Tuesday, November 26, 2013

the verification of Nankin massacre,Higashinakano

http://www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/archive/20091205/aec1ee3b6e0a0a504bd5c9f0ea9df655





































































当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
メンテ中検証板のメンバーの方は改めて登録する必要はありません。
登録するには[留意事項]をお読みください。 画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
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[274]マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/5(木) 12:58
[286]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 053,054 ピッポ 05/5/5(木) 15:10
[289]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 059 ピッポ 05/5/5(木) 15:46
[292]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 065 ピッポ 05/5/5(木) 16:02
[294]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 069 ピッポ 05/5/5(木) 16:15
[295]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 070 ピッポ 05/5/5(木) 16:17
[300]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 085,086,087 ピッポ 05/5/5(木) 16:40
[302]Re(1):写真19 銃剣で刺されて死んだ7歳の少年 ピッポ 05/5/5(木) 20:24
[303]Re(1):写真26 輪姦され病気となった十六歳の... ピッポ 05/5/5(木) 20:31
[304]Re(1)写真27 治療をうける右足を失った14歳... ピッポ 05/5/5(木) 20:36
[318]東中野修道は稀代の詐欺師、平成の天一坊か おおおっか 05/5/6(金) 10:21 [添付]
[305]Re(1):写真28 日本軍のせいで下腹部に火傷を負... ピッポ 05/5/5(木) 20:40
[306]Re(1):写真116,A 兵士の疑いで連行される夫や... ピッポ 05/5/5(木) 20:47
[307]Re(1):写真117、鉄の棒で叩かれ頭を銃剣で刺さ... ピッポ 05/5/5(木) 20:54
[308]Re(1):写真118、安全を求めて新しい避難所に移... ピッポ 05/5/5(木) 20:59
[309]Re(1):写真119 「夏琴淑さん事件」 ピッポ 05/5/5(木) 21:05
[367]Re(2):写真119 「夏琴淑さん事件」 ピッポ 05/5/11(水) 7:57
[368]Re(3):東中野修道氏のトリック ピッポ 05/5/11(水) 8:36
[580]「夏淑琴さん事件」 リンク集 ピッポ 06/3/28(火) 0:36
[581]旧思考錯誤板 検索結果 ピッポ 06/3/28(火) 10:17
[582]Re(1):「夏淑琴さん事件」 リンク集 ピッポ 06/3/28(火) 10:43
[583][309]についての注釈 ピッポ 06/3/28(火) 22:40
[310]Re(1):父親は銃剣で刺殺、母親は歩兵銃で射殺、... ピッポ 05/5/5(木) 21:29
[311]Re(1):日本兵がホテルに放火させようとして拒否... ピッポ 05/5/5(木) 21:36
[317]Re(2):ムービー・サイト ピッポ 05/5/5(木) 22:09
[312]Re(1):気管部に銃剣、死ぬべく放置された兵士 ピッポ 05/5/5(木) 21:40
[313]Re(1):顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、... ピッポ 05/5/5(木) 21:43
[314]Re(1):強姦され、首を斬られ脊柱の筋肉を切断さ... ピッポ 05/5/5(木) 21:49
[315]Re(1):強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺され... ピッポ 05/5/5(木) 21:54
[316]Re(1):銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大き... ピッポ 05/5/5(木) 21:59
[345]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 1:17
[348]Re(2):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 8:55
[349]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 9:14
[352]Re(4):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 19:06
[356]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 22:12
[353]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 19:10
[357]Re(4):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 23:28
[358]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 23:38
[364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど ピッポ 05/5/9(月) 10:01 [添付][添付][添付]
[365]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/9(月) 23:18
[366]Re(6):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/10(火) 1:39
[374]Re(7):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... 渡辺 05/5/14(土) 17:31
[376]Re(8):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... ピッポ 05/5/14(土) 19:15
[379]Re(9):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... 渡辺 05/5/15(日) 0:33
[380]Re(10):マギーフィルム画像と解説書:2月10日と... ピッポ 05/5/15(日) 0:57
[381]Re(11):マギーフィルム画像と解説書:2月11日の... ピッポ 05/5/15(日) 7:48
[382]Re(12):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 渡辺 05/5/15(日) 15:02
[383]Re(13):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 ピッポ 05/5/15(日) 16:20
[387]Re(14):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 渡辺 05/5/20(金) 23:24
[669]見せてもらったものは「映画」でなくて「解説書... ピッポ 08/5/1(木) 12:59
[670]Re:「解説書」は現像前に ピッポ 08/5/1(木) 13:23
[369]Re(6):私の頭の中の困った事象 ピッポ 05/5/11(水) 15:07
[370]Re(7):訂正です ピッポ 05/5/11(水) 15:13
[389]Re(6):解説書:Film 10解説 と埋葬数 渡辺 05/5/22(日) 3:05
[390]Re(7):解説書:Film 10解説 と埋葬数 熊猫 05/5/22(日) 9:57
[391]Re(8):解説書:Film 10解説 と埋葬数 渡辺 05/5/23(月) 1:07
[350]Re(2):マギーフィルム画像と解説書 msq 05/5/8(日) 9:16
[360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会 とほほ 05/5/8(日) 23:57
[384]Re(3):再登録お試しになったらいかがですか ピッポ 05/5/16(月) 17:31
[388]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/20(金) 23:34
[527]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/11/4(金) 23:32
[557]御礼 管理人様 ピッポ 05/11/7(月) 13:06
[558]Re(1):御礼 管理人様 とほほ 05/11/7(月) 14:17
[606]ロシア兵では? 熊猫 06/7/9(日) 1:13
[607]Re(1):ロシア兵では? ja2047 06/7/9(日) 10:03
[608]Re(1):慰安所への移送? ピッポ 06/7/9(日) 18:42 [添付][添付]
[609]Re(2):慰安所への移送? とほほ 06/7/9(日) 19:22
[610]Re(3):慰安所への移送? ピッポ 06/7/9(日) 21:36
[611]Re(4):慰安所への移送? とほほ 06/7/9(日) 22:01
[612]Re(5):慰安所への移送? とほほ 06/7/10(月) 6:18
[613]Re(6):慰安所への移送? ピッポ 06/7/10(月) 10:27
[616]NHKスペシャル「日中戦争」のなかで ピッポ 06/8/24(木) 12:17
[274]マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 12:58 -
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マギーフィルムは、マギー牧師が南京事件を現認撮影したもので、文書記録と照合されれば、一級の資料ですよね。

しかしながら、当時4本のコピーをとったといわれるフィルムの、その後の行く末が、なかなか明らかになっていません。
1938年にジョージフィッチがアメリカに持ち帰ったもの。
1990年代に、マギー牧師の息子の家から発見されたもの。
それらがその後どうなったのか?

残されたフィルムの考証がしっかりとなされていないことからくる、アイマイさ、あるいは、考証不十分のまま2次使用されたフィルム。
東中野氏は、そうした隙をついて、マギーフィルムとそこから得た写真の史料価値を、不当に貶めようとしています。

私は、歴史と映像の専門家がきちんと考証して、Magee Film の史料価値をしっかりと定着していただきたいと、つとに望むものです。
また、さまざまな日記や史料との照合も厳密に行っていただきたい、とおもっています。

もう既に、現実体験をした証言者は失われていきます。ですから誰の目にも否定できない事実としての、裏づけを急がねばなりません。疑い得ない事実は、「量」よりも「質」です。精選すべきかもしれません。

本来は専門家にやっていただきたいことでは有りますが、ここでは、「マギーフィルムの解説書」との対応を、皆さんのお力を借りて試みたいと想います。

ゆうさんが、お忙しい中、「小さな資料集」の当該ページに精密な黙示をつけて下さいました。さっそく、それを活用させていただきます。

まずは写真を列挙します。

=======================

東中野氏が Magee Film 関連として紹介したのは、次の13点です。

(1)分断掲載されたマギー映像

写真19、P100

写真26、P104

写真27、P105

写真28、P105

写真A、P189

写真117、P190

写真118、P191

写真119、P192


(2)映画「マギーの証言」に紛れ込んだ別映像

写真120、P194

写真121、P194

写真122、P194


(3)映画「マギーの証言」にもない別映像・・・これは「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」の誤りを指摘しただけ

写真123、P196

写真124、P196


============================

(4)東中野氏がスルーした映像
http://pipponan.fc2web.com//mg_images/album.html 「マギーの証言」より



































=======================

「マギーフィルムの解説書」などとの対応付けについて、ご意見を寄せていただければ幸いです。
3,087 hits

[286]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 053,054
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 15:10 -
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記事は私には不明です。
3,222 hits

[289]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 059
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 15:46 -
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記事はどれか?
3,052 hits

[292]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 065
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 16:02 -
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写真に当てはまりそうな記述はあるが・・・
2,976 hits

[294]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 069
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 16:15 -
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2,959 hits

[295]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 070
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 16:17 -
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2,955 hits

[300]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 085,086,087
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 16:40 -
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この、火傷で死んだ子供の記事は不明です。
2,969 hits

[302]Re(1):写真19 銃剣で刺されて死んだ7歳の少年
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:24 -
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写真19、P100


これは、ゆうさんがUPした解説書では、フィルム2の(七)ではないかと思います。

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#2-7

「(七)これは、大学病院(伝道団施設)〔鼓楼病院〕に入院して三日後に亡くなった七歳ぐらいの少年の死体である。かれは腹部に銃剣で五か所の傷を負い、そのうちのひとつが胃を貫通した。」

おそらく、ラーベの日記やウィルソン医師の日記にもあるのでは・・・?

いかがでしょうか?
3,066 hits

[303]Re(1):写真26 輪姦され病気となった十六歳の...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:31 -
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写真26。
実は、ウィルソン医師、極東軍事裁判ではしっかりとこの少女に言及しています。ちょっと調べればすぐにわかるのですが、東中野氏はスルーしてしまったようです。(ゆうさん)
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=231;id=imgbord#atop

極東軍事裁判のマギー牧師の証言にもこの少女の記録があります。(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P98)。そこでは、彼が目撃し救助した強姦被害者多数が語られている。
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/higashi/143photos/16girl.htm
「さう云ふ事件は多数に上つたのであります。私共外国人と致しまして最も困難な問題は、男子を(※日本軍が安全区から)連れて行くことは阻止することは出来ませぬでしたが、婦人を強姦することは(※現場に駆けつけることによって)到る処で止めることが出来ました。」
3,407 hits

[304]Re(1)写真27 治療をうける右足を失った14歳...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:36 -
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写真27、P105


これは日寇暴行実録以外に記述はないのでしょうか?
3,523 hits

[305]Re(1):写真28 日本軍のせいで下腹部に火傷を負...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:40 -
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写真28、P105


「老農夫が日本軍のせいで下腹部に火傷を負わされて」という記述は見つかりません。
3,012 hits

[306]Re(1):写真116,A 兵士の疑いで連行される夫や...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:47 -
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写真116,A、P189


これは、マギーフィルムの解説書の フィルム二の(2)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#2-2

(二)一九三七年一二月一六日。南京、上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たりしだいに集められたため、脆いて日本軍にかれらの命乞いをしている。何千人もの一般市民がこのように縄で縛られ、下関の川岸や、池のへり、空き地に連れて行かれ、機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。

他の史料にもあるのでしょうね、きっと。
2,950 hits

[307]Re(1):写真117、鉄の棒で叩かれ頭を銃剣で刺さ...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:54 -
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写真117、P190


これは、解説書 フィルム三の〈六)と思われます。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#3-6

「(六)この少年は、日本軍が常州を通過したとき、かれが呉淞からきた難民であったにもかかわらず、日本軍によって連行された。かれは一三、四歳で、およそ三週間、日本軍の下でかれらのために働いた。

 一二月二六日、二日問まったく食べ物を与えられなかったので、仕えていた兵士に家に帰りたいと言った。すると、かれらは少年を鉄の棒で叩き、頭を銃剣で刺した。この映像は、かれが血まみれで診療所に運ばれてきた直後に撮られたものである。かれは回復した。」
2,991 hits

[308]Re(1):写真118、安全を求めて新しい避難所に移...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 20:59 -
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写真118、P191


ほんとうにこれ、笑顔なのかなあ?

動画が見れます。
http://www.geocities.com/nankingatrocities/Table/table.htm
(Video)
China Invaded --- Female refugees moving one camp to another in search of safety
http://www.geocities.com/nankingatrocities/Videos/nanking_femalerefugees.rm
2,906 hits

[309]Re(1):写真119 「夏琴淑さん事件」
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:05 -
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写真119、P192


これは、解説書、フィルム四の(九)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-9

(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

 夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

 何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。

 さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

 傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

 撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

 このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

 彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

*「ゆう」注 この事例は、「夏琴淑さん事件」として知られています。
3,875 hits

[310]Re(1):父親は銃剣で刺殺、母親は歩兵銃で射殺、...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:29 -
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この少女はおそらく、フィルム二の(六)かと思われます。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#2-6

(六)この一一歳ぐらいの少女は、日本兵が侵入してきたとき、難民区内の待避壕のそばで両親といっしょにいた。日本兵は父親を銃剣で刺し殺し、母親を歩兵銃で射殺し、少女の肘には銃剣でこのひどい切り傷を負わせた。彼女は回復するであろうが、腕は不自由になろう。
2,993 hits

[311]Re(1):日本兵がホテルに放火させようとして拒否...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:36 -
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マギーの解説書、フィルム四の(八)か?
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-8

(八)一月二四日、日本兵はこの男性に、大学病院からほど近い双竜巷の川合ホテルに放火させようとした。かれが拒否すると、かれらはこの男性の頭を銃剣で刺した。裂傷が三か所あったが、どれも重傷ではなかった。撮影時、この男性ははとんど回復していた。

ムービーでも確かめてください。
2,921 hits

[312]Re(1):気管部に銃剣、死ぬべく放置された兵士
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:40 -
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フイルム三の(五)か?
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#3-5

(五)この男性は中国軍兵士だったが、日本軍に捕らえられたとき、武器をすべて取り上げられた。かれは頭部に二か所、気管部に一か所銃剣による傷を負っていた。かれは死ぬべく放置されたが、鼓楼病院での治療の後、回復した。

?付き
2,965 hits

[313]Re(1):顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:43 -
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この犠牲者は、フィルム三の(四)とおもわれ
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#3-4

(四)この男性は、長江に一艘の小型の平底舟を所有していた。かれは日本兵に顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、火を放たれた。胴体は上郡も下部もひどく焼け、かなり黒く焦げていた。鼓楼病院に二日問入院した後、亡くなった。
2,953 hits

[314]Re(1):強姦され、首を斬られ脊柱の筋肉を切断さ...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:49 -
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首に深い傷を負った少女

