スッカラ(韓国のスプーン)はくぼみが浅い。 その理由は?
http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/5f1e930da2505d9a6de958f59268faca
スッカラ(숟가락)
http://remingintheroom.blog65.fc2.com/blog-entry-622.html
スッカラ(韓国のスプーン)はくぼみが浅い。 その理由は?
2011-11-27 20:15:08 | 韓国の文化・芸能・スポーツ関係の情報
現在発売中の「週刊文春」12月1日号に、料理家の瀬尾幸子さんが「台所の仕事」という連載で、「優秀な調理道具、スッカラ」と題した一文を寄せています。
<スッカラ>(숟가락)とはもちろん韓国のスプーンのことですが、読者の大半を占める(?)オジサンたちにこの言葉がわかるのか、少し気になりました。(どうなんだろうなー?)
さて、この記事の要点は次の通りです。
①スッカラは西洋のスプーンに比べて柄が長く、へこみが浅い。
②したがって、具を混ぜるのに適している。
③したがって、調理用具として役立てることができる。
瀬尾さんが③の例として揚げて挙げているのがかき揚げ。瀬尾さんによれば、「スッカラの実力が実感できる料理」なのだそうです。
「スッカラだと粉を練らず、切るように混ぜることができるから、グルテンが出過ぎずもたつかない衣に仕上がります」等々説明されていますが、このあたりはかき揚げ作りの知識も経験もないヌルボにはよくわからないので、あとはスルー。興味がある方は直接読んでみて下さい。
それよりも、スッカラについて、私ヌルボが韓国料理好きの皆さんにお聞きしたい点があります。
まず、スッカラの柄が長いのは誰もが気づきますが(ホント?)、「スッカラは西洋のスプーンに比べてすくう部分のくぼみが浅い」ということに気づいていましたか?
次に、気づいていた方は、その理由を考えたことがありますか?
さらに、考えた方、もしかして調べた方、その理由は何ですか?
とりあえず身近なところから、と思って、たまたま昨日集まったハングルサークル仲間数人に聞いてみました。ヌルボを含め男3人、ネイティブの韓国人のU先生を含めて女性も3人です。
・・・で、スッカラの柄が長いことは全員知っていました。ただし、柄を韓国語で何というかわからなかったヌルボが辞書に載っていた자루という言葉を口にすると、「それは使わない」とU先生。ピタッときまる単語はなさそうですが、とりあえず손잡이とおっしゃってました。(손잡이というと冷蔵庫とかコーヒーカップとかの取っ手と同じですか・・・。)
柄が長い理由としては、鍋物を食べる時便利、というのはふつうに考えられます。
短いと、鍋の下に沈んでしまうおそれもあります。
また、先生は「チョッカラ(箸)と一緒に並べる時、長さがそろっていた方が見た目がいい」とも・・・。
そして肝心の「くぼみが浅い」という点については、どうも今まで知らなかったようなようすだったのアジョシX氏1人・・・。
そのくぼみが浅い理由について、きちんと書かれた記事があるか、事前に探してみた結果は、<ミスター世界の食文化紀行>というサイト中の記事に「ゴハンが主な用途なるゆえである」とあるのを見つけた程度。フェルマーのごとく(?)結論のみの突き放した書き方なので、結局ヌルボなりに考えてみました。
もしスッカラのくぼみが深く湾曲していたら、先端部分がやや上向きになるため、ご飯をすくう時、手首から回転させなければならない。つまり浅い方が手の動きがラク、というのがヌルボの推定です。
お酒の好きなTヒョン(兄)からは、「くぼみが深いと金属椀(コンギ)の隅っこのご飯がすくいにくいだろう」との見方も出されました。
スッカラについて、<K-PLAZA.com>の掲示板に次のような質問が提示されていました。
「鍋などからスープをすくって飲む際、スープも残り少なくなった時、どうやって鍋や食器の底からスープをすくうのですか? スッカラクは、スープのスプーンと比べると、浅い感じがしますが、あれで底の底までスープをすくいとる事はできますか? スープが鍋でなく食器に入っている時にも、食器を持ち上げて食べるのはNGなので、汁物でも食器に口をつけて飲んだりしないのですか?」
これに対して、
「韓国人が食堂で器を斜めにしてすくっているのをよくみるので、「なるほど!」と思い、自分もそうしている」という内容の回答が載っていました。
しかし! U先生によれば、「スッカラはスープを飲むための食器ではなく、ご飯を食べたり、鍋の中の具を取るためのものである」とのことです。
器に残ったスープを飲みたくなったら、手に持ってそのまま飲みます。
コムタン等の場合も、スッカラはそこに入れたご飯を食べるためのものです・・・。
なるほど、そーなのか・・・って感じですね。
ついでにもうひとつ。
たとえば、ある韓国人女性が「なぜ、和食にはスプーンを使わないのか」というブログ記事で次のようなことを記されていました。
日本に初めて来た時、味噌汁を見て「すみません、スプーン下さい」と当然のように頼んだ。店員が「え、え、スプーンですか」と聞き返す。どうやら、戸惑いを感じたのは私ではなく、店の人や同行した日本人だったようだ。そして、登場したのが可愛いいティースプーンだ。韓国の思いやりのある大きなスプーンを連想した私には、すこし物足りない気持ちになった。こんな大きな食堂になぜ、ろくなスプーン(?)一つないのよ。
For example, a korean woman wrote in her blog like the following,
which title was "Why not use a spoon to Japanese food"
"When I came to Japan for the first time, I asked as a matter of course "excuse me, can i have a spoon?" when i saw the miso soup.
the clerk asked again "oh, do you need a spoon?"
Apparently, who felt embarrassed was not me, but were the Japanese accompanied me or clerk.
so, a cute tea spoon had appeared.
associated a big spoon like caring of Korea,i felt a little unsatisfactory feeling.
Why they don't have not so much as a worth mentioning spoon in such this big dining room."
・・・食文化関係の日韓の比較でよく話題になるのが「日本ではなぜ食事でスプーンを用いないのか?」ということ。
「日本のご飯は粘り気が多いので、スプーンだとくっついてしまう」という理由は、いくつかのサイトや本等で見たことがあります。
一方韓国は、上記のブログ記事にもあるように、「乾燥した大陸気候にあわせて液体類の料理が多いため、スプーンはなくてはならない貴重な道具」というわけです。
これと関連して、サークル仲間の話でも出たのが食器のこと。韓国のように金属製だと熱くて持てない。だから置いて食べるしかない、とか、木の椀は持って口まで運べるから、さじは要らない、等々。(食器の材質については、金属や陶器や木等の原料に恵まれているか否か等が関連してきますね。)
in the comparison of food culture relationship between Japan and Korea, the topic is becoming widely discussed ,"why they don't use a spoon in the Japanese dining"
the reason that i have seen in some blog or books is "the japanese rice is sticky, it would be stick to a spoon"
※前川健一さんの「東南アジアの日常茶飯」を思い出して確認してみたら、やっぱり次のような記述がありました。
青木正児氏は「用匙喫茶考」で、中国人の食事法を次のように述べている。手食をしていた中国人は、唐代あたりから飯を食べるためにサジを使い始めた。サジそのものはそれ以前からあったが、料理を口へ運ぶ道具としてサジを用いるようになったのは、このころかららしい。箸は汁の実をつかむために用い、汁そのものは器に口をつけて飲んでいた。飯をサジで食べるようになったきっかけは、ポロポロの飯にはサジの方が便利で手食よりスマートであると思ったからだ。明代になると、粘り気のある飯を好む南部の人たちが天下を取ったため、飯にも箸を用いるようになり、サジは汁物用になっていった。
以上のことから、サジの使用には汁物とポロポロの飯が関係ありそうだとわかった。
・・・まさにバッチリです!
【左から、高麗時代→近代のスッカラ。柄は今ほど長くないですね。※コチラの韓国サイトより。】
ことほどさように、スプーンひとつをとっても、その必要性の有無からその形状、食事作法等々、ふだんは意識していない点にまで、地理的・歴史的、ひいては美的だか思想的だか、考えてみればいろんな背景があるものだなあ、ということがシミジミツクヅク感じられます。
なお、瀬尾幸子さんによれば、最近のスッカラは「形が西洋スプーン化して、くぼみが深い傾向にある」そうで、「私が惚れた絶妙な浅さのスッカラは、現地でも昔ながらの食堂か、アンティーク店でしか見かけなくなってしまいました」ということです。
なおその2、U先生によれば、韓国では瀬尾幸子さんのようにスッカラを調理道具として用いることはないそうです。(それは邪道だっ、と言って瀬尾さんを批判してるわけでは全然ないので、誤解なきよう・・・。)
java
Sunday, January 29, 2012
Saturday, January 28, 2012
A historian analyzes Korean drama Jumong
A historian analyzes Korean drama Jumong Part1
宮脇 淳子先生(モンゴル史家・学術博士)
Sinocentrism 소중화사상(小中華思想)
韓国人によるJ.Crew日本支援妨害事件: 日本海呼称問題と韓国の小中華思想
http://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
With the movement to a sudden return to Sinocentrism and petit Shinocentrism to have the Qing Dynasty in the middle and revival of the administration based on the Sadaejuui policy, members of the Progressive group such as Ok-gyun KIM were in trouble.
清朝廷中心の中華思想、小中華思想への急激な回帰、事大主義政治の復活が起き、そうして金玉均などの開化派は危機的状況に陥る。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The Heungseon Daewongun group recruited others but most of them had strong 'Petit Sinocentrism' and totally rejected the West.
興宣大院君派は人材登用の面はあったが総じて小中華思想が強く西欧を排斥した。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In connection with the above, some people point out the existence of Petit Sinocentrism in Korea.
このことについて朝鮮の小中華思想を指摘する声もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Neo-Confucianism created the sho-chuka shiso (literally, mini-Sinocentrism) under which Korea was understood as "sho-chuka" (mini-China) or "sho-ka" (mini-China).
