Tuesday, August 27, 2013

Three Alls Policy? 三光作戦 it is just Chinese propaganda word


Three Alls Policy
From Wikipedia, the free encyclopedia
The Three Alls Policy (Japanese: 三光作戦, Sankō Sakusen; Chinese: 三光政策; pinyin: Sānguāng Zhèngcè) was a Japanese scorched earth policy adopted in China during World War II, the three "alls" being "kill all, loot all, destroy all"[1] (Japanese: すべてを殺す、すべてを燃やす、すべてを略奪; Chinese: 殺光、燒光、搶光). This policy was designed as retaliation against the Chinese for the Communist-led Hundred Regiments Offensive in December 1940.[2] Contemporary Japanese documents referred to the policy as "The Burn to Ash Strategy" (燼滅作戦 Jinmetsu Sakusen?).[2]
The expression "Sankō Sakusen" was first popularized in Japan in 1957 when former Japanese soldiers released from the Fushun war crime internment center wrote a book called The Three Alls: Japanese Confessions of War Crimes in China (Japanese: 三光、日本人の中国における戦争犯罪の告白, Sankō, Nihonjin no Chūgoku ni okeru sensō hanzai no kokuhaku) (new edition: Kanki Haruo, 1979), in which Japanese veterans confessed to war crimes committed under the leadership of General Yasuji Okamura. The publishers were forced to stop the publication of the book after receiving death threats from Japanese militarists and ultranationalists.[3]

三光政策是日本帝國陸軍、特別是華北方面軍(北支那方面軍)所行的燼滅作戰(燼滅作戦,或稱燼滅掃討作戦)在中文中的稱呼,最早见于1941年刊行的《解放日报》。而在2004年7月,日本防衛廳承認二次大戰時史料中,日本帝國陸軍步兵第二二四聯隊《冬季山西肅正作戰戰鬥詳報》(冬季山西粛正作戦戦闘詳報)在山西省展開的燼滅作戰及撒毒指示為真[1][2]。
燼滅作戰是一种暴力政策,以中國華北為中心,具体指战争中对平民及非武装人员实施杀光、烧光、抢光的政策,类似政策也见于其他战争状态下的国度。
所謂「殺」,即是指將鄰國的任何人類、軍隊、降兵、潰散兵馬以及手無寸鐵的民眾,大肆屠殺;
而「燒」,即是指將建築物燒燬,藉糟蹋建築物的價值以削弱鄰國的經濟產業力量(鄰國必須消耗時間及資金以作重建、抑或完全放棄建築物遺跡,造成土地的虛耗);
而「搶」,即是指直接掠奪鄰國的財物以重創鄰國的經濟,造成經濟上的困境。
在此三字再各自加上「光」字作為後綴,即是在這般的行為基礎之上再次強調「直到窮光盡絕」的狀態。
日本史学界有认为三光政策为虚构、「中方的宣傳(中国側のプロパガンダ)」,但亦有認為三光政策為歷史事實的日本刊物[3]。日本帝國陸軍大将冈村宁次則在自己的回憶錄中說,這是八路军歪曲他本來講的“不烧、不奸、不殺(焼くな、犯すな、殺すな)”的結果。另有说法认为造成三光效果的是八路军的“清野政策”。
三光商标事件[编辑]

2004年1月2日,日本“福见产业株式会社”在中国申请注册“三光”商标,商标号为3871867,并于2006年5月28日获得公告。被一家杭州商标事务所的员工发现并由媒体报道后引起轩然大波。许多中国大陆居民认为是又一起日本人针对中国人的挑衅、侮辱事件。
随后被国家商标局以《商标法》规定“带有民族歧视性的标志不得作为商标使用”和“有害于社会主义道德风尚或者其它不良影响的标志不得作为商标使用”的理由予以撤销。[1][2]
但是“三光丸”是一种镰仓时代就已存在的日本胃药,其名源自于中国的《三字经》中“三光者,日月星”一句,因此事实上可能不存在日本企业对中国人进行挑衅侮辱的企图。有人认为,此事件是近年来中国民族主义者的过激表现之一。当然,这个词就像“支那”一样,有人认为是耻辱,有人认为没什么,应该少用为妙。
from wiki


http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/sanko-sakusen/maegaki11.html


