Friday, January 31, 2014

the throne succession conflicts in Korean initial era and playing "Tuho"

투호놀이(投壺--)

Tuho (투호) or Touhu (Chinese: 投壺) is a traditional Chinese and Korean game that requires players to throw sticks into a large, sometimes ornate, canister. The game is a traditional diversion on Korean New Year's Day and Chuseok. Modern versions are often played with a simple canister and rubber-tipped arrows. The arrows used are usually between 50 and 60 cm long, and are thrown at the arrow vase from around ten paces away. :wiki


한국어: 임하투호(林下投壺) '혜원풍속도첩 (蕙園風俗圖帖)' 중에서, 서울 성북구 간송미술관 소장
English: "Playing a tuho game under the forest" (transliteration: Imha tuho) from Hyewon pungsokdo by 19th-century Korean painter, Hyewon. Original stored at Gansong Art Museum in Seoul, South Korea
날짜
한국어: 조선시대, 1805년 이후 작품으로 추정
English: In the late Joseon period, presumed after 1805




http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/hiraki.pdf
二〇四
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
はじめに
「投壺」は、高句麗、百済などが、早くから中国文化の影響を受けるなかで伝播されていた儀礼であるが、その後高麗時代には、ほとんど行われなくなっていたように思われる。
ところが、朝鮮王朝時代にはいって、最初の王位継承争いが終わった第三代の太宗時代に、突如として「投壺」が復活して催されるようになった。朝鮮時代初期の王権と官僚との関係について考察を進めていくなかで気づいた事象の一側面であるが、その実態について考察を進めるあいだに、朝鮮王朝時代にはいり、刑法として中国の明律が導入されて施行されるようになって以後、国王や国家に対する反逆罪を犯した者にたいする刑罰に、連坐・縁坐制が徹底して適用されたところから、初期の王位継承争いをめぐって、多数の支配階層の官僚及びその家族、親族がこの明律を適用されて重い刑罰を科された事実があり、その悲惨な法制によって生まれた王族と官僚間との信頼関係を修復するために、国王が考案した方法の一として、酒宴などと共に、この「投壺」が行われるようになったのではないかという点に着目して考察を試みたものが本小報告である。 
すでに、世祖の宗親・功臣親和策について考察し、世祖が酒席を設けて盛んに宗親と官僚たちとの親睦をはかっていたことについて論究され

平 木   實

てはいるが、「投壺」については、言及されていないので、本報告はそれを補完する意義があると考える。
一、太宗の王位簒奪経緯
世祖(在位一四五六.一四六八)の王位簒奪事件について説明する前に、まず王朝初期に起きた王位継承争いについて簡略にみてみる。
太祖李成桂(在位一三九二.一三九八)には、芳雨、芳果、芳毅、芳幹、芳遠、芳衍、芳蕃、芳碩の八人の王子がいた。芳雨から芳衍までの六人は、王妃韓氏の所出であり、芳蕃と芳碩は継妃康氏の所出であった。『朝鮮王朝実録』の記録によれば、太祖元年八月、家臣の裵克廉、趙浚、鄭道傳などが、王位後継者となる「世子」を確定することを要請した。その際、三人は、年功と功労を配慮して決定してもらいたいと要請した。つまり、長子の芳遠を予測していたものと思われる。国王は継妃の康氏の意向が芳蕃にあるのを重んじて、芳蕃を建てようとしたが、芳蕃の性格が狂奔であるという理由から、功臣などがそれに難色を示した。そこで功臣たちは、ひそかに話し合い、国王はどうしても康氏が生んだ子を立てようとするであろうから、末子なら差し支えないだろうとした。そこで国王は、ついに末子の芳碩を立てることにした。

しかし『大東野乗』所収の『東閣実記』によれば、太祖は後継者の決定にさいし、裵克廉などを召し出して諮ったところ、裵克廉などは、平時であれば嫡子を、乱世であれば功労を先に考えて決定すべきであると答えたので、それを密かに聞いていた康氏の泣き声が外にまで聞こえてきたという。それでその話し合いは中断した。後日、太祖は再度裵克廉などを召し出して諮ったが、その時、裵克廉などは、同じ話を持ち出してはならないとして退席した。しかし康氏は必ず自分の子を立てようとするから、芳蕃は狂暴であり、末子ならば稍可能であると話し合い、結


局芳碩を世子に立てていただきたいと要請した。
鄭道傳、南誾等は、芳碩側について諸王子を疎み、除去しようとはかり、密かに太祖に、王子をすべて地方の王に封じる中国の例に従って王

子たちを各道に封じることを要請した。
ところが、卜者の安植が、「腹違いの王子のなかにも天命を受ける者が一、二ではない」といったので、鄭道傳は、「ただちに之を除けばなにを患らおうか」といったために、義安君(太祖の弟)和がそれを知って五男

の太宗に告げた。
一三九八年の秋八月、太祖が病に臥したので、鄭道傳などは、王の居所を移転することを議論すると偽って、諸王子たちを招き入れ、乱を起こすことに同調する者を内部に留めて謀議をこらさせたが、このことが太宗に漏れた。時に太宗は、諸兄とともに勤政門外にいたのであるが、このときから血なまぐさい継承争いがはじまったのである。太宗が鄭道傳などを探したところ、李稷とともに南誾の妾の家にいるのを発見したので、火矢を放って放火したところ、鄭道傳は隣家の判奉常閔富の家に逃げ込んだ。閔富が、白髪で腹の出た者が入ってきたと叫んだので、兵士たちが入っていくと、鄭道傳が、剣を持ってはい出してきたので、捕らえて太宗の前につきだしたところ、鄭道傳が「もしも自分を生かしてくれれば全力を尽くして補佐いたしましょう。」といった。太宗は、「お
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
前は、すでに王氏を見捨て、さらにまた李氏を見捨てようとするのか」といって、その場で切り捨てた。さらにその子の游と泳も殺害された。こうして建国のさいに最も貢献した鄭道傳は、処罰されたのである。南誾は、こっそりと逃亡して弥勒院の圃幕のなかに隠れているところを追

撃した兵士によって殺害された。
いっぽう、芳碩の党は、軍を出そうとして奉元良に城に登らせ、偵察させたところ、光化門から南山まで武装した騎兵が充満していたので、恐れおののいて敢えて出ようとはしなかった。人々は、それを神助といった。太宗は、入直したすべての兵士に出てくるようにと命じたので、兵士たちがあいしたがって城外に出てきたために、勤政門の南側は、無人になった。
翌朝の明けがた、太祖は、清涼亭に居所を移した。そこで趙浚などが百官を率いてはいり、鄭道傳、南誾らの罪について上啓して、再度世子を封じることを要請すると、太祖は、芳碩に、「お前は、楽になった」と述べたので、芳碩は、拝辞し、賢嬪が泣きすがるのを振り切って出て行った。芳蕃も出してくれるよう要請したので、太祖が「汝が去ることは妨げない」といったので、西門から出て行った。その時、太宗が「汝が私の言うことを聴かなかったためにこういうことになってしまった。さらば さらば」といって送り出したが、芳蕃は、都堂から追撃した兵士によって中途で殺害された。恭靖王(芳果)は、この日、祈祷のために昭格殿に齋宿していたが、変を聞いて徒歩で城外に出て、禿音の村家に隠れていた。翌日、太宗が使いを出して帰るよう要請したので、帰ったとこ

ろ、太祖がこの恭靖王に伝位したのである
これが第二代の国王定宗(在位一三九八.一四〇〇)であり、太祖七年九月の出来事である。
ついで定宗二年正月に、太祖の四男の芳幹が蜂起したが、敗れて流配
二〇五


朝鮮初期王室世系表
され、芳遠が世子に封じられた。しかし定宗は、在位僅か二年で芳遠に王位を譲った。これが第三代の国王となった太宗(一四〇〇.一四一八)である。この太宗代に、朝鮮王朝時代にはいり、はじめて「投壺」の儀礼が行われたことに注目したい。つまり最初の王位継承争いで、もっとも中心的な役割をはたして活動したのが、この太宗(芳遠)であったからであり、またもっとも建国の功臣たちを処刑した人物でもあったからである。
二、世宗の王位継承
太宗は、はじめ長子の.シを立てて世子と定めていた。しかし性格に問題があり、廃しようとしたが、吏曹判書の黄喜、李禝らはそれを不可と
二〇六
.トウ
した。ところが柳廷顕が廃位に賛成したので、第三子のを世子に立てた。これが第四代の世宗(在位一四一八.一四五〇)である。
世宗は英邁な国王として様々な文化事業を展開したことについては、周知の事実であるが、王位を譲った太宗が、上王として軍事権を掌握していた時期に、都總制沈.が「兵曹判書朴習、姜尚仁などが、号令が二所から出るのは一所から出るにしかず」と言っているという話を聞いて激怒し、上記の三名および吏曹参議李灌、領議政沈温など一〇余名を殺
.ユ
害した。世宗には男子が一八人いたが、世子嗣ヒャン(キョウ)、(ジュウ)、.ヨング(ヨウ)、.ク(キュウ)、.ヨ(ヨ)、瑜ュ(ユ)、琳リム(リン)、.ヨム(エン)の八人は王妃沈氏の子である。ちなみに本稿でとりあげる朝鮮時代初期の王室世系表を図示すれば次のようになる。

