java
Tuesday, January 31, 2012
Jochiwon,Sejong City,new city built by japanese in 1905 鳥致院(조치원)
http://www.kampoo.com/travel/cn/jochiwon/index.htm
鳥致院(조치원)は1905年京釜線鉄道ができたことによって新しく作られた町です。そのためか鳥致院駅前の雰囲気は、駅前にロータリーがあることからして日本の町作りと似ているなと思いましたが、実際京釜線建設とともに新しく作られた町なので町作りの設計は典型的な日本風だそうです。ただ今は昔に比べて栄えてはいないし、もともと何もない所に作った町なので見どころはありませんでした。
京釜線と忠北線の乗換駅で1番ホームから忠北線の堤川駅行きの列車への乗換ができますが、忠北線は近くの大田駅からも利用できるので鳥致院駅の利用者は少ないようです。
忠清北道観光地図
ソウル駅でムグンファ列車に乗ることから始めた1泊2間の忠清北道旅行もここ鳥致院駅で終わりです。写真は、鳥致院駅からソウルの龍山駅行きムグンファ列車のチケットです。龍山駅までの料金は7500ウォン、所要時間は約1時間30分です。
世宗特別自治市
세종특별자치시(世宗特別自治市)
鳥致院(조치원)は1905年京釜線鉄道ができたことによって新しく作られた町です。そのためか鳥致院駅前の雰囲気は、駅前にロータリーがあることからして日本の町作りと似ているなと思いましたが、実際京釜線建設とともに新しく作られた町なので町作りの設計は典型的な日本風だそうです。ただ今は昔に比べて栄えてはいないし、もともと何もない所に作った町なので見どころはありませんでした。
京釜線と忠北線の乗換駅で1番ホームから忠北線の堤川駅行きの列車への乗換ができますが、忠北線は近くの大田駅からも利用できるので鳥致院駅の利用者は少ないようです。
忠清北道観光地図
ソウル駅でムグンファ列車に乗ることから始めた1泊2間の忠清北道旅行もここ鳥致院駅で終わりです。写真は、鳥致院駅からソウルの龍山駅行きムグンファ列車のチケットです。龍山駅までの料金は7500ウォン、所要時間は約1時間30分です。
世宗特別自治市
세종특별자치시(世宗特別自治市)
Monday, January 30, 2012
Changdeokgung Palace Complex 昌徳宮 チャンドックン 창덕궁
昌徳宮
Changdeokgung Palace
^ 正宮が火災などに遭った際、王が移り住む宮殿
^ 朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』には民衆によって略奪・放火されたと明記されており[1]、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』にもその時の様子が記されている。因みに日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣吉野甚五左衛門の覚書には入城直前の「五月二日の夕暮れに都の方を望むと放火の煙が立ち上っている」「宮殿楼閣数々に、内裏々々に火を掛けて、上下万民ことごとく唐国さして落ちにける」と記録している。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に消失したとしている。したがって一部に存在する日本の小西行長勢によって放火されたとする主張は誤りである。
^ 景福宮は正宮として再建されるまで約270年以上にわたり放置されたままであった
^ 西洋式で、近代に改築されたらしい
Changdeokgung Palace
^ 正宮が火災などに遭った際、王が移り住む宮殿
^ 朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』には民衆によって略奪・放火されたと明記されており[1]、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』にもその時の様子が記されている。因みに日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣吉野甚五左衛門の覚書には入城直前の「五月二日の夕暮れに都の方を望むと放火の煙が立ち上っている」「宮殿楼閣数々に、内裏々々に火を掛けて、上下万民ことごとく唐国さして落ちにける」と記録している。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に消失したとしている。したがって一部に存在する日本の小西行長勢によって放火されたとする主張は誤りである。
^ 景福宮は正宮として再建されるまで約270年以上にわたり放置されたままであった
^ 西洋式で、近代に改築されたらしい
verification queens in Joseon Dynasty 王妃たちの朝鮮王朝 検証
http://xn--u9j228hz8b124aww4c.com/tag/%E7%8E%8B%E5%A6%83%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D/
BS歴史館「美しく悲しい女の戦い~王妃たちの朝鮮王朝~」見ました。
「NHKだけあって、映像資料も多く、とてもためになる番組でした」と、言いたいところですが、ところどころおかしな所があって、とても残念でした。
ちょっと検証していきましょう。
1.どうして景福宮?
朝鮮の王宮というと景福宮(キョンボックン:경복궁)が連想されますが、一番長く270年もの間、朝鮮王朝の本宮として使用されたのは昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)です。
映像資料として使われていたトンイやイ・サンも昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)が舞台なのです。
そのことを説明しておかないと、1592年以降、焼け野原だった景福宮(キョンボックン:경복궁)が存在していたと誤解すると思うのですが、どうでしょう?
※昌徳宮の図解などはコチラ → トンイ考 昌徳宮(チャンドックン)
2.七段階に階級分けされた側室?
下記のように正しくは八段階です。 承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)は正式な後宮ではありません。
放送の中盤、王位継承権の説明のときに資料が写ってましたがそこにはしっかり下記のような記述が載っていました。
なぜ七段階にしたんでしょうね~。しかも、図解まで付けて。
正一品(チョンイルプム:정1품) 嬪(ピン:빈)
従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)
正二品(チョンイプム:정2품) 昭儀(ソウィ:소의)
従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)
正三品(チョンサムプム:정3품) 昭容(ソヨン:소용)
従三品(チョンサムプム:종3품) 淑容(スギョン:숙용)
正四品(チョンサプム:정4품) 昭媛(ソウォン:소원)
従四品(チョンサプム:종4품) 淑媛(スグォン:숙원)
トンイ考 チャン・ヒビン誕生 内命婦(ネミョンブ:내명부)とは? を参照のこと
そして、「誰もが皆、王に認められると、王妃の座を勝ち取れるチャンスを持っていたのです」とありましたが、このナレーションはいまいち適切ではありません。
朝鮮王朝519年の間で宮女から中殿(チュンジョン:중전)になったのは、後にも先にも禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)だけです。
この背景には母親譲りの気性を持った粛宗(スクチョン:숙종)が、換局(ファングク:환국)という、言ってみれば「ちゃぶ台をひっくり返す」荒業をやってのけ、後宮の体制をもリンクさせたからです。
一般の王なら儒教的規範を鑑みて、宮女上がりを中殿にすることはありません。
3.519年に渡る長期の王朝維持は外交?
どうして朝貢の説明をしないのでしょうね?
王朝の維持のために臣下の礼を取ると同時に安全保障も確立しているのですから、説明してしかるべきなのに、「外交」と曖昧な表現を指定ました。
また、朝鮮半島の王朝は後三国時代を除けば総じて国の寿命は長いのです。 高句麗は1000年近いし、百済も600年以上、新羅も約1000年、高麗も475年続いています。
これについては中原の大国とのパワーバランスもありましたが、朝鮮人の気質と易姓革命の概念がマッチしていたともいえます。
ですので、朝鮮王朝だけが長いわけではないことも重要なのです。 もっとも、TV番組ですので、お偉い先生方は解説したのに、編集でカットされている可能性はあります。
4.チャン・ヒビンの経歴
韓国歴史のチャン・ヒビン1にまとめているので、読んでいただければわかりますが、現在では有力説でない方の説をもとに番組内では話が進められています。(おそらく紹介された著書の内容)
日本でも少数説や過去多数説だったが覆されたという説が、情報の更新をしないまま、まさにこうだったと断言されることがありますが、とくに韓国での歴史研究は日本史ほど進んでいないのが現状なので注意が必要です。
大先生と言われる方でも、しれっと自説を変えていたりしますもん(汗)
5.王位継承権
「早ければ(早く生まれたほうが)王位継承権を持つのが原則」と言っていましたが、そんなことはありません。 あくまでも、中殿の子を待ちます。中殿に懐妊の兆しがない場合や、国防上の問題、第一子がけっこうな年になっている場合には王世子(ワンセジャ)に冊封しますが、数歳違いで先に生まれた後宮の子のほうが元子(ウォンジャ)や王世子になることはないのです。
6.朝鮮王朝は競争でのし上がれる余地がある?
そんなことはありません。韓国時代劇ファンのかたなら周知の通りですよね? 強力な家門に生まれつかないことには上昇なんてありえません。
たしかに、イ・ビョンフン監督の描くヒーローやヒロインはそうでしたが、その数人以外に強烈な身分上昇を成し得た人は519年の歴史のうち、いたとしてもせいぜい2ケタでしょう。
それぞれのカテゴリーで裕福になり、幸せな生活を送ることができた江戸の人に比べると、抑圧のされ方が朝鮮のほうが激しかったといえます。
BS歴史館「美しく悲しい女の戦い~王妃たちの朝鮮王朝~」見ました。
「NHKだけあって、映像資料も多く、とてもためになる番組でした」と、言いたいところですが、ところどころおかしな所があって、とても残念でした。
ちょっと検証していきましょう。
1.どうして景福宮?
朝鮮の王宮というと景福宮(キョンボックン:경복궁)が連想されますが、一番長く270年もの間、朝鮮王朝の本宮として使用されたのは昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)です。
映像資料として使われていたトンイやイ・サンも昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)が舞台なのです。
そのことを説明しておかないと、1592年以降、焼け野原だった景福宮(キョンボックン:경복궁)が存在していたと誤解すると思うのですが、どうでしょう?
※昌徳宮の図解などはコチラ → トンイ考 昌徳宮(チャンドックン)
2.七段階に階級分けされた側室?
下記のように正しくは八段階です。 承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)は正式な後宮ではありません。
放送の中盤、王位継承権の説明のときに資料が写ってましたがそこにはしっかり下記のような記述が載っていました。
なぜ七段階にしたんでしょうね~。しかも、図解まで付けて。
正一品(チョンイルプム:정1품) 嬪(ピン:빈)
従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)
正二品(チョンイプム:정2품) 昭儀(ソウィ:소의)
従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)
正三品(チョンサムプム:정3품) 昭容(ソヨン:소용)
従三品(チョンサムプム:종3품) 淑容(スギョン:숙용)
正四品(チョンサプム:정4품) 昭媛(ソウォン:소원)
従四品(チョンサプム:종4품) 淑媛(スグォン:숙원)
トンイ考 チャン・ヒビン誕生 内命婦(ネミョンブ:내명부)とは? を参照のこと
そして、「誰もが皆、王に認められると、王妃の座を勝ち取れるチャンスを持っていたのです」とありましたが、このナレーションはいまいち適切ではありません。
朝鮮王朝519年の間で宮女から中殿(チュンジョン:중전)になったのは、後にも先にも禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)だけです。
この背景には母親譲りの気性を持った粛宗(スクチョン:숙종)が、換局(ファングク:환국)という、言ってみれば「ちゃぶ台をひっくり返す」荒業をやってのけ、後宮の体制をもリンクさせたからです。
一般の王なら儒教的規範を鑑みて、宮女上がりを中殿にすることはありません。
3.519年に渡る長期の王朝維持は外交?
どうして朝貢の説明をしないのでしょうね?