「三光作戦」について

― 学問? それともプロパガンダ? ―




「三光」 が「殺光」 「焼光」 「搶光」(略光、奪光ともいっています)を表し、それぞれ「殺しつくす」「焼きつくす」「奪いつくす」という意味の中国語であることは明らかでしょう。
ところが、日本軍が 「三光作戦」 を実行したというあたりから、話がわかりにくくなります。「三光作戦」「三光政策」 について書いたものを読むたびに、学問だの報道だのと呼ぶのもおこがましい、中国のプロパガンダのお手伝いではないか、という思いを強くするのです。


1    市民権をすでに獲得

社会党パンフレット  ですが、「三光作戦(政策)」なるものが、わが国で「歴史的事実」として取り扱われていることに疑いありません。
まず、終戦50年の節目の年(1995年)に発行された社会党 (当時) の「国会決議実現にむけて」とした約30ページのパンフレット(左写真)をのぞいて見ます。このパンフレットは公党としての社会党の「歴史認識」を記したものです。
「過去に眼をとざすことはできない」 というタテ書きの副題を読めば、おおよその見当がつくように「ドイツは過去を清算した」 のに、「日本は・・」というわけです。この党の党首が後にわが国の総理大臣に就任し、「村山談話」 (1994=平成6年) に結実していきました。
南京虐殺につづく「三光作戦」は、次のように書いてあります。
〈 また、日本軍は中国全域で三光(奪い、殺し、焼きつくす)作戦を展開し大きな被害を与えるとともに
強制連行、強制労働などによっても膨大な犠牲者を出しています。 〉

「中国全域」 で三光作戦が展開されたというあたりが、まあユニークといえるのかもしれません。
また、百科事典や多くの日本の高校用歴史教科書に載っていることからも分かるように、また新聞を中心とする報道機関がいく度となく報じたことでも分かるように、日本で市民権を得てしまっているのです。
ただ、「三光作戦」に関していえば、まだチャンスはあります。というのは、中学用歴史教科書では日本書籍新社の教科書だけになり、あとは消えたからです 。もう一歩です。
河北新報  もっとも、「三光作戦」の市民権獲得には思わぬ効用もあることはあります。それは、日本の近現代史研究の水準がどのレベルにあるのか、どうしてこういうことになったのかを知る格好の材料になっていることでしょう。
中国のいうことを真に受けて報じたメディア、それに待ったをかけるどころか盲目的に追随した多くの学者。なんとも処置ナシといったところです。
新聞の方を見てみますと、左の写真は1994(平成6)年11月24日付けの河北新報 で、「半世紀の検証」と題した連載(♯16)の紙面です。
河北新報は宮城、山形、福島の3県で発行部数約50万、仙台市を中心に宮城県では圧倒的なシェアを有しています。また、頻繁に旧日本軍を断罪する記事のでること、朝日新聞も顔負けするくらいです。おそらく、地方紙の多くがこういった調子なのではないでしょうか。
「事実遠ざける検定」 の小見出しのもと、次のように書かれています。

〈 「焼いて、殺して、奪い尽くす」三光作戦。
16万人以上を無差別に殺したといわれる南京大虐殺。
「天皇の軍隊」が、アジアで殺した数は1千万人を超えるとされている。日本人は300万人が死んだ。
しかし、戦後の歴史教育では、こうした事実は検定によって遠ざけられ、長い間教科書には載らなかった。 〉