三、世祖の王位継承

世宗が崩御すると長子の嗣が王位を継承した。これが文宗(一四五〇.一四五二)であるが、わずか在位二年で崩御したために、世子弘.(コウイ)が一二歳の幼沖で王位を継承した。これが第六代の端宗(一四五二.一四五五)である。しかし叔父たちの権勢に圧倒される環境に置かれ続けた。文宗は、死に臨み、領議政皇甫仁、左議政南智、右議政金宗瑞に命じて、端宗の補佐をさせることにしたのであるが、南智が病気を理由に辞退したので、左賛成鄭笨が左議政についた。そのほか世宗の付託を受けて、集賢殿学士の成三問、朴彭年、河緯池、申叔舟、李.、柳誠源なども補佐することになっていたが、次男の.(世祖)が王位簒奪に走り、端宗にたいして自ら絞首させ、金宗瑞、皇甫仁などの多数の官僚を殺害したあと、三男の安平大君.も謀叛を企てているとして江華島に流配した。その後安平大君は、側近官僚の強力な主張によって死を賜った。また弟の錦城大君瑜をも殺害した。このように、王位を簒奪するために周到な準備を進めて反対派の官僚を徹底的に弾圧し、端宗三年六月に端宗に譲位せざるを得ないようにしたのち、王位についたのが第七代の世祖(在位一四五六.一四六八)である。この世祖の王位簒奪にたいして、今度は、端宗に忠義を尽くしていた官僚たちが憤激して立ち上がり、端宗復位運動を起こしたのであるが、それが発覚して、謀叛を企てたというところから、連坐・縁坐して刑罰に処せられた官僚が、七〇余人にも達するという大事件に発展した。この大事件が一段落した後に、「投壺」を開催する機会がしばしば設けられるようになった。それまでこの「投壺」は、開催されても王族と宗親たちの間だけで催されるのが通例であった。ここで注目すべき事は、それまで主として王族と宗親たちとの間だけで行われていたこの「投壺」の場に、官僚たちも参加させるようにしたこと
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
である。王位簒奪という行為によって、多数の官僚が殺害され、その家族、親族が連坐法によって刑に処せられたこの王位簒奪をめぐる大事件は、両班支配階層全体に大きな波紋をひき起し、その後「投壺」が盛んになっていったと考える。
『経国大典』巻五、刑典【用律】条に、「『大明律』を用いる」とあり、国家を危機に陥れるような謀反を企てた場合、『大明律』の刑律が適用されることになっていたことについては、上述したが、『経国大典』には、
ある
凡そ謀反、大逆、但いは共謀者は、首従を分かたず、皆陵遅死に処
す。父子年一六以上、皆絞り、十五以下及び母女妻妾祖孫兄弟姉妹

若子の妻妾は、功臣の家の奴と為す。
と定められていて、処刑された者の妻妾などの婦女子は、功臣に給付されることになっていた。従って端宗の王位復位に参画した官僚たちの婦女子の処罰も、この連坐制の規定が適用された。
端宗の王位復位運動の結果、乱臣に縁坐・連坐して、刑に処せられた官僚家族の婦女子は、次のように、各官僚に賜与されており、その氏名

が記録されている。
桂陽君.:李小童妻千非、李公.妻同伊、沈上佐妻彌飛乙介・女繼今翼.君:李湛妻召史、朴耆年妻無作只、李午女平同、李裕基妹孝全領議政鄭麟趾:朴彭年妻玉今、金承珪妻内隱非・女内隱今・妾女閑今
左議政韓確:趙淸老母德敬・妻老非、崔得池妻莫德、李賢老妾女李生右議政李思哲:李賢老妻召史、閔甫昌妻豆多非、金有德妻今音伊・女玉時雲城府院君朴從愚:成三問妻次山・女孝玉、李承老妹者斤阿只左賛成尹師路:皇甫欽妻石乙今、朴.妻.德・女孝非
.
二〇七
右賛成鄭昌孫:李裕基妻雪非・女加仇之 末非 莫今、成三顧妻四今及一.女子坡平君尹巖:李承胤妻加隱非、池和妻莫今前判中樞院事李季甸:李徽妻列非、許慥妻安非・女義德右.賛姜孟卿:李滋源妻維那・妹、李.妻加知判中樞院事李澄石:李潤源妾粉非、李耕.妻孝生花川君權恭:朴引年妻内隱非、鄭孝康妻寶背右.賛黄守身:元矩妻召史、高德稱妻甫今・女信今禮曹判書朴仲孫:李諧妻終今・女佛德、佛非、金有德妹莫莊兵曹判書申叔舟:崔汚妹善非、趙完圭妻召史・女要文中樞院事權蹲:李石貞妻召史、權自愼妻於屯・女仇德吏曹判書權.:友直妻五臺、金玄錫妻英今中樞院事朴薑:尹令孫妻塔伊・女孝道、李反敬妾莫生大司崔恒:金文起女終山、崔得池妾地莊非兵曹.判洪達孫:成三省妻命守、鄭孝康妾孝道・女山非判内侍府事田.:成孟瞻妻現非、崔斯友妾玉今.林君李興商:沈愼妻石貞・女金正・銀正、成勝妻未致都節制使楊汀:李義英妻孝生、趙克低妻現伊吏曹.判具致低:朴詢妻玉德、朴憲妻敬非前藝文提學尹士昀:宋昌妻召央知、皇甫錫妻召都節制使柳洙:李末生妻關雎・女敬非、金文起妻奉非同知中樞院事奉石柱:朴大年妻貞守、宋石同妻召史蹲同知中樞院事康袞:金承珪女叔熙、權着母甫音未禮曹.判洪允成:朴季愚妻小非、金承璧妻孝義左承旨韓明.:柳誠源妻未致・女白代、李命敏妻孟非右承旨曺錫文:.善寶妻福中・女德非僉知中樞院事柳河:李昊妻介叱知・女木今
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吏曹.議元孝然:尹處恭女叔非、鄭元碩妻萬今端川郡守崔濡:崔致池妻未致、崔閏石妻奉非刑曹.議.孝源:.善寶妹召史、李裕基女小斤召史兵曹.議韓終孫:趙蕃妻召史・女義貞、.義軒妻卜非左副承旨尹子雲:元矩妹心伊、趙完圭女加伊右副承旨韓繼美:尹渭妻召史、鄭冠妻信敬慶尚道觀察使曺孝門:李義山女召史莫今兼判通禮門事李克培:李禎祥妻三非・女現非・貞非、崔得池妻磨杯判宗簿寺事權愷:尹涇妻召史、成三聘妻義貞上護軍柳.:奉汝諧母小非、妻丁順判軍器監事金.:閔甫興妻石非、李潤源妻大非知兵曹事權.:大丁妻者斤、河緯地妻貴今・女木今成均司成鄭守忠:李保仁妻勿才、女玉石上護軍柳泗:趙完圭妹精正、崔斯友母召史禮賓寺尹權攀:植培女貴非・貴莊・貴今・小斤非、兪應孚妻若非大護軍安慶孫:閔伸妻禹非、女山非大護軍洪純老:李智英母石乙今、妻終非、女銀非大護軍趙得琳:宋寧妻召史、權着妾卜加伊大護軍李克堪:金堪妾貴德・女小非、李穰妻月非直藝文館柳子滉:仲銀妹貴德・女貴非、張貴男妹末非大護軍林自蕃:鄭.妻順非、李石貞妾末生・女甘勿前護軍金處義:大丁母.隱伊、金堪妻召史、女卜今・末今・阿只司僕少尹韓瑞龜:崔.母召史、妻占勿阿只・女夫.非典農少尹宋益孫:崔致池妻德非、女白伊軍器副正薛繼祖:李承老妻孝貞・女叔和、李午妻少叱知司宰副正權擎:李義山妻.軍、女阿乙今軍器副正洪順孫:鄭冠母召史、張貴男妹鶴非兼軍器副正郭連城:許慥母花山、妹小斤召史護軍崔閏:權着妻季非、女順非前副司直李蒙哥:趙順生妻加叱非、金善之妻.隱伊・女加也之都承旨朴元亨:李石貞女甘.、崔.妹莫非

以上のように、王位簒奪に協力した六四名の臣下に対して、一七三名に達する婦女子が与えられている。上記の処罰をみると、大明律に定められた功臣というのは、事件の解決に功労のあった人士のすべてを含むようで、武官の大護軍、護軍をはじめ、軍器副正、典農少尹、直芸文館などの官吏までを指していたことがわかる。縁坐・連坐した婦女子は、身分を賤民に格下げされて、個人の所有物として下賜されたわけである。すくなくとも王位継承争いに関わった人士の大多数は、高麗末以来の名門出身、或いは、太祖が建国する際に、功労のあった臣下たちの婦女子であったと考えられるから、同じ支配階層社会に与えた衝撃は、大きなものがあったと考える。ここに、王位を簒奪した世祖が、王権の下で、行政を担当する支配階層の信頼を取り戻すために設けたのが、宴席であり、その宴席の場で同時に催すようにしたのが、「投壺」であったと考える。それは、「投壺」儀礼自体に、精神的修養を強調する意味が強調されていたからであると思われる。
四、朝鮮時代以前の「投壺」の概略
「投壺」は、古く中国で生まれたものであること、また中国でも盛んに酒席などで娯楽の一つとして楽しまれていたことについては様々な文献に記載されている。つまり、短く細い矢(室内で行うばあい、矢の長さは、
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
堂上では、二尺八寸、庭上では、三尺八寸)を壺(朝鮮時代は、青銅製)に投げ入れて、その命中率を競う競技で、『禮記』投壺第四十には、堂上で行う「投壺」の作法について詳細に記述されている。
「投壺」を儀礼とみるか、遊戯とみるか、或いは競技とみるかについては議論が分かれるところであるが、朝鮮時代の場合は、初期には精神修養の意味で行われたのに対し、時代が下るにつれて賭博性を持つようになっていった一面が見られ、時代によって解釈が変転している。この投壺は日本にも早い時期に伝播していた模様で、正倉院の御物のなかに投壺と投壺矢が所蔵されている。また平安時代には、『源氏物語』や『枕草子』にも登場する娯楽として注目されている面もあり、東アジアの広い範囲にかけて古くから普及していたものと考えられる。