フィルム四の(一)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-1

(一)この女性は、日本軍将校の衣服を洗うために、他の五名とともに難民センターから連行された。彼女は、軍の病院として使用されているらしい建物の二階へ連れて行かれた。彼女たちは日中、衣服を洗濯し、夜は日本兵を楽しませた。
 彼女の話によると、年かさの不器量な女性は一晩で一〇回から二〇回強姦されたが、若くて綺麗な方は一晩で四〇回も強姦された。フィルムの女性は、あまり美人ではない方の一人だった。

 一月二日、二人の兵士が、同行するよう彼女に誘いをかけた。彼女はかれらについて空き家に行った。そこでかれらは彼女の首を切ろうとしたが失敗した。彼女は血の海のなかで発見され、鼓楼病院へ運ばれ、いまは回復している。

 彼女の首のうしろには深い裂傷が四か所あり、脊柱の筋肉が切断されていた。また手首に一か所、胴体に四か所の深い傷がある。この女性は、なぜかれらが自分を殺そうとしたのかまったくわからず、他の女性がどうなったかもわからない。
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[315]Re(1):強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺され...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:54 -
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これは、李秀英事件 フィルム二の(四)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#2-4

(四)一九歳のこの女性は、難民区のアメリカンスクールにいた避難民だった。彼女は妊娠六か月半で最初の子を身ごもっていた。強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺された。彼女は顔面に一九か所、足に八か所、腹部には深さ二インチの傷を一か所員っている。大学病院に入った翌日、これが原因で流産した。彼女はこれらの傷から回復した。

*「ゆう」注 この事例は、「李秀英事件」として知られています
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[316]Re(1):銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大き...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 21:59 -
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これは、フィルム三の(二)と思われ
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#3-2

(二)これは、あるほうろう製品店の店員の映像である。ある日本兵が店員に煙草を求めたが、店員が差し出せなかったため、日本兵はかれの頭部を銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大きな穴をあけた。この映像はかれが鼓楼病院に入って六日後に撮られたものである。脳の脈動をはっきりと見ることができ、相当量の脳がすでになくなっていて、そのため右半身が完全に麻痺していたが、意識を失ってはいなかった。かれは入院して約一〇日間生きた。
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[317]Re(2):ムービー・サイト
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/5(木) 22:09 -
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>ムービーでも確かめてください。

http://www.china918.org/movie/ever1/mj.asf
「マギー牧師の証言」(中国語版)

そのカット一覧(スチル画像集)
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/album.html


http://www.ch815.com/zuanti/nankingnew/dashiji/moive/moive.htm
「南京大屠殺」(中国語版)

http://www.geocities.com/nankingatrocities/Table/table.htm
"China Invaded"(Magee film)
"The Battle of China"(American propaganda)
"Nanking"(Japanese propaganda)
以上オリジナル音声付クリップ

http://www.geocities.jp/nan_king_mame/nanking.html
ビデオ「南京」と思われ 徳川夢声ナレーション
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[318]東中野修道は稀代の詐欺師、平成の天一坊か
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おおおっか - 05/5/6(金) 10:21 -
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添付画像【higashinakano.gif : 7.8KB】

東中野修道は稀代の詐欺師、平成の天一坊か
====================

まず鷺漢、東中野某の一文(『南京事件「検証写真」を検証する』P104)を読んでいただきたい。



写真27は「南京で日本軍に左腿を撃たれて傷ついた14歳の児童が、鼓楼病院で医師の治療を受けている光景」と説明されている。しかしこの男性は20歳前後の男性と見受けられないだろうか。ウイルソン医師の日記風の手紙を見ると、彼は、12月11日に片足を吹き飛ばされた男性に、「足の下部を切断」する手術を、15日に施している。この男性がそれに該当するとすれば、陥落2日前に、戦闘中に片足を吹き飛ばされたのであろう。

善良なる読者、とくに「南京虐殺など無かった」と思いたい読者は、この一文をどのように読むだろうか? 他人を疑いたくない善良な読者は、膨大な「ウィルソン医師の日記」から。該当する描写をみつけた"教授の慧眼"に敬服するのであろうか?

まずは、「ウィルソン医師の日記」とはどのようなものかを見て欲しい。

「小さな資料集・・ゆうのページ」
ウィルソン医師の手紙(1) http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/wilson1.html
ウィルソン医師の手紙(2) http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/wilson2.html
ウィルソン医師の手紙(3) http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/wilson3.html

これを読むと、ウィルソン医師は南京陥落後の1ヶ月に渡って、膨大な数の手足切断手術を施している。

十二月十四日

・・・・・・・
 私はきょうやむをえない切断手術を含めて一一の手術を行った。現在は一〇〇人を大幅に越える患者がいるので、きょうは全員を診て回ることができなかった。一棟分を残さざるをえなかった。
・・・・・・・

十二月十五日

・・・・・・・
 きのう一一件の手術をしたと書いた。きょうは病棟の患者の回診のほかに、一〇件の手術をした。今朝は早く起きて、朝食をとりに家に帰る前に一つの病棟の回診を済ませた。朝食を食べてから午前中は他の病棟を回診して、昼食後に手術を開始した。


 最初の患者は警察官で、腕に爆撃を受けて骨はメチャメチャで筋肉の四分の三が切断されていた。彼はおよそ七時間も止血帯を使用し続けていたが、さらに出血を止めようとするなら、手のほうに流れる血液を完全に止めてしまうことになる。切断する以外に方法はなかった。

 二番目の患者は気の毒だった。彼は、大きな金属片が頬に入り、下顎の一部が潰れていた。金属片は取り除かれ、同様に潰れた下顎に埋め込まれていた歯も取り除かれた。

 それからトリムに助手をしてもらい数名の患者が続いてX線透視を使う手術となった。一人は耳下腺に榴散弾の破片が刺さり、顔の神経を切断していた。もう一人は横腹に弾丸が入っていた。弾丸は上腹部から入り、胃を貫通していた。彼は大量の吐血をしたら気分が少しよくなった。彼の状態は上々で、開腹手術の必要はまったくないと思う。弾丸は横腹から難なくとれた。別のもう一人の患者は四日前に片足を吹き飛ばされた。彼は中毒症状がひどく、足の下部で切断した。

 また別の患者は日本兵に銃剣で刺されたあの床屋だ。銃剣は靭帯を切り抜け、脊髄管に達する首の後ろの筋肉をすべて切断した。彼はショック状態にあり、おそらく死亡するだろう。彼は床屋にいた八人のうち唯一の生存者で、残りは全員殺害されている。


 一般市民の殺害は、ゾッとするほどだ。強姦や想像を絶する蛮行について書こうとすればきりがない。

 銃剣で負傷した二人は、七人いた道路清掃人のうちの生存者だ。彼らは詰所に座っていると日本兵が入ってきて、いきなり五、六人(原文どおり-訳者)を殺し、二人を負傷させた。この二人はどうにかこうにか病院に辿り着くことができた。戦争が終わって、また元の生活にもどれるのはいつのことだろう。


十二月十八日

・・・・・・・
 この二日間におきた出来事をふり返ってみよう。きのうの夜、大学の中国人職員の家に侵入があり、親戚筋の女性二人が強姦された。難民キャンプの一つで、年の頃一六ぐらいの少女二人が、強姦されて死んだ。八千人が避難していた金陵大学附属中学校に、昨晩は日本兵が一〇回も塀を乗り越えて押し入って、食料や衣類を盗み、気のすむまで強姦を犯していった。

 彼らは小さな男の子を銃剣で刺して殺した。私は今朝一時間半かかって別の八歳の少年の縫合をしたが、彼は銃剣により五ヵ所も負傷し、うち一ヵ所は胃まで達して、腸の網膜が一部外に飛び出していた。彼は助かると思う。

 姿をくらましていた兵隊が見つかったので、ちょっと時間がとられた。彼は四階の看護婦寮にいた。そこには一五人の看護婦がいて、息の根も止まらんばかりに怖がっていた。私が行くまでにどのくらい獲物を獲得したか分からないが、それから後はなにもしなかった。
・・・・・・・

 現在私が担当している一五〇人の患者を回診してから、夕食をとりに病院を出ると、紫金山の上に満月が昇っていて、何とも言えない美しきだった。けれど月が照らしているのは、太平天国以来、最も荒廃した南京だった。町の九割の地域から中国人の姿がなくなり、かわって、略奪を働く日本兵が隊を組んでうろつき回っている。残りの一割の地域に、恐怖におののいた二〇万人に達する中国人がひしめき合っている。
・・・・・・・

十二月二十六日

・・・・・・・
 きょう午後はまた切断手術で始まり、二、三のさほど重傷でない患者を診た。切断したのはこの二週間ほどの問、救おうとしていた脚だった。患者は着実に下り坂に向かっていて、脚と命のどちらをとるかという選択しかなかった。結果はまだ決して落ち着いたわけではない。というのも、彼はその両方をもなくす可能性があるからだ。手術が終わってから、まだ回診していない患者が二つの病棟に七〇人もいる。
・・・・・・・

十二月二十八日

・・・・・・・
 この患者の話によると、この数百人の男性は町の西にある丘に連行され、銃剣の練習台にさせられたそうだ。彼には何人が生き残ったか見当がつかないという。

 彼には銃剣の傷が五ヵ所あり、うち一ヵ所は腹膜を突き破っていた。腸も刺されているのではないかと思いながら手術をしたが、腹腔に多量の黒い血を認めただけだった。銃剣はほとんど身体の中心に刺さったが、斜めに入ったので、腹膜の下方四分の一のところを刺して血管をいくつか傷めたものの、腸には達していなかった。腹膜炎が重症でなければ、彼はおそらく回復するだろう。
・・・・・・・

 トリムがきょう午後病院にいたので、二人でX線透視をいくつか行った。ひとりの男性は仙骨から右の下腹部にかけて貫通した弾丸の傷があり、明らかに右の腸骨の近くの動静脈に外傷性の動脈瘤ができていた。現在の感染状況を見れば、手術や修復処置は問題外で、さりとてそうしなければ右脚がつけ根から壊疽を生じるし、彼の運命はきまったようなものだ。
・・・・・・・


十二月二十八日

・・・・・・・
 今朝、こざっぱりとした身なりの中国人の商人が危険を冒して安全区から外に出て、自分の家と商店の跡を調べに行った。彼が三人の同行者とともに估衣廊教会の前を歩いていると、日本兵が数人彼らに向かって銃を発砲した。その理由は未だに不明だ。

 一人が死に、この男性は腹部の傷口から小腸が四フィート飛び出したまま仲間に病院まで運び込まれた。弾丸は左腹部から入り、右に抜けていた。弾丸はズボンの中にあったので、私のコレクションに加えられた。

 この男を開腹すると、小腸は六ヵ所も完全に分断され、この他にも六ヵ所、穴が開いたり傷んでいた。私は傷ついた部分をすべて切除し、腸老瘻管をつけたが、生存できる可能性は〇・一パーセントよりはるかに少ないと思う。前回報告した患者はとてもよくなり、回復する見込みが大きい。


 きょうのもう一人の患者は、膿胸が進んできている胸部の患者で、肋骨を一本切除した。胸を撃たれた患者は一〇人はいるに違いない。脳のかなりの部分を吹き飛ばされた患者は、病院にきてから一週間目にとうとう亡くなった。

 一〇歳の少年の足を救おうと努めている。頚骨と腓骨の間の下三分の一のところがメチャクチャに挫傷している。着実に体力が落ちてきているので、生命とひきかえに、足を切断しなければならないかもしれない。


 トリムがまた完全に復帰して、産科の患者を引き継いでくれている。私が手がけた男の赤ちゃんに、極く小さな余分の親指が、通常の隣に小さな肉茎としてついているのに気がついた。分娩の時は気づかなかった。きょうその部分を切除した。

 一七歳の少女が、ある晩陣痛が始まる直前の一時間半前に強姦されて、今は明らかに淋病の症状が進んできている。一時は体温が四〇度五分まで上がり、見通しは暗い。赤ちゃんは、ヒルクレスト学校の地下で腹部を銃剣で刺され、早産して自分の赤ちゃんを亡くした少女に一時的に預けている。彼女は十分母乳がでる。
・・・・・・・

一月三日

・・・・・・・
 興味ある患者が三人きょう現れた。一七歳の少年が持ってきた話によると、年のころ一五歳から三〇歳くらいまでの中国人男性およそ一万人が、十四日にはしけ近くの川岸に連れ出されたそうだ。そこで日本軍は彼らに野戦砲、手榴弾、機関銃をぶつ放した。

 ほとんどの死体が川の中に押しおとされ、残りの死体は山と積み上げられて焼かれたが、三人はかろうじて逃げのびてきたという。少年のあげた数字によると、一万人のうち六千人が元兵隊で、四千人が一般市民だった。彼は胸に弾丸の傷を負っているが、深刻なものではない。


 四〇歳くらいの女性が来て話すところによると、表向きは将校たちの衣類を洗濯するというのが目的で、難民キャンプから十二月三十一日に連行されたという。六人が連れ出された。昼間は衣類を洗濯させられ、夜は強姦されたという。五人は一晩に一〇人から一二人の相手をさせられ、残りの一人は若くて美人だったので四〇人の相手をさせられたそうだ。

 三日目に兵隊二人がこの女性をみんなのいるところから連れ出して人気のないところに連れて行き、首を切り落そうとした。一人が四回も首切りを試みたが、うしろ首の筋肉をやっと背骨のところまで切断することができただけだった。

 彼女は他にも背中、顔、腕の六ヵ所に銃剣の刺し傷を受けていた。おそらく回復するだろう。彼女がこうした状態で倒れていたとき、別の日本の (!)兵隊が彼女を見つけて安全な場所に連れてきてくれた。


 三番目の患者は一四歳の少女で、彼女は強姦に耐えられるように体ができてなくて、相当な外科の修復手術が必要だろう。


 きょうの午後は五つの手術を行った。うち二つの弾丸が私のコレクションに加えられた。

 前回六人の子持ちの母親が、目から弾丸が入り首に達したことを書いたが、弾丸がまだ出てこなかったので、きょう摘出した。大腿部つけ根の複雑挫症の患者に対して自信がなくなってきた。まったくよくなってこない。

 そのような患者の一人が、病院に来てから六週間目のきょう亡くなった。感染症が着々と上部に達してきて、二、三目前から傷口より出血が始まった。あまりに上部で止血帯は役に立たず、切りこむにしても両手のこぶしが入るくらいいまいましいほど食い込んで切らねばならず、一部は背中にまで達してえぐることになる。股は上部で全体がしめ上げられた。急いで足を切断しようとしたが、遅かった。もう少し早く処置したとしても、効果があったとは思わないが、そうすべきだったかもしれない。
・・・・・・・

一月六日

・・・・・・・
 病院では外来部門が再開しつつあるので、中国人医師は一日中ほとんど忙しくしている。私たちは来週月曜日から、外科と内科診療という通常スケジュールにもどるつもりだ。

