、村山富市首相は問題解決のために国民参加を得る構想を発表し、与党三党(自民、社会、さけがけ)による「戦後50年問題プロジェクト」を発足させます。このプロジェクトの小委員会は問題解決の検討に入り、国民参加のもと、問題への取り組みとともに女性たちの名誉と尊厳回復のための活動などへの支援を提言し、1995年には衆議院本会議で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を採択します。

また当時の五十嵐広三官房長官が「女性のための平和友好基金」の事業内容や基金の呼びかけ人を発表し、同年7月に「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、「基金」とする)が発足します(理事長は原文兵衛前参議院議長)。8月には「基金」から呼びかけ文が発表され、このとき村山首相は「ごあいさつ」をよせます。また、基金の活動に必要な協力を政府が行うとの閣議了解があり、基金は新聞などを通じて呼びかけを行います。

しかしこの間も韓国や日本の支援者の基金反対派の活動は続き、国連にも働きかけ、1996年には国連人権委員会にスリランカのクマラスワミ氏が報告書を出します。同年、基金は、「慰安婦」一人当たり200万円の「償い金」、「総理の手紙」を渡すことを決め、そのほか「慰安婦」のために7億円規模の医療福祉事業の実施を発表します。そして8月に「償い事業」を開始します。

1997年には韓国でも事業が開始されますが、激しい反対の中、償い金を受けると申し出た7人の「元慰安婦」に手紙と償い金を渡します。ところがインドネシアについては「高齢者社会福祉支援事業」として支払うことをインドネシア政府と合意し、被害国によってその補償の具体的な形は少しずつ違っていました。1998年、再び国連の「差別防止・少数者保護委員会」にマグドゥカル氏が報告書を出します。

2000年には村山元首相が二代目の基金理事長に就任します。このときは国民の募金は5億円を超えていたといいます。同じ年の暮れ、基金に反対する日本、韓国その他の支援者たちは東京で「女性国際戦犯法廷」を開き、この問題に関して昭和天皇を「有罪」とする判決を下します。

2002年までに基金はフィリピン、台湾、韓国の285人に償い金を渡したとしてこれらの地域での事業を終了します。この間「慰安婦」たちは政府を相手にした裁判を行いますが、一度勝訴するも(山口地裁、関釜判決)最高裁で敗訴し、現在までにすべての訴訟は敗訴しています。そして2007年3月、アメリカの下院で「慰安婦」問題解決案の採択に対して、当時の安倍晋三首相が「慰安婦への狭義の強制性はなかった」とした発言が国際問題化します。同じ3月に基金は解散します。 

以上が、現在までの「慰安婦」問題をめぐる経過です。

この間も韓国では基金反対と国会議決に基づく別の「謝罪と補償」を求める動きが続き、基金と挺身隊問題対策協議会の対立は深まります。韓国政府は日本政府との対立を続けながら「慰安婦」たちに基金の補償金に近い金額を独自に支払ってもいます。

そして2005年、日韓会談の会議録を公開する中で、個人賠償は政府が代わりに支払うことにして一括して韓国政府が受けとったことが明らかになります。その後会談直後の事業が不十分だったとして、植民地時代の被害者のための法律を作り新たな補償事業が行なわれました。

今もなお韓国の「慰安婦」たち60人ほどが、日本政府を相手に訴訟中です。その意味では、現在の「慰安婦」問題とは、まずはこの60人に対してどのような対応をすればいいのか、という問題とも言えます。

ここ数年、韓国政府は日本政府に対して「慰安婦」問題の解決を積極的に働きかけるようなことはしませんでした。そこで「慰安婦」たちと支援団体は、日本国に対して「日本軍『慰安婦』としての賠償請求権」を持っているにもかかわらず韓国政府が日本側に働きかけないのは政府の責任を果たしていないことだとして、2006年に韓国の憲法裁判所に訴訟を起こしていました。

それは、1965年の「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」で、両国の「解釈上の紛争」がある場合は第三国を交えて協議することにした条項を根拠にしてのことです。

そして2011年8月、憲法裁判所は韓国政府が日本政府に働きかけないのは憲法違反との判決を下しました(http://www.asahi.com/international/update/0830/TKY201108300493.html)。それを受けて韓国政府が動き出し、まずは両者で協議のテーブルに付くことを日本政府に申し出ているのが、ここ数ヶ月の状況です。

しかし今のところ日本政府は「1965年で請求権問題は終わった」とする立場のままです。そして先日、韓国政府は、いよいよ「第三国」をまじえての調整に入るための予算を来年度予算に組みました。

つまり今日本は、このまま無対応で一貫するのか、第三国を交えての協議に入るのか、あるいは韓国政府の最初の要請に応じて二者協議に入るのかを決めるべき時期に来ているのです。

そこでまず言えるのは、「第三国」を入れての協議は、両国にとってともに望ましい解決策とは言えない、ということです。それは、日韓の関係者たちほど、この問題について精通している人物を第三国から得ることはおそらく難しいからです。

となれば、結局両方の国家や支援団体はこれまでのようにそれぞれ自国の言い分を主張するほかなく、結局は情報戦(ロビ-戦)になるほかないでしょう。その結果は、2007年に欧米の議会が次々に日本に向けて新たな「公式」謝罪をするよう要求する議決を出したときと同じことになる可能性が大きいのです。

2007年の「慰安婦」問題をめぐる動きについては後で改めて触れますが、その結果から見えてきたのは(欧米の人に「世界」を代表させておくとして)、現在「世界」は、この問題において日本の味方ではない、という現実です。

しかし、そのような結果では日本政府としては納得がいかないでしょう。


【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(3) 朝鮮人「慰安婦」とは誰か
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年01月12日


●小説「蝗」から
そもそも、「慰安婦」とは一体どういう存在だったのでしょうか。

韓国や世界の認識では、日本軍によって戦場に「強制連行」され、「性奴隷」として虐待を受けた存在、というのが平均的な「慰安婦」像です。それに対して、軍の関与などまったくなく、彼女たちは「自発的に」「お金をもうけに」自ら「娼婦」になったまで、と考える人も日本には少なくなりません。彼女たちは被害者どころか「貧しい兵士をせしめ、大金をもうけた」したたかもの、というのが「慰安婦」問題否定者たちの「慰安婦」像です。

しかし、まさにそのように、支援者側と否定者側がそれぞれひとつだけの「慰安婦」像に固執したことこそが、両方の対立を深刻にした原因といえます。

というのも、その両方の像は、「事実」としては両方とも真実だからです。「慰安婦」の数だけ様々な境遇と状況があり、出身や地域や時間や場所によって差異がありました。にもかかわらず、これまで対立してきた人たちは、それぞれ見たい状況と境遇だけに注目してきたのです。

何よりも、彼女たちと「日本」との関係は、彼女たちの出身地が「本国」か「植民地」か「敵国」か「占領地」かによってはじめから境遇が根本的に違っていました(このことに関しては改めて書きます)。そして重要なのは、「自発」の中に見えない「強制」が存在し、「娼婦」の外見の中に「性奴隷」の側面が存在する、ということなのです。

むろん、これとまったく逆のことも言えるのでは、と考える人もいることでしょう。

とすると、結局、この問題の受け止め方は、表面に見えることをどのように判断するのかといった、解釈と判断にゆだねられることになります。つまり表面的な「度合い」でもってもっとも悲惨な例に注目するのか、あるいは、もっともそうでない例に注目するのかの問題もさることながら、それ以上に総合的な判断の問題となるのです。