二〇九
投壺(青銅器製)韓国・湖巖美術館蔵


二一〇

俗重騎射、兼愛墳史.其秀異者、頗解屬文、又解陰陽五行、用宋元
嘉.、以建寅月為.首、亦解醫藥卜筮占相之術、有  投壺樗蒲等雜戲、然尤尚奕棊、僧尼寺塔甚多、而無道士、(『周書』列伝 巻四九 列伝第四一 異域 上 百済条)
其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人、其飲食衣服、與高麗略同。若朝拜祭祀、其冠兩廂加翅、戎事則不。拜謁之禮、以兩手據地為禮。婦人不加粉黛、女辮髮垂後、已出嫁、則分為兩道、盤於頭上。衣似袍而袖微大。兵有弓箭刀。俗重騎射、兼愛墳史、而秀異者頗解屬文、能吏事。又知醫藥、蓍龜、與相術、陰陽五行法。有僧尼、多寺塔、而無道士。有鼓角、箜篌、箏.、.笛之樂、  
投壺、.蒲、弄珠、握槊等雜戲.尤尚奕。
(『北史』列伝 巻九四 列伝第八二 百済)

・・・有僧尼、多寺塔、而無道士。有鼓角、箜篌、箏
.、.笛之樂、  投壺、圍棊、.蒲、握槊、弄珠之戲.尤尚奕。

この「投壺」が、中国から百済や高句麗にも早くから伝播していたことについては、中国の『周書』、『北史』、『隋書』、『新唐書』に記載されている。その原文を示せばつぎのようである。
(『隋書』第八一巻 
列伝 

王服五采、以白羅製冠、革帶皆金釦、大臣青羅冠、次絳羅、珥兩鳥羽、金銀雜釦、衫.袖大口、白韋帶、黄革履.庶人衣褐、戴弁、女子首巾幗、俗喜.、  
投壺、蹴鞠.食用.、豆、.、.、罍、洗.居依山谷、以草茨屋、惟王宮、官府、佛廬以瓦.窶民盛冬作長坑、.火以取煖、其治、峭法以繩下、故少犯.叛者叢炬灼體、乃斬之、籍入其家、降、敗、殺人及剽劫者斬、盜者十倍取償、殺牛馬者沒為奴婢、故道不.遺、婚娶不用幣、有受者恥之、服父母喪三年、兄弟踰月除、俗多淫祠、祀靈星及日、箕子、可汗等神、國左有大穴曰神隧、
四六 
百済)

.十月、王皆自祭、人喜學、至窮里廝家、亦相矜勉、衢側悉構嚴屋、號局堂、子弟未婚者曹處、誦經習射、(『新唐書』列伝巻二二〇 列伝 一四五 東夷伝 高句麗)
上記の資料などから、百済、高句麗には、早くから「投壺」が他の遊戯具などとともに伝播していた。新羅に関しては記録がなく、判然としない。正倉院に所蔵されている「投壺」は、唐から搬入されたとされているので、新羅とは関係がないと思われるが、高句麗や百済で行われていた「投壺」が新羅で全く行われなかったとは考えにくい。しかし『三国史記』の新羅に関する記事には、「投壺」に関する記録を残していない。
ついで記録にあらわれるのは高麗時代の睿宗十一年(一一一六)一二月の記録である。

壬午、御清博閣、命内侍良倍令池昌洽、講禮記中庸・  
投壺二篇、謂
邦文閣学士等曰、投壺、古禮也、廃已久也、宋帝所賜、其器極為精
備、将試之、卿等、可纂定投壺儀并図、以進。
(『高麗史』巻一四 世家一四、睿宗一一年一二月壬午・二三日条)
「投壺」が廃止されて久しいにもかかわらず、国王は『禮記』の投壺に関する記述について講じさせている。それは宋に派遣された使節が宋の皇帝から投壺の器具を賜与されてきたので試してみようとしたところから再び始まったことを示している。
しかし『高麗史』には、「投壺」に関する記録はこれ以外にどこにも見当たらず、その後の高麗時代に引き続き「投壺」が行われたかどうかについては定かではない。
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
五、朝鮮時代における「投壺」の展開状況
ついで朝鮮王朝にはいってからはどうであったのだろうか。最初に記録にあらわれるのは、太宗一七年のことである。なぜ太宗が「投壺」を始めるようになったかという理由を示す記録は見当たらないが、朝鮮王朝にはいっていらい、ほかの国王が行わなかった「投壺」を太宗が始めて行うようになったのは、王位継承争いによって失われた宗親間の信頼関係を取り戻そうとしたのではないかと思われる。
なかでも本小考と特に関連するのは、『禮記』投壺条の末尾に記述されたつぎの内容である。つまり、魯の国で、「投壺」の際に、先輩が若い人々を戒めていったとされる記述である。
・・・(中略)昔、魯の国では、投壺の際に先輩が若い人々を戒めて言った。「誇ることなかれ、驕ることなかれ、かってに立ち上がるなかれ、離れた人に言葉をかけるなかれ。かってに立ったり、言葉を

かけたりしたら、罰杯を命ずる
王族と臣僚との信頼関係を築き、王位継承をめぐって血なまぐさい政争が二度と起こらないように、臣僚たちに、「驕ることのないように。かってに立ち上がることのないように。かってに立ったら罰杯を命じる。」という言辞を強調したのではないかと考える。
太宗代には、太宗一七年六月に二回、および同一七年六月に一回の計三回にわたって、「投壺」が行われているが、その際は、王族、宗親だけを同席させて、王宮内の廣延樓で酒宴を設け、「投壺」を行わせている。この時には、賞品などを賜与している気配はない。

つぎに世宗代にはいると、宗親が「投壺」をするのを国王が見学し、
二一一
共に楽しむという事例が多い。その開催場所は、慶會樓に変更されてお

り、国王が賞品を提供し、勝利者に賞品が多く与えられている。
それに加えて、「投壺」に対する解釈が変化してきている一面がある。

国王は、世子が王宮の奥深いところで暮らしているので、人に接する機会がなく、人に接すると顔色が変わるという有様であるから、宗親が「投壺」・射侯を行う際に、同席させて人に接することを学ばせようとしたのであるが、官僚のなかには世子は学問をすべき時であって、雑事を学ぶ必要はないと反対する者がいた。つまり当時の官僚たちのなかには、「投壺」を雑戯と考えている者もいたことがうかがえる。世宗は、その時、「投壺は古人が心の正邪を見るためにおこなったものである」として、射

侯は世子にはみせないが、「投壺」には同席させることにしている。その
五年後に世宗は、郷飲酒の禮は、長幼の序を明らかにし、矢を放って徳
を示すものであり、「投壺」の儀礼は、心を修養するものであるにもかか
わらず、単に豪.の士の遊戯と思いこんでいる面があること、またどう
すれば弓矢をもって礼儀として符合させ、主人と客がお互いに尊敬しあ

うことができるだろうかとも述べている。
世宗は、「投壺」を世子教育の一環としても必要であると考えていたの
で、春・秋に弓術を、夏に「投壺」を、冬に撃毬をおこなう際に、世子
も諸勲盟と同席して世務を論じさせれば、見識が高まるのではないかと
考えていた。これによれば「投壺」は夏に催す行事であると一般的に考

えられていたことも判明する。
高麗時代の睿宗代における解釈、及び朝鮮時代の世宗代の解釈にも精
神修養の面から意義があると主張される根拠は、前記した『禮記』投壺
条にみえる「魯の弟子に令する辞に曰く、おごることなかれ、おごるこ
となかれ、背き立つことなかれ、越えていうことなかれ、背きたち越え
ていえば、常爵あらんと。薛の弟子に令する辞に曰く、おごることなか
二一二
れ、おごることなかれ、そむきたつことなかれ、越えていうことなかれ、かくのごとき者は浮せんと。」という言辞であろうと考える。太宗代から世祖代にかけては、この言辞を宗親や官僚たちに植えつけるために、「投壺」を頻繁に行った形跡が濃厚である。
つまり、世祖代になると、王位を簒奪した後、反対派の勢力である王族と官僚と、それに関連して連坐・縁坐した家族、親族に対する処罰が一段落した段階で(世祖二年九月)、多数の官僚を殺害するに及んだあまりにも凄惨な事件であったところから生まれた王族と宗親、両班官僚との信頼関係を取り戻すために、この「投壺」を活用したと考えられる。
世祖三年二月、世祖は、都鎮撫(都摠管=五衛都摠府で軍務を総括した最高の官職、正二品職)、及び宰枢に命じて投壺をおこなうことを命じた⑯。
これまでは、王族、宗親のみで構成していた「投壺」に文官の最高官僚と軍事機構を総括する官僚を参加させたのである。
その五ヶ月後の七月二日、世祖は慶會楼に赴き酒宴を設けた。宗親の二品以上、議政府・六曹の参判以上と延昌尉安孟.(世宗の次女と婚姻、世祖元年に原従功臣に封じられる)及び河城尉鄭顕祖(領議政鄭麟趾の子、世祖の長女と婚姻)判中枢院事李澄石(世祖の王位簒奪を補佐、佐翼功臣)と鶏林君李興商(世祖を補佐、靖難功臣)、漢城府尹李純之(天文学者、世祖三年禮曹参判)・洪元用、藝文館提學金末(儒学者)、京畿観察使李承孫(世祖の佐翼原従功臣)などのほか、宣伝官、部将、鎮撫、司僕官なども同席して左右に分かれ、或る者は射侯を、或る者は「投壺」をおこなった。そのとき、世子、宗親、宰枢たちが国王に献杯しているところから、国王もそれを見学していたことは明らかである。さらに鐘を打ち鳴らして、

