Sunday, November 10, 2013

Sexual violence victims in the Philippines by Imperial Japan,Fukuoka network

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フィリピンでの性暴力被害
★アジア各国の被害状況 - 2013年08月13日 (火)
1 フィリピンの歴史

面積は299、404平方キロメートル(日本の8割)で7109の島々があり、これらの島の数はインドネシアの次に多い。多民族国家であり、言語が80前後ある。公用語はタガログ語(マニラ近郊の言葉)と英語である。宗教は国民の83%がカトリック教である。

1571年から1898年までスペインの植民地としてローマ・カトリック教が深く浸透した。1898年、アメリカ・スペイン戦争でアメリカ合衆国が勝利し、パリ講和条約によりフィリピンはアメリカの支配する植民地となったことで、アメリカの公教育制度、民主主義、価値観、文化をフィリピンに植え付けた。

1935年に「タイデイングス=マックフィ法」(フィリピン独立法)が成立し、アメリカに有利な関税制度と引き換えではあったが、フィリピンに10年後の独立を約束していた。だが、1942年に日本軍政が敷かれ、1945年の終戦により日本軍は撤退した。
1946年にフィリピン共和国として独立した。



2 太平洋戦争(フィリピン)

1941年12月8日午後1時半(真珠湾攻撃から10時間後)に、日本軍(台湾から2編隊)がルソン島中部のクラーク、イバの両空軍基地を爆撃し、米軍はほとんどフィリピンの制空権を失う。

12月12日に日本軍は台湾から師団(3万4千人)リンガエン湾に、満州からの師団(約7千人)が24日にラモン湾に上陸した。両師団は27日にマニラ市に入った。
そして1942年1月2日のマニラ市を焼撃し、陥落させ、日本軍政部を設置した。
アメリカ極東軍の全軍(ほとんどがフィリピン人兵)はマニラ湾口のコレヒドール島に立てこもった。


日本軍は4月4日にバタヤン半島を、5月7日にコレヒドール島を陥落させた。すでにマヌエル・ケソン大統領はアメリカ(2月20日)に、米軍司令官ダグラス・マッカーサーはオーストラリア(3月11日)に、コレヒドール島から脱出していた。


日本軍の捕虜虐待でよく知られる「パターン死の行進」は、コレヒドール島陥落後、アメリカ極東軍兵士および住民6万人~10万人を、パターン半島マリベレスからオードネル捕虜収容所まで約100キロメートルを強制的に徒歩で移動させた。


乾季の猛暑の中でマラリア、赤痢、デング熱などの病気あるいは飢えで行進中の兵士はつぎつぎに倒れたが日本軍は彼らを容赦なく虐待し、ときには虐殺した。
5000人~18000人が死亡したと推察される。


1943年10月14日、日本軍はホセ・P・ラウレルを大統領とする傀儡政権下でフィリピン共和国を発足させ、形式的に日本の軍政は廃止された。


1944年10月21日レイテ島(日本軍約2万人)にマッカーサーは10万5000人の大軍を率いて上陸した。23日~26日までレイテ島沖海戦で日本海軍は敗れ、壊滅的打撃を被った。1945年2月3日~23日にマニラ地上戦となった。


このマニラ戦で日本軍による一般市民の大量虐殺がおこなわれた。
アメリカ極東軍は1945年2月25日~5月4日までに、パラワン、バライ、セブ、ネグロス、ミンダナオ島ダバオを占領することによって、日本軍からフィリピン全土を解放した。


これによってフィリピンにおけるアジア太平洋戦争が終結した。フィリピン人戦没者は約110万人にもおよんだ。日本軍兵士は61万3600名中49万8600名が戦病死・餓死した。


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3、フィリピンの「慰安婦」(性奴隷)の特徴

日本軍は南方政策において、中国戦線から直接移動してきており、軍装備以外の補給はなく「現地調達」を原則にしていた。そこで、食糧、居住用建物、その他の物質の調達を暴力的に略奪していた。同時にフィリピン女性に対するレイプ、それに続いて女性を囲みこみ性奴隷とした。

この住民への暴力の背景には、「現地調達」のためだけでなく、抗日ゲリラの撲滅の目的でもあった。この抗日ゲリラにはアメリカ軍と強い繋がりを持ったユサップフェゲリラや、フィリピンの共産党や社会党の影響下にあった農民が組織したフクバラハップ(抗日人民軍)があった。