王朝の維持のために臣下の礼を取ると同時に安全保障も確立しているのですから、説明してしかるべきなのに、「外交」と曖昧な表現を指定ました。
また、朝鮮半島の王朝は後三国時代を除けば総じて国の寿命は長いのです。 高句麗は1000年近いし、百済も600年以上、新羅も約1000年、高麗も475年続いています。
これについては中原の大国とのパワーバランスもありましたが、朝鮮人の気質と易姓革命の概念がマッチしていたともいえます。
ですので、朝鮮王朝だけが長いわけではないことも重要なのです。 もっとも、TV番組ですので、お偉い先生方は解説したのに、編集でカットされている可能性はあります。
4.チャン・ヒビンの経歴
韓国歴史のチャン・ヒビン1にまとめているので、読んでいただければわかりますが、現在では有力説でない方の説をもとに番組内では話が進められています。(おそらく紹介された著書の内容)
日本でも少数説や過去多数説だったが覆されたという説が、情報の更新をしないまま、まさにこうだったと断言されることがありますが、とくに韓国での歴史研究は日本史ほど進んでいないのが現状なので注意が必要です。
大先生と言われる方でも、しれっと自説を変えていたりしますもん(汗)
5.王位継承権
「早ければ(早く生まれたほうが)王位継承権を持つのが原則」と言っていましたが、そんなことはありません。 あくまでも、中殿の子を待ちます。中殿に懐妊の兆しがない場合や、国防上の問題、第一子がけっこうな年になっている場合には王世子(ワンセジャ)に冊封しますが、数歳違いで先に生まれた後宮の子のほうが元子(ウォンジャ)や王世子になることはないのです。
6.朝鮮王朝は競争でのし上がれる余地がある?
そんなことはありません。韓国時代劇ファンのかたなら周知の通りですよね? 強力な家門に生まれつかないことには上昇なんてありえません。
たしかに、イ・ビョンフン監督の描くヒーローやヒロインはそうでしたが、その数人以外に強烈な身分上昇を成し得た人は519年の歴史のうち、いたとしてもせいぜい2ケタでしょう。
それぞれのカテゴリーで裕福になり、幸せな生活を送ることができた江戸の人に比べると、抑圧のされ方が朝鮮のほうが激しかったといえます。
leaving prince and queen from court in Joseon
http://hungmei.exblog.jp/11159731/
李氏朝鮮・清朝ドラマ比較その4
①后妃出宮
李氏朝鮮では、死んだ王の后妃は正室以外、実家に戻るようです。世子(王位後継者)の生母だったりすれば話は違うかもしれませんが、ドラマでは「王の女」で14代宣祖の寵愛を集めやりたい放題だった仁嬪キム氏がキム尚宮との争いに半ば破れ実家に帰っていたのが印象的です。また、その際、世子以外の王子も母に付き従うかのような演出でした。いつごろからのルールかわかりませんが、9代成宗側室のチョン・オム両貴人はなぜか10代燕山君時代に宮中にいますし(そして燕山君によって惨殺されるのはいろいろなドラマでおなじみ)、パワーバランスもあるのか11代中宗の妃・昌嬪安氏(※)は文定王后に気に入られ中宗死後もしばらく宮中に残ったようです。
②王子出宮
しかし、王子のほうでは世子以外は結婚すれば宮中を出て、屋敷を構えるのが普通のようです。そうすると生母が出宮したタイミングで王子の屋敷に引き取ったりするのでしょうか?清朝でも王子は有る程度の年齢で宮中から出て屋敷を構えるような印象がありますが、4代雍正帝の「太子密建」で王位後継者は今上帝が死ぬまで不明なので、李氏朝鮮のようにはいかないのでは・・?どうなるのか興味有りです。公主も、結婚すると公主府に移り住みますよね(王府が皇子、皇族の屋敷)。
※生前の地位は格下の昭容ですが、孫が14代宣祖になったため死後、追号。ここで疑問ですが、19代粛宗の側室で非常に低い身分だった淑嬪チェ氏。彼女は21代王の生母ながら、王后とは追号されず、嬪のままですね。清朝だととりあえず息子が皇帝になれば生母は生前の地位を問わず皇太后になれる印象があるのですが(西太后夫と恭親王の間で少しもめたけど)、李氏朝鮮では王の生母でも王后とは追号されないのですか?チャンヒビンの場合は、嬪待遇で埋葬されるのが温情なくらいやらかしちゃったかわかるけど・・・。雅号(?)の違いはあれど、皇帝の子供が公主(格格)/皇子(阿ge)で統一されている清朝に比べて、李氏朝鮮だと母の身分で公主(嫡出)/翁主(庶出)、大君/君でわけてあるのが、厳格なイメージです。
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
大体の場合は実家があれば実家に帰るか、自身の兄や弟やその息子が引き継いだ本家に戻る事が多いです。
その時の王に寄って違いますが、治世が安定してたり、中殿→王妃が後宮に対して寛大な場合は
王宮に残るケースが多いです、成宗(貞顕王后の人徳)中宗(文定王后は自身の気に入りの後宮のみ)
仁宗(仁聖王后の人徳)、正祖の場合は孝懿王后の徳がとても高く、和嬪伊氏は宮中で没してます。
大体の後宮は尼寺である正業院で晩年を過ごし没する事が多いです。
たまに正業院で没する歴代の王后もいますよ。比丘尼になった王后や後室もいます。
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
その時代、その治世に寄りますが、10人に1人の割合で大君も公主が夭折する時代でした。
大君と君では扱いがかなり別格ですね、公主と翁主でも。
君だと出宮が多い上に必ず王室の監視が付きます→謀反を起こさないように!
大君は王が王室の財源から生活費を全て出して貰えます。
君になるとその生活費の支出が大君よりもかなり少ないです。
公主は名門の両班の息子に嫁ぐ事が多いですが、早世が物凄く多いですよ。
翁主は公主よりも落ちますが両班の息子に嫁ぐ事が多い、出産時の産褥死が多いです。
両班の娘も王室の公主や翁主も温室育ちで大事に育てられてるので長寿は非常にマレですね。
一番の長寿は宣祖の娘である貞明公主(永昌大君の姉)
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
1499年に生まれた’昌嬪安氏’は京畿道の家の娘に生まれた。 美貌というよりは品行がきちっとして落ち着いていた
彼女は九才の時の1507年に女官に選ばれて、宮廷生活を始めた。 中宗の母ジョンヒョン大妃の目に入り、二十才の時中宗の寵愛を受ける。
それで二十二才の時にやっと正5品尚宮になった。三十一才の時に従4品淑媛、そして従3品淑容に上がった。
この過程でアン氏は中宗との間に2男1女をもうけた。優れた人格と品位を持っていたので文定王后も彼女を格別に思っていた。
1545年中宗が亡くなるや慣例により安氏も喪に伏しインス宮に退こうとした。しかし文定王后の強力な引き止めがあった。
すでに世の中は文定王后の世であった。4年後実家を訪れた安氏は特別な病気もなく50才で生涯を閉じた。
ちなみに彼女は靖国功臣の娘ではなく、両班の出身です。
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:42
淑嬪崔氏が賎民出身だったのがネックだったみたいですね!
ちなみに淑嬪崔氏は3人の王子を産んでいます。
ちなみに張禧嬪は1男1女で、1女は産後直ぐに夭折。
高宗がある尚宮に話した逸話があります。
淑嬪崔氏ムスリこと水汲みではなく針女だったんです!
大抵の女官は中人出身の人が多いです。
王后として英祖が実母を追贈しようとしますが臣下が「賎民の分際で!」
と言って全ての臣下が反対したそうです・・・やっと臣下が納得して
毓祥宮和敬徽徳安純綏福淑嬪(海州崔氏) として追贈したぐらいなんです。
肅宗は精神状態が安定しない症状があり、景宗も精神を患います(これは母の死も原因ですが!)
英祖が荘献世子を米びつの中に閉じ込めた餓死事件の反面、和平翁主、和緩翁主 への偏愛
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:44
リイサさま
稚拙なブログにご丁寧にコメントをありがとうございました!キムヘス版チャンヒビンでチェ氏がチバンにつとめていたのは本当なのですね。卑賎といいますが一般庶民くらいなんですか?賎民階級などではないですよね。女官に中人が多いのと、ムスリが水汲みとは知りませんでした。ありがとうございました。
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x
賤民は良民に戻る事が可能な奴婢、不可能な白丁で構成され、
婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する
公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。
白丁は、稀に賤民から良人になったケースもあるが、希有な例ですね。
ただ賤民から妓生になった後に商人になったケースもあります!
巨商・金万徳と言うドラマが韓国で放映されてますが。
近くNHKBSに上陸予定です。
済州島の飢餓を救い、済州島では「万徳ばあさん」と言われ物凄く慕われてます。
ちなみに彼女は実在の人物で正祖に謁見してるんですよ。
賤民でも奴婢であればお金さえあれば両班の身分を買う事もあったようです。
没落や貧しい両班が自分の身分を売るケースもありました(黙認されてた!)
同じく中人や常人が貧しさから自身の身分を売るケースもありました。
卑賎は滅多に使われない言葉です、賤民よりも低い立場で
この言葉はとても卑しい言葉になるんですよ・・・
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x
李氏朝鮮・清朝ドラマ比較その4
①后妃出宮
李氏朝鮮では、死んだ王の后妃は正室以外、実家に戻るようです。世子(王位後継者)の生母だったりすれば話は違うかもしれませんが、ドラマでは「王の女」で14代宣祖の寵愛を集めやりたい放題だった仁嬪キム氏がキム尚宮との争いに半ば破れ実家に帰っていたのが印象的です。また、その際、世子以外の王子も母に付き従うかのような演出でした。いつごろからのルールかわかりませんが、9代成宗側室のチョン・オム両貴人はなぜか10代燕山君時代に宮中にいますし(そして燕山君によって惨殺されるのはいろいろなドラマでおなじみ)、パワーバランスもあるのか11代中宗の妃・昌嬪安氏(※)は文定王后に気に入られ中宗死後もしばらく宮中に残ったようです。
②王子出宮
しかし、王子のほうでは世子以外は結婚すれば宮中を出て、屋敷を構えるのが普通のようです。そうすると生母が出宮したタイミングで王子の屋敷に引き取ったりするのでしょうか?清朝でも王子は有る程度の年齢で宮中から出て屋敷を構えるような印象がありますが、4代雍正帝の「太子密建」で王位後継者は今上帝が死ぬまで不明なので、李氏朝鮮のようにはいかないのでは・・?どうなるのか興味有りです。公主も、結婚すると公主府に移り住みますよね(王府が皇子、皇族の屋敷)。
※生前の地位は格下の昭容ですが、孫が14代宣祖になったため死後、追号。ここで疑問ですが、19代粛宗の側室で非常に低い身分だった淑嬪チェ氏。彼女は21代王の生母ながら、王后とは追号されず、嬪のままですね。清朝だととりあえず息子が皇帝になれば生母は生前の地位を問わず皇太后になれる印象があるのですが(西太后夫と恭親王の間で少しもめたけど)、李氏朝鮮では王の生母でも王后とは追号されないのですか?チャンヒビンの場合は、嬪待遇で埋葬されるのが温情なくらいやらかしちゃったかわかるけど・・・。雅号(?)の違いはあれど、皇帝の子供が公主(格格)/皇子(阿ge)で統一されている清朝に比べて、李氏朝鮮だと母の身分で公主(嫡出)/翁主(庶出)、大君/君でわけてあるのが、厳格なイメージです。
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
大体の場合は実家があれば実家に帰るか、自身の兄や弟やその息子が引き継いだ本家に戻る事が多いです。
その時の王に寄って違いますが、治世が安定してたり、中殿→王妃が後宮に対して寛大な場合は
王宮に残るケースが多いです、成宗(貞顕王后の人徳)中宗(文定王后は自身の気に入りの後宮のみ)
仁宗(仁聖王后の人徳)、正祖の場合は孝懿王后の徳がとても高く、和嬪伊氏は宮中で没してます。
大体の後宮は尼寺である正業院で晩年を過ごし没する事が多いです。
たまに正業院で没する歴代の王后もいますよ。比丘尼になった王后や後室もいます。
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
その時代、その治世に寄りますが、10人に1人の割合で大君も公主が夭折する時代でした。
大君と君では扱いがかなり別格ですね、公主と翁主でも。
君だと出宮が多い上に必ず王室の監視が付きます→謀反を起こさないように!