王宮内の軍士たちを慶會楼の池の畔に集めて酒宴をはった。
こうして世祖は、王位簒奪のさいに協力した官僚たちの慰労をはかるために、酒宴を設けて「投壺」の参加者の範囲を大幅に拡大し、官僚や兵士たちとの信頼関係の確立をはかった。世祖が在位一四年間の間に「投壺」儀礼をおこなった記録は、四回あり、三年一〇月と四年七月におこ


なったさいには、宗親と宰枢に範囲を限定している。
しかしその後の残り一〇年間の在位期間中には一度も実施していない。三年七月と一〇月に実施したさいには、鄭麟趾、姜孟卿、申叔舟、申碩祖、洪允成、曹錫文、権摯、鄭軾などに鹿皮を一枚ずつ与えて賭けさ

せているので、この時から賭博性を帯びはじめていたことも判明する。
ところで、世祖のこのときの発言で注目されるのは、鄭麟趾などに対する発言である。
「漢の高祖は功臣を保全できず、前年に韓信を殺害し、彭越を殺害している。これは彼の失敗である。」と述べたのにたいし、鄭麟趾は、「漢の高祖がよく進言を聞き入れ、人材をうまく用いたことが漢の王業の興隆した所以であります。」と答えて、鄭麟趾はすかさず、「国王は、臣僚の進言を尊重すべき」ことを提言している。それに対し、世祖は、「その通り。昔からいうではないか。尋ねることを好めば豊かになり、自分の意志だけを用いるならば小さくなる。自ら師を得ることのできる者は王業を遂行でき、他の人間は自分に及ばないと思う者は、滅ぶであろうという意味であるが、君道の体制というものは、この言に過ぎるものはない。」と述べ、官僚たちを信頼してその進言をよく聞き入れる意向を表明することによって、信頼関係の確立に努めていたふしがみえる。国王が、国家の運営は、国王と官僚の信頼関係に基礎を置く相互依存関係にあることを承認したことがよく分かる一例である。
ところで、「投壺」が実施された特異な例として、明国の使者がきた際に、「投壺」を楽しんだ記録があることである。したがって明国では、この当時、「投壺」儀礼が官僚を中心に、流行していたので、中国から往来する使節を接待する儀礼、娯楽としてこの「投壺」が盛んに行われた形
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
跡も濃厚である。したがって、太宗、世宗、世祖が盛んに「投壺」儀礼
を実施するようになったのは、王族と官僚との信頼関係を修復する意味
と共に、中国で盛行している「投壺」儀礼を行っても社会的に批判にさ

らされる行事ではない面があったからでもあろう。
六、成宗代における投壺儀礼の新たな展開
ついで成宗代(在位一四六九.一四九四)には、まず「投壺」をおこな
う意義について確認をしたあと、それまでよりもさらに参加者の範囲を
拡大して実施した形跡が濃厚である。
「投壺」をおこなう意義としては、やはり世宗代に確認がなされた「『投
壺』は、戯玩ではなく、精神を修養するためのものである。」ということ
.
をその意義として定着させている。
その後でまず老宰相たちが会した場で試すことを命じている。ついで
投壺儀を耆英宴のさいに行うことも決定し、そのさいの「投壺」の規定
についても定めている。
○禮曹啓、耆英宴時、投壺儀、其日、耆英諸宰、行相會禮畢執事者、

【.贍寺員。】設豐於堂.、在西近南、司射【訓.院六品員。】置壺於堂中。【以二矢半量置。】又設中於壺之西東、向盛算於中。【算之多少、視座上之人、.人四矢、亦四算。】執事者二人、【訓.院參外員。】奉矢、【..各四矢。】立於拾投者之左。司射告矢具、又請拾投手、執八算而起、樂作。【奏樂章、以節投壺。】左右各執四矢、更迭而投。有入者、司射、坐而釋一算卒投。【樂止。】司射、執算曰、左右卒投、請數。【二算爲純、一算爲奇。】數訖、以奇算告曰、某賢於某若干、純。【奇則曰奇、鈞則曰左右鈞。】又司射、命執事者、行罰爵、執事者、洗.陞酌、坐而置於豐上。
二一三
不勝者跪取.、勝者亦跪。不勝者飮訖、司射、請立馬。【立馬於釋算之前。】初.一成訖、衆.以次卒投、並如上儀、如是至三番而止。【取算、以立馬、謂之一成、.番釋算、立馬同。】三番訖、司射、以一馬從二馬、

【若勝、.得二馬、劣.得一馬、撤取劣.之一、以足勝.之二、爲三。】又命執事者酌酒、請多馬者曰、三馬.備、請慶多馬。飮訖、【凡得三馬
.
者、皆飮。】司射、請徹馬、坐定、行無算爵。
そして一三年三月一一日には、政丞などに命じて「投壺」を行わせている。そのさいにも古人は投壺によって心を正す修行をしていたことが強調されて、月山大君を始め、宰相たちが「投壺」を行った。当時は、「投壺」意外に楽しめる遊戯が多くなかった時代で、「投壺」を一度始めると長時間にわたって楽しんだことが伺える。また国王も児馬一頭や弓を賞品に与
.
えている。
同年五月には、大規模に「投壺」を行っている。端午であるからとい
う理由で実施しているところから、この成宗代の「投壺」には、太宗代
と世祖代に意図されたような両班官僚たちとの信頼関係を修復するとい
う目的よりも、端午という祝日に娯楽的な競技として出席者たちで楽し
.
むという方向に転換していった形跡が見られる。ついで成宗十七年九月に実施された例をみると、国王が王宮の後苑で經筵堂上、弘文館員に酒席を設け、音楽を入れて楽しんでおり、さらに承旨、入直している兵曹、都摠府堂上、衛將徃.、永安道觀察使成俊までが呼び出され、弓矢で射侯をする者と「投壺」をする者とに分かれて酔わない者がないほど歓を極めて終わったという。同年九月にも実施しているが、その時には、さらに参加者の規模が拡大されていて、宗親一品以上、議政府、六曹.判以上、儀賓府、漢城府、承政院、弘文館、藝文館、入直諸將などを呼び入れて実施している。
二一四
この頃から、国王と宗親や官僚たちとの親睦を深めるために、宴席とともにこの「投壺」を実施するという行事に定着し始めている。そこでつぎに成宗代に実施された「投壺」のさいに参加するようになった人士はどのような官僚たちであったかについて『成宗實録』に記載されている記事を列記してみる。
成宗一七年九月三日
3 21

.場所:後苑
.参加者:経筵堂上、弘文館官員、承旨、入直兵曹、都摠府堂上官、永安道観察使
.賞品:鹿皮各一枚
成宗一七年九月一二日
21

.場所:後苑.参加者:宗親一品以上、議政府・六曹の参判、儀賓府・漢城府・
承政院・弘文館・藝文館官員及び入直将帥 
成宗一八年一月一八日
321

.場所:不明.参加者:宗親一品以上、領敦寧以上、儀賓、承旨、入直将帥.賞品:勝者に弓一帳。
成宗一八年三月一五日
1 .場所:北所

2 .参加者:経筵官


4

.賞品:堂上官 胡椒各七斗、堂下官 各三斗
成宗一八年七月二一日
21

.場所:不明.参加者:経筵官堂上、弘文館、藝文館、政丞、宰相、承旨

3


3 21

321

21

3 21

1

3 .時間:朝から晩まで。
成宗一八年七月二二日
1
2 .場所:忠勲府.参加者:経筵官、藝文館の官員、左承旨安処良、右承旨韓堰.賞品:大鹿皮二枚、衫児鹿皮二枚、弓五帳、胡椒二〇斗、油席三枚
成宗一八年五月一五日
.場所:北所
.参加者:宗親一品以上、領敦寧以上、議政府・六曹の参判以上、漢城府の堂上官、入直兵曹・都摠府・承政院・弘文館・藝文館の官員
.賞品:鹿皮、角弓、胡椒など
成宗一八年八月二九日
.場所:後苑.参加者:宗親、儀賓など.賞品:胡椒二〇碩
成宗一九年三月二五日
.場所:後苑.参加者:宗親
成宗一九年五月五日
.場所:西所
.参加者:一品以上の宗親、領敦寧以上、議政府・六曹の参判以上、漢城府堂上、儀賓府・承政院・弘文館の官員
.宗親と宰枢は心ゆくまで楽しみ飲むようにと命じ、日暮れまで
続く。
成宗一九年七月三〇日
.場所:後苑
朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
32