一方で朱子学は自国を「小中華」「小華」などと認識する小中華思想を生んだ。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Under kaichitsujo, international relations had been controlled with "Li system" based on Sinocentrism.
華夷秩序では、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Disappearance of Kaichitsujo affected change of Sinocentrism, which supported Kaichitsujo as the basis of the thought.
華夷秩序の崩壊は、その思想的根拠たる中華思想にも変容を迫った。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
It is thought that this was an adaptation of the Sinocentrism of 'Shii' (four barbarians), 'toi, seiju, namban and hokuteki.'
これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Moreover, the establishment of Confucianist thought in Japan meant the establishment of a China-centered view of the world in Japan, which had an influence upon emperor-centered historiography in later times and became the foundation for a Japanese style China-centered view of the world.
また、儒教思想の日本への定着はすなわち、中華思想(華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の皇国史観などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
It is also said that it was written as "蛮頭" meaning a head of the Southern barbarian because the Southern tribe was called Southern barbarians in terms of Sinocentrism.
一方、中華思想から見た場合、南の部族を南蛮と呼び南蛮人の頭である「蛮頭」説もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The main purposes of Kangofu were to clarify the position between a tributary state and the Ming dynasty (Sinocentrism) and to distinguish official ships from private ones.
勘合符の主な目的は、朝貢国と明との国家間の位置づけを明確にすること(中華思想)と公私船の区別を行うことである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Whatever they may have been, for the ritsuryo kokka based on Sinocentrism, Ezo was 'simply a concept of people who were out of their control.'
何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念でしかな」かった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In the Korean Dynasties at that time, government officials who cast off the Petit Sinocentrism, lineage, and Keibatsu blood connection were quite a minority.
当時の朝鮮王朝の中で小中華思想や門閥主義、閨閥主義を脱却していた役人は極めて少数派だったのである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Datsua-shiso thought is a concept mainly advocated by Yukichi FUKUZAWA, which encourages an abolishment of Confucianism and a departure from Sinocentrism.
脱亜思想(だつあしそう)とは、福澤諭吉に代表される儒教を廃して中華思想から脱却しようとする思想のこと。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The new Ming Dynasty established in 1368 following the retreat of Yuan had a strong Sinocentrism coming from a pretension as a dynasty that was able to recapture the Chinese style from Mongolia.
元の後退で1368年に成立した新王朝・明は、モンゴルから中華を奪回した王朝としての自負から強烈な中華思想を指向していた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
According to another account, "characters of contempt" were used for the names of foreign places and people as a result of Sinocentrism (Tsuneji HARADA, "Official History of Ancient Japan Based on the Materials before Kiki" Doshisha, Fujin Seikatsusha, 1976.)
一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っているため、このような表記になっている原田常治『記紀以前の資料による古代日本正史』同志社・婦人生活社1976年。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In addition, the Confucianism's view of the world is based on the Sinocentrism that the Chinese empire is stronger than any other nearby barbarian countries and that the Chinese people are ethically superior to the barbarian.
また、儒教的世界観では、支那の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
For example, there were multiple states that had "petit Sinocentrism" and recognized not China but themselves as the center ("ka") and, therefore, it was not that kaichitsujo of China covered uniformly international order of East Asia.
たとえば中国ではなく自国を中心(「華」)だと自認する「小中華思想」をもった国家が複数あり、中国の華夷秩序が一元的に東アジア国際秩序を貫いていたわけではなかった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
On the other hand, China had maintained until the Arrow War its solipsistic diplomatic attitude based on Sinocentrism and would not adopt vital notions indispensable for modern international relation such as international law and treaty.
一方でアロー戦争後まで中国は中華思想に基づいた唯我独尊的外交姿勢を守り続け、国際法や条約といった近代的国際関係に不可欠な概念を積極的に取り込もうとはしなかった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
He intended to correct gradually assumption by Sinocentrism that deemed the western world as iteki by making international law widely understood in China (through translating work for "Bankoku Koho").
その国際法を(『万国公法』の訳出を介して)中国に普及することで、西欧を夷狄視する中華思想的思いこみを徐々に是正していこうと考えたのである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Under Sinocenturism, imported concept was never accepted unless it was understood to be "true" (to be excellent universally) and "being originated in itself (to be of Chinese origin) at the same time (Sato 1996).
中華思想のもとでは、外来概念は「真であること」(「普遍」的に優れている)と「自己に由来すること」(中国起源であること)の二つが同時に認められない限り、受容されることはない(佐藤1996)。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
As explained above, the idea based on Sinocentrism was stuck in minds of topsiders of the Qing dynasty, and those topsiders recognized China as a special exception and thought international law should not be applied to China.
このように中華思想的な発想がすぐさま清朝首脳部から一掃されたわけではなく、むしろ中国を特別な存在として国際法の適用外であることを当然としていた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Existence of "Bankoku Koho" played important role to pull China out of the thought of Sinocentrism and gave recognition that China was one of nations in the world.
『万国公法』の存在は中国を中華思想的観念から脱し、万国の中の一国であるという認識へと向かわせるのに大きな役割を果たした。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The bakufu was not the only target of his anger; he also directed his anger at the ruling classes of the Qing dynasty and the Yi dynasty of Korea, both of which clung to the sakuho system based on Sinocentrism.
その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In Confucianism, cremation is an act of mutilation to the body, and in the codes of Chinese imperial dynasties, its prohibition is clearly stated (Sumio NAKA, 'A study on Jeo chon Sim Yuk's Thought of Hwayi and of So Junghwa' (A study on Centric vs. Barbarian concept and Small Sino centrism in Jeo chon Sim Yuk (literary remains of Jeo chon, edited by Sim Yuk)), 'Academic Report of Kyoto Prefectural University, Humanities and Social Science,' December 2003: ISSN13433946).
儒教では火葬は身体の毀損行為であり、中国の歴代王朝の法典においても禁止が明記されている(中純夫「樗村沈錥における華夷観念と小中華思想」「京都府立大学学術報告人文・社会」2003年12月ISSN13433946)。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
There is a theory stating that the reason for this naming is not only because of 'little Sino-centrism,' but also because of retaliation for being demoted from 'Kotei' to 'O' (King) once again by Japan even after they came to call themselves the Korean Empire and held the title of Emperor without hesitation after the independence from the Sakuho system of Qing.
この原因として韓国の「小中華思想」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Another reason is the sovereign-vassal relationship with tributes between Chinese dynasties, great empires, and surrounding countries based on Sinocentrism and Suzerainty, that brought economic exchanges and a certain stability of diplomatic orders to East Asia.
さらに巨大な帝国だった中国諸王朝が中華思想、華夷秩序に基づいて周辺諸国を冊封して朝貢関係を築き、それが経済交流と外交秩序の一定の安定を東アジアにもたらしたことにもよる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Later on, when a secret agreement was signed between Korea and Russia and Yukichi FUKUZAWA and others who heard about it from Kakugoro INOUE, they gave up on the government of the Korean Dynasties that were against equality, righteousness and independence with their Sadaejuui policy and petit Sinocentrism.
その後、朝露密約がされるが、そのような経緯の中で井上角五郎等から具に事情を聞いた福澤諭吉らは、ここに至り事大主義、小中華思想で、平等や義や独立の精神に反する朝鮮王朝政府に見切りをつけた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Kaichitsujo looked from Chinese dynasty was a view of the world based on Sinocentrism projected to the reality and it was international order in which China is recognized as "Ka" (culture) and the more remote from China, which was the center of concentric circle-shaped hierarchy the more remote from "Ka" and come closer to "iteki" (barbarians).
中国王朝から見た華夷秩序は、中華思想に基づく世界観を現実に投影したもので、中国を「華」(文明)と自認し、中国という同心円的ヒエラルキーの中心から離れるに従い「華」から離れ「夷狄」(野蛮)に近づいていくと考える国際秩序である。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The above description applies to kaichitsujo which Chinese dynasties had and neighboring states including Japan, Korea, Ryukyu and Viet Nam accepted or shared selectively such kaichitsujo and its basis, Sinocentrism, and involved in a part of kaichitsujo.
以上の説明は歴代中国王朝が構想した華夷秩序であるが、日本や朝鮮、琉球、ベトナム等の周辺諸国もその華夷秩序及びその根拠となった中華思想を選択的に受容、あるいは共有し、華夷秩序の一翼を担っていた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In more details, the Qing dynasty that had deemed foreign countries as "iteki" from its sense of value based on Sinocentrism, but it prohibited to denote western countries as "i (夷, a character means other ethnic groups)" in its official documents and, at the same time, established Zongli Yamen which was a diplomatic organization in charge of modern international relations.
具体的には、それまで清朝は諸外国を中華思想的価値観から「夷狄」とみなしていたが、清朝の公文書に西欧諸国を指して「夷」と表記することを禁じ、同時に総理衙門という近代的国際関係を担う外交機関を設けた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The reason for it was that in the negotiation with western countries, discussions did not mesh even if the Qing dynasty refer to "Fixed Rule of the Dynasty (precedents based on Sinocentrism)" and requirements of the western countries could not be refused.
というのも西欧列強との交渉においては、清朝がいくら「天朝の定制」(中華思想的慣例)を持ち出しても議論が噛み合わず、列強側の要求を拒絶することはできなかったためである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Until then powerful western countries were recognized as iteki because they seemed to put weight on power and profit rather than the proprieties and virtue and disorderly attack others by prior experiences.
それまで西欧列強が中華思想的に見て夷狄と断定されていたのは、礼や徳よりも力や利を追求することに重きをおき、無秩序に争いをしかけるというイメージが先験的にあったためである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
This positive acceptance of international law was not shared by large numbers of people at the time of yomu undo but it was a chance that Kaichitsujo based on Sinocentrism, in which China maintained self-centered attitude was unsettled and changed.