そこで、その問題を考えるのにふさわしい、ある例をとりあげて考えてみます。「慰安婦」―当事者の「証言」をうそと考える人も多いので、ここでは当時のことを経験した日本人男性の話を聞いてみたいと思います。兵士の証言はとかく「イデオロギ-に基づいた(左翼の)もの」とみなされることも多いのですが、「慰安婦」問題が「問題」となる前に書かれたものなら、そういう疑惑をかけられないで済むはずです。


作家の田村泰次郎=1941年1月、中国・山西省遼県
田村泰次郎(1911―1983)という作家が、日中戦争時の戦場が舞台となっている「蝗」(イナゴ)という小説を1964年に発表しています(『肉体の悪魔・失われた男』講談社文芸文庫所収)。この人は、1940年に応召して中国北部で兵士として戦争を体験し、その体験に基づいた小説を多く書きました。

主人公の原田軍曹は部下たちとともに、戦死者たちのための白木の箱を原駐地の商人から受領して前線に届ける任務を遂行中です。しかし、「五人の女たちを原駐地からそこへつれて行くのも彼の別の任務」でした。「慰安婦」たちには「朝鮮人業者」もついていましたが、業者共々、「軍曹」が慰安婦の移送を担当していたのです。もっとも、危険地域ゆえ、民間人を保護するためのものと見ることも可能です。

しかし、中国の戦線を歩く民間人のすべての移動に軍が関与できたわけではありません。そうである以上、「慰安婦」と業者の移動が「任務」とされていたのは、軍が積極的に「慰安婦」を必要としていたゆえのこと、とは少なくとも言えるでしょう。 

ところが、列車で移動していた彼らは、途中で別の部隊に出会い、女たちを下ろすことを要求されます。以下がその場面です。

「こらーつ、出て来いったら、出てこんか。チョーセン・ピーめ」(略)

「貴様が、引率者か。チョ-セン・ピーたちを、すぐ降ろせっ。おれは、ここの高射砲の隊長だ。降りろ」(略)

「女たちは石部隊専用の者たちです」

「なにつ。文句をいうな。なにも、減るもんじゃああるまいし、ケチケチするな、新郷でもさんざん、大盤振る舞いをしたそうじゃないか、何故、おれのところだけそれをいけないというのか」

「しかし、――」

「しかしも、くそもない。いやなら、ここをとおさないだけだ。絶対に、先に行かさない。いいか。通行税だ。気持ちよく払って行け。」

ここへくるまでに、開封を出発してまもなく、新郷と、もう一箇所、すでに二回も、彼女たちは、引きずり降ろされていた。そのたびに、その地点に駐留している兵隊たちが、つぎつぎに休む間もなく、五名の女たちの肉体に襲いかかった。

【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(4) 他者への想像力
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年01月23日
「韓国併合100年」後を見通す
日韓「慰安婦」問題をどう解く?
外交朝鮮半島歴史・思想

1)関与主体は誰なのか
満州事変以来、日本は最終的には300万もの兵士たちを朝鮮や中国大陸や「南洋」においていました。

それは兵士たちにとっては、それぞれ地元で送っていたいつもの「日常」が失われた生活でもあります。戦争とはそのような非日常の世界ですが、それに耐えるためには「日常」的欲望を充足させ、時折緊張を解く必要があります。スキンシップを伴う性的欲望がそのような「日常」のひとつなのは言うまでもありません。

おなじ性欲の処理でも、戦場での強姦はむしろ非日常の中での行為とみなすべきです。慰安所が「強姦を防ぐため」に作られたのは、兵士の「日常」をも管理すべき「軍」としては当然の発想だったとするべきでしょう(もちろん、それが正当化の理由になるわけではありません)。

そういう意味では日常や女性から隔離されて男だけで過ごすことになる軍隊のシステムや戦争自体が、すでに「慰安所」を必要としていたと言えます。「慰安婦」とは、くしくもその構造を言い当てられた名称だったのです。

とはいえ、日本軍が直接募集したり管理するわけには行かず、そのことが多くの場合民間業者にまかされていたのは事実です。そのため、軍はあくまでも受動的にそのような業者を受け入れたのだとする人たちもいます。

しかし、たとえば次の資料などは、軍が性病検査をしていたことを示しています
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/yuasa_ianhu.htm

それは、本来なら業者側でするべきことにもかかわらず、いわば消費者のほうで商品の品質を「管理」したことになります。先の文章を書いた元軍医は、「私は検査官という武器=権力を持って」いたので、「慰安婦」に堕胎させることもできたと言います。

そのような、一方的な権力の存在こそが軍の「管理」の事実として「関与」を示しているのです。つまり、たとえ軍が募集に直接関与していないにしても、そのことが即、軍の関与がなかったことになるわけではありません。否認者たちは、軍はむしろ強制的な募集を取り締まったと主張しますが、その「取り締まり」こそが、軍の主体性を示すものなのです。

確かに、軍による「強制連行」を文字通りの「強制」「連行」と考えるのなら、そのような意味での「強制連行」と朝鮮人「慰安婦」との関係は薄いと言えるでしょう。しかし、直接でなくとも、業者たちが「強制」的につれていく―「連行」したのなら、それは殺人教唆と同じく、そのようなシステムを作った主体が誰なのかを明らかするべきです。

さらにいえば、軍人によるあからさまな「強制」があまり見られないのは、少なくとも植民地においてはむしろ当然と言うべきです。なぜなら、植民地で支配側の軍がそのようなことをすれば、たちまち反発が起き、場合によっては暴動さえ起こしかねないことだからです。

多くの「慰安婦」否定論者は「植民地支配」の内実について、暴力的ではなく穏健だった、よい統治だったと強調します。それは所詮、体制に露骨に抵抗しない人々に限ることですが、たとえそれが総体的な「穏健統治」だったとしても、それはむしろ当然のことです。そして「慰安婦」問題に関しては、だからこそ「業者」が前面に出たと見るべきなのです。ある意味で自らの手を染めずに、植民地の人を、同族に対して加害者にしたてあげたことになるのです。

植民地にいた日本人は、朝鮮を支配しつつも恐れていました。それは、「支配」というものが、まさに支配ゆえ、常に抵抗と反発が予想されるものだからです。反体制の「思想犯」の取り締まりはしても、むやみに当地の人々を「連行」することは、「穏健政治」を標榜する限り、むしろできないことです。たとえ軍の関与を示す資料が存在しないとしても、そのことがただちに日本の関与を否定できる根拠にはならないのです。


旧台湾総督府
また実際に、「第二一軍司令部が慰安所をつくるという決定を行ない、内務省に400名、台湾総督府に300名の女性を集めてほしいと要請した経過を示す資料」(吉見義明「「強制」の史実を否定することは許されない」『世界』2007・5)があります。そういう意味でも、慰安所が「軍がつくった、軍人軍属専用の制度」(同)だったのは確かです。「慰安婦」の輸送に軍がかかわったことを、戦場だからその「移動」を軍が保護しただけだと言う人もいますが、前回紹介した田村泰次郎の小説「蝗」(イナゴ)はそれが単なる「保護」ではなかったことを語っています。

さらに、当時は内地・半島間の移動は厳しく制限されていて、国家の管理を受けなければなりませんでした。したがって移動するには今のパスポートのような、国家の許可証が必要でした。ところが日本人に対してはその送出を21歳以上の経験者としていたにもかかわらず、そのような制限が朝鮮や台湾では設けられませんでした(吉見義明「日本軍『慰安婦』問題について――『ワシントンポスト』の『事実』広告を批評する」『戦争責任研究』第64号、2009年夏季号)。

