Saturday, October 12, 2013

comfort women of Imperial Japan by Pr.Park Yuha

Park Yuha
Works at Sejong University
テーマ:ブログ
「帝国の慰安婦」著者紹介

朴裕河(パク・ユハ) 1957年、ソウルで生まれ、高校卒業後来日。慶應義塾大学文学部国文科を卒業後 早稲田大学文学研究科に進み、日本文学専攻博士課程修了。2003年度に「日本近代文学とナショナル・アイデンティティ」で早稲田大学学術博士の学位を取得した。現在、韓国・世宗大学日本文学科教授。


【書籍】 慰安婦の証言で分かった「少女を騙したのは韓国人同胞」~朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授著「帝国の慰安婦」[08/17]
1 :蚯蚓φ ★:2013/08/17(土) 17:46:03.10 ID:???
http://www.imaeil.com/news_img/2013/cul/20130814_155355000.jpg
▲「帝国の慰安婦」/朴裕河(パク・ユハ)著、328ページ、1万8千ウォン.


韓日関係はいつも平行線だ。独島(ドクト、日本名:竹島)問題や日本の右傾化、歴史清算問題など各種問題をめぐり、衝突と漂流を続けてきた。この中には‘慰安婦’という大きな宿題も含まれている。

光復68周年に際して出版された朴裕河(パク・ユハ)世宗(セジョン)大日本文学科教授の本「帝国の慰安婦」では「韓国人が持っている慰安婦のイメージは慰安婦の‘記憶と経験’の半分に過ぎない」と批判する。彼女は私たちが既に知っていることとは少し違った慰安婦問題の隠された半分の真実、聞きにくく敬遠したい話を掘り起こす。

この本は慰安婦らの証言を通じて私たちの恥部を率直に表わす。女性たちをだまして戦場に引っ張っていき虐待と搾取を日常的に行った主体は大部分が同胞の朝鮮人の民間会社だった事実を慰安婦の証言を通じて明らかにする。もちろんそうであっても人間の尊厳を傷つける‘構造’を作って最後に加担したのが日本軍だったのは事実だ。

しかも私たちの記憶の中の慰安婦は‘日本軍の軍靴に踏みにじられるか細い十五の少女’でなければ‘老躯をかって闘う闘士’だ。だが、これは「日帝が14~25才の女性労働力動員のために女子学生を中心に募集した挺身隊と混同した結果」とし「こういう錯綜したイメージが日本に対する憎しみを強化し、本来、同族を売り飛ばした私たちの罪に目をとじさせているのではないか」と著者は問い直す。

著者はその慰安婦に向かって固定された民族主義的に偏向した認識を変えることが、かえって過去の歴史清算と東アジア平和の近道になると主張する。植民地支配が引き起こした野蛮な暴力である慰安婦問題を今のように長期化し、未解決状態に追い詰めたのは冷戦的思考だったというのも著者の解釈だ。

ハン・ユンジュ記者

ソース:ソウル新聞(韓国語) [注目この本!]帝国の慰安婦

https://www.facebook.com/parkyuha



韓国で慰安婦問題に関する新しい本を出しました。ちょうど先日日本で講演の機会があったとき、この問題をめぐる日本での議論に添って本の内容の一部をまとめたのでアップしておきます。
July 30, 2013 at 11:37am
慰安婦問題をどのように考えるべきなのかー秦郁彦・吉見議論(2013・6)を踏まえて(2013・7・15、明治学院大学)

慰安婦問題はどのように考えるべきなのだろうか。わたしは昨年からこの問題について考えてきてこの夏に韓国で本を出すことになっている。日本語版も出ることになっているけれど、まだ先のことになるので、昨今大きな混乱を呼んでいるこの問題について、とりあえず日本で「慰安婦問題の第一人者」とみなされている二人の歴史家のお話に議論を添わせる形で今日はお話させていただこうと思う。
ここで議論の土台にするのは、去る6月にラジオで放送された「秦郁彦 吉見義昭 第一人者と考える慰安婦問題の論点」である。安倍首相は「歴史家に任せたい」としていたが、歴史家の「第一人者」の議論がなかなか接点を見いだせていないことから分かるように、慰安婦問題はもはや単に「歴史家」だけの考えだけでは日韓の合意どころか「日本内」の合意さえ見いだせない難しい問題となっている。
それはなぜか。それはこの問題がすでに長い間解決されないまま長引く間に両国の国民の多くがこの問題に対してのかなり詳しい「情報」を持つようになってひとつの政治問題となり、さらに昔の「慰安婦」をめぐる情報や考え方のみならず、現在身を置いている政治的立場やそれに伴う感情までが入り込んでしまっている問題となっているからだ。さらに、この問題に直接・間接にかかわってきている人の数が多く、そのほとんどの人たちが間接的な「当事者」にもなっていて、かかわった期間が長かっただけにそれぞれ自分の主張が自分の人生や生き方を示すものにさえなっているせいで、既存の考え方や立場をなかなか崩せないところにまで来ていることも対立を深めた大きな原因である。
そしてこの問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。
1、できるだけ早い解決
2、そのためにこの問題を「慰安婦」という存在自体をめぐる状況はむろんのこと、ここ20年の運動や葛藤の様相についても知る。
3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と直接には関係のない人たちもこの問題について多くの情報を持ち、それをもとに「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。

この問題を考えるためには、いわゆる「慰安婦」問題が発生した時期よりもさかのぼった近代初期や、さらに現代の状況についてまで考えなければならない。しかも先に触れたように、ここ二十年の葛藤についても考えて始めて問題の全体が見えてくるような問題なのでとても限られた時間で話しきれる問題ではない。それでもこの問題の「解決」を考えるためにはおおまかにでも全体のことを見ておくことがどうしても必要なので,今日はおおまかな形を取りたいと思う。時間があればあとで細かいことについては質問を受けて御応えしたいと思うのでこの点ご了承願いたい。

1、「慰安婦」とは誰か

近代以降、交通の発達や国家の勢力拡張の欲望を内面化する形で、海外へ単身で移動する男性たちは多かった。そしてそのような男たちを支えるために女性たちの「移動」も多くなった。日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたのが、同じ頃から海外へでかけることになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲したような女性たちだった。
そして彼女たちは朝鮮に駐屯した軍隊や国家の移住奨励政策に従って移住していった男たちのために朝鮮にも移住して行った。やがて朝鮮半島にも公娼制がしかれ、朝鮮人女性もそこで働くようになる。すでに日露戦争の時から軍人たちを「慰める」女性たちはいたのであり,軍隊を支えるという意味で彼女たちは「娘子軍」と言われていた。
つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に合わせて戦場や占領地や植民地となった地に「移動」していった女性たち>のことである。そして商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

2、「慰安婦」と「朝鮮人慰安婦」

当然ながら、日本の場合は遠い海外へ「国家のために」でかけている男性のために「慰安婦」が用意されるのでその対象は「日本人女性」だった。それが、朝鮮が植民地となったがために「朝鮮人女性」もその仕組みに組み込まれることになる。そして、1920年代にはすでに中国や台湾には朝鮮人女性も海外にいる「日本人」や「日本人となった朝鮮人」を相手するためにでかけていった。のちに「慰安婦」と意識されるようになる「朝鮮人慰安婦」の前身と見るべき存在である。

3、「からゆきさん」の「娘子軍」化

からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場になっていた女性たちもいた。彼女たちが「娘子軍」と呼ばれるようになったのはそのためで、そのようにして彼女たちは蔑まれる一方で「格上げ」されることになる。一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支えることでそれなりの誇りを見いだすことができる(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)ようになっていた。「慰安婦」とはそのような仕組みが支える名称でもあった。

4、様々な「慰安所」

したがって、日本軍が1930年代に入って突然「慰安婦制度」を発想して<「慰安所」を作った>と考えるべきではない。日本軍は、満州国と日中戦争のために駐屯軍のために、それまで衛生など(内地なら警察が管理していた)の「管理」をしてきた売春施設のうち(料理屋、カフェなどにはその役割をしたところもあった)、基準を満たすところを「指定」して「軍専用の慰安所」にしていた。しかしやがて軍隊の数が増えるにつれて、それだけでは間に合わなくなったので、そのような施設をさらに増やすことを考えた。そして業者を使って「募集」するにいたったのである。
つまり今日「慰安所」と考えられているところには、軍が新たに作ったところだけでなく、日清・日露戦争以降の既存の施設も含まれていると考えられる。「業者」にしても中には移動や経営に関する便宜を与えるために「軍属」(あるいは軍属扱い)にする場合もあった。
しかし、それはあくまでも「軍が作った」慰安所に限る。したがって「慰安所」の形が様々であるだけに、「業者」のあり方も様々だった。島などの場合、営業許可を得たか否か確かでない業者が進んで自分で粗末な「慰安所」を作り、「臨時営業」(一種の派遣業務)を始める場合もあった。もちろん、軍隊が「慰安所」を建設する場合もある。将校などは指定慰安所を使わずに、普通の料理屋などを利用する事も多かった。
軍が慰安所を作った(指定した)理由は、言われているように性病防止やスパイ防止以外にも、利用軍人が多くなるにつれて、「安く」利用できるようにするため、の理由もあったと思われる。その場合の料金は<公>と言われた。給料の少ない兵士たちに利用しやすくしたと考えられる。
以上のように、「慰安所」は、時期や場所によって様々な形があった。