そうした国際法を肯定的に捉える受容は、洋務運動時期にはまだ少数であったが、それは中国を唯我独尊的な存在と自認する中華思想とそれに基づく華夷秩序が動揺し、変化させられていく契機の一つだったといえる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
He wrote a lot of books, including those marked as bestsellers, "Seiyo jijo" and "Bunmeiron no gairyaku," having set a trend in Japan after the Meiji Restoration to lead the Japanese to grow out of Sinocentrism and Confucianism and positively accept Western culture.
ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
For Fukuzawa, the government of the Korean Dynasties appeared to be totally against 'Equality' by discrimination by putting too much value on lineage and Keibatsu blood connection, Sinocentrism or petit Sinocentrism and disrespect for Japan as well as families repeating bloody strife over authority, no intention to be independent with their Sadaejuui policy and no consistency in their diplomacy; these things led him to write 'Datsu-A Ron' with his standpoint of 'ten wa hito no ue ni hito o tsukurazu...' (The heavens do not create Man above his station...) ("Gakumon no Susume" [An Encouragement of Learning]).
つまり、門閥、閨閥政治や中華思想また小中華思想など民族(人種)差別、日本蔑視思想で、「平等」の精神に真っ向から反する思想、親子(姑、嫁)が血みどろの権力闘争を繰り広げ、そのために事大主義に走り独立心がなく外交の一貫性がないこと、と福澤諭吉らから見れば、そう見える朝鮮王朝政府に対し、「天は人の上に人をつくらず...」(『学問のすゝめ』)とする思想を重んじる立場から「脱亜論」に至ったのだ、という解釈がある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Daewongun knew the atrocities of West Europeans in China, and he actively promoted the wijŏng ch'ŏksa policy (defense of Confucian orthodoxy and rejection of Christian heterodoxy), which was not to admit ideas other than the doctrines of Zhu Xi, and also he believed in Sinocentrism, and because of this he presumed the Western Europe countries to be barbarous.
これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Unlike the thought which put a high value on 'Equality,' 'Righteousness' and 'Independence' by Yukichi FUKUZAWA and others, 'Bad friends' in the 'Datsu-A Ron' was the word used meaning the Qing and Joseon Dynasty Korea where, adhering to their old customs of Keibatsu (network by blood connection), lineage government and petit Sinocentrism (idea of disrespect for Japan), bloody strifes over authority were repeated, being Sadaejuui (Loving and admiring the great and powerful) and faithless in diplomacy and diplomatic policies changed so often.
ここでの「悪友」とは、福澤諭吉らの「平等」や「義」や「独立心」を重んずる思想と違って、福澤らから見れば、閨閥、門閥政治、小中華思想(日本蔑視思想)などの旧弊に固執し血なまぐさい権力闘争を繰り返し、事大主義で外交において信義がなく、外交方針がころころ変わる清国や李氏朝鮮という認識で用いられた言葉である。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
However, as the ritsuryo system (a system of centralized government based on the ritsuryo code) was established, a 'small empire' came to be established with a kind of Sino-centrism, which distinguished people in inland Japan under the Emperor's rule from Tang as a neighbor country, Silla and Balhae as foreign countries, and Emishi as barbarians as well as Hayato (ancient tribe in Kyushu) looking upon them as social outcasts.
しかし、律令制が確立していくにつれて、唐を「隣国」、新羅・渤海_(国)を「蕃国」、そして蝦夷を「化外の民」として隼人とともに「夷狄」として、天皇の統治下にある日本内地の王民と峻別する一種の小中華思想を掲げた「小帝国」が成立することになる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
After the abolition of the embassies to China, in the Japanese aristocratic society, in which an isolation policy was practiced based on a petit Sino centrism, there were accumulated discontent with and criticism of the tribute trade because Japan was treated as vassal to the emperors of Ming; but, as the aristocrats were not able to speak out publicly in the face of the Yoshimitsu's strong influence, they could do nothing but comment on their dissatisfaction in diaries or other documents.
遣唐使の廃止以来、独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公な発言ができず日記などに記すのみであった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
http://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
With the movement to a sudden return to Sinocentrism and petit Shinocentrism to have the Qing Dynasty in the middle and revival of the administration based on the Sadaejuui policy, members of the Progressive group such as Ok-gyun KIM were in trouble.
清朝廷中心の中華思想、小中華思想への急激な回帰、事大主義政治の復活が起き、そうして金玉均などの開化派は危機的状況に陥る。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The Heungseon Daewongun group recruited others but most of them had strong 'Petit Sinocentrism' and totally rejected the West.
興宣大院君派は人材登用の面はあったが総じて小中華思想が強く西欧を排斥した。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In connection with the above, some people point out the existence of Petit Sinocentrism in Korea.
このことについて朝鮮の小中華思想を指摘する声もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Neo-Confucianism created the sho-chuka shiso (literally, mini-Sinocentrism) under which Korea was understood as "sho-chuka" (mini-China) or "sho-ka" (mini-China).
一方で朱子学は自国を「小中華」「小華」などと認識する小中華思想を生んだ。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Under kaichitsujo, international relations had been controlled with "Li system" based on Sinocentrism.
華夷秩序では、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Disappearance of Kaichitsujo affected change of Sinocentrism, which supported Kaichitsujo as the basis of the thought.
華夷秩序の崩壊は、その思想的根拠たる中華思想にも変容を迫った。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
It is thought that this was an adaptation of the Sinocentrism of 'Shii' (four barbarians), 'toi, seiju, namban and hokuteki.'
これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Moreover, the establishment of Confucianist thought in Japan meant the establishment of a China-centered view of the world in Japan, which had an influence upon emperor-centered historiography in later times and became the foundation for a Japanese style China-centered view of the world.
また、儒教思想の日本への定着はすなわち、中華思想(華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の皇国史観などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
It is also said that it was written as "蛮頭" meaning a head of the Southern barbarian because the Southern tribe was called Southern barbarians in terms of Sinocentrism.
一方、中華思想から見た場合、南の部族を南蛮と呼び南蛮人の頭である「蛮頭」説もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The main purposes of Kangofu were to clarify the position between a tributary state and the Ming dynasty (Sinocentrism) and to distinguish official ships from private ones.
勘合符の主な目的は、朝貢国と明との国家間の位置づけを明確にすること(中華思想)と公私船の区別を行うことである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Whatever they may have been, for the ritsuryo kokka based on Sinocentrism, Ezo was 'simply a concept of people who were out of their control.'
何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念でしかな」かった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In the Korean Dynasties at that time, government officials who cast off the Petit Sinocentrism, lineage, and Keibatsu blood connection were quite a minority.
当時の朝鮮王朝の中で小中華思想や門閥主義、閨閥主義を脱却していた役人は極めて少数派だったのである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Datsua-shiso thought is a concept mainly advocated by Yukichi FUKUZAWA, which encourages an abolishment of Confucianism and a departure from Sinocentrism.
脱亜思想(だつあしそう)とは、福澤諭吉に代表される儒教を廃して中華思想から脱却しようとする思想のこと。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The new Ming Dynasty established in 1368 following the retreat of Yuan had a strong Sinocentrism coming from a pretension as a dynasty that was able to recapture the Chinese style from Mongolia.
元の後退で1368年に成立した新王朝・明は、モンゴルから中華を奪回した王朝としての自負から強烈な中華思想を指向していた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
According to another account, "characters of contempt" were used for the names of foreign places and people as a result of Sinocentrism (Tsuneji HARADA, "Official History of Ancient Japan Based on the Materials before Kiki" Doshisha, Fujin Seikatsusha, 1976.)
一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っているため、このような表記になっている原田常治『記紀以前の資料による古代日本正史』同志社・婦人生活社1976年。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In addition, the Confucianism's view of the world is based on the Sinocentrism that the Chinese empire is stronger than any other nearby barbarian countries and that the Chinese people are ethically superior to the barbarian.
また、儒教的世界観では、支那の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
For example, there were multiple states that had "petit Sinocentrism" and recognized not China but themselves as the center ("ka") and, therefore, it was not that kaichitsujo of China covered uniformly international order of East Asia.
たとえば中国ではなく自国を中心(「華」)だと自認する「小中華思想」をもった国家が複数あり、中国の華夷秩序が一元的に東アジア国際秩序を貫いていたわけではなかった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
On the other hand, China had maintained until the Arrow War its solipsistic diplomatic attitude based on Sinocentrism and would not adopt vital notions indispensable for modern international relation such as international law and treaty.
一方でアロー戦争後まで中国は中華思想に基づいた唯我独尊的外交姿勢を守り続け、国際法や条約といった近代的国際関係に不可欠な概念を積極的に取り込もうとはしなかった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
He intended to correct gradually assumption by Sinocentrism that deemed the western world as iteki by making international law widely understood in China (through translating work for "Bankoku Koho").
その国際法を(『万国公法』の訳出を介して)中国に普及することで、西欧を夷狄視する中華思想的思いこみを徐々に是正していこうと考えたのである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Under Sinocenturism, imported concept was never accepted unless it was understood to be "true" (to be excellent universally) and "being originated in itself (to be of Chinese origin) at the same time (Sato 1996).
中華思想のもとでは、外来概念は「真であること」(「普遍」的に優れている)と「自己に由来すること」(中国起源であること)の二つが同時に認められない限り、受容されることはない(佐藤1996)。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
As explained above, the idea based on Sinocentrism was stuck in minds of topsiders of the Qing dynasty, and those topsiders recognized China as a special exception and thought international law should not be applied to China.
このように中華思想的な発想がすぐさま清朝首脳部から一掃されたわけではなく、むしろ中国を特別な存在として国際法の適用外であることを当然としていた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Existence of "Bankoku Koho" played important role to pull China out of the thought of Sinocentrism and gave recognition that China was one of nations in the world.
