Thursday, March 1, 2012

The truth of rumor about Koreans involved massacre in Great Kanto Earthquake

http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2012/01/post_73e0.html

関東大震災 朝鮮人虐殺に関わる流言蜚語の真相
関東大震災直後、政府は内務省警保局長名で、下記船橋送信所関係文書(資料2)にあるような電文を各地方長官宛てに打電した。そして、それを受けるように、埼玉県は各市町村に自警団の組織化を促す通達(資料3)を発した。それらが、朝鮮人に関わる流言蜚語を日本全国に伝搬させ、自警団員による朝鮮人虐殺を随所で発生させる導火線となったことは疑いない。

しかしながら一方で、9月1日内務省警保局は「人心に不安をあたえるごとき報道」は自粛するよう懇談書をだし、9月3日に「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亘る事極めて多く非常の災害に依り人心昂奮の際如斯虚説の伝搬は徒に社会不安を増大するものなるを以て朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度尚今後如上の記事あるに於ては発売頒布を禁止せらるゝ趣に候条御注意相成度」という警告書を出して言論統制に踏み切った。以後、新聞各社は官製資料をもらって記事にしたという。「正確なる事実を民衆に知らしめんが為毎日2回(午前10時・午後1時)検閲係に於て新聞記事材料を発表する事と為し即日之を各社に告示する」という方針に基づいたのである。その記事差し止めが解除されるのは、同年10月20日である。その間、船橋送信所から発せられた電文のような流言蜚語や、下記に見られるような新聞報道(資料4)の流言蜚語は、否定されることなく放置に近い状態だったようである。そこに民衆蜂起を恐れた官憲側関係者の作為が読み取れるという。

考えてみれば、震災後の人心不安の中で、なぜ自然災害ではなく、「不逞鮮人の来襲」などというような流言蜚語が全国的に発生したのか不可解である。さらには、何故朝鮮人と社会主義者を結びつけるような流言蜚語が発生したのか。やはり、それらが一般民衆のなかから発生することは考えにくい。また、下記「流言状況」の中にも、作為を感じさせるものある。さらに、「流言者の検挙取締」の文書は発せられたが、それが現実に進められた気配がないことも気になるところである。「…流言はいづくまでも流言にして、事実の補足すべきものなかりし…」というのである。

「信濃川水力発電所虐殺事件」以降、朝鮮人の労働運動と日本人の労働運動や社会主義者の運動等が、その結びつきを深めつつあった時期であることを踏まえれば、米騒動や三・一運動、五・四運動等を経験し、民衆蜂起を恐れていた官憲側の意図が透けて見えるのではないか、というわけである。下記は全て「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房)からの抜粋である。



資料1-------------------------------

3 警視庁及び各警察署管内における流言状況
1 警視庁
一、概 記 (略)

二、流言の発生

流言蜚語の、初めて管内に流布せられしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚だしく、その種類も亦多様なり。
今本庁及び各署にて偵察聞知せる、流言蜚語の大要を、日時を逐ふて列挙すれば左の如し。

(A)9月1日午後1時頃

「富士山に大爆発ありて今尚噴火中なり」
「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯来襲して人畜の死傷多かるべし」
「更に大地震の来襲あるべし」

同日午後3時頃 
「社会主義者及び鮮人の放火多し」

(B)2日午前10時頃

「不逞鮮人の来襲あるべし」
「昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり」
「鮮人中の暴徒某神社に潜伏せり」
「従来官憲の圧迫に不満を抱ける大本教は、其教書中に於て今回の大火災を予言せしが、今や其実現せられしを機として、密謀を企て、教徒数千名上京の途にあり。」

同日午後2時頃 

「市ヶ谷刑務所の解放囚人は、山の手及び郡部に潜在し、夜に入るを待ちて放火するの企てあり。」
「鮮人約200名、神奈川県寺尾山方面の部落に於て、殺傷、掠奪、放火等を恣にし、漸次東京方面に来襲しつつあり」
「鮮人約3000名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住民と闘争中なり」

同日2時5分頃

「横浜の大火は、概ね鮮人の放火に原因せり、彼等は団結して到る所に掠奪を行ひ、婦女子を辱しめ、残存建物を焼毀せんとするなど、暴虐甚しきを以て、全市の青年団、在郷軍人団等は、県警察部と協力して、之が防止に努力せり」(横浜方面よりの避難者の流言)
「横浜方面に於ける鮮人の集団は、数十名乃至数百名にして、漸次上京の途に就けるを以て、神奈川、川崎、鶴見、各町村に於ては、全力を挙げて警戒を厳にせり」(横浜方面よりの避難者の流言)
「横浜方面より来襲せる鮮人の数は、約2000名にして、鉄砲、刀剣等を携帯し、既に六郷の鉄橋を渡れり」
「軍隊は六郷河畔に機関銃を備へて、鮮人の入京を遮断せんとし、在郷軍人、青年団員等亦出動して軍隊に応援せり」
「横浜方面より東京に向へる鮮人は、六郷河畔に於て軍隊の阻止する所となりしより、転じて矢口方面に向へり」

同日午後3時40分頃
「高田町、雑司ヶ谷なる○○○○は、向原○○○○方へ放火せしむとし現場に於て民衆の逮捕する所となれり」

同日午後4時頃
「大塚火薬庫襲撃の目的を有する鮮人は、今や将に其附近に密集せんとす」
「鮮人、原町田に来襲して、青年団と闘争中なり」
「原町田を襲へる鮮人200名は、更に相原、片倉の両村を侵し、農家を掠め、婦女を殺害せり」

同日午後4時30分頃

「鮮人200~300名横浜方面より神奈川県の溝ノ口に入りて放火せる後、多摩川、二子の渡を越え、多摩河原に進撃中なり」
「鮮人、目黒火薬庫を襲へり」
「鮮人、鶴見方面に於て婦女を殺害せり」