5、様々な「慰安婦」

したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。さらに、戦場で提供されて、半分継続強姦の形で働かされた女性たちや、戦場での一回性の強姦の被害者も厳密な意味では「慰安婦」ではない。
したがって、アジア太平洋戦争で日本軍の性の相手をした全ての女性を「慰安婦」と呼ぶべきではなく、本来の「慰安婦」の名前にふさわしいのは、「日本人」や「日本人」になっていた「朝鮮人」「台湾人」「沖縄人」だけと考えるべきである。そして彼女たちこそ「娘子軍」に近い存在だった。
しかし、普通の売春施設にいた女性たちも「慰安婦」と同じように軍を対象にした性労働に従事し、「愛国食堂」のような看板を掲げて軍人を受け入れてもいたので(もちろん指定業所になっていたはずだ)、事態はややこしい。
何よりも、90年代に「慰安婦」という存在が問題となったとき、まだ「慰安婦」がどういう存在なのか共通理解がない中、日本軍の相手をした全ての女性に名乗り出るように呼びかけたことが問題を混乱に陥れたと言えるだろう。そして,当時の軍人たちでさえ、その区別に厳格ではなかった。しかし、すくなくとも、戦場での一回、あるいは継続的強姦をさせられた女性たちと、日本人を含む「慰安婦」たちの、軍人との関係の違いは歴然としている。
「慰安婦」は、このように国籍や時期によって、そして場所(最前線か後方か)によって、さらに個人のキャラクターによってもその体験は異なっている。
にもかかわらず、そのすべてを「「慰安婦」と考えて、問題の対応に当たったことから、大きな混乱が始まったのである。
しかし、そのどのケースであっても性的労働に従事させられる経験は、社会における弱者に押し付けられるもので、彼女たちの多くが病気にかかりやすく、死が隣り合わせの悲惨な境遇にいたことを認識することは、慰安婦問題を考えるための大前提とならなければならない。

6、「強制連行」について

したがって、軍人を相手に性労働をするまでになった経緯も当然ながら一つではない。中には本格的な募集が始まる前から現地にいた女性もいたはずである。
韓国で最初にこの問題を提起した人は、自分が経験した「挺身隊」のことを「慰安婦」のことと勘違いした。彼女が経験した「挺身隊」は「学校」で「判子」を押すような形だったので彼女はその募集を「強制」と思ったのである。しかし「挺身隊」の募集が「学校」単位での「国民動員令」によるものだったことから分かるように「教育」のある人が対象だったのに対して「慰安婦」はほとんど低いレベルの教育か教育を受けていない人がその対象だった。韓国で慰安婦が「強制連行」されていったと考えるようになったのは、日本の否定者たちが言うように「嘘」を言ったからではなく、まずはこの90年代の勘違いによる。
しかしさかのぼれば植民地時代にすでに「挺身隊に行くと慰安婦になる」との風聞はあった。「慰安婦」は「挺身」して「兵隊さんのためのこと」をすると言われたのであり実際のところ看護補助や洗濯など「性的慰安」以外のことをさせられる場合もあったので、まったくの誤解とも言えない側面もある(兵士の墓を清掃することも、朝鮮人慰安婦たちはやっていた)。
「軍人」がつれていったと証言する慰安婦の割合はすくなくとも証言集を見る限りむしろ小さい。そしてその場合も、「軍属」扱いを受けた業者が「軍服」を着て現れた可能性が大きいと私は考える(もちろんこれは植民地朝鮮でのことであって、中国などの戦場でそうだったというのではない)。また、業者が、集めやすいように、当時日本で始まっていた国民動員としての「挺身隊」へ行くのだと言った可能性も排除できない。業者は、日本人と朝鮮人がペアで現れたことが多かったようである。
しかし、慰安婦の募集は、一人や少人数でいるところを「工場」へ行くなどの言葉でだまして連れて行かれたことが証言でも圧倒的に多い。そういう意味では、「軍につれていかれた」という意味での「強制連行」はなかったか、たとえあったとしても「例外的」なこと—つまり「個人」としての行為と見るべきであって、「軍が組織として(立案と一貫した指示体系を通して)やらせた」ことと見るのには無理がある。
オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれは文字通りの「強制連行」に間違いない。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言えない。日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。
大まかに分ければ、問題発生以来、「慰安婦」としてみなされてきた人の中には,もとの意味での「慰安婦」(これは挺身隊よりゆるやかな「国民動員」の一種と見るべきである)、民間運営の施設(占領地や戦地に早くから存在した場所を含む)を軍が「指定」し衛生などを「管理」した所で働いた人たち、戦場で捕まって継続的強姦の対象になっていた「敵の女」の三種類の女性たちが入っていることになる。
このうち文字通りの「強制」はオランダや中国のケースであるが、(軍属扱いされた)「軍服を着た業者」が集めた朝鮮の場合、業者が「挺身隊」(強制的、しかし「法律を作っての」国民動員。しかし「志願」の形となる)に行くとだましたがために、「強制連行」だったと当事者たちが認識した可能性も高い。
つまりもと慰安婦たちが「嘘」をついているというより(まったくないわけではないとしても)、今はいないはずの「業者」たちが嘘をついた可能性が大きいのである。

7.日本軍と朝鮮人慰安婦

朝鮮人慰安婦は着物を着て日本名をつけられて働いた。つまり「日本人」女性に代わる存在だった。慰安婦たちには料金の区別がつけられていて、「日本人」が一番高く,その次が朝鮮人だった。本来なら巻き込まれないでいいはずの(日本を対象とした)「愛国」に朝鮮人も動員されたのである。そういう意味では朝鮮人慰安婦は「植民地支配」が生んだ存在であり,その点で日本の「植民地支配」の責任が生じる。そして、慰安所に着くと最初に将校や軍医による強姦も多く、部隊移動中にも朝鮮人たちは「朝鮮人」であるゆえに、決まった性労働以外に強姦されやすかった。
同時に、「国家のために」集められた「軍慰安所」に居た場合は、基本的には敵を相手に「ともに闘う同志」の関係でもあった。なので兵士の暴行などを上官が取りしまることも多く、業者の搾取を軍が介入して管理することもあった。
圧倒的多数を相手しなければならない過酷な体験をしたのは確かだが、上官が兵士や業者の横暴から慰安婦たちを守るような役割をしたのも事実である。朝鮮人慰安婦と日本軍人との恋愛が可能だったのも、そういう構造の中でのことである。
しかし同時に,最前線においても行動を共にしながら、銃弾の飛び交うような戦場の中で兵士のあくなき欲望の対象になり、銃撃や爆弾の犠牲になるような過酷な体験をしたことも事実である。つまり、たとえ契約を経てお金を稼いだとしても、そのような境遇を作ったのが「植民地化」であることも確かで、朝鮮人慰安婦に対する日本の責任は、「戦争」責任ではなく、「植民地支配」責任として問われるべきである。

8、業者

軍が必要として集められたのは確かだが、拉致や嘘を軍が公式に許可したとする証言や資料は今のところ存在しないようである。そして、嘘までついて強制的につれていったのも、病気などの時も「強制的に」働かせたのも、逃げないように監視したのも、中絶させたのも、多くはその主体は「業者」である。
慰安婦たちが多くのお金を稼いだと言う人もいるが、それはむしろ少数で、多くは業者の搾取に遭って貧しかったし、借金状態を抜け出せなかった。
もと慰安婦たちの身体に残っている傷跡も業者によってつけられたものが多い。軍が暴行する場合ももちろん多かったようだが、それは公式には禁じられていた。つまりそのような「軍の暴行」があり、それを糾弾するとしても、それは「例外」であって「軍」としての犯罪ではなく「個人」としての犯罪と捉えるべきなのである。
吉見教授は慰安婦に「居住」「廃業」などの自由がなかったというが、それは基本的には「業者」による拘束で、居住の自由がなかったのは「慰安婦」として「軍」とともに行動する限り、「軍人」にそれがないのと同じようなケースと考えるべきであろう。
つまり、「慰安婦」を巡っての「犯罪」——当時の法律に抵触する行為は、拉致・誘拐や人身売買であって、「慰安所利用」を「道徳的に」問題のある「罪」と捉えることは可能でも,当時の
(法律に抵触する)「犯罪」ではないことになる。それにくらべて、オランダや中国のケースは明らかな「犯罪」であり、彼らは「個人」として処罰された。