大君は王が王室の財源から生活費を全て出して貰えます。
君になるとその生活費の支出が大君よりもかなり少ないです。
公主は名門の両班の息子に嫁ぐ事が多いですが、早世が物凄く多いですよ。
翁主は公主よりも落ちますが両班の息子に嫁ぐ事が多い、出産時の産褥死が多いです。
両班の娘も王室の公主や翁主も温室育ちで大事に育てられてるので長寿は非常にマレですね。
一番の長寿は宣祖の娘である貞明公主(永昌大君の姉)
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
1499年に生まれた’昌嬪安氏’は京畿道の家の娘に生まれた。 美貌というよりは品行がきちっとして落ち着いていた
彼女は九才の時の1507年に女官に選ばれて、宮廷生活を始めた。 中宗の母ジョンヒョン大妃の目に入り、二十才の時中宗の寵愛を受ける。
それで二十二才の時にやっと正5品尚宮になった。三十一才の時に従4品淑媛、そして従3品淑容に上がった。
この過程でアン氏は中宗との間に2男1女をもうけた。優れた人格と品位を持っていたので文定王后も彼女を格別に思っていた。
1545年中宗が亡くなるや慣例により安氏も喪に伏しインス宮に退こうとした。しかし文定王后の強力な引き止めがあった。
すでに世の中は文定王后の世であった。4年後実家を訪れた安氏は特別な病気もなく50才で生涯を閉じた。
ちなみに彼女は靖国功臣の娘ではなく、両班の出身です。
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:42
淑嬪崔氏が賎民出身だったのがネックだったみたいですね!
ちなみに淑嬪崔氏は3人の王子を産んでいます。
ちなみに張禧嬪は1男1女で、1女は産後直ぐに夭折。
高宗がある尚宮に話した逸話があります。
淑嬪崔氏ムスリこと水汲みではなく針女だったんです!
大抵の女官は中人出身の人が多いです。
王后として英祖が実母を追贈しようとしますが臣下が「賎民の分際で!」
と言って全ての臣下が反対したそうです・・・やっと臣下が納得して
毓祥宮和敬徽徳安純綏福淑嬪(海州崔氏) として追贈したぐらいなんです。
肅宗は精神状態が安定しない症状があり、景宗も精神を患います(これは母の死も原因ですが!)
英祖が荘献世子を米びつの中に閉じ込めた餓死事件の反面、和平翁主、和緩翁主 への偏愛
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:44
リイサさま
稚拙なブログにご丁寧にコメントをありがとうございました!キムヘス版チャンヒビンでチェ氏がチバンにつとめていたのは本当なのですね。卑賎といいますが一般庶民くらいなんですか?賎民階級などではないですよね。女官に中人が多いのと、ムスリが水汲みとは知りませんでした。ありがとうございました。
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x
賤民は良民に戻る事が可能な奴婢、不可能な白丁で構成され、
婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する
公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。
白丁は、稀に賤民から良人になったケースもあるが、希有な例ですね。
ただ賤民から妓生になった後に商人になったケースもあります!
巨商・金万徳と言うドラマが韓国で放映されてますが。
近くNHKBSに上陸予定です。
済州島の飢餓を救い、済州島では「万徳ばあさん」と言われ物凄く慕われてます。
ちなみに彼女は実在の人物で正祖に謁見してるんですよ。
賤民でも奴婢であればお金さえあれば両班の身分を買う事もあったようです。
没落や貧しい両班が自分の身分を売るケースもありました(黙認されてた!)
同じく中人や常人が貧しさから自身の身分を売るケースもありました。
卑賎は滅多に使われない言葉です、賤民よりも低い立場で
この言葉はとても卑しい言葉になるんですよ・・・
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x
李氏朝鮮の妃嬪・宗室 princess and concubines in Joseon dynasty
http://hungmei.exblog.jp/9515163
李氏朝鮮の妃嬪・宗室(既見ドラマのみ)
韓国時代劇を見ながら、后妃や王子たちがたくさん登場するのでまとめてみました。その王の時代が舞台ってだけでなく、もろに宮廷闘争ものだと、登場人物のプロフィールを把握したほうが見やすいので・・。史実と違う脚色には面白さを覚えますし、逆に史実や稗史からこんな風に演出したのか、と気がつくと大変面白いです♪→「龍の涙」・「キム尚宮」(95)、「王と妃」(99)、「女人天下」(01)、「張禧嬪」・「王の女」(03)、「王と私」・「イ・サン」(07)、「大王世宗」(08)などなど。見ずらいですが、青い字は中文解説へ飛びます。
日本語版ダイジェスト「朝鮮王朝実録」や中国ウィキペディアなどから構成しています。
正室一覧、側室一覧、宗室一覧※王子、王族など
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初代太祖(李成桂、全州李氏出身)
※第二夫人の息子を世子にするも、前妻の子たちから総すかん。
神懿王后・韓氏(1337-91)
太祖の第一夫人で郷妻。太祖が王となる一年前に死亡。芳果(2代定宗)、芳幹、芳遠(3代太宗)の生母。ほか鎮安太君・芳雨、益安大君・芳毅、芳裄の六男と敬善、敬慎公主の生母。追号は定宗朝(この頃はまだ後宮制度が整わず位階がなかった)。
神徳王后・康氏(?-1396)
太祖の第二夫人。権門の生まれ。末息子の撫安大君・芳蕃、宣安太君・芳碩、敬順公主の生母。政治に影響を及ぼすが第一王子の乱がおき、両王子と娘とを殺される。太宗から何度も墓を移され尊号も剥奪、200年後の18代顕宗朝に復位。
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2代定宗(初代太祖の息子・芳果で太宗の兄)
粛宗朝で廟号がつくまで王として扱われなかった(明からの諡名のみ)。定安王后・金氏ほか7人の夫人、15人の息子、7人の娘。しかし保身にたけ長寿を全うする。
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3代太宗(初代太祖の息子芳遠で定宗の弟)
※何度も譲位騒ぎを起こした、王朝基礎固めをした厳しい王。「龍の涙」でおなじみ。
元敬王后・閔氏(1365-1420)
太宗の即位に尽力し、第一王子の乱でも活躍。王権強化のため後宮を増員しようとした太宗と対立、廃妃されかける。譲寧、孝寧、忠寧大君、貞順、慶貞、貞善公主の生母。ほか、側室の子に孝嬪・金氏から敬寧君、宣嬪・申氏から誠寧、温寧、勤寧君、善嬪・安氏から益寧君、淑儀・崔氏から喜寧君、安氏から恵寧君、崔氏から厚寧君がいる。
譲寧大君(1394-1462)
太宗の長男。素行不良で廃世子、臣下から弾劾されるも長寿。お忍び好き。
孝寧大君(1396-1486)
太宗の次男。兄の廃世子後、野心があったものの弟の忠寧が世子になると僧侶に。成宗朝まで生きて尊敬を集めたが、それが廃仏を主張する儒家から批判されることに。
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4代世宗(3代太宗の息子)
※李氏朝鮮歴代王のうち、最も多くの王子を得た(18人)。名君といえばこの王様。
昭憲王后・沈氏(1395-1446)
この頃から王妃を「中殿」と呼ぶ。5代文宗、7代世祖、安平、錦城大君など8人の王子、貞昭、貞懿公主の生母。青松沈氏出身で、子孫に13代明宗の王妃、20代景宗の初代世子嬪(端懿王后)。
安平大君(1418-53)
昭憲王后の子。当代一の書家とうたわれるが、兄弟の首陽大君(世祖)の癸酉靖難でファンボ・インらとともに賜死。「王と妃」では前半に出演、「張禧嬪」でのチャン・ヒジェの俳優さん。
広平大君(1425-44)
昭憲王后の子。太祖と神徳王后の息子・芳蕃の養子になり、父の世宗と従兄弟に。芳蕃の祭祀を担当するが19歳で夭折。芳蕃、芳碩兄弟ってどこまでも不幸?
錦城大君(1426-1457)
昭憲王后の子。太祖と神徳王后の息子・芳碩の養子に。兄弟の首陽大君による癸酉靖難に反対、甥の6代端宗復位計画が発覚し31歳処刑。芳碩の祭祀も絶えてしまう。
平原大君(1427-45)
昭憲王后の子。学問に優れていたが夭折し、8代睿宗次男・斉安大君が後を継いだ。
龟城君
世宗の孫で臨灜大君の息子。ハン・ミョンフェと対立し、これ以降王族は政治参与禁止に。
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5代文宗(4代世宗の長男)
長子相続を取りたい世宗の決断で早くから世子となり父王の摂政を務めたが、病弱で即位後2年で死亡。初代嬪宮・金氏、二代目・奉氏ともに不和で実家へ戻す(廃位とは違うの?金氏は恥辱と父と無理心中)。三代目嬪宮に顕徳王后・権氏がおり、6代端宗生母。
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6代端宗(5代文宗の長男)
歴代最も幼い11歳で即位、叔父の首陽大君(世祖)に殺害。定順王后・宋氏は廃妃。首吊り自殺説、毒殺説があるが、「王と妃」では絞殺のうえ川に遺体が捨てられる。宋氏の縫った衣装をいとおしむところも泣け、彼が死ぬ89話まではイタイ。
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7代世祖(4代世宗の息子で、5代文宗の兄弟、6代端宗の叔父)
※幼い甥から王位簒奪した弱みがあるが、有能な王様らしい。墓改革の人。
貞喜王后・尹氏(1418-83)
8代睿宗、世子時代に死んだ徳宗(桃源君)の生母。李氏朝鮮初の垂簾聴政を行う。嫡孫(睿宗息子)の斉安大君がいたが、睿宗死後は孫の者乙山君(成宗)を後継者に。ドラマだと穏やかな性格が多い。昭恵王后がキョーレツだから?史実ではもうちょっと強そう。
徳宗/懿敬世子(1437-57)
貞喜王后の子で、世子時代に夭折。次男が成宗となり徳宗と追号。ほか息子に月山大君。
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8代睿宗(世祖と貞喜王后の子、徳宗の弟)
※7歳で世子に、18歳で即位するも、1年未満で病死。
章順王后・韓氏(1445-61)
世祖とともに癸酉靖難を推進したハン・ミョンフェの娘。成宗妃・恭恵王后の姉で親等でいくと姑(父の姉妹)。世孫・仁城大君を産むが夭折、自身も産後16歳で死亡。
安順王后・韓氏(?-1498)
世子時代の睿宗と結婚、夫の即位に伴い王妃となるが、睿宗死後に仁恵大妃に。その後、明懿大妃。燕山君朝に死亡。斉安大君と顕粛公主の生母。「王と妃」に登場。
斉安大君(1466-1525)
安順王后の子で睿宗の嫡次男。睿宗死後、彼は世子にはならず、祖母の貞喜王后の意向で従兄弟の成宗が即位。世宗の子・平原大君の養子に。11歳で金氏と結婚するが母の安順王后が追い出し、13歳で朴氏と再婚するも、成宗のとりなしで再び金氏と結婚。親孝行で母の死後は女性を遠ざけた。燕山君に張緑水を紹介したのでも有名。保身うまそう。
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9代成宗(世祖孫、徳宗の次男)
※王朝の基礎固めをしたが、初めて離婚した王様。廃妃尹氏のエピソードで有名?