また、ルソン、パナイ、マニラなどにも抗日ゲリラの組織がいくつもあった。日本軍は飢えと病気、長期の軍隊生活、ゲリラとの戦いに荒み、軍としての規律も希薄であり、はけ口として現地フィリピン女性へのレイプが多発した。


フィリピンの「慰安婦」の特徴として、日本軍「慰安婦」制度での性奴隷と占領地のフィリピン女性に対するレイプとそれに続く駐屯地での監禁・性奴隷化の二つに分類できる。

この分類を「資料集 日本軍にみる性管理と暴力」(2008年・梨の木舎)の資料からみてみる。



●1、日本軍「慰安婦」制度での性奴隷

1942年5月~11月のパナイ島イロイロの第44碇泊場出長所日報綴によるとマニラより24名の台湾女性が慰安所に送られてきている。その後何度かの入れ替わりがあった。1週間に1回の医師による検黴の結果をみると、徐々に性病の罹患率があがっている。


また、1942年4月1日~11月30日独立守備歩兵第35大隊第1中隊陣中日誌によると、ブツアンにフィリピン女性3名をおき慰安所を開設したと記録されている。つづいて、マスパテ島、ブツアン、ミンダナオ島のカガヤン、セブ島などに慰安所が設置されている。また、朝鮮人女性、日本人女性の存在が記録されている。
また「陸亜密大日記」(1942年)では、マニラ軍政支部が、邦人「ホテル」業者に営業禁止を命じたものが4件あり、在留邦人が「ホテル」名義の下にフィリピン女性に売春行為をさせているとして営業禁止を命じている。


以上のことから、性病管理ができる軍「慰安所」を各地に作りながら、一方では性病管理のできない私設の慰安所は取り締まったことがわかる。つまり、フィリピン戦線が進むと同時に兵士の性病の蔓延という問題がでてきたからである。



●2、占領地のフィリピン女性に対する強姦とそれに続く駐屯地での監禁・性奴隷化

1942年、タクロガン憲兵分隊雑書綴に強姦被告事件の投書が載っている。レイテ島タウワン町カタツグコツグ部落の一住民よりレイテ州知事宛に、カタツクコング部落に駐屯する部隊の略奪、レイプに関する件で、兵士たちの食糧、衣服などの生活必需品の強奪、泥酔しながら家々に女性を探して(妊婦も含めて)強かんしているとして、地球上最も下劣な不道徳な行為だと訴えている。また、このような強奪および殺害女性へのレイプに対しての調書が多数記録されている。


日本軍による「現地調達」と称する強奪・略奪により農村の疲弊化が進み、産業が壊滅するとともに、生活の逼迫状態はその度を増していった。女性たちは日常の生活の中(薪の調達、洗濯など)でレイプされ、その後拉致され、駐屯地での性奴隷になったものが多い。また、反日ゲリラのいる村は男性を虐殺し村を焼いたあと、女性をレイプしたという。(住民虐殺・集団レイプ)


1945年のフィリピンへの米軍上陸以降、日本軍は「占領地」から撤退、敗走を余儀なくされた。日本兵はそれまで以上に「現地生活」という名目のもとで、食料確保に奔走したが、実際はマラリアなど熱病や栄養失調、餓死との戦いであった。同時にフィリピン住民は日本兵から暴力・虐殺・女性へのレイプなどのありとあらゆる暴力でいかに苦しめられたかがわかる。また、この様な虐待・レイプは教会や公的施設、地主の家などの日本軍が駐留していた場所で行なわれた。


4「 慰安婦」となった女性たちの証言

1991年、元「慰安婦」として初めて韓国の金学順さんが名乗り出た。これに呼応して「アジア人権評議会(AWHRC)」は、ラジオ放送を通して被害者に名乗り出るように呼びかけた。1992年10月、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが初めて自分の体験を明らかにした。1993年には被害女性46名が日本政府による賠償を求めて、東京地方裁判所にフィリピン「従軍慰安婦」国家補償請求裁判をおこした。


筆者がフィリピンの被害女性たちの証言、フェアリスさんとヘンソンさんの手記を読み、またリラ・ピリピーナでの被害女性との短い時間での出会いの中で印象に残ったことは、被害女性の静謐さと自分の権利をきちんと主張する姿勢であった。フィリピンはカトリック教で、女性の「純潔や処女性」に大きな価値観を持っている。だが、フィリピンでは結婚した人もしなかった人も、ほとんどの人が家族に囲まれて生きてきている。


