http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/chosennokamengi01.pdf
朝鮮の仮面戯-儺(ナ)と死霊供養の戯として
野村伸一
가면극
Korean masque,as the event to get rid of the demon plague and for the foreplay of the Dead memorial service
by Shinich Nomura
朝鮮民族の伝えた仮面のあそびは夜陰を貫く鮮烈な一条の光芒のようなものであった。それは邑落1)の広場で多くは夜半、篝火のもとに俗語と歌謡を交えた台詞、強靱な身体を反映する跳舞とともにおこなわれた。
演じ手はクワンデとよばれた男たちである。かれらは文献では高麗時代に突然現れ、その出自は明らかでないが、朝鮮朝においても仮面戯や雑戯、またパンソリなどの謡い物の担い手として活動した。かれらは朝鮮時代に賤民とされ、同じく賤民とされた巫覡と縁戚関係を結んだ者も多かった。
また19世紀の後半に成立したとおもわれる現存仮面戯の多くは在地の郷吏が陰に陽にかかわっていて、かれらの素養、趣向が反映されたために、台詞のなかに多数の漢文の詩句が挿入されることになった。それはちょうどパンソリという謡い芸の変容と対応する。
朝鮮の仮面戯の系統について、李杜鉉は、ムラの城隍2)祭におこなわれる仮面戯と「山台都監サンデトガム系統劇」とに大別している。前者としては河回、江陵および東海岸別神クッの仮面戯があげられている。また後者は黄海道や京畿道、慶尚南道の仮面戯のことで、これらはいずれも朝鮮朝の儺礼を管掌する官庁「山台都監」の影響下にあるという前提のもとで名づけられている。しかし、李杜鉉自身がいうように、宮中の儺礼の際におこなわれた「山台雑劇」「山台儺戯」は必ずしも仮面のあそびではなく、今日民間に伝承されたものと同一ではない3)。しかも、京畿道と黄海道のものは類似した部分も多いが、慶尚道の仮面戯をそれらと同類のものとしていいのかどうかは、反論も提起されている4)。
ただ、わたしは、この章において系統論にはあまり深入りする考えはない。わたしがここで提起した問題は、朝鮮の仮面戯は儺と死霊供養の観点からみるとき、「城隍祭」
1)河回タルチュムのある慶尚北道河回は大きなムラではないが、以下にあげる仮面戯は総じて大きなムラ、交通の要衝地、人出の多い船着き場などでおこなわれた。
2)城隍はソンファンと発音されるが、民間ではソナンとよばれる。これは高麗時代、105
5年に中国から導入された祭祀制度で、もとは都城を守るものであったが、朝鮮ではこの信
仰が民間にあまねく広がった。そして、別神クッというかたちの祭祀がこれと密接なかかわ
りをもっておこなわれるようになる。
3)李杜鉉『韓国の仮面劇』、一志社、1979年、ソウルの第4章および李杜鉉『朝鮮芸能史』、東京大学出版会、1990年、148頁。
4)鄭尚.『五広大オクワンデと野あそびトゥルノルムの研究』、集文堂、1986年の序論、徐淵昊『野遊・五広大仮タ面あルそノびリ』、悦話堂、1988年、68-69頁。この反論には、1960~70年代において、慶尚道の仮面戯に対する基本的な実地調査が不足していたにもかかわらず、山台劇の一類と規定したことへの批判が含まれていて、説得力がある。李杜鉉の上記の分類は、要するにムラの仮面戯と都邑の仮面戯を分けてしまうもので、それは今日なお定説とされているが、見直しが必要であると考える。それについては以下の叙述において触れる。の仮面戯であれ、「山台都監」系統のものであれ、また慶尚南道のものであれ、すべて包括的に論じることができるということである。そもそも山台都監とは宮中の儺にかかわる官庁であり、そこに出入りしたクワンデらの動向が儺礼の廃止以後、どのていど民間の仮面戯に影響を及ぼしたのかは推測するほかはないのだが、かれらの演戯の根柢は東アジアに広く存在する民間の儺であり、また孤魂供養であった。このことはのちにいろいろな視点から述べることになる。
わたしは、以下では、まず朝鮮全国に広がる主要な仮面戯を概観し、現存する仮面戯の成立にとって主要な契機は何だったのか、また仮面戯の動因は何であったのかを検討し、次に、言語伝承および東アジアの枠内における比較対照の必要性について論じようとした。
論議はかなり広くなるが、仮面戯はそもそもなぜおこなわれたのかということが基本的な問いかけであり、その答えはまだ明確に出されていない。そこで、まずわたしの視点の大枠を提示しておきたい。
朝鮮のムラのまつりは毎年おこなわれるが、すべてのまつりに仮面のモノが訪れるわけではない。従って、ムラまつりが仮面戯を胚胎したというだけでは十分な説明にはならない。ムラの祭儀の場に来訪するモノは無数にあり、いちいち目にみえるかたちでは表現しないのがふつうである。しかし、天災、疫病、飢饉、暴政などムラの存亡にかかわるとき、そうしたモノは姿を現した。いや現れることが待望された。それは巫覡のクッのなかに織りこまれるばあいもあるし、また農楽隊のかたちで訪れ、迎えられることもあっただろう5)。また男寺党やその前身となる流浪の芸能者のかたちで訪れることもあっただろう。
かれらは、クッの場に集うモノなので、訪れてから、まずはムラのようすをながめる。ムラでは巫覡のクッもあっただろう。農楽隊による出迎えもあっただろう。そうしたところへやってきたモノたちは鬼神、神将などの姿をとる。そして通例、楽の音に誘われてやってきたことを告げる。またかれらは楽士によびとめられる。このとき、楽士らは村人を代表していて、このモノたちを受け入れる。
あそびの場に引き寄せられてきたモノたちは障害を持っていたり、かたちが歪んでいたりする。そうではあってもかれらなりの一生を語り、また演じてみせる。それは辱説ヨクソル(悪態)、地口による笑い、あけすけな性の表現、家庭の不和などに満ちていて、身分ある人士の日常とは縁遠いが、東海岸のコリクッの登場人物がそうであったように、農村の日常、あるいは民俗世界の記憶としては真リにア迫るリもテのィがあった。猥談は農作業の合間に頻繁におこなわれ、哄笑にも似た笑いと些細なことが原因の派手な夫婦喧嘩こそは日常茶飯事だった。しかも、その世俗性はほかならぬクッのなかに構造的に埋め込まれていた。
これらの要素は、たとい郷吏のような地方官僚が「風紀上怪しからん」とあそびに介
5)ムラの男たちがいったんソトに出て、一定期間の隔離生活ののちにやってくるばあいと、乞粒輩コッリプペのような真によそ者の一群がやってくるばあいとがあった。いずれにしても、それはムラのソトからきたことを意味する。
入したとしても消し去ることのできないものであった。なぜなら、かれら、モノたち(孤魂野鬼)の帰趨が邑落の存亡とかかわるという暗黙の前提があり、郷吏はこれを受容せざるをえなかったからである6)。郷吏は自分たちの主宰する年末の儺戯を仮面戯を中心に構成した。その際、付け加えられたものがあるとすれば、それは漢文もじりの台詞や強烈な両班諷刺のことばなどでしかないであろう。およそ祭儀にかかわる伝来の本質的な面は全面的に受容するほかはない。そのことではじめて地域共同体の儺の儀が全うされたのであるから。
こうして、根本的な問いかけが出されることになる。すなわち、一体、邑落の祭儀にとって原初の仮面戯はどのようなものとして受容されたのか。いいかえると、なぜ仮面戯が必要であったのか。この問いは少なくとも定説に対する根源的な問題提起にはなるだろう。すなわち、朝鮮には古来、ムラに自然発生した仮面戯と都市に住む専門的な芸人による仮面戯の二種類があったという説明は決して回答とはならないということである。
この一般的な問いかけにこたえるべく、以下には個々の仮面戯をみていくことにしたい。以下は大きくふたつに分かれる。第一は、別神クッのなかの仮面戯である。慶尚北道の河回仮面戯と江原道江陵の官奴仮面戯がそれで、韓国では通例、村まつり系統の仮面戯とされている。第二は黄海道、京畿道および慶尚道の仮面戯で、近年の韓国の研究では専門的な芸能者の参与したあとが濃厚なものである。
わたしの視点は、特に両系統を分ける必要はないと考えるが、それについては、ここで論じるよりは全体をみた上で述べるのがよいと考える。従って、大きくふたつに分けたとはいえ、それはあくまでも便宜的なものである。。
1.別神クッと仮面戯
6)このことの背景として次のようなことが指摘されよう。すなわち朝鮮時代後期の社会において郷吏は両班と農民のあいだで、かれらなりに不安な日々を送らざるをえなかった。もともとかれら郷吏は、高麗時代の末から朝鮮朝を通して、地方の行政、祭祀をもっぱら担当する実務者として一つの勢力を形成していたが、朝鮮朝後期にはいると、流通経済の発展に伴う郷村の分化、かれら内部での階層化、中央政府とのあいだの葛藤などが否応なく生じた。こうしたとき、ともすれば不安定になりがちな地位を強化するのに仮面戯の公演は大きな意味を持った。なぜなら仮面戯の内容は民譚や巫俗を通して民衆には馴染みのものであり、それらを郷吏が担うことは両者の連帯感を確認させることになるからである(李勛相「朝鮮後期の郷吏集団と仮面戯の演行」『東亜研究』第17集、西江大学参照。これは、のちに「郷吏集団と儀礼化した反乱としての仮面戯の演行」として『李朝後期の郷吏』、一潮閣、1990年に収録。ここではこの単行本による。戸長と祭儀の密接な関係については同書163頁以下、また民衆との連帯感の確認ということについては172頁を参照)。
別神ピョルシンクッは典型的な巫俗儀礼であると同時に、演戯性が濃厚だということもよく知られている。手間暇をかけてかなり派手に祭儀を営むことから、朝鮮民族の特色をよく反映するものともいえよう。そして、別神クッは、韓国では比較的早く注目されて、1970年前後から1980年前後にかけて基本的な調査文献がいくつも出されている。主要なものとしては任東権「恩山別神祭」7)、崔正如・徐大錫『東海岸巫歌』8)、崔吉城『韓国巫俗の研究』9) 、李杜鉉「東海岸別神クッ」10) 、河孝吉『豊漁祭』11) などである。にもかかわらず、そののち今日にいたるまで必ずしも研究の幅は広がったとはいえない。それはなぜであろうか。
原因はいろいろ考えられる。資料が十分あるようでいて、実は限られたものしかないこと、それと同じことであるが、韓国のなかで別神クッは「東海岸トンヘアン別神クッ」「恩山ウンサン別神クッ」「河回ハフェ別神クッ」といういわば目に付くものだけが名高くなり、全体として「別神」とは何なのか、特にその豊かな芸能性は東アジアのなかでどんな位相にあるのかといった探求がなされてこなかったことが大きな原因だとわたしは考えている12)。
そこでまず「別神」とは何なのかについてみていくことにする。
1.1 別神とは何か
別神とは何かについて韓国では必ずしも定説はないが、「特別神祠」の略とする説がある。すなわち、李能和イヌンファは1920年代に朝鮮朝の各種の「巫行神事」を紹介したなかで、「別神祀」の項目を立て、次のように記した。
俗語に別神という。朝鮮の古俗では、各地の都会および市場において、毎年、春
7)任東権「恩山別神祭」『韓国民俗学論攷』、集文堂、1971年。
8)崔正如・徐大錫『東海岸巫歌』、蛍雪出版社、1982年。
9)崔吉城『韓国巫俗の研究』、亜細亜文化社、1978年、所収の「タンゴル(東海岸巫堂)と巫堂」「別神クッの実際」の項など。
10)李杜鉉「東海岸別神クッ」『韓国民俗学論考』、学研社、1984年。
11)河孝吉『豊漁祭』、文化公報部文化財管理局、1981年。
12)わたしは、ここでは諏訪春雄によって提起された問題には立ち入らないことにする。それは意欲的な日中韓三国の比較論として興味深いものなのだが、諏訪の使用した別神クッの資料は限られた範囲のものでしかなく、全体としての別神クッから出発していないからである。その限界はそこに引用された拙著『韓国の民俗戯』、平凡社、1987年の限界でもあったのだが。これらについては後日改めて論じることにしたい。なお、諏訪春雄「儀礼と芸能-日韓中祭祀の構造」『文学』8月号、岩波書店、1988年、武井正弘「『花祭』再考-諏訪春雄氏への若干の疑問」『文学』2月号、1989年、諏訪春雄「三信遠「花祭」の基本構造-武井正弘氏の疑問に答えて」『文学』10月号、1989年を参照のこと。夏の変り目に、期日を撰定し、三日あるいは五日、城隍神祀を行う。人民は聚会し、昼夜酒を問わず酒を飲み、賭博をおこなっても、官はこれを禁じない。名づけて別神というが、蓋し「特別神祀之縮称」であろう。その儀式は、大木を立て、神位を設け、神饌、果物、酒、食を卓上に供え、巫覡を聚めて歌舞をさせ、神を娯しませ
13)
る。(巫は歌をもって山川の神祇を招く)。
これをみると、現在の別神クッのまつりかたとほとんど同じである。以下の叙述の貴重な出発点となるので、その特徴をあげておこう。
1.