昭恵王后・韓氏(1437-1504)
世祖の長男・徳宗の正室で綏嬪、仁粹大妃。長男・月山大君、次男・者乙山君を産んだ。夫は即位せず死んだので掟に習い実家に戻ったが、次男が成宗となり王妃に、ついで仁綏大妃へ。嫁の尹氏と不仲で、そのため孫の燕山君と対立、謀殺説もある。
恭恵王后・韓氏(1456-74)
ハン・ミョンフェの次女。姉は先代・睿宗の正室である章順大后。姉妹ともども10代で夭折し、他の王族の死とともに端宗と顕徳王后の祟りとされた。
廃妃尹氏(?-1482)
はじめ淑儀になり、二代目王妃に。世子で長子の燕山君を産むが素行不良で賜死。復位の動きもあったが貞喜・昭恵王后が反対。墓も粗末で実子の燕山君による甲子士禍の引き金に。燕山君によって斉敬王后と追号されるも、11代中宗が即位すると廃妃に戻る。「王と私」のヒロイン、「王と妃」では怨念全開。
貞顕王后・尹氏(1462-1530)
三代目の王妃。燕山君の弟、晉城大君(のちの11代中宗)の生母。はじめ淑儀。以後、慈順大妃となり、ほか娘の慎淑公主がいる。成宗と同葬。「女人天下」ではイ・ボヒが演じる。
月山君夫人
成宗兄の月山君の後妻。美人の誉れ高く燕山君に強姦され自決。「王と妃」では、関係はないものの燕山君から「母になってください」とせがまれ、昭恵王后から釘を刺されていた。
厳貴人、鄭貴人
成宗の側室。鄭貴人には安陽君と鳳安君がいるが、燕山君によって全員殺害。
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10代燕山君(成宗の長男、廃妃尹氏の子で11代中宗の兄)
稀代の暴君、ドラマだと母親にこだわりまくってコワイ。映像化も多い。廃妃慎氏((燕山君側近の慎守勤の妹で、夫の廃位とともに廃妃)、後宮から四男二女をもうけるが全員賜死(暴君の子の末路は悲惨?)。妓生出の側室で三大妖婦の一人・張緑水がいるが廃位とともに処刑された。
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11代中宗(9代成宗の子、10代燕山君の弟)
※初めて臣下クーデターにより擁立された。そのせいかドラマでは頼りなさげに登場。
端敬王后・慎氏(1487-1557)
燕山君の正室の姪(慎守勤の娘)のため廃妃。中宗との仲は特別でチマ岩伝説で有名。21代英祖朝に復位、追号。「女人天下」の宮廷シーンは彼女の廃位で始まる!
章敬王后・尹氏(1491-1515)
外従母の月山君夫人・朴氏に養育。淑儀となり、のち二代目王妃に。12代仁宗を産むが産褥で死亡。娘に孝恵公主がいるが仁宗とも夭折。みんな若死にで「女人天下」だと犠牲者。
文定王后・尹氏(1501-65)
最初から王妃として宮中へ。前王妃と同じ坡平尹氏。13代明宗を産み仏教を信仰、権勢を振るう。弟の妾で妓生の鄭蘭貞を側近にし悪后との評判。「女人天下」ではチョン・インファ。チャングムではいい人キャラらしいです。
敬嬪・朴氏(?-1533)
はじめ中宗の寵愛を受け、福城君、恵順・恵静翁主をもうける。章敬王妃の産んだ世子(仁宗)を支持するキム・アンロらを流刑にするが、灼鼠之变によって息子と共に賜死。
煕嬪・洪氏(1494-1581)
13歳で宮中入り、中宗との間に5人の息子をもうけるが3人は夭折。1547年に鳳城君は19歳で賜死、62年に錦原君は50歳で死亡。彼女は88歳まで生きた。
昌嬪・安氏(1498-1549)
生前は淑容(正三品)だが、彼女の孫・宣祖が即位し死後に嬪(正一品)へ格上げ。
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12代仁宗(中宗の長子、章敬王后の子)
朝鮮歴代王で最も短い治世の王。焼鼠の変で有名。即位後8ヶ月で原因不明の病気により死亡、在位が短く葬儀が簡略化というかわいそうな人。仁聖王后・朴氏、鄭貴人がいるが、子女はなし。仁聖王后は夫の死後32年間生き、のち仁宗とともに埋葬された。「女人天下」での悲しき犠牲者で、文定王后や敬嬪のイビリに耐え、前述の変で焼き殺されそうになるも「お母様方の気が済むなら」とどこまでも泣かせる世子だった。
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13代明宗(中宗と文定王后の子、仁宗の弟)
11歳で即位、生母の文定王后の垂簾聴政を受け、苦労した王様。世子時代には許婚が病弱で世子嬪候補交替劇も。家族に順懐世子とその生母仁順王后・沈氏。しかし世子は12・3歳で夭折、嫡流後継不在になり王位は傍系に流れた。
王妃、王大妃、大王大妃の違いについて
歴代の王世子嬪、王世孫嬪(※)
※王世孫(王の孫で、大体は世子の息子。既に世子の次の王位継承者に指名)の正室。
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14代・宣祖(徳興大院君の三男・河城君。中宗の孫。)
※初めての傍系出身の王様、自らの跡継ぎ問題でも14人の王子がおり嫡庶で大もめ。
懿仁王后・朴氏(1555-1600)
初代王妃だが病弱で子がなく45歳で死亡。ドラマだと前振りのみ登場でで余計哀れ。
仁穆王后・金氏(1548-1632)
18歳で50代の宣祖の継妃に。嫡子永昌大君を産むが光海君により殺され、自身も十数年間幽閉。ほか貞明公主。ハングル文字で懿旨を下し仁祖反正を支持。彼女直筆の「宝文経」が現存する。「王の女」ホン・スヒョンより「キム尚書」イ・ボヒの方がいい。貞明公主は夭折する王女が多い中、最長寿らしい。
仁嬪・金氏(1555-1613)
宣祖が最も長く寵愛した後宮で水汲みのムスリ出身。信城君は王位継承候補だったが倭乱時に病死。宣祖の死によって宮中を出るが、息子の定遠君の子・綾陽大君が仁祖として即位、王の祖母に。「キム尚宮」(95)や「王の女」(03)では実兄とともに光海君のライバル。
恭嬪・金氏(1553-1577)
長子・臨海君と次子・光海君の生母。比較的すぐ亡くなるが嫡子が不在だっため、二人の息子は宣祖の跡継ぎとして有力視された。ドラマだと生きた姿で見たことないが、ホジュンで活躍らしい。
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15代・光海君(宣祖の次子、庶出)
※父王時代からの庶出継承者問題で苦労、革新的政策を推進するも仁祖反正で廃位。
金尚宮
父・宣祖の後宮だったが、義理の息子たる光海君の愛人となり権勢を振るう。光海君廃位後殺される。張千三大妖婦にたまに入る(ほか張禧嬪、張緑水、鄭蘭貞)。
臨海君
光海君の同母兄だが、素行が乱暴で父の宣祖から疎まれる。倭乱で捕虜になったり国のために尽力したが、光海君により殺害。「王の女」ではかっこよく描かれている。
廃妃・柳氏、廃世子・チル
ともに夫/父の廃位で流刑になり、妻は精神を病んで死亡、息子は逃亡を図り殺される。
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16代仁祖(宣祖の孫、光海君の甥)
※光海君の親後金政策に反対しクーデターで即位するも、清に屈服するはめに。
仁烈王后・韓氏(1594-1635)
即位前の綾陽大君と結婚、昭顕世子など四男を産む。41歳で死亡。
荘烈王后・趙氏
二代目王妃。14歳で43歳の仁祖と結婚。子はなく26歳で死別。孝宗の死後、彼女の喪礼が政治問題化。仁祖と別葬。「張禧嬪」ではカン・プジャが演じる意地悪な長老ババア(笑)。「妖婦・・」ではキム・ヨンエ。
昭顕世子(1612-45)
仁祖の長男で母は仁烈王后。1636年、三田渡の屈辱で弟の鳳林大君と清へ人質に。瀋陽で8年過ごし帰国するが、2ヵ月後に死亡。不仲の父・仁祖による毒殺説も。「必勝チル」など。
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17代孝宗(仁祖の息子、昭顕世子の弟)
反清に燃えるものの実行には移せず。仁宣王后・張氏(1618-74)は孝宗より一歳年上。世子嬪として夫とともに清で人質生活を送り、孝宗即位後には王妃に。顕宗、淑敬公主など六女をもうけた。ほか、安嬪・李氏との間に一女。
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18代顕宗(孝宗の息子)
朝鮮歴代王で唯一、後宮(側室)のいない王様。正室の明聖王后・金氏(1642-83)は9歳で世子嬪に冊立、夫の即位で王妃となり、感情的で荒っぽかった。19代粛宗の生母。粛宗時代は政治に介入し文定王后の再来と言われたことも。1675年の紅袖之変(粛宗時代、顕宗の従兄弟である福昌(善)君・福平君が宮女を妊娠させた事件)では粛宗に激しく意見。
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19代粛宗(顕宗の一人息子、嫡出)
※換局政治を行い、最後の強い王権を誇った王様。でも後宮ではトラブル続き。
仁敬王后・金氏(1661-80)
世子時代からの粛宗の正室だが、天然痘で死亡。王への罹患を恐れた明聖王后の妨害で、粛宗は彼女の病中、まったく会えなかったらしい。
仁顕王后・閔氏(1667-1701)
二代目王妃。子はない。己乙換局で廃位されるが6年後の甲戌獄事で復位。34歳で死亡。宮女が彼女を主人公にして書いた「仁顕王后伝」が伝わる。粛宗と合葬。
仁元王后・金氏(1687-1757)
三代目王妃。子はなく英祖の即位で大王大妃に。死後、仁顕王后・粛宗とともに合葬。
張禧嬪(1659-1701)
父は不明。通訳官の姪で、中人階級出身。王族の東平君と荘烈王后の後押しで宮女、のち淑儀に。景宗の生母で嬪に昇格。一時は王妃となるが嬪に降格、呪い事件で賜死。三大妖婦の一人。悪女ドラマの女王でキム・ヘス、チョン・イナらが演じる。
淑嬪・崔氏(1670-1718)
非常に低い出身で、宮廷でも最下層の針房に勤めていたが、粛宗の淑儀に。21代英祖を産み、嬪に昇格。史実では不美人らしいがドラマでは美人・・。手がごついらしい。
明嬪・朴氏(?-1703)
景宗、英祖の兄弟延龄君の生母。「張禧嬪」では一切出ない。延龄君は夭折。
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20代景宗(粛宗の長子、英祖の兄)
※母の賜死を13歳で目撃、臣下を抑えることが出来ず、不能の噂もある悲しい王様。
「朝鮮王朝史」(日本評論社)によると禧嬪死後は粛宗から疎んじられ鬱病になったらしい。
端懿王后・沈氏(1686-1718)
10歳で世子嬪冊立、世宗の妃らを輩出した名門。「張禧嬪」ではすごく出来たお嫁さん。
宣懿王后・魚氏(1705-30)
世子嬪に冊立され、景宗即位で王妃に。英祖即位で大妃になるが、その後25歳で死亡。
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21代英祖(粛宗の次子、景宗の弟)
※生母の身分が低く苦労し、兄の健康問題で早くから王世弟(※)に。
貞聖王后・徐氏(1692-1757)
12歳で即位前の延礽君(英祖)と結婚。長く仕えるが子どもはなし。
貞純王后・金氏(1745-1805)
14歳で65歳の英祖と結婚したスゴイ運命の人。思悼世子を嫌い、政治にも介入。
孝章世子(1719-28)
英祖の長子で靖嬪・李氏所出。妃は孝純王后。9歳で病死、真宗と追号。22代正祖養父。
思悼世子/荘敬世子(1735-63)
英祖の次子で映嬪・李氏が生母。異母兄の孝章世子は夭折、遅く出来た子で1歳で世子に。9歳で恵嬪・洪氏と結婚、別宮に住む。義母の貞純王后に疎まれ英祖から誤解をされ、米櫃に閉じ込められ8日目に餓死、享年27歳。息子の正祖が即位し荘祖に追号。
恵嬪・洪氏/恵慶宮/献敬王后(1735-1815)