同日午後5時頃
「鮮人百十余名、寺島署管内四ツ木橋附近に集り、海嘯来ると連呼しつゝ戎兇器を揮ひて暴行を為し、或は放火を敢てするものあり」

同日午後5時30分頃
「戸塚方面より多数民衆に追跡せられたる鮮人某は、大塚電車終点附近の井水に毒薬を投入せり」

同日午後6時頃

「鮮人等は予てより、或機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其用意せる爆弾及び毒薬を流用して、帝都の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」
「上野精養軒前の、井水の変色せるは毒薬の為なり、上野公園下の井水にも異状あり、上野博物館の池水も亦変色して金魚悉く死せり」
「上野広小路松坂屋前へ爆弾2個を投じたる鮮人2名を逮捕せしが、其所持せる2枚の紙幣は、社会主義者より得たるものなり」
「上野駅の焼失は、鮮人2名が麦酒瓶に容れたる石油を注ぎて放火せる結果なり」
「鮮人約200名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃を翳して掠奪を行ひ、自警団と闘争中なり」
「鮮人約200名中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」
「代々木上原方面に於て鮮人約60名、暴動を為しつゝあり」

同日午後7時

「鮮人数百名、亀戸署管内に闖入し暴行を為しつゝあり」
「鮮人40名、八王子署管内七生村より大和田橋に来襲し、青年団と闘争中にて銃声頻りに聞ゆ」


(C) 3日午前1時
「鮮人約200名、本所向島方面より、大日本紡績株式会社及び隅田駅を襲撃せり」

同日午前4時頃

「鮮人数百名、本郷湯島方面より上野公園に来襲の状あるを以て、速に谷中方面に避難せよ、荷物等は持ち去るの要なし、後日富豪より分配する様取計ふべし」

同日午前10時 
「兵士約30名、鮮人暴動鎮圧の為、月島に赴きたり」


(D) 4日午後30分頃
「鮮人、警察署より解放せられたれば、速に之を捕へて殺戮すべし」

同日午後6時30分頃
「鮮人市内の井戸に毒薬を投入せり」

同日午後9時頃
「青年団員が取押へて、警察署に同行せる鮮人は、即時釈放せられたり」
「上野公園及び焼残地域内には、警察官に変装せる鮮人あれば注意すべし」

資料2-------------------------------

2 船橋送信所関係文書


○呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解

各 地 方 長 官 宛                   内務省警保局長 出

東京附近の震災を利用し、朝鮮人は、各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火をせんとするものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳格なる取締を加へられたし。

○呉鎮副官宛   9月3日午後10時10分了解
山 口 県 知 事 宛                   内務省警保局長 出
東京附近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内に於ては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府に於ては内地渡来鮮人に付ては厳密なる視察を加へ、苟も容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては充分御警戒を加へられ、適宜の措置を採られ度。

○9月2日午後8時20分      船橋 発電
騎20名、7時半警戒の任につきつつあり、附近鮮人不穏の噂。

○9月2日午後8時28分
海 軍 大 臣 宛 横 鎮 長 官 発
本日午前11時横浜着警備艇の状況報告左の如し。
一、1日午前11時58分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に
起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し、死傷数知れず。
二、(下略)

○9月3日午後4時30分
船橋発電
船橋送信所襲撃の虞あり至急応援頼む、騎兵1ヶ小隊応援に来る筈なるも未だ
来らず。

○9月4日午前8時10分  同10時電
本所爆撃の目的を以て襲来せる不逞団接近騎兵2(20ならん)青年団、消防隊にて警戒中の右の兵員にては到底防禦不可能に付約150歩兵急派方取計ひ度当方面の陸軍には右以上出兵の余力なし。

資料3-------------------------------
10 流言の流布と自警団

埼玉県通達文
東京における震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和
し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人
分会、消防手、青年団員と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来
牒により此段移牒に及び候也。
(福岡日々新聞 大正12・10・19)
資料4-------------------------------
11 全国主要地方紙流言記事


約三千人の不逞鮮人
大森方面より東京へ
(別紙)3日午後5時迄大森方面に約3千人の不逞鮮人横浜より東京に入り込み隊伍を組んで東京方面に向ひたりとの情報伝はりたるより歩兵一個小隊を出したるが同小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始されたるも一個小隊の総勢小勢なりしを以つて敵し難く全滅の恐れあるを以つて急を大崎方面警戒中の麻布三連隊に告げたるより同隊は歩兵一個中隊を自動車にて派遣したるがその後の報道詳ならず一説には鮮人の数は400人と称せらる(新潟経由東京電話)

放火、強盗、強姦、掠奪
驚くべき不逞鮮人暴行
(3日午後1時土浦発)2日より上野附近にて不逞鮮人多数強盗強姦掠奪凄じく附近の井戸に毒を放ち各所に放火しつつあり日暮里に向ひ入京者を襲ふ為め人々は見つけ次第討殺しつつあり入京危険なり東京附近は今飢餓状態のため徴発令発せられん。

爆弾と毒薬を有持する
不逞鮮人の大集団
2日夜暗にまぎれて市内に侵入
警備隊を組織して掃蕩中
不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じて石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば住民は直に警備隊を組織して久堅町、大塚仲町養育院前等において約十数名の鮮人を引捕へ一々厳重なる身体検査をなして官憲の手にこれを引渡し或は昂憤したる警備隊自ら適当の膺懲を加へ専ら放火の厄を免れんと努力しつゝあるを発見したり因に警備隊は日本刀棍棒等の各武器を携へ相言葉を使用不逞鮮人を発見するや呼子の笛を以て警備隊員を召集しこれを逮捕する等その行動極めて敏活を極めつゝあり右方面には騎兵砲兵等乗馬にて出動し警戒怠りなく前日来の奮闘に困憊し居るを以つて宇都宮66聯隊高崎15の両聯隊の応援を求めている(宇都宮経由東京電話)
(河北新報 大正12・9・4)


不逞鮮人凶暴を極め
飲食物に毒薬や石油を注ぐ
彼等は罐詰に似た爆弾を所持しつつあり
警備隊は日本刀棍棒鉄棒等の武器を携帯
(4日午前7時宇都宮経由)

不逞鮮人の背後に主義者
暴動言語に絶し風上に
石油を注いで火を放つ

鮮人十数名をを銃殺
執れも爆弾の携帯者
(3日午後10時40分函館運輸事務所着電)

