元寇 Mongol invasions of Japan in 1274 and 1281
원나라의 일본 원정
http://www.asahi.com/national/update/1020/SEB201110200016.html
元寇の船、長崎・鷹島沖で発見 原形とどめる
「蒙古襲来絵詞模本」(東京国立博物館本)に描かれた元寇船
見つかった元寇船の一部。昨年の調査で発見され、今回ほぼ完全な形で残っていることが分かった=琉球大ウェブサイトから
元寇の襲来ルート
長崎県松浦市の鷹島沖の海底に、13世紀の元寇(げんこう)の沈没船がほぼ原形をとどめた形で埋まっていることが分かった。琉球大法文学部の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)らの研究チームが20日、明らかにした。この海域では元寇船のものとみられる船の木材や武器などがこれまでにも引き揚げられているが、船体の構造を保った状態で確認されたのは初めてだ。
池田教授らによると、元寇船は鷹島沖合の水深20~25メートルの海底にあり、約1メートルの砂泥に埋まって横たわった状態で見つかった。
船の背骨にあたる重要な部材(竜骨=キール)が幅約50センチ、長さ約15メートルにわたって確認され、キールの両側に沿って外板が2~5メートルの範囲で並んでいた。
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/51336005.html
元寇残忍さと「前期倭寇と後期倭寇」
2011/1/22(土) 午後
前期倭寇と後期倭寇
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。
前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。以下、元寇の残忍さを紹介する。
前期倭寇
前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。
日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。
その証拠として前期倭寇の初期においては、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。さらには、連れ去られた家族を取り戻すためであった事例もあり、実際に家族と再会した記録も残っている。
1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。
倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。
倭寇討伐で名声を得た李成桂は、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を建国した。倭寇の勢力は著しく衰退したものの、朝鮮への侵入が完全になくなることはなかった[1]。しかし1419年に朝鮮王朝が軍を対馬に送って倭寇を撃破(応永の外寇)したことと、同年に遼東半島で明軍に敗れたことが致命傷となった。
応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である、と記述されている。
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が南北朝合一を行うと、義満は倭寇討伐を行い、新たに「日本国王」として冊封され、勘合貿易が行われる。
前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名の日明貿易の独占や対馬と朝鮮の間の交易再開、李成桂による征討などによって下火になっていく。
後期倭寇
日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起った応仁の乱により混乱状態が戻ると、再び倭寇の活動が活発化する。
後期倭寇の中心は私貿易を行う中国人であったとされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。ただし少ないながらもこれら日本人は、当時日本が戦国時代であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦争の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。
この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国や朝鮮の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人も関わっていた。
後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。
その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。
しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。これが豊臣秀吉による文禄・慶長の役の一つの伏線となる。
後期倭寇の、中心人物は私貿易(密貿易)を行う中国人で、日本人は、10人中3人くらいしかいなかったといわれています。
代表的な倭寇として、王直(おうちょく)がいます。王直は、中国人でしたが、五島列島や平戸を本拠地として、暗躍しました。
王直は、日本に興味を持っていたポルトガル人数名を、船に乗せて、日本に向かう途中、種子島で台風に会い、1ヶ月の漂流後、種子島に漂着しました。このとき、ポルトガル人は、日本に鉄砲の、売り込みを考えていました。このとき、通訳をしたのが王直です。
同時に、王直は、鉄砲を撃つのに、欠かせない、火薬の原料である硝石を売り込もうとしていました。
ザビエルを、日本に運んだのも、王直です。王直は、最後は、明王朝によって、逮捕され、処刑されてしまいます。
倭寇以後の東アジア海上世界
豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾や林鳳(リマホン)、明を奉じて清に抵抗した鄭芝竜、鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。
日本の海賊といえば鎌倉時代から室町時代にかけて、東シナ海や黄海を暴れまわった倭寇が有名だ。
倭寇は海賊とは言っても元々は密貿易を本業としていた連中だが、明国政府、幕府の取り締まりや、さらに他の海賊との間の抗争などもあって、次第に武装集団化して海賊になったものと見られる。
倭寇には前期と後期によってその構成員や活動目的、範囲などが変わってくる。前期倭寇は13世紀終わりから14世紀に活躍し、日本人が主要メンバーであった。
前期でも初期段階の倭寇集団は、対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民たちと元寇の役で経済的窮乏で没落した武士団が倭寇の興りである。
彼らは元寇に際して、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された被害者とその遺族であった。彼らを「三島倭寇」と総称された。
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。
高麗王国はこの倭寇によって衰退させられた。
高麗を攻撃した倭寇は既に海賊という規模ではなく、数千人規模の騎兵隊や武装歩兵軍団で構成され、今でいう海兵隊のような軍隊規模の組織であったらしい。
おそらくこれほどまでに朝鮮半島内部まで荒らしまくったのは、元寇での被害が想像を絶するほど、筆舌に尽くしがたいものがあったことを物語っている。
これに対して高麗も黙っていたわけではなく、何度も倭寇殲滅作戦を敢行している。対馬は倭寇の根拠地だったこともあり、対対馬倭寇掃討作戦を実施して成果もだしている。
しかし、結果的には倭寇討伐軍司令官の李成桂が弱体化した高麗をほろぼし、李氏朝鮮を成立させた。
高麗史から見た前期倭寇の出現図
それにしても地方の田舎の住民集団が一国の王国を滅亡に導くほど、軍事的に強力であったのは驚きである。
もっとも西国豪族の武士団が中核となっていたはずだから、今風に言えば、海軍軍閥であったのだろう。
逆に高麗王国はそれほど軟弱なヘタレ国家だったのだろうか?
