Thursday, September 20, 2012
Showa modern and cafe around 1935'
http://booklog.kinokuniya.co.jp/jinbunya42/archives/cat426/
http://ohoshisama.info/syowakarano/03syouwaA/historyS/historyS05.htm
http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/2009/06/
友人の住所の紙(白金台町と書かれている)をもとに友人の久子(赤木蘭子)を訪ねると、丸の内の会社に勤めていると手紙にあったのは嘘で、カフェの女給であることを知る。しかし別に全然ショックを受けた様子でもなく、カフェの2階にしばらく泊めてもらうことになる。
仕事を探して再び丸の内を歩いていた千代は、偶然昨夜カフェで会った小川(大川平八郎)と会い、喫茶店でいろいろと現状を聞いてもらう。結局、千代もカフェで女給として働くことになる。小川がカフェに来て、千代と一緒にビールを飲んでいるシーンから突然、千代と小川が夜汽車に乗ってどこかに向かっているシーンとなる。2人の会話から、結婚を約束しての婚前旅行であることがわかる。伊豆あたりの旅館の朝、小川の写真と公金横領で女給と逃亡と書かれた新聞記事を見てあせる小川→突然宿を出て車に乗って海岸シーンを走る→警官の姿を見つけて車を降りて山へ逃げる二人→山を捜索する警察→犯罪を千代に告白し、一緒に死んでくれという小川と自首してほしいと涙ながらに訴える千代 とめまぐるしくストーリーが展開する。成瀬作品でこのような題材のサスペンスシーンは珍しいなと考えていたら、突然 カフェの2階で寝ている千代を起こす女給の姿が。これは昨夜ビールを飲みすぎて寝てしまった千代の夢だったことがわかる。やられたって感じである。
http://nakaco.sblo.jp/article/36682248.html
2010年03月25日
街の人気者?
前々回、学生さんは街の人気者、と歌っている中野忠晴の歌を紹介しましたが
本当に戦前の大学生は街の人気者だったのでしょうか
アサヒグラフ昭和7年3月
「朗らかに脛をかぢる」というタイトルの記事から
裕福な学生達がダンスをしたり玉突きをしたり、ゴルフをしている写真もありました
親の脛をかじって優雅なものだ、といった論調です
ジャズで踊って リキュルでふけて あけりゃおふくろの涙雨
昔っからひっきりなしに脛をかじらせて来たこの室内スポーツ。
紅白の玉を突きまわして居る分にはまだいいが、ゲームとりのお嬢さんのためにかよい出したりするとたまらない…
昭和10年1月
「彼等の転向~カフェにロックアウトを食った学生群の行方~」
という記事
「学生未成年者の方 ご遠慮願ひます」
これは何の看板かというと
学生がカフェ、バーなどの頽廃的場所に出入するのはいかん、と云う訳で警視庁では現行風紀取締りの規則条項一部を設定し、学校当局と協力して昨秋以来監視を続けて来た。
ネオン街に関するその条項は
制服制帽の学生及び未青年者の特殊飲食店に出入絶対禁止
同じくダンスホールへの出入禁止
この取締り規則は直接学生に働きかけるものではなく、営業者に対し罰則を設けて未然に防ぐようになっている…
というようなことになったようです
で、行き場をなくした学生が囲碁や麻雀、歌にも出て来たスケート場、酒が飲みたければおでん屋へ(隣に女性が座ってサービスするような店がいけなかったのだそうで)というわけですが
とはいえ洋服を着替えれば良かったり、違反しても説諭のみで帰されたり、学校でも積極的ではなく掲示しただけだったとか、なかなかにユルイ条項だったのかもしれません
軽快なスポーツ、レコードのメロディーが映画のサンモリツを思いださせる
娯楽場の氾濫がスポーツにまで伸びて、日暮れともなれば賑わい出すスケート場。
飲み過ぎの翌日では滑れますまい
酒を求めるにはおでん屋がある。
一合二十銭也で徳利が林立すると呂律が怪しくなって来る
すぐ近所から女給の嬌声が、レコードの流行歌と共に現実へあおり立てて呉れる
ものは考え様とは良く云った割烹着も絢爛たる錦紗に見えるとは、チト云い過ぎましたかな
昭和15年5月
「学生は街頭へ御通学」という記事