正祖の生母で思悼世子の正室。夫の死後、恵嬪となり、また荘祖となるとともに献敬王后に追尊。恵慶宮として有名。父と叔父が夫を弾劾する立場におり、夫の惨事を中心とした自伝「恨中録」をしるし宮中文学の祖に。(祖がこんな暗い宮中文学って・・・)。
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22代正祖(英祖の孫、思悼世子の息子)
父から始まり、自分の息子の悲劇もあり映像化度高しのエピソード王?孝懿王后・金氏は9歳で世孫妃に冊立。姑の恵嬪・洪氏や、英祖の継妃・貞純王后からも愛された徳の高い人らしい。子どもはなく、生前おくられた尊号は総て辞退。ほか宣嬪・成氏から文孝世子(夭折)を、綏嬪・朴氏から23代純祖と淑善翁主が生まれた。
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26代高宗(仁祖の8世孫)
※第21代王英祖の子・荘献世子の三男・恩信君の養子である南延君の四男・興宣大院君の次男というすごい傍系。母は驪興府大夫人閔氏。この人から朝鮮は大韓帝国となり、自身も初代皇帝に。
明成皇后・閔氏(1851-1895)
舅の興宣大院君の夫人の勧めで入宮するが、次第に親日派の興宣大院君と対立。日本からの独立を目指し政治に介入、甲未事変で日本軍により殺害された。純宗の実母。2001年ドラマ「明成皇后」がある。中国では「朝鮮皇后」とも。
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27代純宗(高宗と明成皇后の子)
大韓帝国二代皇帝、日韓併合後は初代李王。李氏朝鮮王朝最後の王。純明孝皇后・閔氏、継妃に純貞孝皇后・尹氏がいるが、子がなく皇太子は異母弟の英親王。
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※長子/嫡子相続が原則のため、本来は景宗の息子が世子になるはず。しかしこの場合は父・粛宗により「病弱で子どもが出来ない」と弟が次の王位継承者として指名されていた。19粛宗(父)→20景宗(兄)→21英祖(弟)、となる。は3代太宗も本当は2代定宗の「王世弟」だが、当時は朱子学が輸入されて浅く大義名分を必要としたため「世子」とした。
李氏朝鮮の妃嬪・宗室(既見ドラマのみ)
韓国時代劇を見ながら、后妃や王子たちがたくさん登場するのでまとめてみました。その王の時代が舞台ってだけでなく、もろに宮廷闘争ものだと、登場人物のプロフィールを把握したほうが見やすいので・・。史実と違う脚色には面白さを覚えますし、逆に史実や稗史からこんな風に演出したのか、と気がつくと大変面白いです♪→「龍の涙」・「キム尚宮」(95)、「王と妃」(99)、「女人天下」(01)、「張禧嬪」・「王の女」(03)、「王と私」・「イ・サン」(07)、「大王世宗」(08)などなど。見ずらいですが、青い字は中文解説へ飛びます。
日本語版ダイジェスト「朝鮮王朝実録」や中国ウィキペディアなどから構成しています。
正室一覧、側室一覧、宗室一覧※王子、王族など
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初代太祖(李成桂、全州李氏出身)
※第二夫人の息子を世子にするも、前妻の子たちから総すかん。
神懿王后・韓氏(1337-91)
太祖の第一夫人で郷妻。太祖が王となる一年前に死亡。芳果(2代定宗)、芳幹、芳遠(3代太宗)の生母。ほか鎮安太君・芳雨、益安大君・芳毅、芳裄の六男と敬善、敬慎公主の生母。追号は定宗朝(この頃はまだ後宮制度が整わず位階がなかった)。
神徳王后・康氏(?-1396)
太祖の第二夫人。権門の生まれ。末息子の撫安大君・芳蕃、宣安太君・芳碩、敬順公主の生母。政治に影響を及ぼすが第一王子の乱がおき、両王子と娘とを殺される。太宗から何度も墓を移され尊号も剥奪、200年後の18代顕宗朝に復位。
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2代定宗(初代太祖の息子・芳果で太宗の兄)
粛宗朝で廟号がつくまで王として扱われなかった(明からの諡名のみ)。定安王后・金氏ほか7人の夫人、15人の息子、7人の娘。しかし保身にたけ長寿を全うする。
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3代太宗(初代太祖の息子芳遠で定宗の弟)
※何度も譲位騒ぎを起こした、王朝基礎固めをした厳しい王。「龍の涙」でおなじみ。
元敬王后・閔氏(1365-1420)
太宗の即位に尽力し、第一王子の乱でも活躍。王権強化のため後宮を増員しようとした太宗と対立、廃妃されかける。譲寧、孝寧、忠寧大君、貞順、慶貞、貞善公主の生母。ほか、側室の子に孝嬪・金氏から敬寧君、宣嬪・申氏から誠寧、温寧、勤寧君、善嬪・安氏から益寧君、淑儀・崔氏から喜寧君、安氏から恵寧君、崔氏から厚寧君がいる。
譲寧大君(1394-1462)
太宗の長男。素行不良で廃世子、臣下から弾劾されるも長寿。お忍び好き。
孝寧大君(1396-1486)
太宗の次男。兄の廃世子後、野心があったものの弟の忠寧が世子になると僧侶に。成宗朝まで生きて尊敬を集めたが、それが廃仏を主張する儒家から批判されることに。
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4代世宗(3代太宗の息子)
※李氏朝鮮歴代王のうち、最も多くの王子を得た(18人)。名君といえばこの王様。
昭憲王后・沈氏(1395-1446)
この頃から王妃を「中殿」と呼ぶ。5代文宗、7代世祖、安平、錦城大君など8人の王子、貞昭、貞懿公主の生母。青松沈氏出身で、子孫に13代明宗の王妃、20代景宗の初代世子嬪(端懿王后)。
安平大君(1418-53)
昭憲王后の子。当代一の書家とうたわれるが、兄弟の首陽大君(世祖)の癸酉靖難でファンボ・インらとともに賜死。「王と妃」では前半に出演、「張禧嬪」でのチャン・ヒジェの俳優さん。
広平大君(1425-44)
昭憲王后の子。太祖と神徳王后の息子・芳蕃の養子になり、父の世宗と従兄弟に。芳蕃の祭祀を担当するが19歳で夭折。芳蕃、芳碩兄弟ってどこまでも不幸?
錦城大君(1426-1457)
昭憲王后の子。太祖と神徳王后の息子・芳碩の養子に。兄弟の首陽大君による癸酉靖難に反対、甥の6代端宗復位計画が発覚し31歳処刑。芳碩の祭祀も絶えてしまう。
平原大君(1427-45)
昭憲王后の子。学問に優れていたが夭折し、8代睿宗次男・斉安大君が後を継いだ。
龟城君
世宗の孫で臨灜大君の息子。ハン・ミョンフェと対立し、これ以降王族は政治参与禁止に。
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5代文宗(4代世宗の長男)
長子相続を取りたい世宗の決断で早くから世子となり父王の摂政を務めたが、病弱で即位後2年で死亡。初代嬪宮・金氏、二代目・奉氏ともに不和で実家へ戻す(廃位とは違うの?金氏は恥辱と父と無理心中)。三代目嬪宮に顕徳王后・権氏がおり、6代端宗生母。
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6代端宗(5代文宗の長男)
歴代最も幼い11歳で即位、叔父の首陽大君(世祖)に殺害。定順王后・宋氏は廃妃。首吊り自殺説、毒殺説があるが、「王と妃」では絞殺のうえ川に遺体が捨てられる。宋氏の縫った衣装をいとおしむところも泣け、彼が死ぬ89話まではイタイ。
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7代世祖(4代世宗の息子で、5代文宗の兄弟、6代端宗の叔父)
※幼い甥から王位簒奪した弱みがあるが、有能な王様らしい。墓改革の人。
貞喜王后・尹氏(1418-83)
8代睿宗、世子時代に死んだ徳宗(桃源君)の生母。李氏朝鮮初の垂簾聴政を行う。嫡孫(睿宗息子)の斉安大君がいたが、睿宗死後は孫の者乙山君(成宗)を後継者に。ドラマだと穏やかな性格が多い。昭恵王后がキョーレツだから?史実ではもうちょっと強そう。
徳宗/懿敬世子(1437-57)
貞喜王后の子で、世子時代に夭折。次男が成宗となり徳宗と追号。ほか息子に月山大君。
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8代睿宗(世祖と貞喜王后の子、徳宗の弟)
※7歳で世子に、18歳で即位するも、1年未満で病死。
章順王后・韓氏(1445-61)
世祖とともに癸酉靖難を推進したハン・ミョンフェの娘。成宗妃・恭恵王后の姉で親等でいくと姑(父の姉妹)。世孫・仁城大君を産むが夭折、自身も産後16歳で死亡。
安順王后・韓氏(?-1498)
世子時代の睿宗と結婚、夫の即位に伴い王妃となるが、睿宗死後に仁恵大妃に。その後、明懿大妃。燕山君朝に死亡。斉安大君と顕粛公主の生母。「王と妃」に登場。
斉安大君(1466-1525)
安順王后の子で睿宗の嫡次男。睿宗死後、彼は世子にはならず、祖母の貞喜王后の意向で従兄弟の成宗が即位。世宗の子・平原大君の養子に。11歳で金氏と結婚するが母の安順王后が追い出し、13歳で朴氏と再婚するも、成宗のとりなしで再び金氏と結婚。親孝行で母の死後は女性を遠ざけた。燕山君に張緑水を紹介したのでも有名。保身うまそう。
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9代成宗(世祖孫、徳宗の次男)
※王朝の基礎固めをしたが、初めて離婚した王様。廃妃尹氏のエピソードで有名?
昭恵王后・韓氏(1437-1504)
世祖の長男・徳宗の正室で綏嬪、仁粹大妃。長男・月山大君、次男・者乙山君を産んだ。夫は即位せず死んだので掟に習い実家に戻ったが、次男が成宗となり王妃に、ついで仁綏大妃へ。嫁の尹氏と不仲で、そのため孫の燕山君と対立、謀殺説もある。
恭恵王后・韓氏(1456-74)
ハン・ミョンフェの次女。姉は先代・睿宗の正室である章順大后。姉妹ともども10代で夭折し、他の王族の死とともに端宗と顕徳王后の祟りとされた。
廃妃尹氏(?-1482)
はじめ淑儀になり、二代目王妃に。世子で長子の燕山君を産むが素行不良で賜死。復位の動きもあったが貞喜・昭恵王后が反対。墓も粗末で実子の燕山君による甲子士禍の引き金に。燕山君によって斉敬王后と追号されるも、11代中宗が即位すると廃妃に戻る。「王と私」のヒロイン、「王と妃」では怨念全開。
貞顕王后・尹氏(1462-1530)
三代目の王妃。燕山君の弟、晉城大君(のちの11代中宗)の生母。はじめ淑儀。以後、慈順大妃となり、ほか娘の慎淑公主がいる。成宗と同葬。「女人天下」ではイ・ボヒが演じる。
月山君夫人
成宗兄の月山君の後妻。美人の誉れ高く燕山君に強姦され自決。「王と妃」では、関係はないものの燕山君から「母になってください」とせがまれ、昭恵王后から釘を刺されていた。
厳貴人、鄭貴人
成宗の側室。鄭貴人には安陽君と鳳安君がいるが、燕山君によって全員殺害。
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10代燕山君(成宗の長男、廃妃尹氏の子で11代中宗の兄)
稀代の暴君、ドラマだと母親にこだわりまくってコワイ。映像化も多い。廃妃慎氏((燕山君側近の慎守勤の妹で、夫の廃位とともに廃妃)、後宮から四男二女をもうけるが全員賜死(暴君の子の末路は悲惨?)。妓生出の側室で三大妖婦の一人・張緑水がいるが廃位とともに処刑された。
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11代中宗(9代成宗の子、10代燕山君の弟)
※初めて臣下クーデターにより擁立された。そのせいかドラマでは頼りなさげに登場。
端敬王后・慎氏(1487-1557)
燕山君の正室の姪(慎守勤の娘)のため廃妃。中宗との仲は特別でチマ岩伝説で有名。21代英祖朝に復位、追号。「女人天下」の宮廷シーンは彼女の廃位で始まる!