 きのうは午後をまるまる血行を圧止しているヘルニアの手術にかかりきりだった。血行が五日間止まっていたので壊疽化して、小腸を八インチほど切断する必要があった。
・・・・・・・

一月九日

・・・・・・・
 おまえがここに居た時に書いた最初の部分と合わせてみると、一つの立派な物語になる。スティールやスミスが検閲を受けないで届けたページを、おまえは受け取ったものと思う。

 安全のため、こちらにコピーを一部残している。公式の記録はルイス・スマイスがほとんど一切を引き受けている。彼は、目撃したことないしは目撃者から聞き取りした一連の事例を編集している。私自身の体験としてここに書いたような話は、彼のリストに入っている。


 きょうは日曜日だ。いつもより少し遅い朝食をとってから回診をほとんど済ましたところでジョン・マギーに会って、前回撮らなかった写真を少し撮ったなら一六ミリフィルムが終わることが分かった。

 けさ、私たちは首二ヵ所に長い深傷を負った年配の男性の写真を撮った。彼は日本兵から女性を周旋するよう求められたが、その要求に応えることができなかったことが罪となった。

 次に撮ったのは、背中、胸、腕に銃剣の傷を受けている一八歳(いや、二二歳だ)の警官だ。この男性には何の罪もなかった。

 三番目は、前にも書いたように、他の五人とともに連行されて、日中は衣類の洗濯をさせられ、夜は慰みものとなった女性だ。首のけがは次第によくなってきている。彼女は肺炎になりかけていると思っていたが、どうやらならずに済んだようだ。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』 P289~P299)


長々と引用したかに見えるが、これはごく一部に過ぎない。そして重要な留意点は、足の切断手術はかず限りなく行われていたということだ。この膨大な日記に記述されない患者が膨大に存在した、ということだ。

にも拘わらず、東中野は、

12月11日に片足を吹き飛ばされた男性に、「足の下部を切断」する手術を、15日に施している。

だけを選んだ。これは果たして「教授の慧眼」か?
慧眼であるはずがない、この記述を選んだ理由が少しも書かれていない。

しかし冷静に考えれば、かれの選択の理由は良く分かる。すなわち、

市民に対する虐殺はなかった
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7154/12-2.html

という立場から、膨大な「ウィルソン医師の日記」から兵士の手術例を探し出したに違い有りません。つまり、はじめに結論ありき、です。
そうして、こうした「魂胆」を覆い隠すために東中野は、

しかしこの男性は20歳前後の男性と見受けられないだろうか。

という一言を忍ばせたのです。

東中野本のP105の写真27。この小さな写真を見て、患者が14歳か20歳前後か、いったい誰が見分けることができるでしょうか? 東中野の検証は全くインチキにも拘わらず、そのインチキ性を一言でいいきることも、難しいのです。

おそらく写真27の鮮明で大きな写真をみれば、14歳に見えるに違いないと思います。日寇暴行実録の原本を見ればこのインチキも直ぐに見破れるのに、私の手元にそれがないのが悔しい限りです!


これが、『平成の天一坊』東中野修道の常套手段です!!

ウイルソン医師の日記や、マギー牧師の証言などを読んで、「民間人虐殺などなかった」という天一坊のウソを瞬時に見破ってください!!

私は、日本皇軍の残虐行為をことさら強調したいわけではありません。
しかし、
史実を無かったことにしたり、免罪して欲しいという願望を通り越して、侵略非行を「顕彰」すらしようとする曲学阿世の言動に、腹の底から我慢がならないのです。



マギーフィルムの解説書
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html
マギー牧師の東京裁判における証言
http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html
ウイルソン医師の手紙
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/wilson1.html
ウイルソン医師の証言
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/wilson4.html
ヴォートリン日記・殺害事例
http://www.geocities.jp/yu77799/vautrin.html
ヴォートリン日記・連行事例
http://www.geocities.jp/yu77799/vautrin2.html
ほか


以上、
『小さな資料集』に学び『平成の天一坊』と戦う『市井の越前』記
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[345]Re(1):マギーフィルム画像と解説書
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渡辺 - 05/5/8(日) 1:17 -
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▼ピッポさん:
>マギーフィルムは、マギー牧師が南京事件を現認撮影したもので、文書記録と照合されれば、一級の資料ですよね。
>
>しかしながら、当時4本のコピーをとったといわれるフィルムの、その後の行く末が、なかなか明らかになっていません。
>1938年にジョージフィッチがアメリカに持ち帰ったもの。

 この件に関しては、フィルムを所蔵していた方が下記のような記事を書いています。
"About George Fitch and the Film"
http://www.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMMage.html
 フィルムの一部は失われたようですが、修復され13分になったものを Library of Congress film department に寄贈したとしています。まだ、事実確認はしていません。2年ほど前に記事投稿者と連絡をとろうと問い合わせしましたが、サイト管理者から回答がありませんでした。
 The Battle of China に使われたものはフィッチが持っていったフィルムのコピーではないかと思います。従って、米国政府機関のどこかにそのコピーが所蔵されているものと思います。これは、Timperleyが編集したものです。

>1990年代に、マギー牧師の息子の家から発見されたもの。

 これは、『天皇の名のもとに』にオリジナルのフィルムやカメラの映像がでてきます。この映画に収録されたものは、マギー家所蔵のフィルムからと思います。

 Timperley編集のフィルムが日本に持ち込まれたことは、蒋介石宛て機密文書の記述にもありますので、ほぼ確実とみられます。その後、そのフィルムがどうなったかは知りません。400フィートの長さに編集されていたようです。
 1938年に英国の下院でTimperleyが映画を上映し、その結果、観客は気分が悪くなったとチャールズ・ティンパレーという人が回想録に書いています。新聞記事が出典とみられますが、まだ該当記事をみつけていません。(著者は高齢で病気とのこと、インタビューできませんでした。)下院の議事録(膨大)も機会をみて調べる予定です。時期的にみても、マギーのフィルムと思われます。英国に、そのフィルムが現存しているかもしれません。
 ティンパレーは、その後、米国へ行き、1939年3月頃、英国から重慶に入り、4月頃、中央宣伝部の顧問になったと考えられます。

 従って、フィルムのコピーは、米国とドイツの他に、日本と英国に行ったものと思われます。また、中国政府も複製を持っていたと考えるべきでしょう。

>残されたフィルムの考証がしっかりとなされていないことからくる、アイマイさ、あるいは、考証不十分のまま2次使用されたフィルム。

 はい、その通りです。マギー家所蔵のオリジナルフィルムが編集なしで公開されることを期待しています。
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[348]Re(2):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/8(日) 8:55 -
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渡辺さん、

詳しいご回答ありがとうございます。
渡辺さんのような先学のご努力を知らずに書き散らした不明をお許しください。
おかげさまで、
マギーフィルムに対するさまざまな疑問の輪郭が見えてきました。もちろん、謎も深まりました。

私の知りうる史料は、渡辺さんもお示しになった、
"About George Fitch and the Film"と、それと同じページにある"About Reverend Magee's Documentary"です。
http://www.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMMage.html
私の英語読解力の無さをご理解いただくために、拙訳をアップしております。
マギー・フィルムとは?
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm

及び、WEB上で見られる「マギー牧師の証言(中国語版)」(「天皇の名のもとに」と同一か、その短縮版?)
http://www.china918.net/91802/nj1213/index.asp
が私の資料です。


これらから私が類推したことは、
==============

1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。

(リバーサルフィルムだと現像すればそのまま映写できる。ネガフィルムはネガを編集してからポジのプリントをとる。素人カメラマンである牧師さんならば、ネガよりもリバーサルを使ったであろう。ただし、リバーサルが手に入るならばが前提。100フィートロールは撮影時間約3分。400フィートロールは大きなマガジンを付けねばならず、撮影は三脚が必須、とても一人ではできません。)

2、撮影したものは、「南京事件」だけでなく「日本訪問」や「宗教儀式」なども含まれる。

3、それらは、上海のコダックの現像所で現像された。

(ただし、上海と南京との行き来が自由なときの撮影済みフィルムは既に現像されて、マギーの手元にあったと思われる。ジョージフィッチがマギーから託されて上海に運び現像された物は、9月以降撮影の未現像の100フィートフィルム×4ロールであろう。これは、13分という長さにも照合する)

4、「解説書」はジョージフィッチに托された未現像フィルムに添えられた送り状であろう。100フィートロール4本分。マギーは見れば分かる映像の説明は省き、「患者」が受けた残虐行為を中心に記した。「字幕をいれて編集する」といっていた、Timperleyへの手紙かもしれない。

5、100フィートロール4本なら、ジョージ・フィッチの外套の中に隠すことができたかもしれないが、400フィートロール4本は無理である。

6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、
現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 

(私はそれは構想倒れに終わったと思う。実際、字幕((合成スーパーではなく撮り切りのパターン))を作成する職人の動員が、1938年の上海租界で可能だったとは思えない)

7、結局、編集といっても、4本のつなぎめやカットとカットの間の露光部分を切除したに過ぎないと予想される。これなら、現像所の技術者が機械的にできる。出来上がったもの400フィート。

8、ここで、コピーを4本つくるために、マスターネガを起こしたと思われる。
つまり、上海でできた12~13分のフィルムは

(0)マスターネガ → 不明(誰が管理か?)
(1)プリント1 → ジョージフィッチがアメリカへ→ "Invaded China"
(2)プリント2 → 誰かが日本へ(その後不明)
(3)プリント3 → ドイツ大使館からヒットラーへ(その後不明)
(4)プリント4 → Timperleyが管理 → "What War Means" 出版を記してイギリスへ

などが考えられるが、
「日寇暴行実録」などへの写真転載を考えると、プリントは4本に留まらなかったと思われる。のちに、マギー家に返還されたものはどれか?という疑問も残る。

9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。

(マギーが帰国する際に上海でフィルムを返還してもらうことが果たしてできたのだろうか? 多分そうではなくて、帰国してから、2次使用されたフィルムを収集したのかもしれない。 上海の爆撃ニュースや、Battle of Nanking のシーンが「マギー牧師の証言」に混ざっていることからも、その可能性は否定できない。)

※1 以上は今のところ私の勝手な妄想です。決して宣伝しないでください。
※2 映像にしても写真にしても、「プロパガンダ」用メディアだと思われていた時代。世界中のどの国も。ドキュメンタリー映画、なんていう言葉ができたのはずっと後世の1960年代。オリジナルがどうのこうのといい始めたのも、後世になってから。当時はわが国も全体主義国家ですから、もちろん。
※3 ヒロシマやナガサキ。映画にしても写真にしても「日本人カメラマン」が撮影でき、それを隠し持つことができて、本当によかったです。占領下のできごとで自国民による記録が残っていなかったら、きっと今ごろ同じように「原爆被害なんて捏造だ」といわれていたでしょう。
※4 10フィート運動の素晴らしさは「アメリカ人が撮ったフィルム」を「アメリカ人」に見せて、否定できない事実と認識させたことです。米国戦略爆撃調査団が撮った被爆「患者」は全体の中では軽症の人ばかりです。しかし「米国自ら残した証拠」という、記録としての強さがあったのです。これは「村瀬写真集」の意味に通じます。日本人のだれそれが撮ったか、完全にわかっている写真だけを使った「南京事件」。そうした著作があってよいかもしれませんね。
※5 蛇足ですが、このサイトでは2つの作品、"Battle of China"と"Invaded China"とを区別しています。
http://www.geocities.com/nankingatrocities/index.htm

▼渡辺さん:
>▼ピッポさん:
>>マギーフィルムは、マギー牧師が南京事件を現認撮影したもので、文書記録と照合されれば、一級の資料ですよね。
>>
>>しかしながら、当時4本のコピーをとったといわれるフィルムの、その後の行く末が、なかなか明らかになっていません。
>>1938年にジョージフィッチがアメリカに持ち帰ったもの。
>
> この件に関しては、フィルムを所蔵していた方が下記のような記事を書いています。
>"About George Fitch and the Film"
>http://www.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMMage.html
> フィルムの一部は失われたようですが、修復され13分になったものを Library of Congress film department に寄贈したとしています。まだ、事実確認はしていません。2年ほど前に記事投稿者と連絡をとろうと問い合わせしましたが、サイト管理者から回答がありませんでした。
> The Battle of China に使われたものはフィッチが持っていったフィルムのコピーではないかと思います。従って、米国政府機関のどこかにそのコピーが所蔵されているものと思います。これは、Timperleyが編集したものです。
>
>>1990年代に、マギー牧師の息子の家から発見されたもの。
>
> これは、『天皇の名のもとに』にオリジナルのフィルムやカメラの映像がでてきます。この映画に収録されたものは、マギー家所蔵のフィルムからと思います。
>
> Timperley編集のフィルムが日本に持ち込まれたことは、蒋介石宛て機密文書の記述にもありますので、ほぼ確実とみられます。その後、そのフィルムがどうなったかは知りません。400フィートの長さに編集されていたようです。
> 1938年に英国の下院でTimperleyが映画を上映し、その結果、観客は気分が悪くなったとチャールズ・ティンパレーという人が回想録に書いています。新聞記事が出典とみられますが、まだ該当記事をみつけていません。(著者は高齢で病気とのこと、インタビューできませんでした。)下院の議事録(膨大)も機会をみて調べる予定です。時期的にみても、マギーのフィルムと思われます。英国に、そのフィルムが現存しているかもしれません。
> ティンパレーは、その後、米国へ行き、1939年3月頃、英国から重慶に入り、4月頃、中央宣伝部の顧問になったと考えられます。
>
> 従って、フィルムのコピーは、米国とドイツの他に、日本と英国に行ったものと思われます。また、中国政府も複製を持っていたと考えるべきでしょう。
>
>>残されたフィルムの考証がしっかりとなされていないことからくる、アイマイさ、あるいは、考証不十分のまま2次使用されたフィルム。
>
> はい、その通りです。マギー家所蔵のオリジナルフィルムが編集なしで公開されることを期待しています。
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[349]Re(3):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/8(日) 9:14 -
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付記です

10、マギーフィルムが東京裁判で証拠提出できなかったのは、本人の手元にオリジナルが残っていなかったせいかもしれない。中華民国政府の元にも残っていなかった。
決して、内容に証拠価値が無いわけではない。 
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[350]Re(2):マギーフィルム画像と解説書
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msq - 05/5/8(日) 9:16 -
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関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に
"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。
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[352]Re(4):マギーフィルム画像と解説書
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渡辺 - 05/5/8(日) 19:06 -
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▼ピッポさん:
>付記です
>
>10、マギーフィルムが東京裁判で証拠提出できなかったのは、本人の手元にオリジナルが残っていなかったせいかもしれない。中華民国政府の元にも残っていなかった。
>決して、内容に証拠価値が無いわけではない。 

