Friday, August 24, 2012

the agricultural history in Chosun

http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/22.html


三日月城通信
李氏朝鮮農業史


1390? 木綿が中国から伝わる
1400? 日本と江南から半島南部に水田稲作法が導入される
1403 量田法の導入

1419-25 6年連続の凶作
1428 平安道に水田・田植法が流入
1441 ツツジを日本から導入
1450前後 水稲稲作技術(朝鮮半島南部)、水車(普及せず)、水田稲作稲籾を日本と中国から導入するもあまり普及せず
1470 平安道・黄海道で木綿栽培が広がる
1590-1620 唐辛子(1592-1615?)、煙草(1614?)、南瓜(1605?)を日本から導入
1600代? 日本の早稲育生法と田植え法が全国に広まる
1608 大同法を京畿道に導入
1650 水車制(これも失敗?) 水車技術を日本から導入
1651 大同法を忠清道で施行
1657-1662 6年連続の干ばつ
1658 大同法を湖南で施行
1666-1671 6年連続の干ばつ 当時の李氏朝鮮の人口約516万の内、100万が餓死
1696-99 飢餓と疫病で、577万居た戸籍人口が141万減少(人口の2割が餓死したと思われる)。
1700代 トウモロコシが中国から伝来
1700代? 食用リンゴが中国から伝来
1708 大同法を全国で施行
1729 山間部の火田(焼畑)禁止令
1763 サツマイモが対馬から伝わる
1778 落花生が伝来
1801 人参の人工栽培が始まる(日本では1725年から始まっている)
1824 ジャガイモが中国から伝来
1850 完全結球白菜が中国から伝来
1892 西洋リンゴが日本から伝わる
1904 アメリカ木綿種子が日本から伝わる
1905 日本梨(金村秋、名月、長十郎など)、日本種リンゴ(祝、紅魁、紅玉、満紅など)が日本から伝わる
1906 農業技術が日本から伝わる
1907 水稲早生(早生神力) が日本から伝わる。朝鮮風俗集に、忠清北道に導入したところ(水田稲作の技術はそのままで)収穫が2割増えたたとある
1908 水稲(穀良都、多摩錦、日出、関山、雄町など)が日本から伝わる
1908 西洋リンゴ、桃、洋なしなど(欧米からの流入を含む)が日本から伝わる
1908前後 灌漑用具、脱穀機具、畜産用具、養蚕用具、堆肥法、鍬、鎌、シャベル、唐箕、籾挽き、灌漑用水車、除草術、病害虫駆除技術、種子の選別技術、田植え法、中耕、収穫法、包装法・・・など近代農業が日本から伝わる
1926 甘柿(富有柿)が日本から伝わる これ以前に朝鮮半島に甘柿は存在しない。
1993以降? 苺(レッドパール、あきひめ)を日本から盗んで増殖。
2002? 水稲(コシヒカリ)が日本から伝わる


☆干ばつ対策に関する小考
www.jice.or.jp/report/pdf15/jice_rpt15_06.pdf
518年続いた朝鮮時代の干ばつ関連記録は100 件ほどが残されている。当時の干害のほとんどは飢餓によるものであった。平均5年に1回干ばつが発生しており、2年連続干ばつが15回、3年連続干ばつ4回、4年連続干ばつが 1回発生している。


http://blogs.yahoo.co.jp/kekiti00012777/58867025.html

『日韓・歴史克服への道』下條正男著 参照)
 今、李氏朝鮮時代の歴史ドラマをDVDでみていますが、政治抗争に明け暮れているのを見ると本当にかなしいです。同時に当時の民衆の辛さに胸が痛みます。 しかし、通信使正使や随行員のなかには、庶民の事を念頭において役を果たそうしているものもいたように思われる。それは日記の中にちらほらとでてくる。
 次下の記録をどうぞ。
 朝鮮の水車に関する記録
 第11次朝鮮通信使従事官書記金仁謙の個人的日記「日東壮遊歌」
 1月27日条 淀浦(淀」  
  河辺には城(淀城)が築かれている たいそう珍しい眺めである
  河の中に水車を設け 河の水を汲み上げ
  その水を溝へ流し込み 城内に引き入れている
  その仕組みの巧妙さ 見習って造りたいくらいだ 注
  水車を子細に見ると 形は糸車と同じである
  左右に差し込んだ桟が 各々二十八あり
  桟の先には 板を一枚ずつ取り付けて
  水中で立つようにし 流れが板を押すと
  水車がにとりでに回る 桟の先には小さい桶を
  紐でくくり付けてあり その桶が水を汲み上げ
  水車の回転とともに上にあがると 桶の下にさしこんだ棒が
  空中に突き出た木に 引っ掛かり
  桶の水がこぼれ 溝に入るのである
  さらに水車がぐるぐる回れば 空の桶が下りてきて
  再び水をくみ上げるという繰り返し 昼夜分かたず休みなく
  人の手も借りず 高い城壁を
  水が越えていくのである 城内のすべての人々が
  この水を飲み 不足することがないというから
  まことに驚嘆の極みである 何ともうまくできたものだ
 同じ水車について、趙正使は海槎日記に次のように書いています。