都邑、市場といった人の集まるところでおこなう。
2.
日にちを選んで三日から五日、歌舞飲食によって人もカミもたのしむ。李能和は「毎年」としたが、必ずしもそうではない。むしろ何年かに一度というほうが多い。
3.
「春夏之交」におこなう。春夏の変わり目、特に疫病の発生しやすいときということであろう。ただし、必ずこの時というわけではない。正月におこなうところもある(後述の慶尚道河回)。
4.
カミを招くにあたって大木を立てる。
5.
巫覡が中心になって山川のカミをよび集める。
現在、韓国では、忠清南道恩山の別神クッが無形文化財として知られるが、むしろ生きた祭儀としては東海岸各地の漁村の別神クッを挙げたほうがよいだろう。そこでも無論、単なる豊漁祈願祭のような性格が強くなっているが、クッを仔細にみると、海難事故による死者の供養などが途中ではさまれていて、別神クッの意味を考えさせるものがある。
上記の李能和の記述は貴重なものであるが、そこでは、なぜ別神をおこなうのかについての言及は特になかった。李能和の叙述はすべてそうなのだが、資料を提示しておのずとわからせるといった体なのである。そして、李能和は先の引用文につづけて、南孝温ナムヒョオンの『秋江冷話』をあげている。すなわち
嶺東ヨンドン(江原道)の民俗では毎年、三、四、五月中に日を択び、巫堂を迎え、もって山神をまつるが、富める者は(巫を)馬に載せ、貧しい者は(巫を)背負っていき、
13)李能和輯述・李在崑訳註『朝鮮巫俗考』、白鹿出版社、1976年、150頁参照。なお、李能和(1869~1943)の原文は、漢文で『啓明』第19号、1927年に発表された。また李能和は同文のほぼ全訳を雑誌『朝鮮』に発表している。その原文と訳註は拙稿「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)」および「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」『日吉紀要言語・文化・コミュニケーションNo.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、2002年参照。ここでは、雑
』誌『朝鮮』の日本語文と李能和輯述・李在崑訳註『朝鮮巫俗考』とによって翻訳し直した。また康龍権「釜山地方の「別神クッ」考」『文化人類学』第三輯、韓国文化人類学会、1970年、79-80頁も参照のこと。
コムンゴ
もって鬼席にすわらせ、太鼓と琴、笙を奏で、これを三日つづけて、酒に酔ってあそんでから家にもどる。そしてはじめて売り買いをするが、もし祭祀をしなければ、人と物の授受はうまくいかないと『秋江冷話』はいう。…蓋しこれは別神祀のことをいっているのだ14)。
上記の内容は今日、江陵カンヌンでおこなわれる端午祭タノジェにもあるていどあてはまる。少なくとも巫覡らが山にでかけてクッをしてからもどるという構図は同じである。ただし、今日、江陵の端午祭については生長儀礼としての面に重きを置くせいか、李能和の「別神祀」説はほとんど顧みられていない。確かに、毎年の祝祭のようなものになっているのであれば、あえて特別の祭祀という意識を押し立てる必要はない。そういう意味では、東海岸の別神クッを「豊漁祭」と呼び代えてしまっても差し支えがなく、現にそうしているところもある。しかし、わざわざ巫堂を連れて山にいったのは神意に対する恐れからではなかったのか。そうした視点で端午祭を見直す必要があるのではないか。この意味で、ここに改めて「別神とは何か」を問わざるをえない。だが、ここから先はいくらも進めない。かつて金泰坤キムテゴンは別神とは「特ピ別ョなル来ソ客ン」の意味であり、民間では特に天然痘のカミを「おソ客ンさニんム」といっているから、結局、別神とは痘神のことだといった15)。河孝吉ハヒョギルもこの説を受容した16)。しかし、これはどうも説得力がない。
わたしの結論から述べれば、各地の別神クッは、城隍祭ソナンクッの特別祭祀に発するものということである。ただし、その際、原初の城隍とは中国でいうように、厲神すなわち無祀雑神を統率する神であったということを明記しておきたい17)。高麗時代に導入されたこの城隍という神は、この意味で新しかったのであり、それは朝鮮民衆にとっても現実に結びつくもの、つまり説得力を持っていた。そして、それは中国でもやはり、演劇的な行為を伴う祭祀であり、時代とともにひどく世俗化していった。従って、朝鮮で端午祭や豊漁祭のような祝祭に変わっていったとしても、一向に不思議はない。
この意味で李能和の記述を再度捉え直して記せばこうなるだろう。別神ピョルシンとは、季節の変わり目、特に春夏の境のころ、悪疫の流行をふせぐために、例年になく盛大に城隍神ソナンシン18)を迎えまつることを意味した。そのとき迎えるカミには痘神ももちろんあったが、そ
14)雑誌『朝鮮』の日本語文と前引書『朝鮮巫俗考』、150頁による筆写訳。ただし、この記事は『秋江集』および『大東野乗』にあり『秋江冷話』にはみられないという(前引、拙稿「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」88頁参照)。15)金泰坤『韓国巫歌集Ⅰ』、集文堂、1971年、53頁。16)河孝吉「別神」『韓国民俗大観3』、高麗大学校民俗文化研究所、1982年、431頁。17)村山智順は、『部落祭』のなかで城隍のこの性格を的確に捉えていた。これについては、拙稿「村山智順論」『自然と文化』66(特集村山智順が見た朝鮮文化)、日本ナショナルトラスト、2001年、76頁参照。18)これは本来、冥界の統率者のようなカミであったが、時代がくだると、中国でも朝鮮でも、生前に功績のあった官僚や将軍が死んで城隍となるという現象が生じた。これは巫覡の祭儀の反映であろう。城隍の祭祀は元来は巫覡とはかかわりのないものであった。ればかりではなく悪疫や戦乱、事故で死んだ者の霊も含まれる。むしろ、そうした諸霊を慰撫するものとしての趣があったために、はでに営まれる性格のものであったと。
このような視点で、以下、「別神クッと仮面戯」を考察してみたい。
1.2 河回別神クッ
慶尚北道安東アンドン郡豊川プンチョン面河回洞ハフェドンの別神クッと仮面戯は早くに注目されていて、現在までに少なくない研究書が出されている19)。しかし、河回の別神クッは1928年におこなわれたのが最後であり、現在ではそのなかの仮面戯が復元されて伝承されているだけである。そのため、河回別神クッ全体の研究と叙述はいずれも聞書を中心としておこなわれたのであり、従って、当然のことながら、カミにかかわる伝承、クッの進行など基本的なことがらさえもが、研究者によって微妙に食い違う。このことを踏まえつつ、わたしは以下に、「河回別神クッと仮面芸能」の角度から叙述を試みるが、これは、先行する研究書のほか、1986年6月23日におこなわれたソウルのノリマダン公演、1986年9月14日の安東市での公演およびこのときの河回洞訪問をもとにしたものである。
河回洞は太伯山脈の支脈に連なる花山ファサンの裾に位置し、ムラの前面には洛東江ナクトンガンの支流が巡るように流れている。朝鮮朝においては豊山プンサン柳ユ氏の同族部落として隆盛をきわめたところで、今日なお、ムラのたたずまいにはかつて両班たちが集住した名残が十分に感じられる。
20)
河回にはソナン堂ダン、国師堂ククサダン、三神堂(サムシンダン[] があったが、中心になる
図版1)という祭場
19)主な研究書・論文は次のとおりである。戦前のものとしては、朝鮮総督府編「安東河回の洞祭」『部落祭』、朝鮮総督府、1937年、29-35頁(村山智順執筆)、韓国語のものとしては崔常壽チェサンス『河回仮面戯の研究』韓国民俗学研究叢書、高麗書籍株式会社、1959年、柳漢尚ユハンサン「河回別神仮面舞劇台詞」『国語国文学』通巻20号、国語国文学会、1959年、李宰戸イジェホ「河回別神仮面舞劇台詞」通巻20号、『韓国文学』、1975年、金宅圭キムテッキュ・成炳禧ソンビョンヒ『河回別神クッあノそびリ調査報告』、文化財管理局、1978年、李杜鉉イドゥヒョン『韓国の仮面劇』、一志社、1979年、朴鎮泰パクジンテ『タルノリの起源と構造』、セムン社、1990年、徐淵昊ソヨンホ『ソナンクッ仮タ面ル戯ノリ』、悦話堂、1991年、近年の邦訳および日本語では、
イェヨンヘキムサヨブ
庸海著、金思燁訳「別神クッ」『韓国の人間国宝』、ぺりかん社、1976年、拙稿
「河回別神クッノリ台詞」(金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』の台詞部分の翻訳)『三田国文』創刊号、「三田国文」編集委員会、1983年、拙著「仮面戯の場と広大」『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、1985年、などである。
20)わたしが河回洞を訪問したときは、もはやムラのまつりに関心がないのか、花山のソナン堂にいく者はいないというありさまであった。きくところによると、粗末な建物が一つあるはずとのことであった。また国師堂も小さな小屋で倉庫か何かに利用されているようだという(前引、徐淵昊『ソナンクッ仮面タル戯ノリ』、35頁)。三神堂というのはケヤキの大木で、これは現存する。なお、現在はソナン堂が復元されている(図版2参照)。のは花山の上に位置したソナン堂21)である([図版2])。12月の末日にソナン堂で降神があると、ソナン竿デ、降神竿ネリムデを押し立てて下山し、花山の裾に位置した国師堂を経て、ムラのなかの三神堂を過ぎ、洞舎の前にくる。そして洞舎の軒にソナン竿と降神竿をたてかけておいて仮面のあそびをはじめた。60年前に閣氏の役をやった李昌煕イチャンヒからの聞書によると、この降神には
巫堂は参加しなかったという22) 。
▲[図版1]1930年前後に撮された三神堂。ケヤキの古木で現存する。女神でムラのはじめのカミであったが、ソナン女神にとってかわられたともい
○由来う。「村山智順所蔵写真」。
河回洞ではかつて、例年の洞祭のほかに、3
23)
年、5年または10年に1度ほどの間隔で別神クッをおこない(あるいは随時おこなったともいう)、その一環として独特の仮面のあそびが農民により演じられた。動因は必ずしも明瞭ではない。別神クッをしなければ神罰があり、病人が続出するから24)だともいうし、
21)ソナンというカミは文献では城隍と記されるが、後者はソンファンであり、これはどうも中国の類似のことばを当てたにすぎないようである。ソナンは朝鮮民族の固有のカミの名であり、それは天神、日月神、人格神、山神、土地神などを広範に含むものだという(たとえば徐淵昊『ソナンクッ仮面タル戯ノリ』、悦話堂、1991年、73-74頁)。もっとも、『高麗史』にはすでに中国式の祭祀と朝鮮固有のカミゴトとが混ざって記されていて、両者の区分は実質的にも曖昧になっていた(前引、徐淵昊、77頁)。なお、現在は国師堂はまったく重要視されていないが、ソナン堂を上堂とし、国師堂を下堂とし、両者の関係を説く伝承もある。これについては「まつり方の特色」の項で改めて取り上げる。
22)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、5-6頁。これは李昌煕の証言をもとに報告されたものである。前引、崔常壽によると、準備は12月末日からするが、降神は1月2日で、このときソナン堂の前で「本然の仮面戯」がおこなわれた(3-4頁)。またかつては多数の巫堂の参加があったのだともいう(5頁)。なお、前引、拙著『仮面戯と放浪芸人』、57-60頁に各採録本の対照表を載せておいたので参照されたい。
23)朝鮮総督府編『部落祭』の聞書ではおよそ10年に1度ぐらいとされる。
24)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、2頁。-8-
