Tuesday, June 5, 2012
Bangja, Crown Princess Euimin of Korea
李 方子(り まさこ、朝: 이 방자〈イ・バンジャ〉、1901年11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。
이방자(李方子りまさこ 리 마사코[*], 1901년 11월 4일 ~ 1989년 4월 30일) 또는 나시모토노미야 마사코(일본어: 梨本宮 方子なしもとのみや まさこ)는 대한제국의 마지막 황태자비로 의민태자 이은(李垠)의 비이다. 대동종약원에서 올린 사시(私諡)는 현덕정목온정자행황태자비(顯德貞穆溫靖慈行皇太子妃)이다.
http://blog.onekoreanews.net/moris/69
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2005/0511nov/02_1.html
梨本宮家の人々
中央に守正・伊都子夫妻を挟んで、左が長女の方子(まさこ)、右が次女の規子。大正7(1918)年12月。
梨本宮邸内応接室の写真
明治治3(1870)年、伏見宮第19代貞敬王の第十王子守脩親王によって創設された。明治元(1868)年、守脩親王は円満寺門跡から復飾。明治3年、梨本宮の称号を与えられる。明治14(1881)年の守脩王の死去後、本来なら一代で絶えるところを、山階宮晃親王第一男子菊麿王、さらに久邇宮家第一代朝彦親王の第四子守正王がともに養子となって跡を継いだ。
第三代守正王は明治33(1900)年、侯爵鍋島直大の次女伊都子と結婚し、後に朝鮮の李王家に嫁ぐ、方子女王と規子女王の二女をもうけている。この結婚に際し、当時屈指の富豪であった鍋島家は、洋式衣装すべてをパリのオートクチュールに発注。三万円あれば一生食べていけると言われ、時の総理大臣大隈重信の給与が年俸で九千六百円の当時、一個が二万数千円するダイヤ十個使った王冠を用意するなど、その豪華絢爛さは話題となった。
また、守正王は良子皇太后の叔父にあたり、伊都子妃は秩父宮勢津子妃の伯母にあたるなど、梨本宮家は明治・大正・昭和の三代の天皇のそば近くにあって、それぞれの時代を見つめてきた。
とりわけ旧藩主華族に生まれ、嫁いで皇族となり、戦後は臣籍降下によって一般市民となった伊都子妃は、明治32(1899)年の正月から昭和51(1976)年に95歳で亡くなられるまでの77年余り、ほぼ毎日日記を書き続けたが、その日記は激動の歴史に生きた皇族妃、そして、一女性の記録として貴重なものである。
なお、渋谷区渋谷一丁目にある東京都児童会館や旧渋谷小学校一帯は、かつて二万坪を有した梨本宮邸跡にあたり、現在、渋谷区立宮下公園に唯一残る「宮下」の名(町名)は、梨本宮邸の下に位置したところから付けられた。
http://silentsilent.blog.so-net.ne.jp/2009-04-30
梨本宮方子王女と李垠殿下 [物語]
伊藤博文と李垠皇太子
大磯に別荘を構えられた宮様は梨本宮守正様。一家は守正殿下を主に鍋島家から嫁いだ伊都子夫人
長女に方子王女と妹君の姿で、右手に立たれた方子王女が15歳の時、大磯の吉田茂邸の近くの別荘で、韓国皇太子李垠殿下との御成婚が決定したという事を新聞で知ったと云う。
大正5年8月3日の朝日新聞
李垠殿下と方子王女のお二人
彼女は大正9年に19歳で李垠さんと結婚し、波乱に飛んだ生涯を終え、平成元年の4月30日の今日韓国で死去された。88歳の生涯であった。晩年は韓国の福祉の母と親しまれ、生年が1901年で、同年に生まれた沢田美喜さんはエリザベスサンダースホームで孤児達のために生涯を捧げられた事を不思議な巡り合わせに想う。今も西小磯の海辺に、梨本宮別荘は主こそ違えひっそりと建っている。お二人はこの町で出会われた事もあったのであろうかと、、、、、、
虹を架ける王妃 ~朝鮮王朝最後の皇太子と方子妃の物語~ 完全版
http://www3.kitanet.ne.jp/~kimono/oume/kimono/13.html
http://xmugix01.exblog.jp/i7/3/
宮家の肖像
男性左からジグザグに