この「家族」は血のつながりでなく家族・親族という拡大家族である。
このような拡大家族に被害女性たちは包摂されることで、戦後を生きることができたのではないだろうか。また、子ども達も母親の被害に対して驚きはしたものの「お母さんが死んでいたら私はいなかった」として被害の現実を受け止めている。


現在の若いフィリピン人はどう考えているのかわからないが、40代半ばの在日フィリピン女性との話しあう中で、親には「恩」があるという言葉を聞いていた。その時は、日本の「親孝行」と同じ意味だと思っていた。だが、この「恩」の意味は「私を生んでくれてありがとう」という意味でもあったのだと理解できた。

(★当ブログの証言者たちのページをご覧ください)


「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(紀)



参考文献および資料
児島襄(1989)「太平洋戦争・上下」中央公論社
鈴木静夫(1997)「物語フィリピンの歴史」中央公論社
戦地性暴力を調査する会編(2008)「資料集・日本軍にみる性管理と性暴力」梨の木舎
永井均(2013)「フィリピンと対日戦犯裁判1945-1953」岩波書店
フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編(1995)「フィリピンの日本軍『慰安婦』明石書店
VAWW-NETジャパン編(2000)「『慰安婦』・戦時性暴力の実態Ⅱ」緑風出版
マリア・ロサ・L・ヘンソン(1995)「ある日本軍『慰安婦』の回想」岩波書店
吉見義明(2005)「従軍慰安婦」岩波新書
吉見義明(2010)「日本軍『慰安婦』制度とは何か」岩波書店
レメディアス・フェリアス(1999)「もうひとつのレイテ戦」木犀社




「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク






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https://docs.google.com/file/d/0Bwb7N7Wve2RRalM3NkwxMzFzTGc/edit?usp=sharing


日本軍兵士の従軍日誌について
★時事ニュース - 2013年08月27日 (火)

8月13日に韓国ソウルで、“日本軍「慰安婦」メモリアル・デー記念国際シンポジュウム”が開催され、その席に熊本の田中信幸さんが招待され発言されました。 田中さんは、中国に出兵したお父さんと戦争について語り合ってきました。そして、お父さんの従軍日誌を韓国の独立記念館に寄贈されました。

その複本がソウルの戦争と女性の人権博物館にも展示されています。
その田中さんのシンポジウムでの発言原稿です。心打つお話しです。


武藤秋一従軍日誌について 田中信幸


朝日新聞8/15記事(下記写真と同じ記事が拡大で見れます)

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/35274817.html
本の独島領有権主張は不当、熊本からの訪韓団

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080820-00000033-yonh-kr


日本の独島領有権主張は不当、熊本からの訪韓団
8月20日16時48分配信 YONHAP NEWS

【天安20日聯合】熊本県から独立記念館での歴史研修を目的とする訪問団が訪韓し、20日に忠清南道天安市の独立記念館で、日本政府による独島領有権の主張は不当とする内容の声明を発表した。
声明は、日本政府が独島は日本領土との趣旨の新学習解説書を発表し2012年から日本の全中学校で独島を日本領土と教えることを厳重な事態だとみなし、日本政府は自分の得にならない事実にはすべて覆いをし、独島を略奪した事実を隠していると指摘した。また、日本政府は植民地支配に対する反省がなく再び軍国主義の道に進もうとしているとしながら、自分たちは日本社会では少数派ながらも、最近の歴史研究の成果を正しく伝えこの問題を多くの日本人に訴えていくとの決意を示した。

訪問団は「非戦・平和を願う宗教者の会」など日本の市民団体の一員。19日から23日までの予定で、独立記念館をはじめソウルの西大門刑務所や独立運動家・尹奉吉(ユン・ボンギル)の位牌堂などを巡っている。
――――――





上の記事では述べていないが、韓国の報道では、「田中信幸・熊本歴史交流訪問団長」という奴がインタビューに答えていた。

田中信幸は、韓国人記者のインタビューに答えて、「独島(ドクト)・竹島問題の研究の成果を踏まえるならば、日本政府の主張の誤りは一目瞭然です。問題は日本政府と日本社会の姿勢です。」などと発言している。