 マギーの子息は、『天皇名のもとに』の中で、父親が東京裁判にフィルムを持っていったが、なぜか上映されなかった、と言っています。

 裁判でフィルムを証拠に使う場合、どういう争点の証拠とするのかということですね。そこまで、必要があったかですね。証言で十分だったとも考えられます。
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[353]Re(3):マギーフィルム画像と解説書
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渡辺 - 05/5/8(日) 19:10 -
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▼ピッポさん:

>これらから私が類推したことは、
>==============
>
>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。

 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。
 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。

>6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、
>現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 

 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。
 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。

 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。
---
 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270]
---
 ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。

>9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。

 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。
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[356]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/8(日) 22:12 -
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▼渡辺さん:
> マギーの子息は、『天皇名のもとに』の中で、父親が東京裁判にフィルムを持っていったが、なぜか上映されなかった、と言っています。
>
> 裁判でフィルムを証拠に使う場合、どういう争点の証拠とするのかということですね。そこまで、必要があったかですね。証言で十分だったとも考えられます。

なるほど。不勉強でした。
しかし、フィッチに托して現像・焼付け(プリント)したものは、
マギー本人はいつ誰から手に入れたのでしょうか?
興味深いところです。

誤りのご指摘感謝します。
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[357]Re(4):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/8(日) 23:28 -
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▼渡辺さん:
>>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。

> 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。

そうですね。
しかし、16mmの白黒リバーサルというものはマギー牧師のようなムービーマニアにはもってこいです。ですから、そのようなものが無かったとは考えられません。
http://blogs.dion.ne.jp/wuemme/archives/cat_40405.html
問題は16mmの白黒リバーサルというものが、1937年にあったかどうか?また上海で手に入ったかどうかです。コダックやアグファなどの歴史を調べる必要がありそうです。

ちなみに、ある時代には8ミリ愛好家の世界ではあったはずです。

また、ENGビデオカメラが普及する前の1970年代は、16ミリカラーリバーサルフィルムがテレビニュースの世界では主流でした。それは実際に知っています。NHKの支局、通信員には16ミリのハンディカメラ、キャノンスクーピックが支給され、16ミリカラーリバーサルフィルムを使っていました。その前の1955~1960年代はどうだったのでしょうか?白黒テレビ時代は体験しておりませんが、プリントを複数作る必要の無いテレビニュースでは、白黒リバーサルは重宝がられたと想像します。


> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。

ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

> 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。

ネガフィルムで撮影した場合の processing (工程)とは、ネガフィルムの現像、と、ネガからポジへの焼き付けの2工程です。フィルムはネガとポジの2通りが残ります。ネガで撮影していたなら、マギーの下に現像済みネガフィルムがポジフィルムとともに残っているはずです。

processing を「複写」と訳すのは、感じっこ訳ですね(笑)。
南京でネガフィルムの現像をすることはありえないでしょう。ネガを現像下だけでは、何も鑑賞できないのですから無駄です。上海の現像所でネガを現像して、ポジを焼きつつけて、ネガとポジのセットを納品してもらうのが、普通です。16ミリのネガからポジを得るためには、現像済みネガと未露光ポジの日本のフィルムを重ね合わせて露光部に送る、ムービーカメラのお化けのような装置が必要です。そうした装置をもった現像所が上海にあったのでしょう。(上海にあれば、南京には必要ありません)

ネガで撮影した場合の編集は、ネガフィルムを切り刻んで編集して原版とし、そこからポジの焼き付けてプリントを作ります。複数のプリントが作れます。


>>6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、
>>現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 
> 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。

「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」がどの程度かによりますが、
編集作業が、フィッチの帰米に間に合ったのですね。ただしこの編集は、ポジフィルムで編集し、その耳にうたれた番号を目安にネガを編集するという工程です。Timperleyは自ら編集したのではなく、編集者に指示を与えたのでしょう。上海には優秀なムービー技術者がいたので、急ぎ仕事も可能だったのでしょう。


> ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。

しかしながら、このときいれた「若干のタイトル」が少しも目に触れないのが不思議です。そういうものが公開されれば、必ず印刷物に使われるはずだからです。

>この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。
[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。


『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?
予備のコピー(プリント)なのか、編集で取り除いた部分(リザーブ)なのでしょうか?
あるいは、原版であるネガに対しての予備のポジプリントなのでしょうか?
ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。

> それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。
>---
> 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270]
>---
> ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。

なるほど。


>>9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。
>
> はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。

はい。しかし、これはかなり大きな問題です。テレビ局のプロデユーサなら、その結論を有無も言わさず下すでしょうが。

原版が本人の手に戻るというのは、映像の世界では大変なことです。というのも、映像を利用する際に、「必ず原版を保存し利用するのはDupelicationだけ」という原則が守られないからです。アナログメディアはコピーするたびに、画質が低下するからです。

一旦本人の手からはなれれば、原版はばらばらになり、再収集したときには雑多なものが混じっている、というのが予想されることです。ですから、よりいっそう緻密な考証と吟味が必要なのです。

毎日放送の「女性ディレクター」はどこまでやったのかなあ?


渡辺さん、有難うございました。
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[358]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/8(日) 23:38 -
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訂正です

1、ネガを現像下だけでは→現像しただけでは

2、日本のフィルムを重ね合わせて→二本のフィルムを重ね合わせて

3、Dupelication → Duplication 複製・コピーのこと
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[360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会
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とほほ E-MAIL - 05/5/8(日) 23:57 -
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▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に

多いに関係ありますです。(笑)

>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。

これ、前にも思考錯誤で申し出ましたが、私のここのサーバーいつでも無料で貸しますから、渡辺さん声かけてくださいね。普通にftpアカウントを発行しますから。
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[364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/9(月) 10:01 -
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[添付]~添付ファイル~
・名前 : filmo.jpg
・サイズ : 31.5KB
[添付]~添付ファイル~
・名前 : kodak_plus_x.jpg
・サイズ : 5.6KB
[添付]~添付ファイル~
・名前 : kodak_tri_x.jpg
・サイズ : 6.7KB

添付画像【filmo.jpg : 31.5KB】 添付画像【kodak_plus_x.jpg : 5.6KB】 添付画像【kodak_tri_x.jpg : 6.7KB】

上左は、マギー牧師が使っていたと思われる16ミリカメラ「フィルモ」
中、右は、コダックが今も売っているムービー用白黒リバーサルフィルム(8mm)
カラーが主流になるまでは、16mmの白黒リバーサルフィルムも売れ筋だった。


日本での小型映画ブームは戦後
http://www.fujifilm.co.jp/history/dai3-06.html


小型映画の歴史は,1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間,さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも,17.5mm,16mm,9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして,1932年(昭和7年),コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び,8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は,その後のダブル8システムのはしりで,幅16mm,長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い,片側を撮影後,スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し,現像終了後,中央で裁断,両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし,それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ,アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し,また,ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も,各社がカメラを開発し,フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが,結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。

 わが国でも,戦前からの8mm映画愛好家は,戦争による中断の後,1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ,また,アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて,新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。


ちなみに大戦中米軍が記録用に多用した16mmカラーフィルムはネガ・ポジ式ではなくてリバーサルフィルムだったそうです。
http://www.warmovie.com/cgi/off/cf.cgi?mode=all&namber=227&rev=1


==============================

モノクロのリバーサルフィルムというのは、北米では1930年代のブームだったようです。
大不況の後の映画ブームから映写マンとして生きた人の回顧から。

LOOKING BACK:Touchdown! 42 Years In the Motion Picture Industry
by Kenneth R. Davey
http://www.csc.ca/news/default.asp?aID=757

It all started in Winnipeg at the peak of the worst depression of the century, in 1932. There were no jobs, no unemployment insurance, no welfare to speak of, no training or technical facilities, no place to apprentice. Motion pictures were a fairly new business and we were far west of Toronto, out in the colonies so to speak, and therefore at a great disadvantage.

After graduating from high school with only some experience as manager of my high school yearbook in 1932-33, and no possibility of university, I was able to get a job with the Hudson?s Bay store. There I got a chance to work in sales in the newly- formed Photographic Department at $4 a week in a six-day week from 9 a.m. to 6 p.m. each day. In 1935-36, I was made head of the department (a staff of three) and I received $6 a week, no overtime. You had to learn, fast?cameras, film processing, a host of other products and services?but then nobody else knew too much either.

Most interesting to me was the fairly new non-flammable 16mm film that Kodak was producing, compared to the flammable 35mm film used in the movie business. The 35mm cellulose-based stock was the cause of many fires, due in part to the arc light sources necessary for theatre projection. The safety panchromatic reversal black & white 16mm film made it possible for the amateur to get involved?and they did. The 16mm format was made to compete with and eventually replace the 9.5mm European size, with its single, between-frames sprocket. The 16mm American size gave a larger picture area, with sprockets on both edges (until sound came) for a steadier image.

These were the days of silent footage and titles. Sound was just arriving in the theatres. We demonstrated and sold titlers of all sorts, from ones with adapter lenses for closeups and those for use with typewritten copy, to larger ones with loose fonts or hand-lettered cards. There was no through-the-lens viewing, so a lot of trial and error was the only way to learn. This introduced me to my really first film production job. It became my job in the photo department to take customers? film, cut out the bad parts, rearrange if required, splice in titles, etc., then teach the customers how to do it. I later found out that I had become some kind of editor.

1935-1936年ごろ、
16ミリのリバーサル白黒フィルムの出現が一番面白かった、とかかれています。

それは35ミリフィルムのように燃えることが無くアマチュアが扱える。それらは、両側にフィルム送りの穴が開いて安定し、ヨーロッパタイプの9.5ミリフィルムよりも画面が大きい、と。

また、劇場(35ミリ)ではトーキーに変わっていたが、16ミリはまだサイレント。だから簡易にタイトルが作れるキットを売りまくった。手早く映画をつくるためのサービスを次々に繰り広げた、といっています。





画像は、マギー牧師の遺品のカメラを紹介する、息子のデヴィッド・マギー氏。
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm

マギー牧師が南京で16ミリの撮影を行ったのはそうした時期です。彼が使ったカメラは、ベル&ハウエルのフィルモというカメラだと思います。ゼンマイ仕掛けでフィルムを送るカメラで100フィート装てん可能です。1秒あたり24コマで廻すと1巻は2分40秒、1秒あたり18コマだと3分30秒ほどになります。当時は確か後者ではないでしょうか。

なお、日本のテレビニュースのフィルム取材については、以下の記事が面白い。


映像取材から見たテレビ報道の歴史

http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html
■初期のテレビニュース
http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html#d
カメラマンのたわごと
http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada2.html

戦後の日本のテレビでは、モノクロリバーサルは使われていなかったようだ。

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[365]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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渡辺 - 05/5/9(月) 23:18 -
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▼ピッポさん:
>>>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。
>▼渡辺:
>> 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。

 あ、間違えました。コッダックが反転現像をしていたと思い違いをして投稿してしまいました。申し訳ない。
 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。

>> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
>
>ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

(以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。)
 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。
 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。
 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。
 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。
 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。
 「解説書」"最終版"の最後には
Please return to Mrs.Forster
990, Jespeed RD.
Shanghai
とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。)

-- 参考 --
1938年
1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
2/12? フィッチ、南京に戻る
2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
2/23 ラーベ、南京を出発
2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
2/27 ラーベ、上海到着
3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
---

>『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
>何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?

 残念ながら、原文は手元にありません。

>ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。

 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。
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[366]Re(6):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAIL - 05/5/10(火) 1:39 -
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渡辺さん、
克明なレスありがとうございます。

> いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。

コダックの16mm白黒フィルムには
イ)撮影用ネガフィルム
ロ)焼き付けプリント用ポジフィルム
ハ)現像しただけで映写用の陽画が得られるリバーサルフィルム
以上3種があったようです。


>>> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
>>ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

>(以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。)
> 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。
> 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。
> なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。

なるほど1-12。マギーフィルムも奥が深いのですね。

> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。

「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。

私は「解説書」は、マギーの個人的な「撮影記録メモ」から書き写して、2月10日に作成したものではないかと類推しています。

>ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。

それは、別の証拠が必要ではありませんか? 上記の理由からです。
また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。

>また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。
> フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。

あとの4巻は解説書の5-8なのでしょうか。まあ、これにこだわっていると先に進めませんね。


> 「解説書」"最終版"の最後には
>Please return to Mrs.Forster
>990, Jespeed RD.
>Shanghai
>とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。)

なるほど、キーマンはフォスター夫人。Timperlyという席を暖めることができない男が、フィルムの管理なんかできませんね。

>-- 参考 --
>1938年
>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>2/12? フィッチ、南京に戻る
>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>2/23 ラーベ、南京を出発
>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>2/27 ラーベ、上海到着
>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
>---

貴重なデータですね。ありがとうございます。


>
>>『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
>>何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?
>
> 残念ながら、原文は手元にありません。
>
>>ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。
>
> 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。


私がフィルムの種類を気にするのは、
1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。
リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。
2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。
3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。


とまれ、こうやって苦労してフィルムを残してくれた人々に厚く感謝いたします。
マギーフィルムは世界人類の遺産です。
南京事件の悲惨を記録するとともに、国際安全区という
戦時の中でのヒューマニズムの偉業を私たちに伝えてくれるからです。
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[367]Re(2):写真119 「夏琴淑さん事件」
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/11(水) 7:57 -
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マギーの東京裁判での証言から。

ゆうさん 「小さな資料集」
『マギーが証言したこと』より
http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html

>続いて、有名な「夏淑琴さん事件」の証言が見られます。


○マギー証人  一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起こつたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。
○サトン検察官 それは何年のことですか。

○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。

 私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取つた母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。

 其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。

 約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります。(モニターによる修正後の文)

 それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。

 先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。

 それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります。(モニターによる 追加後の文)

 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。

 其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵はその女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります。(モニターによる修正後の文)

 或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります。(モニターによる修正後の文)

 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居たならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来ただらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。

 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95~P96)


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[368]Re(3):東中野修道氏のトリック
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/11(水) 8:36 -
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ゆうさん「小さな資料集」
東中野氏の徹底検証 10
夏淑琴さん事件
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html

>それはともかく、東中野氏の「トリック」を解説しましょう。まず、東中野氏の記述から。

 ここに、もう一つ、この「八歳の少女」の語った事件にかんして、許伝音が東京裁判で証言したことを付け加えておきたい。・・・許伝音は、十七歳(十六歳の間違い)と十四歳の少女の死体が「テーブルの上の血の海の中」と「ベッドの血の中」に横たわっていた、と証言した。「日支紛争」の中のマギーの説明によれば、マギーが現場に行ったときは、すでに「死体が全て取り除かれ」ていたのではなかったか。これは許伝音の偽証であった。(「徹底検証」P250~251)