9.20万の少女

「20万」という数字は、日韓を合わせた、「国民動員」された「挺身隊」の数である。日本人女性が15万,朝鮮人が5—6万、と言及した1970年の韓国新聞の記事が、上記の誤解も手伝ってその後そのまま「慰安婦」の数と理解させたと考えられる。しかもその「慰安婦」の全てが必ずしも「軍が作った」「軍慰安所」にいたわけではないことはさっき述べた通りである.
慰安婦になった人には実際は「少女」はむしろ少数で、まだ十代前半のケースはむしろ少なく、当時の軍人たちにも「例外」な状況として受け止められていた。「慰安婦」と名乗り出た人の多くがまだ幼かった「少女」であったことを強調するのは、彼女たちこそその「例外」のケースにいた人々であり、だからこそ訴え出たのだとも考えられる。実際に証言者のほとんどが、「他の人は自分より年上だった」と語っている。つまり「少女」たちは判断力の足りない「少女」だったがゆえにだまされていくことが多かったとも考えられるのである。実際の平均年齢は、証言や資料による限り20才以上だった。
そして、そのような「少女」までを「慰安婦」にするべくつれていった主体が「業者」だったことが注目されなかったのも混乱を呼んだのである。

10、敗戦後の帰還

慰安婦が敗戦後に帰国できなかったのは、戦場での爆撃の犠牲になった場合や玉砕に巻き込まれた場合である。中国にいた慰安婦たちは、いわゆる「引揚げ者」たちの受難を同じく経験していて,その道のりで犠牲になった場合もあると考えられる。そのほかは帰ってきたかその地に残ったと考えるべきである。敗戦後に「置き去り」にしたことに、動員した軍に責任があるのは言うまでもないが、それでも第一の責任者は直接管理をした「業者」と言うべきである。軍と行動を共にした場合、負ける戦闘のなかでのことであって、その状況は様々で、軍が帰国を助けた場合もあった。

11、1990年代の謝罪と補償

1990年代に日本が「慰安婦」と名乗り出た人々に「謝罪と補償」をすべく作った「アジア女性基金」は、被害者たちが要求した「国家立法」を経たものではなかったが、当時の閣僚たちの合意に基づいて作られたものだった。国会では立法を進めた議員たちもいたが、韓国の場合、1965年の日韓条約で国家間賠償が終わったことと「強制連行」の有無が議論の焦点となって法案を通すにはいたらなかった。「基金」は「国会」は通さなかったが、「政府」閣僚たちが合意してやった「謝罪と補償」である。それは「国家立法」を主張する人たちに「責任回避」の手段と非難されたが、1965年の国家間条約で個人補償は終わっているので国家賠償はできないと思った日本政府が、「法的責任」は存在しないと考えながらもなお、「道義的責任」を取るとして行った、いわば「責任を取るための手段」だったのである。国民の募金でまかなうと言われていたが、300万円に当たる医療福祉補助費も出されていて名前こそ「補償金」でないが、初めから決まった補償金の半分以上が国庫金から出されている。しかも、最終的には事業費の89パーセントが国庫金からまかなわれていた。そういう意味では「基金」は心を込めた「謝罪と補償」に限りなく近いものだった。

12、1965年の過去清算について

1965年の日韓条約は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づいての条約だったので、「戦争」の事後処理をめぐる条約だった。「植民地支配」という過去清算に関する条約ではなかったのである。条約の文面にひとことも「植民地支配」に対する謝罪の言葉が入ってないのはそのためのことである。実際徴用などに関しての「補償」も、中日戦争後のことに限っていた。しかし朝鮮は日本の戦争相手国ではなく、むしろいっしょに闘った立場だったので、この補償は、恩給などに当たる、いわばもと「日本国民」としてのものだった。突然両国が引き離されることになったための、貯金やその他を含む金銭的事後処理が中心だったのである。
そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。
当初韓国側は「植民地支配」による被害について(人命損失など)も請求しようとした。最終的にそれが削除された理由は明らかでないが,おそらく今でも続いている論争——「植民地支配は合法」、つまり韓国の意志でやったことだというような議論があってのことかもしれない。確かに当時においてはほかの元帝国も「植民地支配」に関して謝罪したことはなく、それは時代的思考の限界だった。つまり、1965年の条約は植民地支配についての謝罪にはなっていないが、それは冷戦下にあって元帝国諸国がそのような事に関して謝罪するような発想をするような時代に至っていなかったこと、そして元植民地側も冷戦時代のあおりを受けて、自ら「過去清算」を急いでしまったためのことだった。したがって、慰安婦問題に関して、「個人請求権」が残っているとする支援側の要求は無理がある。

13、1910年の合併条約について

さらにさかのぼって1910年の合併条約自体が「強制的」なもので「不法」だったとする議論もある。そしてこの時の条約が「不法」だとすると当然日本に「植民地支配」についての「法的責任」が生じることになる。しかし、たとえ少数が率いてやった事が明らかでも、それが「条約」という(当時における)「法的手続き」を通してのものだった以上、このことを「不法」とするのは倫理的には正しくても現実的には無理がある。それはアメリカやイギリスなどやはり植民地を作った大国の承認を得てやったことであって、彼らだけの「法」に基づくものだったという意味でなら「不法」と言えても、ともかくも「合併」を韓国が承認した文面が存在する限り、残念ながらそのことを「不法」とは言えなくなるという現実もある。
もっとも、国民のほとんどに意見が聞かれたわけでも知らされていたわけでもない「合併」は、「ほとんどの朝鮮人」の了解や承認を得ていないという点ではほんとうの意味では「了承」したとは言えない。しかし国の代表がそうしてしまった時点で、不服でも、「不法」ではないことは時代的限界と考えるべきであろう。そのような「法」に問題があったことを後世の人々が認めるのなら(すでに90年代の日本の謝罪はそれを間接的に認めたことにはなる)、法を犯していない点で「不法」ではないが、道義的に問題があったとすることは可能である。つまりすでに決められていた規則に悖る行為だったという意味で「不法」ならば「犯罪」になるが、当時においてその行為(植民地支配)に対しての価値判断がなされなかった時代である以上、「不法」=犯罪とへ言えないにしても,植民地支配を、ひとつの民族に対する「罪」とみなすことはできるはずだ。

14,「罪」と「犯罪」

韓国が求めているのは慰安婦募集と慰安所使用に関わることを「犯罪」と認めて「賠償」せよとするものである(日本の支援者の多くもそれを主張している)。しかし、当時において日本内で「売春」が「罪」と認められていなかった以上、そのことを「犯罪」とみなすことは無理がある。たとえ国際的に不法と見なし始めていた時期だったとしても、である。当時は性暴力さえもまだ「罪」と認められていなかった時代だったのであり、だからこそ男たちは罪の意識もなく強姦を繰り返したのである。
しかし「人身売買」は当時においても「罪」と認められていて、「犯罪」だった。そういう意味では、植民地支配も、強姦も、強制動員も(軍人や挺身隊),当時において「他民族」や「女性」の立場を考えなかった「罪」であったことが確かでも、当時における「犯罪」ではなかったのは仕方のないことと言えるだろう。1965年に日韓が、個人の請求権を、連合国のように「戦争賠償」ではなく、あくまでも「元日本国民」として未処理部分を処理したことに過ぎないのはそのためでもある。そしてこのように考えるのは、植民地支配やその後の思考の「罪」—時代的限界をよりよく見るためでもある。

15、再び「アジア女性基金」について

そういう意味では90年代の「道義的責任」は、そうは意識しなかったにしても、まさにそこを突いての「謝罪と補償」だった。最初に声をあげた朝鮮人慰安婦が「植民地支配」による存在ということも認識されていて、それに対する補償だったからである。そして「植民地支配」に対しての「法的責任」を求めることがいささか無理であるのはさきに述べた通りである。
すでにイタリアやイギリスも植民地支配に関して謝罪をしたことがある。もっとも、日本も,細川首相や村山首相が行った。しかし、最初は「慰安婦問題」を「植民地支配」と捉えていたのが、のちに別の国の人たちが現れることになったことが影響して、普遍的な「女性の問題」と捉えられることになったために、そのような捉え方はやがて消えてしまった。
しかし、現在この問題で、ほかの国・地域は「アジア女性基金」を受け入れて一応解決されてことになっている。そして現在補償を求めているのは「韓国慰安婦」だけなので、「韓国問題」として捉え直す必要がある。そして、あらためて「植民地支配」に対する謝罪として「基金」を拒否した人を対象に追加措置を行うことだけが解決のための唯一の道となるだろう。それは、亡くなった兵士たちに遺族年金を払うのと同じ発想——つまり、「自発的に」「国民動員」されていった「日本人慰安婦」が現れるのなら、どのように補償するのかーで考えるべきことでもある。オランダや中国などほかの国といっしょに考える「女性の人権」問題との捉え方では、朝鮮人慰安婦の特殊性が見えてこない。
橋下市長が「戦争ではどこでもやったこと」として他の国々を名指ししても当該国家から無視されているのは、それらの国がその「戦争」で日本と闘った国々だからともいえる。「女性の人権」問題とするなら、敗戦前後に多くの日本人女性を強姦したソ連もこの問題を避けて通ることはできなくなる。もちろんそのことも問題視しなければならないが、とりあえず「韓国人慰安婦問題」を解決するためには、まずは「植民地支配」問題と捉えるべきである。ほかの国々に「反省」を求めるのなら、オランダを始め世界の「元帝国」に「植民地支配」が起こした問題として、反省を呼びかけて始めて、アメリカもイギリスもオランダもこの問題を「自国」の問題として向き合うことができるだろう。それらの国の欲望のために自国や他国の女性たちが動員されて、軍人や商人に継続的な「慰安」を与えさせられていたことについて。