『万国公法』の存在は中国を中華思想的観念から脱し、万国の中の一国であるという認識へと向かわせるのに大きな役割を果たした。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The bakufu was not the only target of his anger; he also directed his anger at the ruling classes of the Qing dynasty and the Yi dynasty of Korea, both of which clung to the sakuho system based on Sinocentrism.
その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In Confucianism, cremation is an act of mutilation to the body, and in the codes of Chinese imperial dynasties, its prohibition is clearly stated (Sumio NAKA, 'A study on Jeo chon Sim Yuk's Thought of Hwayi and of So Junghwa' (A study on Centric vs. Barbarian concept and Small Sino centrism in Jeo chon Sim Yuk (literary remains of Jeo chon, edited by Sim Yuk)), 'Academic Report of Kyoto Prefectural University, Humanities and Social Science,' December 2003: ISSN13433946).
儒教では火葬は身体の毀損行為であり、中国の歴代王朝の法典においても禁止が明記されている(中純夫「樗村沈錥における華夷観念と小中華思想」「京都府立大学学術報告人文・社会」2003年12月ISSN13433946)。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
There is a theory stating that the reason for this naming is not only because of 'little Sino-centrism,' but also because of retaliation for being demoted from 'Kotei' to 'O' (King) once again by Japan even after they came to call themselves the Korean Empire and held the title of Emperor without hesitation after the independence from the Sakuho system of Qing.
この原因として韓国の「小中華思想」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Another reason is the sovereign-vassal relationship with tributes between Chinese dynasties, great empires, and surrounding countries based on Sinocentrism and Suzerainty, that brought economic exchanges and a certain stability of diplomatic orders to East Asia.
さらに巨大な帝国だった中国諸王朝が中華思想、華夷秩序に基づいて周辺諸国を冊封して朝貢関係を築き、それが経済交流と外交秩序の一定の安定を東アジアにもたらしたことにもよる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Later on, when a secret agreement was signed between Korea and Russia and Yukichi FUKUZAWA and others who heard about it from Kakugoro INOUE, they gave up on the government of the Korean Dynasties that were against equality, righteousness and independence with their Sadaejuui policy and petit Sinocentrism.
その後、朝露密約がされるが、そのような経緯の中で井上角五郎等から具に事情を聞いた福澤諭吉らは、ここに至り事大主義、小中華思想で、平等や義や独立の精神に反する朝鮮王朝政府に見切りをつけた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Kaichitsujo looked from Chinese dynasty was a view of the world based on Sinocentrism projected to the reality and it was international order in which China is recognized as "Ka" (culture) and the more remote from China, which was the center of concentric circle-shaped hierarchy the more remote from "Ka" and come closer to "iteki" (barbarians).
中国王朝から見た華夷秩序は、中華思想に基づく世界観を現実に投影したもので、中国を「華」(文明)と自認し、中国という同心円的ヒエラルキーの中心から離れるに従い「華」から離れ「夷狄」(野蛮)に近づいていくと考える国際秩序である。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The above description applies to kaichitsujo which Chinese dynasties had and neighboring states including Japan, Korea, Ryukyu and Viet Nam accepted or shared selectively such kaichitsujo and its basis, Sinocentrism, and involved in a part of kaichitsujo.
以上の説明は歴代中国王朝が構想した華夷秩序であるが、日本や朝鮮、琉球、ベトナム等の周辺諸国もその華夷秩序及びその根拠となった中華思想を選択的に受容、あるいは共有し、華夷秩序の一翼を担っていた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
In more details, the Qing dynasty that had deemed foreign countries as "iteki" from its sense of value based on Sinocentrism, but it prohibited to denote western countries as "i (夷, a character means other ethnic groups)" in its official documents and, at the same time, established Zongli Yamen which was a diplomatic organization in charge of modern international relations.
具体的には、それまで清朝は諸外国を中華思想的価値観から「夷狄」とみなしていたが、清朝の公文書に西欧諸国を指して「夷」と表記することを禁じ、同時に総理衙門という近代的国際関係を担う外交機関を設けた。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
The reason for it was that in the negotiation with western countries, discussions did not mesh even if the Qing dynasty refer to "Fixed Rule of the Dynasty (precedents based on Sinocentrism)" and requirements of the western countries could not be refused.
というのも西欧列強との交渉においては、清朝がいくら「天朝の定制」(中華思想的慣例)を持ち出しても議論が噛み合わず、列強側の要求を拒絶することはできなかったためである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Until then powerful western countries were recognized as iteki because they seemed to put weight on power and profit rather than the proprieties and virtue and disorderly attack others by prior experiences.
それまで西欧列強が中華思想的に見て夷狄と断定されていたのは、礼や徳よりも力や利を追求することに重きをおき、無秩序に争いをしかけるというイメージが先験的にあったためである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
This positive acceptance of international law was not shared by large numbers of people at the time of yomu undo but it was a chance that Kaichitsujo based on Sinocentrism, in which China maintained self-centered attitude was unsettled and changed.
そうした国際法を肯定的に捉える受容は、洋務運動時期にはまだ少数であったが、それは中国を唯我独尊的な存在と自認する中華思想とそれに基づく華夷秩序が動揺し、変化させられていく契機の一つだったといえる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
He wrote a lot of books, including those marked as bestsellers, "Seiyo jijo" and "Bunmeiron no gairyaku," having set a trend in Japan after the Meiji Restoration to lead the Japanese to grow out of Sinocentrism and Confucianism and positively accept Western culture.
ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
For Fukuzawa, the government of the Korean Dynasties appeared to be totally against 'Equality' by discrimination by putting too much value on lineage and Keibatsu blood connection, Sinocentrism or petit Sinocentrism and disrespect for Japan as well as families repeating bloody strife over authority, no intention to be independent with their Sadaejuui policy and no consistency in their diplomacy; these things led him to write 'Datsu-A Ron' with his standpoint of 'ten wa hito no ue ni hito o tsukurazu...' (The heavens do not create Man above his station...) ("Gakumon no Susume" [An Encouragement of Learning]).
つまり、門閥、閨閥政治や中華思想また小中華思想など民族(人種)差別、日本蔑視思想で、「平等」の精神に真っ向から反する思想、親子(姑、嫁)が血みどろの権力闘争を繰り広げ、そのために事大主義に走り独立心がなく外交の一貫性がないこと、と福澤諭吉らから見れば、そう見える朝鮮王朝政府に対し、「天は人の上に人をつくらず...」(『学問のすゝめ』)とする思想を重んじる立場から「脱亜論」に至ったのだ、という解釈がある。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Daewongun knew the atrocities of West Europeans in China, and he actively promoted the wijŏng ch'ŏksa policy (defense of Confucian orthodoxy and rejection of Christian heterodoxy), which was not to admit ideas other than the doctrines of Zhu Xi, and also he believed in Sinocentrism, and because of this he presumed the Western Europe countries to be barbarous.
これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Unlike the thought which put a high value on 'Equality,' 'Righteousness' and 'Independence' by Yukichi FUKUZAWA and others, 'Bad friends' in the 'Datsu-A Ron' was the word used meaning the Qing and Joseon Dynasty Korea where, adhering to their old customs of Keibatsu (network by blood connection), lineage government and petit Sinocentrism (idea of disrespect for Japan), bloody strifes over authority were repeated, being Sadaejuui (Loving and admiring the great and powerful) and faithless in diplomacy and diplomatic policies changed so often.
ここでの「悪友」とは、福澤諭吉らの「平等」や「義」や「独立心」を重んずる思想と違って、福澤らから見れば、閨閥、門閥政治、小中華思想(日本蔑視思想)などの旧弊に固執し血なまぐさい権力闘争を繰り返し、事大主義で外交において信義がなく、外交方針がころころ変わる清国や李氏朝鮮という認識で用いられた言葉である。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
However, as the ritsuryo system (a system of centralized government based on the ritsuryo code) was established, a 'small empire' came to be established with a kind of Sino-centrism, which distinguished people in inland Japan under the Emperor's rule from Tang as a neighbor country, Silla and Balhae as foreign countries, and Emishi as barbarians as well as Hayato (ancient tribe in Kyushu) looking upon them as social outcasts.
しかし、律令制が確立していくにつれて、唐を「隣国」、新羅・渤海_(国)を「蕃国」、そして蝦夷を「化外の民」として隼人とともに「夷狄」として、天皇の統治下にある日本内地の王民と峻別する一種の小中華思想を掲げた「小帝国」が成立することになる。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
After the abolition of the embassies to China, in the Japanese aristocratic society, in which an isolation policy was practiced based on a petit Sino centrism, there were accumulated discontent with and criticism of the tribute trade because Japan was treated as vassal to the emperors of Ming; but, as the aristocrats were not able to speak out publicly in the face of the Yoshimitsu's strong influence, they could do nothing but comment on their dissatisfaction in diaries or other documents.