銀座の舗道をゆきかえり三度、しゃなりしゃなりと連れ合う派手すがた
時局にもかかわらず、学生達は暢気なのではないか、というような内容です
昭和16年頃の広告
タバコは兵隊さんや勤労者へ
ますます肩身が狭くなってきます
なんだか学生に対してシニカルな記事ばかり集めてしまいましたが
一方で進級や文官試験の今にも勝る大変さや夏のアルバイトに精を出す、なんて記事もあるんですけどね
総じて当時の人々の学生に対する心情は、厳しくもあり甘くもありという感じでしょうか
現代の学生とは違ったある種特別な存在として、羨望や妬みもありながら、将来への期待もされていた、という所かもしれません
そんな社会から猶予をあたえられていた学生達もやがて徴兵延期措置が解かれ
昭和18年、彼等もまた戦地に赴く事となります
http://nakaco.sblo.jp/article/37159529.html
2010年04月16日
河目悌二の挿画
「苦心の学友」という好きな小説がありまして
これは佐々木邦が昭和2年から4年まで、雑誌「少年倶楽部」に連載していたいわゆる少年小説です
といっても大人が読んでも大変面白いです
お話の内容は、元大名の伯爵家の若様の所に元家来の家から御学友として同い年(中学一年生)の主人公が住み込みにあがる、というものです
作者の佐々木邦はユーモア小説の始祖みたいな人ですし、少年向け小説ですから、とても明るく楽しい小説です、それでいて主人公内藤正三君の頑張り、本当の忠節とは、友情とは、そして時代は変わって平等な世の中になっているのだという事も、最後まで読めばちゃんと伝わって来る、たいへん良く出来た小説で、当時の読者の人気もすこぶる高かったのだそうです
さて、その「苦心の学友」の挿し絵を描いたのが河目悌二
河目悌二は、大正から昭和、戦中戦後、昭和33年に亡くなるまで、一貫して童画を描き続けた人です
勿論、きれいな彩色画もたくさん有りますが、私はこの線画の挿絵が大好きです
とても簡単に描いた線のようですが、人の表情、その気持ちまでちゃんと伝えています
こういう事は、きちんと人物が描ける手を持っていないと出来ゃしません
アア省略トハカウイフ事デアルカ
何かと描き込んでしまう癖のある私などには羨望の画風でございます
「苦心の学友」は現在書店で買うのは難しいと思います
昭和49年ほるぷ出版からの復刻版
昭和50年講談社少年倶楽部文庫
講談社からの佐々木邦全集第九巻
などです
佐々木邦が青空文庫に入るにはまだ数年必要なようで
読めるようになったとしても、挿絵のない「苦心の学友」なんて、などと思っては佐々木先生に悪いですけど
苦心の学友 <名著複刻・日本児童文学館 第2集22>ほるぷ出版
古書になりますが、安ければ300~400円ぐらいからありますよ
去年、生誕120年記念の展覧会が出生地の愛知県刈谷市であったそうです
入場無料だったとか
これも行きたかった展覧会でした
http://d.hatena.ne.jp/foujita/200806
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/m/201202
http://d.hatena.ne.jp/kobe-mobomoga/?of=5
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/archive/20091217
岸田劉生が描く銀座カフェ「KUMOTORA」。 [気になるエトセトラ]
佐伯祐三Click!のフランスパン「雲虎」Click!といい、劉生のカフェ「雲虎」といい、どうして個性が強烈な画家たちは排泄物にこだわるのだろうか。内部に蓄積されてきた衝動やアイデアを、一気に外部へと吐き出す表現・創作行為が、どこか排泄行為に通じる快感をともなうからかもしれない。
■写真上:1927年(昭和2)の「東京日日新聞」に掲載された、岸田劉生『新古細句銀座通』。
■写真中上:。左は、大正期に撮影されたと思われるまだ若い木村荘八。右は、1913年(大正2)に制作された木村荘八『自画像』。岸田劉生と同様、いかにもきかん気の強そうな下町顔だ。
■写真中下:左は、1927年(昭和2)の雑誌『太陽』6月号に掲載された岡本一平の風俗画。右は、だんだんハイ・カラーが高くなって止まらない「ハイカラ」を皮肉った、1902年(明治35)の『文芸倶楽部』9月号掲載のポンチ画。のちに、木村荘八が描きなおした作品。