>東中野氏の引用する、「日支紛争」の中の「マギーの説明」は、以下の通りです。

 (略)写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた。
兵士たちは毎日この家に物を取るためやってきたが、二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんの弟と、この小さな女の子に対する質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。(「徹底検証」P242)

> 確かにこれだけを見ると、マギーは「死体が全て取り除かれたあとの部屋」に入り、死体を全く目撃せずに「聴取」のみで記録を書いたように見えます。ところが、これはトリックでした。以下、検証していきましょう。
--------------------------------------------------------------------------
>まず、「許伝音」の「証言」から。なお、東中野氏の引用部分は、正確には「証言」ではなく、「証言」とは別に文書で提出された「宣誓口供書」の記載です。以下、引用します。

極東軍事裁判 許伝音 宣誓口供書
十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵<に>陵辱されました。屡屡続けざまに陵辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に陵辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は<れ>たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の『シンカイ路七番地』の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。

(略)その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に陵辱を受け<た>揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横<た>わつて居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて『ベッド』の血の中に横<た>わつて居たのでありました。
(「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29)


>第一のトリック。東中野氏は、引用部分をあたかも許伝音の「目撃証言」であるかのように語っていますが、これは、「兵士共の行為の例証」としての「引用」であり、「目撃証言」ではありません。  実際の「目撃証言」は、次の通りです。

極東軍事裁判 許伝音証言
・・・是等の強姦された婦人の中二人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。・・・此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放ってあったのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居つたことがはつきりして居つたからであります。
(「南京大残虐事件資料集 第1巻」  P29)

>第二のトリック。部屋から「取り除かれた」死体は、実は家から数「メートル」離れたところにあったわけです。許伝音は、家の外で死体を目撃し、「マギー」とともに死体の写真を撮りました。
------------------------------------------------------------------------
>かつこれに加えて、「マギーの説明」の方にも「トリック」があります。この文は、「徹底検証」が出版された1999年より後の2001年に出た、「ドイツ外交官が見た南京事件」に収録されていますが、これを読むと、この文は、実は「マギーフィルム」の解説書であったことがわかります。

>「ドイツ外交官の見た南京事件」と東中野氏の引用を比較すると、東中野氏の方には、最後の2行が脱落していることに気がつきます。

マギー牧師の解説書(最後の2行のみ引用。東中野氏の引用文の続き)
・・・彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる十六歳と十四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(「ドイツ外交官が見た南京事件」P177)

>東中野氏は、マギーが死体を目撃していないかのような文を書きましたが、実際には、マギーも死体を目撃して、これを撮影していました。 東中野氏は、以上、3つのトリックを使って、「許伝音の偽証」を作り上げたわけです。

==================================================================

『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html より転載

夏淑琴さんの証言
新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。

日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。

兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。

彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない!
(『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167)

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[369]Re(6):私の頭の中の困った事象
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/11(水) 15:07 -
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▼渡辺さん:
>-- 参考 --
>1938年
>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>2/12? フィッチ、南京に戻る
>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>2/23 ラーベ、南京を出発
>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>2/27 ラーベ、上海到着
>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
>---

渡辺さん、私の頭の中に困った事象がおきました。
それは、George Fitch の回想録における、
「マギーフィルム運搬エピソード」に関することです。

北村稔「南京事件の探求」からの引用(キャッシュのみ残)

 フィッチが南京から上海に移動したのは、回想録の文面から判断して一九三八年の一月十九日である。日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに上海に到着した。フィッチは次のように言う。

「私はそのとき〔中略〕オーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気をつかった。〔中略〕幸いにして、それらはみつからなかった。上海につくとただちに、フィルムを複写するためにコダックの営業所へ持っていった。〔中略〕コダック代表は急いで四セットを作成してくれた」。


笠原十九司「南京難民区の百日」からの引用
http://www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin28.html


2)1月下旬、ジョージ・フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。オーバーの裏地にはマギーが撮影した16ミリのネガフィルム8リールが縫いこんであった。日本軍の残虐行為の証拠となるものである。上海でコピーを4セット作製し、香港を経由しアメリカへと飛び立った。
彼の渡米の目的は南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせるとともに、南京をはじめとして戦禍で苦しむ中国の難民を救済するためのキャンペーンを全米で展開し、救済資金を集めることにあった。


ご覧のように、どちらも1月下旬に日本の軍用列車に乗って運んだ、となっています。
そうして、フィッチは1ヶ月上海に滞在したことになっています。

しかし渡辺さんご指摘のようにラーベの日記によれば、フィッチは、
1月29日に上海にBee号で行って、2月4日にラジオ上海に出演し、
2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。

疑問-1

上記の回想録からの引用の方が間違っていると思われます。
フィッチが列車で移動したのは2回目の2月19日だったのでしょう。

この間違いは、翻訳作業のどこかで誤記があったのでしょうか?
それとも、フィッチの回想に誤りがあったのでしょうか?
渡辺さんは、原書"My Eighty Years in China"をお持ちだそうで、
お時間が有るときにご確認いただけないでしょうか?

なお、Timperleyのホーンベック宛書簡が2月16日付ですから、
渡辺さんが仰るように、2月19日に運び出したのでは、日時が前後してしまいますから、1月29日に運び出したと考えるのが順当です。

そうすると、
マギーフィルムは、1月29日にBee号に乗ったフィッチによって上海に運ばれ、
上海着は2月2日か3日か? それを、Timperleyが編集して、上海コダックが4セットのプリントをつくる。そうして、(船に乗ってか?)フィッチが2月12日に南京に戻る。ということになって、フィルムの現像→編集→プリント作業としてはぎりぎりで、余裕がなくても不可能ではありません。

疑問-2

そうした日時手順を考えますと、マギーが現像、編集済みのフィルムを見て「解説書」を書き、2月10日づけでドイツ大使館分室文書に添付することは、物理的に不可能です。
その点でも、私の勝手な推論「マギーは現像済みのフィルムではなく撮影記録を見ながら解説書を書いた」に幾分か理があります。

ところがところが、
「マギーフィルムの解説書」を読み返してみますと、その記述の順番が、撮影日時順ではなさそうだということに気がついたのです。

ということは、
1、2月10日以前にマギーは、編集されたものを見て「解説書」を書いた。
2、それは、1月29日にフィッチが運び出して、フィッチが持ち帰ったのでは間に合わない、
3、つまり巻1から巻4は、それ以前に上海に運ばれていた。
4、考えられるのは、ドイツ大使館が「外交文書として」上海に運んだということです。
5、それが現像されて戻り、ヒットラー宛に送付するために添付する「解説書」の執筆をマギーに依頼した。
6、とするとそれは、マギーフィルムの前編ということになるかもしれません。

X、それともフィッチは、密かに1月29日以前にも上海に行って帰ってきたのか?あるいは、別の誰かが運んだことをフィッチのしたことにしたのか?
Y、矛盾無く解釈することができません。

以上、
己の読み方の未熟さからくる疑問です。
渡辺さんのお手元を騒がせて申し訳ありません。

[管理人一回修正:タグ]
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[370]Re(7):訂正です
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/11(水) 15:13 -
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2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。

  2月179日→2月17日

2月に179日は有りません(苦笑。大汗)
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[374]Re(7):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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渡辺 - 05/5/14(土) 17:31 -
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渡辺:>
>> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。
▼ピッポさん:
>「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
>私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。

 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。
 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187]

>>1938年
>>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>>2/12? フィッチ、南京に戻る
>>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>>2/23 ラーベ、南京を出発
>>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>>2/27 ラーベ、上海到着
>>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

 ここで問題となるのが、フィッチが上海から南京へ戻った日付です。
 前回の投稿ではうっかりしていたのですが、フィッチが南京に帰ったのは、上の手紙の日付2月10日より後の12日となっており、明らかに矛盾しておりました。
 上記の日程表は、調べものなどをした機会に蓄積している私の時系列"データベース"を元に作ったものです。2月12日にフィッチが帰ってきたということは、ラーベやヴォートリンの日記に書かれています。それにもかかわらず、この日付に疑問を持った理由があったわけですが、それをメモしておかなかったので、その根拠が分からなくなってしまいました。
 そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。
---
There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105]
---

 マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと]
 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。
 
>また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。

 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。
 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。

>私がフィルムの種類を気にするのは、
>1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。
>リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。
>2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。
>3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。

 私がオリジナルといっているのは、写された映像がそのまま編集されずに残っているものをいいます。複写かどうかは大きな問題には思えません。文書史料が複写されたものである場合と、同種の状況ということになるでしょう。
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[376]Re(8):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/14(土) 19:15 -
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▼渡辺さん:
>渡辺:>
>>> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。
>▼ピッポさん:
>>「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
>>私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。
>
> 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。
> 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187]
>>>1938年
>>>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>>>2/12? フィッチ、南京に戻る
>>>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>>>2/23 ラーベ、南京を出発
>>>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>>>2/27 ラーベ、上海到着
>>>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>>>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

> そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。
>---
> There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105]
>---

> マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと]


日本語版のマギー日記の2月11日(P244)では、

マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。


渡辺さんのご指摘で、めくりなおしたら見つかりました。見落としていました。

フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも)

そうして、マギーは2月10日にフィッチが持ってきた編集済みフィルムを大急ぎで見て、
その日のうちに「解説書」を手書きで書いた。(後にドイツで発見された「解説書」が、確かにマギーの筆跡だということは、「目撃者の南京事件」にあります)。そうして翌日にはラーべにも見せた。

このように素早い段取りをDirectしたのは、ドイツ大使館書記官のローゼンだったのですね。
先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

13時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。

とあって、それが次に続いています。

マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。

おそらく、クリケット号の出向に間に合うように、ヒットラーにフィルムを見せるための「解説書」が作成されたと予想されます。


> 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。
> 
>>また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。
>
> 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。
> フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。

私の推理では
2月10日にフィッチが持ち帰ったフィルムはドイツ送致用の1本だったと思われます。
マギー、ラーべ、フィッチは帰国時に上海で受け取ったと思います。

最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。
2月10日に南京に持ち帰ったのは、渡辺さんのおかげで確かになりました。

私の勘ですが、「Timperleyがタイトルをつけたい」といっていたのは、後続のフィルムを併せたものの、『編集構想』ではなかったかと思います。
詳しく読み解く時間がないので、今日のところはこれにて御免蒙ります。

渡辺さん、有難うございました。
3,028 hits

[379]Re(9):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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渡辺 - 05/5/15(日) 0:33 -
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▼ピッポさん:
>フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも)

 これは、両方とも正しいのかもしれません。ベイツも12日の午後にオアフ号が「寄港予定」と前日付の手紙に書いています。
---
             シール
 一九三八年二月十一日 南京
最愛の人
....
...オアフ号は明日午後寄港予定だが、到着はいつものとおり遅れるだろうし、上陸時間もとても短い。フィッチがオアフ号に乗船しているとは意外だ。が、おそらく身の回りを整理するために戻ってくるのだろう。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.331]
---

 オアフ号は一旦近くに係留し、荷物だけを先に小型の船で陸地に運んだということが考えられます。これが、2月10日で、フィッチが上陸したのが12日午後だと考えればつじつまが合います。

>先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

 この訳は例によって要注意です。
>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。
→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」

>ローゼンは上海で複製を作らせている。
→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」

>私にも一本くれることになっている。
→「私も後で別の複製を入手することになっている。」

>最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。

 誰か他に可能性があるでしょうか?
 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。
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[380]Re(10):マギーフィルム画像と解説書:2月10日と...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/15(日) 0:57 -
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>>先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

> この訳は例によって要注意です。
>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。

これは

>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。

でした。ごめんなさい。

>→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」

うむ。ここは英文はいかがですか?

>>ローゼンは上海で複製を作らせている。
>→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」
>
>>私にも一本くれることになっている。
>→「私も後で別の複製を入手することになっている。」
>
>>最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。
>
> 誰か他に可能性があるでしょうか?
> 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。

はいご明察、確かに確認いたしました。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-8
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[381]Re(11):マギーフィルム画像と解説書:2月11日の...
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/15(日) 7:48 -
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渡辺さん
再確認お願いできますか?

>> この訳は例によって要注意です。
>>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。
>
>>→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」
>
>
>>>ローゼンは上海で複製を作らせている。
>>→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」
>>
>>>私にも一本くれることになっている。
>>→「私も後で別の複製を入手することになっている。」

だろすると、2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなる。


13時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。

マギー牧師が残虐行為のフィルムを撮った。ローゼン博士はその複製を上海で作らせるつもりだという。1本はベルリンに送るつもりで、私も後で別の複製を入手することになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。


この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?
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[382]Re(12):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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渡辺 - 05/5/15(日) 15:02 -
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▼ピッポさん:
>>>>この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
>マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?

 Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188]

-- 参考 独語版 --
 Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259]
(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)

 あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。
 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。

「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」
 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。

 ローゼンの手紙の意味するところは、複製費用をドイツ大使館の負担とする条件でフィルムの複製を上海で作ってもよいという申出をマギーから受けたということかもしれません。
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[383]Re(13):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/15(日) 16:20 -
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▼渡辺さん:
>▼ピッポさん:
>>>>>この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
>>マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?
>
> Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188]
>
>-- 参考 独語版 --
> Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259]
>(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)
>
> あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。
> aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。
>
>「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」
> それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。


渡辺さん、大変な書き写し作業、ほんとうに有難うございました。

ドイツ語はもちろん、英語もダメな私なので、どうしようも有りませんが、
ここの記述のポイントは、

ローゼンがベルリンに送るプリントを製作中であって、マギーも後でゲットするつもりだ。

にあるように思いました。つまり、ローゼンからフィルムに関する方針を聞いたということ。
the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。

映画に登場する負傷者の幾人かとは私も会っています。私は少なからぬ人と死ぬ前に話をすることもできました。

 
もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。

この推理も、他の場面での推理と平仄が合わなくなったら、直ぐに撤回いたします。
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[384]Re(3):再登録お試しになったらいかがですか
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ピッポ E-MAILWEB - 05/5/16(月) 17:31 -
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▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に
>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。

渡辺さん、
期限切れでも再登録(移行)できるかもしれません。
お試しになったらいかがですか?

http://geocities.yahoo.co.jp/v/renewal/start.html
>標準モードで移行を開始する
に進む。
URLを変更せず、Yahoo IDを取得する。
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[387]Re(14):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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渡辺 - 05/5/20(金) 23:24 -
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▼ピッポさん:
>the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。

 「映画にでてくる」というコメントは、ラーベが映画を見たことを前提にしていると考えるべきだと思います。
 英語でも独語でも、「負傷者」に定冠詞が付いているということは、書き手と読み手が「あの負傷者たち」と共通の認識をもっていることを前提としています。ですから、それまでに言及されていない「負傷者」に定冠詞が付いているのは、本当はおかしいわけです。日記ですから、書き手と読み手が同じなので、こういう現象が起こったのでしょう。そこで、この文を書いた後にで、定冠詞 der のところ(不自然な位置)に「(マギーの)映画にでてくる」と、注釈をいれたと考えられます。

>もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。

 それが書かれていても、書かれていなくても不思議ではありません。
 日記は、あくまでも書いた人の判断でトッピクが選ばれているわけです。我々には重要と思われるような事実でも、日記にはひとことも書かれていないことはめずらしくありません。キーワードだけで出来事が克明に思い出されるような場合、当事者には当たり前の事実、経緯が複雑で日記にかくのはめんどうな場合、万一日記が外部に露見したときさしさわりがあるので明記しない場合、日記に書くことにより不快な感情をおもいだしたくない場合など、様々な場合があります。

 史料を読むとき、不明な個所にさまざまな可能性がありうることは考慮すべきですが、特定の可能性を支持する史料がない場合は、単純な線で史料間を結ぶほうがよいと私は考えます。
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[388]Re(3):マギーフィルム画像と解説書
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渡辺 - 05/5/20(金) 23:34 -
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▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に
>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。

 ご心配ありがとうございます。
 そのHPは、K-Kさんが管理者で、私の過去の投稿を整理して掲載されているものです。K-Kさんもお忙しいと思いますので、K-Kさんの判断に委ねております。
 内容は、すべてダウンロードしておりますが、読み難い文章も多いし、内容を修正したいところがかなりあります。いずれ自分でHPを作る予定ではいますが、まだ時間がかりそうです。
2,918 hits

[389]Re(6):解説書:Film 10解説 と埋葬数
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渡辺 - 05/5/22(日) 3:05 -
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 "Eyewitnesses to Massacre"に掲載されているフィルム解説の Film 10のケース3のCに、埋葬数について興味深い数字が言及されています。
 この中で、埋葬数が 32,104 で約半分の作業が終わったと推定されているという部分があります。この 32,104 という数字は、『大阪朝日新聞』北支版、1938年4月16日付けの記事(『日中戦争史資料 8』p.393)と一致します。『大阪朝日新聞』では、城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」、「真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」とあり、この数字を合計すると、「解説書」と1体しか違わない、32,103になるのです。これは、偶然の一致ではなく、同じ情報源と考えるべきでしょう。
 マギーは軍民合わせて少なくともこの数字の倍程度6~7万の遺体が埋葬されたとの認識をもっていたのではないかと思われます。南京戦前に疎開し1938年9月に南京へ戻った Albert N. Stewardが、1938年12月11日の記の中で、南京が陥落したとき6~7万の人々が命を失った("Eyewitnesses..."p.320)としているのは、こうした認識の反映かもしれません。

---
["Eyewitnesses to Massacre", p.223"]

Introduction of Magee's Film
Film 10 3.c.
(途中省略)
Between January 23, when they started work, amd March 19, the
Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and
the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that
they have done just about one half of this work. In addition many
bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable
that many bodies were burned up in the innumerable fires that were
started in the city possibly for that very purpose. There are still large
numbers of unburied bodies in section outside the city walls.

- 試訳 -
 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。
---
2,991 hits

[390]Re(7):解説書:Film 10解説 と埋葬数
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熊猫 E-MAIL - 05/5/22(日) 9:57 -
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▼渡辺さん:
>
>---
>["Eyewitnesses to Massacre", p.223"]
>
>Introduction of Magee's Film
>Film 10 3.c.
>(途中省略)
> Between January 23, when they started work, amd March 19, the
>Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and
>the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that
>they have done just about one half of this work. In addition many
>bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable
>that many bodies were burned up in the innumerable fires that were
>started in the city possibly for that very purpose. There are still large
>numbers of unburied bodies in section outside the city walls.
>
>- 試訳 -
> 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。
>---

>城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」
合計すると、32,104体になります。
3,003 hits

[391]Re(8):解説書:Film 10解説 と埋葬数
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渡辺 - 05/5/23(月) 1:07 -
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▼熊猫さん:
>>城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」
>合計すると、32,104体になります。

 アイヤー、夜なべ仕事いけません~。というか『中帰連』2002年23号p.77の原稿で間違えている。おや、と思って検算したはずなのに。
 それから、There are still large numbers of unburied bodies in section<s> outside the city walls.とsectionsのsが抜けていた。
 ご指摘ありがとうございました。

 「北支版」の記述の根拠は長らく不明でしたが、マギーのフィルム説明でどの期間の埋葬数かわかりました。それから、ベイツ、スマイス、ヴォートリン(4月14日)の埋葬記録の数字に関する私の疑問も一挙に解決しそうです。

▼熊猫さん:
>▼渡辺さん:
>>
>>---
>>["Eyewitnesses to Massacre", p.223"]
>>
>>Introduction of Magee's Film
>>Film 10 3.c.
>>(途中省略)
>> Between January 23, when they started work, amd March 19, the
>>Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and
>>the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that
>>they have done just about one half of this work. In addition many
>>bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable
>>that many bodies were burned up in the innumerable fires that were
>>started in the city possibly for that very purpose. There are still large
>>numbers of unburied bodies in section outside the city walls.
>>
>>- 試訳 -
>> 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。
>>---
>
>>城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」
>合計すると、32,104体になります。
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[527]Re(1):マギーフィルム画像と解説書
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ピッポ E-MAILWEB - 05/11/4(金) 23:32 -
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"「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる "
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/magee_exp.htm

アップしました。よろしくご検証ください。


Home
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/
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[557]御礼 管理人様
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ピッポ E-MAILWEB - 05/11/7(月) 13:06 -
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御礼 管理人様

私の予備サイト移転のため、このスレッドの写真がリンクきれとなりました。
気がついて、新たなリンク先URLを修正、として投稿いたしましたところ、

管理人のとほほ様が、元の投稿を直して復元してくださいました。
大変ご面倒をお掛けいたしました。

とほほ様
厚く御礼申し上げます。

ピッポ拝
2,958 hits

[558]Re(1):御礼 管理人様
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とほほ E-MAIL - 05/11/7(月) 14:17 -
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▼ピッポさん:
>とほほ様
>厚く御礼申し上げます。

いえいえ、投稿者が修正できるように改造します、とお約束をしていながらロジックからしたらもう少し簡単にできると思っていたのですが、意外と複雑でいまだに実現できず心苦しく思っています。

このスレッドは貴重でできるだけわかりやすくしておきたかったので、勝手ではありますがこちらで修正させていただきました。この掲示板で私に協力できることといえばこの程度のことぐらいです、皆さんのご苦労に比べたらなんてことはありません(^^ゞ
2,976 hits

[580]「夏淑琴さん事件」 リンク集
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ピッポ E-MAIL - 06/3/28(火) 0:36 -
返信 引用なし
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リンク集

■ゆうさん「小さな資料集」
マギーの解説書フィルム四の(九)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-9
『マギーが証言したこと』(東京裁判)より
http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html
東中野氏の徹底検証 10
夏淑琴さん事件
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html

■「南京事件」143枚の写真
「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる
フィルム四の(九)
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/magee_exp.htm
ビデオ『マギー牧師の証言』より
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/album.html

■『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html より転載
夏淑琴さんの証言

■msqさん 写真116~124 マギーのフィルム p186~196(1)
http://www11.ocn.ne.jp/~nbbk/143/143_116.html


■うねり 日本の右翼を欠席審判 
[ 中国のニュース ] / 2004年11月28日
http://blog.goo.ne.jp/wowow_turk/e/405e6023fcff1d8e16ae71dc38c2828d

■対抗言論 南京事件資料
一般住民に対する虐殺・強姦・略奪
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/juumin.htm
★ 夏淑琴さん一家虐殺事件 ★

■Google検索「夏淑琴」
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%8F%E6%B7%91%E7%90%B4&hl=ja&lr=&start=0&sa=N
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[581]旧思考錯誤板 検索結果
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ピッポ E-MAIL - 06/3/28(火) 10:17 -
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旧思考錯誤板を「夏淑琴」で検索した結果です

RESULT


悪魔の無限ループ 2004/08/31 09:46:51

悪魔の無限ループ

|>幽霊話が創作だということ(虚構)を証明しても

とほほさん、ご丁寧なご返答有難うございま... 2004/08/11 17:14:06

とほほさん、ご丁寧なご返答有難うございます。

失礼な発言をしているかもしれません、ご迷惑をおかけしております。

夏淑琴さんの事件 2004/08/14 09:17:01
夏淑琴さんの事件

「思考錯誤」に投稿させて戴いている目的の一つに「夏淑琴さんの事件」があります。

re:夏淑琴さんの事件 2004/08/14 11:48:33
re:夏淑琴さんの事件
とほほさん、こんにちは。

re^2:夏淑琴さんの事件 2004/08/16 09:49:47
re^2:夏淑琴さんの事件

現状の私の認識は中途半端です、情報があれば教えていただければ幸いです。

誠に勝手なお願いですが 2004/08/16 15:45:58

誠に勝手なお願いですが
「夏淑琴さんの事件」について情報をいただけると、うれしいです。

夏淑琴さんの資料を更新しました。 2004/08/28 12:29:27

夏淑琴さんの資料を更新しました。

『南京大虐殺と原爆(アジアの声第9集)』の

夏淑琴さんが松村俊夫氏と東中野修道氏を起... 2004/08/18 23:55:14

夏淑琴さんが松村俊夫氏と東中野修道氏を起訴

既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、夏淑琴さんが両氏を

夏さんを南京大虐殺の「にせの証人」と中傷... 2004/08/20 12:29:11

夏さんを南京大虐殺の「にせの証人」と中傷した

タラリさん、はじめまして。

>■松村俊夫氏と東中野修道氏が主張する「... 2004/08/20 17:29:03

>■松村俊夫氏と東中野修道氏が主張する「にせの証人」とは、どのような意味なのでし...

>1)本人ではない。

落合信彦『目覚めぬ羊たち』 2004/05/29 06:45:28
「南京」に関心を持ってはや2年半、およそ「南京」と名のつく本は片っ端から手に入れ...

私でもこうですし、またこの本の話をネットの「南京」論議で見かけたことも全くありま...

12月13日昨日は南京陥落の日 2002/12/14 01:57:51
12月13日は南京が陥落し本格的大虐殺が展開されていった、象徴的な日です。

この日私は中国から来ている幸存者(と、中国では呼ばれているそうです)の証言集会に...


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[582]Re(1):「夏淑琴さん事件」 リンク集
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ピッポ E-MAIL - 06/3/28(火) 10:43 -
返信 引用なし
削除 パスワード
■kamuinupeさんの資料集
http://kamuinupe.hp.infoseek.co.jp/sakusei/cyousa/sensou_hanzai/nankin/ka_syukukin.html

関連した討論は
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/9/flcqrf/ghqqrf.html#ghqqrf
ここからのスレッドです。

発展形は、
■ゆうさんのサイトです。
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html
3,713 hits

[583][309]についての注釈
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ピッポ E-MAIL - 06/3/28(火) 22:40 -
返信 引用なし
削除 パスワード
画像資料検証板のインデックスを見ずに
あるいはスレッドの頭からではなく
直接ここに飛んできて唐突に感じる人のための注釈です


[309]の写真は
東中野修道著「南京事件ー証拠写真を検証する」2005年2月草思社
のP192の写真119です。
この本における「夏淑琴」事件についての東中野修道記述は、P192~193です。

その文章内容に対しては、msqさんが論評しています。
http://www11.ocn.ne.jp/~nbbk/143/143_116.html

東中野批判
東中野修道氏の「夏淑琴」事件に対する言及は、前書である「南京事件の徹底検証」に詳しく、「南京事件ー証拠写真を検証する」での記述はその焼き直しだと思われます。

原著である「南京事件の徹底検証」での記述を批判したものが、
[368]に紹介した、ゆうさんの論考

ゆうさん「小さな資料集」
東中野氏の徹底検証 10
夏淑琴さん事件
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html
です。


[309]の文章は
ゆうさんのサイト「南京事件-小さな資料集」から
「マギーフィルムの解説書」
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html
のフィルム四の(九)の部分の引用です。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-9


「マギーフィルムの解説書」とは
上記ページの冒頭にあるマギー自身による説明をまずお読みください。

マギーがなぜ「解説書」を書いたのかは、拙稿をお読みください。
☆「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/magee_exp.htm
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[606]ロシア兵では?
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熊猫 E-MAIL - 06/7/9(日) 1:13 -
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写真121、P194


南京にロシア兵はいたのか!?
        昭和史研究所会報 平成12年6月10日 号 抜粋。 
対談者: 中村:中村粲代表 (独協大学教授)、田形竹尾氏(陸軍飛行第八大隊第一中隊 陸軍軍曹(当時))
情況:田形氏は昭和13年(1938)1月23日に南京に到着。市内平穏。日本の占領は1937.12.13。虐殺痕跡など全くなしという。「虐殺」が反日デマと分かる。

田形:(1937.12.13)南京が陥落してから支那側が1ヶ月に10回位、南京を爆撃に来ました。そのうち2割くらいを
    迎撃して撃墜しました。彼らが落とす爆弾で支那人がやられたわけです。
中村:(南京の)大校飛行場に支那以外の第三国の軍用機はありましたか?
田形:ソ連の爆撃機と戦闘機の壊れたのが十機くらいありました。海軍の渡洋爆撃(1937.8)で破壊されたソ連の軍用機が30機位ありました。パイロットは3機に1機位はソ連人でした。(ソ連の蒋介石への軍事援助は戦闘機爆撃機1千機、操縦士など4千人に上る。戦死者200名以上という)
中村:それはどうしてわかるんですか?
田形:撃墜した飛行機を調べて分かったのです。「何だ、これは露助じゃないか。俺たちはどこの国と戦っているんだ」と皆で言ったものです。
(解説:1937年7月に盧溝橋事件、8月に上海攻撃が発生したが、その時すでにソ連の軍用機が多数中国軍に配備されていたということは、ソ連の対日戦が数ヶ月も前に準備されていたということを示す。それは1936.12の西安事件であろう。日本がソ連の陰謀を見抜けなかったことは残念である。日本軍機とソ連製機の性能については、1940年9月に日本の零式戦闘機13機がはじめて27機のソ連機(ソ連製イ-16、I-152)と空戦、無傷で全機撃墜したことが世界空戦史で有名)

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[607]Re(1):ロシア兵では?
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ja2047 - 06/7/9(日) 10:03 -
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▼熊猫さん:
たしかに見た目ロシアの兵隊っぽく見えるのは、顔つきと帽子の形状からだと思います。
私は装具と上着のボタンの付き方からは上海駐留のイギリス兵かな?
と思って、以前にだいぶ写真を漁ってみたのですが、まだそのものズバリの姿に行き当たっていません。

また整理して書き込みますが、もう少し明瞭な映像があれば見たいですね。
WEB公開されているフィルムをモニタで見た分には、書籍のコピー以上の情報は読みとれませんでした。
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[608]Re(1):慰安所への移送?
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ピッポ E-MAIL - 06/7/9(日) 18:42 -
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[添付]~添付ファイル~
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[添付]~添付ファイル~
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・サイズ : 5.9KB

添付画像【c-118.jpg : 5.9KB】 添付画像【c-118(2).jpg : 5.9KB】 #118の写真
これが、
南京に新設された
慰安所への移送だ
という人がいますが
どうでしょう?