遣唐使の廃止以来、独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公な発言ができず日記などに記すのみであった。 - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
Friday, January 27, 2012
the traditional Korean material clothing 韓国伝統の生地
http://myseoul.web.infoseek.co.jp/shoulder/okam.htm
http://www.yes24.com/24/goods/74453
전통옷감
テウォン社の「ピッカルインヌンチェクドゥル シリーズの伝統服地より」
韓国の布
韓国で使用されていた布の種類と名前
素材によって動物性と植物性で分類し、絹素材と麻素材・綿素材と大きくわけ、絹素材は織りの組織によって紬)ジュ、錦) クム、緞) タン、紗) サ、羅) ナ、綾)ヌン、コク、キョム、シ、チョ、キなどの種類があり、色や文様によって名前がつけられた。
絹織物
紬)ジュ
チョハジュ朝露紬、オアジュ魚牙紬、ミョンジュ綿紬(ファンジュ、チャジュ、チョジュ、ジュ紬(白紬、紫的紬、紅紬、緑紬、各色紬、熟紬、大紅紬、木紅紬、藍紬、黄紬、黒紬、五色紬、白搗練紬)、トジュ吐紬(白吐紬、紫的吐紬、草緑吐紬、大紅吐紬、柳青吐紬、表裏白吐紬、鴉青吐紬、黄吐紬、コプトジュ、黒吐紬)、チョンジュ鼎紬(白鼎紬、ボンフンチョンジュ、七升鼎紬)、スジュ水紬(七升水紬、白水紬、多紅水紬、チンチョロクスジュ(深緑)、チンナムスジュ(濃紺)、チンオクセクスジュ(鮮水色))、パンジュ班紬、アリョンジュ、綿紬(センミョンジュ、べクミョンジュ、フンミョンジュ、ノクミョンジュ、チャミョンジュ、ファンユチョンミョンジュ、各色ミョンジュ、べクセミョンジュ、ファンセミョンジュ、チャセミョンジュ)、チュンジュ春紬、プンジュ粉紬、センジュ生紬、サンジュ雙紬、パンサジュ方絲紬、ミョンジュ明紬、(べクミョンジュ、センミョンジュ、ホンミョンジュ)、コンジュ貢紬、ネジュ内紬、サンパルジュ三八紬(白三八紬、色三八紬)、ヘドンジュ(海東紬)、チョジュ苧紬、サンドンジュ山東紬、ムンジュ紋紬、フジュ厚紬、ユウムンジュ有紋紬、ノバンジュ
現在市場に出ているもの
ミョンジュ明紬、セクミョンジュ色明紬、センミョンジュ生明紬、ノバン
錦) クム
オセククン五色錦、ウンポクン雲布錦、クン錦、ハクン霞錦、ソムンクン瑞紋錦、チョハクン朝霞錦、テハオハクン大花魚牙錦、フンクム紅錦、ベックム白錦、紅地金銀五色線織成花鳥けい錦
現在市場に出ているもの
チックム織錦
緞) タン
チュサ注絲ーダン段(段子、白段、色段、彩段、匹段、段匹、錦段、素段、絨段)、チョサ苧段ー段(素緞、紋緞、五絲緞、庫緞、大緞、閃緞、英しょ緞、か本緞、羽緞、織錦緞、錦緞、粧緞、しょう緞)、金緞類、織金緞類、紋緞類、コンダン貢緞・公緞、タンセクムンダン単色紋緞、イセクムンダン二色紋緞、チュンジクムンダン重織紋緞、チョンモムンダン添毛紋緞、ミスルダン美術緞
現在市場に出ているもの
ピダン緋緞 、ムンダン紋緞(トリュウブルスダン桃榴佛手緞、ウンムンダン雲紋緞、ヨンファムンダン蓮花紋緞、モランダン木蓮緞)、ヤンダン洋緞 、モボンダン模本緞、コンダン貢緞
紗) サ
200種ほど
サ、ソサ素紗、ジュサ走紗、クァンサ廣紗、ウンジョサ銀條紗、スッコサ熟庫紗、センコア生庫紗、コンサ貢紗、チョウサ苧藕紗、ソヤンサ西洋紗、ムンサ紋紗、カプサ甲紗、センスカプサ生水甲紗、キルサンサ吉祥紗、コキルサン庫吉祥紗、センサ、センジュサ、ジュサ、ヤンサ、トジュサ、ナサ、トリサ、ピダンサ、ビョルムンサ、タンサ、シュクサ、ククサ、クァンサ、チンジュサ、ヨイサ、ズウサ、パンコンサ、コンヤンサ、チョンサ、チュンサ
現在市場に出ているもの
クァンサ官紗、スッコサ熟庫紗、ククサ菊紗・局紗、チンジュサ、カプサ甲紗、センコサ生庫紗、ウンジョサ銀條紗、ムンサ紋紗、クムサ金紗
羅) ナ
ヘラ慧羅、ポバンラ布紡羅、ヤチョラ野草羅、ウォルラ越羅ーこれらは統一新羅時代に禁止された布、フンラ紅羅、フンメファラ紅梅羅、ソクムフンラ銷金紅羅、フンムンラ紅紋羅、ファンラ黄羅、ムンラ紋羅、ハンラ亢羅、センハンラ生亢羅、ウンラ銀羅、スクラ熟羅、チュラ秋羅、スクハンラ熟亢羅、ジョンリョ縱絽、ウルラ乙ラ、ソラ素羅、各色羅、ムンラ紋羅・花羅、
現在市場に出ているもの
ハンラ亢羅、ムンハンラ紋亢羅、
綾)ヌン
ヌン綾、コムンヌン小紋綾、ファヌン、イセクヌン二色綾、
現在市場に出ているもの
ムンヌン紋綾
このほかにコク、キョム、シ、チョ、綺)キ(旧漢字のため漢字の書き込みができませんでした)
からむし
モシ(チョポ)
モシ白苧、全羅南道・全羅北道・慶尚南道・忠清南道産モシ、ハンサンモシ韓山モシ
現在市場に出ているもの
中国製モシ、ハンサンモシ
大麻
サンベ(マポ)
ポクポ北布、カンポ江布、ヤンポ嶺布、アンドンポ安東布
いろいろな種類が豊富にあります。
綿織物
ムミョン、クァンモク、オクヤンモク
以上は現代のみならず新羅、高句麗、朝鮮時代の文献に出てきた生地も含めたものをまとめて見ました。2006年現在市場を回って見て、手に入る生地を書き出しましたが、まだこれ以上にあると思います。
麻(2006年広蔵市場で撮影)
麻織物は麻(hemp; Cannabis sativa)の幹の靭皮纎維で作られ、尋麻科の苧麻、1年草亜麻科の亜麻、桑科の大麻、田麻科の黄麻、錦桑科の洋麻、青麻、Rozelleなど多用な種類があるが、韓国は昔から衣服として大麻、苧麻を使用してきた。
文献記録によると、「三国志」に’プヨの人たちが白布の布を着ていた。’かいには麻布があった。’また、’弁辰では廣幅細布を織った’とあり、「魏書」には高句麗の人の衣服が布、帛、皮だと書かれていた。
大麻 サンベ
*大麻の種類
大麻は韓国では全国的に栽培されていた。咸境道地方のポクポ(北布)、慶尚道地方のヤンポ(嶺布)、 江原道地方のカンポ(江布)、安東地方で生産される麻布はアンドンポ(安東布)と呼ばれ、韓国では最上級の大麻布とされている。北布は「朝鮮女俗考」では鉢内布と呼ばれ蝉の羽のようだと書かれてあった。嶺布・安東布は夏の服地として使われ、江布は常布といわれ、粗く値段が安く農夫の服に使われた。
2006年現在安東布は1反卸価格110万ウォンと高額である。地方によって好みが違い仕上がりの色が違う。
安東のサンベ
江原道のサンベ
忠清道のサンベ
大麻布は高麗時代からベ呼ばれ、今日まで一般的に大麻布とは言わず「ベ」または「サンベ」とよばれた。
市場で売られているサンベ くちなしに染められたものもうっている。糸の太さ厚さもいろいろ。
サンベの用途と手入れ
ベは夏の日常着の生地として一番多く使われる。服だけではなく、布団(シーツ)、枕などにも使われ、服地の残りはチョガクポとしても使われた。ベは亡くなった人に着せそのまま土葬したので死装束でもある。
ベで服を作るならまず、一度粗いのりを抜きまた、糊付けして手入れしてアイロンがけをしてから使用する。のり抜きをしないとべたべたして着ることができない。ベは普通、素(白)一つでそのまま使用するので場合によってはやや色あせして使用したりした。このような場合熟麻布とよぶ。真夏に使用するのは荒って糊付けしてもんでアイロンをかけて使用する。初夏、晩夏で使用するものは棒で布を打って艶出しして使用するときもある。モシ(苧麻)の場合も同じである。
のりの作り方
米を洗って一晩ふやかしてから碾き臼で細かくひいてたらいにつけておく。半日過ぎたら下にでんぷん質が沈殿して、上澄みを捨て、沈殿物の上に布切れを一枚かぶせ、その上から稲わらを焼いた灰をざっといれると、灰が残っていた水を吸い取ってくれ、その後布切れを上げ灰ごと取り出して、水分が抜けたでんぷんを取り出し、広げてよく乾かしてから細かく砕き粉にし、白紙に包んでしまっておく。糊付けが必要なときに少しづつ取り出し冷水にといて適当な粘りになるようにのりを炊いた。ベやモシはほかの布地よりきつめに糊付けする。
体験談
私もこの通り米粉を水につけて沈殿させ、灰がないのでそのままふきんを敷いたざるに水を捨てて水を切り、底に残った米粉を銀色のシートの上に上げ夏の暑い日に何日も干して乾燥させました。少々黄色くなってしまいましたが。それを袋に入れてかなづちでたたいてくだいてから、ふるいにかけて細かく粉状にしてペットボトルに入れて保管しました。乾燥状態がよければ何年でも持ちます。
糊付けの仕方
洗ってしっかり乾かしたベを、乾いたままのりにつける。細かいベはさらさらと注意して押しながら糊を浸透させる。力を入れて絞ったりせず手のひらで気をつけながら押して水気をきり、手のひらでパタパタたたいてしっかりと広げて棹にかけて乾かす。乾ききってない濡れているベを注意して取り込み、口で繊維の間に入っている糊気を吹き、まんべんなく湿った状態で手で広げたたくように触って広げ、布に包んで足で踏む。これを布からとり、また手で広で棹にかけて乾かし、また取り込んで布に包んで足で踏んでを繰り返し、ちょっとだらっとした状態にして布に包んでおく。
体験談
