Thursday, March 1, 2012

Great Kanto Earthquake and insubordination Koreans violence by Nezukichi

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1326.html



Children in shelter (the Great Kanto Earthquake)

time is going faster, now has been already September.
Speaking of September, the month is said  as "Naga tsuki,longer moon"in the lunar calendar.
because of named alias of it, "Yonaga tsuki,long night month ", this month is just pointed to the long night in autumn.
another named of September,"Ine kari zuki,rice harvest month, also known as the" how to call it say "Nezame tsuki, wake up month."

in this season,you might come out of tired  at once for summer heat wave .
To everyone, I would like to first wish to your health.


Well, speaking about on the day of September 1, we must not forget absolutely, the Great Kanto Earthquake.
the Great Kanto Earthquake occurred at AM 11:58 on September 1,  (1923) Taisho 12th, in Kanto region.
7.9 magnitude earthquake was just huge.



the Epicenter was 80km from the coast of northwest on Sagami Bay.
it was severed the damage to the wide range of up to eastern Shizuoka Prefecture as well as Tokyo, Chiba, and Ibaraki.
This scale of damage was the biggest disaster in Japan.

Overview of the damage that had been officially recorded was as follows.


dead or missing 142,800
injured people 103,733
displaced persons over 1.9 million
destroyed dwelling house 128,266
partially destroyed dwelling house 126,233
house destroyed by fire 447,128
(Including partial destruction destroyed after all)
others 868 units



the occurrence time in the earthquake, it was just lunch time.
because of in the cooking hour, fired multiple spanning total 136 concurrent, high winds caused by the aftermath of the typhoon which was near Noto Peninsula in this overlap, the damage had accelerated at once.

But it's funny.
in the other day of the Great East Japan Earthquake was hit on the entire East, the big tsunami devastated the towns.
moreover,the accident of Fukushima nuclear power plant superimposed on this further.
i can say it was the largest earthquake in Japanese history, the victim dead or missing, according to the summary of the Metropolitan Police, as follows.


Fukushima in 2010
15,741 people dead
4,467 missing person

even if the total, the victims are only 20,208.
in the Great Kanto Earthquake,there was 140,000 victims.
The difference in this scale of damage, what is the reason exactly.



避難所の子供達(関東大震災)

早いもので、もう9月です。
9月といえば、旧暦では「長月(ながつき)」です。
別名は「夜長月(よながつき)」といいますから、まさに秋の夜長を指しています。
他に9月といえば、「稲刈月(いねかりづき)」、「寝覚月(ねざめつき)」なんていう呼び方もあります。
猛暑だった夏の疲れが一気に出るのもこの季節です。
どうかみなさまには、ご健康第一にとお祈り申し上げます。

さて、9月1日というと、どうしても忘れてならないのが、関東大震災です。
関東大震災は、大正12(1923)年9月1日、午前11時58分に関東地方で起こりました。
マグニチュードは7.9、まさに巨大地震です。

震源地は、相模湾北西沖80km。
東京だけでなく、千葉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。
この被害規模は、日本災害史上最大ものです。

公式に記録されている被害の概況は次の通りです。

死者・行方不明者 14万2800人
負傷者   10万3733人
避難人数  190万人以上
住家全壊  12万8266戸
住家半壊  12万6233戸
住家焼失  44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他   868戸

地震の発生時刻は、ちょうどお昼どきでした。
炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに能登半島付近にいた台風の余波による強風が重なって、被害がいっきに加速したとされています。

ところがおかしいのです。
過日の東日本大震災は、東日本全域を襲い、大きな津波による被害は、街を壊滅させました。
さらに福島原発の事故がこれに重なった。
日本史上最大といっていいこの地震で、被害者となった死者、行方不明者は、警視庁のまとめによると、

死者 1万5741人
行方不明者 4467人
です。

合計しても2万208人です。
関東大震災は、14万人。
この被害規模の差は、いったい何なのでしょうか。

関東大震災で、死者行方不明者を大量に出したのは、火災によるものです。
火は、火災旋風を引き起こしながら広がり、鎮火したのは2日後の午前10時頃です。
被災地の気温は、この間、ずっと40度を超えるものだった。

東京の本所区横網町(現在の墨田区の一部)にあった本所区被服廠では、2万430坪の敷地の中で火炎流にのみこまれた人々が、この一カ所だけで3万8千人も亡くなった。
でも待ってください。
なぜ本所の被服廠に、4万人近い人が集まっていたのでしょうか。

要するに、ここに人が集まっていたのは、震災発生後の避難民たちだったのです。
つまり、本所区被服廠に集っていたのは、震災によって焼けだされた人達が、そこに4万人も避難していた。
そこに火災が襲った。
つまり、地震発生時ではなく、地震発生後、避難民が集まっていた避難所で悲劇が起きたのです。

現実には、震災そのもの、あるいは震災時の火災そのもので亡くなったり行方不明になった人は、数千名から1万名程度だったろうと言われています。
14万人の死者、行方不明者のうち、なんと13万人は、震災後に亡くなられているのです。

当時の新聞を見てみましょう。

「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)

「朝鮮人、各所暴動検束数千名」
(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)

「朝鮮人、横浜~王子放火」
(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)

「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)

「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
(新愛知 大正12年9月4日号外)

「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
(名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)

「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)

「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
(小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)

「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
(九州日報 大正12年9月4日号外第三)

「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」
(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)

関東の地震なのに、報道は地方のものばかり、とお気付きになられる方もおいでのことと思います。

大正時代のことです。
当時、新聞社は、東京に一局集中していました。
この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷をしています。
東京にあった新聞社は、ことごとくこの活版印刷のための活字ケースが地震発生によって倒れ、活字が散乱し、印刷機能が停止してしまったのです。

さらに大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社がすべて焼失した。
最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで、首都における新聞報道は完全に麻痺してしまっていたのです。

このため、地方新聞の支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある自社新聞印刷所に連絡し、これが各地での号外となったわけです。

号外記事の見出しを見ると、震災後の混乱の中で、在日朝鮮人たちが屋根から屋根へ放火したり、略奪、暴行、婦人凌辱等、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
さらに在日朝鮮人たちは、爆弾まで使って放火、略奪を繰り返し、あげく、軍隊によって鎮圧された、とある。

そして当時の政府は、公式発表として「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください」というステートメントを通達として出しています。

また、大阪毎日新聞では「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」するだけでなく、「不逞ではない朝鮮人」保護のため、警視庁が「取締りは完全に遂行せよ」と急告通達を出している。

警察には、繰り返し、多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。
一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えました。

政府は「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らを各所に収容を指示します。
警察では、警視総監の赤池濃氏が、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。

戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「朝鮮人の中の不逞の挙について、放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」

本来、震災の直後にあっては、互いに助け合って、被災者の救助にあたったり、火災の延焼を防ぐため、みんなで力を合わせたり、あるいは怪我人を介抱し、生き残った老人、婦女、子供たちの安全を図り、みんなで協力して食料の確保や情報ルートの確保しなければなりません。

生き残った日本人が、そうして互いに助け合おうとしているのを、朝鮮人達は助け合うどころか、逆に暴徒と化して日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦したのです。

被災地の多くの日本人は、暴徒と化した朝鮮人を恐れました。
だから若者たちを中心に、自然発生的な自警団も生まれた。
街の安全を確保するために、各所に自警団が関所を設けたりもしています。

その関所では、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払いました。

なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者が、こうして追い払われたというケースもありました。
不幸な出来事だと思います。

一般的にみて、自警団が設けた関所では、ガギグゲゴの発音ができない者は、「ここを通るな!」とやったろうし、集団でそこを強行突破しようとする者があれば、当然、そこでもみ合いの喧嘩が起こったということは容易に想像がつきます。
日頃おとなしい日本人が、そこまで追いつめられていたということです。
当然、そこまで追いつめられたのには、理由があった、ということです。

横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。
これを知った地元の自警団約1000人が、朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきます。
それまでに彼らの身内等がひどい目に遭わされていたのです。

署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と自警団の者たちを追い返しています。

さらに大川所長は、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したりもしました。
こうして署長は、朝鮮人たちを守っています。

日頃、おとなしく従順な日本人が、1000人も集まって警察に団交に行ったという事実は、注目に値します。
決して全ての朝鮮人が、というわけではないでしょうが、一部の朝鮮人たちが日本人の家屋や商店、婦女子を襲い、地元の日本人たちが相当に腹を立てていたという事実が、ここに象徴されている、ということです。

軍隊も同様に、多くの朝鮮人を保護しました。

また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。

注意しなければならないのは、先に暴虐の限りを尽くして暴れ回ったのは、朝鮮人たちだった、ということです。

大正12年からはるかに時代が下って、関東大震災からやがて30年が経ち、ひとびとの記憶から朝鮮人の暴行の記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。

この関東大震災における朝鮮人暴徒事件に関して、ふたたび問題が再燃します。
関東大震災のとき、朝鮮人達がいわれなく6000人殺された、というのです。

戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。
そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に来日した。

そこへ、戦前逮捕されていた共産主義者たちが牢屋から出てきて、日本人が関東大震災時に、朝鮮人6000人を殺害したと、いい加減なデマを流しはじめたのです。
6000人という数字は、いきなり降ってわいた数字です。
何の根拠もありません。
それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、どれだけの日本人が殺害されたのかを、まず知るべきです。

一説によれば、関東大震災は、震災そのものによる死亡者よりも、その後の人災によるものが20倍の被害を発生させているといいます。
その20倍というものが、彼ら朝鮮人によるものだというのなら、朝鮮人による日本人被害者は、13万人ということになります。

冒頭に、関東大震災の死者、行方不明14万人と書きました。
けれど、震災による直接の被害者は、おそらく数千名であったろうと言われています。

要するに13万人を超える死者、行方不明者は、震災の二次災害によって亡くなられた。
その二次災害というのは、火災、略奪、暴行、強盗、強姦、殺人です。

朝鮮人たちは、自分たちこそが被害者であると言います。
日本人は、差別主義の悪逆非道者であるというわけです。

けれど事実は、大震災の発生を奇貨として、不逞朝鮮人達が無抵抗の日本人を相手に、略奪、暴行、強姦、殺人の限りを尽くし、甚大な被害を発生させたというのが、関東大震災の被害です。

これに対する対抗措置として、自然発生的に街の自警団ができあがり、暴徒と化した朝鮮人達から普通の市民を守ろうとしたわけです。

要するに、朝鮮人達が、ふつうに、被災した日本人とともに、互いに助け合い、被災者の救助や街の復興に普通に協力していれば、そもそも何の問題も発生していなかったし、死者、行方不明者もわずか数千名で済んだ筈だったのです。

現に、朝鮮人以外の外国人に関しては、まったくこうした暴徒問題は発生していない。
たとえば当時、首都圏には多くの台湾人がいたけれど、台湾人が震災の際に暴徒と化したなどという話は、ただの1件も発生していません。

にも関わらず、自分たちの不逞行為は棚にあげ、あたかも朝鮮人こそ一方的な被害者であると言い出し、それも、事件の記憶が薄れ、実体験した人たちがだいぶ減ってきた昭和28年ごろ・・・事件から30年も経ってから、なんの根拠もなく6000人が「殺された」と主張しているのが在日朝鮮人たちです。

非常に卑しい行為です。
見下げ果てた行為というのは、このことをいいます。

おもしろいもので、人間というもんは、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、得意なパターンの行動をとるものです。
小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口をとる。
喧嘩になったとき、大声を出す人は、必ず大声を出して怒鳴るし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出します。
泣き出す人は先に泣くし、必死に説得しようとする人は、まずしゃべる。

同様に民族的にも、極限状態に置かれた民族は、たとえばドイツ人は激しく自己主張します。
ロシア人は、大量殺戮する。暴飲、強姦をします。
支那人は、集団となると悪趣味な残虐行為を働く。
朝鮮人は、火病を起こして暴徒と化し、集団で女性が死ぬまで強姦し、死んだ後は屍姦する。

日本人はというと、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
旧日本軍の軍人さんたちがそうでした。
近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンでした。

むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりする。
それが日本人です。
教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがない。

こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでなく、当然、個体差(個人による行動パターンの違い)はあります。

朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達はいた。そうした人たちは、日本の警察や軍隊が、当時、しっかりと保護しています。全部が全部ではない。

日本人にも、おかしな奴はいる。しっかりした人もいる。
けれど、それでもなお、民族的傾向性というものは、厳然として存在する。
そしてその「傾向性」は、時を超えて、なお繰り返すのです。

いま、在日朝鮮人たちは、「自分たちは差別されてきた」といいます。
しかし彼らに対して私たち日本人が行ってきたのは、「差別」などでは決してありません。
彼らがしてきた行為から、私たちの父祖たちは彼らを「警戒」してきたのです。

ここまで書いてしまったので、あと2つ、お話しを続けます。
大東亜戦争中の話です。
日本軍は、支那事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。

支那事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。
その頃の話です。

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「鍼灸医の体験した日本軍の香港占領」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年

九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。

彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。

当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。
最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。
ところがある日、突然5~6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。
日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。
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要するにこれが事実です。