それは、はじめから植民地の女性たちを、より多く、「慰安婦」の対象として想定したためのことと言うべきでしょう。「慰安婦」になるまでの「強制性」に、たとえ朝鮮人業者や親が関与していたとしても、その枠組みはほかならぬ日本軍が作ったのです。もちろん、かかわった朝鮮人に、責任がないと言いたいのではありません。

2)「常識」・「合法」論は正しいか

「慰安婦」の存在を認めながらも、あの時はそのことが「常識」で「合法」だった、とする人もいます。・・・・・





【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(6) 新たな「補償」に出るべき三つの理由(上)
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年02月23日



これまで見てきたことでわかるように、朝鮮人「慰安婦」という存在は、まぎれもない歴史の「被害者」であることがあきらかです。しかし、日本の世論は今のところ新たな補償どころか90年代の「基金」に対しても否定的であるように見えます。たとえば「基金」を「歴史的事実の冷静な検証が欠けていた」ものとみなし、「1993年の河野官房長官談話には、日本の官憲が組織的、強制的に女性を慰安婦にしたかのような記述があり、誤解を広めた。だが、こうした事実を裏付ける資料は存在しなかった」(2011年10月17日付『読売新聞』社説)というのはその代表的な意見です。しかし、これまで述べてきたことからすると、このような意見の問題点は明らかです。
このような意見も背後で影響してのことと考えられますが、いずれにせよ「慰安婦」問題についての日本政府の公式の立場は、1965年の日韓条約で補償問題は解決した、というものです。そこで、今度は少しさかのぼることになりますが、1965年の条約について考えてみます。


1965年11月6日、日韓条約承認などが衆議院の日韓特別委員会で強行採決され、国会は混乱した
確かに、1965年、日韓両国は国交正常化をするにあたって過去のことについて話しあい、その結果として日本は韓国に合計11億ドルの無償・有償のお金や人的支援をしています。ところが、なぜかその賠償は「独立祝賀金」と「開発途上国に対する経済協力金」との名目になっていました。つまり、日本政府は、莫大な賠償をしながらも、条約ではひとことも「植民地支配」や「謝罪」や「補償」の言葉をいれてはいません。

つまり事実上は賠償金でありながら、「名目」は賠償とはかかわりのないようなことになっていたのです。このことは、90年代の「基金」が事実上は政府が中心となったものでありながら、あたかも国家とは関係のないような形を取ったことと酷似しています。

解放後、はじめての両国間の公式対話であった日韓会談は、成立までに14年間もかかりました。そしてそれが始まったきっかけは、広く知られているようにサンフランシスコ平和条約にあります。日本は敗戦後の連合国占領を終えて独立する際、サンフランシスコ条約によって戦争相手国に対する賠償を済ませました。

しかし、韓国はサンフランシスコ条約の署名国としての地位を認められませんでした。そのために、サンフランシスコ条約の方針によって個別の「講和」をすることになったのです。そして日韓間の交渉は、朝鮮戦争さなかに、当時の大統領イ・スンマンの要請で始まったといいます(高崎宗司『検証 日韓会談』など)。

朝鮮戦争のとき日本が後方でアメリカを支援する役割を担い、日本が戦争特需を謳歌したことはよく知られていることです。しかも、日本は戦争そのものにも深く介入していました(庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本――アイデンティティ、安全保障をめぐるジレンマ――」防衛省防衛研究所『戦争史研究国際フォーラム報告集 朝鮮戦争の再検討 その遺産』2007・3、チョン・ビョンウク「日本人が経験した韓国戦争――参戦から反戦まで」『歴史批評』2010・夏号、歴史批評社)。米軍の要請に従って通訳や運転などの軍属の仕事だけでなく、直接参戦して命を落とした人もいたといいます。

日本の参戦は、このときの日米韓が「反共」を理念にして固く密着していたことを教えてくれます。帝国崩壊後の日韓の新たな関係は、冷戦構造に深く加担することから始まっていたのです。

もっとも、そのような「必要」に乗じての会談ではあっても、有名な久保田妄言による会談中断に象徴されるように、対話はもっぱら元宗主国と元植民地国との対話としての緊張あふれるものでした。その一端を見るだけで、「植民地支配」の過去のことをお互いに強く意識しての対話だったことが伝わります。そして、韓国側は、植民地支配時代に日本に搬出された文化財を要求するなど、「植民地支配」による問題の解決を強く要求していました。

しかし、人的被害に対する要求は、1937年以降の、日中戦争における徴用と徴兵、そして突然の終戦によって支払ってもらえなくなった債権などの、金銭的問題が中心となっていました。つまり、1910年以降の36年にわたる「植民地支配」による人的・精神的・物的事柄に関する損害についてではなく(実際の日本の「支配」は「保護」に入った1905年からとするべきでしょう)、1937年の戦争以降の動員に関する要求だったのです。

決裂することもあったほどにお互い「植民地支配」を強く意識していながら、そういうことになったのは、韓日会談の契機がサンフランシスコ会談によるものだったからです。というのも、サンフランシスコ平和条約は、あくまでも「戦争」の後始末――文字どおり「戦後処理」のための条約だったのです。日韓会談の枠組みがサンフランシスコ条約にあったために、その内容は「戦争」をめぐる損害と補償について話す、ということになっていたのでしょう。

そして会談では、日本が残してきた資産と朝鮮が請求すべき補償金(対日債権、韓国人の軍人軍属官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)をめぐっての話し合いが中心だったようです。そして「請求権」に関して、基本条約の付随条約――「財産及び請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が結ばれたのでした。 

つまり、日本がこだわっていた朝鮮半島内の日本人資産は放棄され(アメリカが戦勝国として「接受」し、それを韓国に分け与えた形を取りました。これも「反共戦線」を作るためのアメリカの思惑が働いてのことのようで、アメリカが日本からもらうべき費用(引揚者の帰国費用など)をそのようにして肩代わりすることで、韓国の自立を助けたというのです(浅野豊美『帝国日本の植民地法制』)。

いずれにせよ、1965年の条約内容とお金の名目に「植民地支配」や「謝罪」などのことばが含まれなかったのは、そのときの韓国の「請求権」が、1937年以降の戦争動員に限るものだったためのことと思われます。そして、その賠償金はすべて韓国政府に渡され、国家が個人請求に応える形となりました。

ここであらためて日韓基本条約の文面を確認しておきます。

日本国及び大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び千九百四十八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(III)を想起し、この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した(強調は朴)。 

ここでは過去の日韓関係が具体的に触れられておらず、単に「歴史的背景」という言葉であいまいに処理されています。そして、後半の文面では、この条約がサンフランシスコ条約によるものであることを確認できます。

韓国が日本に対する賠償要求を1937年以降に限定したのは(明記しないにしても)、すでに指摘されているように「植民地関係は一次的に賠償要求の対象になりうる問題ではないと認識」(チャン・パクチン『植民地関係清算はなぜ成し遂げられなかったのか』248頁、2009)した結果だったはずです。

サンフランシスコ条約で連合国諸国――アメリカやイギリスやフランスが、日本の「植民地支配」を問題にしなかったのは、その会談が「戦争」をめぐる会談だったからで、その国々が、日本と同じく「帝国」を築いた国だったからにほかなりません。第二次世界大戦の終焉によって植民地から解放された国は多かったのですが、「植民地支配」のことはまだ議論の対象にならなかったのです。