私もこの通り乾いたものを糊を作ったゆるゆるのお粥の中にいれ、もちろん冷めた糊の中にです。それからずっと15分ぐらいもみ続けます。もむというより動かして全体に糊が行き渡るようにしました。それから押さえて水気を切り、べたべたの状態で洗濯物をかけるステンレスでできている棹にかけました。でも糊(米粉)の分量がわからなかったので糊付けが弱かったり、糊の塊があったりで何度も失敗しました。どの程度の硬さかがわかるまで何回もやり直しでした。はじめに布切れにためしで糊付けしてアイロンかけて試してからいつもするようにしています。がやるごとに感じが違います。ベやモシは夏場に手入れしないと繊維が硬くなるときいていたので気を使います。べやモシは糊付けしないと力がないので必須です。べを包む布ですがシーツが一番でした。タオルなどは絶対だめです。足で踏むのも大変です。何度も折りなおして踏まないと変な線がついてしまいます。何度も繰り返すときれいに皺もなく伸びてくれるので踏み甲斐がありました。
アイロンのかけ方
向かい合って引っ張り、一人はしっかり持って、一人はアイロンを片手に、もう片方の手と足の指で生地つかんでピンとさせてアイロン掛けする。アイロンが消したら生地を丸めて紙に包んで服を作るとき使う。
体験談
私は一人なので引っ張り合うことはできません。濡れた状態で糊付けします。形がゆがんだりしやすいのでしっかり成形しながらアイロンをかけました。アイロンはコードレスは使用しません。重いアイロンがいいです。何回もアイロンを拭きながらでないと生地が傷んでしまうので細心の注意が必要でした。アイロンの温度は中温。シーチングの生地を上下において上からアイロンがけをはじめにしてある程度乾いたらシーチングはとり、じかにアイロンを当てました。とにかく大層な仕事です。
ほかの糊
米でお粥を炊いて代用したり、冷や飯を水に入れ、細かい目の袋に入れてグチュグチュと手でもんで絞って糊を作ったりした。
体験談
米粒をたまねぎのネットに入れてグチュグチュともんでからざるに漉して糊を作ったりしました。もち米でも代用にしたりしました。米粉よりもち米粉のほうが強力です。
べやモシは着る人の気遣いによって垢抜けもするしだめになったりもする。とてもわずらわしい服地で女性たちがべを触る手間隙が体に染みついていたら、世の中を生きていくときも体に染み付いた精神があり無難な生き方で暮らすようになる。ベやモシ服を着る癖が体に染みつきその姿が荒くれず見ていても気持ちがいい。
本当にそうだと思います。糊作りからアイロンがけまでやってみましたがこれほど大変じゃまくさい仕事はありません。これを今までしてきているのだから、たいしたもんです。まず時間がかかります。体力が要ります。注意心が必要です。簡単なことではありません。私の祖母ぐらいの年代までの韓国女性たちはみんなしていたことかもしれませんね。大変働き者でしゃんとしていたのかもしれません。お布団も洗って干して縫い直してということをしていたのです。だらだらしていたらこのようなことはできません。手間隙を惜しまない真心は生活のすべてに関しても手を抜かなかったと考えられます。どこで休んでいたのかしら?本を読むだけではわかりませんね。やってみて初めて韓国女性の生き方が理解でき、このように生きてきた方はやはりお顔に現れていると思えます。
そして現代に至って娘さんにこんなしんどい仕事させたいと思いますか?させたくないという親心も理解できます。ですから暮らしぶりが豊かになると手入れが邪魔臭いものや、手仕事や針仕事は娘さんにやらせない家庭が多いのが現実です。
紵 モシ
*モシの種類
(整理途中です)
番外 資料
韓国では白色を素色と呼び、白色の衣装が多いです。韓国人は白衣民族といわれていました。
中国人は私たち民族を指して、いつも服が白く清潔・瀟洒な人がいるとして「不死之国」と言った。日本人も朝鮮人は老若男女がすべて白い服を好み白い服を着ている。上も下も靴下も白い。上流家庭の婦人が白い服を着ることは美しく、テクニックがなくても美しさがすばらしく敬い姿だ。キーセンの白衣までもそうだと言った。
*白衣民族について
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=943 より
韓民族は白衣民族とも呼ばれていました。これは染色していない服を好んで着たことからついた呼び名です。綿花が入ってくるまで、麻の服を主に着ていたため、人々はできるだけ白くして服を着たため、このように呼ばれたという記録があります。しかしすべての人が白い服を着ていたわけではありません。身分によって服飾に差別があり、染色した服は 両班層などの支配層の人々だけが着ていました。一般庶民は婚礼の時にだけ染色した服を着ることができました。
http://pws.prserv.net/o-studio/atEASIA15renew.htm より
「白の似合う風土が韓国である。」韓民族はそう思っている。民族と気候と風土に、白が適しているという。太陽の神、天空神の子孫であると信じたために白を好んだという。日の丸の旗の太陽は赤だが、天中にある太陽は白である。かれらは朝夕の太陽を引用しようとはしなかった。もっとも勢いのある太陽の姿を模したのである。湿潤な日本の気候・風土とは異なり、乾いた空気の中では、常に太陽は真っ白に見え続ける。
http://www.eonet.ne.jp/~grounds-for-joy/things.htm より
白衣のこと
朝鮮半島の人々は、その白衣への愛着から「白衣民族」という言葉で呼ばれてきた。朝鮮半島固有の天神信仰においては光明をあらわす白が尊ばれた。
植物繊維が本来持つ自然の色彩は白、素と古代の文献にはある。
古代にすでに海外への輸出として苧麻(チョマ)がある。李朝時代には、服飾の色彩に関する規定が複雑であったため、規定にふれない簡便な色彩として白衣を着用する習慣が生まれたという指摘もあるらしい。この時代、一般庶民には、染料はあまりにも高価で、平常の服には白衣が用いられた。しかし、白衣を着用する人々は決してネガティブではなかった。庶民は、素色の衣装をほどいてはゆでて漂白し、砧で打って汚れを落とし、更に、火のしをあてて清潔な白さを愛した。白衣着用の伝統を愛し、誇りにしていたのである。
李氏朝鮮時代は身分によって色が決められていたようで、宮女は韓服のチョゴリは黄色、チマは青、白ズボンを着てかごに乗って宮中入りする。服装は王妃が着る黄色いチョゴリは禁止され、ピンクのチョゴリを着せられた。と宮中の生活について書かれていました。一般庶民は麻か綿の韓服を着ていたらしいです。韓国には草木染の染料が山に行けばあったと思うので染料が高価やそんなことは関係なく、染色の技術が特別だったのではないかと思われます。麻や綿は何度も何度も染め重ねしないと染めにくいし、生地のした処理が邪魔臭いものなのでそれをするよりは白をきれいに着るほうがいいと思ったのかもしれません。白であれば茹でても色落ちしないし汚れが落ちます。染色したものをそんなことしたら色むらを作ってしまいます。染色したものだからって同じように汚れるのですから。これは私の推測です。50年ほど昔の話ですが、娘さんの服を作るのにわざわざ染色して作っていたというお話も聞いているので邪魔臭いから白を着るということではないかもしれません。
植民支配時代の白衣民族抹殺政策示す1930年代の写真を発見という記事
http://nishimura-voice.seesaa.net/archives/200508.html
http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k335.html
植民支配時代の白衣民族抹殺政策示す1930年代の写真を発見
日本による植民支配時代(1910~1945)、韓民族に白い服を着せないためのキャンペーンが繰り広げられていたことを示す写真が公開された。 色付きの服を着るよう強いて「白衣民族」の精気を抹殺しようとする政策が、写真を通じて確認されたのは初めて。写真研究家・鄭成吉(チョン・ソンギル、65)氏は、9日「釜山東莱(プサン・トンレ)地域で1932年ごろ行われた『白い服を脱いで、色付きの服を着よう』というスローガンのキャンペーンの写真を発見した」と伝えた。写真は、日本人や親日派、動員された学生とみられる数十人が、「白衣退散」、「色服奨励」(白い服を脱ぎ、色付きの服を着るよう勧めよう、との意)とのスローガンが記されたものを掲げて、記念撮影したもの。また、後ろには「色服奨励」と記した旗が見える。約20年間、朝鮮(1392~1910)末期の写真を収集し「写真で見た韓国100年史」を出版した鄭氏は「様々な情況・証言から考えて、この写真は、白衣民族の象徴である白い服の代わりに、色付きの服を着せるため行った大々的なキャンペーンの風景」だと説明した。鄭氏は7~8年前ごろ、名古屋の古本屋で、韓国関連の写真がたくさん掲載されている「産業奨励」という本の中から、この写真とともに約200枚の写真を撮影した。/宋義鎬(ソン・ウィホ)記者/東亜日報 2005.08.09 19:06:18
「白衣民族抹殺政策」などと書いているが、白衣の着用しか許されなかった被差別階級、奴隷であった白丁を朝鮮総督府が解放したという証拠写真ではないのか?