.参加者:領敦寧以上、六曹判書、入直兵曹・都摠府諸将、注書、史官.賞品:児馬一五頭を賭けの賞品として内賜し、勝者に一頭ずつ
支給。
成宗二〇年五月五日

3 21

.場所:耀金門内
.参加者:二品以上の宗親、議政府・儀賓府・六曹・漢城府・承政院・弘文館・藝文館の官員、都摠府諸将.賞品:国王は一日中楽しく遊び、早く帰る者なきようにと指示、
玉石の大盃を出すのでそれで飲み、飲めない者は銀製の小盃で飲むようにと指示。
成宗二〇年八月二四日
21

.場所:北所
.参加者:宗親一品、領敦寧以上、議政府・曹参判以上・忠勲
6
府・漢城府・儀賓府・承政院・弘文館・藝文館・都摠府諸将
成宗二一年九月九日
321

.場所:訓練院 .耆老宴.参加者:訓練院官員、経筵官
4 .賞品:別造弓三帳、豹皮・白鹿皮各二枚。黒漆篭一、爐口一部、
胡椒一〇斗
成宗二一年九月九日
321

.場所:北所.参加者:入直諸将、承政院.賞品:虎皮二枚、別造弓二帳、馬粧二部、蓑衣一部、胡椒一〇
二一五
斗を賭けさせる。
むすび
成宗代における上記の記録をたどると、まず「投壺」の開催回数が、一年に二.三回程度開催されており、それまでの国王の開催回数よりも次第に多くなってきている。ついで開催場所は、後苑、または北所、西所などで開催されていること、参加者をみると、宗親は一品以上であったものが、後になると二品以上の者も含まれるケースが生じている。官僚は初期から、正三品職の堂上官以上の官職のある重要な官司の官僚で、やはり堂上職以上の者が参加するのが原則のようになっていたが、しだいにそれらの官司の堂上官以下の官員にも範囲が拡大されていったようである。賞品としては、勝者にたいし授与されるのが原則であったが、その賞品も次第に豪華になり、鹿皮、胡椒、虎皮などの高級品が与えられるようになっていった。しかもこの頃から賭博性を帯びるような形で国王が与えていったので、後世になって、庶民の間でも賭け事の一つとして楽しまれるようになったのではないかと思われる。王宮内で、このように行われていた「投壺」は、当然儒者たちの間にも広まる性格を持っていたようで、『禮記』に記載されていることが論理的根拠となり、しかもその精神修養的な面を強調しながら、「投壺」を行うことの正当性が主張されて、儒者たちの間にも広まっていったのであろう。李退渓の『陶山書院』にも「投壺」の道具などが残存しているのもその一例ではないかと考える。国王と官僚とのあいだの信頼関係が大きく損なわれた結果、国王は、「投壺」という儀礼をとおして官僚との信頼関係の修復に努めようとした行為ではなかったかと考える。
二一六

① 『朝鮮初期政治史研究』崔承熙著、二〇〇二.韓国知識産業社刊、三〇九.三一〇頁。それ以外に、韓国で遊戯史として論究された先行研究としては、次のような論考がある。
1「投壺遊戯に関する史的考察、及び遊戯法」一、及び(續)、文榮鉉、韓国体育学会、「韓国体育学会誌」、第一一巻、一九七五. 2「退渓哲学における投壺のもつ意義」李振洙、韓国体育学会、「韓国体育学会誌」三四巻、一九九五. 3「韓国古代民俗遊戯に関する研究」趙成煥、梨花女子大学校韓国文化研究院、「韓国文化研究院論叢」第五一輯、一九八六.一二. 4「韓国中世民俗遊戯に関する研究」趙成煥、梨花女子大学校韓国文化研究院、「韓国文化研究論叢」第五三輯、一九八八.八. 5「朝鮮前期宮中遊戯の研究」趙成煥、梨花女子大学校韓国文化研究院、「韓国文化研究論叢」第五五輯、一九八九.八.
② 『太祖実録』太祖元年八月己巳、二〇日条に「○己巳立幼.芳碩爲王世子。初功臣裵克廉、趙浚、鄭道傳請建世子、欲以年以功爲請、上重康氏意在芳蕃。芳蕃狂率無.、功臣等難之、私相謂曰、若必欲立康氏出、季子差可。」及是、上問誰可爲世子者、未有以立長立功切言者。克廉曰、季子爲可。上遂決意立之。」

③ 『大東野乗』所収の李廷馨、『東閣雑記』に、「○太祖神懿王后誕六男。恭靖王居第二。太宗居第五。神德王后康氏。生芳蕃芳碩。及公主適李澄。太祖嘗召裴克廉趙浚等于.殿。議立世子。克廉等曰。時平立嫡。世亂先有功。康氏潛聽之。哭聲聞于外。遂罷出。他日又召克廉等議。無復有以嫡以功爲言者。克廉浚退而議曰。康氏必欲立己出。芳蕃狂悖。其季稍可。遂請封芳碩爲世子。」

④ 同上書、同条に、「鄭道傳南誾等。附芳碩。忌諸王子。謀欲去之。密啓請依中朝諸皇子封王之例。分遣王子於各道。 」

⑤ 同上書、同条に、(『東閣雑記』上に、「卜者安植曰。世子異母兄。有天命者非一。道傳曰。.當除之。何患乎。義安君和知之。密告太宗。」

⑥ 同上書、同条に、「戊寅秋。太祖寢疾。道傳等託議移御事。召諸王子入來。欲因以作亂。令其黨在.謀之。前參贊李茂。亦其黨也。盡以其謀。潛



泄於太宗。時太宗與諸兄。恒宿於勤政門外。・・・(中略)、太宗率武士。覘道傳等。李稷方會于南誾妾家。明燈歡笑。伴從皆睡。使李叔蕃故發矢落于屋瓦上。因縱火焚之。道傳走匿于其隣判奉常閔富家。富呼曰。有.腹者。入我家矣。軍人入搜之。道傳匍匐杖劍而出。執詣太宗前。道傳仰曰。若活我當盡力輔佐。太宗曰。爾.負王氏。又欲負李氏耶。立斬之。其子游泳亦被殺。南誾潛逃隱于彌勒院圃幕。追兵殺之。」
⑦ 同上書、同条に、「芳碩之黨欲出軍。令軍士奉元良。登城覘之。則自光化門至南山。鐵騎彌滿。彼懼不敢出。人以爲神助。太宗使人傳語入直諸軍。令出來。相率縋城而出。勤政門以南一空。黎明太祖移御于淸涼亭。浚等率百官。啓道傳誾等之罪。且請改封世子。太祖謂芳碩曰。於汝便矣。芳碩拜辭。賢嬪攀衣號哭。芳碩拂衣而出。又請出芳蕃。太祖曰。世子已矣。汝出去何妨。興安君李濟在傍。猶拔劍睥睨。公主謂濟曰吾夫妻若歸靖安君第。則得生矣。芳蕃出西門。太宗執手曰。汝不聽吾言。以至於此。好去好去。都堂追殺于中路。初散騎常侍卞仲良。附芳碩上疏。請罷諸王子兵權。離間骨肉。至是執詣軍前。仲良曰。吾自近日。歸心於王子矣。太宗曰。彼口亦肉也。斬之。恭靖王。是日以祈祷事。齋宿于昭格殿。聞変徒.踰城。匿于禿音村家。翌日使人請之。乃還。太祖伝位于恭靖王。 」

⑧ 『大明律』巻第十八 刑律 盗賊 【謀反大逆】条に、「凡謀反、大逆、但共謀者、不分首縦、皆陵遅処死、父子年十六以上、皆絞、十五以下及母女妻妾祖孫兄弟姉妹若子之妻妾、給付功臣之家為奴、財産並入官、」と定められており、また謀叛条には、「凡謀叛、但共謀者、不分首縦、皆斬、妻妾子女、給付功臣之家、為奴、財産並入官」と定められている。

⑨ 『世祖実録』巻五、世祖二年九月七日甲戌条に、「○傳旨義禁府曰、亂臣縁坐婦女内」とあり、その氏名が連記されている。

⑩ 『禮記』第四十、投壺条に、「魯令弟子辭曰、毋.、毋敖、毋.立、毋踰言、.立踰言有常爵、薛令弟子辭曰、毋.、毋敖、毋.立、毋踰言、若是者浮、」

⑪ 太宗が上王の定宗を奉迎して酒宴を張り、投壺をおこない、世子、および宗親が同席している。1 「上奉迎上王于廣延樓、置酒投壺、世子、宗親侍宴。上曰、吾爲上王.、諸君毋得.花。以李宏之死未久也。」(『太宗実録』巻三三、太宗一七年六月二二日丙午条。)2 .「○御廣延樓置酒、
花.

