Monday, January 30, 2012

Queen Min In-Hyeon 仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)

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韓国時代劇トンイの主要登場人物として、日本でもにわかに脚光を浴びている仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후) 彼女についてまとめてみた。
仁顕王后(1667~1701)は第19代朝鮮王・粛宗(スクチョン:숙종)の継妃(ケビ:계비)として1681年に入宮した。

継妃(ケビ:계비)とは2度目以降の后という意味で、仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후:1661~1680)が粛宗の最初の妃である。

徽號(フィオ:휘호)は孝敬淑聖莊純元化懿烈貞穆仁顯王后(효경숙성장순원화의열정목인현왕후:ヒョギョンスクソンチャンスンウォンファウィヨルチョンモクイニョンワンフ)といい、これをもって仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)という。



閔維重(ミン・ユジュン:민유중)と恩城府夫人 宋氏(ウンソンプブイン ソンシ:은성부부인 송씨의)の娘。

母の宋氏はあの朱子学の大家・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)と同族であるため、父は彼の門下となった。このことからも、家系は西人(ソイン)の中心勢力であることがわかる。

本貫は驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)。 この一族は高麗時代に中国から帰化した名門で、第3代太宗(テジョン:태종)の后で第4代世宗(セジョン:세종)の母・元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후)、後世になると日本人に暗殺された明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후)や、大韓民国最後の皇帝・純宗(スンジョン:순종) の后・純明孝皇后(スンミョンヒョファンフ:순명효황후)も驪興閔氏で、歴代で4人の王妃を輩出している。



粛宗の母后の明成王后金氏(ミョンソンワンフ キムシ:명성왕후 김씨)と実家の親戚で西人の実力者・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)の推挙により中殿(チュンジョン:중전)に選ばれる。

嘉禮(カレ:가례:婚姻のこと)当初から粛宗の愛情を受けることができなかったといわれている。

また、明成王后により宮外へ追い出されていた張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)を、母后の死後ふたたび宮中へ呼び戻した粛宗は、仁顕王后(イニョンワンフ)にかまうことなくチャン・ヒビンを寵愛した。

仁顕王后(イニョンワンフ)はチャン・ヒビンを牽制するために、西人の領袖・金壽恒(キム・スハン:김수항)の家系の寧嬪金氏(ヨンビンキムシ:영빈 김씨)を後宮に入れたが徒労に終わった。



1688年、チャン・ヒビンが正2品昭儀(ソウィ:소의)へと昇進した。そして、同年10月27日、王室待望の王子昀(ユン:윤:後の景宗)を生む。

1689年(粛宗15年)1月15日、その功労により内命婦の品階で最高の嬪(ピン:빈)に冊封し「禧嬪(ヒビン:희빈)と号された。張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)の誕生である。 昀は元子に冊封された。元子定号(ウォンジャジョンホ:원자정호)

さらに1689年(粛宗15年)5月2日、仁顕王后は廃され宮外の安国洞(アングクドン:안국동)にある私邸に蟄居することとなる。その後、張氏が王妃に冊立された。

この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれた、替って南人派が権力を握ることになった。

これを己巳換局(キサファングク:기사환국)という。

Queen Min In-Hyeon (仁顕王后; 1667-1701)

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