また、カミが望むとき、あるいはムラに精神病者が出てこれを治療するときにおこなったという25)。要するに異変あるいは異変への予感がきっかけである。
河回の別神クッを取り仕切る者は「山主サンジュ」とよばれる。山主は男性で毎月、1日と15日にはムラからやや離れた山上にあるソナン堂に上り、ムラ人のもろもろの祈りごとをききただした。山主は別神クッをするべきだという啓示を受けると、それをムラ人に告げ、また広大26)らを選任した。これはソナン神の意向なのであり、なん人といえども断ることはできなかった。山主と広大らは別神クッの期間中、15日間は家に戻らずムラの集会所「洞舎」で共同生活を送った(現在は洞舎はない)。かれらは一般の者との接触を断ち、いつでも身を清浄に保った27) 。
河回のソナン神は女神で、次のような来歴を持っている。すなわち、それは戊辰生まれの義城ウィソン金氏に属す実在したむすめで、実は、15歳のとき、近隣の月涯ウォルエから河回に嫁いでいく日もしないうちに、夫に死なれ、また子供も産めずにひとりでくらし、恨多くして死に、のちソナン神になったという28)。
ところで河回の仮面はひじょうに神聖視されている。これについては次のような伝承がある。すなわちこのムラには新羅のときから、いつの世にもひとりずつ神名を理解する者が現れた。それは広州安氏の一族で、カミの現れる時期は洞祭の末日である。この日神竿を堂に捧げその前に祭壇を設け、巫女が舞を舞うとカミが現れた。この安氏のひとりが仮面をひそかに製作していたが、顎を作り忘れ、カミの怒りに会い血を吐いて死んでしまった29)。別伝では、仮面は許道令ホトリョンが人に知られずに作っていたが、若い女にの
25)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年、31頁。なおここでは別神祭または祷神祭と表記されている。
26)ふだんは農民でも仮面戯を担当する者を広大とよびならわしてきた。
27)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年、32-33頁。
28)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年、29頁、金宅圭『氏族部落の構造研究』、一潮閣、1982年、247頁、および前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』11頁に掲載された婆さんのうたう歌を参照のこと。ちなみに、これは巫女に典型的な来歴でもある。多くの巫女はこうした不運ののちに神に仕える者となったのである。実在したむすめがカミにまつられるにあたっては巫女を通してのカミの発現があったにちがいない。
29)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年、31頁。なお、現在、河回仮面戯の公演などでは、巫女の参加はないが、本来の別神クッでは山主とは別に、やはり巫女による降神があったのだろう。これは先に叙述した恩山のまつり方を彷彿させる。ぞきみられたため、血を吐いて死に、仮面の顎が未完成に終わったという30)。この特異な仮面はイメの仮面として現在も用いられる。イメは後にみるように滑稽な役割の人物だが、その背景には不本意な死ということがあった。
○別神クッの次第
河回の仮面戯は別神クッそのものであるから、仮面のあそびの部分だけ取り上げては不完全な理解しかできない。そこで、金宅圭・成炳禧の『河回別神クッあノそびリ調査報告』に従って、仮面戯を含めた別神クッ全体の構成を挙げると、次のとおりである。すなわち、
1.
降神
2.
(面を着けた閣氏の)舞童
3.
チュジ(獅子)
4.
白丁ペクチョン
5.
婆さん
6.破戒僧▲[図版3]閣氏の舞童
7.
両班・学者
8.
堂祭
9.
婚礼
10
.新房
11
.道のあそび
以上の分類は、他の台本、たとえば邦訳のある柳漢尚採録本などと較べると、順番などにおいていくらか異同がみられる31)。また「降神」は、本来、花山のソナン堂の前でおこなったものであり、また「堂祭」も同じくソナン堂のなかでおこなったものである。さらに「道のあそび」もムラの入口から外に出てやったり、あるいはソナン堂の近くでおこなったりしたものである。従って、これらをすべてひとつの場で演じてみせる現行の仮面戯はいささか演出しすぎているようである。
○仮面戯の進行
各マダン(段)の内容と面の特徴について記していく。ここで用いた基本的な資料は前引の『河回別神クッあノそびリ調査報告』であるが、適宜、他の資料も添えて記した。
30)前引、柳漢尚「河回別神仮面舞劇台詞」、197頁。31)
庸海、金思燁訳「別神クッ」『韓国の人間国宝』、ぺりかん社、1976年、114-118
頁。
-10
降神
これは元来、旧12月の末日にソナン堂の前
で山主の祈祷と広大たちの農楽によりおこな
われ、このあとムラに向かって下山する
(図版3図版4)。現在、ソウルなどの公[][]
演のときには、長い竿を二人の者が支え、そ
の前に山主が立って降神を祈る。竿の先には
鈴が取り付けてあり、神が降りれば、おのず
と鳴りだすと信じられていた。この神竿を用 ▲[図版4]花山で降神があったあと、ソナン竿と降神棒を先立てて下山する。閣氏は舞童舞をすネリムデ
いての降神はすべての別神クッに共通するか る。『ソナンクッ仮面戯』より。
たちである。農楽隊が楽を奏でると、閣氏広
大が先頭に立って舞いはじめる。かつてムラ
でやったときは、女たちが競って衣服をソナ
ン棒に掛け、福を祈ったという。
閣氏の面は頬と額に赤い斑点を付け、若い
女であることを表す。目がこころもち吊り上
がり、糸のように細いのは他に似たものがな
い。また髪型がひじょうに古風である。ちな
みにソウルの国立博物館所蔵の木の閣氏面
(国宝第121号)は高麗時代のものであろう
といわれている。
ムドン
舞童
閣氏が他の広大の肩の上に乗り、手踊りの
まねをする。以前はこうして見物のところに
コッリプ
いき、乞粒をしたとのことである。なお、本
来は、ソナン堂からの下山のときに、閣氏広
大が直面のまま舞童をし、のち、仮面戯の場についてから、面をつけて乞粒をしたものといわれている。
チュジ
チュジが2頭、登場し、勢いよく走り回ってから、互いに挑み、もつれあう。一方が他方を押し倒し、その上に乗ったりする。やがてチョレンイがちょこまかとした足取りで出てきて、チュジを追い払う。
チュジは獅子だろうと解釈されている32)が、伝承はまちまちである。虎を取って
32)崔南善『朝鮮常識問答続編』(三星文化文庫本)、1972年、215頁(原版は1947年刊)。
食う恐ろしい鬼神33) だとか、龍の体、虎の頭の鬼神だと
か、さらに雉の羽根が差してあるので、その争いは雉の
争いを示すともいう。現在の演戯のさまをみると、麻袋のようなものをかぶり、その先から両手を出して、チュジの面を動かしている(図版5)。鳥とも怪物ともつかないような印象であ
[]
るが、カミの使いであり、辟邪のために現れたとみるべきであろう。チュジは江陵の官奴仮面戯に現れるシシタクタクキと同じように勢いよく走っては互いにぶつかる。これはかれらの交歓のさまでもあろう。要するにこうしたモノたち(鬼神の類い)は存分にあそぶことが第一の目的である。その結果として災いは鎮められる。何しろかれらは災いの原因でもあるからだ。
一方、チョレンイは顎が突き出ており、また鼻は豚鼻、どんぐり目、目がくぼんで奇妙な道化といった感じである([図版6)。なお、目と口、顎の感じは八戸
]
市櫛引八幡神社の中世舞楽面に、また鼻と口のあたりは鹿児島県姶良郡福山町の松下氏コレクションのなか
34)
の中世面に似るところがある([図版7、
][図版8])。白丁ペクチョン
白丁35)が篭を下げ、ゆったりとした足取りで現れては踊る。やがて二人遣いの牛が出てくるのをみると、白丁は斧を取り出し、牛の顔面を2度、3度と殴る。牛はたちどころに絶命する。やがて手慣れた手つきで牛の腹を裂き、心臓と睾丸を切り取る。白丁は、それを篭のなかに入れると、見物のほうに向かい、心臓を買わぬか、と声をかける。しかし観客からの返事はない。そこで今度は睾丸を取り出す([図版9)が、これ
]
も返事はない。元来は、見物から乞粒をする場面であったという。
▲[図版6]チョレンイは両班の従者で奇妙な道化である。撮影金秀男。
▲[図版7]チョレンイに似た日本の中世面。八戸市櫛引八幡神社蔵。『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』より。
白丁の面相はのちに登場する僧面と似ている。目は細く、鼻があぐらをかいていて、吊り顎で全体に笑みがこぼれている。白丁相応の振る舞いはするが、同時にもの売りのようなところもあり、顔だけみれば、僧の分身のようなところもある。こ
33)前引、柳漢尚「河回別神仮面舞劇台詞」、191頁。34)後藤淑『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』、多賀出版、1987年、27頁、686頁の[図版]参照。35)白丁は朝鮮朝において牛の屠殺にたずさわった者たちである。-12-
れは要するに、「下位の者」を意味するにすぎないのであろう。柳漢尚の台本によると、この登場人物は白丁ではなくフェガンイ(死刑の執行者)とよばれたこともあり、そのばあいにはまさに人を殺すまねをしたともいわれている。
このクッは白丁そのものよりは殺生をしてみせることに目的があるようだ。朴鎮泰パクジンテは漢江以北のムーダンクッにみられる打殺タサルクッとの関連性を指摘している36)。これはかつては生きた牛を殺してカミに捧げるというものだったので、一面の妥当性はある。ただ、わたしは、これは屠畜をなりわいとしつつ看取られぬ死を遂げた非農業民の慰霊ではないかと考える。刀を振り回して死んだ者が原型なのでその対象は牛でも人でもよかったのである。
婆ハさルんミすべての仮面戯においてそうであるように、婆さんは腹をさらけだした貧相な格好で尻を振りながら登場する。この婆さんは機を織りながら身の上話を機織り歌にのせてうたう(図版10)。それは河回のソナン女[]神のことをかたりながら、実はみずからの苦難の一生をかたるものである。
春チュン(人名)よ春よ玉丹オクタンの春よソナン堂
▲[図版8]チョレンイに似た日本の
の神様よ短い春の春なのか嫁にきて中世面。鹿児島県姶良郡福山町
松下氏所蔵品。『中世仮面の歴史
三日目にかかることまたとあるものか十的・民俗学的研究』より。五歳になったばかりでやもめとなると知ったならば嫁にくる娘こはたれかいる筬おさを取り打つその音はええ胸ふさぐもこれぞ宿運パルチャ一生涯を姑ににらまれ… 37)
この歌によると、婆さんは三代つづきのひとりむすめで、嫁いでからすぐ亭主に死なれ、両班のイエでの下働きで一生をすごしてきたという。そうした苦難の人生をムラのソナン女神に重ねて生きてきた女性というのは、要するに巫女なのである。この婆さんはしかし、歌の情調とは異なり、市場にいって買ってきたニシンはみんな食ってしまったよなどという。これは食欲も色気もあるということを示唆している。この辺は、いわば東海岸のコリクッのなかのコルメギ随陪婆さんのようなとこ
36)前引、朴鎮泰『タルノリの起源と構造』、158-159頁。
37)前引、拙稿「河回別神クッノリ台詞」『三田国文』創刊号、64頁。-13-
ろをみせる。そして、見物のところにいっては乞粒をする。
破戒僧若い女であるプネが現れて静かに手踊りをする(図版11)。その[]面をみると、目は糸のように細く、口もかろうじてあけたていどで、そもそも無言の表情をしている。そこへ、僧(図版12)が現[]
れて、プネを見初める。プネの小便したあとにいき、そこの土を▲[図版9]睾丸を取り出す白丁。撮影金秀男。