何事かが「悪い」ことと認識されるのは、その状況を「問題」として認識してはじめて可能になります。第二次世界大戦当時、そしてその後も長い期間かけて、「植民地支配」――他民族を「占領」「支配」することは、「悪い」こととは認識されなかったのです。

とはいえ、現実的には1965年の条約で植民地支配に対する認識が盛り込まれなかったのは、韓国の請求が「アメリカの対日賠償政策の動きと連動して展開されるほかない制約のもとにいたから」(チャン・バクチン)でした。そもそも韓国がサンフランシスコ条約に参加できなかったのは、「署名国参加の可能性は莫大な賠償要求の放棄と連動される構造」のなかで「韓国政府の基本応力を越えた構造的結果」(同、248頁)でした。「韓日会談の目標は当初から特殊な過去の清算のためのものではなく反共のための友好的な韓日関係樹立にあった」(チャン256頁。強調は朴)というのです。

そういう意味では、韓日会談は、お互い「植民地支配」を意識しながらも、そのこと自体を「公式に」問題にはしなかった会談でした。そしてそれは同時代の構造と認識の限界ゆえのことでした。いわば、アメリカとソ連中心の世界の大国の力に背を押される形で、それぞれの言い分を十分には言えずに(日本側も、日本人の個人資産を取り戻せませんでした)終わった会談だったのです。

いずれにせよ、植民地支配を終えて20年の歳月を経て作られた条約に、ひとことも「植民地支配」や「謝罪」の言葉がなかった理由がここで分かります。

日韓基本条約は、少なくとも人的被害に関しては、「帝国後」補償ではありません。あくまでも「戦後」補償でしかなかったのです。

そういう意味では、日本は1945年の帝国崩壊後、「植民地化」した国に対して実際には公式に謝罪し補償したことがないと言えます。もっとも両国の首脳が会うたび謝罪をしてきたのは事実ですが、それは実にあいまいな言葉によるものでした。

1919年の独立運動の際に殺された人たちに対しても、関東大震災の時「朝鮮人」であるという理由だけで殺された多くの人々に対しても、そして「帝国日本」に従わないという理由で監獄に入れられたり過酷な拷問の末に命を落とした人々に対しても、一度も公式的には具体的に触れる機会のないまま今日まで来たのです。

そして、そのような犠牲者として「慰安婦」たちが今、わたしたちの前にいるのです。

とはいえ、・・・・・


【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(7) 新たな「補償」に出るべき三つの理由(中)
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年03月03日


日本は1990年代に、「補償金」を実質的に支払っています。しかし、残念ながら韓国に対してはその努力は十分に効をなしませんでした。以前書いたように、韓国の被害者の多くは受け取らなかったのです。受け取った人もいるのだから、受け取らないのは仕方がない、日本はやるだけのことはやった、と考える方も多いでしょう。
そのことについては改めて書きますが、ともかくも今は、基金の補償金をもらっている朝鮮人慰安婦は「半分にいたらない」(和田春樹「日本の戦後和解の努力とアジア女性基金」『過ぎ去らぬ過去との取り組み――日本とドイツ』佐藤健生、ノルベルト・フライ編、岩波書店、2011・1)ことを思い起こすべきだと思います。

「基金」は、1990年代の考え方――1965年の条約と補償で「法的責任」は済んだものとの考え――に基づいて「道義的責任」と意味づけました。そして、それを「国家補償」でないとして基金を批判した人々は、補償の主体が「民間」になるのは責任を「あいまい」にするものだとして批判しました。しかしあいまいだったのは、補償主体ではなく、国家補償に近い補償をしながらも政府のかかわりを明確に示さなかった、「態度」のほうだったといえます。


アジア女性基金の解散について記者会見した後、アジア各国の女性記者の質問に答える村山富市理事長=2007年3月6日
アジア女性基金の補償事業には、52億円近くものお金が使われました(和田春樹、同)。そのうち46億円以上、つまり90%に近いお金が政府のお金でした。その金額からしても、あの時の補償の主体が「国家」であること(むろん、それは「国民のお金」でもあります)は明らかです。

基金のもうひとつのミスは、「慰安婦」たちを区別しなかったことにありました。「慰安婦」がいたとされる国家は、日本、台湾、韓国、フィリピン、インドネシア、オランダの6つの国と地域でした。彼女たちはみんな同じ境遇のひとであるかのように扱われましたが、実はその境遇はみんな違っています。

インドネシアやフィリピンの場合は敵の「占領地」――戦場での出来事でした。慰安婦の中になぜ「オランダ」の人がいるのか、不思議に思った人もいるでしょう。言うまでもなく、オランダは、インドネシアを植民地支配した「帝国」でした。朝鮮や満州に多くの日本人がでかけていったように、植民地のインドネシアにも多くのオランダ人がいたのです。そして、そこに入ってきた日本人によって、いわば征服の対象として、オランダの女性たちは「慰安婦」にされたのです。

一方、韓国や台湾の「慰安婦」は、植民地の女性でした。すでに書いたように、構造的には「同志」的な関係でもあって、朝鮮人「慰安婦」は被害者でありながらオランダやフィリピンの「慰安婦」たちとはそのポジションが根本的に違っています。同族でさえも、「慰安婦」たちの経験は、場所と時間によって様々です。

にもかかわらず、・・・・



【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(8) 新たな「補償」に出るべき三つの理由(下)
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年03月16日
「韓国併合100年」後を見通す
日韓「慰安婦」問題をどう解く?
外交朝鮮半島歴史・思想

もうひとつ、新たな措置に出たほうがいいと思う理由があります。
2007年、欧米の各国では「慰安婦」問題をめぐって日本は謝罪すべきとする国会決議が次々と出されていました。それは、アムネスティに対する支援側の働きかけで行われた、韓国、オランダ、フィリピン人の「慰安婦」の証言が「効をなした」結果でした。アムネスティが、「慰安婦」問題を「人身売買のひとつ」と受け止めたのであり、欧州議会の議決はそれを受けての支持だったと言うのです(羽場久美子「欧州議会は、なぜ従軍慰安婦問題非難決議を出したのか」『学術の動向』2009・3)。


安倍晋三首相(当時)に謝罪を求める元「慰安婦」や人権団体のメンバー=2007年4月26日、アメリカ・ホワイトハウス前
あの決議は、同じ年の春、安倍晋三首相(当時)が「慰安婦」問題をめぐって「強制性はなかった」と発言して起こったことの影響もあるように思われます。首相に対する批判が高まり、安倍氏はアメリカで「謝罪」しました。

しかし、日本の一部の議員たちはアメリカの新聞に「FACT」のタイトルで広告を出して、その「謝罪」を否定するかのことをしました (『ワシントン・ポスト』2007.6.14)。そのことこそが、国会決議成立を防ぐのではなく、むしろ成立させるほうへ導いたものと考えられます。

安倍氏は、「広い意味での強制性はあったが狭い意味での強制性はなかった」としました。このような考え方については、以前書いたので、ここでは繰り返しません。

しかし、あることの「責任」が問われているなかで加害者に望まれているのは、「悪かった」との一言であるはずです。ことの「事実」に関する釈明は、たとえ本人が責任を感じながらの釈明だとしても、責任回避と受け取られるほかなく、被害者の、和解のための前向きの気持ちを縮小させるだけです。

