Tuesday, June 5, 2012

roaming princess,last Joseon crown princess,Yi Bangja Masako

http://tamutamu2011.kuronowish.com/rimasako.htm
이방자(李方子 梨本宮 方子
流転の王女(朝鮮王朝最後の皇太子妃)==李 方子(り まさこ/イ・パンジャ)


1901(明治34)年~1989(平成元)年




朝鮮王朝皇太子李垠(イ・ウン)の妃(左)



1901(明治34)年11月4日、久邇宮(くにのみや)朝彦親王の第4王子で1885(明治18)年に梨本宮家をついだ梨本守正(なしもともりまさ=フランス陸軍大学校卒後、第1旅団長や第16師団長をつとめ、1942[昭和7]年元帥となる。戦後、皇族中唯一の戦犯として逮捕されるが釈放された)と佐賀藩第11代当主鍋島直大(なべしまなおひろ)の次女伊都子(いつこ)の子(昭和天皇の妃、香淳皇后のいとこ)として生まれる。

昭和天皇の妃(きさき)の第1候補といわれていた最中の1916(大正5)年8月3日朝、いつものように大磯の別邸(梨本宮家は、渋谷に約2万坪の屋敷を保有していた)で夏を過ごしていた学習院中等科の生徒(昭和天皇の妃となった久邇宮良子〔くにのみやながこ〕は方子の1年下)であった15歳の方子は、その日の新聞を見て息を飲んだ。

「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」との記事を目にしたからである。

梨本宮方子女王殿下の婚約を報じる1916(大正5)年8月3日付『東京朝日新聞』=⇒拡大画像


自分の写真の隣には、朝鮮王朝高宗(コジヨン)国王の第7王子李垠(1897~1970。イ・ウン=日本名は昌徳宮李王垠〔りおうぎん〕。1907年純宗〔スンジヨン〕の皇太子となり、11歳の時、人質として留学の名目で日本にうつされ、日本の陸軍大学校卒業。1910年の日韓併合により、日本の皇族待遇となる。敗戦時は陸軍中将)の写真が掲載されていたのである。

なお、当時の皇室典範は、皇族は皇族または華族(中でも旧摂家クラス)と婚姻できる旨の規定はあったが、日韓併合後、旧韓国皇帝の親族や一族に対する称号である王族と公族、つまり「王公族」との婚姻は予定しておらず、当然のことながらそうした規定はなかった。そのため李垠と方子との婚姻に際して1918(大正7)年に皇室典範の「増補」(旧皇室典範大日本帝国憲法 と同格の不磨の大典であたったので通常の法律とは異なり「改正」ではなく増補として処理された)して、「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」の一文を追加しなければならなかった。

それから4年後の女子学習院高等科を卒業した方子は、「日鮮の架け橋」「日鮮融和の礎」としての役目を担うために1920(大正9)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の東京・李王邸での結婚式に臨んだ(このとき、結婚に反対する朝鮮人大学生が、ピストルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、検挙された)。

梨本宮方子女王殿下の結婚を報じる1920(大正9)年4月28日付『東京朝日新聞』=⇒



新婚当時=⇒

婚礼衣装


その時の感想を方子は、「白絹地に刺繍をした英国風宮宮廷大礼服、ロープデコルテー・ド・トレーンの着付け、ダチョウの羽を飾ったチュールを頭に付けたうえからダイヤをちりばめた王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました」と述べている。

いうまでもなく、日本人も朝鮮人も、すべて日本の国民だという「内鮮一体(「日鮮融和」)」の象徴としての国家の都合による(日本の植民地支配を確固とするための)政略結婚であったが、方子は日本人であることを止め、李垠と同じ朝鮮人になろうとして彼を理解し、支え続けた。

李垠と結婚して東京にすむことになった方子は、結婚2年後、王子を出産した。名は晉(チン=しん)と命名されたが、朝鮮側の強い要望により生後8ヶ月の晉を連れて方子は夫と共に初めて1923(大正11)年4月26日、関釜航路の新羅丸で朝鮮に渡った。朝鮮側は夫妻を熱烈歓迎し、2週間帰国行事は滞りなく終わり、明日日本に帰国する日に、悲劇が起こった。

お別れの晩餐会の後、部屋に帰ると、晉が青緑色のものを吐き続けている場面に遭遇することになったのである。そして3日後、激しい雷雨の中わずか晉はわずか8ヶ月の命を終えることになる。日本人の医師達は、急性消化不良と断定したが、「血を尊ぶ朝鮮王家が日本人の血に汚されることを嫌った」毒殺説が流布されることになる。