手でかき集めては臭いをかいで、感にむせる。やがて、プネに接近し、自分のものにするや、自分の背中にプネを仰向けに載せ、担ぎ去る。ここは黙劇でおこなわれる。
この僧は単独で現れ、まるで、山台戯の老長と墨僧、酔発をいっしょにしたような感じである。
ところで、チョレンイがそのさまをみていた。かれはおかしそうに笑い、仲間のイメにそのことを告げる。イメは下顎のないみるからに何かが不足した人物として現れる。イメは民俗戯によくみられる足と手のひきつったような病身舞ピョンシンチュムをしながら、チョレンイの話をきき、ともにおかしがる。仮面伝承を踏まえればイメは配偶なくして死んだ青年を象徴しているのだろう。
僧の「破戒」にみえる行為は世尊クッの構
▲[図版10]機織り歌にのせて身の上をうたう
ハルミ
婆さん。撮影金秀男。
図を焼き直している。朴鎮泰は、このことを
▲[図版11]手踊りをするプネ。撮影金秀男。
指摘しつつ、これは天地、陰陽、聖俗、神人、男女の融合とを通して創造と生産が可能になるという巫俗思想を表現したもの
という38)。その一般化はまちがいではなく、大きい意味で、この段はプネという若い女の生産を示唆したものだとおもう。従って「破戒僧」という名称はふさわしいものではない39) 。
わたしは崔常壽がこの段を単に「閣氏と坊主の
科場ばめん」40)と記したのをむしろ支持したい。そこではちょうど世尊クッの最後に巫堂が無言の舞を舞いつつ演戯をするのと同じように、無言の演戯がくり広げられる。それは諷刺ではなく、むしろ交歓、歓喜の舞なのである。
同時に、このプネという女性が世尊クッのタングムアギ(産の神三神サムシン)に相当する女性であることはいうま
でもない。▲[図版12]河回の僧面。撮影金秀両班・学者男。扇を持った両班、きせるを携えた学者ソンビ、両班の従者チョレンイ、若い女プネが現れる。プネは学者の後ろについて出てそのそばにいく。チョレンイはプネの尻をな
38)前引、朴鎮泰『タルノリの起源と構造』、175頁。「破戒僧」とされる僧の系譜は中国において古くからあり、宋代の「.和尚」、また近代の民俗である大頭和尚にもそれが引き継がれている。朝鮮の仮面戯における僧の演戯は中国のものを抜きにしては理解できないだろう。これを単に「破戒」への諷刺、戒めとしてすますべきでないことについては、拙稿「法体の芸能者と朝鮮の唱導」『説話・伝承学』11号、説話・伝承学会、2003年参照。39)ここでチョレンイとイメが現れて坊主の堕落ぶりを笑うというような採録が柳漢尚
によってなされているが、李昌煕はこの場面を証言できなかった。それはなかった可能性もある。実際、成炳禧は後日、整理し直した論文ではその坊主批判の箇所を削除している(「河回別神仮面戯タルノリ」『韓国民俗研究論文選Ⅱ』、一潮閣、1982年、112頁<初出『韓国民俗学』12号、1980年>)。
40)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、12頁。-15-
でたりしながら両班と学者のあいだをいったりきたりする。そして、両班と学者を対面させつつ、一方で、プネをそそのかし学者を誘惑させる。チョレンイはまた両班の背後に近づき、肩を揉んでやろうかという。これをプネのことばと勘違いしたのか、両班はうれしそうなカオをする41) 。
これに対して、崔常壽の聞書では、両班と従者チョラニ、学者と妾プネの登場するのは同じだが、学者がプネのあとを追いかけまわすこと、そして両班と学者のあいさつのあと、両班がプネを手に入れようとすること、しかし、イメが登場して両班にお上からの書き付けを示すと、両班が震え上がることなどが記される42)。
以上二種の聞書はそこまでだが、柳漢尚の
聞書では、さらに両班と学者がプネを取ろうと争うところへ白丁がきて、牛の睾丸を示▲[図版13]白丁が両班と学者のあいだにはいり牛
の睾丸の効き目を吹聴する。
し、陽気(精力)にいいということを告げる(図版13)。両班と学者はわれ勝ちに取ろうとし、争う。そのとき睾丸が地に落ち
[] る。すると、婆さんがやってきて、睾丸を拾いあげ、両班と学者の愚かさを人びとに告げる43) 。
どの採録本が正しいのかはわからない。いずれ即興的にやっていたのであろうから、それほど大きな問題ではない。この段の核心は要するにプネと学者の交歓がなされること、にもかかわらず、それは両班あるいはチョレンイの介入によりはばまれ、葛藤が生じること、そしてこういう葛藤の人生を送ったモノたちの集いあそぶ
41)李昌煕の証言はこの先あいまいになるが、イメが登場すると全員が退いたことだけがはっきりしている。前引、成炳禧「河回別神仮面戯タルノリ」『韓国民俗研究論文選Ⅱ』、112-113頁。
42)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、13-14頁。
43)前引、柳漢尚「河回別神仮面舞劇台詞」、193頁。-16-
場が実現したことである。ここではプネと学者はいうまでもなく、両班もまた十分に葛藤を経ている。この意味で、一見、脈絡のないイメの登場は興味深い。イメは「官家の負担金支払命令書」を持ってくる44)、あるいは「還財カネを出しなさい」と叫びながらやってくる45)。イメはおそろしい威力を持ったカミの使いともみられる。イメの担って
いる役割はちょうど郡ウ守ォさンまニあムそノびリのなか▲[図版14]両班のカオは好々爺然
としている。撮影金秀男。
の新官使道のような役なのである。これはモノたちの宴に終止符を打つことを意味する。
両班の面相は僧に似ている(図版14)。一方、学者
[]
の顔(図版15)は鋭い吊り上がった目が特徴的で、こ
[]
れはかつて秋葉隆が紹介した面、すなわち開城徳物山の神堂に懸けられた精鬼チョンゲ氏に通じるところがある。また、白丁(図版16)、僧、両班などの面相は兵庫県神
[]鴨川神社の翁面と通じるところがある([図版17)。
]
堂祭タンジェ現今、公演の場でおこなわれるのは、正月15日、ソナン堂において、山主および補佐役たちがおこなう祭祀の場を表現したものである。元来は、朝から堂に参っていた山主が、夕刻、祈願を込めて焼紙を上げる。これはムラ、各イエ、広大たち、また牛、馬のための祈願をこめてやる。するとソナン堂のまわりでは広大らによる農楽隊が楽を奏で
▲[図版15]学者の面相は精鬼に通じる。もとは若くして死んだ男の鬼神なのか。撮影金秀男。
44)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、5頁。
45)前引、成炳禧「河回別神仮面戯タルノリ」『韓国民俗研究論文選Ⅱ』、113頁。-17-
る。のち、広大たちは下山し、次の「婚礼」の場に出る新郎役の者に閣氏の面を渡すと、それぞれ、自分の家に戻っていった。この堂祭には柳氏は参加しないという46)。
崔常壽の聞書では、この日はソナン神が帰るといい、ソナン堂の前で祭儀があり、そのとき「本然の仮面戯」がおこなわれた47)。
婚礼これはムラの入り口の畑のなかでおこなう秘儀であったという。一般の見物人が帰りだすころにやる。伝統的な拝礼を交わして、閣氏と青年広大とが結ばれる48)。
この段はソナン女神の慰労のためにおこなうのだと
[ 49) ▲[図版17]兵庫県神鴨川神社の翁いう( 図版18 )] 。面の額、目、鼻などは河回の僧面新房を彷彿させる。『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』より。
結婚初夜の共寝を演じる(図版19)。男役は真剣に
[]
性行為を演じるという。観る者はほとんどなくムラの壮年たちがいくらかいるばかりである50) 。道のあそびホッチョンコリクッ公演などでは農楽隊の楽の音のなか、山主が膳に向かって拝礼して終える。
51)
元来はムラの入口で巫堂(巫女1名、男巫3名)が主催しておこなった。他地域のクッの最後にやるコリクッと同じく、この一段はあそびの場に雲集した雑鬼雑神への供養であり、これをやることで、別神クッの目的はすべて達せられたことになる。
46)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、18頁。
47)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、5頁。
48)なお現今、「学者ソンビ」の面を着けた者が青年の役を担当するが、60年前に閣氏の役をやった李昌煕イチャンヒの記憶では、何の面を使ったか定かではないとのことである(前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、19頁)。
49)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、19頁。また前引、成炳禧「河回別神仮面戯タルノリ」『韓国民俗研究論文選Ⅱ』、106頁によれば、このソナン神の相手は仮面制作の途中で死んだ「許道令」となる。これは従って、死後の結婚ということになる。このことは前引、朴鎮泰『タルノリの起源と構造』、132頁でも指摘されている。
50)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、19頁。
51)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、19頁。
○まつり方の特色
各地の別神クッとのかかわりのなかで、特徴とおもわれることを記してみたい。
1.
巫女の役割があまりなくて山主と広大が別神クッの主役である。しかし、今日では忘れられたかたちであるが、巫女の大規模な参加を証言する者もいた。すなわち、1950年代の聞書によると、「初日から最終日まで巫女数十人を雇い広大とともに迎神、神遊、送神をしたが、経費の関係で次第にその数を減らし、最近では正月十五日の二、三日前に巫覡三、四人ほどを雇った」という52) 。
2.
別神クッをやる直接の契機ははっきりしないが、ムラの女神の慰霊ということが行事の核心をなす。おそらくムラが困難な情況に見舞われたときに、山主の発意でおこなったにちがいない。
ムラの祭神の慰撫のために別神クッをやることは河回だけにとどまらなかった。たとえば、かつて安東の水洞でも三年に一度、別神クッがあったが、ここでは恭愍王の夫婦神を神像としてまつり、この慰労のために近隣のムラ人らが集まった53)。
また慶尚北道醴泉イェチョン東本洞の青丹チョンダンあノそルびムはやはりムラで死んだ女の慰霊のためにはじめた仮面のあそびであり、本質的に河回のクッと通じるものである。ここでは別神クッとはいわないが、まつりかたそのものは河回とよく似ている。すなわち1月14日にソナン祭をし、翌日仮面戯をした。その由来としては
全羅道のカネ持ちの老人が、イエを飛び出した妻(妾)を探すために青丹あそびを設けて巡るうちに醴泉で出会ったが、いっしょに帰らないというので殺して仮埋葬してもどった。ところがそののち醴泉に火災が頻発した。ムラの古老の夢に怨魂が現れ、自分のために祭祀をし青丹ノリをしなさいという。役人を
52)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、5頁。村民の柳深祐・朴壽斤からの聞書であり、これは無視することはできない。要するに、忠清道恩山の別神クッにみられるような巫覡による別神クッがかつて河回にもあったことが考えられる。それは以下に述べることがら、特に、霊魂の結婚式の要素を考えると、当然であり、巫覡なしには別神クッは成立しえなかったとさえいえるだろう。
53)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年。-19-
よんで調べさせ、いうとおりにした。すると二度と火災は発生しなかった54)。
ということが知られている。
3.