そして、実際安倍氏は、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本も例外ではない」(産経新聞、2007・4・27)として、悪いのは日本だけでないとしました。この言葉の中心をどこにおくかは一概にいえませんが、少なくともこの言葉が別の対象の「責任」をも喚起させようとするものであることは確かです。

日本は、自らの考える「ファクト」を世界に突きつけてみても効果がなかった2007年の事態を、深刻には受け止めなかったようです。そして、当時の決議を、拘束力のないものとして無視し続け、今日に至っています。2007年に、「日本の弁護を買って出ることの多い人物ですら」「安倍首相を擁護せず、批判する方に回」(北岡伸一、「外交革命に日本はどう立ち向かうか」、中央公論、2007.9)ったにもかかわらず、です。そしてなお、「慰安婦」問題を否認する人々は、「真実をアメリカや欧米に知らせるべきだ」と主張しているのです。

しかし今や、「日本は『慰安婦』問題に関して謝罪をしていない」との認識は、韓国や被害国だけではなく、「世界の認識」になっています。

アメリカ下院の決議を見ると、「慰安婦」制度に関して「若い女性たちの確保を公的に行った」もので「その残酷さと規模において前例を見ないもの」「集団強姦、強制中絶、屈従、身体切除、死や結果的自殺にいたる性暴力」「20世紀でも最大の人身取引事件のひとつ」と認識していることがわかります。

そして「日本の公人、私人が慰安婦の苦労に対して日本政府が真摯な謝罪と後悔(お詫びと謝罪<訳注>)を表敬した1993年の河野洋平内閣官房長官の『慰安婦』に対する声明を弱める、あるいは撤回する欲求を表明」したと理解しているのです。

もっとも、この指摘は「基金」を認めない韓国とは違って、「民間基金たるアジア女性基金の1995年設立をもたらした日本の公人と民間人の勤労と情熱を賞賛」しつつ、「アジア女性基金」が「日本の人々からの『償い』を慰安婦に届けるべく5700万ドルの寄付金を集めたもの」で、「政府によって着手された、資金の多くを政府に負う民間基金」であることを認識したうえでのものです。

そのうえで安倍氏が「強制性を否定する発言を行った」としながら、「強制性に対する事実関係はアジア各地の被害女性から証言がなされており」「最高裁判所の判決でも認定」されたもので、日本政府は謝罪したとするが「被害女性たちの納得を得る謝罪ではなかった」としているのです。

そしてその根拠として、日本が「国家の責任を明確かつ公的に表明したうえでなされなかった」「国の責任を否定する言説が閣僚を含めて繰り返された」「教科書からの激減をよかったとする閣僚の発言など」「謝罪が全地域の被害者個人に直接届けられなかったこと」をあげています(以上、引用は日本の戦争責任資料センター『「戦争と女性への暴力」日本ネットワークなどの提言――日本軍慰安婦問題に対する謝罪には何が必要か』2007.7.31)

決議は、被害女性でも受け取った人がいることを知らないように見えます。そのほかにも、指摘の多くは支援団体の主張と重なっていて、必ずしも事実とは言えないところもないわけではありません。支援団体と異なるのは、「基金」をともかくも謝罪・補償の主体として認めていることぐらいです。そういう意味では、このような決議内容に問題がまったくないとは言えません。

しかし、重要なのは、・・・







【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(9)―― 支援者たちは「慰安婦」問題をどう理解していたか
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年04月04日


「慰安婦」問題に否定的な考えの問題点を見てきましたが、「慰安婦」問題が20年もの間解決されないのを、単に「慰安婦」の否定者たちや日本政府のせいだけにすることはできません。
この20年間、「慰安婦」たちの裁判やデモを含む支援者たちの闘いは、献身的なものであり、その成果もめざましいものでした。

しかし、そこには根本的な問題点もありました。今後日本政府が韓国政府との「協議」に応じ、なんらかの措置に出ようとした場合、「慰安婦」や支援者たちとの間には「謝罪と補償」の形をめぐる話し合いや「合意」が必要となってきます。

そこでもふたたび、これまでの対立と混乱が繰り返されるとしたら、おそらく永遠に、「慰安婦」問題は解決できずに終わってしまうでしょう。そして、韓国の教科書には、「日本はついに謝罪をしなかった」と記録され、次の世代にまで教育され、解放後70年も続いて来た日韓の葛藤を修復する機会は消えてしまうはずです。

そのような不幸な事態を避けるべく、ここではこれまでの20年の「運動」のあり方について考えてみることにします。

(1)「被害者」理解

支援者たちは、「慰安婦」を「性奴隷」と規定してきました。確かに、これまで見てきたように(連載(3)「朝鮮人「慰安婦」とは誰か」)自分の意志を通すことができなかったという点で「慰安婦」たちは奴隷だったといえます。「自由意志」であるかのように見えても決してそうではなかったことも、すでに見てきたとおりです。


元「慰安婦」の遺影を掲げ、黙祷する集会の参加者=2011年12月14日、福岡市天神
しかし、「慰安婦」の「自由」を拘束した主体を「軍」に限定するのは必ずしも正確ではありません。つまり、彼女たちを人身売買などの手段で集めてきた業者たちもまた、彼女たちの自由を拘束したもうひとつの主体だからです。主体がはっきりしない形で語られ、「軍人」の仕業としてのみ語られる慰安所内の「暴力」の主体が、実は業者だったことも数々の証言から浮かび上がります。

何よりも、「慰安婦」たちを、自由を持っていない意味での「奴隷」と規定する時、彼女たちの「主人」はまずは「業者」であるはずです(もっとも、その業者が「主人」としての役割を充分に果たせなかったことは先に見たとおりです)。

たとえば遊郭で働かせられていた女郎たちは、誰かに身請けされないかぎり、そこを出ることはできませんでした。その彼女たちを、性を提供する「奴隷」と呼ぶことは可能ですが、その時の「奴隷」性は、お金を支払って彼女たちを買う男性ではなく、その主人―女衒との関係で言える言葉のはずです。つまり、性の売買において、数百名を相手にしなければならなかった過酷な状況において、性の買い手を非難することは可能でも、売り手―彼女たちを労働させて儲けていた意味での「主人」の存在を忘却・隠蔽するべきではありません。

多くの「慰安婦」たちの証言は、「日本」を批判し、時折自分を売った親などを怨みますが、自分たちを連れて行き、管理した存在―「業者」(日本人もいたようです)については多くを語りません。その結果とも言えますが、「慰安婦」が受けてきた凄惨な状況を作ったのはすべて「日本軍」と認識されるようになりました。「性奴隷」という言葉は、その責任主体をより明確にしなかったという点で問題があったのです。

しかし、これまで政府・国会決議を目指してきた支援者たちは、そのことを認識できなかったか、無視してきました。「性奴隷」との言葉は欧米や当該国に日本軍の残酷さをアピールするのには効果的でしたが、必ずしもフェアな闘いだったとは言えません。なぜなら欧米諸国は、「人身売買」の主体も「日本軍」であるかのように理解しているからです。

さらに、日本人・朝鮮人・台湾人は、奴隷的ではあっても、基本的には軍人と「同志」的な関係を持っていました。つまり同じ「帝国日本」の女として、軍人を「慰安」することが彼女たちに与えられた公的な役割であって、そこでの性の提供は基本的に「愛国」の意味を持っていたのです。彼女たちに対する「日本国家」の罪は、むしろ、性の提供に空疎な意味付けをもたせて苛酷な状況に耐えさせたことにあります。