16、「性奴隷」について

朝鮮人慰安婦たちは基本は「売春婦」であるが,同時に「準軍人」のようなものだった。従って,彼女たちの境遇が悲惨だったのはまぎれもない事実であるが、強制労働をさせた主体は主に業者だったのだから(もちろんそのような状況を作った日本軍に責任がないというのではない)彼女たちの「奴隷性」はまずは業者との関係で言われるべきである。「性奴隷」に関してもしかり、である。彼女たちの自由を拘束したのは直接には業者だったのである。
そして彼女たちは、国家の必要によって間接的に動員されて命さえも(戦場、病気、過労働)担保にしたという意味では「国家の奴隷」でもある。それは、移動の自由も廃業の自由もさらに命を守る自由もないという意味で軍人もまた「奴隷」、という意味と同じ意味での奴隷である。軍人は「法」によって、慰安婦たちは「契約」によって構造的な奴隷となっていた。

17、河野談話

河野談話は「自分の意志に反して」慰安婦になったことを認めているのであって「強制連行」を認めているわけではない。つまり,連れていった過程が自分の意志ではなかったことと慰安所での性労働が彼女たちの選択ではなかったことに触れていて、物理的な強制性ではなく構造的な強制性を認めたことになる。それは、朝鮮人の場合、たとえ自発的に行ったように見えてもそれが植民地支配によってもたらされたことであることを正確に認めている言葉でもある。つまり、河野談話見直し派が主張しているような、いわゆる「強制性」を認めたわけではなく、しかも管理をしたという意味では「官憲が関与」したのは事実なので、そうである限り河野談話を見直す必要もないはずである。

18、解決をめぐる葛藤

日本政府が作った「基金」が「民間」のものと認識されたのは、まずは、マスコミなどの報道にもよるが、新たな補償が1965年の条約に抵触することを気にした政府が、基金に深く関与していることを十分に説明しなかったことに第一の原因がある。しかし、「仕方のない次善策」として受け止める人たちもいる中で「責任を回避するもの」と強く非難し,以後今日に至るまでこの問題で日本政府を非難している人たちは、国会立法だけが「日本社会の改革」につながると考えていた。しかし前述したように「強制連行」が焦点になっていることと1965年の条約がある限り慰安婦をめぐる被害を「国家犯罪」と見ることはできない。したがってそれを「国家犯罪」と認めて「賠償」することを求める「立法」は不可能であるほかないだろう。
にもかかわらず20年以上も基金批判者たちが「立法解決」を主張してきたのは朝鮮人慰安婦問題解決を通して「日本社会改革」を見ようとする転倒した構想があってのことでもあった。そしてその意図はなかったとしても、そのような主張は、慰安婦を結果的に日本国家のための人質にしていた主張とさえ言える。基金に反対した中心部にいた人たちは、現代政治を変えるのに過去のことを利用したことにもなるのである。 
問題は、そのような主張が韓国の支援団体の主張を支え、この二十年の間(特にこの十年)、慰安婦問題をめぐる議論や主張に反発するひとたちを日本内にたくさん増やしてしまったことである。逆に、20年前に比べても今の日本にはこの問題に感情移入できる人は減ったはずで、たとえば改めて募金をするとしてもあの時のようには応えてもらえないのが現状であろう。慰安婦問題を解決してアジアの平和を構築するはずが結果的に葛藤を呼んでしまったことについても考えるべきことがあるはずである。
支援者たちの一部は、慰安婦を日本固有のファシズムが作った問題とみなし、一方的な被害者とのみ捉えた。韓国側の誤解だった挺身隊との勘違いも感情移入しやすい原因だったはずだが、慰安婦問題は、国家間問題となってしまった以上はともかくも「国民の合意」が必要だった問題だった。
支援者たちは、天皇を犯罪者にするような国際裁判をしたが、そのような「運動」が、広く「日本国民の合意」を得られるわけもなかった。そして実際にその後2000年代の「嫌韓流」、2010年代のヘイトスピーチに見られるようなこの問題への嫌悪が広まることになるのである。

19、世界の意見

運動家たちは2000年代以降に日本政府を説得することよりも世界に訴えて日本を圧迫するやり方に出た。しかしKumarawasumi報告書をはじめ、数々の国連報告書のほとんどは韓国側の資料をそのまま鵜呑みにして作られたものだったと考えられる。そこでその多くは「20万の少女が強制的に連れて行かれ性奴隷として働かされ、敗戦後もほとんど虐殺された」と考えている。欧米の議会の決議もそれらの報告書を参考にしていているが、これまで見てきたように、世界の日本非難は、必ずしも正しいとばかりは言えない。 
国連ではオランダの女性も証言していて、オランダのケースは確かに「レイプセンター」の言葉にふさわしいものだった。しかし朝鮮人もまったく同じ状況と考えられていて、日本人慰安婦もたくさんいて、彼女たちに比べて報酬は低くても基本的には同じような状況にいたことが知られていないようである。オランダの女性が被害を受けたのは(先に述べたように、厳密な意味では「慰安婦」と言うべきではない)、彼女たちがオランダが植民地にしていたインドネシアに暮らしていたところを日本が占領したからである。したがって、オランダにしてみれば、敵だった日本に自国の女性を強姦されたことになるので、そのようなことが「世界の厳しい視線」に介入した可能性も排除できない。

20、帝国と慰安婦

橋下市長が図らずも触れたように、沖縄基地をはじめ米軍が基地をおいているところでは今でも遠い地に送られた兵士たちを「慰安」すべきとされている女性たちがいる。つまり、戦後直後の日本や韓国戦争での朝鮮戦争当時やその後の韓国がそうだったように、「軍隊」は今でも「慰安婦」を作り続けている。日本軍の慰安婦と違うのは、「国家のため」と意識させられているかどうか、そして平時(しかし戦争に待機している)か戦時かの違いだけである。
それらの「基地」は、かつて戦争や冷戦のためにおかれ、その状態を維持し続けた。そして今やアメリカこそが日本や韓国に慰安婦を作り続けているのである。もちろん日本や韓国がそれを提供し黙認している構造である。(橋下首相の「風俗業を利用せよ」との言葉は、図らずもそのことを顕すものだった)
かつて国家が政治経済的に勢力範囲を広げるべく「帝国」を作ったように、現在でも特定国家の世界掌握勢力は存在する。その中心にあるアメリカが、慰安婦問題に関して日本を非難する決議を出し続けているのはオランダの女性が入ってることや不十分な報告書によるものとはいえアイロニーと言うほかない。
弱者のために闘ってきたはずのリベラル勢力は、そうは意図しなかったはずだが、日韓の葛藤を作ることで韓国の軍事化や保守化を進めた。北朝鮮と連携して日本を批判するのも、現実には冷戦的思考を維持するのに組みしている。
したがって、支援者たちは冷戦的思考から抜け出し、否定者は慰安婦が単なる売春婦ではないことを知ることでその悲惨さに(朝鮮人日本軍を靖国に祭るのなら彼女たちは蔑むのは矛盾)気がつく必要がある。そして日本内の国民的「合意」を見いだして解決に臨むべきだ。具体的な方法は、韓国慰安婦問題の捉え直し(植民地支配問題として捉え、ほかの西洋帝国もまたこの問題と無関係であり得ないことを指摘する)、それを「罪」と認めて「道義的責任」を負うことの表明であろう。そしてかつての「基金」の思考—植民地支配を「罪」と認めての、謝罪と国庫金での補償が望ましい。

<秦・吉見議論について>

——秦郁彦教授の意見について
1)売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。売春婦としても悲惨さはいっしょだった。お金を稼ぎ、楽しかったのは、「軍のために働く存在だったから」。そして様々な境遇の一部でしかないのにそれだけに注目する傾向。たとえば運動会で楽しかったのはそれだけつらい生活をなんとかしのぐためのもの。
2)業者を朝鮮人だけと考えている—実際にはペアが多かった。
3)朝鮮人だけの責任にしたがっている—慰安婦たちが売られていったと言わないというが、証言集では言っている。
4)業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。
5)女性たちをチェックしたのはそういう商品を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないということになる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。
6)運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。

——吉見義昭教授の意見について
1)`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。
2)性奴隷?
自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性はある。
3)世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたのは、問題のある資料を提供してきた運動や欧米の思惑によるもの可能性が多い。
4)慰安婦の生活困難は業者によるもの。インフレだけではない。
5)オランダとの関係における違いを看過。
6)業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。
7)責任—人身売買は業者であるのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。
8)構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。

