Thursday, September 20, 2012

Yoshiwara,the red light by the long march

http://ameblo.jp/252400/entry-10501118933.html

映画の主人公のファッションデザイナーを演じた女優さんが
戦時中、故郷・新潟に疎開してた事もあって興味深く・・・。

映画は戦後、大成功した女性ファッションデザイナー(岡田茉莉子)を軸に展開。
若い時、占領米軍の黒人兵との間に身籠った混血の私生児(ジョー山中)が、
青年になって手かがりを頼りにニューヨークから訪ねてくる・・・
しかし、体を売っていた過去を知られたくない彼女は実の「息子」を・・・。

人間の証明 ジョー山中 ~Proof of the Man~


後に知ったのですがジョー山中さんは、
若い時に母親を失い、養護施設を転々とされていました。
そんな思いも込められたのでしょうか、
大正の詩人、西條八十の詩を楽曲に使った
情感溢れるこの歌は当時大ヒット。

「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね
ええ、夏、碓氷峠から霧積へ行くみちで
渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ...」。

映画は台湾や中国でも公開され人気を呼びました。
「草帽歌」として中国系カラオケにもあり今も親しまれています。



ニューヨークの知人が桜の季節にこの程、京都を旅した由。
そのフォトブックから舞子はんの写真を拝借↓。

外国の人は、芸者、舞子、芸妓、コールガール、売春婦・・・の
区別がよくつかないみたいですね。
昔、アメリカで「ゲイシャガールは、売春婦か?」とよく聞かれました。

「芸者」は文字通り芸が売り物、体は売らぬ、とされていますが、
祇園の舞子はーんのような格式高い所はいざ知らず、
混乱の時代、その線引きは必ずしも明確では無い所もあったようです。
東京も数々の芸者町があったことが知られていますが、
例えば隅田川を挟んで浅草と向島では格が違って、
「浅草芸者は芸を売り向島芸者は枕を売る」とも評されています。

また江戸時代には、吉原などの遊廓の遊女とは
それぞれ違った役目をこなしていたようです。
まぁ所詮、男女の仲ですから
推して知るべしでしょうか。

時にはお忍びの大名の桜の花見の座にも呼ばれたと言う逸話も。

幕末を駆け抜けた坂本龍馬のこんな言葉↓を
明治から続く老舗の桜鍋屋(馬肉料理屋)の主人が引用していました。

「咲いた桜になぜ駒繋ぐ 駒が勇めば花が散る」

桜の季節にほんのり桜色に色づく桜肉(馬肉)、
ゲン担ぎには良さそうです。

実はこの桜鍋屋の主人と云うのは、大学のサークルの後輩、
店は、吉原遊廓の正面玄関(大門)がかつてあったたもとにあります。

後輩の話では、その昔この大門近くには数十軒の馬肉屋が軒を連ねていたそうで。
今はこの後輩が営む一軒だけになりました。

吉原に入る前に馬肉を喰って馬力をつける、そんな習いがあった当時の話です。

明治の頃の吉原は、まだまだ江戸時代の「伝統」をそのままに。

遊女もまた公認の「職業」だった時代です。

江戸時代何度も大火にあった吉原ですが大正12年の関東大震災でも壊滅。

その度に不死鳥の如く蘇ってきましたが、
今から53年前の昭和32年の4月1日、
吉原の「伝統」は、売春防止法の施行で終焉を迎えました。
吉原の一部はその後業態を変え、ソープランドに。