14世紀終わりから15世紀になると朝鮮人が倭寇の中心になる。彼らも相変わらず、自国なのに李氏朝鮮王国を荒らし始める。
15~16世紀にはいると、後期倭寇の主要構成員は朝鮮人から中国人に代わっていく。明国は朝貢貿易しか認めず海禁令を敷いて海外貿易を自由にさせなかった。このことが密貿易を盛んにさせる原因となった。
日本人は約3割以下だったが、当時日本は戦国時代だったこともあり、武士崩れの浪人達が中国人などの密貿易商人の指導をしていた形跡もある。
倭寇図巻明軍(左)と倭寇(右)の海戦
中国人や朝鮮人が主体なのに倭寇という言い方はおかしいが、初期倭寇が高麗王朝を衰退させるくらいの強力な海賊だったので、当時の朝鮮や明国の沿岸部では「倭寇」という名前そのものが恐怖の代名詞だった。
それで朝鮮人や中国人はお得意の「虎の威を借るキツネ」の如く、自ら倭寇を名乗ったのだ。
倭寇は豊臣秀吉の倭寇取り締まり令(1588年)の発令でようやく活動を弱めた。李氏朝鮮もこの時代までずっと倭寇対策が国の重要安保政策だった。
もっともこの時代は中国人が主体だが、日本の戦国浪人や博多商人や朝鮮人さらには、スペイン、ポルトガルの商人や船員崩れなども加わり、多国籍海賊になっていた。
しかも当時の最新兵器である鉄砲も装備し、中には大砲も装備した軍艦仕様のものもあったらしい。
http://ryotaroneko.ti-da.net/e2202547.html
倭寇の回数推移(田中健夫著「倭寇と勘合貿易」所蔵の統計より
コメント(3)
<文永の役>文永11年(1274)
10月3日元軍「蒙古人・女真人・中国人など2万人に、高麗軍8千人、水手6700人を加えて総勢約3万5千人」を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。船は大船、快速船、計900艘。
10月5日、対馬の西海岸の小茂田の海岸にあらわれた。守護少弐氏の代官である宗資国は80余騎でかけつけ、来意を問うが、敵軍は船上から矢を放ち、千人ばかりが対馬に上陸した。資国らは、たちまち、討ち死。小茂田の家屋は焼き払われ、焦土と化した。
14日には壱岐の北西海岸勝本・鯨伏方面で元軍は、400人が上陸し占領した。この際、島の男は見つかり次第殺され、島の女は掌に穴を開けられ縄を通して船縁に吊るされたと言う。
壱岐に住んでいた島民全員根絶やしにされた。(『新元史』)
10月19日博多湾に到着した元軍は、今津や百道海岸、志賀島に上陸し、住民は惨殺された。
日本軍は10月20日に、博多・箱崎を放棄、太宰府まで撤退する。
元軍は、博多の町に火をかけ八幡宮も焼けた。博多はこの一日で殆どの市街地が灰になり、男は殺され女は辱められた。
建国記念日に
2011/2/11(金) 午後 0:07 [ 中国により酸性雨やセシウムが高い ]
高麗は同時期に延べ16万の紅巾軍による侵略を退けてますからね。元の差し向けた軍も破っています。倭寇が好き放題できたのは高麗が北方に力を傾けていたからです。北方が安定してくると高麗は水軍を再建して攻勢に出て、倭寇を撃ち破っていくことになりますが。
また滅亡の主要因は仏教勢力による私有地拡大であって、倭寇による害は一因にすぎません。
末期の高麗は非常にしぶとい国です。軟弱なヘタレ国家とは程遠いですね。
2011/10/18(火) 午後 8:50 [ nip*o*kda*se ]
付け加えておくと、倭寇とたたかったのは高麗だけではありません。
日本の北朝も高麗の働きかけをうけて、共同で戦っているんです。
現在の研究状況では南朝が倭寇に深く関与していると言われていますが、当時も北朝の九州探題は倭寇と南朝を同一視しています。
北朝方の大内氏は武士団を高麗に送って倭寇討伐をさせましたが、包囲殲滅されています。武士団を包囲殲滅するとは、倭寇は単なる海賊ではありません。
2011/10/18(火) 午後 9:23 [ nip*o*kda*se ]
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