時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。
このときも彼らは同じことを繰り返しています。

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「私の村は地獄になった」
ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。
彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。
近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。
残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。
トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。

トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。

67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。
韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。
チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。
「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。

67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。
大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。
チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
~~~~~~~~

過去の歴史を虚心に振り返ったとき、明らかな事実として、また現代を生きる私たちへの重要な教訓を教えてくれます。
つまり、歴史は繰り返す・・・からです。
関東大震災では、在日朝鮮人が多くの問題をひき起しました。
それでも気をつけなければならないのは、それは「在日朝鮮人」に限ったことではなく、大陸系の人種に共通の特徴でもある、ということです。

日本人の日本人的価値観やDNAは、あくまで世界の60分の1のものでしかない。
世界は、日本とは異なるのです。

そしてもうひとつ。
関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日朝鮮人」です。
そうでない朝鮮人もたくさんいた、というのことも忘れてはなりません。

終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをした朝鮮人もいました。
その一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くの朝鮮人もいたのです。
だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができた。

現代においても、在日朝鮮人が日本国内で悪いことをする人もいます。
その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている多くの在日朝鮮人もいます。

人はみんな裸で生まれ、死ねば仏様、罪を憎んで人を憎まず、差別をせず、誰に対しても親切する、というのは、日本人の日本人的美徳です。
そうした美徳を、備え持った、あるいは日本人以上に一生懸命に学び、誠実に生きようとする人もいる。

終戦直後、日本がまだ貧しかった頃、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。

このとき戦った金錫源将軍は、日本の陸士を卒業し、並の日本人以上に勇敢に戦った。

一方、多くの朝鮮人が済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。
裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきた朝鮮人たちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。

そういう正しい歴史を、相互に学ぶことこそが、私は両国民にとって、もっとも必要なことなのではないかと思っています。

대피소의 어린이들 (관동 대지진)

빠른 것으로, 이미 9월입니다.
9월이라고 하면, 음력에서는 「9월달(な이 붙어)」입니다.
별명은 「긴 밤월 (화산암이 붙어)」이라고 할 테니까, 정말로 가을의 긴긴밤을 가리키고 있습니다.
이외에 9월이라고 하면, 「벼베기월 (벼베기づ 와)」, 「잠에서 깨어남 월 (자 ざ눈초리)」따위 말하는 부르는 법도 있습니다.
맹서이었던 여름의 피로가 단숨에 나오는 것도 이 계절입니다.
아무쪼록 여러분에게는, 만수무강 첫째로 기도 드리옵니다.

그런데, 9월1일이라고 하면, 무슨 일이 있어도 잊어서 안되는 것이, 관동 대지진입니다.
관동 대지진은, 다이쇼(大正)12(1923)년 9월1일, 오전 11시58분에 관동(關東)지구에서 일어났습니다.
매그니튜드(magnitude)는 7.9, 정말로 거대지진입니다.

진원지는, 사가미만(相模灣) 북니시오키(西沖) 80km.
도쿄(東京)뿐만 아니라, 지바(千葉), 이바라기(茨城)에서 시즈오카현(靜岡縣) 동부까지의 넓은 범위에 막대한 피해를 초래했습니다.
이 피해규모는, 일본 재해 역사상 최대 물건입니다.

공식적으로 기록되고 있는 피해의 개황은 다음과 같습니다.

사망자·행방불명자 14만2800명 부상자 10만3733명 피난 인원수 190만명이상 주택전괴 12만8266호 주택반괴 12만6233호 주택소실 44만7128호 (전반괴후의 소실을 포함한다) 기타 868호

지진의 발생 시각은, (꼭)정확히 점심 비켰습니다.
취사의 시간대이었던 것부터, 합계136건에 달하는 복수의 화재가 동시발생하고, 이것에 노토반도(能登半島) 부근에 있었던 태풍의 여파에 의한 강풍이 쌓이고, 피해가 있어 오러 가속화되었다로 여겨지고 있습니다.