で、「田中信幸」で検索すると、次のような奴だった。



熊本朝鮮会館問題について再度のお願い
全国のみなさんへ報告とお願い

昨日私たち熊本朝鮮会館問題を考える市民の会は幸山政史熊本市長に対して、2月2日に福岡高裁が下した「減免措置取り消し」の判決は不当であり、熊本市に上告するよう求める申し入れ書を提出しました。(申入書は末尾に添付)あいにく市長は不在で木村秘書課長が対応しましたが、熊本市の対応は友好的で、9日までにこの判決をめぐるメールやFAX、電話が176件寄せられ、そのうち判決を妥当とするものが72件、不当とするもの100件あり、在日朝鮮・韓国人からの要請も多数あったと言うことです。上告の期限は今月16日ですので、さらに熊本市長宛に判決の不当性を訴え、上告を求める要請行動を続けたいと考えています。この問題に関心をお持ちの全国の皆様に、熊本市長へ要請のメールやFAXをさらに継続して頂くようお願いします。

熊本朝鮮会館問題を考える市民の会 代表古沢千代勝
連絡先:田中信幸
http://list.jca.apc.org/public/aml/2006-February/005626.html


田中信幸

熊本朝鮮会館問題を考える市民の会
自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
「日の丸」「君が代」の押しつけはごめんだ熊本ネットワーク
熊本歴史交流訪問団長
住基ネットを考える会・くまもと
平和憲法を活かす熊本県民の会

1951年生まれ。熊本大学在学中、部落解放研究会に参加。
1985年より熊本植樹祭問題に取り組む。
「『日の丸』『君が代』の押しつけはごめんだ熊本ネットワ-ク」
「自衛隊海外派兵に反対する熊本市民ネットワーク」を結成、
熊本国体反対運動、教科書問題などにも取り組み、
韓国忠清南道との民間交流をも推進している。
http://kyushu.exblog.jp/