朝鮮時代初期における王位継承争いと「投壺」
仍觀投壺戲、世子、宗親咸侍。」(『太宗実録』巻三三、太宗一七年六月二六日条。3 「○御廣延樓、觀投壺.、因置酒、世子、宗親侍宴。」(『太宗実録』巻三四.太宗一七年七月二一日甲戌条。)

⑫ 『世宗實録』世宗一三年六月一六日戊申条に、「○御慶會樓、觀宗親投壺、賜物有差」とあり、同年六月一八日条に、「○御慶會樓、觀宗親投壺。」、同年六月二一日癸丑条に、「○御慶會樓、觀宗親投壺、賜物有差。」同一四年八月一五日辛丑条に、「○御慶會樓下、觀讓寧大君以下諸宗親投壺、仍設宴、夜分乃罷。」とみえる。


⑬ 『世宗實録』世宗一三年六月二四日条に、「○傳旨書筵賓客: 世子長於深宮、無所見聞、接人則顔色赧然、擧止羞澁。自今若宗親投壺 射侯、則令世子入侍、習見接人進退之儀何如、鄭招・尹淮等以爲、上之所爲、非禮不動、可令世子入侍觀感。申檣・鄭麟趾以爲、世子今方學問、未可習見雜事。上曰、  
投壺古人所以觀心術之邪正者、與焉可也、射侯則不令見之。」とある。

⑭ 『世宗實録』世宗一八年四月九日乙巳条に、「○御勤政殿、以領議政府事.喜、知中樞院事李孟.、吏曹判書權蹈爲讀卷官、右副承旨金.、集賢殿副提學安止・兪孝通、集賢殿直提學崔萬理・金.爲對讀官、重試文臣在東、初試擧子在西。乃出策題、王若曰、帝王爲治之道雖同、而爲政之方非一、要皆厚倫成俗、制寇安民而已。若稽唐、虞、命契而敷五敎、命禹而征三苗。當是時、黎民於變、比屋可封、而有苗梗化、干羽之舞、七旬乃格。舜之文德、豈班師而始敷歟。三代迭興、文質損益、代各有治、其詳有可言者歟。可行於今日者、何事歟。大小宗之法、所以尊祖宗之義也。鄕飮酒之禮、所以明長幼之序也。射以觀德、
投壺、以治心。周家之治、煥乎



有文、後世莫及者、用此道也。自周以前、亦有行之者歟。其所以致雍熙泰
和之治者、何道歟。薄伐..、詩人美之。會戎于潛、《春秋》譏之、聖人
待夷狄之道可見也已。庸、蜀、羌、.與會於孟津。淮夷、西戎、雜處於東
郊、何歟。降及後世、曰漢、曰晋、以迄于宋、化民之政、御戎之策、孰得
而孰失歟。恭惟我太祖受天景命、太宗嗣受鴻業、文昭武烈、無讓古昔。予
以諒德、纉承丕基、夙夜憂勤。罔敢或遑、凡所施爲、仰惟前代時若。何以
使人知尊祖敬宗而宗、子之法立。何以使人知長幼之序、而鄕飮之禮行。射

者、六藝之一、而視爲武士之事、若之何、則射義復明。  
投壺、治身之具、
二一七
而徒爲豪.之.、若之何、則擁矢合禮、而賓主交敬歟。我國南隣島夷、北連野人、制禦之方、撫綏之策、固當熟慮、而審處之。.者野人願居塞.、島夷來處海濱、若許其請、則有違《春秋》謹嚴之義、拒而不納、則有虧王者無外之仁、將何而可。子大夫博通古今、於此數者、講之熟矣。其各悉心以對、予將大用焉。仍幸慕華館、試武挙。」
⑮ 『世祖實録』世祖一三年一一月三〇日壬辰条に、「○上引見宗宰等曰、今世子年已長學已足、其所以養世子、靡所不至。然居常與處、唯婦寺而已、不接士大夫、則無以別君子小人、無以知稼穡之艱難。自我先王、冬則.毬、夏則投壺、春秋則弓射。今當冬月、正.毬時也予欲世子與諸勳盟.毬、因論世務、則豈無小益、僉曰、允當。」

⑯ 『世祖實録』世祖三年二月六日条に、「○御慶會樓下、試武擧初重試。命都鎭撫及宰樞、射侯投壺。」

⑰ 『世祖實録』世祖三年七月六日癸亥条に、「○御慶會樓下設宴、宗親二品以上、議政府、六曹.判以上、延昌尉^安孟.、河城尉鄭顯祖、判中樞院事李澄石、.林君李興商、漢城府尹李純之・洪元用、藝文提學金末京畿觀察使李承孫、宣傳官部將鎭撫司僕官等入侍。分左右、或射侯、或投壺。世子及宗宰以次進酒、命.鍾聚闕.軍士於慶會樓池邊賜酒。」

⑱ 『世祖實録』世祖四年七月一九日甲辰条に、「○御慶會樓下觀射、讓寧大


君禔、孝寧大君補、臨瀛大君.、.寧君.、益寧君.、延昌尉安孟.、雲城府院君朴從愚、鈴川府院君尹師路、河東府院君鄭麟趾、左賛成申叔舟、右賛成.守身、判中樞院事李仁孫、左.賛朴仲孫、右.賛成奉祖、吏曹判書韓明.、兵曹判書洪達孫、都節制使楊汀、承旨等侍、或投壺射的。」
⑲ 『世祖実録』世祖三年一〇月二二日条に、「○御慶會樓下觀射, 宗親及領議政鄭麟趾、左議政鄭昌孫、右議政姜孟卿、左賛成申叔舟、右賛成.守身、坡平君尹 巖、鈴川君尹師路、左.賛朴仲孫、右.賛成奉祖、知中樞院事楊汀・洪允成、兵曹判書洪達孫、京畿觀察使辛碩祖、承旨等及訓.觀
二一八
使梁誠之侍食。…(中略)命宰樞分左右投壺、較勝負。賭帑賜麟趾、孟卿、叔舟、碩祖、允成、錫文、摯、軾、鹿皮各一張、上謂麟趾等曰、漢高祖不能保全功臣、前年殺韓信、今年殺彭越、此其失處也。昌孫起啓、此眞大失也。麟趾曰、漢高祖能納言善用人、此漢業所以興也。上曰、然古不云乎、好問則裕、自用則小。能自得師者王、謂人莫己若者亡。君道之體不過此語。上親習陣於後苑、以兼司僕、.禁衛爲左右隊、宰樞承旨乘司僕馬侍衛。上駐馬進酒。」
⑳ 同上書、同条に、「○迎接都監副使權引啓、明使云、我等欲投壺、速將壺矢來。命.藏靑銅壺二事、具箭四十八枚送之。」とみえる。
. 『成宗實録』成宗九年一〇月二七日条に、「○御經筵。講訖、上曰、古有投壼之禮、今何不行歟、知事洪應對曰、古有司馬.公『投壼譜』。上曰、投壼非.玩之事、要治心耳。」。また同上書、同年一一月二日条に、「○傳于承政院曰、投壼、非戲事也。其於老宰臣會處、試爲之。」
. 『成宗實録』成宗十年七月二十九日条。
. 『成宗實録』成宗一三年三月一一日条に、「○御後苑、觀文臣射。分左右、…(中略)又謂吉甫等曰、爾等、則射侯矣。欲令政丞等投壺。謂政丞等曰、古人以投壺爲正心工夫。月山大君.、及鄭昌孫、韓明.、鄭顯祖、洪應、洪常、任光載、李約東等、爲.投壺、日暮乃罷矣、成俊居首、賜兒馬一匹、其餘勝邊、各賜弓一帳。」
. 『成宗實録』成宗一三年五月四日条に、「○傳曰、明日乃端午也。邇來久不見宰相、明日欲接見。但以年險、未果耳、其召領敦寧以上及政府、入直都摠府、兵曹諸將、承政院、弘文館餽之。或射侯、或投壺、各以相敵者爲.。」。
(二〇一〇.一〇.二八.脱稿)(本学非常勤講師・元天理大学教授)

http://news.xinhuanet.com/society/2007-04/25/xinsrc_0820404250851546133022.jpg

蘭州:美女們身著漢服 湖邊玩“投壺”遊戲(圖)
2007年04月25日 08:53:04  來源:西部商報


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核心提示:4月19日是農歷三月初三,這一天是漢族傳統的“上巳女兒節”。4月22日蘭州一群美麗女子身穿漢服在湖邊玩起了“投壺”遊戲補過“上巳女兒節”。



身著漢服“投壺”現場

“80後”年輕人,憑著對漢民族服飾文化的熱情,前兩天,她們身穿自制的漢民族服飾出現在小西湖公園,向蘭州市民展示了漢、唐服飾文化。

現場目擊

自制漢唐服飾 周末亮相公園

“三月三日天氣新,長安水邊多麗人。”這一切于4月22(農歷三月初六)日上午10時30分在小西湖公園湖水邊重演了:一群美麗的女子,身穿漢民族服飾,補過“上巳女兒節”(農歷三月初三)。遊人好奇的目光投向了這群身著“奇裝異服”的女孩子,親眼目睹了發生在現實生活中的傳統女兒節禮儀和“投壺”遊戲(古代宴飲時的一種遊戲)。

這群年輕女孩先是向圍觀人群行“古禮”,並向大家介紹女兒接禮儀的來歷和意義 ;隨後,參與禮儀的年輕女孩與活動主禮人致禮、回禮後,儀式正式開始。 參與者在草坪中鋪上一塊白布正坐等待,主禮人將事先準備好的清水倒入容器內,添加香草,用柳樹枝沾取,灑向每位參與者。傳說這樣可以消災祛病,洗滌垢穢、被除不祥。

活動的發起者“紅魔女”(網名)向記者說:對于喜好漢服文化的他們來說,上巳節是一個美麗、浪漫的節日,這比“三八婦女節”更令人向往。

記者調查

高度關注北京奧運會服飾

2007年1月1日,“甘肅漢服家園網”全面改版,立志成為甘肅漢民族文化的網絡家園。他們先後組織並策劃了中國近代史首次使用漢民族服飾的家庭“冠禮”,並在2006年冬至組織了首次身著傳統漢民族服飾的傳統冬至節活動,2006年設計推出了“中國式學位服”,都引起了強烈的社會反響……然而另外一個話題更加引起她們的關注——作為東道主的中國運動員穿什麼服裝在奧運會開幕式上亮相?