2日夜東京駅附近にて朝鮮人数十名警備隊の為せらる鮮人は爆弾携帯者ならん。   
(北海道タイムス 大正12・9・5)     
10
不逞鮮人の陰謀に
御盛典を期す
携帯短銃は露国式
(5日午前11時宇都宮経由)
鮮人の陰謀は今秋行はるる御盛典当時行ふ事に着々進めたるもものらしく然るに今回の変災に乗じ遽かに之を行ひたるものらしく彼等の携帯せるピストルは露国方面より手に入れたらしく爆弾は未だ不明而して彼等の系統は重に上海朝鮮より入り込みたるものならんと此の大体の目星附きたる為当局が之が捜査をなしつつありて各駅にて取り押さえたるもの多し

鮮人の暗号が判明したと全市に
伝えられ警戒の度は益々厳重になつたが
丸にAの印は爆弾を投げる箇所
ヤの字は暗殺強盗
カの字は井戸に毒薬を投入
菱形は放火だと云はれ夫々チョークで鮮人連が目標をするもので芝公園では避難民に対し貴重な水を呉れる者があつたが夫には硫酸が混
入され其為死亡したものがあつた……
殊に不逞鮮人の跋扈は言語道断で火災の半数以上は不逞鮮人の爆弾に遣られたのは事実である松阪屋前では手に爆弾を所持して居る鮮人が縛されて居たのを見受け帝大附近は火災に遣られたのより寧ろ爆弾に遣られたのが多い夫丈鮮人に対する市民の反感は頗る猛烈を極め鮮人と見ると一人も容赦せぬ気勢をみせ衝突は随所に行はれ浅草では鮮人一味が避難民の荷物を掠奪して行はれた者が多い2日夜は50人程の一隊が襲撃したが約20人程捕はれ鈴ヶ森には1500人の不逞鮮人が陣取つて居る附近の住民は在郷軍人警官等協力して警戒は物凄いと云はれて居るが真偽は判明せぬ。

鮮人の陰謀は全国に亘る
罹災の群衆は激昂して切捨御免の有様
不逞鮮人の暴動はなかなか組織的根拠があるらしい本月2日朝鮮独立運動に関する大会を開催し御盛典の日に事を起す予定で既に横浜東京に参集して居つたが1日の変に遭会して幸ひとして活動を開始したのである。
2日新宿に於て鮮人が巡査を殺して其被服帯劔を奪つて着用し自動車を操縦し群衆の間を馳駆して居たのもありました運転手を拳銃で脅迫し活動して居たものがあつたが皆群衆に捉へられ撲殺されて了つた。

彼等はまた千住の陸軍製絨所深川の被服廠の一部に爆弾を匿蔵して置き之を運ばんとする処を発見した市内各所に爆音が聞え火の手の意外に早く広がつたのは彼等の所為と分つた小石川砲兵工廠の爆発も彼等の行為であつたされば民衆は激昂し今は鮮人と見れば切捨御免の状態である。

彼等は巧みに変装して邦人間に混じ各方面に向はんとして居るが4日川口でも4人の鮮人が捕つた一人は殺され他は半殺しにされたが其一人の所持せる宣伝ビラでD上述の陰謀が判つた訳で尚ほ山形県赤湯に爆弾数百個及兇器が匿蔵して居ると自白したので直に憲兵は同道実地調査に向つた彼等の陰謀は各全国に亘り朝鮮人参其他行商人等間には脈絡相通じて居る筈で油断がならない。

不逞鮮人を利根川にて銃殺
死体今尚岸辺に横はる
6日宇都宮特派員
鮮人の警戒一層厳重となりたる為彼等は市中を逃出し遁走せんとした各所の警戒厳重の為殆んど捕へられ若しくは銃殺された然も4日の事8名の鮮人が在郷軍人青年団消防組の追撃を受け身体谷まり利根川にザンブとばかり飛込み泳いで逃げんとせし折丁度架橋中の工兵隊が之を見て直に銃殺した聞けば此地で約百名銃殺されたとのこと5日午後2時死体は未だ岸辺にあつた。
(北海道タイムス 大正12年・9・6)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 


■何故「三国人」が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)

本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。

■ 大阿仁村事件 (1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町 *1 の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

■ 生田警察署襲撃事件 (1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

■ 直江津駅リンチ殺人事件 (1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ! ホームに降りろ! 殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】

■ 富坂警察署襲撃事件 (1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

■ 長崎警察署襲撃事件 (1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

■ 富山駅前派出所襲撃事件 (1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所 *2 」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

■ 坂町事件 (1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

■ 新潟日報社襲撃事件 (1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

■ 首相官邸デモ事件 (1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

■ 尾花沢派出所襲撃事件 (1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

■ 阪神教育事件 (1948年4月23日~25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

■ 評定河原事件 (1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

■ 宇部事件 (1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

■ 益田事件 (1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

■ 枝川事件 (1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

■ 高田ドブロク事件 (1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町 *3 と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市 *4 の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

■ 本郷村事件 (1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

■ 下関事件 (1949年8月20日)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

■ 台東会館事件 (1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

■ 連島町事件 (1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

■ 第二神戸事件 (1950年11月20~27日)
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

■ 四日市事件 (1951年1月23日)
旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

■ 王子事件 (1951年3月7日)
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校 *5 を捜索し、多数の印刷物を押収した。
3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。

■ 神奈川事件 (1951年6月13日)
横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

■ 下里村役場事件 (1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

■ 福岡事件 (1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

■ 東成警察署催涙ガス投擲事件 (1951年12月1日)
1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

■ 半田・一宮事件 (1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。
そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

■ 軍需品製造工場襲撃事件 (1951年12月16日)
上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

■ 日野事件 (1951年12月18日)
朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された。

■ 木造地区警察署襲撃事件 (1952年2月21日~23日)
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

■ 姫路事件 (1952年2月28日)
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

■ 八坂神社事件 (1952年3月1日)
三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

■ 宇治事件 (1952年3月13日)
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、
表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。
そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、
宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。
また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

■ 多奈川町事件 (1952年3月26日~30日)
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。

■ 田川事件 (1952年4月19日)
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

■ 岡山事件 (1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

■ 血のメーデー事件 (1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場 *6 に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