■写真下:1935年(昭和10)の木村荘八の『新宿駅』で、正面のクラブ歯磨Click!看板が目立つ。
http://www.howdy.co.jp/express/2011/09/post-152.html
博多 岩田屋本館地下2階 本格的煎茶とおいしい和菓子が楽しめる店 茶寮 花ゆず
2011年9月28日 Posted time : 00:00 | Category : D@EXコラム
煎茶が飲めるお店ってなかなかありませんよね。博多・岩田屋の地下にあるおいしい緑茶が飲めるお店を紹介していただきました。こちらは、懐石料理のお店「柚子庵」の姉妹店「茶寮 花ゆず」さんです。
あんみつや、パフェなどのスイーツが絶品らしいのですが、ランチ後でおなかいっぱいしたので、和菓子のセットに。数種類ある和菓子の中から好きな和菓子を二種類チョイスします。この日の気分は「あんこときなこどっちも食べたい!」でしたので、このような組み合わせに。栗の渋皮煮とかもとてもおいしそうでした。玉緑茶(もしくは、ほうじ茶もあるようです)とお菓子(二個)で、八〇〇円です。
1煎目は、湯飲みに入って出てきましたが、二煎目以降は、ポットから急須に直接いれて、ゆっくりいただくスタイル。この煎茶、まろやかさとコクがとても美味。日本人で良かったとつくづく思う瞬間です。二煎目以降は、ポットから湯冷ましにいれて少々さましてから、急須へと注ぎ、待つこと二〇秒。最後の一滴まで注ぐと、三煎くらいはおいしくいただけます。お菓子も上品な甘さで煎茶とのコラボレーションはいわずもがな。
先ほどまで満腹だったのに、別腹ってこういうことね。あんみつもいけそうな勢いですが、次回のお楽しみにとっておこう。ランチを食べていらっしゃる方もちらほら。柚子庵のランチが限定でいただけるようです。こじんまりとしたお店ですが、デパート巡りに疲れたら、ふらりと立ち寄りたくなる名店です。<YA>
美輪明宏
歌手・俳優・演出家
芸名 : 美輪明宏(みわ あきひろ)
本名 : 丸山明宏(まるやま あきひろ)
生年月日 : 1935年5月15日
出身地 : 長崎県長崎市
長崎市内でカフェ等を経営していた裕福な家庭に育つが
10歳の時に長崎の原爆にあう。
爆心地に近い父方の実家にいたにも関わらず奇跡的に助かる。
その際、かすり傷1つ負わなかったという逸話がある。
終戦後に上京する。
1952年 銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』の専属歌手としてデビュー
http://d.hatena.ne.jp/chocoramastudio/?of=26
2011-09-08
働く女性~モダンガールからOLまで
働く女性いわゆる職業婦人のことが最初に雑誌記事になったのは、大正12年(1923)に雑誌「婦人画報」に掲載された記事である。大正12年に完成したばかりの丸ビル(建て替えられる前の旧丸ビル、場所は同じ東京駅の丸の内口)のオフィスで働く新しい女性たちを「丸ビル小町」と称して紹介している。この記事が書かれた数カ月後、関東大震災が発生し丸ビルは倒壊こそ免れたものの開業早々大補強と修繕を余儀なくされる。丸ビルは地下一階、地上九階建ての三菱所有のオフィスビルで、ここで働くサラリーマンは五千人(その内の二割は女性)。一日の出入人員が十万、東京駅の一日の昇降客が十四万だから東京駅の昇降人数の七割が丸ビルに出入りしている計算となり、東京駅は実質上丸ビルの玄関といってもいい(昭和12年当時の記事による)。
震災翌年の大正13年(1924)に初めてモダンガール(近代女性)という言葉が雑誌の見出しに登場する。震災でやられた丸ビルや銀座界隈も徐々に復興を遂げ、丸ビルに代表されるオフィスビルに勤務する近代的職業婦人を「丸ビル小町」から「モダンガール」へと呼称を変えて紹介している。現在ではモダンガール(モガ)というとそのファッションにばかり言及されることが多いが、第一義的には職業婦人を指す言葉で洋装、ショートヘアといったモガスタイルは和装に比べて活動的で働きやすいからに他ならない。昭和4年(1929)に公開された溝口健二「東京行進曲」の同名主題歌に「恋の丸ビル」として歌詞に登場する頃には、モガという新語もすっかり定着しカフェのウェイトレスや丸ビルに勤める職業婦人を総称して銀座文化を象徴する流行語となった。