仮面は訪れるカミあるいはモノそのものとして神聖視され「洞舎」に保管されてきた。これは別神クッのときを除いて、みてはならないし、取り出して使うときにも山主が祓いの儀礼をしてからでなければ、手を付けられなかった。うかつに扱えば、ムラに変事が生じると信じられていた55)。
ムラの女神の仮面はいうまでもなく、その他、僧や両班、巫女のような婆さん、顎なしのイメ、下僕チョレンイなどはすべて戯画化された鬼神、あるいは神のおつきのモノとしての性格があったのだろう。そこにはチュジのような動物も加わるが、これらのモノが集いあそび、帰っていくことで、別神クッの意図は完全なものとなる。それゆえ仮面のあそびは本来は巫覡のクッを独特の方式で再演するものだったといえる。
4.
柳氏の両班らが、別神クッを黙認しただけではなく、広大らの衣服を提供するなど、積極的に参与した節もみられる56)。これはこのクッがムラの秩序の維持、回復に寄与することを暗に認めていたことを示すだろう。
5.
河回には柳氏以前に安氏が住み着いていたという伝承、木仮面の中世的な様相、洞舎の位置にはもと、寺があったなどの伝承を考慮すると、河回の仮面戯は高麗時代の後半か末に成立したものとみられる57)。同時にそれは、このころ河回に別神クッをやらなければならない異変が生じたということを意味するだろう。
6.
河回の異変とはムラの支配的な家系の興亡にあったとおもわれる。それは河回に伝わる「許氏の宮殿に、安氏の地に、の杯盤58)」ということばに集約され、かつ
柳氏ユシ
54)朴鎮泰『タルノリの起源と構造』、セムン社、1990年、339-340頁。
55)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、8頁、前引、柳漢尚「河回別神仮面舞劇台詞」、197頁など。
56)前引、徐淵昊『ソナンクッ仮面タル戯ノリ』、66頁。
57)前引、徐淵昊『ソナンクッ仮面タル戯ノリ』、123頁。ただし徐淵昊はここで、朝鮮の仮面戯の成立には5,6世紀の伎楽の影響を考慮すべきだと主張する。伎楽は『日本書紀』によると、百済の味摩之が呉国から習って伝えたとなっているが、徐淵昊は、その「伎楽」は朝鮮半島南部ですでにできあがっていたもので、必ずしも中国の「呉国」のものではなかったという。すなわち呉は久禮あるいは仇次禮で、朝鮮の南部の地名だという。これは李恵求『山台劇と伎楽』(1953年)の発展的継承である。
58)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、1頁。この短い伝承詞章は日本古代の風土記などにあるような集約した表現であるが、河回の人びとにとっては必要十分な表現であったのだろう。すなわちこれは「許氏の栄えた地(宮殿)に、安氏がはいりこみ自分たちのもの(地)にし、そこがさらに柳氏ユシに取って代わられ柳氏が末永く繁栄を享受(杯盤)することになった」というものであろう。しかし、興亡には必ず痛みが伴うはずだ。この痛みこそが別神クッ発生の背景である。てはすべてこれでわかったのだろうが、さすがに朝鮮朝五百年のあいだにその細部が見失われていった。今日、わたしたちの前にはひじょうに断片的な聞書しか残されていないが、その細部を埋める象徴的な物語は、上堂サンダン(ソナン堂)と下堂ハダン(国師堂)の伝承である。上堂の女神については満たされない結婚生活が語られ、その慰霊のための結婚式が秘儀として演戯されることは上に述べた。
7.
霊魂の結婚式は東アジアに広範に広がる民俗であるが、朝鮮民族のあいだでもとりわけ根強く、1990年代の今日にもなお時折おこなわれる。いわんやかつて、地域の有力者の興亡があった時代に、若いむすめが名前ばかりの結婚をして死に、そのあと異変が生じたとすれば、その死後の結婚は共同体の死活問題として考慮されたであろう。上堂にむすめがまつられることは述べた。ところで、下堂については伝承が希薄であるが、崔常壽の聞書によると、下堂は「ホッチョン堂(クッセ餌室堂-堂)」とされる。道令というのは「若さま」にあたる尊称で両班など有力者の家の息子を意味する。つまり、崔常壽の聞書では、上堂の女神はソナン堂で降神したあと、若い男の霊をまつる道令堂にいき、そこで「閣氏が寝る唖獣節接陥」行為をしたということになる59)。
道令トリョン
8.
ここで仮面製作にまつわる伝承が想起されなければならない。先にも記したが、河回の仮面を作ったのは若い男だが、制作過程でカミの怒りに触れて死んだという。この男の姓氏は安氏あるいは許氏とする伝承があって、決定できない。1930年代の聞書60)と、崔常壽による50年代の複数からの聞書61)が支持するのは安氏であるが、1928年の別神クッに直接参与した李昌煕によれば許氏である62) 。一応は許氏がよいとおもわれる(後述)。しかし、安氏もこの別神クッとは密接な関係がある。それは、洞祭においてソナン神の発現を媒介する者が古来安氏であったという先述の伝承で、これがあるため安氏道令説も出てきたのだろう63)。いずれにしてもだいじなのは、若い男が仮面を作っていたとき、「不浄な女が門のあいだから覗いたために男は血を吐いて死んだ」といわれていることである。ここには身分差か何かで添い遂げられなかった女の姿がある。不浄とされた女は現実にはカミの降りた女であったかもしれない。この女のほうはどうなったのか。残念ながら、崔常壽はそこまでは聞書を残さなかったが、李昌煕によれば、その女は「苦しみ悩んだすえに死んだ」という。そしてその女の死後、鈴が飛んできて落ちたところが、今ソナン堂のあるところだという64)。これはもっとも有り得る物語であり納得がいく。要するに、ムラ人
59)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、5頁。
60)朝鮮総督府編『部落祭』、1937年、31頁。
61)前引、崔常壽『河回仮面戯の研究』、11頁。
62)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、7頁。
63)注の11を参照のこと。
64)これは前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』にはないが、これをもとにのちに成炳禧がまとめた「河回別神仮面戯タルノリ」『韓国民俗研究論文選Ⅱ』、一潮閣、1982年、(初出『韓国民俗学』12号、1980年)、107頁には記されている。-21-
の思考のなかでは、ソナン女神の前身である若い女が仮面作りの男の不可解な死を誘発し、みずからも死んだというのである。
12.上述の伝承は物語としてはおもしろいが、よく考えるとおかしい。これによると、はじめに仮面制作があり、次に両班宅の若い男の死があり、次に「不浄の女」の苦悶死があった、そして若い男も女も堂にまつられているということになる。これは事実としてはとうてい考えにくい。事実はこの逆の順序で最後に仮面制作があるべきなのだ。すなわち、はじめに女の死があった。それは前述したように義城金氏の実在した若い女であるといわれている。そしてこれが何かの契機に両班のイエの息子に憑いた。そしてその結果が、安氏以後に栄えた許氏の側の男の不可解な死とい
65)
うことなのであろう。この原因を探ってみると処女(あるいは名ばかりの嫁)の死があった。そこで、その慰霊のために別神クッと仮面戯がおこなわれたと考えるのが筋である。これが単なる憶測でないことは、たとえば李昌煕からの聞書として、許道令は「ムラの守護神から仮面制作の啓示を受けた」66)といわれていたことがあげられる。
10
.この仮面戯が全体として死者霊の慰撫に起源することのもうひとつの傍証として、かつて「洞舎」の位置に寺があったこともあげておくべきである。そこは仮面がまつられ、別神クッの期間中、15日間、山主と広大らが宿泊した重要な宗教施設であった。慶尚北道の小さなムラに仮面戯が発生し、維持されたのには仏教寺院が思想的、空間的に大きな寄与をした可能性が高い。それはもちろん高麗時代後期、末期あたりのことであろう。
11
.こうした背景を持つ別神クッであるから、許氏ののちに栄えた柳氏はこの祭儀に本質的な関与はしなかった。ただし、助力あるいは協力せざるをえなかったのは前代からの慰霊クッであったからであろう。李昌煕によると、「(ムラまつり)には他姓の堂祭だといって柳氏は参加できない」といわれていた。河回の支配階層である柳氏の参加できないまつりがあり、しかも両班階層を愚弄する内容67)を持ち、そればかりか仮面のあそびでは柳氏のイエにまではいり、「いつもイエの主人を困
堂祭タンジェ
65)あるいは安氏の繁栄の時代から、すでに女神に憑かれた若い男の死があったのかもしれない。そうとすれば、安氏道令、許氏道令いずれも伝承としては正しいことになる。恩山の別神クッにまつわる伝承などを考慮すれば、一つの共同体が看取られぬ死者の霊により長いこと苦しめられるということは十分ありうる。
66)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、7頁。67)高麗時代に両班諷刺が必要であったのか、という問いもありうる。もちろん必要でなかっただろう。河回の仮面戯が発生期のまま変化なしに近代にいたったなどということはありえないので、朝鮮朝末期の時代的な変容はありうることである。ただし、高麗時代に、下僕が主人を愚弄するという演戯があったとはいえる。それは中国では唐宋の参軍戯以来むしろおなじみの構図だったのである。この演戯が僧広大のような者たちに知られていないはずはなかった。らせてやった」という68)。こうした別神クッは実は柳氏にとっても代々畏怖すべき
ものとしてあったにちがいない。
1.3 江原道江陵の別神クッ
江原道江陵カンヌン市は嶺東ヨンドン(大関嶺テグワリョン東側の地、江原道カンウォンド)地方第一の都市である。緯度はソウルとほぼ同じ、市内から東海(日本海)までは4キロ、西の大関嶺テグワリョンまではおよそ20キロのところに位置する。1961年にソウルとのあいだに鉄道が敷かれ、いくらか便利になったが、かつてソウルからは陸路で大関嶺を越えていくほかはなかった。しかし、歴史的には三国以前の.イェの都であり、統一新羅以後は、都督府、都護府、観察府などが置かれ、軍事、政治面の要衝の地であり、一方では嶺東の商業の中心地ともなり成長してきた。1955年には江陵邑から市に昇格して現在にいたる。なお、この地方の郡名は.の時代の臨屯からはじまって江陵郡にいたるまで幾度も変遷してきたが、現在、江陵市の周辺は溟州ミョンジュ郡とよばれる。
江陵では、毎年、5月のはじめに多数の巫覡がよばれ、別神クッがおこなわれる。巫覡の数は多いときは百名にものぼった69)ので、これが特に盛大なまつりであったことはいうまでもない。さらに江陵の祭儀を特徴づけるのは端午祭タノジェという名称である。しかし、金善豊キムソンプンは、慶尚北道では端午の日に別神クッをするところは一つもないが、江原道では江陵ばかりか、ほかに五カ所もあるという70)。端午祭という名称が示唆するように、江陵の別神クッは江原道に顕著な五月の祭儀であり、他地域の別神クッと較べるとき、一つの特色をなす。
端午のまつりは農耕の成長儀礼の一環としておこなわれた。端午の日は神々の祝祭ばかりか、人びとにとっても現実的に楽しい日であったらしく「端午の日は麦畑がなくなってしまう日」という証言もある。それは恋愛の場所であったということである。これにかかわる聞書はいくつもある。江原道の山間部では夏の夜になると、豊作を祈願する夫婦の共寝が今もあるはずだといい、また、かつてこの日は「やもめが救済される日」でもあった。金善豊はこれらをまとめて端午祭は「播種祝祭的性格を帯びている」という71)。
現行の江陵端午祭は1930年に秋葉隆が報告して以来、研究者に注目され、研究が比較
68)前引、金宅圭・成炳禧『河回別神クッあノそびリ調査報告』、18頁。69)村山智順「江陵の洞祭」『部落祭』、朝鮮総督府、1937年、62頁。70)金善豊・金秀男『江陵端午クッ』、悦話堂、1987年、141頁。71)前引、金善豊・金秀男『江陵端午クッ』、143頁。