そして、「ドイツの態度と対照的」 とお決りのコースに話が進みます。ですが、少し勉強した人なら、新聞記者がいかに不勉強で、他からの受け売りをしているか見抜ける内容なのです。
にもかかわらず、「希薄な加害者意識」 という見出しを、何の疑いも持たずに付けてしまいます( ⇒ なぜ「罪の意識」が希薄なのか ) をご参照ください。
まず、不思議に思うことは、「三光」は中国語ですから、日本軍が「三光作戦」という作戦名を使うはずがなかろうという疑問です。現に、日本軍の将兵で「三光」という言葉を知っている例は、皆無ではありませんが、ほんの数えるほどでしょう。下級将校や兵はまず、聞いたことがなかったといって間違いないものと思います。
にもかかわらず、同時代の関係者が知らなかった作戦名が、学生や一般人に知識として教え込まれ、やがて日本人の共通認識になる、というのですから、「気は確かか」 といいたくなります。
いうまでもなく、このような結果を生じるには、“歴史学者”が重要な役割を果たしたはずですから、歴史学者の水準をうんぬんされて仕方のないことだと思うのですが。
また、「三光作戦」にあたる日本軍の作戦が「燼滅作戦」 (じんめつさくせん)であったという解説をよく見かけます。おそらく、出所は『中国の旅』 の注釈あたりだと思いますが、そもそも「燼滅作戦」という作戦が日本軍にあったのでしょうか。
私はまず、なかったと思っています。といいますのも、それなりに調べたからです。たしかに、「燼滅」という言葉は使用していましたが、作戦名は見あたりません。
それに、「三光作戦」という用語、中国は使っているのでしょうか。中国は「三光政策」と言っているのであって 、「三光作戦」はこれに便乗した日本人の知恵者の創作、あるいは何の考えもなく書いてしまったものが蔓延したと思うのですが、違っているでしょうか。



2    「三光作戦(政策)」の中身は何か

では、日本軍がとった「三光作戦」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。
実は、しだいに範囲(カテゴリー)が広がり、あれもこれもといった感じになっているのです。
藤原 彰 ・元一橋大学教授の見解を見ることにします。以下は季刊誌「戦争責任研究」 (1998年秋季号)に掲載された〈 「三光作戦」と北支那方面軍 〉からの引用です。

まず、日本軍の中国側の反日根拠地の掃討作戦について記した後、次のようにつづきます。
〈 だが、(これらの掃討作戦は)失敗に終ったとはいえ、未治安地区にたいする日本軍の燼滅掃蕩作戦、これにともなう遮断壕 の構築や無住地帯 の設定によって、華北の民衆の蒙った被害ははかり知れないものがある。人命の被害だけでも、それを総計すれば、南京大虐殺や細菌戦の犠牲者とは桁違いの多数に上るだろうことは確かである。 〉
そして、
〈 加害者側の数字が一切ないのだから、被害者側の数字に頼るより他はないのだが、これもきわめて大ざっぱな数しか示されていない。・・〉
としたうえで、「三光作戦」の被害について次の結論を導いています。
岩波ブックレット
〈 ここでは姫田光義が中国側の公表された数字をもとにしてあげた
「 とりあえず華北全体の被害は将兵の戦死者を除いて『247万人以上』 」 によっておきたい。
これだけでも、南京大虐殺の10倍もの犠牲者が出ていることになるのである。 〉

華北の、しかも将兵の戦死者を除くというのですから一般住民を指すのでしょう、この「247万人以上」 という膨大な死者数は、『「三光作戦」とは何だったか』 (左写真。姫田 光義著、岩波ブックレット)から引用したものです。



3    あれもこれも三光作戦 

さらに、藤原は次のようにつづけます。
〈 この他にも強制連行され労働力として満州その他に送られた膨大な人々、
犯された女性、奪われた財産、焼かれた家、数えあげれば際限のない「三光作戦」の被害は、
ようやく最近その一端が紹介されるようになった。
これらについては、被害者である中国側の調査が、より精密になることが期待されるが、
それよりも加害者側の責任として、日本での史料の発掘、聞きとりの徹底など、
為すべきことがたくさん残っているといえるだろう。 〉