*どちらも見たいところだけを見ていて結論が先だっているようだ。そうである限り「歴史学者」の議論であっても接点を見いだせないだろう。
*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。
*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が償うかのこと。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)もまた大きい。
*この問題が難しいのは様々なケースがあるのに、「補償」は一つの形になったこと。
*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、売春婦は基本的に社会の弱者に担わされる役割という点で階級問題であり、社会構造が作るもの。彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。そのことを知ることこそが、慰安婦問題を考えることの意味にならなければならない。



http://egonomist.at.webry.info/201308/article_6.html



http://www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=40792&yy=2013

[주목 이책!] 제국의 위안부

제국의 위안부 / 박유하 지음/ 뿌리와이파리 펴냄
한일 관계는 늘 평행선이다. 독도문제나 일본의 우경화 행보, 한`일 과거사 청산 문제 등 갖가지 이슈를 두고 부딪히며 표류를 계속해 왔다. 이 중에는 ‘위안부’라는 큰 숙제도 포함돼 있다. 광복 68주년을 즈음해 출간된 박유하 세종대 일문과 교수의 ‘제국의 위안부’ 책에서는 “한국인이 갖고 있는 위안부의 이미지는 위안부들의 ‘기억과 경험’의 반쪽에 불과하다”고 꼬집는다. 그는 우리가 기존에 알고 있던 것과는 조금 다른 위안부 문제의 가려진 반쪽의 진실, 듣기 불편하고 외면하고 싶은 이야기들을 들춰낸다.

이 책은 위안부들의 증언을 통해 우리의 치부를 솔직히 드러낸다. 여성들을 속여 전쟁터로 끌고 가 학대와 착취를 일삼은 주체는 대부분 동포인 조선인 민간업자였다는 사실을 위안부의 증언을 통해 밝힌다. 물론 그랬다 하더라도 인간의 존엄성을 훼손하는 ‘구조’를 만들고 마지막 순서로 가담한 이들이 일본군이었다는 사실은 분명하다.

그리고 또 우리의 기억 속의 위안부는 ‘일본군 군홧발에 짓밟히는 가녀린 열다섯 소녀’ 아니면 ‘노구를 이끌고 투쟁하는 투사’다. 하지만, 이것은 “일제가 14∼25세 여성 노동력 동원을 위해 여학생 중심으로 모집한 정신대와 혼동한 결과”라며 “이런 착종된 이미지가 일본에 대한 증오를 강화시키면서 정작 동족을 팔아먹은 우리의 죄를 눈감게 만든 것은 아니냐”고 저자는 되묻는다.

저자는 그 위안부를 향해 고정된 민족주의적인 편향된 인식을 바꿀 때 오히려 과거사 청산과 동아시아 평화의 지름길이 될 수 있다고 주장한다. 식민지 지배가 야기한 야만의 폭력인 위안부 문제를 지금처럼 장기화하고 미해결 상태로 몰아넣은 것은 냉전적 사고 때문이었다는 게 저자의 해석이다. 328쪽, 1만8천원.

한윤조기자 cgdream@msnet.co.kr

매일신문 공식트위터 @dgtwt / 온라인 기사 문의 maeil01@msnet.co.kr




http://su-mi.iza.ne.jp/blog/entry/3166807/





「帝国の慰安婦」パクユハ氏著~朝鮮人慰安婦は日本軍が敗北の瞬間まで保護しようとした"軍需品" ニュース記事に関連したブログ
2013/08/25 17:57

パク・ユハ世宗(セジョン)大日本文学科教授の「帝国の慰安婦」が韓国で出版されたということで、韓国国内の反応を取材した記事がないかと探したものの、見当たらず。
ネットではこの↓書評をのせたものが出回ってるだけ。

■「韓国少女を騙したのは韓国同胞という衝撃の事実が発覚した」 韓国学者が当時の韓国人の黒歴史を公然と暴露
2013年08月18日08:30
http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50408060.html

著作のエッセンスは、
”今ふたたび「慰安婦」問題を考える(13回シリ-ズ)http://webronza.asahi.com/politics/2012040300003.html”
に大方込められていて、だいだい想像がつくのですが、それより、韓国国内の反応が知りたかったのですが・・


韓国語で検索したところ、他の書評がありました。(以下機械翻訳が主のため?な箇所あり)

■帝国の慰安婦…パク・ユハ著作
2013/8/9
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201308092100545&code=900308
2011年12月、慰安婦おばあさんの水曜集会1000回をむかえて駐韓日本大使館の前には‘平和の少女像’が立てられた。 韓服、短い髪、素足の少女は握りしめたげんこつを膝の上にのせたまま真正面を凝視している。 この彫刻像は多くの韓国人が大切に抱いてきた軍隊慰安婦のイメージをそのまま表現している。

しかしパク・ユハ世宗(セジョン)大日文科教授はこのイメージは誤りであると話す。 戦場に引きずられて行った朝鮮人軍隊慰安婦はほとんどの20代であり、正規教育を受ける程裕福でない者が多く、学生のようなおかっぱ頭をする可能性が少なかったとのことだ。

ここでパク教授は単に彫刻像の考証に問題がある、と指摘するのではない。
このような彫刻像は、帝国と植民地、階級格差など軍隊慰安婦を囲んだ複雑で微妙な状況を全部削除したまま、ただ日本軍によって強制的に連行され強姦にあった後捨てられた可憐な少女だけを賛えるということだ。

このようなできごとの背景には‘定義の独占’を試みる韓国、日本の強硬派があって、これらが問題解決をかえって難しくするとパク教授は主張する。
だから<帝国の慰安婦>は明らかに論争の的である。 先立って慰安婦問題を扱った前作<和解のために>(2005)もそうだった。 韓国大衆の民族主義感情は依然として熱い。 日本国内でも嫌韓がもりあがっていて、保守政権は露骨な右傾化の歩みを見せる。
この時点で<帝国の慰安婦>の位置づけはより一層弱くなったかも知れない。
パク教授も<帝国の慰安婦>序文で“慰安婦問題を囲んだ状況は当時(<和解のために>出版時)よりはるかに悪くなった”と話す。

<帝国の慰安婦>が言う慰安婦とはどんな人々なのか。 早々に帝国主義的拡張を試みた日本は、遠い植民地で暮らす自国民が、郷愁に浸ったり‘不便’を訴えて故国に戻ることを防ぐために‘からゆきさん’を派遣した。 からゆきさんとは、海外に出稼ぎに行った女性を指す言葉で、事実上、海外日本人居住地にある公娼の遊女を意味する。 からゆきさんは強力な国家権力、家父長制下にある貧しい女性の苦難を示している。

朝鮮人軍隊慰安婦の起源はからゆきさんにあるとみることができる。 中国、東南アジアなどの地で戦争をした日本軍のための慰安婦の需要が急増したが、日本女性だけではその需要に答えることができないため、植民地朝鮮の女性たちを募集し始めた。

ところでその募集の主体と方法で論議がある。 韓国での認識とは異なり、朝鮮人慰安婦は日本軍が強制的に連れて行ったのではなく、朝鮮の地方官僚、売春業者が貧しい女性を対象に、お金を儲けられる、ご飯が食べられる、とそそのかされて連れて行かれたという証言が多い。

もちろんパク教授は植民地の貧しい女性が異国に行かざるを得なかった”構造的な強制’を作った日本政府を免責しない。
日本右翼の主張のとおり、たとえ慰安婦が自発的に売春に出たとしても、世の中が蔑視する業を選択したことは彼女たちの意志ではなかった。 男性、軍隊、国家そして日本帝国に最終責任がある。 ただし、‘現実的強制性’を問い詰めて尋ね始めれば、‘私たちの中の協力者’まで言及しなければならないということだ。

朝鮮人慰安婦は、今日同じ境遇にあったと見なされている中国、オランダ出身慰安婦と少し違っていた。 当時朝鮮は日本の支配下にあったためだ。 ‘朝鮮人慰安婦’の‘朝鮮’とは、国籍ではなく出身地にすぎず、彼女らは書類上日本人だった。

国籍が朝鮮でも日本でも中国でも性を搾取されたという点では同一だが、朝鮮人慰安婦は‘敵の女’ではなかったので、日本軍の家族、恋人の役割までするように要求されていた。 朝鮮出身日本軍属がそうであったように、朝鮮人慰安婦は中国、インドネシアなど現地の人たちに‘敵’の扱いを受けた。

慰安婦問題が公論化されて20年が過ぎても解決されないのは、日本政府の謝罪と補償がなかったからだとする韓国人の認識にも起因する。 しかし日本が慰安婦問題に対して一切知らないふりをしていたのではない。
パク教授は1993年日本官房長官河野洋平名義で発表された‘河野談話’と、以後作られた‘アジア女性基金’を高く評価する。 河野談話は“軍の要請を受けた業者”が慰安婦を募集し、慰安所の設置、管理、慰安婦移送に日本軍が直間接的に関与した事実を認めた。 また、慰安所での生活が慰安婦本人の意志に反して行われ、残酷だったという点も指摘した。