■ 上郡事件 (1952年5月8日)
4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村 *7 で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

■ 大村収容所脱走企図事件 (1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日~12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

■ 広島地裁事件 (1952年5月13日)
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

■ 高田派出所襲撃事件 (1952年5月26日)
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。

■ 奈良警察官宅襲撃事件 (1952年5月31日)
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

■ 万来町事件 (1952年5月31日~6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町 *8 にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

■ 島津三条工場事件 (1952年6月10日)
1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

■ 醒ヶ井村事件 (1952年6月13日)
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村 *9 で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

■ 葺合・長田事件 (1952年6月24日)
6月24日に神戸市葺合区 *10 の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

■ 吹田・枚方事件 (1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義 *11 宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。

■ 新宿駅事件 (1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

■ 大須事件 (1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連携145名)を検挙した。

■ 舞鶴事件 (1952年7月8日)
6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

■ 五所川原税務署襲撃事件 (1952年11月19日~26日)
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。

朝鮮総連が、公安警察に監視されたり、公安調査庁の「調査対象団体」に
指定されているのは、過去にこれだけの「実績」があったからです。

投稿 q | 2012/05/25 12:09
ここでは、資料をもとにした事実の論証・反論・反証をお願いします。単なる「お話し」はお断りしたいと思います。検証可能な資料の提起をもとにしてください。

投稿 syasya61 | 2012/05/25 08:45
誤字が在り、失礼しました。文字訂正と、追加情報です。

誤:づい朝鮮公使館
正:在朝鮮アメリカ公使館


<追加>
飲み物の件では、私が朝鮮人系列の会社に行った時、会社の女の子達が「気に入らないやつの飲み物に、唾吐いて入れたり、洗剤混ぜて出す」って悪気も無く言って居て、余りにも酷くて一瞬、宇宙人語を聞いた気がしました。

私は、関東大震災時の話をして下さった方の「水に混ぜ物をした」との話も、事実だと思います。

また、最近の本等で出ている朝鮮人の虐殺被害者が数千人との情報も、「震災での死者数」だそうです。「犯罪がばれた時に逆のイメージが付いて居るようにしている」と、彼等自身が言って居た、その宣伝の様です。

彼等は、戦後のGHQ統治下の混乱期だけでも、日本人を数千人は虐殺しています。中には悪質な朝鮮人も居て、殺した日本人や、戦地から帰っていない人、戦死した人に成りすましたりも在りました。
戦後の日本での、ぼったくりや強奪搾取強姦虐待虐殺し放題だとの噂で、一獲千金を狙って来た密入国者も居ました。

全員とは言いませんが、彼等は群団で犯罪を行う癖が在り、かなりの人数の朝鮮人が、日本人に対する犯罪行為に関与しています。また彼等は、犯罪行為で拘留された仲間がまるで不当拘留されたかのように騒ぎ立てて暴動を起したり、交流場所を襲撃して時には破壊殺傷事件まで起こしています。

昭和50年代の高校でも、朝鮮学校生が凶暴な暴力団的行為を仕掛けてくるのに対応せざるをえなかった人達も居たとか。

彼等は、広範囲に渡って、彼等が犠牲者だと虚偽を触れ回っています。「先に虚偽宣伝を刷り込んで、ばれた時に逆のイメージ漬けをしていれば、本当の事が解るまでに時間が掛って、それまでは安全だ」と威張っていた人達も居ます。
他の人達は、「嘘も百回言えば本当になる」と威張られた事が在るとか。
世界大統領が就任されてから、更に偉さが増し、日本国内でも被害が絶えませんね。

日本人に対する迫害や弾圧等が、世界的に知られ、皆が真実を知る日が来ますよう祈っております。

投稿 Nao | 2012/05/24 23:20
資料御紹介、ありがとうございます。

昭和40年代に、私が当時を知る方から伺った話です。
場所は、大田区~川崎辺りです。

「(倒壊した建物から)朝鮮人達が物を盗っていたので、止めに入ったら暴れて暴動状態になり、その時には日本男児が居たので(戦争末期からの朝鮮人による被害時には出兵で居なかった)応戦したら、双方に死傷者が出た」

「朝鮮人達が水に混ぜ物(「毒」と聞いた気もしますが記憶が少し不明瞭ですので)をして水が飲めなくなった」

毒を混ぜたとの情報がデマだと、彼等の犯罪揉消し作業が入っていますが、彼等は気に入らないとすぐに意地悪な行動をする癖が在ります。その軽いものが、飲み物に唾や髪や陰毛を入れたりゴミ等を入れたり。酷い場合は、群団での恐喝脅迫虐待や強奪搾取や軟禁監禁や拷問や殺人に及んだりしています。その酷い例が、「コンクリート詰め殺人事件」等です。

物事が思うように行かないとすぐにイラついて、安重根が伊藤博文を暗殺したように、その少し前にづい朝鮮公使館のスティーブンス氏を暗殺したように、安易に殺人に及んでしまう事も少なくありません。

関東大震災時にも、そのように強盗を止めに入った人に逆上して、暴力を奮って来たそうです。

彼等は、特に戦後、日本人に対して暴行虐殺強姦強奪搾取ぼったくり詐欺など、膨大な犯罪を行い、GHQから特権を得て日本社会の上層部を獲得したり、情報を操作したりしていました。それは、GHQが帰ってから共産社会主義が台頭して仕切りだしてからも、ずっと続いて来ています。

戦後の朝鮮人らの行動を見れば、そして、李氏朝鮮時代以前の彼等の真実の歴史を見て、彼等の最近の美しく仕立て上げられたドラマを見れば、彼等がどのような事を遣って来ているかが判りますね。

貴重な情報をありがとうございました。

投稿 Nao | 2012/05/24 22:56

http://tokiy.jugem.jp/?day=20120610




▲新愛知号外(大正12年9月4日)

不逞鮮人一千名とと横浜で戦闘開始

(紙面転載:)2日午後5時より大森方面より約400名の不逞鮮人、横浜に現れ隊伍を組んで東京方面に向かい進行しけり。ついに歩兵一個小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始したが一個小隊にては少ないので苦戦の結果、全滅の兆しある旨、麻布第三総隊に報じて更に歩兵一個中隊を派遣した。
その後、情報は未だないが鮮人の数は約1000名と●ぜられて居る。