그런데 이상합니다.
전일의 동일본 대지진 재해는, 동일본전역을 습격하고, 큰 해일에 의한 피해는, 거리를 괴멸시켰습니다.
더욱 후쿠시마(福島) 원전의 사고가 이것에 겹쳤다.
일본사상 최대라고 해도 좋은 이 지진으로, 피해자가 된 사망자, 행방불명자는, 경시청의 정리에 의하면,

사망자 1만5741명 행방불명자 4467명입니다.

합계해도 2만208명입니다.
관동 대지진은, 14만명.
이 피해규모의 차이는, 도대체(일체) 무엇입니까?

관동 대지진으로, 사망자행방불명자를 대량으로 낸 것은, 화재에 의한 것입니다.
불은, 화재선풍을 야기하면서 넓어지고, 진화한 것은 2일후의 오전 10시경입니다.
피해지역의 기온은, 요사이, 쭉 40도를 넘는 것이었다.

도쿄(東京)의 혼조(本所)구 요코아미(橫網)정 (현재의 스미다쿠(墨田區)의 일부)에 있었던 혼조(本所)구 피복廠에서는, 2만430평의 부지 안(속)에서 화염류에 삼켜진 사람들이, 이 1군데것만으로 3만8000명도 돌아가셨다.
그러나 기다려 주십시오.
왜 혼조(本所)의 피복廠에, 4만명 가까운 사람이 모이고 있었습니까?

요컨대, 여기로 사람이 모이고 있었던 것은, 지진 재해 발생후의 피난민들이었던 것입니다.
즉, 혼조(本所)구 피복廠에 모이고 있었던 것은, 지진 재해에 의해 질투해 내진 사람들이, 거기에 4만명도 피난하고 있었다.
거기에 화재가 습격했다.
즉, 지진발생시가 아니고, 지진발생후, 피난민이 모이고 있었던 대피소로 비극이 일어난 것입니다.

현실에는, 지진 재해 바로 그것,혹은 지진 재해 때의 화재 바로 그것에서 돌아가시거나 행방불명이어진 사람은, 몇천명으로부터 1만명정도이었을 것이다라고 말해지고 있습니다.
14만명의 사망자, 행방불명자 가운데, 어떻게 13만명은, 지진 재해후에 돌아가셔지고 있는 것입니다.

당시의 신문을 보아 봅시다.

「조선인, 대를 해서 석유·폭탄쓰기 방화」 (오타루(小樽)신문 다이쇼(大正)12년9월3일 호외제1)

「조선인, 각처폭동검속 몇천명」 (오타루(小樽)신문 다이쇼(大正)12년9월3일 호외제3)

「조선인, 요코하마(橫浜)∼왕자방화」 (오사카(大阪) 아사히신문 다이쇼(大正)12년9월3일 호외)

「조선인, 폭탄·방화·왕자 요코하마(橫浜)에서 군대와 충돌」 (쇼나이(莊內)신보 다이쇼(大正)12년9월3일 호외 제18보)

「조선인, 지붕으로부터 지붕에 방화 부인능욕 약탈」 (새아이치(愛知) 다이쇼(大正)12년9월4일 호외)

「조선인 우라와(浦和) 다카사키(高崎)에게 방화 검거 폭탄소지해 단지 얼음고개열차폭파 자백」 (나고야(名古屋)신문 다이쇼(大正)12년9월4일 호외제2)

「조선인, 살인학살 흉악인척 해 진행중의 열차에 폭탄 내던진다」 (후쿠오카(福岡) 일일신문(日日新聞) 다이쇼(大正)12년9월4일 호외)

「조선인, 폭탄·약탈·아키라(鮮)인·총살」 (오타루(小樽)신문 다이쇼(大正)12년9월4일 호외제1)

「조선인 포박 폭탄그것의 타압수. 군대가 치안유지에 출동했기 때문, 불령 아키라(鮮)인은 폭탄을 휴대하면서 각지방(各地方)에 도주, 진압 진정화에」 (규슈(九州) 일보 다이쇼(大正)12년9월4일 호외제3)

「조선인 폭동은 완전단속을 수행」 (오사카(大阪) 마이니찌신문(每日新聞) 다이쇼(大正)12년9월4일 호외제2)

간토(關東)의 지진인데도, 보도는 지방의 물건만,과 알아차리러 될 수 있는 분도 오시는 것이라고 생각합니다.

다이쇼(大正) 시대입니다.
당시, 신문사는, 도쿄(東京)에 일국집중하고 있었습니다.
요즈음의 신문은, 활판인쇄라고 하고, 한 문자씩 문자를 수작업으로 주워서 모두 신문지의 인쇄를 하고 있습니다.
도쿄(東京)에 있었던 신문사는, 모조리 이 활판인쇄를 위한 활자 케이스가 지진발생에 의해 무너져, 활자가 산란하고, 인쇄 기능이 정지해버린 것입니다.

더욱 큰 불에 의해 도쿄(東京) 일일신문(日日新聞)·보고신문·수도신문을 제외하는 13사가 모두 소실했다.
가장 빨리 복구한 도쿄(東京) 일일신문(日日新聞)이 9월 5일자 석간(夕刊)을 발행할 때까지, 수도에 있어서의 신문보도는 완전히 마비되어버리고 있었던 것입니다.

이것 때문에, 지방신문의 지국원이, 관동 대지진의 모양을 취재하고, 그것을 지방에 있는 자사신문 인쇄소에 연락하고, 이것이 각지에서의 호외가 된 셈입니다.

호외기사의 표제를 보면, 지진 재해후의 혼란 안(속)에서, 재일 조선인들이 지붕으로부터 지붕에 방화하거나, 약탈, 폭행, 부인능욕 등, 나쁨의 한(한계)를 다하고 있었던 것을 압니다.
더욱 재일 조선인들은, 폭탄까지 사용해서 방화, 약탈을 되풀이하고, 끝에, 군대에 의해 진압된,이라고 있다.

그리고 당시의 정부는, 공식발표로서 「괘씸한 조선인에 대해서는, 삼삼오오 군을 해서 방화를 수행,또 미수의 사실이 있지만, 이미 군대의 경비가 완성에 근접하고 있으므로, 국민의 여러분은, 두려워하지 말아 주십시오」라고 하는 스테이트먼트(statement)를 통달로서 내고 있습니다.

또, 오사카(大阪) 마이니찌신문(每日新聞)에서는 「경시청, 불령 아키라(鮮)인 폭동을 침정화」할뿐만 아니라, 「괘씸하지 않은 조선인」보호 때문에, 경시청이 「단속은 완전히 수행해라」라고 급히 알림 통달을 내고 있다.

경찰에는, 되풀이하고, 다수의 불령 조선인에 의한 사건통보가 들어갔습니다.
한편, 불령재일 조선인들에 의해 집안을 죽음을 당하고, 집을 구워져, 재물을 빼앗겨, 아녀자를 강간당한 많은 일본인들은, 청년단을 중심으로 자경단을 편성하고, 조선인들의 폭행에 대비했습니다.

정부는 「불령 아키라(鮮)인이 아닌 아키라(鮮)인」의 보호를 내각회의결정하고, 그들을 각처에 수용을 지시합니다.
경찰에서는, 경시총감의 아카이케(赤池)濃씨가, 「경찰뿐만 아니라 국가의 전력을 행동て, 치안을 유지」하기 위해서, 내무각료·미즈노(水野) 렌타로(鍊太郎)에게 「계엄령의 발포를 진언」했다.