吉原の大門に続く道のひとつに「大門通り」と云うのがあります。
バスも運行する通りですが、その道を辿ると私の家まで来ます。

そして歩いて3分ほども行くと、家最寄りの商店街を抜けて
赤穂浪士も行進した「永代通り」に出ます。

この交差点の界隈、今は「東陽」と言う名ですが江戸の昔から
昭和40年の初め迄、「洲崎」と呼ばれていました。

交差点に面した信用金庫の支店は、今も町の旧名を使っています↑。
そして「洲崎」の名前は、54年前に公開された映画でも偲ぶ事が出来ます。

40歳半ばで惜しまれながら「夭折」した川島雄三監督が愛した作品。
信用金庫のある交差点は、映画でも出て来ます↓。

ボンネットバス手前に「洲崎」の地名、クスリの三木薬局は大門通り沿いと広告↓。

車上の2人を演じるのは当時の人気俳優の三橋達也さんと新球三千代さん。

喰い潰れた2人は働き場所を探して「洲崎」で降ります。

交差点の先、大門通りをちょっと行くと洲崎パラダイスと書かれた大きなアーチ。

このアーチこそ洲崎の「大門」、西の吉原、東の洲崎と唄われた有名な「洲崎遊廓」入り口。

売春防止法施行直前の映画撮影当時はまだ「色町」の「繁栄」ぶりが見られます。

アーチは橋を渡って「遊廓」への入り口。下には洲崎川と言う川が流れていました。

アーチ手前のたもとの橋脇には貸しボート屋もあって、これも映画に登場します。

こちらは今の映像↓、かつての川は埋め立てられ今は自転車道と緑道の公園に。

ここは橋が架けられていた場所(旧アーチ下)から「パラダイス」内側を望んだ所。

橋(洲崎橋)の記憶は、今はこの碑↓で見るだけ・・・。

3百軒以上の遊廓がひしめきあった昔、東京大空襲で焼けた後も賑わってました。

吉原と洲崎遊廓の2つの大門(正面玄関)を繋いだのが大門通り。

遊廓をはしごするつわものを評し、大門通りは親不孝通りとも呼ばれていました。

映画の主人公2人が転がり込んだのは↑橋手前角の呑み屋。↓今は不動産屋さん。

呑み屋は映画の設定で、実際は貸しボート屋の家屋を使って撮影。

・・・とは当時から続く肉屋さんで聞いた話。映画の呑み屋は「千草」と言う店名。

宝塚出身で粋な着物姿の新玉三千代さんが演じたのは以前パラダイスにいた女。

別の町で男と食い潰し、男を連れ再び舞い戻った町で「千草」に住み込みで働き・・・。

自分の住む町の私が生まれる前の昭和三十年代初頭の風情が見られて興味深く・・・。

呑み屋「千草」のあった今の場所を再び↓。不動産屋さん。その奥の通りが・・・。

映画ではこんな感じ↓。かなりの活況が見られます。

そしてこれが同じ場所の今↓。

今はグルメ雑誌にも登場し無い僅かばかりのの小さな呑み屋さんがあるだけ。

昔は夕方となればパラダイスに繰り出す前に景気づけた木場の旦那衆で賑った一角。

映画と同じ「酒の店」の赤ちょうちんをぶら下げたお店は最近閉店。

映画ではこの近くのそば屋が出て来て三橋さん演じる男は出前持ちのバイト。

それを指導するそば屋の「小僧」は小沢昭一さん、チョイ役でした。

日活の看板娘、芦川いづみさんも店員役で。デビュー間もない初々しさそのままで。

芦川さん演じた娘さんは三橋さんにほのかな恋心を・・・顛末ははレンタルで。

橋から前出の永代通りの交差点は十数秒、角に明治からの蕎麦屋を見て再び家の方へ。

大門通り沿いをちょっと歩くと前方に見えて来るのが・・・。

今も現役の電動サトちゃん。

店内にもサトちゃんはいます。

このお店、明治から続く薬局。映画の冒頭に出たバス停の広告の三木薬局です。

遊廓、パラダイスがあった頃は、「その方面」の薬もかなり多く扱ってたとか。

↓親不孝通りこと大門通りを前に薬局を望みます。生活ルートで何度も通る場所・・・。

が、この日、大きな新発見。薬局脇の路地向こうにあるマンションのベランダ・・・。

サトちゃん・・・↓。サトちゃんです、サトちゃん発見。

まさにチン百景~~~~。

iphone撮影の為、拡大した映像がちょと粗いのですが、
間違い無くサトちゃん。
薬局で確認したところ、ご主人も存在は知っていましたが、
薬局とは関係無いとの事、マンションの住人も知らないご家族だそうです。

他の口コミでも聞いた事無く、
どうしよう、ほんとうにアノ「珍百景」番組に申請しようかしらん。























































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