鮮人の陰謀 震害に乗じて放火

東京に3千名蠢く 逮捕は頗る(すこぶる)困難

発電所を襲う鮮人団




관동 대지진 조선인 학살에 관계되는 유언蜚단어의 진상 관동 대지진 직후, 정부는 내무성警다모쓰(保) 국장명으로, 아래 후나바시(船橋) 송신소 관계 문서(자료2)에 있는 것 같은 전문을 각지방장관앞에 타전했다. 그리고, 그것을 받게, 사이타마현(埼玉縣)은 각시읍면에 자경단의 조직화를 촉진시키는 통달(자료3)을 발했다. 그것들이, 조선인에게 관련하는 유언蜚단어를 일본 전국에 전파시켜, 자경단원에 의한 조선인 학살을 도처에서 발생시키는 도화선이 된 것은 의심할 여지가 없다.

그렇지만 한쪽에서, 9월1일 내무성警다모쓰(保)국은 「인심에 불안을 주는 것 같은 보도」는 자숙하도록 간담서를 내고, 9월3일에 「조선인의 망동에 관한 풍설은 헛소문에 걸치는 것 지극히 많이 비상의 재해에 따라 인심 다카시(昻) 이사무(奮)의 즈음如斯거짓 설명의 전파는 헛되이 사회 불안을 증대하는 것 되는 を以て조선인에 관한 기사는 특히 신중하게 고려 위, 일체 게재하지 않는 님 배려 상번거로움도 여전히이후 상술의 기사 있는 것에 있어서는 발매 반포를 금지 세라る⊙정취에 철(후)조 주의 상 성도」라고 하는 경고서를 내서 언론통제에 단행했다. 이후, 신문 각회사는 관제자료를 받아서 기사로 했다고 한다. 「정확한 사실을 민중에게 알게 하지 않는다만 위해서(때문에) 매일 2회 (오전10시·오후1시)검열계에게 있어서 신문기사재료를 발표하는 것으로 해 당일 之를 각회사에 고시한다」라고 할 방침에 근거한 것이다. 그 기사금지가 해제되는 것은, 같은 해 10월20일이다. 그동안, 후나바시(船橋) 송신소에서 발생한 전문과 같은 유언蜚단어나, 아래에 보여지는 것 같은 신문보도(자료4)의 유언蜚단어는, 부정될 일 없고 방치에 가까운 상태이었던 것 같다. 거기에 민중봉기를 두려워한 관헌측 관계자의 꾸밈을 읽어낼 수 있다고 한다.

생각해 보면, 지진 재해후의 인심불안 안(속)에서, 왜 자연 재해가 아니고, 「불령 아키라(鮮)인의 내습」등이라고 말하는 것 같은 유언蜚단어가 전국적으로 발생한 것일지 불가해하다. 그위에, 왜 조선인과 사회주의자를 결부시키는 것 같은 유언蜚단어가 발생한 것인가? 역시, 그것들이 일반민중의 안에서 발생하는 것은 생각하기 어렵다. 또, 아래 「유언상황」 안(속)에도, 꾸밈을 느끼게 하는 물건 있다. 게다가, 「유언자의 검거 단속」의 문서는 발생했지만, 그것이 현실에 진행된 기색이 없는 것도 마음에 걸리는 곳이다. 「…유언은 있어 づ곰이라도 유언으로 해서, 사실의 보충 해야할 것 안り 해 …」이라고 말하는 것이다.

「시나노가와(信濃川) 수력 발전소 학살 사건」이후, 조선인의 노동운동과 일본인의 노동운동이나 사회주의자의 운동 등이, 그 결부를 깊게 하고 있었던 시기인 것을 근거로 하면, 미소동이나 3·1운동, 5·4운동 등을 경험하고, 민중봉기를 두려워하고 있었던 관헌측의 의도가 들여다 보이는 것이 아닐까, 라고 하는 것이다. 아래는 모두 「현대사자료(6)관동 대지진과 조선인」 (보아 방울 서방(책방))로부터의 발췌다.

자료 1-------------------------------3경시청 및 각경찰서관내에 있어서의 유언상황 1경시청 1, 개기 (생략)