西裝?中山裝?漢服?唐裝?

“世界給中國16天??中國還世界5000年”,這是漢服申請奧運禮服的口號。漢民族服飾是中華民族5000年燦爛文化最能代表中華民族展示的服裝,“甘肅漢服家園網”版主李曉向記者表達了蘭州漢民族服飾愛好者的心願。

相關鏈接

“上巳節”,農歷三月初三日,漢族傳統節日,漢代定為節日。這天是漢族水邊飲宴、郊外遊春的節日。該日民間有流杯、流卵、流棗、乞子和戴柳圈、探春、踏青以及歌會等活動。並有青年男女們對歌、碰蛋、拋繡球等談情說愛的傳統,這天青年男女可自由交往。 (施斌)


http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/dg_touko.htm

投壺(とうこ)
概要  つぼうちとも呼ばれる。投扇興のルーツと言われる二人対戦の遊び。
中国・朝鮮の投壺

周の時代には既にあり、四書五経の一つ「礼記(らいき)」には、紀元前500年頃に遊ばれたことが記載されている。 三国、晋の時代にも投壺の記録があり、宋代には司馬光が「投壺格」「投壺新格」「投壺儀節」を著した。明代にも書籍が出されたようだが、 現在ではほとんど見られない。
朝鮮半島にも百済、高句麗の時代には伝わっていたと考えられる。現在、韓国では公園や寺社などが道具を出して遊ばせていることがある。 旧1000ウォン札には投壺が描かれている。

日本の投壺

奈良時代に日本に伝来したといわれ、正倉院の宝物の一つとして収蔵されており、正倉院展に出展されることがある。 信西が12世紀中頃に編纂したと言われる「本朝世紀」には、天皇が正倉院の投壺具についてこれは何かと聞いたので信西が投壺と答えたことが記載されている。「和名類聚抄」に”つぼうち”と表記があるほか、江戸時代中期まで記録がなく、ほとんど遊ばれなかったと考えられる。
茶道家の大枝流芳が随筆「雅遊漫禄」(18世紀半ば頃刊行)の中で投壺について書いている。 医師で儒学者の田中江南が投壺の復興を試み、「投壺指南」「投壺説」など複数の本を出し、江戸や京都で教えたりした。 一時期流行ったという記録もあるが、大きな流行ではなくすぐに廃れたと考えられる。 医師の都賀大陸、儒学者の皆川淇園や田辺楽斎、落合正暢が投壺に関する本を出している。

遊び方

中央に壺を置き投者は向き合って座り、矢を持って投げる。  矢の落ちた位置で点数が決まり、勝敗を競った。
遊び方(「礼記」による)

1.道具は矢と壷を用いる。壷の大きさは。矢は室、堂、庭によって長さが異なり、室は2尺(約60cm)、堂は2尺8寸(約84cm)、庭は3尺6寸(約1m8cm)である。 2.対戦者2人は壷を中央に置いて向かい合う。対戦者と壷の間は矢2本半空ける。
3.審判は8本または12本の算(点数の単位)の合計により判定される。 4.勝者に賞品を贈る。

投壺の役と点数

販売状況 国内では入手不可。韓国で販売している。当会斡旋可。
投壺の道具








中国の漢の遺跡・石に描かれた投壺



「雅遊漫録」挿絵



「和漢三才図絵」挿絵



「投壺式」挿絵



市販の「投壺」






http://www.tosenkyo.net/rekishi-touko.htm

投壺について

「投壺(とうこ)」は奈良時代に中国から伝来した遊戯で、「つぼうち」「つぼなげ」とも称されました。もっとも「読んで字の如く」というわけではありませんで、「壺を投げる」のではなく「矢を壺に投げ入れる」遊びです。
ごく簡単に紹介すると、2人の競技者が何本かずつの矢を持ち、一定の距離の所に置いた壺に交互に矢を投げ入れて、入れた矢の本数と形で勝敗を決める遊戯です。天明・寛政(1781~1800)の頃に流行しました。
ただし、その「形」がものすごく複雑で、たくさん決められています。

中国では周の時代から行なわれ、『礼記』にその礼式が記述されており、上流階層の宴席などでの遊びでした。日本には7世紀までに伝えられ、唐の時代の中国製の壺や矢が東大寺の正倉院に現存しています。「源氏物語」や「枕草子」に投壺に関する記述があると聞いたことがあるのですが、残念ながらまだ確認できていません。
また、浅草の春の大会「雅の会・投壺と投扇興の集い」では、現代の日本では唯一、投壺の実演を見せて頂くことができます。



ほか、京都の霊鑑寺にも投壺の道具(作者不詳 江戸時代後期)が保存されています。こちらは伝法院で披露される物よりかなり小型(口径9.0 胴径14.0 高25.0)です。
また同じく京都の宝鏡寺にも投壺が伝えられており、今年(2001年春)の人形展を見学に行ったら、等身大の平安女性の人形数体が投壺で遊んでいる光景が展示されていました(写真撮影禁止だったのが残念です)。

ちなみに正倉院の投壺具は、口径7.4cm、高さ31cm、重さ5.474kgだそうです。矢の長さは74cm前後で、「主客4本ずつの矢を持って行った」と記録に残っています。
その他、仙台市の博物館では、常設展で投壺を展示しているようです。「武士や裕福な家の子どもたちが遊んだ室内のゲームに挑戦してみませんか。」ということで、つまり、実際に遊べるのかもしれません。
常設展観覧料として、一般400円、高校生200円、小・中学生100円が必要です。30名以上の団体は各2割引です。
(余談ですが、インターネットで検索する時は、「投壺」と「投壷」の両方で調べてみるといいです)

ところで、韓国のガイドブック(「ブルーワールド・ガイド 韓国」)の表紙の裏の写真に、投壺に興じている人の写真がある、という情報を友人から聞きました。
そこで、韓国の投壺(トゥホ)について調べようと思ってインターネットで検索してみたら、「'98韓国新正月旅行記」というページの3枚目の一番下に、ある宮殿の広場で(つまり屋外で!)投壺が行なわれている様子が紹介されていました。何しろ屋外ですから正座などはしておらず、立ったまま投げ入れています。それだけ庶民的だとも言えましょう。
このページの作者のPaizaさんから、その写真の掲載の許可を頂けましたので、ここに紹介させて頂きます。






このページの他にも、「投壺」で検索すると韓国に関連した所がたくさんヒットします。日本の投扇興がお正月遊びとして生き残っているのと同様に、日本では廃れてしまった投壺が韓国ではお正月の伝統的な遊びとして今に伝えられているというのは驚きです。
日本に投壺が伝えられたのは中国からということでしたが、朝鮮半島にいつ頃から伝わったのかはまだよくわかりません。

なお、上記のPaizaさんのホームページはこちらです。
「Paizaの世界の旅情報」http://www2s.biglobe.ne.jp/~paiza/index.html

(2009年4月15日追記)
公開中の映画「レッドクリフPart.2」の中に、投壺のシーンが出てきます。


(2009年5月15日追記)
5月14日にBS朝日で放送された韓国ドラマ「張禧嬪(チャンヒビン)」第74話の最後の方で、王妃や王子などが側近に囲まれながら野外で投壺をしていました。
宮殿の庭に筒状の壺の様なものを置き、矢を順番に投げ入れてました。失敗すると、罰として顔に紙製の花びらをはっていました。日本の羽つきの墨塗りと違い、宮廷の遊びは罰も花びらとは優雅なものです。ドラマは17世紀の李朝が舞台となっています。





http://big5.cri.cn/gate/big5/gb.cri.cn/9223/2006/04/24/1266@1015725.htm



【漢民族傳統禮儀】雅歌投壺、射之細也——“投壺之禮”操作方案(圖)

國際線上 www.crionline.cn 2006-04-24 16:08:10

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  柯列葩布,匪罕匪綢,雖就置猶弗然,矧逈絕之所投,惟茲巧之妙麗,亦希世之寡儔,調心術于混冥,適容體于便安,紛縱奇于施捨,顯必中以微觀,悅與坐之耳目,樂眾心而不倦,環瑋百變,惡可窮讚。

——三國 魏 邯鄲淳《投壺賦》 代題記


投壺之禮示意圖

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  第一部分:筵席邊的射禮——投壺





  投壺是從先秦延續至清末的漢民族傳統禮儀和宴飲遊戲,投壺禮來源於射禮。由於庭院不夠寬闊,不足以張侯置鵠;或者由於賓客眾多,不足以備弓比耦;或者有的賓客的確不會射箭,故而以投壺代替彎弓,以樂嘉賓,以習禮儀。宋呂大臨在《禮記傳》中雲:“投壺,射之細也。燕飲有射以樂賓,以習容而講藝也。”

  不管什麼原因,投壺脫胎于射禮是公認的,兩者在形態、意趣、方法、規則等方面有諸多相似之處,可以說,投壺是一種以矢代箭、以壺代侯的小型的射禮,是一種“筵席邊的射禮”。

  為什麼要行投壺禮?不如問,問什麼要行射禮?禮射是漢民族特有的民族禮儀,講究道德引導、立德正己與君子之爭,投壺之義即含禮射之義。

一個大膽設想:“射禮”搬上奧運會如何?