章敬王后・尹氏(1491-1515)
外従母の月山君夫人・朴氏に養育。淑儀となり、のち二代目王妃に。12代仁宗を産むが産褥で死亡。娘に孝恵公主がいるが仁宗とも夭折。みんな若死にで「女人天下」だと犠牲者。
文定王后・尹氏(1501-65)
最初から王妃として宮中へ。前王妃と同じ坡平尹氏。13代明宗を産み仏教を信仰、権勢を振るう。弟の妾で妓生の鄭蘭貞を側近にし悪后との評判。「女人天下」ではチョン・インファ。チャングムではいい人キャラらしいです。
敬嬪・朴氏(?-1533)
はじめ中宗の寵愛を受け、福城君、恵順・恵静翁主をもうける。章敬王妃の産んだ世子(仁宗)を支持するキム・アンロらを流刑にするが、灼鼠之变によって息子と共に賜死。
煕嬪・洪氏(1494-1581)
13歳で宮中入り、中宗との間に5人の息子をもうけるが3人は夭折。1547年に鳳城君は19歳で賜死、62年に錦原君は50歳で死亡。彼女は88歳まで生きた。
昌嬪・安氏(1498-1549)
生前は淑容(正三品)だが、彼女の孫・宣祖が即位し死後に嬪(正一品)へ格上げ。
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12代仁宗(中宗の長子、章敬王后の子)
朝鮮歴代王で最も短い治世の王。焼鼠の変で有名。即位後8ヶ月で原因不明の病気により死亡、在位が短く葬儀が簡略化というかわいそうな人。仁聖王后・朴氏、鄭貴人がいるが、子女はなし。仁聖王后は夫の死後32年間生き、のち仁宗とともに埋葬された。「女人天下」での悲しき犠牲者で、文定王后や敬嬪のイビリに耐え、前述の変で焼き殺されそうになるも「お母様方の気が済むなら」とどこまでも泣かせる世子だった。
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13代明宗(中宗と文定王后の子、仁宗の弟)
11歳で即位、生母の文定王后の垂簾聴政を受け、苦労した王様。世子時代には許婚が病弱で世子嬪候補交替劇も。家族に順懐世子とその生母仁順王后・沈氏。しかし世子は12・3歳で夭折、嫡流後継不在になり王位は傍系に流れた。
王妃、王大妃、大王大妃の違いについて
歴代の王世子嬪、王世孫嬪(※)
※王世孫(王の孫で、大体は世子の息子。既に世子の次の王位継承者に指名)の正室。
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14代・宣祖(徳興大院君の三男・河城君。中宗の孫。)
※初めての傍系出身の王様、自らの跡継ぎ問題でも14人の王子がおり嫡庶で大もめ。
懿仁王后・朴氏(1555-1600)
初代王妃だが病弱で子がなく45歳で死亡。ドラマだと前振りのみ登場でで余計哀れ。
仁穆王后・金氏(1548-1632)
18歳で50代の宣祖の継妃に。嫡子永昌大君を産むが光海君により殺され、自身も十数年間幽閉。ほか貞明公主。ハングル文字で懿旨を下し仁祖反正を支持。彼女直筆の「宝文経」が現存する。「王の女」ホン・スヒョンより「キム尚書」イ・ボヒの方がいい。貞明公主は夭折する王女が多い中、最長寿らしい。
仁嬪・金氏(1555-1613)
宣祖が最も長く寵愛した後宮で水汲みのムスリ出身。信城君は王位継承候補だったが倭乱時に病死。宣祖の死によって宮中を出るが、息子の定遠君の子・綾陽大君が仁祖として即位、王の祖母に。「キム尚宮」(95)や「王の女」(03)では実兄とともに光海君のライバル。
恭嬪・金氏(1553-1577)
長子・臨海君と次子・光海君の生母。比較的すぐ亡くなるが嫡子が不在だっため、二人の息子は宣祖の跡継ぎとして有力視された。ドラマだと生きた姿で見たことないが、ホジュンで活躍らしい。
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15代・光海君(宣祖の次子、庶出)
※父王時代からの庶出継承者問題で苦労、革新的政策を推進するも仁祖反正で廃位。
金尚宮
父・宣祖の後宮だったが、義理の息子たる光海君の愛人となり権勢を振るう。光海君廃位後殺される。張千三大妖婦にたまに入る(ほか張禧嬪、張緑水、鄭蘭貞)。
臨海君
光海君の同母兄だが、素行が乱暴で父の宣祖から疎まれる。倭乱で捕虜になったり国のために尽力したが、光海君により殺害。「王の女」ではかっこよく描かれている。
廃妃・柳氏、廃世子・チル
ともに夫/父の廃位で流刑になり、妻は精神を病んで死亡、息子は逃亡を図り殺される。
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16代仁祖(宣祖の孫、光海君の甥)
※光海君の親後金政策に反対しクーデターで即位するも、清に屈服するはめに。
仁烈王后・韓氏(1594-1635)
即位前の綾陽大君と結婚、昭顕世子など四男を産む。41歳で死亡。
荘烈王后・趙氏
二代目王妃。14歳で43歳の仁祖と結婚。子はなく26歳で死別。孝宗の死後、彼女の喪礼が政治問題化。仁祖と別葬。「張禧嬪」ではカン・プジャが演じる意地悪な長老ババア(笑)。「妖婦・・」ではキム・ヨンエ。
昭顕世子(1612-45)
仁祖の長男で母は仁烈王后。1636年、三田渡の屈辱で弟の鳳林大君と清へ人質に。瀋陽で8年過ごし帰国するが、2ヵ月後に死亡。不仲の父・仁祖による毒殺説も。「必勝チル」など。
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17代孝宗(仁祖の息子、昭顕世子の弟)
反清に燃えるものの実行には移せず。仁宣王后・張氏(1618-74)は孝宗より一歳年上。世子嬪として夫とともに清で人質生活を送り、孝宗即位後には王妃に。顕宗、淑敬公主など六女をもうけた。ほか、安嬪・李氏との間に一女。
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18代顕宗(孝宗の息子)
朝鮮歴代王で唯一、後宮(側室)のいない王様。正室の明聖王后・金氏(1642-83)は9歳で世子嬪に冊立、夫の即位で王妃となり、感情的で荒っぽかった。19代粛宗の生母。粛宗時代は政治に介入し文定王后の再来と言われたことも。1675年の紅袖之変(粛宗時代、顕宗の従兄弟である福昌(善)君・福平君が宮女を妊娠させた事件)では粛宗に激しく意見。
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19代粛宗(顕宗の一人息子、嫡出)
※換局政治を行い、最後の強い王権を誇った王様。でも後宮ではトラブル続き。
仁敬王后・金氏(1661-80)
世子時代からの粛宗の正室だが、天然痘で死亡。王への罹患を恐れた明聖王后の妨害で、粛宗は彼女の病中、まったく会えなかったらしい。
仁顕王后・閔氏(1667-1701)
二代目王妃。子はない。己乙換局で廃位されるが6年後の甲戌獄事で復位。34歳で死亡。宮女が彼女を主人公にして書いた「仁顕王后伝」が伝わる。粛宗と合葬。
仁元王后・金氏(1687-1757)
三代目王妃。子はなく英祖の即位で大王大妃に。死後、仁顕王后・粛宗とともに合葬。
張禧嬪(1659-1701)
父は不明。通訳官の姪で、中人階級出身。王族の東平君と荘烈王后の後押しで宮女、のち淑儀に。景宗の生母で嬪に昇格。一時は王妃となるが嬪に降格、呪い事件で賜死。三大妖婦の一人。悪女ドラマの女王でキム・ヘス、チョン・イナらが演じる。
淑嬪・崔氏(1670-1718)
非常に低い出身で、宮廷でも最下層の針房に勤めていたが、粛宗の淑儀に。21代英祖を産み、嬪に昇格。史実では不美人らしいがドラマでは美人・・。手がごついらしい。
明嬪・朴氏(?-1703)
景宗、英祖の兄弟延龄君の生母。「張禧嬪」では一切出ない。延龄君は夭折。
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20代景宗(粛宗の長子、英祖の兄)
※母の賜死を13歳で目撃、臣下を抑えることが出来ず、不能の噂もある悲しい王様。
「朝鮮王朝史」(日本評論社)によると禧嬪死後は粛宗から疎んじられ鬱病になったらしい。
端懿王后・沈氏(1686-1718)
10歳で世子嬪冊立、世宗の妃らを輩出した名門。「張禧嬪」ではすごく出来たお嫁さん。
宣懿王后・魚氏(1705-30)
世子嬪に冊立され、景宗即位で王妃に。英祖即位で大妃になるが、その後25歳で死亡。
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21代英祖(粛宗の次子、景宗の弟)
※生母の身分が低く苦労し、兄の健康問題で早くから王世弟(※)に。
貞聖王后・徐氏(1692-1757)
12歳で即位前の延礽君(英祖)と結婚。長く仕えるが子どもはなし。
貞純王后・金氏(1745-1805)
14歳で65歳の英祖と結婚したスゴイ運命の人。思悼世子を嫌い、政治にも介入。
孝章世子(1719-28)
英祖の長子で靖嬪・李氏所出。妃は孝純王后。9歳で病死、真宗と追号。22代正祖養父。
思悼世子/荘敬世子(1735-63)
英祖の次子で映嬪・李氏が生母。異母兄の孝章世子は夭折、遅く出来た子で1歳で世子に。9歳で恵嬪・洪氏と結婚、別宮に住む。義母の貞純王后に疎まれ英祖から誤解をされ、米櫃に閉じ込められ8日目に餓死、享年27歳。息子の正祖が即位し荘祖に追号。
恵嬪・洪氏/恵慶宮/献敬王后(1735-1815)
正祖の生母で思悼世子の正室。夫の死後、恵嬪となり、また荘祖となるとともに献敬王后に追尊。恵慶宮として有名。父と叔父が夫を弾劾する立場におり、夫の惨事を中心とした自伝「恨中録」をしるし宮中文学の祖に。(祖がこんな暗い宮中文学って・・・)。
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22代正祖(英祖の孫、思悼世子の息子)
父から始まり、自分の息子の悲劇もあり映像化度高しのエピソード王?孝懿王后・金氏は9歳で世孫妃に冊立。姑の恵嬪・洪氏や、英祖の継妃・貞純王后からも愛された徳の高い人らしい。子どもはなく、生前おくられた尊号は総て辞退。ほか宣嬪・成氏から文孝世子(夭折)を、綏嬪・朴氏から23代純祖と淑善翁主が生まれた。
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26代高宗(仁祖の8世孫)
※第21代王英祖の子・荘献世子の三男・恩信君の養子である南延君の四男・興宣大院君の次男というすごい傍系。母は驪興府大夫人閔氏。この人から朝鮮は大韓帝国となり、自身も初代皇帝に。
明成皇后・閔氏(1851-1895)
舅の興宣大院君の夫人の勧めで入宮するが、次第に親日派の興宣大院君と対立。日本からの独立を目指し政治に介入、甲未事変で日本軍により殺害された。純宗の実母。2001年ドラマ「明成皇后」がある。中国では「朝鮮皇后」とも。
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27代純宗(高宗と明成皇后の子)
大韓帝国二代皇帝、日韓併合後は初代李王。李氏朝鮮王朝最後の王。純明孝皇后・閔氏、継妃に純貞孝皇后・尹氏がいるが、子がなく皇太子は異母弟の英親王。
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※長子/嫡子相続が原則のため、本来は景宗の息子が世子になるはず。しかしこの場合は父・粛宗により「病弱で子どもが出来ない」と弟が次の王位継承者として指名されていた。19粛宗(父)→20景宗(兄)→21英祖(弟)、となる。は3代太宗も本当は2代定宗の「王世弟」だが、当時は朱子学が輸入されて浅く大義名分を必要としたため「世子」とした。
the list of queens in Joseon 朝鮮王妃一覧
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朝鮮王妃一覧 王名の下に諡号と本貫を記載
太祖(テジョ:태조)李成桂(イ・ソンゲ:이성계) 1392~
神懿王后(シニワンフ:신의왕후) 安邊韓氏(アンピョンハンシ:안변한씨)
神徳王后(シンドンワンフ:신덕왕후) 谷山康氏(コクサンカンシ:곡산강씨)
第2代 定宗(チョンジョン:정종) 1398-1401
定安王后(チョンアンワンフ:정안왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第3代 太宗(テジョン:태종)李芳遠(イ・バンウォン:이방원) 1401-1418
元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
第4代 世宗(セジョン:세종)世宗大王(セジョンテワン:세종대왕) 1418-1450
昭憲王后(ソホンワンフ:소헌왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
第5代 文宗(ムンジョン:문종) 1450-1452
顕徳王后(ヒョンドンワンフ:현덕왕후) 安東権氏(アンドングォンシ:안동 권씨)
第6代 端宗(タンジョン:단종) 1452-1455
定順王后(チョンスンワンフ:정순왕후) 礪山宋氏(ヨサンソンシ:여산송씨)
第7代 世祖(セジョ:세조) 1455-1468
貞熹王后(チョンヒワンフ:정희왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第8代 睿宗(イェジョン:예종) 1468-1469
章順王后(チャンスンワンフ:장순왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
安順王后 (アンスワンフ:안순왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
第9代 成宗(ソンジョン:성종) 1469-1494