というような次第で、「三光作戦」の範囲はどんどん広がっています。
もっとも、南京虐殺はどう頑張ったところで、マキシマム30万人 ですが、「三光作戦」ならいくらでも被害を膨らませることが可能ですから、死傷者3500万 に向けて、あらたな「三光作戦」が加わってくるかもしれません。

以上を整理しますと、

①  日本軍の未治安地区(反日根拠地)の掃討作戦
②  遮断壕の構築
③  無住地帯
④  強制連行

が「三光作戦」の中身のようです。さらに、⑤ 毒ガス作戦 を含める例もあります。
藤原元教授は「日本での史料の発掘。聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう」と書いていますが、私が日本側(軍人、民間人)からの聞き取り調査中、1人の学者、1人の報道人、1人の研究者にも出会ったことがなく、調査に来た痕跡さえありませんでした。
調査報告は順次、掲載する予定ですので、詳しくは、それぞれの項をお読みください。




http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214700817

ベストアンサーに選ばれた回答
sdx2667さん

儘滅作戦と言う名称で実際に実行してます。中国側はこれを「三光作戦」と呼びました。

なので「三光、というのは中国語だから、中国の捏造」と騒ぐバカがいますが、「ピカドンは日本語だから、原爆投下は捏造」とアメリカ人が言うようなもんです。

さて、儘滅作戦ですが、主として華北で実施されています。
理由は、以下の通り。
国民党軍が抗戦する華中、華南では、一応戦線が形成されており、また国民党軍主力と日本軍第11軍(中国戦線で唯一の機動的な野戦軍)が対峙していた主戦場であったのに対し、華北は国民党地方軍(閻錫山)と共産党軍が日本軍北支那方面軍(占領地の治安維持を主目的とした軍)が入り乱れて対峙していました。

華北では明確な戦線が形成されず、また閻錫山軍が日本軍と勝手に休戦状態に入り、共産党軍を攻撃することもありました。
こんな感じで共産党軍は閻錫山軍と共同戦線を張らず、日本軍占領地内でのゲリラ戦術で戦っています。
ゲリラ戦術を維持するためには、活動地域内の住民の協力が不可欠です。

これに対抗するために日本軍は少数の部隊に分け、広い範囲に分散配置する作戦をとりますが、逆に補給の不便や憲兵などの監視が行き届かなくなり、モラルが低下し、一部では中隊内で叛乱を起こしたとして処刑された下士官もいました。

この高度分散配置を行っていた日本軍に対し、1940年に共産軍が一大攻勢をかけます。いわゆる「百団大戦」であり、日本軍は大きな損害(特に物的損害)を受けます。

これにショックを受けた日本軍は共産党軍を追い詰める目的で、協力していると思われる村を襲い住民を殺して村を焼き払う戦術を開始します。これが「儘滅作戦」です。

この他、ウサギ狩りと称した中国人労務者の強制連行も行っています。

「私たちはかって日本軍国主義が行なった対華侵略戦争の時期に、軍人、憲兵、警察官、官吏、特務などとしてあなた方の祖国に押し渡り、あらゆる恥ずべき行為を重ねて、戦犯として拘禁、処刑を受けたものであります。私たちのうち、旧日本陸軍第五十九師団関係者は当時山東省に侵入し、あなた方を犬ネコ同様に日本に強制拉致した直接の加害者でありました。そして私は、終戦持旧第五十九師団長として、その指揮をとっていたのであります。私たちは、日本政府の命令と、みずからの醜悪な功名心によってウサギ狩り戦法と称する大規模な人狩り作戦を展開いたしました。あなた方の大部分は、凶悪な銃剣の威嚇と耐えがたい屈辱のもとに、平和な野らから、街頭から、家庭から、泣き叫び、すがりつく家庭の方々と、なま木を裂くように引き離されて日本に送られました。そこには言語に絶する奴役、想像もできない虐待があなた方を待っておりました。しかもあなた方は、その頑健であった肉体がやせ衰え、生命のともしびが消えようとする最後の一瞬まで侵略者に屈服することなく、ついに万斛の恨みをのんで異境に果てられたのであります。一家の大黒柱を奪われたあなた方の遺家族は、家を焼かれ、飢えに追られ、疾病に伏し、やがて一家離散や滅亡の悲惨な境遇に泣かねばなりませんでした。」