「1月27日条  淀浦を望見するとすると青い湖が四面を囲み、白雉が川に浮かび樹林が鬱蒼として樓薹が見え隠れする。城外に水車二台があって形状は?絲車の如くであり、波に従って自転しながら水を汲んで桶に注いで城中に送った。見ると甚だ不思議なので別破陣の許圭・都訓導の卞璞をして詳しく其の制度と形状を見させた。もし其の製作方法を移して我が国で使用すれば潅田の方法に有利となるだろうが、両人が必ず成し遂げるかどうか分からない。」 結果的には上の年表が示すように朝鮮に定着はしませんでした。訳注 見習って作りたいくらいだ。 この水車については、第一次使行(1607年)の記録「海槎録」にすでにあおの見聞録がみられ、その後の使行の記録にもたびたび登場し、画員による絵も伝えられている。このように使行らによって関心がもたれたにもかかわらず、朝鮮ではなかなか製造するには至らなかったのか、1881年に朝鮮が日本に派遣した「神士遊覧団」の視察コースの中にも同地の水車製造所が含まれている。(イ ホニョン『日槎集略』4月23日条)
 参考
水車
水車(すいしゃ)は、水の位置エネルギーを、回転運動のエネルギーへ変換する機械(原動機)である。電動機や蒸気機関が普及するまでは、揚水・脱穀・製粉・製糸などに広く使用されていた。 現在でも少数ながら水田の揚水用などで見ることができる。わが国へは、中国大陸で発達していた水車が朝鮮半島・高麗国を経て伝来したようで、日本の水車についての最初の記録は、「日本書紀」(720)です。推古天皇18年(610)のころ、水力を利用した臼があったことが記録されています。(「日本書紀」の第22巻推古天皇の御代(592年~628年)飛鳥時代、「18年の春3月に、高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり、旦能く彩色及び紙墨を作り、井て碾磑造る。蓋し碾磑徴を造ること、是の時に始るか」610年3月に朝鮮の高麗王の命により、曇徴(だむじん)という僧により日本にもたらされたとあります。文中にある碾磑(てんがい)とは、水力を利用した臼のことですので、これは粉ひき用だった。1世紀後の大宝元年(701)に制定れた大宝令雑令の中の碾磑については、「凡そ水を取り田に灌漑せんとするには、皆下より始め順次使用せよ、其渠によりて碾磑を設くるには国郡司を経、公私妨害なくば之を聴許せよ」と書かれています。すなわち「水を取り入れて田をかん漑しようとする者は下流より始めて順次上流に使用すること、その場合は国司や郡司の許可を経る事」という意味です。これらの記述は動力用の水車で、灌漑用の足踏み水車ではないようです。)承安四年(1174)作成されたと伝えられる「丹波国吉富荘絵図」には、熊原村のあたりに水車が描かれています。建久6年(1195)の「東大寺建立供養記」には、水車で大量の精米をし、人力を省いたという記録がありますし、「徒然草」第51段には、建長7年(1255)に後嵯峨上皇が京都の西、嵯峨野の亀山のふもとに仙洞御所(亀山殿)を造られ、亀山 殿の池に大井川(今の保津川)から水を引いた際に「亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて水車を造らせられけり……」とあります。しかし、一般には水車は精米に使用されることは少なく、精米は足踏み式の米搗き機が用いられていたようで、水車は一般には、灌漑のための揚水用に利用されることが多かったようで、足踏み式の水車が多く用いられたようです。白米を食する習慣の広がりとともに、おもに精米のために使用されたが、江戸時代後期には工業的原動力としても部分的に使用された。幕末日本は非西欧圏ではもっとも水車の普及が見られた。

 踏車
踏車(とうしゃ・ふみぐるま)とは、人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるからくりをいう。ときに水車と称することがあるが、原動力機関としての水車とは根本的に別物である。類似のものはアジアの稲作地域に見られる。日本でも過去、この足踏み揚水機が活躍していた。『農具便利論』(1822年)によると寛文年間に大坂農人橋の京屋七兵衛と京屋清兵衛が制作し、諸国(日本国内)に売り出したと記録されている。 竜骨車 竜骨車(りゅうこつしゃ)は、農業用水を低地の用水路から汲み上げ、高地の水田に灌漑せしめる、木製の揚水機。中国で発明されたとされ、日本にも伝来した。水樋の中で、数多くの板を取り付けた無限軌道を回転させ、樋内の用水を掻きあげる。無限軌道は、上下2個の車輪で回転させるが、うち上端の1個の車輪を2人が相対して踏み、回転させる。その形状が竜の骨格に似るところからの命名。高度な発明品であったが17世紀以降の日本では足踏み式揚水機(踏車と呼ぶ)の発明、普及により駆逐された。これは踏み車の方が、仕組みがシンプルであり、農民にとっては手頃であったからと考えられる(単純な構造品の方が使い勝手が良かった為、とって代わられた)。












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