ところで、難民区の女性達が、「日本軍賄い婦」に応じるのを嘆いた米国女性の記録とは、なんでしたっけ?
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[609]Re(2):慰安所への移送?
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とほほ E-MAIL - 06/7/9(日) 19:22 -
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▼ピッポさん:
>ところで、難民区の女性達が、「日本軍賄い婦」に応じるのを嘆いた米国女性の記録とは、なんでしたっけ?

えっと、名前を度忘れしましたが(^^;
戦後精神を病んで自殺された金稜大学の女性教授の方だったと思います。
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[610]Re(3):慰安所への移送?
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ピッポ E-MAIL - 06/7/9(日) 21:36 -
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▼とほほさん:
>▼ピッポさん:
>>ところで、難民区の女性達が、「日本軍賄い婦」に応じるのを嘆いた米国女性の記録とは、なんでしたっけ?
>
>えっと、名前を度忘れしましたが(^^;
>戦後精神を病んで自殺された金稜大学の女性教授の方だったと思います。


とほほさん
有難う御座いました。

「教授 自殺 南京」で、
http://www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin23.html
をヒットしました。

ミニー・ヴォートリンですね。

その少し後のページに

http://www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin27.html
>2)12月16日には、敗残兵狩りのため民家や難民収容所に捜索に入った日本兵が、婦女子を見つけて凌辱する事件が多発した。そのため自宅にいて恐怖にかられた婦人が何百人と街頭に逃げだし、安全な場所をもとめて彷徨した。金陵女子文理学院のキャンパスは、すでに一万人近い婦女子の難民で、渡り廊下まで満員で足の踏み場もないほどにふくれあがっていた。
翌17日、ミニー・ヴォートリンは街頭に出て、それらの女性避難民を集め、あらたに婦女、子供の難民専用に設置した金陵大学寮へと引き連れていった。ヴォートリンが、3~400人の女性難民の集団の先頭に立って街頭を行進するさまは、さながら日本軍の蛮行に抗議する女性のデモ行進のようであった。

とあり。写真はこれではないか?


「ミニー・ヴォートリン」からはココ
http://www.janjan.jp/world/0310/0310237698/1.php

嘆いた話はまだ見つかっていませんが。
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[611]Re(4):慰安所への移送?
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とほほ E-MAIL - 06/7/9(日) 22:01 -
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▼ピッポさん:
>嘆いた話はまだ見つかっていませんが。

ちょっと本を探したのですがどこに行ったか見つからない(^^;
この話は「南京事件(笠原)」で紹介されていたと思います。おそらく出典もそこに書いてあると思います。
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[612]Re(5):慰安所への移送?
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とほほ E-MAIL - 06/7/10(月) 6:18 -
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▼とほほ:
>ちょっと本を探したのですがどこに行ったか見つからない(^^;
>この話は「南京事件(笠原)」で紹介されていたと思います。おそらく出典もそこに書いてあると思います。

笠原南京事件にも記述はありますが、私がこの記述を覚えていたのは「南京の真実・ラーベの日記」です。該当箇所を引用しておきます、
P147~P148
ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、アメリカ人で、金稜女子文理学院の教授らしい。大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、びっくり仰天して反対したそうだ。最終的には男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。

ところで、この人に恐ろしい事件が起こった! 彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。

さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。
ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしてないようだった。ミニは言葉を失った。
このラーベの日記の記述は売春婦として進み出た中国人女性に対する軽蔑観を感じます。

おそらくラーベはこの事件を伝聞で聞いていたのではないかと思いますしまたアジア人に対する蔑視もあったかもしれません。
笠原・南京事件では彼女の日記や他資料集から考察しており名乗り出た女性達は決して「苦にしていない」などと言うことは無いことがうかがい知れます。入城式後に日本兵による強姦事件は多発していきます。そこでヴォートリンの身を挺した救済活動が始まります、市内と言う市内の女性を学内に避難させました。もし日本軍相手の売春を苦にもしていない女性達がいたのであれば彼女等は避難などせず進んで売春事業を行っていることでしょう。

その女性達の避難所でも日本兵は侵入してきて強姦事件は耐えませんでした、そんなときに日本軍から正式に慰安婦の提供を求められたのです。こういうときの日本軍の言い分はいつも決まっています。「良家の子女の貞操を守るため」です。紅卍字会は職業的売春婦がだれなのを知っていました。そこで彼女等に使命感を与え彼女等は毅然として同胞を守るために応じたのです。

しかし、このことは西洋的キリスト教倫理観を持つ厳格なヴォートリンにとってショックな出来事であったことは否めないでしょう。慰安婦問題の難しさはここにあります。当時のフェミニズムはまだ売春婦差別を克服できていなかったのです。これは当時の日本フェミニズムも同じでした。沖縄に慰安所を設置したときも沖縄の婦人団体は「風紀が乱れる」として軍に対し頑として反対しましたが結局「良家の貞操を守る」と言う説得に押し切られたのです。良家の子女と売春婦と言う差別があったわけです。
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[613]Re(6):慰安所への移送?
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ピッポ E-MAIL - 06/7/10(月) 10:27 -
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とほほさん
おはよう御座います。

ラーべの日記だったんですね。図書館から借りて読んだのですが失念していました。
わざわざの引用、有難う御座いました。たいへんなお手数だったでしょう


>「南京の真実・ラーベの日記」です。該当箇所を引用しておきます、
P147~P148


ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、アメリカ人で、金稜女子文理学院の教授らしい。大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、びっくり仰天して反対したそうだ。最終的には男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。

ところで、この人に恐ろしい事件が起こった! 彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。

さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。
ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしてないようだった。ミニは言葉を失った。


2つめの段落が、マギーフィルムにある女性達の行進だったのですね。
3つ目の段落とは別のこと。
でも友人は、一緒のことと記憶してしまったのですね。

『売春婦差別』良く分かりました。

あとは、「犠牲的精神」もあったかもしれませんね。家族や仲間の犠牲を少なくするように! 命乞い。

南京に至る戦線で、
"中国女たちが目の前でズボンを脱いだのにはビックリした””私に向かって命乞いをしたのだろうか””そんなことを強要した訳じゃないのに” という
日本兵の手記がありましたね。(これも認知症で出典ごめんなさい)

・・・日本兵の多くが「強姦」と思わず「和姦」だと思って、罪悪感を持ち得なかったことが推察されます。でも、相手の中国婦女、家族は、『獣兵』として憎しみをもったのですね。

悲しいけど中国戦線では当たり前の『命乞い』。

沖縄や硫黄島で女たちに自決を迫ったのは、こうした加害体験の裏返しです。
「生きていたら『獣兵』に犯されるだけだ」
と中国戦線を経験した兵隊がいった。
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[616]NHKスペシャル「日中戦争」のなかで
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ピッポ E-MAIL - 06/8/24(木) 12:17 -
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先日のNHKスペシャル「日中戦争」でマギーフィルムが紹介されました。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060813.html


ローゼン報告書→マギーの解説書→アメリカ公文書館→マギーフィルム
の順での紹介でした。

マギーフィルムの映像としては、
(1)日本軍の隊列の遠景
(2)(字幕紹介と映像)窓越しに写した連行風景
(3)(字幕紹介と映像)首を切られた少女と少年(病院)
(4)夏淑琴さん事件
映像正味、計1分7秒です。

私はその後NHKに問い合わせました。
その結果、

紹介されたフィルムは

・アメリカ国立公文書館所蔵のフィルムコピー
・ハーマン基金が寄贈したフィルムを元に、国立公文書館が作ったintermediate(コ
ピー作業用)と呼ばれるフィルムコピー
・フィルムは2巻に分かれており、15分40秒
・16ミリフィルム

今回入手したのは

・アメリカ国立公文書館とアメリカ議会図書館にあるコピーで、二つは基本的に同じ内容。今回,NHKはアメリカ議会図書館のフィルムコピーを入手。マギー家から寄付された物と考えられる

とのことです。


NHKからの回答についてご質問がある方は私までメールください。
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[669]見せてもらったものは「映画」でなくて「解説書...
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ピッポ E-MAIL - 08/5/1(木) 12:59 -
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その日ラーベが見せてもらったものは、
「映画」でなくて「解説書」だったかもしれません。

中文版のラーベの日記を見ると、
2/11のラーベの言及は、「2/10付けマギーの解説書」に対するものとも読めます。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html


またラーベは「解説書」を読んで、12月24日に見せられた患者や遺体の姿を思い出したのでしょう。ラーベはよく憶えていたのです。
http://latemhk.tdiary.net/20071224.html

「マギーの解説書」の下書きは、1月29日に南京を発ったフィッチが、未現像フィルムとともに上海に持っていったのでしょう。

そしてティンパーリは、現像上がりのフィルムと「解説書」下書きを見比べて、満足し、「解説書」下書きに基づいて作った字幕フリップを挿入したマスター・フィルムを作成したようです。

そこから、数本のプリントが誕生したようです。


フィッチが、2月11~12日に現像済みフィルムを南京に持ち帰ったかどうかは、不明となりました。
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[670]Re:「解説書」は現像前に
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ピッポ E-MAIL - 08/5/1(木) 13:23 -
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マギーの「解説書」は現像前に、撮影記録を見て書いた
===========================================

その痕跡は、フィルム(一)の解説です。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html


フィルム一

 この映像の大部分が、一九三七年九月と一〇月の間におこなわれた日本軍の南京空襲で構成されている。このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している。かれらは避難所の一つに設けられた野外施設にいるところである。日付は、一九三七年一二月一九日である。


この巻の説明が、ほかに較べて短いこと短いこと。
そして、太字部分の記述です。

現像上がりのフィルムを見て書いたら、こういう表現にはなりません。

========
まあ、思い起こしてください。

第2次大戦や、ベトナム戦争の従軍カメラマンが、現像上がりの映像を見てニュースコメントを書いたかどうか?

フィルム時代のカメラマンは、何を撮ったか克明に記録しておくのが最大の仕事だったのです。







http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#2-4


マギーが撮影した、いわゆる「マギーフィルム」の解説書です。 




資料51

添付書類
一九三八年二月十日付南京分館報告(文書番号二七二二/一一一三/三八)に添付


内容-マギー牧師の解説書




ここに示される映像は、一九三七年一二月一三日の日本軍による南京陥落に引き続いて起こった、言語に絶する出来事を断片的に垣間見せるものにすぎない。私にもっと多くのフィルムと時間があったなら、はるかに多くの光景を撮ることができたであろう。

他の人と同様、私も朝から晩までさまざまな形で市民を保護し救助するのに忙殺された。撮影の時間はたまにしかなかった。そのうえ、カメラを壊されたり押収されたりしないよう、人目を避けるのに多大な注意を払わなければならなかった。

こうした理由で、私は、人が殺される光景や、町のあちこちに横たわるおびただしい死体を撮影することができなかった。もし私が伝道団慈善診療所〔鼓楼病院〕にとどまることができて、治療のために運ばれてきた人々が受けた暴行と傷害のすべてを撮影できたら、フィルムはずっと長くなっていただろう。

とくに思い出すのは、肩を撃ち抜かれ、背中を銃弾が突き抜けた七〇歳の老婦である。幸運にも急所をはずしていたため、傷はすぐに癒えた。

忘れてはならぬことだが、何千人の負傷者のうち、病院に運ばれたり、連絡がついたものは、ほんの数パーセントにすぎない。地方の田舎町や小都市では、何千、何万の人々が暴行され殺されたが、そこには外国人の目が届いていない。もっとも、真実を語るかれらの言葉がときおり寄せられてはいるのだが。


日本軍将兵の態度は、中国人は敵なので何をしても構わないといわんばかりだった。日本軍当局は強姦を軽く見ていた。強姦が不都合なことと映ったのは、もっぱら国際世論に及ばす印象と、上からの圧力のためだった。

公正のために一言いえば、多くの日本人は一部の日本兵のひどいふるまいを認めていた。二人の新聞記者もそれを私に認めた。その一人は、このようなことが起こったのは「避けがたかった」と言った。軍紀の弛緩を認めたある総領事も同じ言葉を述べた。日本軍にたいする何という論評だろうか。

戦争はどの国にあっても人間の最悪の部分を引き出す。もちろんどんな国にも犯罪者やサディストがおり、戦争で邪悪な本能を発揮する。おそらく日本兵の残虐さとかれらが実際におこなった血に飢えた行為は、切腹のような身の毛のよだつ風習を認め、血なまぐさい物語を子どもの読み物にするような国では、必然の結果であったのだろう。

この記録映像は、日本人への復讐心を掻き立てる意図で撮ったのではない。むしろ、日本人を含むすべての人がこの戦争がいかに恐ろしいかを理解し、日本軍が仕掛けた紛争を停止するあらゆる合法的手段の行使に踏み切ってほしいとの思いから撮影したのである。

私は何度も日本を訪れたことがあり、この国がどんなに美しく、また品性を備えた人が大勢いることを知っている。もし日本人が、戦争がどのように引き起こされ、遂行されてきたかについての真実を知れば、かれらの多くは恐ろしさに震えることだろう。



目次

フィルム1


フィルム2

(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
(六)
(七)
(八)
(九) フィルム3

(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
(六)
(七)
(八)
(九)
(十)
(十一)
(十二) フィルム4

(一)
(二)(三)

(四)
(五)
(六)
(七)
(八)
(九)


フィルム一

この映像の大部分が、一九三七年九月と一〇月の間におこなわれた日本軍の南京空襲で構成されている。このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している。かれらは避難所の一つに設けられた野外施設にいるところである。日付は、一九三七年一二月一九日である。


フィルム二

(一)日本軍による南京陥落の数日後、南京上空に飛来する日本軍爆撃機。



(二)一九三七年一二月一六日。南京、上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たりしだいに集められたため、脆いて日本軍にかれらの命乞いをしている。何千人もの一般市民がこのように縄で縛られ、下関の川岸や、池のへり、空き地に連れて行かれ、機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。




(三)劉光偉と名乗るこの男性は、下関の模範村蘇宿鎮における中国監督派教会の調査官で、日本軍による南京陥落の前に、仲間のキリスト教徒と難民区に入った。

一二月一六日、日本軍はかれをキリスト教徒一三名といっしょに連れ去った。かれらは、(劉の推定では)一千人を数えたもうひとつの集団に加えられ、下関の川岸に連行され、日本軍の船着き場付近に整列させられたあげく、機関銃で殺された。薄暗がりだったが、川が背後を塞ぎ、機関銃が三方を囲んでいたため逃亡の可能性はなかった。