-23
的積み重ねられてきた72)。これらはいずれも端午祭の性格を規定するのに寄与してきたが、別神クッあるいは特別のソナンクッのなかでどういう特徴があるのかという問題設定はあまり十分ではない。大半はこのクッのなかでおこなわれた官奴仮面戯クワンノタルチュム73)の再現とその意味の探求に費やされてきた。それはそれで得難い成果が上げられたといえる。特に、今日の江陵端午祭は年中行事的な祝祭となっていて、巫覡のクッはそのうちの一部でしかなくなっている。従って、これはもはや別神クッではないのかもしれず、その意味では豊作や娯楽を追求する端午祭という性格を強調するのは正当である。
ただ、別神クッとは何かという視点にもどって江陵端午クッの元来の意味を考えることは必要である。すでに少なくない資料が提示されてきたが、別神クッとしての性格付けがあいまいなため、この祭儀の淵源を豊作を祈願するソナンクッとしてみる見方が中心となっている74)。果たしてそうなのか。ソナンクッというのは日本でいえばムラまつりというほどの意味になるが、こんなに大きな枠組にもどってしまっては実りは少ない。そもそも、ソナンクッは朝鮮の全国いたるところにあるのに、仮面クッを伴うところは少数でしかない。
ここでは、端午クッと別神クッは別のものだったのではないかという視点で、この祭儀をもう一度振り返ってみようとおもう。官奴仮面戯や江陵別神クッには根源説話があるので、以下ではそれらに触れつつ「別神クッと仮面芸能」の視点からみることにする。
○ 由来
江陵の別神クッの原初のかたちとおもわれるものが南孝温ナムヒョオンによってすでに記されてい
72)もっとも、1930年代にすでに端午祭は休止の状態であった。そしてこれが再発見のかたちで取り上げられたのは1960年前後で、実質的な休止の期間は60年余りになる。これまでの主要な論著は次のとおりである。秋葉隆「江陵端午祭」『民俗学』第2巻第5号、、日本民俗学会、1930年、村山智順「江陵の洞祭」『部落祭』、朝鮮総督府、1937年、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、集文堂、1971年、金善豊「江陵官奴仮面劇の現場論的反省」『江原民俗学』創刊号、江原道民俗学会、1983年、金善豊
・金秀男『江陵端午クッ』、悦話堂、1987年、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、集文堂、1989年。
73)官奴は江陵府庁に隷属し、雑役を担った者で、賤民視されていた。おそらくこのためなのだろう、1960年代に、任東権が調査した時点では、官奴の足跡はほとんど辿れなくなっていた。官奴であったことを自認する者はまずいないのである。
天」という祭儀が端午クッの淵源に位置するとしている。この地の人びとが古来、祝祭に興じたという意74)前引、金善豊および張正龍は、江陵の古代にあった.国の「
味では通じるものがあるだろうが、
天は10月におこなわれたのであり、これは性格
が違うものであろう。ソナンクッつまり村まつりの一般的な歴史と性格基底だけでは別神クッは説明できない。
ることは先に述べた75) 。すなわち毎年、3月から5月のころに人びとが巫覡を伴って山にいき、山神をまつり、あそんでからもどるというのである。南孝温は1454年に生まれ、1493年に世を去っているから、15世紀の後半には嶺東の民俗として知られていたのであろう。しかし、なぜこういうことをするのかは記されていないし、よくみると、これは集落に迎えるのではなく、山にでかけていってそこで祭儀を済ませている。今日の江陵の別神クッと同じものではなかったかもしれない。おそらくこれはひじょうに古くからあった民俗としての山あそびなのであろう。
ところが、1603年に許.ホギュンが江陵の端午祭を実際にみていて、それには次のようなことが記されている。すなわち大関嶺のカミのことを官吏にたずねると、官吏は「神はすなわち新羅大将軍金.信なり」といった。しかし、金.信キムユシンの幼少のときに「山神」が剣術を教えたともいい、のちに「死して嶺の神となり、今に至るも霊異有り」という。そして、まつり方とまつりの理由については
毎年、五月の初吉に幡蓋香花を具え、府司に奉置し五日に至ると雑戯を陳つらねてこれを娯しませる。神喜べば則ち終日、蓋は俄仆たおれず、歳輒すなわち登みのる。怒れば則ち蓋仆れ、必ず風水の災い有り76)
と記している。以上の文は、大関嶺には金.信が山神としてまつられていること、このカミを迎える
77)
のに幡蓋(今日のケッテ)と花を用い、雑戯をすることなど、今日の祭儀とほぼ同じである。ここでいう雑戯は仮面戯のことであろう78)。
ところで上の文で注目されるのはこの祭儀にはカミの判断を仰ぐ箇所があった。おそらく今日の東海岸別神クッでやるように、クッの末尾にケッテをつかんで山神の意向をきいたのであろう。そして今日の別神クッではほとんどありえないが、山神はクッの内容に対して不満を表明することもあった。その神意判定は緊迫したものであったにちがいない。「必有風水之災」という表現は、かつて江陵にこのカミの怒りがたびたび下されたことを如実にものがたっている。
この山神は日本などでもいえることだが、ひじょうに複雑な性格のカミである。上の文でもわかることだが、金.信に剣術を教えたというのであるから、それ以前にもより
75)注8参照。また前引、秋葉隆「江陵端午祭」の冒頭にも引用されている。秋葉は、当時これを念頭に置いて「此の嶺東山神祭の名残を探るべく」江原道を歩いたと記している(285頁)。なお秋葉は表題には端午祭と表記しつつ、本文では端午祭タノクッとルビを振っている。本来はクッなのである。
76)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、294頁。ただし引用は漢文なので、ここでは読み下しにした。前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、30-31頁にはハングル訳がある。
77)後述するように、秋葉はこれを華蓋と表記し、その作成法を詳述した。
78)前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』によると、たとえば『高麗史』には、宴の席に「仮面人雑戯」を進呈し、王からほうびを授かるという記事がある(31頁)。-25-
大きな存在としての山神がいたはずである。それはソナンというカミと結局は同じように、動植物はもちろん、地域一帯の生業や暮らしを総括するカミなので、その怒りは、結局、人びとの生活の破綻に直結した。この怒りということが一般化されると、別神クッの有無がカミの怒りの発露の基準となる。やらなければカミは怒るのである。
このことを表現したのが『臨瀛誌』の記述であろう。すなわちこれによると、毎年四月から五月にかけて大関嶺のカミをまつるのは今日とほぼ同じだが、最後に、江陵では久しい以前からこれをやっていて、このようにしなければ「風雨稼こくもつを損ない、禽獣物を害そこなうと云う」と伝える79)。同じことは住民の直接の証言としても得られていて、それによると、
天水(雨)を下して、なにとぞどうか、農事に、その、水でもたっぷりと、そのめぐんでください、という意味なんですよ、端午をやる意味というのはとにかく… 80)
とのことである。
以上をまとめると、江陵では毎年山にでかけて山神に祈祷することが古来おこなわれていたが、それとは別に、邑内で風水害、禽獣の害、あるいは、疫病81)などがは
やったために特に邑内で別神クッ
▲[図1]秋葉隆のえがいた端午クッの祭場見取り図。ここにある城隍堂は
をするにいたった、そして、その今はすべてみられない。ただ女城隍堂は別のところに設けられていて、
祭祀がおこなわれる。
際に、江陵には諸種の神々が糾合されたということになる。ここで秋葉隆に沿って、別神クッをできるかぎり再現してみ
79)これはもとは朝鮮朝に編纂されたものらしいが、瀧澤誠『臨瀛誌』、江陵古蹟保存会、1933年からの引用である。前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、32頁参照。
80)これは1966年6月23日におこなわれた任東権と現地情報提供者との面談の記録である。その全貌は前引、金善豊「江陵官奴仮面劇の現場論的反省」『江原民俗学』創刊号に掲載されている(24頁)。また前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』にも掲載されているが、多少補充したあとがみられる。
81)これを端的に表現するのが仮面戯に登場するシシタクタクキという黒い面のモノである。-26-
たい。なお、以下は、主として文献からの再構成となる82)。
○ 別神クッの次第
まずはじめに、江陵の端午クッ83)全体の構図を描いておきたい。1928年夏に、秋葉隆が現地にいったとき、このクッはすでに相当に遠いむかしのものになっていたらしい。だが、そのとき、秋葉は土地の古老李根周イグンジュに出会い、「之程の精密な記憶を有つて居る人は他にあるまい」という驚きとともに詳細な聞書を得た。そして2年後に論文にまとめあげた。
それによると、端午クッは1894年の甲午革新(朝鮮の内政改革の試み)以来、途絶えていた84)が、かつては、前後三ヶ月をかけて大関嶺の山神を迎え、邑内の城隍堂にまつり、クッと仮面戯をした。しかし、当時、その中心の祭場であった大城隍堂はすでに跡形もなく([図1)、ただ、近くの小学校に「済衆霊祠」という額だけが保存されていた
] 85)。任東権によると、ここには十二神位86)がまつられていた。ただ、この額銘から示唆されるのは、大城隍堂とは、ある特定の城隍神を常にまつるところではなく、別神クッのときに諸神霊をよび集めてクッをするところだったのではないかということである。
それはともかく、以下、秋葉隆の聞書をもとにし、さらに近年の研究成果を踏まえつつ、クッの次第を記述すると、次のようになる。
旧暦3月20日
この日にまず神酒を醸す。端午クッのはじまりである。
4月1日(初端午)
この日の巳の時、すなわち午前9時から11時ごろに、大城隍堂に神酒および白餅を供える。祭官による献酌ののち、男女5、60名の巫覡が山遊歌をうたってクッをする。官奴の吹手が太平簫を吹いてあそぶこともする。午後1時から3時ごろに解散する。4月8日(再端午)にも4月1日と同じことがくり返される。しかし現今では省略される。
82)わたしは1986年6月11日(旧5月5日)を中心として前後4日ほど今日の端午祭に参加したが、そこには別神クッの面影はあまりなかった。少なくとも秋葉隆の聞書とはかなり距離があり、クッの場よりも仮面戯や農楽、あるいは祝祭空間そのものに関心が向いた。そのため、ここでは巫堂クッの分析はしない。クッそのものは30席余りのもので大きくやっていたが、東海岸の別神クッでやるものと大差はなく、その逐一の紹介はここではあまり意味がないだろう。
83)わたしの視点では別神クッであるが、以下は、秋葉ほかの研究者にならって端午クッと記しておく。
84)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、287頁。この一方で、1909年に日本人らが端午クッをできなくさせたという江陵出身者の記録があり、こちらのほうが正しいようである(前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、42-43頁)。
85)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、289頁。86)ここには金.信や泛日国師なども当然含まれる。前引、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、221頁。-27-