すでに書いたように、中国やオランダなど、戦争相手の「敵国の女」と、本国・植民地・占領支配下の女性たちは立ち位置が違います。彼女たちが一方では「看護婦」でありえたのもそのためのことにほかなりません(朴裕河「「あいだ」に立つとはどういうことか――「慰安婦」問題をめぐる90年代の思想と運動を問い直す」『インパクション』171、2009、林博史「看護婦にされた慰安婦たち」アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集II 南・北・在日コリア編・下』明石書店、2010)。

ある軍医は「私が「慰安婦」を初めて見たのは私が居留民の女性の衛生救急教育をしたときです。そのとき私は「朝鮮人でも包帯を巧く巻けるのか」とか「お前は日本人と天皇陛下を同じくして嬉しいんだろう」ぐらいに見くびっていました」と告白しています

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/yuasa_ianhu.htm)。そのような場面がありえたのも、そのような構造の中でのことです。

「慰安婦」が「看護婦」をかねていたことをもって、「「看護婦」とすることで、当局が慰安婦の存在を連合国側から隠ぺいしようとした可能性」(共同通信、2008.7.31)を読んだり、「正式に軍属にすることで慰安所の存在も隠し一緒に帰る便宜をはかるためのもの」とする解釈もありますが、軍医の証言をみるかぎり彼女たちは戦時中にすでに看護婦の補助業務をやっていたものと考えられます。

しかし、「性奴隷」の言葉からは、「慰安婦」をめぐるそのような複雑な状況は見えてきません。「同志」的関係を見ることが「日本軍」の責任を免責することになるわけではないのに、です。表面上は「同志」の関係を装いながらも「朝鮮人でも包帯を巧く巻けるのか」と考える差別感情は存在していたのであり、そのような感情が彼女たちを「もの」として扱わせていたことは、既に見てきたとおりです。

そのような隠れた差別感情を見るためにも、「慰安婦」という存在の多面性は、むしろ直視されるべきでした。そのことこそが、責任を負うべき責任主体の、被害者との関係性をより明確にできるからです。「同志」的関係を覚えている人々の反発に応えるためにも、また、彼らの内なる差別を指摘するためにも、そこにあった「同志的関係」は認められる必要があったのです。

しかし、支援者側の運動家や研究者たちは、そのようなことに応えるのではなく、それとはまったく違う境遇―悲惨な立場の人々のケースを強調することに終始しました。それは、明確な「屈従」でありながら外見的には「自発的な協力」の形を強いられた「植民地」の複雑な構造を無視するものでした。

しかし、韓国や台湾など元植民地の「慰安婦」問題の解決がひときわ難しかった理由もそのあたりの状況から探ることができるはずです。何よりも、一見「ノイズ」に見えるそのような事柄を排除したことは、「同志」的側面のみにこだわろうとした人々の反発を招き、いまだ対立するままの状況を作りました。結果として、解決を早めるのではなく、かえって難しくする方向へと導く結果になったのです。

(2)「加害者」理解

被害者―「慰安婦」についての理解が十分ではなかったように、加害者―「日本軍」や「日本国家」についての理解も万全だったとはいえません。・・・・







【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(11)―― 支援側の「現代日本」批判
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年05月15日
「韓国併合100年」後を見通す
日韓「慰安婦」問題をどう解く?
外交朝鮮半島歴史・思想

支援側が、「慰安婦」問題の否認者たちと政府をほとんど同一視していたのは支援側が望む「日本社会の改革」の気持ちが政府にないと考えたからでした。もっとも、差別感情と植民地主義的意識を維持している人が政府内にいることは確かです。しかし、政治家や官僚のうちの多くの人が、「戦後民主主義」の教育を受け、その結果として、(運動家のように詳細を知らないまでも)必要な程度には「謝罪」の気持ちを持ちうることは軽視していたのです。
前回見たように、反対があったなかでともかくも自民党も含む「閣議了解」を得たことは、自民党内に「謝罪」の気持ちがあったことを証明しています。何よりもそのことは、「政府」という「国家」機関が補償の「主体」になっていたことを物語るものでした。最初は民間基金としながら、「国家」が責任を負うことを求められ、形の上では「民間」(国民)にしながらも実のところ「政府」が「責任主体」になっていたとも言えるでしょう。


5月5日、ソウルに開館した「戦争と女性の人権博物館」。元「慰安婦」らが毎週続けてきた集会が1000回を迎えたのを記念し、ソウルの日本大使館前に建てられた少女像と同じ像も飾られている
たとえば、「基金」の補償金と一緒に「慰安婦」たちにわたされた「首相の手紙」は、「個人としての首相」のものだったことが問題視されてきました(ホンダ・マイクインタビュー「特集 今なぜ慰安婦問題なのか」、「論座」2007・6)。しかし、それはまさに、「首相」という代表性を帯びさせつつも「個人」性を入れることこそが重要だったからと言えます。

つまりそれは国家賠償が済んでいると考えた「官僚」ならではの苦渋の「手段」だったのです。問題はそのことをどのように受け止めるかにありました。たとえ政府が「国家」としての代表性を意図しなかったとしても、そのことを「国家」を代表するものとして受け止めることも可能だったはずです。

「慰安婦」たちにたいする賠償額を裁判で決めていたとしたら、それぞれの境遇に応じて賠償額が異なっていたはずです。ある意味では、そのような「あいまい性」と「多様性」こそが朝鮮人「慰安婦」をめぐる、もっとも真実に近い状況でした。「基金」を作ったことは「妥協」「あきらめ」と言われましたが、その妥協は「謝罪をしないための」妥協ではなく、むしろ「謝罪をするための」妥協だったとも言えるのです。

そのようなことがよく見えなかったのは、もちろん政府のあいまいな態度――実際には補償主体になっていたことをはっきり示さなかったこと――にあります。いずれにしても、支援側の批判は、基金が果たしてどういうものか、また、そのほかに実現可能な代案はあったのかが検討されないままのものでした。

比喩的に言えば、「基金」は、「慰安婦」問題では謝罪したいと考えても、植民地支配は「近代化」には貢献した、と思うような人でも参加しえたものでした。そして基金問題は、そのような人々の参加を拒否するのかどうかの問題だったとも言えます。「基金」に反対することは、そのような謝罪は受け付けない、というようなものでした。

もっとも、植民地支配への「徹底した」謝罪を求める立場からは、そのような姿勢は不十分なものと言うほかありません。しかし、「慰安婦」問題は、政治的に、あるいは学問的にたやすく接点を見いだせるものではありませんでした。たとえば日韓併合条約無効論は、韓国側からの問題提起後10年以上経っていますが、いまだ接点を見いだしていません。

そのほかのことにおいても二次までの歴史共同委員会がいまなおそうであるように、歴史認識に関して国家間(そして左右の勢力間)の合意を得ることは簡単なことではありません。わけても様々な見え方があった「慰安婦」問題において認識上の「合意」を見いだすことはなおさら難しかったはずです(現に、「慰安婦」問題をめぐる議論は20年経った今でも続いています)。

そういう意味では、「慰安婦」問題の解決を本格的な歴史認識論争をめぐる理想的状態と結び付けるべきではありませんでした。早くも出ていた否定・否認側の声を押しのけて当時の政府がともかくも「道義的責任」を果たそうとしたのは、いまから考えれば、むしろ評価すべきことだったのです。