上の写真は雑誌「文学時代」昭和6年(1931)に掲載された「女性職業の尖端を行く」というグラビア記事で、美容師以外は全てにガールがつくのはモダンガールが職業婦人の意味で使われたことの流れを汲むものだろう。これは戦後になってOL(オフィスレディ)に取って代わるまで「~ガール」という呼称は長く続いた。ちなみに美容師として紹介されている女性はあの吉行あぐりである。
昭和20年(1945)に終戦となり世情も落ち着いてきた1950年代に入ると職業婦人に対してサラリーガールという言葉が使われ始めた。最初に週刊誌の見出しで登場するのが昭和27年(1952)。「東京行進曲」とおなじ西条八十作詞による「女給の唄」では女給を酒場の花に例えているが、職場の花と言われたのがサラリーガール。職場の花といえば一見聞こえは良いが、「花の命は短い」の例えのように結婚して寿退社し専業主婦になるのがごく当たり前の時代。会社も女性に対してお茶くみや電話応対といった雑務以上のことは期待せず、またほとんどの女性も会社でキャリアを積んでステップアップすることなど考えもしなかった頃である。これに対して同じサラリーガールの中でも日本橋兜町の株式市場で働く女性に対して「兜町のBGたち」としてビジネスガール(BG)という呼称を初めて使ったのが昭和32年(1957)のこと。丸ビルで働く先端的職業婦人をモダンガールといったように、ビジネスの最前線で働く大卒女性をサラリーガールの中でも特にビジネスガールと呼んだことは、丸の内と兜町が地理的にも極めて近いことも含めて興味深い。
当初はビジネスガールをひと頃流行ったキャリアウーマンのような意味で使ってサラリーガールと差別化していたものが、サラリーガールという言葉が次第に廃れてゆき、働く女性を総称してBGと呼ぶのが一般的となるのは、オリンピックの東京開催が決定した昭和34年(1959)の頃である。5年後の1964年の開催年に向けた急ピッチの都市開発で東京が大変貌を遂げた事はよく知られている。国立競技場、国立代々木競技場、駒沢総合運動公園(当時の呼称)の建設とそのエリアを結ぶ高速道路網の整備。北京五輪の時に胡同(フートン)に面した伝統的建造物、四合院住宅に住む住民の強制撤去と建造物破壊のニュースはたびたび目にしたが、東京五輪のときに行われたこともそれと大同小異である。
都市開発と共に問題にされたのが、いまだかつて日本が経験したことがない無い大人数の来日が見込まれる外国人観光客のための日本語ローマ字表記(訓令式/ヘボン式)をどうするかということだった。駅名や道路標識あるいは京都、日光などの代表的観光名所には日本語ローマ字表記が欠かせない。ローマ字表記と関連するもう一つの問題は、公用語化したジャパニーズイングリッシュを使った看板や会話が、無用な誤解を外国人に与えることを未然に防ぐ、というもの。そこで目を付けられたのがBGことビジネスガール。直訳すれば商売女となる「商売」が何を意味するかは英語圏でも同じだったようで、NHK放送用語委員会がオリンピックの開催される前年の昭和38年(1963)にいち早く放送禁止用語とした。もっともNHKが放送禁止用語にしたからといって直ぐにBGという言葉が消滅したわけではなく、昭和42年(1967)まで雑誌の見出しでは使われていた。その同じ年に雑誌「女性自身」で初登場したのがOLことオフィスレディ。それ以降はもっぱらOLが働く女性の代名詞となった。
ビジネスガールに代わって登場したOL(オフィスレディ)のガールからレディへの変化は、オリンピックの2年前、昭和37年(1962)に封切られた「その場所に女ありて」の司葉子がオフィスで働く新しいレディ像として先取りしているし、東京オリンピックの狂騒が終わった同年の12月に公開された、当時人気の絶頂期にあったヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」が、レディという言葉への憧憬の種をまき、ガールからレディへの変化をスムーズに後押しした気がする。
Permalink | 22:50
2011-09-03
アヤコという名のシェパード、飼主は吉田茂