第五十九師団師団長・藤田茂・元中将の弔辞(1960/4/26中国人俘虜殉難者国民大慰霊祭(文京公会堂)にて)









日本軍の中国人殺戮「三光作戦」ユダヤ人虐殺に決してひけをとらないホロコースト
韓国・韓国人 コメント ( 59 )


1:蚯蚓φ ★:2013/05/03(金) 15:32:20.97 ID:???
http://www.kgnews.co.kr/news/photo/201305/342113_79419_4532.jpg
▲イ・ヒョンウ、華虹中教師

第二次大戦当時、日本軍の反倫理的蛮行として1937年12月の南京大虐殺がよくあげられる。30万人が殺害されたと言われるが、南京大虐殺はなかったと主張する河村たかし名古屋市長の妄言が公憤を買っている中、日本の良心的な歴史学者、姫田光義が書いた『三光作戦とは何だったのか-中国人の見た日本の戦争』を見れば日本軍の焦土化作戦で270万人以上の中国民間人が殺害されたという。これを中国では三光政策といい、日本式表現では三光作戦だ。

三光作戦は‘全部殺し(光)、奪い(光)、燃やす(光)’作戦でゲリラ戦を展開する中国共産軍、特に八路軍背後の村落を徹底的に破壊することだった。すでに大長征を通じて士気が非常に高かった八路軍は徹底した軍規履行で民心を得て1939年から1940年間に山岳地帯に根拠地を用意し数百万の民を支配下に置いた。土地改革を実施し解放軍という称号も得た。

国民党軍と戦いながら一方では日本軍を相手にゲリラ作戦を展開して日本軍を困らせた。1940年8月八路軍は‘百団大戦’という名前で日本軍に致命傷を負わせた。華北全域にかけて日本の鉄道、橋梁、炭鉱、防衛施設、通信施設などを攻撃した。特に河北省と山東省東部では日本軍の物質的、人命被害が大きかった。

ヒロヒト日王は1941年12月3日、「敵について封鎖を強化し戦意を破壊して衰亡させよ」という大陸命575号を承認した。この作戦に基づいて岡村寧次シナ派遣軍総司令官は日本軍が支配する治安地区、準治安地区、日本軍が支配できない未治安地区で分けた。未治安地区は人が生活できないようにして、準治安地区に移れないよう塹壕で防いだ。

このせん滅作戦で村に火をつけ食糧を略奪して農民らの集団移住が続いた。幅6m、深だ4mに達する巨大な塹壕を掘り望楼と道路、電話線を設置した。中国農民数百万人を動員して一度に二月ずつこの作業を進行した。問題は八路軍の神出鬼没なゲリラ作戦にこれは意味がないことだった。八路軍はいつでも日本軍が離れれば無人地帯になったところに戻って支配し農民らを守った。

本来、三光作戦は敵と地域住民を装った敵、敵性があると判断された住民で15才から60才までの男を殺戮することを目標にした。しかし、罪のない中国農民ばかり殺す結果を産んだだけだった。三光作戦は1990年に入ってから比較的良心的な学者によって研究が行なわれた。いつかは南京大虐殺と比較できない破壊的で長期間かけた蛮行であったことが天下にあらわれるだろう。

ドイツのユダヤ人虐殺に決して遅れをとらないホロコーストに違わない。それでも隠蔽と歪曲に汲々とした日本、‘天人共怒’という言葉はこうしたところに使う言葉ではないか?

