Sunday, October 30, 2011

Hwang Jin Yi  『ファン・ジニ(黄真伊)』

Hwang Jin Yi  『ファン・ジニ(黄真伊)』황진이

http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/443ac795948ec2c6ced7493033db60f7#comment-list

李能和・著「朝鮮解語花史」(1927年)なる文献によると、李氏朝鮮時代に風俗営業に就いていた女性たちは「蝎甫(カルボ)」という名で括られるそうです。蠍蝎の蝎の文字からもどのような扱いを受けていたのかが伺い知れます。この「蝎甫」は、いわゆる広義の意味であり、日本語でいうと「遊女」に該当するようで、文献では以下のように分類されています。


一牌妓生(妓女、狭義の妓生)

二牌妓生(殷勤者、隠勤子)

三牌妓生(搭仰謀利)

花娘遊女・女社堂牌・色酒家

下へ行くほど「売娼」の色合いが強くなるようです。「妓生」は等級別に、一牌、二牌、三牌と分類されています。一牌妓生が教養を持ち合わせ、宮中に出入りして上層階級の前で歌舞音曲を披露し「売唄不売淫」をモットーとしていたのに対して、二牌妓生は政丞や判書の家に出入りし、ときには夜砥までを行い、三牌妓生は専ら一般庶民を相手にした地方娼妓でした。このように同じ妓生でも一牌と三牌の実態はまったく異なっています。ただ「妓生」という言葉が一牌妓生だけを指す場合も多いため、あらぬ誤解を招いているようです。
なお、李氏朝鮮時代には通じて一牌妓生の中に医術と宴会を担当した「薬房妓生」がおかれていました。これはチャングムの時代に存在していた医女と妓生の区別がつかなくなったことを意味しています。彼女たちは、衣服や内宮関係の仕事を担当した「尚房妓生」とともに気位が高かったそうです。

韓流ブームより以前は、「妓生パーティー」メインの買春ツアー(売春ツアー)が、韓国の国策として日本観光客誘致、円貨獲得に重要な役割を果たしてきたそうですが、歌舞音曲を忘れた「妓生」はかつての一牌妓生とは程遠く、これが原因で韓国でも日本でも「妓生」とは売春と関連づけられた卑しい女性として考えるようになったらしいです。また、狭義の「蝎甫(カルボ)」という言葉は、広義の「妓生」と対比して、下位の「売春婦」を意味することも多く、このあたりがさらに話をややこしくしているようです。


絶世の美女、黄真尹は紛れもない「一牌妓生」で、両班階級の下級官吏の父と、その妾である常民の母との間に、1502年「松都」開城に生まれています。後に、あること(これについては 1986年 張美姫と安聖基が主演した映画「黄眞尹」で詳しく描かれています。輝国山人の韓国映画という尊敬すべきサイトに出ています。少しルーイス・ブニュエル的脚色が入っているのかな。黄真尹自身は、安聖基演じる男の素性を知らなかったというのが本当のようです)がきっかけとなり自ら志願して妓生の世界に入り(オンエア中の河智媛・主演のドラマとはかなり違っています)、両班階級と交わることで優れた漢詩を残して「詩聖」とまで呼ばれていました。



映画「黄眞尹」(1986年)の張美姫 面白いことに彼女は、20年後に映画で同役を演じる宋慧喬と、親子役でCMを演じているらしい。

李氏朝鮮の儒教社会における女性が、跡取りの男子を産む道具として扱われ、多くの束縛の中、家庭の外の世界との交流を禁じられたのに対して、一牌妓生黄真尹は、束縛から逃れたいわば自由人で、その自由奔放な生活から芸術性の高い詩が奇跡的に生まれたのでしょう。

彼女の漢詩

「奉別蘇判書世譲、送別蘇陽谷」が崔基鎬・著「韓国 堕落の2000年史」(凄い題名)

という本に紹介されていましたので引用してみます。

蘇世譲(陽谷は号)という判書(大臣)は、常日頃
「女色に惑わされるようでは男とはいえない」と豪語していたのですが、黄真尹と30日限定で暮らすことにしたそうです。30日目に蘇世譲が帰り支度をしていたときに、黄真尹が詠んだのがこの詩で、彼はこれを聞いて「俺は人に非ず」と嘆き、服を脱ぎ捨て、黄真尹と褥を共にしたといいます。この話を聞くと、黄真尹って二牌妓生みたいに大胆じゃん。と思えてきます。

奉別蘇判書世譲、送別蘇陽谷

月下梧桐尽
霜中野菊黄
棲高天一尺
人酔酒千觴
流水如琴冷
梅花入笛香
明朝相別後
情興碧波長


映画「黄眞尹」(1986年)

韓国ではハングル一辺倒の教育が祟り、漢字の読み書きが十分にできない(日本でいうと小学校低学年で習う漢字くらいしか知らない。大韓民国の韓の字すら書けない)人たちが殆どになっているようです。黄真尹の遺した漢詩にしても、ハングルに訳されたものを読むだけで、最初からハングルで書かれたものと誤解している人たちが多くいるようです。もはや詩の本当に意味するところを理解できないでいるのではないかと危惧します。実際、李氏朝鮮期の文学で漢文からハングルへの翻訳ではなくハングルで書かれたものは、有名な「洪吉童傳」など数えるほどしかないのです。

