Monday, January 30, 2012

marriage women's seventh duties or evils reason for leaving home 七去之悪

「七去之悪」とは、
第1に「舅姑」夫の父母に従わない「不順舅姑」であり、
第2に「無子」で男児を産まねば、嫁の資格を失った。
第3が「淫行」で夫以外の男性と話すのも、眺めるのも禁忌となっていた。
第4は「嫉妬」である。夫が妾を持っても嫉妬してはならなかった。
第5が「悪疾」である。重い病にかかったら、追放された。
第6が「口舌」で口論したり、他人を誹謗してはならなかった。
第7が「盗竊」で盗みであった。pilferage


http://heavysweetheaven.web.fc2.com/cyborg.html
儒教の教えで、’不幸・不妊・淫行・嫉妬・悪疾・多弁・窃盗’を<してはならない七カ条>として、嫁に行く女性へ定められたもの。


http://blogs.yahoo.co.jp/hangul_yamato/9590164.html
朝鮮の風習(妾を拾う)
最近のある時代劇(韓国ドラマ)で面白い話が出たので、今日はそれについて話させて頂きます。

朝鮮時代には「拾妾」と言う風習があったそうです。
妾を拾うって意味です。
朝鮮時代の人達は女性は男性に従属されてる者だと思っていました。
女性達の行動にも色んな制限があったので女性にはかなり不自由な時代でした。
外に出る時は顔を見せちゃ行けないとか、再婚は駄目とか。。。
また「七去之悪」と言う(妻と離縁するための七つの理由)がありました。
・旦那の親に素直に従わない事
・息子がいない事
・いやらしい事
・嫉妬をする事
・持病がある事
・良くしゃべる事
・盗む事

この「七去之悪」に一つでも当てはまったら家から追い出されて、
一生旦那がいないまま一人で生きるしかなかったのです。
けど、このような女性を助ける一つの風習がありました。「拾妾」と言う物です。
日本の神社のようなものが韓国にもありまして、
こういう女性が夜明けに神社の前に立っていたら、
その道を通る一番最初の男性にはこの女性を妾に迎える義務がありました。
男性の身分が貴族ではなくても、奴隷であっても関係なく一番最初に会った男性の妾になるのです。
これが妾を拾う「拾妾」です。

男性の義務だったんですよね~! *^0^*
しかも、夜明けだから女性の顔も良く見えないだろうし、
一応女性を家に連れて来た後、明るいところでよ~く見たらまずかったってことになったら?
それでも義務だから仕方なかったんでしょうね。^0^


http://www.geocities.jp/namu_mauru/tyousen2.htm

朝鮮王朝実録②肝っ玉の太い女達

「 韓国の雑誌 月刊朝鮮より」

여자 사관(史官) 임금이 결사반대
조선시대는 엄격한 유교사회로서 칠거지악과 유교적 신분질서로 속박을 당했지만 재기발랄하고 활달하며, 스스로의 삶을 즐기는 여성들도 상당수였다. 사대부 여자가 돈을 위조하고, 자신의 미모와 권세로 일가친족이나 애인을 출세시키는가 하면 승승장구하는 사대부 관리들을 섹스 스캔들로 파멸시키는 간 큰 여성들의 삶도 발견된다. 한편에선 국가 자존의 명분을 위해 중국으로 끌려가는 여성들도 많았다.김용삼

女史官(歴史の記録編修をする者) 王様決死の反対
朝鮮時代は厳格な儒教社会として七去之悪と儒教的身分秩序によって束縛されていたが才気溌剌、闊達で自らの生き様を楽しむ女性達もけっこう居た。士大夫の女が金を偽造し美貌と権勢によって一家眷属や愛人を出世させたかと思えば日の出の勢いの官吏達をセックススキャンダルで破滅させる肝っ玉の太い女性達の生き様も見られる。一方では国家存立の名分の下に中国へ連れて行かれた女性達も多かった。キムヨンサム記者
七去之悪とは父母に従わないこと、不妊、不貞、嫉妬、悪疾患、多弁、泥棒の七つを言い、夫が妻を一方的に離婚できる妻の罪

조선 500년은 어느 시대 못지 않게 남성 지배구조가 절정을 이룬 시기다. 남성 중심의 사회였던 만큼 여성들은 관직에 진출할 기회가 박탈됐고, 극히 일부를 제외하고는 직업인으로서 활동이 제약됐다. 그러나 조선왕조실록은 갖가지 서슬 퍼런 유교 도덕률과 가부장(家父長)적 신분질서에도 불구하고 여성들은 꿋꿋하게 자신들의 삶을 영위해 갔음을 전해주고 있다. 말하자면 속박의 굴레에도 불구하고 사회를 뒤흔든 ‘간 큰 여자‘들이 너무나 많았던 것이다. 조선의 통치 이데올로기는 유교였던 만큼 기록을 중시했다. 이러한 기록정신의 진수(眞髓)가 조선왕조실록이다. 그런데 이 시절에 사관(史官)이 접근하지 못하는 임금의 사생활을 감시, 기록하기 위해 여자 사관(女史)을 도입하려 했던 사실이 밝혀졌다. 다음은 중종 14년(1519) 4월 22일 실록.