계엄령이라고 하는 것은, 일절의 법의 집행을 정지하고, 모두를 「군의 관제 아래로 둔다」라고 하는 것입니다.
이것을 받아서 내무성警다모쓰(保) 국장 고토(後藤) 후미오(文夫)가, 각지방장관을 향해서 이하의 내용의 경보를 타전하고 있습니다.

「도쿄(東京) 부근의 지진 재해를 이용하고, 조선인은 각지에 방화하고, 괘씸한 목적을 수행하지 않는다고 해서 실제로 도쿄(東京) 시내에 있어서 폭탄을 소지하고, 석유를 쏟아 て방화하는 물건 있어.
이미 도쿄(東京) 부하(府下)에는 일부계엄령을 시행해된이 때문에, 각지에 있어서 충분히 주밀한 시찰을 가하고, 조선인의 행동에 대하여는 엄밀한 단속을 더하여지고」

더욱 경시청에서도 계엄사령부앞에 「조선인 안(속)이 괘씸한 행동에 대해서, 방화기타 흉포한 행위에 나오는 사람 개미て, 실제로 요도(淀) 다리·오쓰카(大塚) 등에 있어서 검거해된에 적합한 것 있어.
이 기회 이것들 조선인에게 대한 단속을 엄하게 해서 경계상 오산무 오기를 기해지고」

원래, 지진 재해의 직후 어울려서는, 서로 서로 돕고, 피재자의 구조를 맡거나, 화재의 연소를 막기 위해서, 전부(함께) 손을 잡거나,혹은 부상자를 복대하고, 살아 남은 노인, 부녀, 어린이들의 안전을 도모하고, 전부(함께) 협력해서 식료의 확보나 정보 루트의 확보하지 않으면 안됩니다.

살아 남은 일본인이, 그렇게 해서 서로 서로 도우려고 하고 있는 것을, 조선 사람들은 서로 돕는다기는 커녕, 반대로 폭도와 화해서 일본인을 습격하고, 식료를 빼앗고, 폭행을 하고,혹은 살인을 하고, 부녀를 강간한 것입니다.

피해지역의 많은 일본인은, 폭도와 화한 조선인을 두려워했습니다.
그러므로 젊은이들을 중심으로, 자연 발생적인 자경단도 태어났다.
거리의 안전을 확보하기 위해서, 각처에 자경단이 관문을 마련하거나도 하고 있습니다.

그 관문에서는, 조선어에서는 어두에 탁음이 오지 않은 것부터, 길을 가는 사람에게 「15엔50전」이나 「【가기구게고】」등을 말하게 하고, 잘 말할 수 없으면 조선인으로서 쫓아버렸습니다.

안에는 방언을 이야기하는 지방출신의 일본 내지인이나 농아인이, 이렇게 해서 쫓아버려졌다라고 하는 케이스도 있었습니다.
불행한 사건이라고 생각합니다.

일반적이어 보아서, 자경단이 마련한 관문에서는, 【가기구게고】의 발음을 할 수 없는 사람은, 「여기를 통하지 마라! 」이라고 하고, 집단으로 거기를 강행 돌파하자로 하는 사람이 있으면, 당연, 거기에서 비벼대기의 싸움이 일어났다고 하는 것은 용이하게 짐작이 갑니다.
평소 얌전한 일본인이, 거기까지 추궁 당하고 있었다라고 하는 것은 한다.
당연, 거기까지 추궁 당한것에는, 이유가 있었던,라고 하는 것은 한다.

요코하마(橫浜)의 쓰루미(鶴見) 경찰에서는, 서장의 오카와(大川) 쓰네요시(常吉)씨가, 조선인 약300명을 보호했습니다.
이것을 안 그 고장의 자경단 약1000명이, 조선인들을 내밀 수 있고,와 경찰에 옵니다.
그때까지 그들의 집안등이 봉변을 당하게 하고 있었던 것입니다.

서장의 오카와(大川)씨는, 「조선인을 제군(여러분)에게는 절대로 건네지 않는다. 이 오카와(大川)를 죽이고나서 데리고 가라.
그 대신 제군(여러분)들과 목숨이 계속되는 한 싸운다」라고 자경단인들을 물리치고 있습니다.

더욱 오카와(大川) 소장은, 「독을 넣었다고 하는 우물물을 가지고 와라. 그 우물물을 마셔 보이자」라고 말해서 1말 병의 물을 다 마시거나도 했습니다.
이렇게 해서 서장은, 조선인들을 지키고 있습니다.

평소, 점잖게 고분고분한 일본인이, 1000명도 모여서 경찰에 단체 교섭에 갔다고 하는 사실은, 주목할 가치가 있습니다.
결코 모든 조선인이,라고 하는 것은 아니지요지만, 일부의 조선인들이 일본인의 가옥이나 상점, 부녀자를 습격하고, 그 고장의 일본인들이 상당히 화를 내고 있었다라고 하는 사실이, 여기에 상징되고 있는,라고 하는 것은 한다.

군대도 동일하게, 많은 조선인을 보호했습니다.

또 경찰은, 조선인·중국인등을 습격한 일본인을 체포하고 있습니다.
살인·살인 미수·상해 치사·상해의 4개의 죄명으로 기소당한 일본인은 362명에 미쳤다.

주의하지 않으면 안되는 것은, 먼저 포학의 한(한계)를 다해서 마구 날뛴 것은, 조선인들이었던,라고 하는 것은 한다.

다이쇼(大正)12년에서 훨씬 시대가 떨어지고, 관동 대지진으로부터 드디어 30년이 지나고, 사람들의 기억으로부터 조선인의 폭행의 기억이 희미해지기 시작한 쇼와(昭和)28년입니다.

이 관동 대지진에 있어서의 조선인 폭도사건에 관해서, 다시 문제가 재연합니다.
관동 대지진의 때, 조선 사람들이 말하여지지 않게 6000명 죽음을 당한,이라고 하는 것입니다.

전후, 일본에 있었던 조선 사람들은, GHQ에 의해 준전상 민족의 지위를 주어졌습니다.
그리고 조선 전쟁의 발발에 의해, 대량의 조선 사람들이 일본에 방일했다.

거기에, 전전 체포되고 있었던 공산주의자들이 감옥에서 나오고, 일본인이 관동 대지진 때에, 조선인 6000명을 살해했다고, 적당한 헛소문을 흘려보내기 시작한 것입니다.
6000명이라고 하는 숫자는, 갑작스럽게 내려서 끓은 숫자입니다.
아무런 근거도 없습니다.
그것을 말한다면, 그들 조선인에 의해, 얼마나의 일본인이 살해된 것일지를, 우선 알아야 합니다.

일설에 의하면, 관동 대지진은, 지진 재해 바로 그것에 의한 사망자보다도, 그 후의 인재에 의한 것이 20배의 피해를 발생시키고 있다라고 합니다.
그 20배라고 하는 것이, 그들 조선인에 의한 것이라고 말하는 것이라면, 조선인에 의한 일본인피해자는, 13만명이라고 하게 됩니다.

머리말에, 관동 대지진의 사망자, 행방불명 14만명과 썼습니다.
그렇지만, 지진 재해에 의한 직접의 피해자는, 아마 몇천명이었을 것이다라고 말해지고 있습니다.