この男性は列の最後方にいて、水際が迫っていた。人が倒れ、列が崩れ始めたとき、かれは無傷ではあったがいっしょに落ちた。浅瀬に落ちたかれは、周りの死体で身を覆った。

そこに三時間ほどじっとしていたが、這い出すとひどく冷えてはとんど歩けなかった。それでもなんとか人気のない小屋にたどり着き、そこで寝具を見つけた。濡れた衣服を脱いで毛布にくるまり、食うや食わずで三日問を小屋で過ごした。

極度の空腹感に襲われたかれは、まだ湿っばい服を着て、食糧を探しに小屋を出た。以前雇われていた英国コンツェルンの中国材木輸出入会社に向かったが、そこには誰もいなかった。

ちょうどそのとき、かれは日本兵三名に出くわした。日本兵はかれをこぶしで殴り、下関、宝善街へ連行し、そこでかれに自分たちのために料理を作らせた。数日後かれは解放されて、日本兵二名による捺印済みのメモが与えられた。これによって、かれは城門を通過し、難民区の自分の家族の許に帰ることができた。




(四)一九歳のこの女性は、難民区のアメリカンスクールにいた避難民だった。彼女は妊娠六か月半で最初の子を身ごもっていた。強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺された。彼女は顔面に一九か所、足に八か所、腹部には深さ二インチの傷を一か所員っている。大学病院に入った翌日、これが原因で流産した。彼女はこれらの傷から回復した。

*「ゆう」注 この事例は、「李秀英事件」として知られています。




(五)この若い女性の家族は、下関の彼女の家に日本兵が押し入ったさいに、幸いその場にいなかった彼女の夫を除く全員を殺害された。彼女は英国包装工場の国際輸出会社に雇われていた。彼女は銃剣によってこのひどい傷を受け、それが脊柱に影響して、髄膜炎による死の原因となった。日本兵たちにたいして何の抵抗もなされなかったにもかかわらず、である。




(六)この一一歳ぐらいの少女は、日本兵が侵入してきたとき、難民区内の待避壕のそばで両親といっしょにいた。日本兵は父親を銃剣で刺し殺し、母親を歩兵銃で射殺し、少女の肘には銃剣でこのひどい切り傷を負わせた。彼女は回復するであろうが、腕は不自由になろう。




(七)これは、大学病院(伝道団施設)〔鼓楼病院〕に入院して三日後に亡くなった七歳ぐらいの少年の死体である。かれは腹部に銃剣で五か所の傷を負い、そのうちのひとつが胃を貫通した。




(八)この男性は中国人が経営するあるホテルに雇われていた。かれは、自宅から難民区へ、さらに難民区から西方の丘に連行されたあげく、歩兵銃で射殺された八〇名のグループの、かれが知るかぎりで、唯 一の生存者である。この人は、首、頬、腕に負傷したが、回復するであろう。かれは死んだふりをすることで難を逃れ、やっとのことで鼓楼病院へ向かったのである。




(九)この男性は、日本兵が何をしたいか理解できなかったため、胸を撃ち抜かれた。かれは農民である。この種の事例は鼓楼病院では非常に多い。






フィルム三
(一)これは、他の七〇名ほどといっしょに金陵大学の養蚕棟から連行された男性の死体である。かれらは全員銃火を浴びせられ、何人かは銃剣で刺された。その後、すべての死体にガソリンをかけられ、火が放たれた。この男性は銃剣で二か所の傷を負っていた。 顔や頭にひどい火傷を負ったが、鼓楼病院へ行くことができた。だが、その二〇時間後に亡くなった。




(二)これは、あるほうろう製品店の店員の映像である。ある 日本兵が店員に煙草を求めたが、店員が差し出せなかったため、日本兵はかれの頭部を銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大きな穴をあけた。この映像はかれが鼓楼病院に入って六日後に撮られたものである。脳の 脈動をはっきりと見ることができ、相当量の脳がすでになくなっていて、そのため右半身が完全に麻痺していたが、意識を失ってはいなかった。かれは入院して約一〇日間生きた。




(三) この担架の運搬人は、かれ自身の推定で約四千名とともに川岸へ連行され、そこで機関銃で撃たれた。かれは、約二〇名とともに死を逃れることができた。かれは肩に一か所傷を負っただけだった。




(四)この男性は、長江に一艘の小型の平底舟を所有していた。かれは日本兵に顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、火を放たれた。胴体は上郡も下部もひどく焼け、かなり黒く焦げていた。鼓楼病院に二日問入院した後、亡くなった。




(五)この男性は中国軍兵士だったが、日本軍に捕らえられたとき、武器をすべて取り上げられた。かれは頭部に二か所、気管部に一か所銃剣による傷を負っていた。かれは死ぬべく放置されたが、鼓楼病院での治療の後、回復した。




(六)この少年は、日本軍が常州を通過したとき、かれが呉淞からきた難民であったにもかかわらず、日本軍によって連行された。かれは一三、四歳で、およそ三週間、日本軍の下でかれらのために働いた。

一二月二六日、二日問まったく食べ物を与えられなかったので、仕えていた兵士に家に帰りたいと言った。すると、かれらは少年を鉄の棒で叩き、頭を銃剣で刺した。この映像は、かれが血まみれで診療所に運ばれてきた直後に撮られたものである。かれは回復した。




(七)この男性の家は南門の内側にあった。日本兵が一二月一三日にやってきたとき、かれらはこの男性の二人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。かれは一二月二七日になってようやく病院に運ばれた。この映像は診療所で撮影されたものである。かれは胸をゴロゴロ鳴らしていたが、おそらくもう亡くなっているであろう。




(八)この女性は光華門の内側に、夫と年老いた父親、そして幼い五歳の子どもといっしょに住んでいた。日本兵が城内に入ったとき、かれらはこの家に押し入り、食べ物を要求した。かれらはこの女性と夫に出てくるように怒鳴った。夫がそうすると、かれらは夫を銃剣で刺した。彼女が怖がって出ないでいると、一人の兵士が部屋に入り、彼女の腕を撃ち抜き、その銃弾が偶然にも幼子の命を奪った。




(九)呉夫人は家族六人と南京の城隍廟の裏側に住んでいた。一二月一八日、日本兵四名が彼女の家にやってきて、六〇歳を過ぎた父親と、一一、二歳の、兄の子どもを銃剣で殺した。かれらは、夫も首に銃剣で重傷を負わせて殺害した後、この女性を強姦しようとした。彼女が自分は病気だと言ったので、かれらは彼女を放した。兵士たちは毎日やってきたが、ある日、金を要求して隣人の顔に傷を負わせた。




(一〇)余海棠は下関の電話会社の従業員であったが、金陵大学内に身を寄せる四千人の難民の一人となった。

一二月二六日、日本軍将校が南京市の中国人成人全員を登録するためにやってきた。将校は難民にたいして、自分が元兵士であることを認める者は命を助け、仕事も与えるが、もしそれを認めず、後になってこれが発覚したら、その者の命はないぞと言った。かれらには二〇分間の考える時間が与えられた。

その後、約二百人が前に出た。かれらは行進を命じられた。通りでは、日本兵に兵士の烙印をおされたさらに大勢の者が連行されていた。余は通りで連行された一人だった。

余が言うには、日本兵は自分を含む数百人を金陵大学付近の丘に連れて行き、そこで自分たちを標的に銃剣術演習を始めた。胸を二か所、腹部を二か所、足を二か所、合計六か所を銃剣で刺された後、余は気を失った。意識を取り戻したとき、日本兵はすでに立ち去っていた。

誰かがかれを助けて鼓楼病院へ連れていった。この映像は、ウィルソン医師が手術をしている問に撮影されたものである。このとき回復の見込みははとんどないように思えたが、かれは回復した。




(一一)この男性は南京の家主である。日本兵がかれに女を調達せよと強く迫った。女はいないと言うと、日本兵はかれの首を二度銃剣で刺し、長く深い傷を二か所員わせた。だが、この男性は回復するであろう。




(一二)これは難民区からきた警官である。ある日本兵が、中国人女性に同行を強要しているのを公衆に知られたくなかったため、この警官に女性の同行を強要した。かれらが国府路に看いたころ、すでにあたりは暗くなっていたので、警官はこっそり脇道に姿をくらました。だが、すぐに別の兵士に出くわし、手首を縄で縛られた後、銃剣で背後から刺され、そのまま死ぬべく置き去りにされた。

かれらが去った後、警官は転がりながらその場を離れ、ついに両手の縄を解きほぐすのに成功した。ある家にたどり着いて、そこで寝床を見つけて夜を過ごした。

翌朝とても衰弱していたが、通りで会った中国人の助けで病院にくることができた。かれには銃剣による傷が二二か所あるが、驚くことに回復の見込みがある。





フィルム四

(一)この女性は、日本軍将校の衣服を洗うために、他の五名とともに難民センターから連行された。彼女は、軍の病院として使用されているらしい建物の二階へ連れて行かれた。彼女たちは日中、衣服を洗濯し、夜は日本兵を楽しませた。
彼女の話によると、年かさの不器量な女性は一晩で一〇回から二〇回強姦されたが、若くて綺麗な方は一晩で四〇回も強姦された。フィルムの女性は、あまり美人ではない方の一人だった。

一月二日、二人の兵士が、同行するよう彼女に誘いをかけた。彼女はかれらについて空き家に行った。そこでかれらは彼女の首を切ろうとしたが失敗した。彼女は血の海のなかで発見され、鼓楼病院へ運ばれ、いまは回復している。

彼女の首のうしろには深い裂傷が四か所あり、脊柱の筋肉が切断されていた。また手首に一か所、胴体に四か所の深い傷がある。この女性は、なぜかれらが自分を殺そうとしたのかまったくわからず、他の女性がどうなったかもわからない。




(二と三)仏教徒の尼僧と幼い修行尼僧(八、九歳)の事件

この少女は事件後、数週間熱を出していたにもかかわらず、背中を銃剣で刺された。おとなの尼僧は、銃弾の傷が原因で腰の左側を複雑骨折し、傷は拡大性の感染症に発展した。回復は疑わしい。もし回復しても、歩けるようになるにはきわめて特殊な手術が必要となろう。

彼女と他の何人かの尼僧は、城内南部のある寺院の裏の建物に住んでいた。日本軍は城内に侵入して、この付近の住民を大量に殺した。彼女を病院へ運んだ仕立屋の推定によると、およそ二五名の死者が出た。そのなかには六五歳になるこの尼僧院の「マザー院長」と六、七歳の幼い修行尼僧の姿もあった。日本兵は、このフィルムが映し出すように、尼僧と幼い修行尼僧に傷を負わせた。

彼女たちは待避壕のなかに避難し、五、六日問、飲まず食わずで過ごした。待避壕には多数の死体があり、六八歳の老尼僧が死体の重さで圧死、あるいは窒息死した。

五日後、この負傷した尼僧は、ある〔日本の〕兵士が中国語で「何とかわいそうに」と言う声を聞いた。彼女は即座に目を開けて、その男に助命を請うた。かれは彼女を待避壕から引きずり出し、何人かの中国人に、彼女を軍の仮手当所へ運ばせ、そこで軍医が手当てをおこなった。最柊的に彼女は近所の人の手で鼓楼病院へ運ばれた。




(四)一月一一日、この十三、四歳の少年は、日本兵三名に、城内南部へ野菜を運ぶことを強要された。日本兵は少年の有り金全部を奪い、背中を二度、腹部を一度銃剣で刺した。暴行を受けた二日後に少年が鼓楼病院に着いたとき、大腸が一フィートほど突き出ていた。

かれは入院して五日後に亡くなった。この映像が撮られていたとき、少年はあまりにも重篤だったので、医師は傷を見せるために包帯をはずすことをあえてしなかった。




(五)この男性は自分の母親が殺されたと聞いて、真偽を確かめるために、国際委員会が設置した難民区を出た。かれは第二地区に向かった。そこは日本側から安全な場所に指定された区域で、市民がそこに戻るよう日本軍が促しているところである。

かれは母の遺体を見つけることができなかったが、二人の日本兵に遭遇した。日本兵は、この男性とその友人からズボン以外のすべての衣服を奪った。(一九三八年一月一二日ごろ、凍てつくような寒い日のことだった。) 一斉登録後に日本軍将校から受け取った登録カードを、日本兵は引き裂いた。兵士たちは二人を銃剣で刺し、退避壕のなかに投げ込んだ。

約一時問後、この男性は意識を取り戻したが、友人がいなくなったことに気づいた。かれは難民区に戻り、ついには鼓楼病院に行くことができた。かれは、銃剣による六か所の傷を負い、その一つは胸膜を貫通し、それが全身に皮下気腫を引さ起こした。だが、かれは回復するであろう。




(六)この男性は、南京陥落後、日本当局に登録されたとき、自分が軍隊にいたことを認めれば死を免除すると日本当局が約束したので、四千人の集団から出頭した二百人の集団の一人であった。

他の多くの者は兵士でなかったにもかかわらず、集団が三百人から五百人になると、日本軍によってまとめて連行された。かれらは五合山の近くの家へ行進し、そこで十人ごとのグループに分けられ、手首を針金で後ろ手に縛られ、処刑のために連行された。

かれは、自分たちは水西門へ連れ出されると聞いた。連れて行かれる番がくる前に、この男性は、建物内で他の三名といっしょに、高く積み上げられたマットの下に身を隠したが、一人が咳をしたため発見された。かれらは外へ引きずり出され、約二〇人のグループといっしょに立たされ、銃剣で刺された。

最初に数回刺された後、かれは気を失ったが、後に意識を回復した。アメリカンスクールの建物まで転がりながら這って行き、そこで、中国人がかれの両手を針金から解放した。かれはそこの排水溝に避難し、やがてついに鼓楼病院にたどり着いた。かれには針金による手首の切り傷と、銃剣による九か所の傷があることがわかった。かれは回復するであろう。




(七)一月一〇日、この初老の男性は難民区から、太古山のバターフィールド&スウァイアー邸付近の自宅に向かった。日本兵三名が自宅の庭にいた。その一人が、はっきりとした理由もないのに、気まぐれに男性の両足を撃ち抜いた。傷の一つはとても荒れていたが、かれはおそらく回復するであろう。




(八)一月二四日、日本兵はこの男性に、大学病院からほど近い双竜巷の川合ホテルに放火させようとした。かれが拒否すると、かれらはこの男性の頭を銃剣で刺した。裂傷が三か所あったが、どれも重傷ではなかった。撮影時、この男性ははとんど回復していた。



(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。

さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

*「ゆう」注 この事例は、「夏琴淑さん事件」として知られています。





(『ドイツ外交官の見た南京事件』P166~P177)



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