1931(昭和6)年12月29日、方子は2度の流産を乗り越えて、王子玖(ク=きゅう)を出産、夫は、1935(昭和10)年、宇都宮第14師団歩兵第59連隊連隊長として赴任、1943(昭和18)年には、第1航空軍司令官に任命される。

そして敗戦。

占領軍の民主化政策の一環としてだされた皇族の特権の剥奪(臣籍降下=しんせきこうか=旧憲法下、皇族がその身分を離れて臣籍に入ること。皇族として残ったのは、天皇と直接血のつながりのある直宮〔じきみや〕の秩父・高松・三笠の3宮家のみ。なお、戦前日本〔大日本帝国〕では、皇族は秩父、高松、三笠の三直営と、東伏見、山階、伏見、賀陽、久邇、朝香、梨本、東久邇、北白川、竹田、閑院の11宮から成り立っていた)により、王族としての身分を失い、在日韓国人として登録された。

1950(昭和25)年には、マッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩(リ・ショウバン)と李垠が会談をしたが、李承晩は故国への帰国を願望していた李垠に対して、「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い放つ。

冷たく扱われた李垠は、結局、帰国をあきらめた。

1960(昭和35)年に大統領に4度選ばれた李承晩であったが、翌年、不正選挙を激怒した学生たちによる民主化革命により失脚、クーデターに成功して権力を握った朴正煕(パク・チヨンヒ)が、脳血栓で倒れた李垠の容態を案じ、韓国での生活費や療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡するところなる。

1963(昭和38)年11月22日、皇太子として11歳で故国を後にして以来、朝鮮戦争の結果38度線で南北に分断された祖国韓国に、実に56年ぶりに帰国する夫李垠にともなって韓国籍を取得した方子は韓国へわたる。

李承晩政権による12年間に渡る厳しい排日政策の結果、反日感情は極限に達していたが、韓国国民は夫妻の帰国を大歓迎、沿道はちぎれるように手をふる出迎えの人並みの歓呼の声に包まれ。だが、脳血栓と脳軟化症ですでに意識は無くベッドに寝たままの李垠は、それすら目にすることができず、また国の土を踏むことなく、そのまま病院車でソウルの聖母病院に直行せざるをえなかった(帰国7年後の1970年に李垠は死去)。

韓国に帰国されることは許されたが、かつての国王としての財産は没収されたため、韓国政府から支給される経費は、李垠の入院費と生活費で消えしまった。そうした中、方子は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売りはじめる一方、ポリオなどで麻痺した子どもたちの自立能力を引き出すことを目指して精神薄弱児の教育に情熱を注ぐ。

方子の努力は知的障害児施設「明暉園」(めいきえん/ミョンヒウォン。「明暉」は李垠の雅号)の設立、その後の精神薄弱児のための「慈恵学校」の創設で結実し、多くの韓国国民から、「韓国障害児の母」として敬愛される存在となるが、1989(平成元)年、87歳で逝去した。

ここに、15歳の時の「日韓の架け橋」になろうとの決意のままに、その後の72年間の「波乱といばらの道」を歩き続けた方子は、その数奇な人生を閉じたのである。

方子の葬儀は準国葬として取り扱われ、1989(平成元)年5月8日、韓国からは首相の姜英勲、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列するなか、古式に則った1,000人の従者を伴った葬礼の行列となり、多くの韓国国民が見送る中、朝鮮王朝王宮から既に19年前に亡くなっていた李垠が眠る王家の墓までの2キロの道を進んだのであった。

なお、2002(平成14)年5月31日、韓国を訪問中の高円宮(たかまどのみや=1984 〔昭和59〕年、三笠宮崇仁〔たかひと〕親王の第3皇子憲仁〔のりひと〕親王〔2002年11月22日、47歳で死去〕が創立)夫妻は、方子が最初に創立したソウルにある障害者福祉施設で方子が使っていた礼服や靴などの遺品が展示されている「明暉園」を訪れている。そのとき、方子さんの友人の韓国人女性金寿妊((キムイスン=81歳)が「天皇陛下に(方子さんの)お墓参りに来られるようにお伝えください」と話すと、高円宮は「ええ、伝えます」と答えたといわれている。



03年4月19日付『東洋経済日報』-故高円宮殿下が見た韓国-第7回-


李王家に嫁いだ李方子さんが晩年まで住まわれた楽善斎(ソウル・昌徳宮)