요컨대 13만명을 뛰어넘는 사망자, 행방불명자는, 지진 재해의 이차재해에 의해 돌아가셔졌다.
그 이차재해라고 하는 것은, 화재, 약탈, 폭행, 강도, 강간, 살인입니다.

조선인들은, 자기들이야말로가 피해자다라고 말합니다.
일본인은, 차별 주의의 도리에 어긋난 행동 비도자인 라고 하는 것입니다.

그렇지만 사실은, 대지진 재해의 발생을 기화로서, 불령 조선 사람들이 무저항한 일본인을 상대에게, 약탈, 폭행, 강간, 살인의 한(한계)를 다하고, 막대한 피해를 발생시켰다라고 하는 것이, 관동 대지진의 피해입니다.

이것에 대한 대항조치로서, 자연 발생적으로가의 자경단이 완성되고, 폭도와 화한 조선 사람들에게서 보통인 시민을 지키자로 한 셈입니다.

요컨대, 조선 사람들이, 보통으로, 피재한 일본인과 함께, 서로 서로 돕기, 피재자의 구조나 거리의 부흥에 보통으로 협력하고 있으면, 도대체 아무런 문제도 발생하지 않고 있고, 사망자, 행방불명자도 불과 몇천명으로 끝난 할 리(터)이었던 것입니다.

실제로, 조선인이외의 외국인에 관해서는, 완전히 이러한 폭도문제는 발생하지 않고 있다.
예를 들면 당시, 수도권에는 많은 대만인이 있었지만, 대만인이 지진 재해의 즈음에 폭도와 화한등이라고 하는 이야기는, 단순히 1건도 발생하지 않았습니다.

에도 관계 없이, 자기들의 불령행위는 덮어 놓고, 마치 조선인이야말로 일방적인 피해자다라고 말하기 시작해, 그것도, 사건의 기억이 희미해지고, 실체험한 사람들이 대단히 줄어든 쇼와(昭和)28년경… 사건으로 30년이나 경과하고나서, 아무런 근거도 없고 6000명이 「죽음을 당했다」라고 주장하고 있는 것이 재일 조선인들입니다.

대단히 천한 행위입니다.
멸시해 끝난 행위라고 하는 것은, 이 것을 말합니다.

재미있는 것으로, 인간이라고 하는 것은, 가혹한 극한상태에 두어졌을 때, 각각의 본성이라고 할 것인가, 가장 자신있는 패턴의 행동을 취하는 것입니다.
작은 예에서는, 예를 들면 동일인의 도둑은, 반드시 매회 같은 수법을 채용한다.
싸움이 되었을 때, 큰 소리를 내는 사람은, 반드시 큰 소리를 내서 소리치고, 다물어서 손을 대는 사람은, 역시 매회 상품도 명백한에 손을 댑니다.
울기 시작하는 사람은 먼저 울고, 필사적으로 설득하자로 하는 사람은, 우선 말한다.

동일하게 민족적으로도, 극한상태에 두어진 민족은, 예를 들면 독일인은 격렬하게 자기주장합니다.
러시아인은, 대량살륙한다. 폭음, 강간을 합니다.
시나(支那)인은, 집단이 되면 악취민 잔학행위를 한다.
조선인은, 불병을 일으켜서 폭도와 화하고, 집단으로 여성이 죽을 때까지 강간하고, 죽은 뒤에는 시체 범한다.

일본인이라고 하면, 가혹한 상황이 되면 정말(과연), 자기 몸을 희생시켜라도, 주위를 구출하자로 합니다.
구일본군의 군인들이 그랬습니다.
가까운 시일내에는 동일본 대지진 재해나, 한신 대지진, 니가타(新潟) 지진등에서도, 같은 행동 패턴이었습니다.

오히려 자신보다 주변의 사람을 도우려고 해서, 많은 사람이 목숨을 잃거나 한다.
그것이 일본인입니다.
교육이라든가 그러한 차원의 문제가 아니고, 이것은 민족적DNA의 활동(기능)인,과밖에 말하는 방법이 없다.

이러한 경향은, 모든 00명에게 맞는 라고 하는 것이지 않고, 당연, 개체차이(개인에 의한 행동 패턴의 차이)은 있습니다.

조선인이라도, 훌륭한 사람은 많이 있고, 실제로 관동 대지진의 즈음에서도, 괘씸하지 않은 조선 사람들은 있었다. 그러한 사람들은, 일본의 경찰이나 군대가, 당시, 확실히 보호하고 있습니다. 전부가 전부는 없다.

일본인에게도, 우스운 놈은 있다. 확고하게 사람도 있다.
그렇지만, 그래도 여전히, 민족적 경향성이라고 하는 것은, 엄연하게 존재한다.
그리고 그 「경향성」은, 때를 넘고, 한편 반복하는 것입니다.

지금, 재일 조선인들은, 「자기들은 차별되어 왔다」라고 합니다.
그러나 그들에 대하여 우리들 일본인이 다녀 온 것은, 「차별」등에서는 결정해없습니다.
그들이 해 온 행위로부터, 우리들의 부조들은 그들을 「경계」해 온 것입니다.

여기까지 써버렸으므로, 나중 2개, 이야기(말씀)을 계속합니다.
대동아전쟁중의 이야기입니다.
일본군은, 시나(支那) 사변이 시작되는 이전부터, 군속으로서 많은 조선인을 고용하고 있었습니다.

시나(支那) 사변발발후에서는, 조선인에게도 지원 제도가 깔아져, 조선인이 정규병으로서 일본군에 참가했다.
그 시기의 이야기입니다.

∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼ 「침구의사의 체험한 일본군의 홍콩 점령」저자 사(謝) 히사시(永) 고(光) 번역 모리(森) 미키오(幹夫) 사회평론사 1993년

구룡(九龍)이 점령된 다음날 아침, 농부의 모습에 변장한 두사람의 여성이, 유명한 작가侶린(倫)(원명 이(李) 하야시(林)풍)의 집 문을 쳤다.
두건을 벗으면, 정 돌 산(다이아몬드·거머리)의 모영화제작소에 피난하고 있었던 여배우인 것을 알았다.

그녀들은 공포에 경련을 일으킨 표정으로, 일본군의 마부에게 폭행된 어젯밤의 사건을 털어놓았다.

당시의 정 돌 산은 아직 일면의 거칠음산에서, 미완성인 영화제작소가 있는 것 뿐이었다. 제작소의 경영자는 피난해 온 그의 회사의 관할 아래의 직원이나 배우를 몰래 숨겨 두고 있었다.
최초의 몇일간은 평온무사로, 「스메라기(皇)군」의 모습은 완전히 보여지지 않았다.
그런데 어느 날, 돌연 5∼6명의 「짐승병」이 나타나고, 마작을 하고 있었던 4명의 여배우를 윤간했다고 한다.
전술의 여배우는 일본군의 마부에게 폭행되었지만, 이 마부와는 아마 조선인이 틀림 없었다.
당시 조선은 망국의 운명을 더듬어 가고, 대만도 일본의 식민지이었다.
일본은 병력부족 때문에, 대량의 조선인이나 대만인이 전장에 동원되고 있었다.