シェパードは西洋犬の中でも昭和初期からよく知られた存在だった。それは飼い犬としてではなくもっぱら軍用犬としての軍功を通してである。昭和9年(1934)発行の中央公論誌に掲載された「シェパード明暗色」と題するエッセイでは、二年前に起きた五・一五事件において、犬養(犬飼)首相の部屋にもしシェパードが居たならば非業の死を遂げることはなかっただろう、と書かれている。命令一下、敵に体当たりを食らわせ喉を狙うように訓練されていた軍用犬。戦時下において愛玩犬は姿を消し、国策として軍用犬シェパードの全盛となる。
そんなシェパード像に変化が起きたのは戦後の昭和31年(1956)から日本でも放映された米国製TVドラマ「名犬リンチンチン」からだろう。TVドラマのリンチンチンは四代目で、初代リンチンチンは第一次世界大戦中に米兵のリー・ダンカンという人がフランスで防空壕の中から見つけてアメリカに連れて帰った雄のシェパード。リンチンチンという名前はフランス娘が兵隊に贈る木綿糸や毛糸で作ったお守り人形のことらしい。ダンカン氏の隣人が高速度撮影機の製作者だったという偶然から映画に出るようになり、大正12年(1923)からスタートして20本の映画出演を果たす。先に挙げた昭和9年(1934)に書かれたシェパードに関するエッセイではリンチンチンに触れられていないことから、映画版のリンチンチンは戦前の日本では公開されていない可能性が高い。主人公が危機一髪のところへ犬が救助に駆けつける、という犬映画の全ての基本形が既にここにあった。
TVドラマ「名犬リンチンチン」ではさらに飼主が子供という最強の組み合わせとなる。同時期に製作されたコリー犬が主人公の米国製TVドラマ「名犬ラッシー」も子供と犬の物語だった。敵に体当りし喉を狙うという恐ろしい軍用犬から、子供に飼われ子供を危機から間一髪のところで救いに来るという心優しい飼犬へとイメージの大転換を遂げることとなるシェパード。「名犬リンチンチン」がTV放映され始めた翌年の昭和32年(1957)に、「名犬物語 吠えろシェーン」というシェパードを主人公とした動物映画がさっそく大映で映画化されている。このシェーン号というシェパードは大映カメラマンの宗川信夫の愛犬で、昭和31年度全日本ドッグショー準優勝犬。昭和34年(1959)からスタートした大映テレビ室製作のTVドラマ「少年ジェット」でもシェーン号として登場する。
首相時代から愛犬家として知られた吉田茂が政界を引退する直前にこのシェーン号(オス)の血統を引いたシェパードを欲しがった。シェーン号はすでに徳川義親氏のところへムコ入りし、二頭生まれたうちの一頭は明仁天皇(当時は皇太子)の愛犬となり、もう一頭は警察犬となっていた。がっかりする吉田氏に朗報が入ったのは、そのシェーン号の子供が若尾文子の飼っていたシェパードの愛犬ベニーとの間で生まれることを知った時だった。こうして目出度くシェパードが取り持つ縁組が若尾家、吉田家の間で実現の運びとなる。
「はじめて生まれた子どもには頭文字にAをつかうものだから、アヤコはどうかな?」と吉田茂は若尾文子に尋ねたらしい。若尾がどう返事をしたかは書かれてはいないが、黙って微笑返しするしかないだろうことは想像に難くない。この記事が出たのは昭和36年(1961)初頭のこと。昭和36年といえば「女は二度生まれる」「妻は告白する」「婚期」の演技によって主要な主演女優賞を独占した年である。シェパードが戦後、軍用犬から子供と仲良しで心優しく勇敢な犬へとイメージチェンジしたように、若尾文子も名実ともに第一線の演技派女優として変貌してゆく。
Permalink | 17:23
2011-08-30
総天然色が消えた日
総天然色という懐かしい言葉を久しぶりに眼にしたのは、「総天然色ウルトラQ」というソフトが発売になるというニュースだった。モノクロオリジナルのカラーライズを総天然色と名付けたのは、四文字熟語めいた胡散臭さといささか面妖な言葉の響きと相まって、ウルトラQの製作された時代とマッチしたこれ以上にないネーミングだと思ったのと同時に、総天然色という言葉が映画広告から消えたのは何時からだろう?との疑問に駆られた。