上で述べた山遊歌は4月15日に山からおりてくるときにもうたわれる。その内容は単純なもので、
花の畑なるらん花の畑なるらん四月十五の日花の畑なるらんチファジャチョッタオルシグチョッタ(歓声)四月十五の日花の畑なるらん
といった歌詞である。これをくり返してうたい興をかきたてるという87)。この歌は、要するに四月の十五日は山が花で埋まっていることだろうということをいっている。それは呪文のようにもきこえる。おそらく生命の源たる花の力を前提にしていて、それを今日取りにいくのだと言明しているのだろう。ここには、おそらく古来おこなわれていた山あそびの名残があるのだと考えられる。
4月14日
夕食後、8時前後に大関嶺の山神88) を迎えるための行列が出発する。楽隊の他に、5、60名の巫覡が馬に乗って行進する。ラッパと太平簫とで道を浄めつつ、騎馬の者が100名ほど、その他、数百の老若男女が徒歩でつき従ったという。金持のばあいは、ふだん出入りの丹骨タンゴル(なじみ)巫堂に新調の衣裳を与え、馬に乗せ、自分は酒、米の供物を積んで馬夫を従えていく。一行は江陵から8キロほどのところにある邱山クサンで、土地の人びとから夕食のもてなしを受ける。さらに進んで大関嶺の山のふもと、松亭で休息し、そこで米をといで朝になるのを待つ。夜は野宿。
4月15日
暁に出発し、大関嶺の虚空橋の岩の上で各自持参の朝食をとり、午前10時前後に、国師城隍堂につく。ムーダンらが飯を炊き神前に供える。神酒▲[図版20]山神堂、国師堂の祭祀のあとでソナン
竿を伐り、その場で簡単なクッがおこなわれる。
を献じ、祭祀をしたあと89)で、近くの山に神竿を撮影金秀男。
87)前引、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、226頁。
88)より正確には大関嶺国師城隍を迎えにいく。秋葉は城隍と山神を同じものとしているが、現今では分ける。実際、大関嶺には、山神堂と国師堂とが併存し、それぞれ金.信と泛日国師をまつっている。
89)秋葉の聞書では、はっきりしないが、現在は、まず山神堂で、次に国師堂で祭祀をする。そして神竿(ソナン竿デ)を伐りにいく前に、巫堂が不浄クッとソナンクッをする。
切りにいく。神木とするのにふさわしい木がみつかると、その木の前でクッをするが、
ソナン
このとき(あるいはムーダンが「今日、国師城隍
90)
さまを迎えにまいりました」というと)、神威により生木の枝葉が動きはじめるという。これは降神を意味する。木を切ってから、そこに人びとが白紙や木綿糸、乾した大口魚、衣服などを掛け、厄除けを祈願し、またクッをおこなう([図版20)。
]
15日の午後のかつての下山の風景は、男女の巫覡が馬上で唱歌袖舞したというから、派手なもの▲[図版21]今日の邱山城隍堂。かつては夜ここを
出た。その際は松明をともした者たちが邑内までだったようだ。済民院城隍、屈面里城隍を経て邱案内をしたという。撮影金秀男。山の城隍堂につくと、ここでクッをする。ここから邑内までかつては邑内の家いえからひとりずつ出て手に手に松明をともし、ソナン神を案内した([図版21)。それは、こ
] うすると年中「凶事が無く豊年」だという信仰があってのことである91)。ソナン神が市内、女城隍堂ヨソナンダンにいく前に、一行は女ソナン神の実家である鄭氏の家(現在は崔氏が住む)に立ち寄り、餅のもてなしを受け、またクッもしていった。
この鄭氏の家に立ち寄る理由について、秋葉は簡単に記すが、任東権イムドングォンはより詳しく述べる。それによると、大関嶺の城隍92)がこのイエの主の夢に現れて、むすめと結婚したいといったが、主はカミと結婚させるわけにはいかないとことわった。するとのちに山神93)の遣わした虎がこのイエにやってきた。虎は、鄭氏の家の一人むすめを奪っていった。城隍神はこうしてむすめを妻にした。親が探し求めたときにはむすめはすでに死んでいた。そこで、このむすめの画像を描き、やっと亡きがらだけは引き取ることができた。虎がむすめを連れ去った日が4月15日なのである94) 。
さて、従前の行程では、女城隍堂を出てから、さらに邑内の官庁を経て大城隍堂まで行進し、そこでクッをして、大関嶺山神の神位と神竿を奉安した。これが済むのは零時前後であったという。
現在は大城隍堂がないので4月15日に女城隍堂にいき、ソナン竿を安置しておく。また5月3日の夜に、ここで祭官の祭祀および巫堂による不浄クッ、ソナンクッをしている。
4月16日から5月6日まで
90)前引、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、226頁。
91)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、289頁。
92)前述したように秋葉は「山神」とするが、ここは城隍ソンファンとするのが今日では一般的である。しかし、このことばは口語ではソナンであり(人びとの会話でソンファンなどと発音することはまずない)、それはどうも山神をも含むカミの総称のようである。
93)ここは任東権も「山神」と記している。従って、秋葉の記述がまちがっているともいえないことになる。高麗時代はともかく、朝鮮朝以降ソンファン、ソナンは山神と混同されている。
94)前引、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、217頁。-29-
この21日間、ムーダンらは毎日未明に、大城隍堂の神前で拝礼をした。人びとも直接、またはムーダンを通して祈願する。特に4月27日はムーダンによるクッがおこなわれた。
5月1日
この日から本祭となる。巫堂は百名近く集まる。
またこの日はじめて華蓋ケッテを作り、仮面戯もおこなう。華蓋は府司のところで作り、大城隍堂まで運ぶ。それは太竹に輪をくくりつけ色とりどりの布を撒いたもので、特殊な力を発揮する花の樹である95)。大関嶺のカミだけでなく宇宙の諸神をよび集める意味もあるのだろう。華蓋は力自慢の者が集まって、捧げ持つことを競った。それというのもこれを少しでも捧げ持つと「年中無病幸福」と信じられていたからである。その背景にはいくつかの伝承がある。第一は金キ異斯夫ムイサブが于山ウサン国を攻めたときに、重い棒を海岸に置いて敵にみせ、自分は船中で軽いものを振り回して敵を驚かしたことによるというもの、第二は金.信が賊を退散させたときの差しかけの傘だというもの、第三は華蓋の頂に付ける金属は泛日ポムイル国師の錫杖の頭を模したというもの。この泛日国師も日本軍を寄せつけなかった傑僧である96)。
以上の伝承から華蓋には混沌や悪しきモノを元にもどす力があることがわかる。これは別神クッの本来の意味ともっとも密接な関係を持つもので大変興味深いが、残念ながら現在のムーダンクッの祭場には、これと同じものはみられない。ただその代わりに、クッの場の中央奥に色布を垂らした神木を置くばかりである([図版22)。なお、
]
この華蓋の意味についてはのちにもう一度考えて
みたい。
5月3日
秋葉の聞書にはないが、現在はこの日の夜、まず女城隍堂のなかで簡単なクッをする。そののち、提燈行列をしつつ、女城隍と大関嶺の城隍を南大川のほとりに設けた臨時の祭場に迎える。現今、江陵市ではこの夜を端午祭前夜祭としている。
5月4日から7日まで
▲[図版22]江陵の端午祭は別神クッで大きな華蓋
4日は仮面戯、5日は仮面戯と華蓋の行進があが一つの特徴であったが、今日のクッの場にはる。このとき、今はなくなった薬局城隍、素城隍華蓋はなく、神竿が安置される。撮影金秀男。を巡り、市場においても演戯し、さらに女城隍堂にもいき、最後にまた大城隍のところに戻った。
95)華蓋については、拙稿「華蓋その他」『自然と文化』61、日本ナショナルトラスト、1999年参照。96)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、291頁。-30-
これらの行進は、あるいは神々を送り返す意味があるのかもしれない。すなわち、5月1日に華蓋を作って行進し、大城隍堂まできたのは諸神をよび招いたのであり、この日は送り返したとみるのである。こうした送りかえしは今日、東海岸の別神クッではよくみられる。
97)
6日夕刻の火散の行事(華蓋やクッの場の飾り物を燃やすこと)でまつりは終わる。現在は7日に焼祭がある。この間、現在は毎朝9時半に儒教式の朝奠祭をし、一方、ク
98)
ッの場では、4、5、6の3日間連続のムーダンクッが展開される([図版23)。さらに
] 同時進行のかたちで、近くのあそびの場では農楽競演大会、また「江陵官奴仮面劇保存会」による仮面戯示演、あるいはぶらんこ競技、相撲大会、闘鶏などがおこなわれる。
以上の記述からわかるように、江陵の端午クッは、確かに規模の大きいクッではあるが、東海岸の各所でみられるものと本質的には同じものであることがわかる。つまり、江陵邑の秩序維持、安寧のために、大関嶺のソナン神ほか、邑内の各種のソナン神をよび集め、同時に、華蓋の力を借りて各種の鬼神を整序し、やがて送り返した。こうしたなかで、特色となるのはやはり、巫堂のクッの合間に官奴が出て仮面戯をしたこと、そして華蓋が立てられたことであろう。そこで以下、仮面戯の内容とその意味を別神クッの視点でみなおすことにしたい。
○仮面戯の進行
官奴仮面戯は韓国唯一の無言仮面戯である。
これはかつて巫堂のクッの合間に官奴(官衙の下
働き) らによって演戯された。従って、このあそ
びは巫覡のクッの性格を反映しているとみるべ
きである。いいかえると、その基本的な性格
は、今日東海岸の別神クッでみられる仮面クッ
と同じものとみてよいだろう。99) ▲[図版23]江陵のクッの場は今日南大川のほとりに臨時に設けられる。主として江陵地区の巫堂
が担うが慶尚道からも助けにきて30席以上の大
それはともかく、官奴仮面戯は現在、旧暦5月 規模なクッがくり広げられる。これは将軍の力を
借りて悪しきモノを斥ける軍雄クッの一場面。撮
4日、5日におこなわれる。これはおよそ40分ほ 影金秀男。
97)任東権以下の研究者は「焼祭」の用語を用いるが、意味は同じである。
98)今日の巫堂クッは30席以上の大きなものであるが、任東権の聞書によると、元来は十二のクッであった。すなわち、1.不浄クッ/2.ソナンクッ/3.成造クッ/4.軍雄クッ/5.世尊クッ/6.祖上クッ/7.ソルヨンクッ/8.帝釈クッ/9.タンゴマギ(タングムアギ)/10.沈清クッ/11.ソンニョクッ/12.トゥイップリ(あとのまつり)とのことである(前引、任東権「江陵端午祭」『韓国民俗学論攷』、233頁)。
99)この視点は張正龍も主張している。張正龍「江陵官奴仮面劇の演劇的理解」、前引『江陵官奴仮面劇研究』、135頁以下参照。-31-
どの短いもので100)、他の地方の仮面戯に較べて、科場の切れ目もはっきりとしないところがあるが、一応、次の6科場に分けて演戯される101)。すなわち、第1科場「迎神」、第2科場「チャンジャマ
リ」、第3科場「両班小巫」、第4科場「シシタクタクキ」、第5科場「妥協と和解」、第6科場「群舞」である。
第1科場 迎神 以前の演戯では、登場人物
と楽隊とが全員で巡るだけだったとおもわれ
る。しかし、現在は戯場としての大城隍堂は
なく、ムーダンのクッの場と仮面の場とが分
離されているため、仮面の場に色布をつけた
シンテ
神竿が持ち出され、これを携えた者が登場
人物とともに場内を巡る。以前は神竿のほか
に華蓋もあったが、現在はクッの場にその代
わりのものが置かれている。
ここでムーダンを中心とした登場人物全員の
舞いとともに山遊歌がうたわれることもあっ
たらしい。この円行進は大関嶺のカミ以下も
ろもろのカミを迎えることを象徴しているも
▲[図版24]農楽隊と仮面戯の担い手が神竿の周り
のとおもわれる。行進は楽隊に率いられつ を巡る。かつては大城隍堂において華蓋を立て
てあそんだ。
つ、しばらくのあいだつづく([図版24)。]