恭惠王后(コンヘワンフ:공혜왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
齊獻王后(チェホンワンフ:제헌왕후) 廃妃尹氏(ペビユンシ:폐비윤씨) 本貫:咸安(ハマン:함안)
貞顯王后(チョンヒョンワンフ:정현왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第10代 燕山君(ヨンサングン:연산군) 1494-1506
廃妃愼氏(ペビシンシ:폐비 신씨) 本貫:居昌(コチャン:거창 )
第11代 中宗(チュンジョン:중종) 1506-1544
端敬王后(タンギョンワンフ:단경왕후) 居昌愼氏(コチャンシンシ:거창 신씨)
章敬王后 (チャンギョンワンフ:장경왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
文定王后(ムンジョンワンフ:문정왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第12代 仁宗(インジョン:인종) 1544-1545
仁聖王后(インソンワンフ:인성왕후) 潘南朴氏(パンナムパクシ:반남 박씨)
第13代 明宗 (ミョンジョン:명종)1545-1567
仁順王后(インスンワンフ:인순왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
第14代 宣祖(ソンジョン:선조) 1567-1608
懿仁王后(ウィインワンフ:의인왕후) 潘南朴氏(パンナムパクシ:반남 박씨)
仁穆王后(インモクワンフ:인목왕후) 延安金氏(ヨンアンキムシ:연안 김씨)
第15代 光海君(クァンヘグン:광해군) 1608-1623
廃妃柳氏(ペビユシ:폐비 유씨) 本貫:文化(ムンファ:문화)
第16代 仁祖(インジョ:인조) 1623-1649
仁烈王后(インリョルワンフ:인렬왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
莊烈王后(チャンリョルワンフ:장렬왕후) 楊州趙氏(ヤンジュチョシ:양주조씨)
第17代 孝宗(ヒョジョン:효종) 1649-1659
仁宣王后(インソンワンフ:인선왕후) 德水張氏(トクスチャンシ:덕수장씨)
第18代 顕宗(ヒョンジョン:현종) 1659-1674
明聖王后(ミョンソンワンフ:명성왕후) 清風金氏(チョンプンキムシ: 청풍김씨)
第19代 粛宗(スクチョン:숙종) 1674-1720
仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후) 光山金氏(クァンサンキムシ:광산 김씨 )
仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
廃妃張氏(ペビチャンシ:폐비장씨) 仁同張氏(インドンチャンシ:인동장씨)
仁元王后(インウォンワンフ:인원왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第20代 景宗(キョンジョン:경종) 1720-1724
端懿王后(タニワンフ:단의왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
宣懿王后(ソニワンフ:선의왕후) 咸従魚氏(ハムジョンオシ:함종어씨)
第21代 英祖(ヨンジョ:영조) 1724-1776
貞聖王后 (チョンソンワンフ:정성왕후) 達城徐氏(タルソンソシ:달성서씨)
貞純王后(チョンスンワンフ:정순왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第22代 正祖(チョンジョ:정조) 李祘(イ・サン:이산)1776-1800
孝懿王后(ヒョウィワンフ:효의왕후) 清風金氏(チョンプンキムシ: 청풍김씨)
第23代 純祖(スンジョ:순조) 1800-1834
純元王后(スンウォンワンフ:순원왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
第24代 憲宗(ホンジョン:헌종) 1834-1849
孝顕王后(ヒョヒョンワンフ:효현왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
孝定王后(ヒョジョンワンフ:효정왕후) 南陽洪氏(ナミミャンホンシ:남양홍씨)
第25代 哲宗(チョルジョン:철종) 1849-1863
哲仁王后(チョリンワンフ:철인왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
第26代 高宗(コジョン:고종) 1863-1907
明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
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大韓帝国第2代 純宗(スンジョン) 1907-1910
純明孝皇后 (スンミョンヒョファンフ:순명효황후 민씨) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
純貞孝皇后(スンジョンヒョファンフ:순정효황후) 海平尹氏(ヘピョンユンシ:해평 윤씨)
※第26代 高宗は大韓帝国(대한제국)初代皇帝 光武皇帝(クァンムファンジェ:광무황제)
朝鮮王妃一覧 王名の下に諡号と本貫を記載
太祖(テジョ:태조)李成桂(イ・ソンゲ:이성계) 1392~
神懿王后(シニワンフ:신의왕후) 安邊韓氏(アンピョンハンシ:안변한씨)
神徳王后(シンドンワンフ:신덕왕후) 谷山康氏(コクサンカンシ:곡산강씨)
第2代 定宗(チョンジョン:정종) 1398-1401
定安王后(チョンアンワンフ:정안왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第3代 太宗(テジョン:태종)李芳遠(イ・バンウォン:이방원) 1401-1418
元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
第4代 世宗(セジョン:세종)世宗大王(セジョンテワン:세종대왕) 1418-1450
昭憲王后(ソホンワンフ:소헌왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
第5代 文宗(ムンジョン:문종) 1450-1452
顕徳王后(ヒョンドンワンフ:현덕왕후) 安東権氏(アンドングォンシ:안동 권씨)
第6代 端宗(タンジョン:단종) 1452-1455
定順王后(チョンスンワンフ:정순왕후) 礪山宋氏(ヨサンソンシ:여산송씨)
第7代 世祖(セジョ:세조) 1455-1468
貞熹王后(チョンヒワンフ:정희왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第8代 睿宗(イェジョン:예종) 1468-1469
章順王后(チャンスンワンフ:장순왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
安順王后 (アンスワンフ:안순왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
第9代 成宗(ソンジョン:성종) 1469-1494
恭惠王后(コンヘワンフ:공혜왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
齊獻王后(チェホンワンフ:제헌왕후) 廃妃尹氏(ペビユンシ:폐비윤씨) 本貫:咸安(ハマン:함안)
貞顯王后(チョンヒョンワンフ:정현왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第10代 燕山君(ヨンサングン:연산군) 1494-1506
廃妃愼氏(ペビシンシ:폐비 신씨) 本貫:居昌(コチャン:거창 )
第11代 中宗(チュンジョン:중종) 1506-1544
端敬王后(タンギョンワンフ:단경왕후) 居昌愼氏(コチャンシンシ:거창 신씨)
章敬王后 (チャンギョンワンフ:장경왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
文定王后(ムンジョンワンフ:문정왕후) 坡平尹氏(パピョンユンシ:파평윤씨)
第12代 仁宗(インジョン:인종) 1544-1545
仁聖王后(インソンワンフ:인성왕후) 潘南朴氏(パンナムパクシ:반남 박씨)
第13代 明宗 (ミョンジョン:명종)1545-1567
仁順王后(インスンワンフ:인순왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
第14代 宣祖(ソンジョン:선조) 1567-1608
懿仁王后(ウィインワンフ:의인왕후) 潘南朴氏(パンナムパクシ:반남 박씨)
仁穆王后(インモクワンフ:인목왕후) 延安金氏(ヨンアンキムシ:연안 김씨)
第15代 光海君(クァンヘグン:광해군) 1608-1623
廃妃柳氏(ペビユシ:폐비 유씨) 本貫:文化(ムンファ:문화)
第16代 仁祖(インジョ:인조) 1623-1649
仁烈王后(インリョルワンフ:인렬왕후) 清州韓氏(チョンジュハンシ:청주한씨)
莊烈王后(チャンリョルワンフ:장렬왕후) 楊州趙氏(ヤンジュチョシ:양주조씨)
第17代 孝宗(ヒョジョン:효종) 1649-1659
仁宣王后(インソンワンフ:인선왕후) 德水張氏(トクスチャンシ:덕수장씨)
第18代 顕宗(ヒョンジョン:현종) 1659-1674
明聖王后(ミョンソンワンフ:명성왕후) 清風金氏(チョンプンキムシ: 청풍김씨)
第19代 粛宗(スクチョン:숙종) 1674-1720
仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후) 光山金氏(クァンサンキムシ:광산 김씨 )
仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
廃妃張氏(ペビチャンシ:폐비장씨) 仁同張氏(インドンチャンシ:인동장씨)
仁元王后(インウォンワンフ:인원왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第20代 景宗(キョンジョン:경종) 1720-1724
端懿王后(タニワンフ:단의왕후) 青松沈氏(チョンソンシムシ:청송심씨)
宣懿王后(ソニワンフ:선의왕후) 咸従魚氏(ハムジョンオシ:함종어씨)
第21代 英祖(ヨンジョ:영조) 1724-1776
貞聖王后 (チョンソンワンフ:정성왕후) 達城徐氏(タルソンソシ:달성서씨)
貞純王后(チョンスンワンフ:정순왕후) 慶州金氏(キョンジュキムシ:경주 김씨)
第22代 正祖(チョンジョ:정조) 李祘(イ・サン:이산)1776-1800
孝懿王后(ヒョウィワンフ:효의왕후) 清風金氏(チョンプンキムシ: 청풍김씨)
第23代 純祖(スンジョ:순조) 1800-1834
純元王后(スンウォンワンフ:순원왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
第24代 憲宗(ホンジョン:헌종) 1834-1849
孝顕王后(ヒョヒョンワンフ:효현왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
孝定王后(ヒョジョンワンフ:효정왕후) 南陽洪氏(ナミミャンホンシ:남양홍씨)
第25代 哲宗(チョルジョン:철종) 1849-1863
哲仁王后(チョリンワンフ:철인왕후) (新)安東金氏(アンドンキムシ:안동김씨)
第26代 高宗(コジョン:고종) 1863-1907
明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
——————————–
大韓帝国第2代 純宗(スンジョン) 1907-1910
純明孝皇后 (スンミョンヒョファンフ:순명효황후 민씨) 驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)
純貞孝皇后(スンジョンヒョファンフ:순정효황후) 海平尹氏(ヘピョンユンシ:해평 윤씨)
※第26代 高宗は大韓帝国(대한제국)初代皇帝 光武皇帝(クァンムファンジェ:광무황제)
the class system in Joseon dynasty 朝鮮王朝の身分制度
http://xn--u9j228hz8b124aww4c.com/category/mibun/
士農工商とは武士を頂点とした江戸時代のヒエラルキーですが、この概念を理論化・体系化したのが孔子の儒教です。
日本では「士」は「武士」に置き換えられましたが、本来は支配層の意。 ですから、朝鮮王朝では「士」とは「儒者」を指します。
ちなみに韓国語ではサノンコンサ(사농공상)と読みます。
朝鮮王朝の法典「經國大典(キョングクテジョン:경국대전)では良賤制(ヤンチョンジェ:양천제)として2つの身分しか規定されていません。
良人(ヤンイン:양인)と賎人(チョニン:천인)です。
けれども、一般的には両班・中人・常人・賎人の4つに大別されています。
それでは個別に見ていきましょう。
両班(ヤンバン:양반)
支配階級である両班とは文班(ムンバン:문반 – 東班:トンバン:동반 ともいう)と武班(ムバン:무반 – 西班:ソバン:서반ともいう)の両方をあわせた総称です。
支配の根幹を儒教としたため、武より文を重んじました。
旧王朝の高麗から朝鮮になる段階で、必然的に旧貴族から開国功臣へと支配層が移りました。
また、代替することが難しい官僚機構は高麗からシフトされていきました。
これらが世代を経ることにより、両班としての階層を形成することとなりました。