天然色という言葉が映画に用いられたのは、天然色活動写真株式会社という映画会社が大正3年(1914年)に日本で始めてカラー映画を製作した記録があるから既に一世紀近くの歴史がある。さらに総天然色と銘打たれて公開された映画では昭和10年(1935)封切の米映画「虚栄の市」があり、邦画では昭和12年(1937)封切の「月形半平太」がある(本邦上映天然色映画目録/雑誌「映画評論」1950年7月号より)。日本初の総天然色映画というと「カルメン故郷に帰る」(1951)ということになっている。確かに「本格的な」という意味ではそうかもしれないが、日本初というのは歴史的事実とは反する宣伝的な誇張である。
映画広告から「総天然色」という古めかしい呼称が消えたのは何時からか?を調べることは容易だった。映画雑誌のバックナンバーを時系列に従って順番に辿ってゆけばいいからだ。一番最初に総天然色という言葉が消えた広告は1966年11月12日公開のヘップバーン主演「おしゃれ泥棒」。やはり総天然色という言葉が持つ古めかしさが「おしゃれ」ではないと判断されたのだろう。パナビジョン/デラックスカラーという表記になっていて、広告自体も本文ページとは別丁で縦長に三つ折りで差し挟まれ、まるでポスターのようなオシャレ広告になっている。
邦画について順挙していくと、一番早く総天然色から「カラー作品」という表記に変えたのは東宝で1966年12月17日封切「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」、以下順番に大映66/12/24「酔いどれ波止場」、東映67/1/28「日本侠客伝 白刃の盃」、松竹67/2/23「日本春歌考」、日活67/3/11「恋のハイウェイ」、となる。1966年の終わりから翌年にかけて「総天然色」と「カラー作品」「テクニカラー」などの表記が混在する期間を経て、67年春にはついに総天然色は絶滅する。
映画広告から総天然色という言葉が消えつつあった1966年という年は、家電業界が前年の不況の影響下で減産に喘ぎ、その打開策として1960年9月から開始されたテレビのカラー放送を官民一体となって推進した年である。まるで最近の地デジ騒動と同じ構図だ。それは前年の1965年から本格化して、まず電々公社によるカラー放送に必要なマイクロウェーブ網の高規格化から始まり、NHKのカラー放送増強、民放では家電メーカーが進んでカラー番組のスポンサーとなった。代表的な例ではサンヨー提供の日本初連続TVカラーアニメ「ジャングル大帝」、ソニー提供のアメリカTVドラマ「ナポレオン・ソロ」がある。カラーテレビの値段も1960年には42万円!(17インチ)もしたものが10万円台となり月賦(分割払いのこと)で買えば庶民の手に届く値段となった。ちなみに「ジャングル大帝」は1966年7月に東宝系で封切られていて、その時に総天然色ではなくカラー長編漫画映画となっている。しかしこの作品は劇場用に製作されたものではなくテレビアニメの再編集版なので「総天然色」が使われていない映画からは除外した。
こうしてみてみると総天然色という言葉が消えた経緯はカラーテレビの普及と歩調を合わせているのが分かる。「カラー作品」という言葉は「カラーテレビ」の語感に似た機能主体の味気なさがあって、「総天然色」の持っていた歴史的蓄積をないがしろにしてしまう。例えば「カルメン故郷に帰る」から2年後の総天然色映画第二作、同じ松竹の「夏子の冒険」ではフィルム感度が上がったことによって屋内でのセット撮影が可能になる、といった一つ一つの技術的進歩と経験が「総天然色」をより自然な色=総天然色に近づける累積としての言葉の重みを持っていた。そういう点から考えると邦画で最初に「カラー作品」と銘打った映画が子供向けの怪獣映画であることは示唆的だ。自宅にカラーテレビがある子供にとって「総天然色」という言葉はいかにも鈍重で古臭い。
ところで振出しに戻って総天然色という言葉を現代に蘇らせた「総天然色ウルトラQ」は円谷英二の円谷プロダクション制作、また日本で最初に「総天然色」を「カラー作品」と表記して「総天然色」を終わらせた作品「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」の特技監督も円谷英二。彼が最初に映画界入りしたのが天然色活動写真株式会社だから、円谷英二という人はつくづく「総天然色」との不可思議な因縁も深い。
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