社会党党首である村山富市が導いた日本内閣は慰安婦問題を解決しようとしたが、保守的な自民党議席数が社会党の三倍であった当時、議会では関連法制を作成できなかった。日本では過去清算問題は、1965年日韓基本条約で解決された、という立場が主流だったためだ。

村山内閣が代案に出したのがアジア女性基金だった。 国会を経ないで政府が基金を用意し、補償金と共に村山総理の手紙を届けるという計画だった。 この補償金を‘民間基金’として理解した韓国の世論は、これを受け入れれば日本政府の謝罪を受けることができない、と考えて拒否の動きを見せた。
しかしアジア女性基金補償事業には52億円のお金が投入され、この内90%が政府予算だった。 そして補償金と日本の謝罪を受け入れた慰安婦も61人いた。 依然として水曜集会に出て行く‘闘士’もあるが、そうではない人達もいるという点を知るべきだ、とパク教授は主張する。

慰安婦問題解決運動で慰安婦は当事者なのか。 パク教授はここで韓国と日本の慰安婦支援団体を批判する。 彼は挺身隊問題対策協議会が‘抵抗する慰安婦’のイメージと‘謝罪しない日本’のイメージを作ったが、これに反する多様な様相は不当に低く扱われていると指摘する。

また、挺身隊対策協の主要な要求である日本の法的賠償、国会決議を通した謝罪と賠償は事実上実現の可能性がなく、要求する根拠も不充分だとしながら "反帝国の意味を持っていた抵抗が、そこでは、いつのまにか民族権力化されていた"と言う。

日本の良心的市民に応援されている慰安婦支援運動も同じだ。朴教授は、日本の慰安婦支援運動は、被害女性のためのものではなく、日本の保守的な政治構図を廃止しようとする左派陣営の手段にとどまると見ている。もちろん、先に述べたように、慰安婦問題の解決責任は、まだ日本政府にある。

1965年韓日協定で日本は被害者個人に対する‘法的責任’をつくしたという立場だが、それは戦争後処理に対するもののみで、植民地支配支配全体に対することではなかった。 もちろん過去の植民地支配に対して謝った前帝国国家は探すのに難しい。 だが、日本が韓日協定の時代的限界を先に認めて、過去の植民地化に対して反省すれば、むしろ世界史的に意味のあることになる。

1990年代の謝罪と補償も惜しい。 パク教授は当時の問題は補償主体でなく補償態度だったと指摘する。 国家補償に近かったのに政府の関与を明確に表わさなかったし、インドネシア、中国、朝鮮出身慰安婦に対する区分も繊細でなかった。

このような状況なのに日本の保守政治家は依然として“20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だったが、日本も例外でない” “広い意味の強制性はあったが狭い意味の強制性はなかった”(安倍晋三)式に茶を濁している。

しかし、慰安婦問題に対する国際社会の関心が今一度高まる今の状況で、日本は外部的に一つの声を聞かせなければなければならない、とパク教授は提案する。
日本も慰安婦問題解決のために多くの努力した、という点を被害者や国際社会の耳に届くようにしなければならない。

結局、慰安婦は民族の問題というよりは、国家の問題であり資本の問題であった。 振り返ってみると帝国主義日本だけが慰安婦を動員したのではない。 慰安婦は“日本の天皇制や日本の軍国主義でなく、国家勢力を維持・拡張させるために軍隊を維持する国家システムが作った問題”というものだ。

パク教授は2次世界大戦の勝利以後、韓国・日本に基地を置いた米軍基地周辺にも視線を向ける。 今、基地の村には韓国人女性の代わりに朝鮮族、ロシア、ペルー、フィリピン女性が大挙入ってきている。 朝鮮人軍隊慰安婦だけでなくこれらすべてが被害者だ。 “自分の家も土地もなく、身の置き所を探して移動したり、選択するのはいつも社会で最も弱い者だった。 貧困が、故郷を離れるよう、彼らの背中を強く押し、社会的に最も脆弱な階層が慰安婦になった。
貧しい人々は、経済的自立をするための文化資本(教育)と社会安全網を持っていなかったため、他の職業を探せず、自身の身体(臓器、血、性)を売ることになる。”

パク教授は<帝国の慰安婦>で民族主義的情熱が東アジアの平和と和解を遮る姿を批判する。 そして日本の道徳的傲慢を警戒しようと提案する。 慰安婦被害者を私たちが願うまさにその姿の‘被害者’として剥製化し‘闘士’や‘民族の娘’にするよりは、ひとりの個人に戻れるように助けるべきだと話す。

現在の韓国の状況で、パク教授のこのような主張は親日派の声を聞くに丁度良い。 実際インターネットでは彼女を‘偽装した日本右翼’という方式で批判する意見が少なくない。 68周年光復節を控えて出版された大胆かつ論争的な<帝国の慰安婦>は韓国でどのように受け入れられるだろうか。

■もうひとつのの慰安婦見解…不快な再認識
[帝国の慰安婦]朴裕河著
2013-08-10
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20130810016005
韓国・日本の過去の歴史の清算と解決に関する限り、両国政府は常時平行線を走っており、今も漂流している。 そして漂流する過去の歴史清算の中心には慰安婦という巨大事案が位置している。 私たちは果たして慰安婦の実状についてどれくらい知っているだろうか。

‘帝国の慰安婦’は、その清算の大きなきっかけに位置づけられた慰安婦の実体を、一般の認識とは少し違った角度から解剖して目を引く。"植民地の矛盾"を最もすさまじく生き延びた慰安婦。世宗(セジョン)大日本文学科教授である著者は、慰安婦に対して固定された、その民族主義的な視線が危険であり、その偏向した認識を変えることが、むしろ過去の歴史清算と東アジアの平和の近道になると主張する。

‘朝鮮人慰安婦’とは、朝鮮人日本軍と同じように抵抗したが、屈服して協力した植民地の悲しみと屈辱を一体に経験した存在だ。
日本が主体になった戦争に引きずられて行っただけでなく、軍が行く所ごとに言いなりにならなければならなかった奴隷であることは明らかだが、詐欺などの不法手段に強制的に引っ張っていった主体は日本軍でなく業者だった、という事実を慰安婦の証言を通じて明らかにする。

もちろん著者は、朝鮮人両親によって売られたり朝鮮人業者によって強制的に引きずられて行ったとしても、人間としての尊厳性を傷つけることになる構造を企画し、最後に加担したのは日本軍だったと明快に話す。
しかし植民地支配が引き起こした野蛮で暴力的な慰安婦問題を、今のように長期化して未解決状態に追い詰めたことは、冷戦的思考のためであったというこのが著者の解釈だ。

この本には、ほとんどの読者が不快に思って我慢が必要になるほどの衝撃的な内容でいっぱいだ。しかし、自分たちの体験を淡々と話す慰安婦の話を聞く読者は、自分達が聞きたい話だけを選んで聞いていたという意味で、彼女らの体験を歪曲することに加担してきたわけである、という主張は無駄とは言えない。

■慰安婦の半分の真実…遮られた半分を暴く 
帝国の慰安婦/パク・ユハ著作
2013/8/10
http://m.donga.com/home/3/all/20130810/56940279/3
8・15光復節を控えて出版された、日本軍慰安婦を扱った本というと浮び上がる固定観念があるだろう。 だが、少し読んでみると私たちが気軽に思い浮かべる通念が無惨に壊れてしまう。一言で言えば慰安婦の韓国人の誤った認識とアプローチが今日の日本の右傾化をもたらしたという主張だ。かっとした。なんだ、被害者である慰安婦おばあさんを、売春婦だと罵倒する加害者日本の声に耳を傾けようということか。

著者はそのような浅はかな日本右翼の声に、決して同調しているのではない。 ただしその人権侵害犯罪の責任が日本帝国主義にだけあるのではなく、植民支配と貧困、家父長制、国家主義の複合的産物であることを強調しているのである。
この問題を無条件に日本の国家犯罪と賠償に連結させて、慰安婦おばあさんを永遠に人質として捉えておくことを、止めなければなければならないと主張する。
韓国人ならば‘いやなぜ私たちが傲慢な加害者を徹底的に断罪するのに、遠慮しなければならないだろう?’と反問するだろう。

しかし、それが本来、私たち自身に不都合な情報は無視して、日本に不利な内容を拡大再生産させる記憶の操作で行われたものであるとすれば?それゆえ理解と和解ではなく、怒りと敵対の悪循環を招くだけであるならば?(中略)

この本の本当の敏感な部分は、慰安婦の数々の証言中に含まれている"日本軍の残虐性に亀裂を与える"証言である。
彼女らをだまして戦場に連れて行って虐待と搾取を日常的に行った主体は、ほとんど同胞である朝鮮人の民間業者であった。