https://docs.google.com/file/d/0Bwb7N7Wve2RRalM3NkwxMzFzTGc/edit?usp=sharing



第1回日本軍「慰安婦」メモリアルデー記念国際シンポジウム挨拶原稿(8月13日於ソウル)
武藤秋一従軍日誌について
田中信幸
昭和13年(1938年)2月21日
今日は楽しい外出日だ石川と二人先ず朝鮮征伐に行く。第四番乗りだった。トミコ慶尚南道。次は支那征伐に行く。一番乗りだった。そして最後に、かって二十時代の恋人八重ちゃんそっくりの懐かしい竹の七号智恵子さんを尋ねた。多少のいざこざは起こしたが、結局とりあ得ず帰った。知恵ちゃんは泣くし、本当に可愛そうだった。明日より石砲鎮付近の警備に行く。
昭和13年(1938年)3月13日外出の楽しい日だ。先ず、大田黒、石川と三人して慰安所に行った。日本・支那・朝鮮を征伐して帰る。オデン屋でうんと酒を飲んでよっぱらった。別に異常なし。
<10年以上にわたる父との対話>
私は日本の熊本県から参加した田中信幸です。私の父武藤秋一の日中戦争中の従軍日誌は、現在ソウルの戦争と女性の人権博物館に展示してあります。
なぜ、私が父の日誌を展示することにしたのかを語るには少し説明が必要です。私は子どもの頃から父の戦争体験を聞くのが大好きでした。小学生のころには週刊漫画雑誌がはやり、戦争マンガがブームとなりました。私は日本軍の戦闘機や軍艦などをノートに書いて、クラスメートに自慢したりもしました。また軍歌も大好きな少年でしたので、「小軍国少年」のような時期がありました。
しかし、父達が体験した戦争に疑問を持ち始めたのは高校3年生ころからだと思います。やがて大学に進み、学生運動にも参加するようになって、ちょうどその頃、朝日新聞の本多勝一記者が書いた『中国の旅』『中国の日本軍』などが出版されました。それらを読んでいくうちに私にも父達の世代が行った戦争の実際が見えてきました。これは誰が見ても侵略戦争だ、アメリカがベトナムでやっている戦争と同じだと強く感じるようになりました。
さらに父と戦争責任をめぐる話を始めるきっかけとなったのは、私が沖縄返還に反対するデモに参加して警察に逮捕されたことです。拘置所での長い勾留が続き、そこでじっくり読書したり手紙を書く時間が出来ました。父との手紙のやりとりの中で私は思いきって父に対して「あなた達が参加した戦争は侵略戦争だった。.私は真実が知りたいし、知る責任があると思う。」と言った主旨の手紙を書き、戦争責任をめぐる対話が始まりました。出獄後も自宅に帰るたびに父との対話を続けました。最初は本多勝一さんの本から学んだ事実を父に突きつけ、父が説明できなくなると私は勝ち誇ったように父を責めました。でもそういう対話は長続きするものではなく、父も「もう止めよう」と言い出す始末でした。これではまずいと考え、父の生き様を肯定的に聞くようにして、父の内面に少しづつ入り込んでいく対話に切り替えました。
すると父は私が思いもしなかったようなことを語り始めました。昭和初期に恐慌が農村襲い、我が家もたいへん苦労したようです。父は農家の後継者として自宅で農業に取り組んでいました。同時に読書が大好きな文学青年でもありました。そのころ日本で注目されたプロレタリア文学に強い関心を持ち、周囲の目を気にしながら読みふけったそうです。徴兵される前には、警察の目をかすめて、初詣の神社でビラ配りをしたこともあると話しました。それで、第6師団入営時には「危険思想の持ち主」と疑われ、2日間ほど憲兵から厳しく尋問されたようです。そのとき父は「私は天皇陛下の赤子であります」と叫んでごまかしたと言いました。
こうした対話を10年以上にわたって続けました。すると父は1990年代半ばに、家族もそれまで存在さえも知らなかった日中戦争当時の父の日誌を私に手渡したのです。この日誌が現在展示してあるものです。それだけではありませんでした。その後、戦時中1938年から46年の間に父に届いたさまざまな人からの手紙と葉書約300通以上を便せん・封筒ともきれいに保存された状態で私に渡しました。
<日誌が展示される経過>
ここで、私自身の経歴について話しておくことも必要です。私は今日まで、地元の熊本県で、教科書問題や、日韓交流、自衛隊イラク派兵違憲訴訟、平和憲法を活かす会など市民運動に取り組んできました。私は1996年に始まった安倍首相など自民党右派と日本会議などの極右勢力による「中学教科書から慰安婦の記述を削除せよ」という議会請願に反対して、熊本の良心的な市民達とともに闘いました。そのとき熊本県と姉妹関係を結んでいる韓国忠清南道の市民達に連帯を呼びかけたところ直ちに反応があり、代表が熊本を訪問して抗議しました。その結果97年の6月県議会で右派の請願を取り下げに追い込むことが出来たのです。
この経験から忠清南道の市民たちとの交流を拡大し、2001年、2005年、2011年と日本の中学校の教科書採択の時には忠南から教科書訪問団が来熊し、県内各地を回って歴史歪曲教科書の不採択を訴えて回りました。自民党の力が強い熊本県ですが、まだ公立中学校では「つくる会」系の教科書は採択させていません。ただ2011年の採択において、県立中学3校に対して、自民党の圧力に屈した県教育長が「つくる会」系育鵬社公民教科書を“副教材”として使わせる決定を行いました。これに対して忠清南道からは道議会決議をあげて抗議しました。現在熊本では裁判を起こしその違法性を追求しています。