漢民族傳統禮儀“射禮”操作方案(附圖解)

立德正己、禮樂相和——“射禮”首次復興實踐活動圖片報道

  投壺的發展簡史

  《左傳·昭公十二年》載:“晉侯以齊侯宴,中行穆子相,投壺。”這是投壺比較早的記載。《禮記》出現了一篇《投壺》,詳細記載了先秦投壺的規則和方法。投壺活動在漢魏時期仍是王公大臣的娛樂活動,在河南南陽漢畫館中珍藏的一塊刻有投壺場景的畫像石常被提及,畫像中部一壺一酒樽,壺內有兩矢,樽內有勺,在鼓樂聲中,賓主二人正抱矢投壺。投入壺中的為勝,投不中者為輸,對輸者要進行罰酒,由旁邊的司射裁判。如圖:



東漢以前,投壺“禮”的意味較濃,魏晉南北朝開始向技藝多樣化發展,增強了娛樂性。宋代大儒司馬光對投壺有悖于古禮而娛樂化的趨勢頗為不滿。宋神宗熙寧五年,他著述了《投壺新格》一卷,根據古禮之義對投壺做了全面的總結。他說:“投壺可以治心,可以修身,可以為國,可以觀人。何以言之?夫投壺者不使之過,亦不使之不及,所以為中也。不使之偏波流散,所以為正也。中正,道之根底也。”他還對投壺的名稱和計分規則,以“禮”的眼光,做了修改。在投壺方式上,司馬光定有“有初”(第一箭入壺者)、“連中”(第二箭連中)、“貫耳”(投入壺耳者)、“散箭”(第一箭不入壺,第二箭起投入者)、“全壺”(箭箭都中者)、“有終”(未箭入壺者)、“驍箭”(投入壺中之箭反躍出來,接著又投入中者)等。

  明代,隨著社會發展日益繁盛,投壺進入新的發展階段。如明《投壺奏矢》稱,當時的投法有140種之多。到了清朝,投壺日趨衰落。但直到清朝末年宮中也還在流傳。現在,北京中山公園內還有一個“投壺亭”,還保存了六隻古代銅質投壺。

  組圖:各種投壺實物和投壺活動


明宣德掐絲琺瑯纏枝蓮紋投壺


《投壺新格》投壺方式




古畫中的投壺

  
南韓民間節日時的投壺


台南藝術大學投壺

  
“投壺之禮”和“投壺之戲”

  投壺自產生時起就具有兩種屬性,一為禮儀,一為遊戲。早期的投壺,“禮”的成為為主,而隨著歷史的發展,投壺遊戲性的一面日益加重,規則也不斷變化。

  投壺,既具有與射禮相同的禮義,如立德正己、君子之爭、發而不中、反求諸己等,又具有投壺獨特的禮義和價值。投壺是一種主人在宴會上娛樂嘉賓的遊戲,同時又有防止宴飲歡樂過於放縱的作用。賓主禮讓,安心寧神,既有遊戲之樂,又保證了歡宴娛樂的分寸。投壺顯然可以愉悅身心,矯正怠情。魏邯鄲淳《投壺賦》曰:“調心術于混冥,適容體于便安。”“悅與坐之耳目,樂眾心而不倦。”晉傅玄《投壺賦序》曰:“投壺者,所以矯懈而正心也。”

  第二部分:投壺之禮操作方案

  投壺之禮與射禮具有類似的復興價值,在此不再贅述。復興投壺,並不只是為了追求一種古典禮儀和遊戲的復原。追求人與人的相互禮讓與虔敬,提倡以君子之風相處相爭,同時起到愉悅身心、豐富禮宴娛樂的作用,這正是我們提倡重溫投壺的原因所在。

  我們把投壺之禮分為標準型、簡易型和表演型3種。三者的區別為:

標準型:以《禮記》等經典禮儀典籍的記載為依據,結合現實條件,適當調整,使其成為日常可習可行的民族禮儀與娛樂活動。

簡易型:儘量簡化,使投壺簡便易行,相應地,使用一些代用品為投壺工具。簡易型投壺主要是一種宴飲娛樂活動。

表演型:忠實復原經典禮儀典籍的記載,禮器使用、禮儀程式均需嚴謹、規範。

  本方案主要提供標準型和簡易型投壺的做法,表演型投壺,實踐者可根據典籍記載自行研習。

  (一)標準型投壺

  1 投壺之禮的準備

  投壺是在宴飲時所行禮儀,行禮者皆著漢服禮服。

  ①參禮者

主人1人:投壺禮的主持者

賓1人:投壺禮的參與者

司射1人:投壺禮的具體指揮者

樂工1人:演奏音樂

  ②禮器的準備

  投壺兩尊:金屬制、陶瓷制等均可。先秦投壺無耳,壺中盛以紅小豆,使箭矢投入後不至於彈出。標準尺寸為壺頸長七寸,口徑二寸半,壺高一尺二寸,容鬥五升,壺腹五寸。(皆周代度制,一寸合2.31釐米)
矢:若干。古禮要求以柘木製,此處不拘泥,以竹、木等均可,削成矢狀,矢長二十釐米,首端銳尾端鈍。製作時可參考:



  矢需準備至少八支以上。

壺與矢是投壺最重要的禮器,製作時宜儘量精美。

算:若干。竹木製,計算成績之用。以竹木片。

酒爵1對:賓主飲酒用。   

  2 投壺之禮的程式

  ①賓主就位

賓主于各自席位上。投壺之禮開始。

  ②三請三讓

主人奉矢到賓面前。主人請曰:“某有枉矢哨壺,請樂賓。”賓曰: “子有旨酒嘉殽,又重以樂,敢辭。” 主人曰:“枉矢哨壺,不足辭也,敢以請。”賓曰:“某賜旨酒嘉殽,又重以樂,敢固辭。”

主人曰:“枉矢哨壺,不足辭也,敢固以請。” 賓對曰:“某固辭不得命,敢不敬從?”

賓向主人行拜禮,接受主人奉上的四隻矢。主人答拜。

賓主相互行揖禮,于賓主席上正坐,面對壺所在的席之方位,做好投壺準備。

  ③進壺

司射把兩尊壺放到賓主席對面的席子上(壺離主賓席位的距離為二矢半),分別正對賓與主人。返回司射席位。向賓主宣佈比賽規則:“投壺之禮,需將箭矢的端首擲入壺內才算投中;要依次投矢,搶先連投者投入亦不予計分;投中獲勝者罰不勝者飲酒”

再令樂工奏《狸首》。比賽開始。《狸首》,詩經名篇,瑟曲,已失傳。今可用琴曲《鹿鳴》替代。投壺動作應與節奏相和。

  ④投壺

賓主依次投壺,將八隻矢投完。為一局。

  ⑤釋算

即計算成績。司射在賓主投壺過程中同時計算成績,有投入的,就將一枚“算”放到一側的地上,賓投中放于右,主投中放于左。

賓主投完,司射說:“左右都已投完,下面宣佈成績。”

報數時,單數稱奇,雙數稱純。一算為一奇,二算為一純,三算為三奇,四算為二純……誰人勝了,司射報曰“某賢于某×純(奇)”,平局便稱為“均”。

  ⑥酌酒

司射說:“請勝者為不勝者酌酒。”此時,勝者向敗者罰酒。

勝者為敗者酒爵中斟滿酒,奉上,敗者接過,說“賜灌”。勝者答:“敬養”。敗者將罰酒飲下。

  ⑦復始

第二輪投壺開始,方法同上,直至賓主盡歡。

  (二)簡易型投壺

  投壺起源於儒家射禮,因射禮不易操作及諸侯不工射藝,於是採用一種較為簡單的方式來代替。但若按照《禮記》規定,應該說仍然是比較繁瑣的。作為一種日常宴飲的娛樂活動,投壺簡便易行即可,歡愉而有分寸,仍然不失為一種高雅的宴飲娛樂。事實上,即便在投壺還比較盛行的年代,真正按照《禮記》的規定進行投壺的也為數不多。

  簡易型投壺是在標準型投壺的基礎上做較大簡化,可使用一些代用品。

  投壺,可下載投壺的圖片請陶瓷店製作,低廉的只需要幾十元。沒條件的,用家中現有的瓷瓶、水瓶等也可以代替。矢,兩支輪流使用即可,竹制,長度在20釐米左右,頭端裹上棉布以增強命中率。更簡單的辦法則是用筷子做矢。算,以竹籤。還可以牙籤、石子或其他器物代替。有條件時彈《鹿鳴》,無條件時可代以CD音樂。

  具體程式為:





①開始:賓主相揖後就位。

②投壺:賓主于席上依次投壺。

③釋算:計算成績。

④罰酒:勝者向敗者罰酒。

⑤復始:進行下一輪。



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