と書かれたHPもあったのですが、白丁だけが白い服を着ていたわけではないので身分から開放というより、染色やプリントの技術を広めようとしていたのではないかとも思えます。ただ、この時代に生きていた当事者ではないのでわからないですが、白衣民族を抹殺する必要はなかったと思いますから。
it has written such as "the policy to kill wearing white cloths people", what was the evidence photo that Japan Government-General of Korea released swan class baekjeong who were slaves as discrimination class in Joseon era, they were not allowed to wear only white?
i read the homepage written so, it seems rather than released from the identification, i think it was trying to spread the technology of printing and dyeing, because wearing white clothes not only baekjeong.
i do not know because i am not living people at this era, but i think people not need to eliminate the white cloth ethnic.
baekjeong (백정)
http://www.yes24.com/24/goods/74453
전통옷감
テウォン社の「ピッカルインヌンチェクドゥル シリーズの伝統服地より」
韓国の布
韓国で使用されていた布の種類と名前
素材によって動物性と植物性で分類し、絹素材と麻素材・綿素材と大きくわけ、絹素材は織りの組織によって紬)ジュ、錦) クム、緞) タン、紗) サ、羅) ナ、綾)ヌン、コク、キョム、シ、チョ、キなどの種類があり、色や文様によって名前がつけられた。
絹織物
紬)ジュ
チョハジュ朝露紬、オアジュ魚牙紬、ミョンジュ綿紬(ファンジュ、チャジュ、チョジュ、ジュ紬(白紬、紫的紬、紅紬、緑紬、各色紬、熟紬、大紅紬、木紅紬、藍紬、黄紬、黒紬、五色紬、白搗練紬)、トジュ吐紬(白吐紬、紫的吐紬、草緑吐紬、大紅吐紬、柳青吐紬、表裏白吐紬、鴉青吐紬、黄吐紬、コプトジュ、黒吐紬)、チョンジュ鼎紬(白鼎紬、ボンフンチョンジュ、七升鼎紬)、スジュ水紬(七升水紬、白水紬、多紅水紬、チンチョロクスジュ(深緑)、チンナムスジュ(濃紺)、チンオクセクスジュ(鮮水色))、パンジュ班紬、アリョンジュ、綿紬(センミョンジュ、べクミョンジュ、フンミョンジュ、ノクミョンジュ、チャミョンジュ、ファンユチョンミョンジュ、各色ミョンジュ、べクセミョンジュ、ファンセミョンジュ、チャセミョンジュ)、チュンジュ春紬、プンジュ粉紬、センジュ生紬、サンジュ雙紬、パンサジュ方絲紬、ミョンジュ明紬、(べクミョンジュ、センミョンジュ、ホンミョンジュ)、コンジュ貢紬、ネジュ内紬、サンパルジュ三八紬(白三八紬、色三八紬)、ヘドンジュ(海東紬)、チョジュ苧紬、サンドンジュ山東紬、ムンジュ紋紬、フジュ厚紬、ユウムンジュ有紋紬、ノバンジュ
現在市場に出ているもの
ミョンジュ明紬、セクミョンジュ色明紬、センミョンジュ生明紬、ノバン
錦) クム
オセククン五色錦、ウンポクン雲布錦、クン錦、ハクン霞錦、ソムンクン瑞紋錦、チョハクン朝霞錦、テハオハクン大花魚牙錦、フンクム紅錦、ベックム白錦、紅地金銀五色線織成花鳥けい錦
現在市場に出ているもの
チックム織錦
緞) タン
チュサ注絲ーダン段(段子、白段、色段、彩段、匹段、段匹、錦段、素段、絨段)、チョサ苧段ー段(素緞、紋緞、五絲緞、庫緞、大緞、閃緞、英しょ緞、か本緞、羽緞、織錦緞、錦緞、粧緞、しょう緞)、金緞類、織金緞類、紋緞類、コンダン貢緞・公緞、タンセクムンダン単色紋緞、イセクムンダン二色紋緞、チュンジクムンダン重織紋緞、チョンモムンダン添毛紋緞、ミスルダン美術緞
現在市場に出ているもの
ピダン緋緞 、ムンダン紋緞(トリュウブルスダン桃榴佛手緞、ウンムンダン雲紋緞、ヨンファムンダン蓮花紋緞、モランダン木蓮緞)、ヤンダン洋緞 、モボンダン模本緞、コンダン貢緞
紗) サ
200種ほど
サ、ソサ素紗、ジュサ走紗、クァンサ廣紗、ウンジョサ銀條紗、スッコサ熟庫紗、センコア生庫紗、コンサ貢紗、チョウサ苧藕紗、ソヤンサ西洋紗、ムンサ紋紗、カプサ甲紗、センスカプサ生水甲紗、キルサンサ吉祥紗、コキルサン庫吉祥紗、センサ、センジュサ、ジュサ、ヤンサ、トジュサ、ナサ、トリサ、ピダンサ、ビョルムンサ、タンサ、シュクサ、ククサ、クァンサ、チンジュサ、ヨイサ、ズウサ、パンコンサ、コンヤンサ、チョンサ、チュンサ
現在市場に出ているもの
クァンサ官紗、スッコサ熟庫紗、ククサ菊紗・局紗、チンジュサ、カプサ甲紗、センコサ生庫紗、ウンジョサ銀條紗、ムンサ紋紗、クムサ金紗
羅) ナ
ヘラ慧羅、ポバンラ布紡羅、ヤチョラ野草羅、ウォルラ越羅ーこれらは統一新羅時代に禁止された布、フンラ紅羅、フンメファラ紅梅羅、ソクムフンラ銷金紅羅、フンムンラ紅紋羅、ファンラ黄羅、ムンラ紋羅、ハンラ亢羅、センハンラ生亢羅、ウンラ銀羅、スクラ熟羅、チュラ秋羅、スクハンラ熟亢羅、ジョンリョ縱絽、ウルラ乙ラ、ソラ素羅、各色羅、ムンラ紋羅・花羅、
現在市場に出ているもの
ハンラ亢羅、ムンハンラ紋亢羅、
綾)ヌン
ヌン綾、コムンヌン小紋綾、ファヌン、イセクヌン二色綾、
現在市場に出ているもの
ムンヌン紋綾
このほかにコク、キョム、シ、チョ、綺)キ(旧漢字のため漢字の書き込みができませんでした)
からむし
モシ(チョポ)
モシ白苧、全羅南道・全羅北道・慶尚南道・忠清南道産モシ、ハンサンモシ韓山モシ
現在市場に出ているもの
中国製モシ、ハンサンモシ
大麻
サンベ(マポ)
ポクポ北布、カンポ江布、ヤンポ嶺布、アンドンポ安東布
いろいろな種類が豊富にあります。
綿織物
ムミョン、クァンモク、オクヤンモク
以上は現代のみならず新羅、高句麗、朝鮮時代の文献に出てきた生地も含めたものをまとめて見ました。2006年現在市場を回って見て、手に入る生地を書き出しましたが、まだこれ以上にあると思います。
麻織物は麻(hemp; Cannabis sativa)の幹の靭皮纎維で作られ、尋麻科の苧麻、1年草亜麻科の亜麻、桑科の大麻、田麻科の黄麻、錦桑科の洋麻、青麻、Rozelleなど多用な種類があるが、韓国は昔から衣服として大麻、苧麻を使用してきた。
文献記録によると、「三国志」に’プヨの人たちが白布の布を着ていた。’かいには麻布があった。’また、’弁辰では廣幅細布を織った’とあり、「魏書」には高句麗の人の衣服が布、帛、皮だと書かれていた。
大麻 サンベ
*大麻の種類
大麻は韓国では全国的に栽培されていた。咸境道地方のポクポ(北布)、慶尚道地方のヤンポ(嶺布)、 江原道地方のカンポ(江布)、安東地方で生産される麻布はアンドンポ(安東布)と呼ばれ、韓国では最上級の大麻布とされている。北布は「朝鮮女俗考」では鉢内布と呼ばれ蝉の羽のようだと書かれてあった。嶺布・安東布は夏の服地として使われ、江布は常布といわれ、粗く値段が安く農夫の服に使われた。
2006年現在安東布は1反卸価格110万ウォンと高額である。地方によって好みが違い仕上がりの色が違う。
安東のサンベ
江原道のサンベ
忠清道のサンベ
大麻布は高麗時代からベ呼ばれ、今日まで一般的に大麻布とは言わず「ベ」または「サンベ」とよばれた。
市場で売られているサンベ くちなしに染められたものもうっている。糸の太さ厚さもいろいろ。
サンベの用途と手入れ
ベは夏の日常着の生地として一番多く使われる。服だけではなく、布団(シーツ)、枕などにも使われ、服地の残りはチョガクポとしても使われた。ベは亡くなった人に着せそのまま土葬したので死装束でもある。
ベで服を作るならまず、一度粗いのりを抜きまた、糊付けして手入れしてアイロンがけをしてから使用する。のり抜きをしないとべたべたして着ることができない。ベは普通、素(白)一つでそのまま使用するので場合によってはやや色あせして使用したりした。このような場合熟麻布とよぶ。真夏に使用するのは荒って糊付けしてもんでアイロンをかけて使用する。初夏、晩夏で使用するものは棒で布を打って艶出しして使用するときもある。モシ(苧麻)の場合も同じである。
のりの作り方
米を洗って一晩ふやかしてから碾き臼で細かくひいてたらいにつけておく。半日過ぎたら下にでんぷん質が沈殿して、上澄みを捨て、沈殿物の上に布切れを一枚かぶせ、その上から稲わらを焼いた灰をざっといれると、灰が残っていた水を吸い取ってくれ、その後布切れを上げ灰ごと取り出して、水分が抜けたでんぷんを取り出し、広げてよく乾かしてから細かく砕き粉にし、白紙に包んでしまっておく。糊付けが必要なときに少しづつ取り出し冷水にといて適当な粘りになるようにのりを炊いた。ベやモシはほかの布地よりきつめに糊付けする。
体験談
私もこの通り米粉を水につけて沈殿させ、灰がないのでそのままふきんを敷いたざるに水を捨てて水を切り、底に残った米粉を銀色のシートの上に上げ夏の暑い日に何日も干して乾燥させました。少々黄色くなってしまいましたが。それを袋に入れてかなづちでたたいてくだいてから、ふるいにかけて細かく粉状にしてペットボトルに入れて保管しました。乾燥状態がよければ何年でも持ちます。
糊付けの仕方
洗ってしっかり乾かしたベを、乾いたままのりにつける。細かいベはさらさらと注意して押しながら糊を浸透させる。力を入れて絞ったりせず手のひらで気をつけながら押して水気をきり、手のひらでパタパタたたいてしっかりと広げて棹にかけて乾かす。乾ききってない濡れているベを注意して取り込み、口で繊維の間に入っている糊気を吹き、まんべんなく湿った状態で手で広げたたくように触って広げ、布に包んで足で踏む。これを布からとり、また手で広で棹にかけて乾かし、また取り込んで布に包んで足で踏んでを繰り返し、ちょっとだらっとした状態にして布に包んでおく。
体験談
私もこの通り乾いたものを糊を作ったゆるゆるのお粥の中にいれ、もちろん冷めた糊の中にです。それからずっと15分ぐらいもみ続けます。もむというより動かして全体に糊が行き渡るようにしました。それから押さえて水気を切り、べたべたの状態で洗濯物をかけるステンレスでできている棹にかけました。でも糊(米粉)の分量がわからなかったので糊付けが弱かったり、糊の塊があったりで何度も失敗しました。どの程度の硬さかがわかるまで何回もやり直しでした。はじめに布切れにためしで糊付けしてアイロンかけて試してからいつもするようにしています。がやるごとに感じが違います。ベやモシは夏場に手入れしないと繊維が硬くなるときいていたので気を使います。べやモシは糊付けしないと力がないので必須です。べを包む布ですがシーツが一番でした。タオルなどは絶対だめです。足で踏むのも大変です。何度も折りなおして踏まないと変な線がついてしまいます。何度も繰り返すときれいに皺もなく伸びてくれるので踏み甲斐がありました。