一方熊本からも、歴史認識を深めるために2007年から忠南天安市にある独立紀念館での歴史研修ツアーに取り組むようになり、毎年20名以上の市民達が参加しています。確か2009年のツアーの時私が父の日誌を韓国のメディアに紹介し、それが8月15日の特集番組で放映されました。このことがきっかけで、挺対協のみなさんから父の日誌の博物館展示が呼びかけられ、昨年5月の開館以降展示されるようになりました。
<慰安所が作られる背景>
私は、日中戦争当時父が占領地蕪ぶ湖こ(安徽省ウーフ市)に開設された慰安所へ行ったそ
の時代背景を知りたいと強く思うようになりました。吉見義明先生の著作などによれば、日中戦争が日本軍「慰安婦」制度確立の転換点になったと言います。
陸軍による法律的な慰安所設置の根拠は日中戦争開始直後に改正された「酒保規定」にあるというから驚きです。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則では「第一条野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」これにより酒保において物品を販売することができるだけでなく、軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのです。
このとき、慰安所開設の権限を持っていたのは現地派遣軍でした。南京攻略戦に向かった第6師団は中支方面軍指揮下の第10軍の系列下にありました。中支方面軍では南京占領直後から城内での大虐殺とともに、日本兵による女性の強姦が大量発生していました。こうした事態が外国からの非難の的になり、中国人民の反感を買い、かつ日本兵の性病蔓
延を恐れた派遣軍は慰安所の大増設を打ち出すのです。中支方面軍隷下の飯沼守まもる上海派遣軍参謀長の日記には「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12
月11日)「迅速に女郎屋を設ける件に就き長ちよう中佐に依頼す」(1937年12月19日)とい
う記述があります。
1937年12月中旬には軍の特務機関などにより日本国内や朝鮮などから斡旋業者が急遽上海に呼び集められ、作戦会議がもたれています。これらの業者は37年末から38年にかけて日本各地、植民地朝鮮で慰安婦募集に飛び回りました。募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、警察にむけて依頼がなされた事実もあります。(上海総領事館警察署「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」)日本国内や朝鮮でこうした業者が女性をだまして、しかも戦地である中国へ連れ出すことは当時の日本の刑法にも違反する犯罪行為でしたので、各地で業者と警察との間でいくつも事件が起きています。こうしたトラブルで斡旋業者は上記の上海総領事館警察発行の身分証明書を見せ、内務省の支援を取り付けたりして警察を逆に説得しています。軍の要請には逆らえないのか警察は違法性を知りながら業者の活動を許可したのです。
父達が南京郊外の蕪湖で警戒の任務についている間に、軍上層部の積極的な要請と内務省・警察庁など国内の関連機関の黙認の下、日本や朝鮮では慰安婦募集が急ピッチで進められました。その結果1938年2月中旬に蕪湖に初めて慰安所が出来たと考えられます。
さらに父の日誌に出てくる中国人「慰安婦」の場合、占領地における「慰安婦」の徴集の方法については、日本軍が自らあるいはブローカーを通じて女性を募集したケース、地元の村幹部などに「慰安婦」集めを強要したケース、日本軍が自ら拉致してきたケースなどいくつかのケースがあると言われますが、蕪湖の慰安所の中国人女性にがこのうちどのケースに当てはまるかはわかりません。
<なぜ父は慰安所へ行ったのか>
私は父と日誌のことでかなり話し合いました。2月21日の日誌に出てくる日本人の女性「智恵ちゃん」のことも聞きました。「智恵ちゃん」が泣き出した原因は、順番待ちしている別の兵士が個室のドアをドンドンと足で蹴るので、父と争いになったことのようです。2度目の出征となった内モンゴルのハイラルにも慰安所があったと言います。そこに通ったかどうかは不明です。ところが、1944年末3度目の出征で運良くたどり着いたフィリピンでは、米軍に追われながらジャングルを逃げ回り、飢えとマラリアに苦しめられ、砲弾の破片で負傷して部隊に置き去りにされたものの、先に行った部隊は全滅し父は奇跡的に生き残りました。そこには「慰安所」が存在する条件もなかったようです。