国民基金への批判とともに支援側が力を注いだのは・・







【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(12)――「世界運動」の効果
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年05月21日
「韓国併合100年」後を見通す
日韓「慰安婦」問題をどう解く?
外交朝鮮半島歴史・思想

ともかくも支援側は日本政府や意見の違う否定側との接点をさぐることより、日本の外部、つまり韓国や世界と連帯することにより多くの労力を割きました。つまり「日本」に見切りをつけて、被害当該国やその他の国家に訴え、あるいは連携して、外部から日本政府に圧力をかける戦略を取ったことになります。
世界を相手に運動を始めたころ、「『慰安婦』問題だけでやっても無理」だから「人身売買とリンクさせなさい」との忠告を国連の関係者などから受けたといいます。最初は国連の「拷問禁止委員会」も「現在」のことだけをやっていて、「過去」の「慰安婦」問題には関心が低かったというのです。

そこで運動家たちは、2004年に「ストップ女性への暴力」とのキャンペインをスタートさせ、「紛争下の女性に対する暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れることができました。各国の支部がこの問題に取り組むようになったのはその後のことということです。

そして2007年11月、アムネスティの主導で「慰安婦問題解決のためのスピーキングツアー」が実施されるようになり、オランダ、欧州連合(EU)、ドイツ、イギリス、カナダなどを被害者たちが訪問し、証言することが続きました。その結果、11月から12月にかけてオランダ、カナダ、EUの各会議で「慰安婦」決議が採択されました。

このような経過が、運動家たちの地道な活動の結果であることは間違いありません。

しかし、「人身売買」とリンクさせたことは、以前指摘したように、本来ならば「慰安婦」問題を考える際に度外視できないはずの「業者」の問題を隠蔽することになりました。いまや西洋諸国は、「慰安婦制度は20世紀の人身売買の最も大規模な例の一つ」としながら「皇軍の行為を言葉を濁さず、明確に、公式に認める」(「欧州議会決議」、引用は梶村太一郎「歴史認識の不作為と正義の実現 欧州議会対日『慰安婦』決議を読む」「世界」2008・6)ことを要請しているように、人身売買自体に日本軍がかかわったかのように認識しているのです。

たとえ業者を軍などが「選定」(吉見義明「『従軍慰安婦』問題研究の到達点と課題」「歴史学研究」2009・1)したとしても、必ずしもそのすべてがそうだったわけではありません。さらに、動員の実態が「人身売買」であったことを承知して日本軍が指図したのでないかぎり、「人身売買」の主体を「日本軍」とするのは必ずしも正確とは言えないでしょう。。

そして現在の問題としての「紛争下の女性への暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れたのは、植民地問題を捨象することでもありました。しかし、日本の「戦争」は 「帝国」主義の中での出来事にほかならず、そのような運動方針は、自ずと問題の焦点を縮小することになったのです。多くの「西洋」諸国の同意を得られたのも、図らずもそれゆえのことと言えるでしょう。

2007年の各国の議会での決議は、戦争における女性の被害を世界に訴え、共感を広めたことでは大きな成果でした。しかし欧米諸国の決議は、あくまでも運動が「植民地支配」の影を消した結果にほかならず、そこで欧米諸国は、自らが問われているとは考えないまま、安心して「日本」に「正義」の判定を下すことができたのです。

支援側が、戦争による女性への暴力を犯罪とする認識を世界に広めた功績は大きいと言わねばなりません。しかし、「慰安婦」問題がほんとうに必要としたのは、世界が運動側の考え方を共有することではなく、さらに日本社会内の改革でもなく、ともかくも、日本内における「謝罪と補償が必要」との「合意」だったはずです。

そして「謝罪と補償」の主体が「日本」である限り、そのとき話し、説得するべき対象は、ほかならぬ「日本」の「右翼」や「政府」でした。運動側の考える「正義」の形を、「日本」のすべての人々が共有する「理念」にすることを目標にするならなおさら、「保守」や「政府」を説得し、認識を共有するやり方こそが必要だったはずなのです。しかし支援側は、そうする代わり、被害国や世界に助けを求めることによって、「現代日本」を変えようとしたのです。


朝鮮人元「慰安婦」のビデオ証言を聴く「女性国際戦犯法廷」=2000年12月8日、東京・九段会館
2000年の女性国際戦犯法廷は、世界を相手にした「連帯」の大きな成果と言えますが、その試み――昭和天皇を「犯罪者」にしたことは、むしろ解決を遠ざけたことだったと言わざるをえません。というのも、それは「天皇制」や帝国の構造を深く考えることはしないでも「慰安婦」問題に「謝罪」する気持ちがある人々の反発を買うことでもあったからです。

実際に、・・



【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(最終回)―― 実践可能な解決を目指して
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年06月07日
「韓国併合100年」後を見通す
日韓「慰安婦」問題をどう解く?
外交朝鮮半島歴史・思想

(1)最近の動向
 「慰安婦」問題が解決できなかった原因を「慰安婦」と支援団体は「日本政府」の「責任回避」に求めましたが、そのような認識は、「政府」に対する不信が作ったものでした。

 もちろん、すでに述べたように、日本政府ははじめから、補償金を国庫から全額を出すか、支払う主体が形のうえでは「民間」でも、実際には政府が最後まで責任主体となる「政府中心の補償」であることを明確に示すべきでした。「基金」の解散後も日本政府は、市民団体に委託する形で、政府資金を使っての元「慰安婦」のケアと支援を行っています(外務省、特定非営利活動法人CCSEA朋ホームページなど)。

 韓国の支援団体の場合、現代日本に対する知識と情報が十分でなかったことが、この問題に対する理解を狭めました。ただしそれは既存の日本観に大きく規定されてのものだったのですから、韓国における日本専門家の責任も大きいと言うべきかもしれません。

 何よりも、この問題を、日本政府をはじめとする関係者に直接取材することなく支援団体からの情報にのみ頼って報道した韓国のメディアの責任は大きいと言わねばなりません。もっとも、これらのことは、「慰安婦」問題を否定する日本の人々に影響されてのものでもありました。

 最近、日本政府は、「慰安婦」問題をめぐって新たな補償に出る意志があることを表明しました(2012・5・12付「北海道新聞」)。

 それによると「斉藤勁官房副長官が四月に訪韓した際、韓国大統領府に対し、従軍慰安婦問題の解決策として、野田佳彦首相による謝罪や補償などを打診してい」ました。ところが「韓国側は日本側に慰安婦支援団体の意向を聞くように求めるなどして難色を示し、合意に至らなかった」というのです。

 これは、2011年12月の日韓首脳会談の時、韓国大統領が「慰安婦」問題の解決を求め、その後も再三この問題に言及したことを受けとめてのことと思われます。

 韓国の李明博大統領は2012年3月、核安保サミット会議前の記者会見で、「慰安婦」問題をめぐって「法的解決より人道的解決」を支持する発言をしました。しかし挺身隊対策協議会がさっそくこの発言を強く批判する声明書を発表し、4月には発言の背景と意図をただす公開質問状を出していました。

 さきの記事が記す韓国の「難色」は、そのことを受けて韓国政府が一歩引いたものと考えられます。韓国における「慰安婦」支援団体の力を見せつける事態でした。

 さらにいえば、韓国政府のこうした姿勢は、この20年の間、韓国において支援団体の認識(謝罪しない日本・立法解決のみ解決の道)がそのままメディアの記事となり、「国民の共通認識」になっていった結果でもあります。2012年暮れに大統領選挙を控えていることもあって、「国民の常識」に反することをあえてすることを避けるためとも言えます。