仁政殿から5分程奥に入ったところに楽善斎という建物があります。本来皇太后さまのお住まいとして1847年に建設されたものだそうですが、梨本宮家から朝鮮王朝最後の皇太子さま李垠殿下に嫁がれた李方子さまが、1989年に逝去されるまでお過ごしになったところです。
私たちはそこで最後まで方子さまのお側でお仕えした女官さんのお話を聞く事ができました。87歳でお亡くなりになるまで、毎日9時には事務所にいらっしゃり、韓国の人々の為になるよう一生懸命お働きになられたこと、また常に日韓の架け橋になろうというお気持ちを強く持っていらしたことなど話してくれました。
また方子さまは、知的障害者施設の明暉園をはじめ、様々な福祉活動を長年続け多くの韓国国民に慕われた方です。翌日安山市にある明暉園を訪れ、御一緒に活動をつづけてきた方達にもお目にかかりました。宮様は施設の若者が電機部品の組み立てや衣服縫製などの職業訓練をしている姿を熱心にご覧になり、にこやかに話しかけていらっしゃいました。
また、身体障害者の別棟で機械を使って洋服を編んでいる数人の女性にと会いましたが、その内の一人は小さい頃から方子さまにたいへん可愛がっていただいたと懐かしそうに言っていました。
明暉園には両殿下のブロンズと方子さまの御遺品などが展示されている記念室があります。その壁一面に書や墨絵のお額がいくつも飾ってありました。方子さまは「和」という字を好んで書いていらっしゃいましたが、このたび御生活ぶりを存じ上げている方のお話を伺い、その言葉の持つ重みを改めて考えさせられました。


参考文献



李方子著『すぎた歳月』(明暉園1968年 非売品)
李方子・李保慧著 『歳月よ王朝よ』-後の朝鮮王妃自伝-(三省堂 1987年)
李方子著『流れのままに』(講談社 1968年))
李方子著『動乱の中の王妃』(啓佑社 1984年)  


老いたる母の願い

梨本 伊都子(なしもと いつこ。1882~1976)

このたび李方子が自叙伝を出すにあたり、なにかひとこと書けといわれましたが、母として特別に書くこともありません。校正刷を読んでゆくうち、過ぎ去ったさまざまの出来事が、よろこびや悲しみと共に思い出されて、とめどなく涙が流れてきました。よくもここまでこぎつけてきたものと、感慨無量でした。

世の中のことはなにもしらないうら若い乙女が、ただお国のためにとおしつけられた思いもかけぬ結婚、しかもそれは、ひとことの相談もなく決められ、一生を犠牲にしてしまう運命となったのです。 

母親としてなんともしてやれない悲しさ、苦しさ。表面は笑顔で過ごしていても、心の奥のなやみは、その後、長く長く、耐えしのびつづけてきたことでした。同じく悩み多き日々を過ごしてきた方子----これもなにかの因縁でありましょうか。母は、ただただ、つつがなかれと祈るのみでした。

だが、相手の垠殿下は、人間として立派な方でした。夫婦としてのふたりは、むしろしあわせであったと思います。たとえ、たどってきた道はけわしくても、それに耐えぬいてこられたのは、ふたりの、人間としての結びつきと愛情の探さにあったのだと思います。

結婚の前後、とくにいい聞かせたことをよく胸におさめ、方子が李王家のためにつくしてくれたことは、なによりうれしいことです。人間はなにによらず忍耐が第一だと思います。

そして、明治、大正、昭和と3代の世の流れと共に、数々の出来事をきりぬけて、いまは韓国に帰り、ご病気の垠さまにつくし、社会事業や心身障害者のために心をくだいていることは、まことにうれしいことです。

今後は、垠さまのご病気が少しでも快方にむかわれて、なつかしい故郷の地で、いつまでもしあわせにお過ごしあそはすことを、ひとえに祈るのみでございます。

梨本 伊都子=1882(明治15)年2月2日ローマ生まれ。鍋島直大(なおひろ)の次女で、梨本宮家をついだ梨本守正(なしもともりまさ)と1900(明治33)年に結婚し、皇族となる。守正がフランス留学に際しては同行し、フランス社交界で「花」とうたわれた。1947(昭和22)年皇族籍を離脱。1976(昭和51)年8月19日に94歳で死去。1885年(明治18)年に女子教育者下田歌子らにより華族子女の教育のために設立された設けられた華族女学校(1906〔明治39〕学習院女学部として合併)卒業。著作に『三代の天皇と私』、日記に『梨本伊都子日記』がある。

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