アイロンのかけ方
向かい合って引っ張り、一人はしっかり持って、一人はアイロンを片手に、もう片方の手と足の指で生地つかんでピンとさせてアイロン掛けする。アイロンが消したら生地を丸めて紙に包んで服を作るとき使う。
体験談
私は一人なので引っ張り合うことはできません。濡れた状態で糊付けします。形がゆがんだりしやすいのでしっかり成形しながらアイロンをかけました。アイロンはコードレスは使用しません。重いアイロンがいいです。何回もアイロンを拭きながらでないと生地が傷んでしまうので細心の注意が必要でした。アイロンの温度は中温。シーチングの生地を上下において上からアイロンがけをはじめにしてある程度乾いたらシーチングはとり、じかにアイロンを当てました。とにかく大層な仕事です。
ほかの糊
米でお粥を炊いて代用したり、冷や飯を水に入れ、細かい目の袋に入れてグチュグチュと手でもんで絞って糊を作ったりした。
体験談
米粒をたまねぎのネットに入れてグチュグチュともんでからざるに漉して糊を作ったりしました。もち米でも代用にしたりしました。米粉よりもち米粉のほうが強力です。
べやモシは着る人の気遣いによって垢抜けもするしだめになったりもする。とてもわずらわしい服地で女性たちがべを触る手間隙が体に染みついていたら、世の中を生きていくときも体に染み付いた精神があり無難な生き方で暮らすようになる。ベやモシ服を着る癖が体に染みつきその姿が荒くれず見ていても気持ちがいい。
本当にそうだと思います。糊作りからアイロンがけまでやってみましたがこれほど大変じゃまくさい仕事はありません。これを今までしてきているのだから、たいしたもんです。まず時間がかかります。体力が要ります。注意心が必要です。簡単なことではありません。私の祖母ぐらいの年代までの韓国女性たちはみんなしていたことかもしれませんね。大変働き者でしゃんとしていたのかもしれません。お布団も洗って干して縫い直してということをしていたのです。だらだらしていたらこのようなことはできません。手間隙を惜しまない真心は生活のすべてに関しても手を抜かなかったと考えられます。どこで休んでいたのかしら?本を読むだけではわかりませんね。やってみて初めて韓国女性の生き方が理解でき、このように生きてきた方はやはりお顔に現れていると思えます。
そして現代に至って娘さんにこんなしんどい仕事させたいと思いますか?させたくないという親心も理解できます。ですから暮らしぶりが豊かになると手入れが邪魔臭いものや、手仕事や針仕事は娘さんにやらせない家庭が多いのが現実です。
紵 モシ
*モシの種類
(整理途中です)
番外 資料
韓国では白色を素色と呼び、白色の衣装が多いです。韓国人は白衣民族といわれていました。
中国人は私たち民族を指して、いつも服が白く清潔・瀟洒な人がいるとして「不死之国」と言った。日本人も朝鮮人は老若男女がすべて白い服を好み白い服を着ている。上も下も靴下も白い。上流家庭の婦人が白い服を着ることは美しく、テクニックがなくても美しさがすばらしく敬い姿だ。キーセンの白衣までもそうだと言った。
*白衣民族について
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=943 より
韓民族は白衣民族とも呼ばれていました。これは染色していない服を好んで着たことからついた呼び名です。綿花が入ってくるまで、麻の服を主に着ていたため、人々はできるだけ白くして服を着たため、このように呼ばれたという記録があります。しかしすべての人が白い服を着ていたわけではありません。身分によって服飾に差別があり、染色した服は 両班層などの支配層の人々だけが着ていました。一般庶民は婚礼の時にだけ染色した服を着ることができました。
http://pws.prserv.net/o-studio/atEASIA15renew.htm より
「白の似合う風土が韓国である。」韓民族はそう思っている。民族と気候と風土に、白が適しているという。太陽の神、天空神の子孫であると信じたために白を好んだという。日の丸の旗の太陽は赤だが、天中にある太陽は白である。かれらは朝夕の太陽を引用しようとはしなかった。もっとも勢いのある太陽の姿を模したのである。湿潤な日本の気候・風土とは異なり、乾いた空気の中では、常に太陽は真っ白に見え続ける。
http://www.eonet.ne.jp/~grounds-for-joy/things.htm より
白衣のこと
朝鮮半島の人々は、その白衣への愛着から「白衣民族」という言葉で呼ばれてきた。朝鮮半島固有の天神信仰においては光明をあらわす白が尊ばれた。
植物繊維が本来持つ自然の色彩は白、素と古代の文献にはある。
古代にすでに海外への輸出として苧麻(チョマ)がある。李朝時代には、服飾の色彩に関する規定が複雑であったため、規定にふれない簡便な色彩として白衣を着用する習慣が生まれたという指摘もあるらしい。この時代、一般庶民には、染料はあまりにも高価で、平常の服には白衣が用いられた。しかし、白衣を着用する人々は決してネガティブではなかった。庶民は、素色の衣装をほどいてはゆでて漂白し、砧で打って汚れを落とし、更に、火のしをあてて清潔な白さを愛した。白衣着用の伝統を愛し、誇りにしていたのである。
李氏朝鮮時代は身分によって色が決められていたようで、宮女は韓服のチョゴリは黄色、チマは青、白ズボンを着てかごに乗って宮中入りする。服装は王妃が着る黄色いチョゴリは禁止され、ピンクのチョゴリを着せられた。と宮中の生活について書かれていました。一般庶民は麻か綿の韓服を着ていたらしいです。韓国には草木染の染料が山に行けばあったと思うので染料が高価やそんなことは関係なく、染色の技術が特別だったのではないかと思われます。麻や綿は何度も何度も染め重ねしないと染めにくいし、生地のした処理が邪魔臭いものなのでそれをするよりは白をきれいに着るほうがいいと思ったのかもしれません。白であれば茹でても色落ちしないし汚れが落ちます。染色したものをそんなことしたら色むらを作ってしまいます。染色したものだからって同じように汚れるのですから。これは私の推測です。50年ほど昔の話ですが、娘さんの服を作るのにわざわざ染色して作っていたというお話も聞いているので邪魔臭いから白を着るということではないかもしれません。
植民支配時代の白衣民族抹殺政策示す1930年代の写真を発見という記事
http://nishimura-voice.seesaa.net/archives/200508.html
http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k335.html
植民支配時代の白衣民族抹殺政策示す1930年代の写真を発見
日本による植民支配時代(1910~1945)、韓民族に白い服を着せないためのキャンペーンが繰り広げられていたことを示す写真が公開された。 色付きの服を着るよう強いて「白衣民族」の精気を抹殺しようとする政策が、写真を通じて確認されたのは初めて。写真研究家・鄭成吉(チョン・ソンギル、65)氏は、9日「釜山東莱(プサン・トンレ)地域で1932年ごろ行われた『白い服を脱いで、色付きの服を着よう』というスローガンのキャンペーンの写真を発見した」と伝えた。写真は、日本人や親日派、動員された学生とみられる数十人が、「白衣退散」、「色服奨励」(白い服を脱ぎ、色付きの服を着るよう勧めよう、との意)とのスローガンが記されたものを掲げて、記念撮影したもの。また、後ろには「色服奨励」と記した旗が見える。約20年間、朝鮮(1392~1910)末期の写真を収集し「写真で見た韓国100年史」を出版した鄭氏は「様々な情況・証言から考えて、この写真は、白衣民族の象徴である白い服の代わりに、色付きの服を着せるため行った大々的なキャンペーンの風景」だと説明した。鄭氏は7~8年前ごろ、名古屋の古本屋で、韓国関連の写真がたくさん掲載されている「産業奨励」という本の中から、この写真とともに約200枚の写真を撮影した。/宋義鎬(ソン・ウィホ)記者/東亜日報 2005.08.09 19:06:18
「白衣民族抹殺政策」などと書いているが、白衣の着用しか許されなかった被差別階級、奴隷であった白丁を朝鮮総督府が解放したという証拠写真ではないのか?
と書かれたHPもあったのですが、白丁だけが白い服を着ていたわけではないので身分から開放というより、染色やプリントの技術を広めようとしていたのではないかとも思えます。ただ、この時代に生きていた当事者ではないのでわからないですが、白衣民族を抹殺する必要はなかったと思いますから。
it has written such as "the policy to kill wearing white cloths people", what was the evidence photo that Japan Government-General of Korea released swan class baekjeong who were slaves as discrimination class in Joseon era, they were not allowed to wear only white?
i read the homepage written so, it seems rather than released from the identification, i think it was trying to spread the technology of printing and dyeing, because wearing white clothes not only baekjeong.
i do not know because i am not living people at this era, but i think people not need to eliminate the white cloth ethnic.
baekjeong (백정)
Tuesday, January 24, 2012
Monday, January 23, 2012
Sunday, January 22, 2012
kado lesson
moribana
my work is like cabbage....the field mustards 菜の花 should be placed mixing longer and shorter...i cut short all of them..
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