そして、朝鮮人慰安婦は中国人や東南アジア人慰安婦とは異なり、特別な扱いを受けた。朝鮮人慰安婦が日本軍の敗北の瞬間まで保護しようとした"軍需品"だったら、他の国の女性は自由にレイプして殺してもかまわない"戦利品"であった。

私たちの記憶の中の慰安婦は"日本軍の軍靴に踏みにじられるか細い十五才の少女'、でなければ'老躯を駆って闘う闘士"だ。日帝が14〜25歳の女性の労働力動員のために女子学生を中心に募集した女子挺身隊と混同した結果だと著者は主張する。

同時にこう問いかける。このような錯綜したイメージが日本に対する憎悪を強化させる一方で、本来肝心の同族を売リ飛ばした私たちの罪から目そむけさせたのではないかと。
著者のこのような挑発的な主張に納得するのは明らかに容易ではない。しかし、慰安婦問題について、日本だけ鋭くにらんできた私たち自身の姿を、一度も鏡に映してみることもなかったのではないだろうか。
一般読者の反応はわからないのですが、「(韓国人)自身に不都合な情報は無視して、日本に不利な内容を拡大再生産させる記憶の操作」によって作られた固定観念を覆すのは容易でないことだけは、あらためて認識されます。

そして、朝鮮人をだましたのは朝鮮人、というあたりまえの事実すら、受け入れられないとすれば、他の国の慰安婦と異なり「特別扱いを受けていた」こと、中国・インドネシアなどの現地の人からは「敵の女」であったことなど、到底理解されないでしょう。

軍需品と戦利品、という例えは強烈ですが、この朝鮮人慰安婦問題と中国などの性暴力被害事例の違いに対して、こういう視点をもった人は他にいないのではないでしょうか。
この切り口は明解だと思います。

日本政府は女性たちに賠償すべきという立場の活動家や研究者たちは、このあたりを区別していません。とにかく、旧日本軍が歴史的にも突出して残虐だったという脈絡で、いっしょくたにしているように見えます。

また、慰安婦は単なる売春婦だった、という主張の人たちからは、性暴力事件に対する視点が欠落しているように見えます。
あるいは、そもそも朝鮮人慰安婦(慰安婦制度)の問題だけを論じているので、性暴力事件=「戦利品」事件は、除外を自明の理としているのかもしれません。

朴教授の分類はこうです。

”オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれは文字通りの「強制連行」に間違いない。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言えない。

日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。

このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。”

「韓国で慰安婦問題に関する新しい本を出しました。ちょうど先日日本で講演の機会があったとき、この問題をめぐる日本での議論に添って本の内容の一部をまとめたのでアップしておきます。2013年7月29日 19:37 fb」より

氏がこのように分類するのは、朝鮮人(台湾人)慰安婦のもつ「植民地性」にもっとも重きをおいているからでしょう。
それゆえ、活動家たちが「世界運動」を展開することによって、朝鮮人自身の罪が隠ぺいされるとともに、植民地問題が捨象されたとして、批判しています。


■【転換期の日本から】――今ふたたび「慰安婦」問題を考える(12)――「世界運動」の効果
朴裕河(世宗大学校日本文学科教授)2012年05月21日
http://webronza.asahi.com/politics/2012040300003.html
ともかくも支援側は日本政府や意見の違う否定側との接点をさぐることより、日本の外部、つまり韓国や世界と連帯することにより多くの労力を割きました。つまり「日本」に見切りをつけて、被害当該国やその他の国家に訴え、あるいは連携して、外部から日本政府に圧力をかける戦略を取ったことになります。

世界を相手に運動を始めたころ、「『慰安婦』問題だけでやっても無理」だから「人身売買とリンクさせなさい」との忠告を国連の関係者などから受けたといいます。最初は国連の「拷問禁止委員会」も「現在」のことだけをやっていて、「過去」の「慰安婦」問題には関心が低かったというのです。

そこで運動家たちは、2004年に「ストップ女性への暴力」とのキャンペインをスタートさせ、「紛争下の女性に対する暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れることができました。各国の支部がこの問題に取り組むようになったのはその後のことということです。

そして2007年11月、アムネスティの主導で「慰安婦問題解決のためのスピーキングツアー」が実施されるようになり、オランダ、欧州連合(EU)、ドイツ、イギリス、カナダなどを被害者たちが訪問し、証言することが続きました。その結果、11月から12月にかけてオランダ、カナダ、EUの各会議で「慰安婦」決議が採択されました。

このような経過が、運動家たちの地道な活動の結果であることは間違いありません。
しかし、「人身売買」とリンクさせたことは、以前指摘したように、本来ならば「慰安婦」問題を考える際に度外視できないはずの「業者」の問題を隠蔽することになりました。

いまや西洋諸国は、「慰安婦制度は20世紀の人身売買の最も大規模な例の一つ」としながら「皇軍の行為を言葉を濁さず、明確に、公式に認める」(「欧州議会決議」、引用は梶村太一郎「歴史認識の不作為と正義の実現 欧州議会対日『慰安婦』決議を読む」「世界」2008・6)ことを要請しているように、人身売買自体に日本軍がかかわったかのように認識しているのです。

たとえ業者を軍などが「選定」(吉見義明「『従軍慰安婦』問題研究の到達点と課題」「歴史学研究」2009・1)したとしても、必ずしもそのすべてがそうだったわけではありません。さらに、動員の実態が「人身売買」であったことを承知して日本軍が指図したのでないかぎり、「人身売買」の主体を「日本軍」とするのは必ずしも正確とは言えないでしょう。

そして現在の問題としての「紛争下の女性への暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れたのは、植民地問題を捨象することでもありました。(以下略)

朴教授が批判しているのは日本の帝国主義と植民地支配でしょう。しかし、そうなると、日韓併合を日本帝国主義による一方的な「植民地支配」であったと言えるのかどうか、そこに朝鮮半島の自主性が全くなかったと言えるのか、という問題に突き当たると思われます。

「帝国の慰安婦」が韓国で受け入れられ、韓国人慰安婦の実態を正しく客観的に認識できる人が増えることは、まるで期待しませんが、読んでみたいので、なるべく早く邦訳が出ることを期待します。





http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201308092100545&code=900308


[책과 삶]위안부 해법, 일본정부는 물론 한국의 민족주의도 걸림돌
백승찬 기자 myungworry@kyunghyang.com
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▲ 제국의 위안부…박유하 지음 | 뿌리와이파리 | 328쪽 | 1만8000원

2011년 12월, 위안부 할머니들의 수요집회 1000회를 맞아 주한 일본대사관 앞에는 ‘평화의 소녀상’이 세워졌다. 한복, 단발머리, 맨발의 소녀는 움켜쥔 주먹을 무릎 위에 올려놓은 채 정면을 똑바로 응시하고 있다. 이 조각상은 많은 한국인들이 간직한 군위안부의 이미지를 고스란히 보여준다.

그러나 박유하 세종대 일문과 교수는 이 이미지가 잘못된 것이라고 말한다. 전쟁터에 끌려간 조선인 군위안부는 대부분 20대였고, 정규교육을 받을 만큼 부유하지 못한 이들이 많았기에 학생에게 어울리는 단발머리를 할 가능성이 적었다는 것이다. 여기서 박 교수는 단지 조각상의 고증에 문제가 있다고 지적하는 것이 아니다. 이러한 조각상은 제국과 식민지, 계급 격차 등 군위안부를 둘러싼 복잡하고 미묘한 상황을 모두 삭제한 채, 오직 일본군에 의해 강제로 끌려가 강간당한 뒤 버려진 가련한 소녀만을 기린다는 것이다. 이런 일들의 뒤에는 ‘정의의 독점’을 꾀하는 한국, 일본의 강경파들이 있고, 이들이 문제 해결을 오히려 어렵게 한다고 박 교수는 주장한다.


그래서 <제국의 위안부>는 분명 논쟁적이다. 앞서 위안부 문제를 다룬 전작 <화해를 위해서>(2005) 역시 그랬다. 한국 대중의 민족주의 정서는 여전히 뜨겁다. 일본엔 혐한 분위기가 일고 있고, 보수 정권은 노골적인 우경화 행보를 보인다. 이 시점에서 <제국의 위안부>의 입지는 더욱 취약해졌을 수도 있다. 박 교수도 <제국의 위안부> 서문에서 “위안부 문제를 둘러싼 상황은 당시(<화해를 위해서> 출간 시)보다 훨씬 나빠졌다”고 말한다.<제국의 위안부>가 말하는 위안부란 어떤 사람들인가. 일찌감치 제국주의적 확장을 시도했던 일본은 식민지로 떠난 자국인들이 향수에 젖거나 ‘불편’을 호소해 고국으로 돌아오는 것을 막기 위해 ‘가라유키상’을 파견했다. 가라유키상이란 해외에 돈을 벌러 떠나는 여성을 일컫는 말로, 사실상 해외 일본인 거주지에 있는 공창의 유녀를 뜻한다. 가라유키상은 강력한 국가권력, 가부장제 아래 있는 가난한 여성의 고난을 보여준다.