홍콩 점령 기간 동안, 많은 조선인이 일본의 군복을 입고 있었지만, 일반의 일본인보다도 키가 크고, 일본의 정규군보다도 더욱 흉포했다.
이 때 민가에 난입해서 부녀폭행을 한 것은, 대부분 일본인의 앞잡이(손끝)이 되어서 나쁜 짓을 하고 있었던 조선인이었다.
당시 홍콩 주민은 일본군에 마주하는 것 보다도 더욱 심한 증오의 생각을 그들에게 품었다.
일본군이 점령 아래로 있었던 홍콩에서는, 아편 판매나 매춘 시장은 조선인들이 책임지고 관리하고 있었다.
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼

요컨대 이것이 사실입니다.

시대가 쭉 지나고, 쇼와(昭和)40(1965)년부터 조선인이 참전한 베트남전쟁에서의 사건입니다.
이 때도 그들은 같은 것을 되풀이하고 있습니다.

∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼ 「나의 마을은 지옥이 되었다」 뉴스위크 일본판 2000년4월12일호

한국군이 베트남에서 간 잔학행위의 피해자들이 진실을 이야기하기 시작한 【론】·모로(방콕 지국장)

한국군이 베트남에 파병되고 있었던 것은 1965∼73년.
역사의 쉬쉬해 버려 떠나지고 있었던 학살의 사실에 다시 빛이 지명당한 것은, 용기 있는 한국인연구자, 도구 슈(秀) 존(【구】·【스죤】)이 간 조사의 덕분이다.
그녀는 한국군에 의한 대량 학살의 상세를 기록한 베트남 정부의 문서를 발견했다.
생존자의 증언에 의하면, 학살은 이유 없는 무차별살인이며, 대부분은 베트콩(Viet Cong)과의 전투가 행하여지지 않고 있는 시기의 사건이었다.
【구엔】·훈·【도아이】(46)도 【빈스안】촌의 학살과 같을 때, 【안린】군이 다른 마을에서 아슬아슬하게 죽음을 당하기 시작했다.
당시 13세이었던 【도아이】는, 한국군이 집에 가까이 오는 것을 보아서 곧 도망쳤다.
가까운 밭에 숨어 보고 있으면, 한국병은 마을의 집에 차례로 불을 붙이고, 어머니와 조부모, 남동생과 여동생,그리고 근처의 사람들에게 폭행을 더했다고 말한다.
한국군은, 【도아이】의 가족을 포함하는 11명 정도의 마을사람에게 총검을 들이대고, 방공호에 몰아넣었다.
나머지의 12명 정도는, 구멍의 밖에 서게 했다.
다음 순간, 아무런 전조도 없고 총성이 울려 퍼지고, 수류탄의 폭박음이 공기를 잡아 찢었다.
【도아이】는 눈 깜짝할 사이에 머리를 숨겼다.
초연이 사라졌을 때, 이미 한국군의 모습은 없었다. 【도아이】는 서둘러서 가족이 있었던 장소에 갔다.
방공호 앞에는, 구멍투성이가 된 피투성이가 된 사체가 나열해 있었다.
방공호 안(속)도, 누군가가 살아 있는 조짐(기색)은 완전히 없었다.

【도아이】는 공포에 사로잡혀서 도망쳤다. 전쟁이 끝난 후도, 여기에 되돌아올 수는 없었다고 한다.
「모두, 마을을 떠나고 싶지 않았다. 우리들에 있어서, 집이나 토지나 수전은 하나밖에 없는 것이다」. 【도아이】는 그렇게 말해서 울기 시작했다.
「그러나, 떠나는 것을 꺼린 인간은 모두 죽음을 당했다. 패거리는 마을을 엉망 진창이게 파괴해버렸다」 이러한 잔학행위의 결과, 많은 사람들이 베트콩(Viet Cong)의 진영에 합류했다.

67년, 16세의 때에 아버지를 한국군에 죽음을 당한 부이(buoy)·【다인】·【쟈무】도 그 1명이다.
【쟈무】는 몇 명의 한국군이 【안린】군의 집에 억지로 들어가는 직전, 뒷문으로부터 탈출했다.
한국병은 70세가 나이를 먹은 아버지를 잡고, 방공호에 억지로 들어가면, 곧 수류탄을 던져 넣었다.
【쟈무】는 해가 지고나서 마을에 살짝 되돌아감, 무너진 피난 호를 파서 일궜지만, 「고기 조각밖에 찾지 않았다」라고 한다.
그로부터 몇주일, 물건 있기를 하면서 방황한 【쟈무】는, 산악부에 틀어박혀 있었던 공산 게릴라에 가해지는 결의를 확고히 했다.
「아버지를 죽인 저녀석들에게 복수하고 싶었다. 한국병이 마을에서 한 것을 본 이상, 그렇게 하지 않고는 있을 수 없었다」 【구엔】·【고쿠】·【쟈우】는 83세가 된 지금도, 미움을 잊고 있지 않다.

67년5월22일, 【후옌】성【호아돈】군의 【미토안】촌에서 농업을 하고 있었던 【쟈우】는, 우연히 친척이 있는 가까운 마을에 외출하고 있었다.
거기에 전야, 한국군이 마을을 공격했다고 하는 알림이 왔다.
부랴부랴 돌아간 【쟈우】가 본 것은, 마을사람이 우물로부터 뿔뿔이 흩어져진 사체를 인양하고 있는 광경이었다. 희생자의 안에는, 임신중의 아내와 4명의 어린이도 포함되어 있었다.
학살을 숨겨져 보고 있었던 노인의 이야기에서는, 한국병은 여성이나 어린이를 우물에 떨어뜨리고, 도움을 요구하는 목소리를 무시해서 수류탄을 던져 넣었다고 한다.
【쟈우】는, 흙을 높게 쌓은 것 뿐의 간단한 무덤에 가족의 사체를 매장했다.
「죽음을 당한 것은 여자나 어린이만이다. 공산주의자등인 까닭이 없다」라고, 【쟈우】는 한다. 「한국인은 인간이 아니다. 눈앞에 드러나면, 해고해 떨어뜨린다」 ∼∼∼∼∼∼∼∼

과거의 역사를 허심하게 되돌아봤을 때, 명확한 사실로서,또 현대를 사는 우리들에의 중요한 교훈을 가르쳐 줍니다.
즉, 역사는 되풀이한다 ···로부터입니다.
관동 대지진에서는, 재일 조선인이 많은 문제를 끌어 들여 일으켰습니다.
그래도 주의하지 않으면 안되는 것은, 그것은 「재일 조선인」에 한한 것이 아니고, 대륙계의 인종에게 공통인 특징이기도 하는,라고 하는 것은 한다.

일본인의 일본인적 가치관이나 DNA는, 어디까지나 세계의 60분의 1의 물건으로밖에 없다.
세계는, 일본과는 다르는 것입니다.

그리고 또 하나.
관동 대지진으로 문제를 일으킨 것은, 「불령재일 조선인」입니다.
그렇지 않은 조선인도 많이 있었던, 물어 우노 것도 잊어서는 안됩니다.

종전 직후, 한반도(朝鮮半島)를 경유해서 일본인이 귀국할 때, 일본인에 대하여 위압적인 태도이어져서 지독한 처사를 한 조선인도 있었습니다.