最近の竹島や歴史認識の問題にしても、真実を解明できるのは漢文や漢字混じりの文献になるわけですから、漢字を読めない人たちを相手に正論でいくら議論をしても、劣等感を裏返しにした感情論を呼び起こすだけで、虚しい限りです。最後は愚痴になったかも。

http://blogs.yahoo.co.jp/gekiyasu_lohas/58644216.html

燕山君は、最高学府である成均館や司諌院 サガンウオンを遊興の場にし、名刹円覚寺 ウオンガクサを廃寺にして掌楽院を改称して妓生院 キーセンインとした。さらに全国各道に伎楽制度をしき、全国から美女を集めて、女官の「採青女使 チョチョンヨサ」を送った。

「運平 ウンピョン」、「継平 ゲビョン」、「興清 フンチョン」といわれる宮中に住む官女は三百人、「平楽 ピョンラク 院」には七百人といわれた。


玉梅香 オク・メヒャン(1506-) … 朴朱美パク・チュミ

黄真伊 ファン・ジニ、妓名は明月 ミョンウォル (約1506-1544頃)

冬至の月の長々し夜を 腰のところでふたつに切って
春風の布団の下に ぐるぐると巻いておき
愛しい方がいらした夜に そろそろと広げます

女楽の行首メヒャン(梅香)
ペンム(※チニの師匠。松都ソンド教坊の行首 ヘンス)のライバル。女楽の行首。
(宮中のキーセンの長で、キーセンとしては最高位) 
かつてペンムと同じ師匠から学んでいた。常にペンムを敵対視しているが、舞に関しては自分はペンムより劣ると認めており、ペンムに一目置いている。芸の実力以外の方法で権力の座を握ったと自覚している。得意は「剣の舞」「太鼓」。ペンムには敵対的であるが、その弟子のチニの才能は買っておりチニを高く評価している。いわゆる絶対的な悪役ではなく主人公の動向によって相対的に立ち位置が変わる興味深い登場人物。

妓生の起源

妓生の起源は高麗の太祖の時代(10世紀)に、百済 ペクチェの遺民たちのなかから容貌に優れ、才能のある女性を選び、歌舞を学ばせたことだと言われています。八関会[国と王室の安泰を祈願する儀式]や燃燈会[釈迦の誕生日に火を灯して福を祈る儀式]、外国から使臣を接待する場に動員されました。
朝鮮王朝の時代になると妓生制度が発達し、英祖の時代(18世紀)に“妓生”という用語も初めて使われました。そのため、一般的に妓生といえば朝鮮王朝時代の妓生を指します。

朝鮮王朝時代の妓生は、大きく官妓と私妓に分かれ、ドラマなどに登場する名妓のほとんどは官妓です。各地方から選ばれて、宮中の音楽と舞踊を管轄する 掌楽院 に所属し、そこで妓生となるために必要な言葉遣い、立ち居振る舞い、音楽、書画などを身につけました。官妓のうち、地方の官妓を郷妓 ヒャンギと言うが、彼女たちの大半は官妓の母親の後を継いで自分も妓生になるケースが多かったようです。


妓生の等級

一牌(イルペ)

宮中で女楽として御前で歌舞を披露する一級妓生  

二牌(イペ)

官庁や官僚の家に出入りする級の低い妓生慇懃子ウングンチャ=隠君子とも言われた  

三牌(サンペ)

身を売る酒場の酌婦・搭仰謀利タバンモリ遊女=売春婦と呼ばれた  


奴婢随母法で規定された身分『妓籍』に属する女性達を指します。
妓生庁という役所で所有・管理されていました。

新任の卞使道(妓生を管理・監督する役人)が赴任した時、また『妓生案冊』(※妓生の妓籍を記録した名簿)で点呼を取るとき、源氏名とその意味と由来の詞書きが読み上げられたと有ります。

玉置宏さんや、浜村淳さんの名調子はとちょっと違いますが、


風流ですね。

宮廷女官『チャングムの誓い』でドラマとなった医女 ウィニョと宮中で衣服を仕立てる針婢 チンビも同様に宴会で妓生役を兼ねる場合があった。薬房 ヤクパン妓生、尚房 サンバン妓生と呼ばれた。
両房妓生[薬房妓生と尚房妓生を合わせた言葉]になるのは宰相になるより難しいとされ、 妓生宰相 と呼ばれた。“正三品”“従四品”などの官職を与えられる妓生もいた。

男性中心社会だった朝鮮の歴史において、女性の重要な足跡を生み出し、残した。
音楽、舞、詩、文筆にいたるまで独自の地位が認められていた。
伝統文化の継承者として芸術と文化発展に貢献した。

解語花ヘオファ は
唐の玄宗皇帝が楊貴妃を指して
「蓮の花の美しさも 言葉を理解するこの花 には及ぶことはできなかろう。」
と言ったという故事から来た歌と踊りに長け教養すぐれた一牌芸者を示す言葉。
ファン・ジニの孤高、ノンゲの愛国心、ホンナン(洪娘)として語り継がれる。

李梅窓=香今(1573-1610.37歳)
劉希慶(40代中盤)と、名妓梅窓(18歳)は1590年頃、偶然出会い、愛し合うが、劉希慶がソウルに戻り、壬辰倭乱が起きて連絡が途絶える。

梨の花が雨のように散るなか
涙に暮れ別れた人
秋風に散る落ち葉に
あの人もわたしを想うだろうか
遠く離れ孤独な夢だけがさまよう

その後、許?と会うが交際は純粋なものであった。
梅窓は37歳で没し、劉希慶は92歳と長寿であった。

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