なぜ、社会的な良識を持った青年が戦場では性欲処理のはけ口として軍が勧める慰安所へ行くのか、私にもその答えを探すのは容易なことではありません。日誌にも実家の隣の娘さんで、当時北九州の門司の病院で看護婦として働いていた「久美ちゃん」に強い恋心を抱いていることが何度も書かれています。しかし負傷し復員して小倉の陸軍病院で「久美ちゃん」とご対面となるのですが、相手は全くその気がなく片思いに終わっています。その後も熊本の陸軍病院に慰問に来た女学生たち3人との文通の量は相当なもので、数年にわたり続いています。20歳代前半の青年の多感な一面が見て取れます。
日誌を読んでいくうちに父の戦場での意識がどのように変化したのか少しずつわかってきました。第一の変化は天津での出来事です。「9月2日便衣隊を切りに行く。川陽(徳鎮駅の東方)において切る.沼田少尉執刀のもとに切る。わが分隊みな一剣づつ突く。」という記述が出てきます。このことについて父は何回か話してくれました。初めての人殺しの体験であり、その後一週間ほど動揺し、食事ものどを通らないほどショックであったと言いました。その証拠に日誌の記述がちょうど一週間分途絶えています。ところがその後天津滞在中に二度「便衣隊を切る」という記述が出てきますが、このときは普通のことのように日誌を書いています。「便衣隊」(民間人に偽装した中国兵士と日本軍は規定)がはたして中国兵なのかもわからず、裁判も受けることなく、ただ人殺しの訓練用に殺害される中国人のことを考えると明らかな国際法違反であり、人として胸が痛むのは当然です。ところが日本軍はこれが一人前の皇軍兵士に成長する「度胸試し」だと位置づけていたのでした。このようにして父も殺人を日常のようにこなす皇軍兵士となったのです。
第二に、南京占領へ向かう戦闘は激戦の連続でしたが、次々と味方の兵が戦死していきいつ自分もそうなるのかという恐怖にとらわれ、死を覚悟した記述が出てきます。第三に蕪湖での警備任務中もほとんど休暇が無く、たまに半日位の休みしか取れていません。休みには部屋でごろ寝する程度であり、魚釣りにも行けませんでした。日本軍は兵士を消耗品として扱い、米軍のような半年ごとの休暇など与えようとしませんでした。こうして緊張の連続と死の恐怖で絶望的になった兵士に唯一軍から許されたのが慰安所での性処理でした。
私は父の行為を許す気持ちはありませんが、当時日本軍が作り上げたこのシステムのもとでは、相当しっかりした強い意思を持った兵士でなければ、これを拒否することはなかなか出来なかったと思います。残念ながら私の父にはそこまでの信念と勇気がありませんでした。
<最後に>
私は父との対話を重ねる過程で、父の戦争中の日誌や手紙が出てきて、少しでも日本が行った戦争の真実にふれることが出来て良かったと思います。これが侵略した側からの「言い訳」にならないように、日誌が中国や韓国を始め父達が侵略して被害を与えたアジア諸国の人々の目に触れ、真実を後世に伝える役割を果たす力となれば、私と父との葛藤は無駄ではなかったと希望を持つことができます。父はなくなりましたが、日誌と手紙を私に託したことは、「後は宜しく頼む」とバトンを私や妹に渡したのです。韓国の博物館で展示されていることは、私の家族にとってもとても光栄なことです。
最後に申し上げたいことは、戦争を経験した父の世代の人たちは「二度と戦争をしてはいけない」という強い信念を持っていました。もし父が生きていて、現在の日本の政治状況を見たらなんというでしょう。
私は元「慰安婦」のみなさんが生きておられるうちに、是が非でも日本政府に公式謝罪と賠償をさせることは、私たち日本の戦後世代に課せられた責務だと強く思います。妹(武藤千夜子)も同じような考えで、広島県福山市で慰安婦問題に取り組んでいます。私と妹は父武藤秋一の日誌がそのための力になるのであれば、日本国内でも活用していただき、子供たちの教育にも活かしてもらいたいと望みます。ご静聴ありがとうございました。
<武藤秋一略歴>1915年(大正4年)熊本県菊池郡水源村に生まれる1935年(昭和10年)陸軍第6師団歩兵13連隊(熊本市)入隊1937年(昭和12年)7月27日中国戦線へ派兵。歩兵13連隊第9中隊(伍長)
12月南京攻略戦に参加南京城内に3日間滞在後12月15日南京の南にある安徽省蕪湖(ウーフ市)へ移動、そこに約4ヶ月駐屯。1938年2月、3月蕪湖に作られた慰安所へ行った。6月徐州作戦の途中で、右足を撃たれ、負傷兵として帰国、小倉、別府、熊本の陸軍病院で治療1939年除隊1940年金鵄勲章を受ける1941年結婚、直後2度目の招集を受ける。(軍曹)中国内モンゴルのハイラルにソ満国境警備で派遣される。直接的な戦闘はなかった。1943年除隊1944年秋3度目の招集。このとき母には「この戦争は負ける」と言い残して出征。(曹長)広島県呉基地で水上特攻挺の訓練を受け、「ボルネオ派遣軍」として南方へ。台湾とフィリピン間にあるバシー海峡で米潜水艦の攻撃を受け、船団5隻のうち父たちが乗った船だけが沈没を免れマニラに到着。1200名の将兵は「比島派遣軍」と名前を変え、マニラからルソン島のジャングルへ敗走。父は負傷し、奇跡的に生還。生存者は23名。米軍捕虜となる。1946年8月帰国その後農業をしながら短歌、川柳などの文芸活動を趣味にする。
2006年永眠(91歳)

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