한편, 필사적이 되어서 일본인을 도우려고 해서 준 수많은 조선인도 있었던 것입니다.
그렇기때문에, 많은 일본인이 일본에 돌아올 수 있었다.

현대에 있어서도, 재일 조선인이 일본국내에서 나쁜 일을 하는 사람도 있습니다.
한편, 일본인이상에 일본적 가치관을 배우고, 열심히 살아 있는 많은 재일 조선인도 있습니다.

사람은 모두 알몸으로 태어나, 죽으면 부처님, 죄를 증오해서 사람을 증오하지 않고, 차별을 하지 않고, 누구에 대하여도 친절 하는,이라고 하는 것은, 일본인의 일본인적 미덕입니다.
그러한 미덕을, 갖추어 가진,혹은 일본인이상에 열심히 배움, 성실하게 살자로 하는 사람도 있다.

종전 직후, 일본이 아직 가난했을 때, 조선 전쟁이 발발했습니다.
북한이, 남조선에 쳐들어가고, 남조선의 이승만은, 동국인을 한끝으로부터 학살하면서, 남하해서 결국은 부산(釜山)까지 추궁 당했습니다.

이 때 싸운 돈주석(석)원 장군은, 일본의 리쿠(陸) 오사무(士)를 졸업하고, 보통의 일본인이상에 용감하게 싸웠다.

한편, 많은 조선인이 제주도(濟州島)를 경유하고, 난민으로서 일본에 상륙했습니다.
빈주목에서, 아무 것도 가지지 않고 일본에 상륙해 온 조선인들을, 당시의 일본인들은, 자기들이 가난한것에도 관계 없이, 그들의 생활이나 식사, 목욕(목욕탕)이나 의류까지 성실하게 돌보아 줍니다.

그러한 옳은 역사를, 서로 배우는 것이야말로가, 나는 양쪽국민에 있어서, 가장 필요한 것이 아닐까라고 생각하고 있습니다.






http://bbs1.agora.media.daum.net/gaia/do/debate/read?bbsId=D003&articleId=4865163


관동대지진때 한국인6,000여명 살해만행 사죄배상하라
손자병법 (jyso****)
주소복사 조회 23 12.09.01 10:05
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관동대지진때 한국인6,000여명 살해만행 사죄배상하라



관동대지진 우리동포 6,000여명 살해만행 사죄배상하라:.8.31오전11시30분 일본대사관 소녀상앞 긴급 반일 시위 돌입,9월중순 시도별 지방대학생,노동단체,농민단체들과 연대해 전국 순회 반일,극일시위


관동대지진때 6,000여명 조선인 학살 만행 아는가?못된짓 하다간 일본 망한다..활빈단,푸른한국등 NGO들과 연대해 관동대지진피해 對日배상청구 나서..


1923년9월1일 日간토지방에서 발생한 일본 역사상 최대 지진 당시 조선인들이 폭동을 일으켰다는 유언비어를 조작·유포시킨 일본인들이 죽창과 몽둥이로 무장한 자경단 조직해 재일동포등 6000여명을 무차별 학살사건을 잊지말자!



1.정부는 일제에 의한 관동대지진 학살자,강제징병. 징용, 원폭피해자등 일제의 식민통치 희생자들의 참상에 대한 진실을 밝히는 데 왜 주저하나? 북한 조선중앙통신도 2007.8 31 "관동대지진 학살 대가 받아낼 것"이라며 일본을 성토했음을 아는가? 무지와 태만과 패배주의에 의한 진실의 호도는 민족의 수치임을 깨우쳐 민족 자존심을 걸고 관동대지진 학살 만행 진상을 철저히 밝혀라

2.故 히로히토(裕仁)천황의 동생으로 現 아키히토(明仁)천황의 숙부인 황족 미카사노미야 다카히토(三笠宮崇仁ㆍ91)도 2004년 4월 8일 NHK라디오에서 방송된 ‘마음의 시대’라는 대담 프로그램에서 "관동 대지진 조선인 학살 잊지 말아야 한다고"언급한 만큼 일본정부는 학살자 명부를 공개하고 희생자 유족들에 보상하라

3.관동대지진 한국인 학살 만행 진실 규명에 소홀한 정부는 관동대지진학살진상규명위를 재구성해 알본학살만행으로 비명에 간 원혼를 달랠 배상활동에 본격적으로 나설 것을 요구한다.

4.희생자 유족들도 침묵만 하고 있지 말고 강단 있게 反日,克日투쟁 전면에 나설 것을 호소한다.

5.동족이 처참하게 일본땅에서 죽음으로 몰린 처참한 학살 만행에 대해 역사학자들은 왜 말이 없는가? 관련 학자들은 학문적 접근을 시도해 역사적 재평가의 필요성을 내외에 제기할 것을 촉구한다

코나스넷 자유게시판 번호 49661 작성자 활빈당


http://bbs1.agora.media.daum.net/gaia/do/debate/read?bbsId=D003&articleId=4275320


비열한 일본인
판도 (pand****)
주소복사 조회 23 11.03.30 14:40
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1923년 9월1일 일본 간토지방에서 발생한 대지진으로 인해
9만 2천여명의 사망자와 행방불명된 자 1만 4천 여명정도니 무려 10만 명이 넘는
사상자가 발생하였다. 그런데 민심이 흉흉해 지자 일본 정부는 유언비어를 유포해
조선인들의 폭동설을 조작해 각지에 죽창과 몽둥이로 무장시킨 자경단(自警團)을
조직하여 수많은 조선인과 일본인 사회주의자를 무차별 학살하는 자행을 저질렀다.

그럼 일본인과 비슷비슷한 조선인을 어떻게 구별해 냈을까?

아침저녁으로 세수를 할 때 얼굴과 함께 목을 씻는 사람은 조선인이고
일본인은 목과 얼굴을 함께는 씻지 않는 습성을 지녔다고 하는 군요
그리하여 호시탐탐 지켜보다 무의식 중에
세수하는 사람을 구별해내 무차별 죽창으로 찔러 죽였다고 합니다.

그런데 이번 후쿠시만 대지진 역시 일본은 지난날과 한치도 변함없이
독도를 제물로 하여 한국과 분쟁으로 대립의 각을 세워 민심을 잠재우려는
술수를 부리려고 합니다.

우린 이제 더 이상 양보해서도 비굴해서도 안 될 것입니다.

우리의 영토 하천에 지천을 깔려있는 모래 한 주먹이라도
이제 양보해서는 안 될 것입니다..... 기다려 라는 말 보다,
내꺼야 로 이제 말해야 합니다.

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