ソース:京畿新聞(韓国語) [寄稿]日本軍の中国人殺戮‘三光作戦’

http://www.kgnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=342113

오피니언
기고
[기고]일본군의 중국인 살육 ‘삼광(三光)작전’
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승인 2013.05.03 전자신문 20면
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▲ 이형우 화홍중 교사
흔히 2차 대전 당시 일본군의 반인륜적 만행으로 1937년 12월의 난징대학살을 말한다. 보통 30만 명이 살해되었다고 알려졌음에도 난징대학살은 없었다고 주장하는 가와무라 다카시 나고야(名古屋) 시장의 망언이 공분을 사고 있는데, 일본의 양심적인 역사학자 히메타 미쓰요시(姬田光義)가 쓴 『三光作戰とは何たったか-中國人の見た日本の戰爭』을 보면 일본군의 초토화 작전으로 270만 명 이상의 중국 민간인이 살해되었다고 한다.

이를 중국에서는 삼광정책이라 말하고, 일본식 표현으로는 삼광작전이다. 삼광작전은 ‘모두 죽이고( 光), 빼앗고( 光), 불태우는( 光)’ 작전으로 게릴라전을 펴는 중국 공산군, 특히 팔로군 배후 촌락을 철저히 파괴하는 것이었다.

이미 대장정을 통하여 사기가 드높은 팔로군은 철저한 군기 이행으로 민심을 얻어 1939년부터 1940년 사이에 산악지대에 근거지를 마련하고 수백만의 백성을 지배하에 두었다.

토지개혁을 실시하여 해방군이란 칭호를 얻기도 하였다. 국민당군과 싸우면서 한편으로는 일본군을 상대로 게릴라작전을 전개하여 일본군을 괴롭혔다.

1940년 8월 팔로군은 ‘백단대전(百團大戰)’이라는 이름으로 일본군에게 치명타를 입혔다. 화북 전 지역에 걸쳐 일본의 철도, 교량, 탄광, 방위시설, 통신시설 등을 공격하였다. 특히 허베이성과 산둥성 동부에서는 일본군의 물질적, 인명 피해가 컸다.

히로히토 일왕은 1941년 12월 3일, “적에 대해 봉쇄를 강화하고 적의 전의를 파괴하고 쇠망시키라”는 대륙명 575호를 승인하였다. 이 작전에 의거 오카무라 야스지(岡村 寧次) 지나 파견군 총사령관은 일본군이 지배하는 치안지구, 준치안지구, 일본군이 지배하지 못하는 미치안지구로 나누었다. 미치안지구는 사람이 살지 못하도록 하고, 준치안지구에서 넘어가지 못하게 참호로 막아놓았다.

이 섬멸작전으로 마을을 불 지르고 식량을 약탈하며 농민들을 집단으로 이주시키는 일이 계속되었다. 너비 6m, 깊이 4m에 이르는 거대한 차단호를 파도록 하고 망루와 도로, 전화선을 설치하였다. 중국 농민 수백만 명을 동원하여 한 번에 두 달씩 이 작업을 진행하였다.

문제는 팔로군의 신출귀몰하는 게릴라작전에 이것은 의미가 없다는 것이었다. 팔로군은 언제든 일본군이 떠나면 무인지대가 된 곳으로 돌아와 이곳을 지배하고 농민들을 보살폈다. 원래 삼광작전은 적과 지역주민을 가장한 적, 적의 성격이 있다고 판단되는 주민 중 15세에서 60세까지의 남자를 살육하는 것을 목표로 했었다. 그러나 무고한 중국 농민들만 죽인 결과만 낳았다.

삼광작전은 1990년대 들어서 비교적 양심적인 학자들에 의해 연구가 진행되었다. 언젠가는 난징대학살과 비교할 수 없는 파괴적이고 장기간에 걸친 만행이었음이 만천하에 드러날 것이다. 독일의 유대인 학살에 결코 뒤지지 않는 홀로코스트에 다름 아니다.

그럼에도 은폐와 왜곡에 급급한 일본, ‘천인공노’라는 말은 이런 데에 쓰는 말이 아닐까?

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日本人中国抑留の記録6(三光作戦)

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