朝鮮500年はどの時代にも劣らず男性支配構造が絶頂を迎えた時期だ。男性中心の時代だけに女性達は官職に進出する機会を奪われおり、極めて一部を占めてはいたが職業人としては活動が制約されていた。しかし、朝鮮王朝実録は各種の凄まじい儒教道徳律と家父長的身分秩序にもかかわらず女性達は怯まず自分達の生を営んで行ったことを伝えている。言うならば束縛の頚木にも拘らず社会を揺るがす「肝っ玉の太い女達」がとても多かったのだ。
朝鮮の統治イデオロギーは儒教であっただけに記録を重視した。このような記録精神の真髄が朝鮮王朝実録だ。ところでこの時代史官が近づけない王様の私生活を監視し、記録するために女史官を導入しようとした事実が明らかになった。次は中宗14年(1519年)4月22日の記録。

<김안국(金安國):“여사(女史:여자 사관)는 규문(여자가 거처하는 방) 안에서 임금의 거동과 언행을 기록하므로 외부 인사가 그 일을 알 수 있으며, 사책(史策)에 기록함으로써 후세 사람이 그것을 보고 선악을 알 수 있습니다. 우리나라에서 규문 안의 일을 자세히 알 수 없는 것은 여사(女史)가 없기 때문입니다. 신의 생각에는 여사(女史)를 두어 (임금과 왕비의) 동정과 언행을 기록하는 것이 좋다고 생각합니다.“> 이 의견에 여러 대신들은 찬성했지만 임금 입장에서는 청천병력이 아닐 수 없었다. 가뜩이나 사관의 감시 때문에 불편하던 차에 구중궁궐 깊숙한 사생활까지 여자 사관에게 감시당해야 한다는 말에 정이 떨어진 것이다. 이를 물리치는 임금의 답변이 여간 궁색하지가 않다.

金安国:
女史官は女部屋で王様の立ち居振る舞いと言行を記録するので外部の者が王様の様子をを知ることが出来るし、史記に記録するので後世の人がその記録を見て善悪を知ることが出来る。わが国に於いて女部屋の中のことを詳しく知りえないのは女史官がいないからだ。わたしの考えでは女史官を置いて王様と王妃の動静と言行を記録するのがよいと思います。
この意見に大勢の大臣達は賛成したが王様の立場からは青天の霹靂というほかは無かった。多くの史官の監視によって不便をかこって来た上に宮中の奥深くの私生活まで女史官に監視されなければならない話に気がなえたのだ。これを退けようと答える王様の困惑振りは一通りではなかった。

<“옛날에는 여자들이 글을 알았으므로 올바른 여사(女史)를 얻어서 규문 안의 일을 기록할 수 있었으나 지금은 글에 능한 여자가 적으니 사람 얻기가 어려울 것 같다.“> 이 답변에 김안국은 “밖에서는 좌우에 시종과 사관이 있으면서 안에는 여사(女史)가 없으니 통치에 큰 흠이 된다“고 했으며 이청(李淸)이란 관리도 “어찌 문자(한문)로만 기록해야 할 필요가 있겠습니까. 언문으로 기록해도 해로울 것이 없습니다“라고 발언했다.

”昔は女達が文字(漢字)を知っていたたので心根の正直な女史官を得て女部屋の中で記録することが出来たが、今は文章に秀でた女が少ないから人材を得るのが難しいと思う。”
この答弁に金安国は”外には左右に待中と史官がいるうえに、中は今まで女史官がいなかったので統治に大きな力になる”と言い、李清という官吏も”どうして漢文だけで記録する必要がありましょうか。諺文(ハングル)で記録しても害になることはありません。”との発言をした。

<임금:“여자 사관은 선악을 기록하는 것이니 마음이 올바른 여자를 얻은 뒤라야 가능하다.“ 이청:“여사(女史)와 사관은 다릅니다. 여사(女史)는 규중 안에서 임금의 일상을 기록하는 것뿐입니다.“> 결국 여자 사관 제도 도입은 임금의 강력한 반대로 좌절되고 말았다. 임금 입장에서는 천만다행이었을 것이고, 후대의 역사 연구가들에게는 매우 안타까운 일이었다. 만약 여사(女史)가 임금의 사생활을 적나라한 필치로, 그것도 한문이 아닌 한글로 기록해 놓았다면 우리의 조선왕조시대 역사 연구가 얼마나 더 풍부해졌을까.

王様:”女史官は善悪を記録するものだから心正しい女を得た後なら可能だ”
李清:”女史官と史官は違います。女史官は女部屋の中で王様の日常を記録するだけです”
結局女史官制度の導入は王様の強力な反対によって挫折した。王様の立場からはすごく良かったことだろう。後世の歴史研究家たちには非常に残念なことだった。万一女史官が王様の私生活を赤裸々な筆致でそれも漢文ではなくハングルで記録しておいたならば我国の朝鮮王朝時代の歴史研究はどれほど実り多かったであろうか。 입력날짜 : 2008-04-14 (14:33)

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