2, 유언의 발생 유언蜚단어의, 처음으로 관내에 유포해져 하기는, 9월1일 오후 1시경이든지 해 물건의 미치는, 더욱 2일보다 3일에 걸쳐 て은, 가장 격심하고, 그 종류도 역시 다양이든지.
지금 본청 및 각서에서 정찰 외문지식 다투는, 유언蜚단어의 대략을, 일시를 逐ふて열거하면 왼쪽의 如 해.
(A)9月1日午後1時頃「富士山니大爆發아리테今尙噴火中나리」「東京灣沿岸니猛烈나루大海嘯來襲시테人畜노死傷多가루베시」「更니大地震노來襲아루베시」同日午後3時頃「社會主義者及비鮮人노放火多시」(B)2日午前10時頃「不逞鮮人노來襲아루베시」「昨日노火災하、多구不逞鮮人노放火又하爆彈노投擲니依루모노나리」「鮮人中노暴徒某神社니潛伏세리」「從來官憲노壓迫니不滿오抱게루大本敎하、其敎書中니於데今回노大火災오予言세시가、今야其實現세라레시오機도시테、密謀오企데、敎徒數千名上京노途니아리。」 같은 날 오후 2시경 「이치가야(市谷) 형무소의 해방 죄수는, 야마노테(山手) 및 군부에 잠재하고, 밤에 이리(入)る을 기다려 て방화하는 것 계획해 있어. 」「鮮人約200名、神奈川縣寺尾山方面노部落니於데、殺傷、掠奪、放火等오恣니시、漸次東京方面니來襲시쯔쯔아리」「鮮人約3000名、旣니多摩川오涉리테洗足村及비中延附近니來襲시、今야住民도鬪爭中나리」同日2時5分頃「橫浜노大火하、槪네鮮人노放火니原因세리、彼等하團結시테到루所니掠奪오行히、婦女子오辱시메、殘存建物오燒毁센토스루나도、暴虐甚시키오以데、全市노靑年團、在鄕軍人團等하、縣警察部도協力시테、之가防止니努力세리」(橫浜方面요리노避難者노流言)「橫浜方面니於게루鮮人노集團하、數十名乃至數百名니시테、漸次上京노途니就게루오以데、神奈川、川崎、鶴見、各町村니於데하、全力오擧게테警戒오嚴니세리」(橫浜方面요리노避難者노流言)「橫浜方面요리來襲세루鮮人노數하、約2000名니시테、鐵砲、刀劍等오携帶시、旣니六鄕노鐵橋오渡레리」「軍隊하六鄕河畔니機關銃오備헤테、鮮人노入京오遮斷센토시、在鄕軍人、靑年團員等亦出動시테軍隊니應援세리」「橫浜方面요리東京니向헤루鮮人하、六鄕河畔니於데軍隊노阻止스루所도나리시요리、轉지테矢口方面니向헤리」同日午後3時40分頃「高田町、雜司谷나루○○○○하、向原○○○○方헤放火세시무토시現場니於데民衆노逮捕스루所도나레리」同日午後4時頃「大塚火藥庫襲擊노目的오有스루鮮人하、今야將니其附近니密集센토스」「鮮人、原町田니來襲시테、靑年團도鬪爭中나리」「原町田오襲헤루鮮人200名하、更니相原、片倉노兩村오侵시、農家오掠메、婦女오殺害세리」同日午後4時30分頃「鮮人200∼300名橫浜方面요리神奈川縣노溝노口니入리테放火세루後、多摩川、二子노渡오越에、多摩河原니進擊中나리」「鮮人、目黑火藥庫오襲헤리」「鮮人、鶴見方面니於데婦女오殺害세리」同日午後5時頃「鮮人百十余名、寺島署管內四쯔木橋附近니集리、海嘯來루토連呼시쯔⊙戎兇器오揮히테暴行오爲시、或하放火오敢데스루모노아리」同日午後5時30分頃「戶塚方面요리多數民衆니追跡세라레타루鮮人某하、大塚電車終点附近노井水니毒藥오投入세리」同日午後6時頃「鮮人等하予데요리、或機會니乘지테、暴動오起스노計畵아리시가、震火災노突發니鑑미、予定노行動오變지、夙니其用意세루爆彈及비毒藥오流用시테、帝都노全滅오期센토스、井水오飮미、菓子오食스루하危險나리」「上野精養軒前노、井水노變色세루하毒藥노爲나리、上野公園下노井水니모異狀아리、上野博物館노池水모亦變色시테金魚悉구死세리」「上野廣小路松坂屋前헤爆彈2個오投지타루鮮人2名오逮捕세시가、其所持세루2枚노紙幣하、社會主義者요리得다루모노나리」「上野驛노燒失하、鮮人2名가麥酒甁니容레타루石油오注기테放火세루結果나리」「鮮人約200名、品川署管內仙台坂니襲來시、白刃오⊙시테掠奪오行히、自警團도鬪爭中나리」「鮮人約200名中野署管內雜色方面요리代⊙幡니進擊中나리」「代⊙木上原方面니於데鮮人約60名、暴動오爲시쯔⊙아리」同日午後7時「鮮人數百名、龜戶署管內니闖入시暴行오爲시쯔⊙아리」「鮮人40名、八王子署管內七生村요리大和田橋니來襲시、靑年團도鬪爭中니테銃聲頻리니聞유」(C)3日午前1時「鮮人約200名、本所向島方面요리、大日本紡績株式會社及비隅田驛오襲擊세리」同日午前4時頃「鮮人數百名、本鄕湯島方面요리上野公園니來襲노狀아루오以데、速니谷中方面니避難세요、荷物等하持지去루노要나시、後日富豪요리分配스루樣取計후베시」同日午前10時「兵士約30名、鮮人暴動鎭壓노爲、月島니赴기타리」(D)4日午後30分頃「鮮人、警察署요리解放세라레타레바、速니之오捕헤테殺戮스베시」同日午後6時30分頃「鮮人市內노井戶니毒藥오投入세리」同日午後9時頃「靑年團員가取押헤테、警察署니同行세루鮮人하、卽時釋放세라레타리」「上野公園及비燒殘地域內니하、警察官니變裝세루鮮人아레바注意스베시」

자료 2-------------------------------2후나바시(船橋) 송신소 관계 문서

○오(吳) 진정시킴부관앞 타전 9월3일 오전 8시15분 이해 각지방장관앞 내무성警다모쓰(保) 국장출신 도쿄(東京) 부근의 지진 재해를 이용하고, 조선인은, 각지에 방화하고, 괘씸한 목적을 수행하지 않는다고 해서 실제로 도쿄(東京) 시내에 있어서 폭탄을 소지하고, 석유를 쏟아 て방화를 마개로 하는 물건 있어. 이미 도쿄(東京) 부하(府下)에는 일부계엄령을 시행해된이 때문에, 각지에 있어서 충분히 주밀한 시찰을 캐나다에, 아키라(鮮)인의 행동에 대하여는 엄격한 단속을 캐나다 줄어들어지고.

○오(吳) 진정시킴부관앞 9월3일 오후 10시10분 이해 야마구치현(山口縣) 지사앞 내무성警다모쓰(保) 국장출신 도쿄(東京) 부근 지진 재해를 이용하고, 내지재류 아키라(鮮)인은 괘씸한 행동을 감히 마개라고 해서 실제로 도쿄(東京) 시내에 있어서는 방화를 없음, 폭탄을 투척하지 않는다고 해서 頻에 활동하고 있는 を以て, 이미 도쿄(東京) 부하(府下)에 일부계엄령을 시행하는 것에 달 하기된이 때문에, 다카(貴) 부(府)에 있어서는 내지도래 아키라(鮮)인에게 부て은 엄밀한 시찰을 캐나다에, 적어도 용의자된이상은 내지상륙을 저지하고, 특히 상해에서 도래하는 가장 아키라(鮮)인에게 부て은 충분히 경계를 캐나다 줄어들어져, 적당한 조치를 뽑아져 매번.