ソウルの日本大使館前で開かれた元日本軍「慰安婦」たちの集会。このときが通算1000回目=2011年12月14日、AP
 その後、韓国政府は国防相の訪日を延期し、日中韓FTA交渉にも消極的になりました。このことは、現在の日韓外交において、「慰安婦」問題が占めている位置を象徴的に示すものです(注:その後、韓国の新聞でも上記のことが報道され、日本の玄葉光一郎外務大臣は、そのような交渉はなかった、と否定しましたが、その否定は韓国との水面下協議がうまくいかなかったためのものと考えられます)。

 一方で日本政府は、2011年の暮れ、ソウルの日本大使館前での「水曜デモ」1000回を記念して大使館の前に立てられた「平和の碑」(「慰安婦」少女銅像)を撤去することを要求しています。

 さらに、最近ソウルに作られた「戦争と女性の人権博物館」について、日本の駐韓大使館は「不適切な表記は問題だ」として韓国外交通商部に抗議しました。「外務省によると展示には、日本政府が全面的な責任を認めず、法的な責任を果たそうとしていないなどとする記述があり、駐韓大使館は問題があると指摘した」(「産経ニュース」、2012・5・15)というのです。

 これを受けて韓国のメディアは、この博物館の建立に韓国政府が支援したことに日本大使館が抗議したことを報じながら、「不当な言いがかり」であると報じています(2012・5・18付「中央日報」)。

 同じような葛藤はアメリカでも起きていて、最近はアメリカのパリセーズパーク市に立てられた「慰安婦」記念碑を撤去するように自民党の議員たちが市長に撤去を要求するようなこともありました。現在(2012年6月はじめ)、日本のネットでは撤去を求める署名運動も行われています。以前からこの問題を欧米に知らせるとしてアメリカの新聞に広告を出してきた韓国の歌手は、3月に続いて5月末にもニューヨークタイムズ紙に広告を載せ、日本のネットはそのことを激しく批判しています。十数年前からの日韓の不信と葛藤は、以前よりも激しい形で多くの市民たちを巻き込みながら続いているのです。

(2)解決に向けて

 先の記事によると、日本政府が、「打診」をした内容は「首相による大統領への謝罪」「大使による『慰安婦』への謝罪」「日本政府による補償」が「検討できる」ということだったようです。長い沈黙を破ってのこのような提案に対して韓国政府が渋ったのは、言うまでもまく、日本政府が考える「補償」が、「政府単独」のもの――つまり支援団体が主張する「法的責任」を取るような形ではないことによるものだからです。

 しかし日本政府は、あきらめずに協議を続けるべきです。なぜなら、すでに述べたように、ともかくもこの問題の解決は、日本のためにもなることだからです。90年代の日本政府の「基金」案が反発を呼んだのは、謝罪や補償の形を決める過程で「当事者」が排除されたことにもありましたから、支援団体や「慰安婦」、そして両国の識者を第三者として交えて協議をはじめればいいでしょう。

 そして、解決案をめぐる合意に達して「謝罪」をすることになるのなら、今度こそより「公式」なものにするほうがいいと思います。この問題が「慰安婦」という存在として現れた「植民地支配」問題であることを再認識し、1965年の日韓基本条約には植民地支配に対する謝罪が含まれていなかったことを示すべきです。

 そのとき、朝鮮を植民地にして支配していた時に犠牲になったさまざまな人たち――3・1独立運動万歳事件、関東大震災、兵士に動員されての戦争、その後の日常的拷問などによって命を失った――に対する気持ちをその「謝罪」に込めることができたら最高の形になるはずです。そのことは、世界が現在形として共有する「謝罪しない日本」像を改める機会にもなるはずです。そのとき、「国民基金」は、韓国人「慰安婦」に対する支給状況など、未公開の資料を公開したらいいと思います。

 日本政府が「政府国庫金」で補償しようとする場合、依然として問題を否定する人たちが多い中で、それを押しての試みであることを評価し支えることが、日本の支援側に望まれます。

 もっとも、支援側は、「慰安婦」問題を「戦争」犠牲者とすることで運動の成果をあげてきましたから、「植民地支配」の問題にすることに抵抗があるかもしれません。しかし、いくつかの国々の中で、なぜ韓国だけがいまだ「問題」として残っているかを考えるべきです。韓国の「慰安婦」が「基金」を「涙金」と受けとめたのは、過去に受けた「差別」経験と記憶ゆえのことです。つまり、「韓国」の「慰安婦」たちには「誇り」に対する意識がより高かったのであり、だからこそ「同情」を警戒し、「反発や抵抗」が強かったのです。

 そもそも、「基金」成立のとき、その受け止め方をめぐっては「激論」がありました(花房恵美子、シンポジウム「『慰安婦』問題の解決に向けて」資料集、2012・3・10、同志社大学)。ならば、「激論」の末に否定された十数年前の人々の考えを今あらためて振り返るべきかもしれません。

 韓国の思いを受け止めてのものとはいえ、日本の支援側は、誤解と不信の中で日本政府の試みを実らせませんでした。これ以上遅くなる前に、不完全に見えても実践可能な解決を目指すべきではないでしょうか。支援側の理念が「アジアの平和」を目指すものだったのは確かでも、20年の運動は、残念ながら「平和」ではなく「不和」を生み続けてきました。

 今度こそ、日本政府がより完璧な「謝罪と補償」に出られるように政府を支え、その試みが実るよう、韓国との間で「架橋」の役割をするべきです。それは、韓国からもっとも信頼されている立場だからこそ可能なことでもあるのです。

 韓国政府も、「立法解決」が現実的には見込みが薄いことを直視し、すこし前向きになったように見える現在の内閣が変わってしまう前に、否定者たちの攻撃にあってせっかくの日本政府の試みが頓挫しないように協議に臨むべきでしょう。

 韓国国民のほとんどが支援団体の考えと姿勢を共有している中でそれとは異なる「人道的措置」を受け入れるのは勇気の要ることです。しかし、単なる政治的決着ではなく、誤解と偏見が増幅させた不毛な対立を終息させ、日韓関係の新たな扉を開けるよう、リーダシップを発揮するべきです。選挙や個人的ポジションへの影響を恐れるのではなく、「慰安婦」問題の解決に本気で乗り出すことが切実に望まれます。

 そのとき韓国のメディアは、この20年間の経緯や「慰安婦」問題をめぐって日本がやってきたことを韓国市民に広く知らせる必要があります。そのことは韓国政府がリーダシップを取りやすいように支えることでもあります。遅きに失した感はあっても、90年代の外務省関係者、政府関係者、基金関係者、「基金」を受領した「慰安婦」たちなどに広く取材し、この問題に関する韓国の偏った認識を是正するべきです。

 それは日本のためではなく韓国のためです。基金が多くの関係資料集を出していること、ホームページもたちあげて運営していること、受領者たちをいまだ支えていること、さらに、日本の支援者たちの並々ならぬ苦労も知られるべきです。日本政府の意図と可能性、そして限界を公平に知らせることこそが日本政府を動かし、この問題の解決につながるのです。

 韓国の支援団体は、日本内で「立法解決」の可能性が低いことを直視するべきです。そして日本大使館前の銅像の意味も再考されねばなりません。この碑は

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