조선인 군위안부의 기원은 가라유키상에 있다고 볼 수 있다. 중국, 동남아 등지에서 전쟁을 하던 일본군을 위한 위안부의 수요가 급증했는데, 일본 여성만으로는 그 수를 감당할 수 없자 식민지 조선의 여성들을 모집하기 시작했다. 그런데 그 모집의 주체와 방법에서 논란이 있다. 한국에서의 인식과 달리, 조선인 군위안부는 일본군인이 강제로 끌고 갔다기보다는 조선의 지방관료, 매춘업자들이 가난한 여성을 대상으로 돈을 벌게 해준다거나 쌀밥을 먹게 해준다는 꼬드김으로 데려갔다는 증언이 많다. 물론 박 교수가 식민지의 가난한 여성이 이국으로 떠날 수밖에 없는 ‘구조적 강제성’을 만든 일본 정부를 면책하지 않는다. 일본 우익의 주장대로 설령 위안부들이 자발적으로 매매춘에 나섰다 하더라도, 세상이 멸시하는 일을 선택한 것은 그녀들의 의지가 아니었다. 남성, 군대, 국가 그리고 일본 제국에 최종 책임이 있다. 다만, ‘현실적 강제성’을 따져묻기 시작하면, ‘우리 안의 협력자들’까지 언급해야 한다는 것이다.

조선인 위안부는 오늘날 같은 처지에 있었던 것으로 여겨지곤 하는 중국, 네덜란드 출신 위안부와 조금 달랐다. 당시 조선은 일본의 지배 아래 있었기 때문이다. ‘조선인 위안부’라는 말에서 ‘조선’이란 국적이 아닌 출신지일 뿐, 이들은 서류상 일본인이었다. 국적이 조선이든 일본이든 중국이든 성을 착취당했다는 점에서는 동일하겠지만, 조선인 위안부는 ‘적의 여자’가 아니었기에 일본군의 가족, 연인의 역할까지 하도록 요구받았다. 조선 출신 일본 군속이 그러했듯, 조선인 위안부들은 중국, 인도네시아 등 현지인들에게 ‘적’ 취급을 받기도 했다.

위안부 문제가 공론화된 지 20년이 지나도록 해결되지 않는 것은 일본 정부 차원의 사과와 보상이 없었다는 한국인의 인식에도 기인한다. 그러나 일본이 위안부 문제에 대해 일절 모른 척하고 있었던 것만은 아니다. 박 교수는 1993년 일본 관방장관 고노 요헤이 명의로 발표된 ‘고노 담화’와 이후 만들어진 ‘아시아여성기금’을 높이 평가한다. 고노 담화는 “군의 요청을 받은 업자”가 위안부를 모집했으며 위안소의 설치, 관리, 위안부 이송에 일본군이 직간접적으로 관여한 사실을 인정했다. 또 위안소에서의 생활이 위안부 본인의 의사에 반해 행해졌고 참혹했다는 점도 적시했다.

사회당수인 무라야마 도미이치가 이끌던 일본 내각은 위안부 문제를 해결하려 했으나 보수적인 자민당 의석수가 사회당의 세 배였던 당시 의회에서는 관련 법제를 만들기 불가능했다. 일본에서는 과거청산 문제가 1965년 한일기본조약으로 해결됐다는 입장이 주류였기 때문이다. 무라야마 내각이 대안으로 내놓은 것이 아시아여성기금이었다. 국회를 거치지 않고 정부 차원에서 기금을 마련해 보상금과 함께 무라야마 총리의 편지를 전달한다는 계획이었다. 이 보상금을 ‘민간기금’으로 이해한 한국의 여론은 이것을 받아들이면 일본 정부 차원의 사과를 받을 수 없다고 생각해 거부 움직임을 보였다. 그러나 아시아여성기금 보상사업에는 52억엔의 돈이 들어갔고, 이 중 90%가 정부 예산이었다. 그리고 보상금과 일본의 사과를 받아들인 위안부도 61명이 있었다. 여전히 수요집회에 나가는 ‘투사’도 있지만, 그렇지 않은 이들도 있다는 점을 알아야 한다고 박 교수는 주장한다.

위안부 문제 해결운동에서 위안부는 당사자인가. 박 교수는 여기서 한국과 일본의 위안부 지원 단체를 비판한다. 그는 정신대문제대책협의회가 ‘저항하는 위안부’의 이미지와 ‘사죄하지 않는 일본’의 이미지를 만들었지만, 이에 어긋나는 다양한 양상은 외면한다고 지적한다. 또 정대협의 주요한 요구인 일본의 법적 배상, 국회 결의를 통한 사죄와 배상은 사실상 실현 가능성이 없고 요구할 근거도 불충분하다면서 “반제국의 의미를 가졌던 저항이 그곳에서는 어느새 민족권력화되어 있었다”고 말한다.

일본의 양심적 시민으로 응원받고 있는 위안부 지원운동도 마찬가지다. 박 교수는 일본의 위안부 지원운동은 피해 여성을 위한 것이기보다는 일본의 보수적 정치 구도를 혁파하려는 좌파 진영의 수단에 그친다고 본다.

물론 위에서도 언급했듯 위안부 문제의 해결 책임은 여전히 일본 정부에 있다. 1965년 한일협정으로 일본은 피해자 개인에 대한 ‘법적 책임’을 다했다는 입장이지만, 그것은 전쟁 후 처리에 대한 것일 뿐 식민지 지배 전체에 대한 것은 아니었다. 물론 과거의 식민지 지배에 대해 사과한 전(前) 제국 국가는 찾기 어렵다. 하지만 일본이 한일협정의 시대적 한계를 먼저 인정하고 과거의 식민지화에 대해 반성한다면 오히려 세계사적으로 의미 있는 사건이 될 수 있다.

1990년대의 사죄와 보상도 아쉽다. 박 교수는 당시의 문제는 보상 주체가 아니라 보상 태도였다고 지적한다. 국가보상에 가까웠는데도 정부의 관여를 명확히 드러내지 않았고, 인도네시아, 중국, 조선 출신 위안부에 대한 구분도 섬세하지 않았다.

이런 상황인데 일본의 보수 정치인들은 여전히 “20세기는 인권이 세계 각지에서 침해당한 세기였는데, 일본도 예외가 아니다” “넓은 의미의 강제성은 있었지만 좁은 의미의 강제성은 없었다”(아베 신조)는 식으로 물타기를 하고 있다. 그러나 위안부 문제에 대한 국제사회의 관심이 다시금 고조되는 지금 상황에서 일본은 외부적으로 하나의 목소리를 들려줘야 한다고 박 교수는 제안한다. 일본에도 위안부 문제 해결을 위해 노력한 이들이 많다는 점을 피해자와 국제사회가 들을 수 있도록 해야 한다.

결론적으로 위안부는 민족의 문제라기보다는 국가의 문제이자 자본의 문제였다. 돌아보면 제국주의 일본만이 위안부를 동원했던 건 아니다. 위안부는 “일본의 천황제나 일본의 군사주의가 아니라 국가세력을 유지/확장시키기 위해 군대를 유지하는 국가 시스템이 만든 문제”라는 것이다. 박 교수는 2차 세계대전의 승전 이후 한국, 일본에 기지를 둔 미군 기지 주변으로 시선을 돌린다. 이제 이곳 기지촌에는 한국인 여성 대신 조선족, 러시아, 페루, 필리핀 여성이 대거 들어왔다. 조선인 군위안부뿐 아니라 이들 모두가 피해자다. “자신을 위한 집도 땅 한 뼘도 없이 몸담을 곳을 찾아 이동을 당하거나 선택하는 것은 늘 사회에서 가장 약한 자들이었다. 빈곤이 고향을 떠나도록 그들의 등을 떠밀었고, 사회적으로 가장 취약한 계층이 위안부가 되었다. 가난한 이들은 경제적 자립을 할 만한 문화자본(교육)과 사회안전망을 갖지 못한 탓에 다른 직업을 못 찾고 자신의 신체(장기, 피, 성)를 팔게 된다.”

박 교수는 <제국의 위안부>에서 민족주의적 열정이 동아시아의 평화와 화해를 가로막는 모습을 비판한다. 그리고 일본에 대한 도덕적 오만을 경계하자고 제안한다. 위안부 피해자들을 우리가 원하는 바로 그 모습의 ‘피해자’로 박제화해 ‘투사’나 ‘민족의 딸’로 만들기보다는, 한 사람의 개인으로 돌아갈 수 있게 도와야 한다고 말한다.

현재 한국적 상황에서 박 교수의 이러한 주장은 친일파 소리를 듣기 딱 좋다. 실제 인터넷에서는 그를 두고 ‘위장한 일본 우익’이라는 식으로 비판하는 의견이 적지 않다. 68주년 광복절을 앞두고 출간된 대담하고 논쟁적인 <제국의 위안부>는 한국에서 어떻게 받아들여질까.

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