09월2일 오후 8시20분 후나바시(船橋) 발전騎 20명, 7시반 경계의 임무에 대해서 있고, 부근 아키라(鮮)인 불온의 소문.

09월2일 오후 8시28분 해군각료앞 옆진정시킴장관출발 오늘 오전 11시 요코하마(橫浜)도착 경비정의 상황보고 왼쪽의 如 해.
1, 1일 오전 11시58분 격진방파제세관을 파괴해 전시의 가옥도괴하고, 폭파 여기저기에 일어나 불령 아키라(鮮)인의 방화와 상俟て전시불바다와 화하고, 사상수 알려지지 않고.
2, (이하 생략)

09월3일 오후 4시30분 후나바시(船橋) 발전 후나바시(船橋) 송신소 습격의 우려 있어 시급하게 응원 부탁하는, 기병 1개 소대응원에 올 할 리(터) 되나 아직 오지 않고.

09월4일 오전 8시10분 동(同)10시電혼조(本所) 폭격의 목적을 以て내습 다투는 불령단 접근 기병 2 (20 안된다) 청년단, 소방대에서 경계중의 오른쪽의 병원에서는 도저히 방어불가능하게 부 약150보병급파쪽 조처 말라 매번 이 쪽면의 육군에는 오른쪽이상 출병의 여력없슴.

자료 3-------------------------------10유언의 유포와 자경단

사이타마현(埼玉縣) 도오루(通) 다쓰후미(達文) 도쿄(東京)에 있어서의 지진 재해에 타 폭행을 해된 불령 아키라(鮮)인 다수가 가와구치(川口) 방면에서 혹은 본현(縣)에 들어가 오자마자도 알려지지 않고, 또 그것간 과격사상을 소유하는 헛됨之에 화합해 以て그들의 목적을 달성하지 않는다로 하는 정취 전해 들음 점차 그 독수를 揮는 으로 할 우려유之철(후) 에 관해서는 此즈음경찰력 미약이기 때문에 읍촌당국자는 재향군인분회, 소방손, 청년단원과 일치 협력해서 그 경계에 임명해 만약의 경우 유사의 경우에는 신속하게 적절하다의 방책을 강구하자마자 う시급하게 상당 수배(준비) 상 성 싶은 취지그것줄거리(소식통)의 다음牒에 의해 此단 우쓰리(移)牒에 미쳐 철(후)也.
(후쿠오카(福岡) 매일신문 다이쇼(大正)12·10·19)자료 4-------------------------------11전국주요지방지유언기사

4 약3000명의 불령 아키라(鮮)인 오모리(大森) 방면에서 도쿄(東京)에 (별지) 3일 오후 5시까지 오모리(大森) 방면에 약3000명의 불령 아키라(鮮)인 요코하마(橫浜)에서 도쿄(東京)에 억지로 들어가 대오를 짜서 도쿄(東京) 방면에 향 마르거나라는 정보연고 바늘(침)된보다 보병한개소대를 내된이 동(同)소대와 모순되어 피아의 사이에 전투를 개시되어된도 한개소대의 전원 작은 세력이든지 하기를 以연고 적대하기 어렵게 전멸의 우려 있다 を以연고 급을 오사키(大崎) 방면경계중의 삼베삼연대에 알림된보다 동(同)대는 보병한개중대를 자동차에서 파견해된이 그 후의 보도 쇼(詳) 안되고 일설에는 아키라(鮮)인의 수는 400명과 명칭 세라る(니가타(新潟) 경유 도쿄(東京) 전화)

방화, 강도, 강간, 약탈 놀랍게도 불령 아키라(鮮)인 폭행(3일 오후1시 쓰치우라(土浦)출발) 2일보다 우에노(上野) 부근에서 불령 아키라(鮮)인 다수강도 강간 약탈 굉장하게 부근의 우물에 독을 떼어 놓아 각처에 방화하고 있어 닛포리(日暮里)에 향 말라 입경자를 가사네(襲)ふ위해서(때문에) め사람들은 찾는 대로 討죽이고 있어 입경 위험이든지 도쿄(東京) 부근은 지금 기아상태 때문에 징발 령 발생하지 않는다.

爆彈도毒藥오有持스루不逞鮮人노大集團2日夜暗니마기레테市內니侵入警備隊오組織시테掃蕩中不逞鮮人多數入리⊙미井戶니毒藥오投지테石油오屋上니注기放火오나스노恐레아레바住民하直니警備隊오組織시테久堅町、大塚仲町養育院前等니오이테約十數名노鮮人오引捕헤一⊙嚴重나루身體檢査오나시테官憲노手니코레오引渡시或하昻憤시타루警備隊自라適當노膺懲오加헤專라放火노厄오免렌토努力시쯔⊙아루오發見시타리因니警備隊하日本刀棍棒等노各武器오携헤相言葉오使用不逞鮮人오發見스루야呼子노笛오以데警備隊員오召集시코레오逮捕스루等소노行動極메테敏活오極메쯔⊙아리右方面니하騎兵砲兵等乘馬니테出動시警戒怠리나쿠前日來노奮鬪니困憊시居루오以쯔테宇都宮66聯隊高崎15노兩聯隊노應援오求메테이루(宇都宮經由東京電話)(河北新報大正12·9·4)

9불령 아키라(鮮)인 흉폭을 극에 달해 음식물에 독약이나 석유를 쏟는 그들은 통채우기를 닮은 폭탄을 소지하고 있어 경비대는 일본도막대기철봉등의 무기를 휴대(4일 오전7시 우쓰노미야(宇都宮) 경유)

불령 아키라(鮮)인의 배후에 주의자 폭동 표현할 길이 없어 윗자리에 석유를 쏟아서 불을 떼어 놓는다

아키라(鮮)인 십몇명を을 총살 맡으나 폭탄 휴대폰자 (3일 오후10시40분 하코다테(函館) 운수 사무소착전)