第2科場チャンジャマリチャンジャマリ二人が中央に出てきてぶつかり合い、転げ、また起き上がってはぐるぐる回る。かれらのすることは駆け巡り、ぶつかり、ふざけあうことだけである([図版25)。
]
100)前引、金善豊「江陵官奴仮面劇の現場論的反省」『江原民俗学』掲載の聞書によると、暑いこともあり、せいぜいが「2時間から3,4時間だ」という(15頁)。しかし、これは、準備などを入れたとしても、かなり長い時間のあそびだ。
101)この仮面戯について、秋葉の情報提供者李根周はあまりはっきり証言できなかった。そこで仮面戯については金善豊の記述を中心にし、その後の研究を追加していく。金善豊の拠り所は前記任東権の聞書と録音原稿であるが、これをもとに関東大学無形文化財研究所で作成した台本が今日の端午クッでは使われている(前引、金善豊・金秀男『江陵端午クッ』、132頁)。それは6科場から成る。ちなみに、秋葉の分類は「チャンジャマル」「タルシンサラム」「両班広大と少巫閣氏」「シシッタクテギ」としている。このうちタルシンサラムというのは、チャンジャマルのようすを述べたにすぎないようで、後代の証言でも裏付けられない。秋葉の分類および聞書は仮面戯の内容に関する限り、総じて不明瞭で不完全である。
チャンジャマリは全身を黒い衣裳で覆って、目鼻だけ現した異様なモノである。頭に妙な髷をつけ、腹のあたりには竹の輪を入れている。しかも衣裳の上にはマルチという名の海草をあちこちにつけている。金善豊は、これを土地神の化身とみたが、海草をつけた太鼓腹という姿を考慮すると、地霊でありつつも、なおこれを、海と陸の精霊を併せたモノというほうがより妥当ではなかろうか。チャンジャマリのいでたちに関しては、現在はみられないが、かつて「桂の花を挿して」現れたともいう102) 。寄りくる鬼神を追いやる力があったのだろう。
なおまた駆け巡ることは一般に「場内整理」と解されている103) が、どうであろうか。走りめぐることは踏み鎮めであり、かれらは農楽隊の雑色と同じくみずから、あそびつつ、同時にこの仮面の場を「浄化」しているととるべきではなかろうか。
第3科場両班と小巫両班と小巫が中央に出る。かれらは、互いに求愛し、やがて背中合わせになる。このかたちは京畿道や黄海道の仮面戯にもあり、性交を示唆する身振りである。そして東海岸別神クッの仮面クッでも両班が登場して、気絶し蘇生するという演戯がある。そしてその両班には「慰霊」の要素が伴っている。江陵のばあい、地に倒れ伏すのは小巫だが、ここに前述した女城隍の伝承を重ねれば、やはり「慰霊」ということが考えられる。つまり、両班は大関嶺のカミの化身、小巫は虎にさらわれてカミの妻となり死んだむ
▲[図版25]チャンジャマリ
▲[図版26]貴州省の儺戯はいくつか知られるようになったが、その一つ彜族のツォトンジには三角帽子のようなものをかぶったモノたちが救済者として現れる。『自然と文化』24より。
すめということであろう。カミとむすめの交歓ということは、現実には、江陵の巫女
102)前引、金善豊「江陵官奴仮面劇の現場論的反省」『江原民俗学』、20頁。この花は生命力、呪力を帯びた花で、華蓋の効力と同じもの、祓う力を持っていたのだろう。こうした観念は朝鮮民族のあいだに広くあったもののようで、処容は頭に桃の花をかざして舞を舞った(朴鎮泰パクジンテ『タルノリの起源と構造』、セムン社、1990年、242頁)。
103)前引、金善豊・金秀男『江陵端午クッ』、134頁。-33-
が大関嶺のカミを手厚くまつるかどうかということなので、これがおろそかになれば、カミは怒りを表明して江陵邑に虎を送りつけるのである。
カミの怒りを防ぐために別神クッをするのであり、さらに同じことを演戯したものが官奴仮面戯なのである。両班は、かなり長いあごひげにキセルを携え現れる。顔はいかにも両班風に作ってあるが、頭にかぶったとんがり帽子のような弁ピョンは朝鮮の他の仮面戯にはみられない。またその頂につけた雉の羽根は、ふつうは神の依代を意味する。こうしたことからもこの人物が当初から両班であったかどうかは疑問である。張正龍は新羅の武将がかぶった戦巾、あるいは高句麗人がかぶった折風巾を示唆しつつ、なおまた最近知られた貴州省の儺戯の登場人物のいでたちをも示唆している
] 104)
([図版26)。いずれにしても、「両班」
以前の来訪者があったものと考えられる。
第4科場シシタクタクキシシタクタクキが二人、中央に出てきて、両班と小巫の仲を割く。手に小刀を持ち、振り回しつつ、場内を走▲[図版27]疫神シシタクタクキり巡り、あるいはチャンジャマリと同じようにぶつかり合い、転倒したりもする。険悪な顔付きで、江陵では方相氏のようなものという伝承があったようである
] 105)
([図版27)。秋葉隆の聞書にも「方相氏の面の様な醜悪な木製の仮面」とあり、また任東権の聞書にも「方相氏ですよ。くどくどいう必要ないですよ」106) とある。しかし、これは中国の方相氏というよりは、もっとずっと民間化した疫病のカミそのもので、まったく同じものと考えることはできない一面もある。なぜなら別の証言によると、
4月5月になると、紅疹(紅疫)の関係で、それの予防になります。それで、ソナンのところにいって願うときに、そのすべてを除いてくださいと、おそろしいカオをして「そんな病がはやらないようにしてください」と、こんなわけでものすごいカオに作って登場させるんです107) 。
といっているからである。はなしことばなので少しわかりにくい点もあるが、夏を迎
104)前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、54頁。ただし、図版およびこれが貴州省彜
族の行事にあるという説明は筆者によるものである。105)前引、秋葉隆「江陵端午祭」、293頁。106)前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、57頁。107)前引、張正龍『江陵官奴仮面劇研究』、58頁。
えるときに天然痘がはやることが経験的にわかっていたので、その予防のためにシシタクタクキをこしらえ、祈らせたといわれている。とすると、これは方相氏そのものではなく、ソンニム(天然痘のカミ)そのもの、またはそのおつきのモノのような位置にあることになる。つまりは疫神ということである。一方で、シシタクタクキをこのようにみることは、先にこの仮
面戯が巫女のクッの構造のな▲[図版28]両班と蘇生した小巫との交歓のようす。撮影金秀男。
かに位置すると主張したことと符合する。
それはともかく、仮面戯では両班と小巫の交歓によって秩序が保たれていたのが、この疫神の出現により、波乱が生じる。それは共同体に異変が生じたことを意味する。シシタクタクキは疫神であるが、一方では、ソンニムがそうであったように、もてなして送り返すことにより、諸々の病を防ぐ働きもする。こうして、シシタクタクキは場内を走り回ることで天然痘予防に一役買うことになるのであろう。
第5科場妥協と和解介入してきたシシタクタクキとあそんだ小巫は両班の怒りを買い、許しを乞うが、叶えられない。そこで思い余って両班の長いあごひげをつかみ、それで首をくくって倒れる。すると、シシタクタクキ、チャンジャマリが仲介の労を取るかのように、両班と小巫のあいだを行き来する。やがて小巫が蘇生する。チャンジャマリが跳び上がって喜び、両班に知らせる。両班は小巫の手を取ろうと近づく。一度は小巫に押しのけられるが、結局、和解が成立する(図版28)。
[]
第6科場群舞登場人物全員が群舞する。同時に、神竿が中央に持ち出され、激しく揺らされる。これは、いわば大関嶺のカミが江陵の仮面戯の場にきたこと、そしてこのクッのもてなしに満足したことの演戯化であろう。
以上の無言仮面戯はかなり単純であるが、そこでは、神竿を通してムーダンクッのな
かのあそびの場に諸種のモノがよび集められ、やがてカミが迎えられ、女城隍神と交歓
するという内容が顕著である。これは何を意味しているのか。いうまでもなく、それは
江陵端午クッの核心部分を縮約したものだということなのである。なお、江陵の別神クッと官奴仮面戯は朝鮮朝の末にいったん廃れてから約60年近い中
断があった。しかも1960年代後半以来、聞書をもとに再興したときにも、結局、官奴と
して演戯をした者が直接、参与しなかったこと、さらに、再興後の担い手が長らく学生
であったことなどにより、振りと音楽は相当に変質している可能性がある。
○ まつり方の特色
1.
江陵は歴史的にも嶺東の第一の都邑であった。そのためここの別神クッは東海岸各地の漁村を単位とした別神クッとは異なり、官の主催するかたちでおこなわれ、そもそもはじめから大規模であったと考えられる。
2.
江陵を含めて江原道では五月端午のころに山にいき、山神をまつる民俗があった。それはいうならば山神クッでありソナンクッである。そして、これをもとに別神クッがおこなわれた。しかし、両者は別のものだっと考えなければならない。
3.
別神クッは人びとの共同体に深刻な危機が生じたときに、共同体の内部に臨時に祭場を準備しおこなうもので、江陵のばあいも、虎の害、風雨の害、疫病などがきっかけであったとみられる。女城隍についての口頭伝承、仮面戯のシシタクタクキ、小巫の自害などはそれを示唆する。
4.
江陵の別神クッで特徴的なものは華蓋と仮面戯である。
5.
華蓋は東アジアに広くみられる柱の民俗ともかかわってくるだろう。これは二つの性格を持っている。一つはムラのソトから取ってくることで共同体にサチをもたらすことである。これについては、大林太良がすでに触れている108)。もう一つは柱であると同時に花でもあるということで、これについては取り上げる者がいない。
6.
花および花の樹の象徴性については、これが植物の生長を促進する儀礼に使われるという見解がすでに出されている。すなわち金宅圭によると、『三国志』には、三韓で、蘇塗(聖域に立てた木)を立てて天神祭をおこなったことが記されているが、江陵の端午クッにおける神竿も、そこにさかのぼるものである。そしてこの神竿のまわりで、人びとが群れをなしておどりまわることは、慶尚北道慶山郡慈仁面のあそびにおける女円舞ともども、生長促進儀礼の意味を帯びている、と述べられる。そして、金宅圭も指摘するとおり、朝鮮半島の近隣地域に目を広げると、この類型は数多くみられる。たとえば、日本神話のイザナキ・イザナミの伝承、また中国南部貴州で春、鬼竿を立てて男女が旋回し配偶者を求めたこととか、その他の事例が生長促進儀礼として解釈できるようである。さらにいえば、華蓋は中国に古く存在し、民俗のなかにその痕跡を残した生命樹「建木の花」にさかのぼるだろう109) 。
韓将軍ハンチャングン
7.
ただし、江陵端午クッの性格を論ずるばあい、生長促進儀礼の面に注目すると同時に、これが別神クッの一つであったという点も忘れてはならないだろう。前者を強調するときは、ムラ共同体の例年のソナンクッを継承したものと位置づけられるが、後者を強調するときは、山神やソナン神、疫神、あるいは海山にさまよう看取られぬ霊をよび集める臨時のまつりの性格が濃くなる。そして、江陵端午クッを独自のものとさせたのは何かというならば、邑内に祭場を設けて諸神を集めまつったこと、
108)大林太良「日本と東南アジアの柱祭」『東アジアの古代文化』別冊75、大和書房、1975年。109)建木については前引、拙稿「華蓋その他」『自然と文化』61参照。-36-
同時に、邑内各所の城隍堂や市場を巡りつつ秩序の回復、維持を祈願したことにある。
應義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション
慶應義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション (31), 25-66, 2003
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
No comments:
Post a Comment