賀陽宮恒憲王 伏見宮博義王 多嘉王 朝香宮鳩彦王 高松宮
久邇宮邦彦王 久邇宮朝融王 李王垠 閑院宮載仁王 梨本宮守正王
伏見宮博恭王 李堈公 秩父宮 閑院宮春仁王 東久邇宮稔彦王
女性左からジグザグに
久邇宮俔子妃 伏見宮経子妃 李王妃方子 秩父宮勢津子妃 多嘉王妃静子
伏見宮朝子妃 朝香宮允子妃 賀陽宮敏子妃 閑院宮直子妃 梨本宮伊都子妃
http://ameblo.jp/jjtaro/entry-11131024296.html
李方子妃殿下
韓国で尊敬される女性の上位に名を連ねる李方子妃殿下。
大正9年(1920年)皇族梨本宮守正王と伊都子妃の第一王女として生まれた方子(まさこ)女王は李氏朝鮮26代高宗の第四王子、李垠(イ・ウン)殿下とご結婚されました。日韓併合後10年、政治的な意図の結婚ですが、日本の考え方が良く表れています。日韓併合が白人等の植民地支配と同列だとすると皇族から嫁がせるなど考えられません。例えば英国が王室からインド王朝に嫁がせるなどと絶対に有り得ないわけです。でも日本は異なり、満州国の皇帝溥儀殿下の弟、溥傑殿下には流転の王妃で知られている嵯峨侯爵のご令嬢、浩様が嫁がれています。八紘一宇という同胞として見る心があったのです。
方子女王は嫁ぎ先をなんと新聞で知ったのだそうです。
「世間では親とか家とかのために結婚することは珍しくなく、本人の意思が重んじられないのは普通のこと。皇族はさらに自由がないとはいえ、せめて新聞に出る前に知らせて覚悟を決め、『お受けします』ときっぱり申し上げたかった」
と母親の伊都子妃に申し上げたそうです。
正式に父守正殿下から婚約を告げられたとき、
「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」
と答えられたそうです。
この方子女王の返事には母の伊都子妃殿下は毅然として映ったものの、それがゆえ、いっそう心を痛まれたと言います。
方子女王はこのときまだ学習院の学生で丁度夏休みのことでした。2学期が始まった初登校の日、髪は韓国式に結い昂然(こうぜん)として登校します。その姿に学友たちは覚悟を感じ、圧倒され、感心したと言います。
お相手の李垠殿下は明治天皇がそれはそれは、おかわいがりになった方で、明治天皇からの贈り物だけでも尋常なものではありませんでした。明治天皇の愛情をふんだんに受けて育った李垠殿下は口数が少ない方でしたが、結婚後、方子妃が帰宅する李垠殿下を青いチマチョゴリで出迎えると「よく似合いますよ」と応えたといいます。
昭和20年(1945年)の敗戦後、方子妃殿下は皇族から除籍されます。その後、李垠殿下の死を乗り越え、韓国で福祉事業に打ち込みます。
「チョッパリが寄付なんて図々しい」
「よその国で何を始めようというのだ」
「おとなしく飼い殺しされていればいいのに」
こういった風当たりにも負けず、障害を持つ人たちの支援活動を続けます。62歳から87歳で亡くなるまで、方子様の四半世紀は福祉一色でした。知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立し、昭和56年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与されました。
平成元年四月三十日永眠。もうひとつの昭和の終わりと言われています。韓国では準国葬の扱いで、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)が追贈されました。
李方子妃殿下は韓国では尊敬される女性のベスト5に常に名を連ねるそうです。
参考文献
竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
ワック出版「歴史通」2009.7月号『軍人は戦争をしたくない』中條高徳/田母神俊雄
徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
参考サイト
Wikipedia「李方子」「高宗 (朝鮮王)」「李垠」「嵯峨浩」
添付画像
方子女王 1918年17歳の頃 (PD)
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