2일 밤 도쿄(東京)역 부근에서 조선인 몇십명경비대 때문에 세라る아키라(鮮)인은 폭탄휴대폰자 안된다.    
(홋카이도 타임스 다이쇼(大正)12·9·5) 10불령 아키라(鮮)인의 음모에 성전을 기하는 휴대단총은 노국식 (5일 오전11시 우쓰노미야(宇都宮) 경유)아키라(鮮)인의 음모는 올 가을 행은 누누이 성전 당시행ふ것에 착착 신(進)째된도 물건답게 어떤 닮아 이번의 변재에 타 遽인가에 之를 행 잠기는 것답게 그들의 휴대폰 다투는 권총은 노국방면에서 손에 넣었을 모양이게 폭탄은 아직 불명而 해서 그들의 계통은 중에 상해 조선에서 억지로 들어가된이나 되는 안된다고 이 대강의 목표(짐작) 붙어된 위해서(때문에) 당국이 之가 수사를 하고 있어 て각역에서 붙잡아된이나 되는 많다

鮮人노暗號가判明시타토全市니傳에라레警戒노度하益⊙嚴重니나쯔타가丸니A노印하爆彈오投게루箇所야노字하暗殺强盜가노字하井戶니毒藥오投入菱形하放火다토云하레夫⊙죠쿠데鮮人連가目標오스루모노데芝公園데하避難民니對시貴重나水오吳레루者가아쯔타가夫니하硫酸가混入사레其爲死亡시타모노가아쯔타……殊니不逞鮮人노跋扈하言語道斷데火災노半數以上하不逞鮮人노爆彈니遣라레타노하事實데아루松阪屋前데하手니爆彈오所持시테居루鮮人가縛사레테居다노오見受게帝大附近하火災니遣라레타노요리寧로爆彈니遣라레타노가多이夫丈鮮人니對스루市民노反感하頗루猛烈오極메鮮人도見루토一人모容赦세누氣勢오미세衝突하隨所니行하레淺草데하鮮人一味가避難民노荷物오掠奪시테行하레타者가多이2日夜하50人程노一隊가襲擊시타가約20人程捕하레鈴森니하1500人노不逞鮮人가陣取쯔테居루附近노住民하在鄕軍人警官等協力시테警戒하物凄이토云하레테居루가眞僞하判明세누。

아키라(鮮)인의 음모는 전국에 걸치는 이재의 군중은 격앙해서 잘라서 버림 용서의 모양불령 아키라(鮮)인의 폭동은 상당히 조직적 근거가 있을 모양인 이달 2일 아침 아키라(鮮) 독립 운동에 관한 대회를 개최해 성전의 날에 것을 일으킬 예정으로 이미 요코하마(橫浜) 도쿄(東京)에 집합해서 거처 담쟁이 덩굴이 1일의 이상하게 遭 회합해서 행 한해서 활동을 시작한 것이다.
2일 신주쿠(新宿)에 있어서 아키라(鮮)인이 순경을 죽여서 그 피복대 쓰루기(劒)를 奪연고 착용해 자동차를 조종해 군중의 사이를 분주해서 있었던 것도 있었던 운전수를 권총으로 협박해 활동해서 있었던 것이 あ담쟁이 덩굴이 모두 군중에게 捉 줄어들어져 박살되어서 종료 담쟁이 덩굴.

그들은 또 센주(千住)의 육군제絨곳 후카가와(深川)의 피복廠의 일부에 폭탄을 匿 소장해서 둠之를 진척시키지 않는다로 하는 장소를 발견한 시내각처에 폭음이 들려 불길의 의외로 빨리 히로시(廣)가 담쟁이 덩굴의는 그들의 소위와 분 담쟁이 덩굴 고이시카와(小石川) 포병공창의 폭발도 그들의 행위로 あ담쟁이 덩굴 떠나면 민중은 격앙해 지금은 아키라(鮮)인과 보면 잘라서 버림 용서의 상태다.

그들은 교묘하게 변장해서 일본인간에 섞어 각 방면에 향씨로서 있지만 4일 가와구치(川口)라도 4명의 아키라(鮮)인이 포 담쟁이 덩굴 한사람은 죽음을 당해 기타는 반 죽음으로 되었지만 기이치(其一)인의 소지 다투는 선전 빌라로 D상술의 음모가 판 담쟁이 덩굴 이유(번역)으로 여전히 이삭 야마가타현(山形縣) 아카유(赤湯)에 폭탄 몇백개及兇그릇이 匿 소장해서 있다고 자백했으므로 곧 헌병은 동행 실지 조사에 향 담쟁이 덩굴 그들의 음모는 각전국에 걸쳐 인삼그것 타보따리장수등간에는 맥락상 통하여 있을 할 리(터)로 방심이 안된다.

불령 아키라(鮮)인을 도네가와(利根川)에서 총살 사체 곤(今) 히사시(尙) 물가에 옆 붙이는 6일 우쓰노미야(宇都宮) 특파원 아키라(鮮)인의 경계 일층 엄중이 되어된 위해서(때문에) 그들은 시중을 도망쳐 둔주하지 않는다로 한 각처의 경계 엄중 때문에 거의 포 줄어들어져 와카(若) 미친다는 총살된 게다가 4일 8명의 아키라(鮮)인이 재향군인청년단소방조의 추격을 수동체 다니(谷) 마리 도네가와(利根川)에게 【잔부】와만 뛰어들어 헤엄쳐서 도망치지 않는다고 せ 해 때(시기) (꼭)정확히 가교중의 공병대가 之를 보아서 곧 총살한 들으면 此땅에서 약100명 총살된 것 5일 오후 2시 사체는 아직 물가에 あ담쟁이 덩굴.
(홋카이도 타임스 다이쇼(大正)12년·9·6)

http://www 15.ocn. ne. jp/∼hide20/에 투고 기사일람표 및 일람표와 링크시킨 기사전문이 있습니다. 일부한수자를 아라비아 숫자로 바꾸거나, 독점(쉼표)를 생략 또는 추가하거나 하고 있습니다. 또, 여기저기에 하늘행을 삽입하고 있습니다. 구글자체는 신자체에 바꾸고 있습니다. 파랑글자가 서명이나 발췌 부분입니다. 적자는 특히 기억하고 싶은 부분입니다. 「···」은 단락전체의 생략을 「……」은, 문장의 일부생략을 가리킵니다.

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