ごく初期を除き科挙(クァゴ:과거)による官吏登用が身分確定の重要な要素となりました。
けれども、科挙に受かった本人だけではなく、その家族もまた両班階級となりました。
一応の定義は、父、祖父、曽祖父、母方の祖父の中で科挙の合格者で5品以上の官職についたものがいれば、両班となります。
中人(チュンイン:중인) 医官(ウィグァン:의관)や訳官(ヤクグァン:역관)のような専門職。
その性格から世襲されることがほとんどでした。 科挙のうち雑科を受けることで官吏となります。
父が両班でも母の身分が低い庶子、庶孼(ソオル:서얼)は文科への道が閉ざされていたため、雑科を受けるものが多かったようです。
常人(サンイン:상인) 常民(サンミン:상민)とも
人口が最も多く主に農業に従事しています。 また、商工業を営んでいるものも常人です。
納税義務や軍役義務があるため、科挙の受験が可能なものの、時間的・金銭的余裕もなく、仮に受かったとしても登用差別があったため、受けるものはほとんどいなかった。
賎人(チョンイン:천인) 賎民(チョンミン:천민)とも
第4代世宗の時代、領議政を務めた黄喜(ファンフィ:황희)が七般賤人(チルバンチョンイン:칠반천인)を定めました。
1.官庁の使用人である皁隸(チョレ:조례)
2.罪人の処刑人である羅将(ナジャン:나장)
3.地方官庁の門番などを勤めた軍奴、日守(イルス:일수)
4.舟のこぎ手である漕軍(チョグン:조군)
5.水軍に属する兵卒、水軍(スグン:수군)
6.のろしを上げる役をになった烽軍(ポグン:봉군)
7.30里ごとに置かれていた駅の従事者、驛(ヨク:역)
その他にも下記が該当します。
官庁や両班の使用人、奴婢(ノビ:노비)
酒の席で、歌や踊りや風流に興をそそることを職業とする女性、妓生(キーセン:기생)
輿の担ぎ手(サンヨグン:상여꾼)
唐風の革靴を作る鞋匠(ヘジャン:혜장)
楽師や廣大をあらわす伶人(ヨンイン:영인)
廣大(クァンデ:광대)仮面劇や綱渡りをしていた芸人
朝鮮固有の巫女、巫堂(ムダン:무당)
官庁の使用人、使令(サリョン:사령)
国教でなくなった仏教の僧侶(スンリョ:승려)
革製品の加工を生業とした生皮匠(センピジャン:생피장)・カッパチ(갖바치)
最下層とされる、食肉加工を生業とした白丁(ペクチョン:백정)
※法の上では白丁(ペクチョン:백정)は良人とされた。
士農工商とは武士を頂点とした江戸時代のヒエラルキーですが、この概念を理論化・体系化したのが孔子の儒教です。
日本では「士」は「武士」に置き換えられましたが、本来は支配層の意。 ですから、朝鮮王朝では「士」とは「儒者」を指します。
ちなみに韓国語ではサノンコンサ(사농공상)と読みます。
朝鮮王朝の法典「經國大典(キョングクテジョン:경국대전)では良賤制(ヤンチョンジェ:양천제)として2つの身分しか規定されていません。
良人(ヤンイン:양인)と賎人(チョニン:천인)です。
けれども、一般的には両班・中人・常人・賎人の4つに大別されています。
それでは個別に見ていきましょう。
両班(ヤンバン:양반)
支配階級である両班とは文班(ムンバン:문반 – 東班:トンバン:동반 ともいう)と武班(ムバン:무반 – 西班:ソバン:서반ともいう)の両方をあわせた総称です。
支配の根幹を儒教としたため、武より文を重んじました。
旧王朝の高麗から朝鮮になる段階で、必然的に旧貴族から開国功臣へと支配層が移りました。
また、代替することが難しい官僚機構は高麗からシフトされていきました。
これらが世代を経ることにより、両班としての階層を形成することとなりました。
ごく初期を除き科挙(クァゴ:과거)による官吏登用が身分確定の重要な要素となりました。
けれども、科挙に受かった本人だけではなく、その家族もまた両班階級となりました。
一応の定義は、父、祖父、曽祖父、母方の祖父の中で科挙の合格者で5品以上の官職についたものがいれば、両班となります。
中人(チュンイン:중인) 医官(ウィグァン:의관)や訳官(ヤクグァン:역관)のような専門職。
その性格から世襲されることがほとんどでした。 科挙のうち雑科を受けることで官吏となります。
父が両班でも母の身分が低い庶子、庶孼(ソオル:서얼)は文科への道が閉ざされていたため、雑科を受けるものが多かったようです。
常人(サンイン:상인) 常民(サンミン:상민)とも
人口が最も多く主に農業に従事しています。 また、商工業を営んでいるものも常人です。
納税義務や軍役義務があるため、科挙の受験が可能なものの、時間的・金銭的余裕もなく、仮に受かったとしても登用差別があったため、受けるものはほとんどいなかった。
賎人(チョンイン:천인) 賎民(チョンミン:천민)とも
第4代世宗の時代、領議政を務めた黄喜(ファンフィ:황희)が七般賤人(チルバンチョンイン:칠반천인)を定めました。
1.官庁の使用人である皁隸(チョレ:조례)
2.罪人の処刑人である羅将(ナジャン:나장)
3.地方官庁の門番などを勤めた軍奴、日守(イルス:일수)
4.舟のこぎ手である漕軍(チョグン:조군)
5.水軍に属する兵卒、水軍(スグン:수군)
6.のろしを上げる役をになった烽軍(ポグン:봉군)
7.30里ごとに置かれていた駅の従事者、驛(ヨク:역)
その他にも下記が該当します。
官庁や両班の使用人、奴婢(ノビ:노비)
酒の席で、歌や踊りや風流に興をそそることを職業とする女性、妓生(キーセン:기생)
輿の担ぎ手(サンヨグン:상여꾼)
唐風の革靴を作る鞋匠(ヘジャン:혜장)
楽師や廣大をあらわす伶人(ヨンイン:영인)
廣大(クァンデ:광대)仮面劇や綱渡りをしていた芸人
朝鮮固有の巫女、巫堂(ムダン:무당)
官庁の使用人、使令(サリョン:사령)
国教でなくなった仏教の僧侶(スンリョ:승려)
革製品の加工を生業とした生皮匠(センピジャン:생피장)・カッパチ(갖바치)
最下層とされる、食肉加工を生業とした白丁(ペクチョン:백정)
※法の上では白丁(ペクチョン:백정)は良人とされた。
Dong Yi- 19th Joseon king 肅宗 Sukjong
http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Sukjong_of_Joseon
Sukjong of Joseon
숙종 肅宗
Birth name 이순 李焞
Sukjong (August 15, 1661 – 1720, reigned 1674 - 1720) was the nineteenth ruler of the Joseon Dynasty in what is now Korea. He was a brilliant politician and presided for 46 years over a period of relative peace and prosperity. His reign, however, was characterized by the rigid factionalism among the court nobility that gradually paralyzed the bureaucracy and alienated many neo-Confucian intellectuals.
King Sukjong’s reign is most remembered in Korean history and folklore for the circumstances surrounding a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk, which arose when he attempted to invest his first son, Kyeongjong, born of his favorite concubine, Lady Chang, as Crown Prince. The investiture was supported by the “Southern” faction and strongly opposed by the “Western” faction, which included the scholar Song Si-yeol and the father of the reigning queen. Angered by the opposition to his wishes, King Sukjong deposed and exiled Queen In-Hyeon, and replaced her with Lady Chang. In 1694, he repented his actions and restored Queen In-Hyeon to her former status, but she died soon afterwards. A book called In-Hyeon Wanghu Jeon (Queen In-Hyeon's Biography), written by one of the queen's lady’s maids, and folk tales about Lady Chang’s avarice and ultimate demise, have been the subject of numerous traditional Korean dramas, songs and poems.
King Sukjong was born “Yi Soon” on August 15, 1661 to King Hyeonjong (현종 顯宗the eighteenth monarch of Joseon) and Queen Myungsung (明聖王后) Kim in KyungDuk Palace. In 1667, at the age of seven, he became Crown Prince, and in 1674, at the age of 14, he became the nineteenth ruler of the Joseon Dynasty.
King Sukjong was a brilliant politician, but his reign was not all peaceful. The Joseon Dynasty was characterized by factional strife within the government (tangjaeng) which first arose in 1575 as a dispute between two political cliques, the Easterners (Tongin) and Westerners (Soin) over appointments to powerful middle-level positions in the Ministry of Personnel (Ki-baek 1984).The dispute became a hereditary conflict, passed from one generation to another, and from Confucian teachers to their students. The Easterners quickly gained dominance over the Westerners, but developed an internal split between Northerners (Pugin) and Southerners (Namin) over the successor of King Sonjo (1567 – 1608), the fourteenth ruler of Joseon, who had no legitimate heir. The Northerners supported King Kwanghaegun (1608 – 1623), the fifteenth ruler, but when he was deposed for misrule in 1623, the Westerners backed King Injo (1623 – 1649). During the reign of his successor, King Hyojong (1649 – 1659), the Westerners continued to dominate under the leadership of the king’s former tutor, Song Si-yeul. When King Hyojong died, a dispute over the appropriate length of the mourning period to be observed by his mother caused the Westerners to lose their influence and be replaced by the Southerners, led by Kim Suk-joo, who was Queen Myungsung's cousin), in 1674. King Sukjong did not have an heir after man years of marriage, and when he proposed to invest the newborn son of his favorite concubine, Lady Chang, as Crown Prince, the unyielding opposition of the Western faction brought about their definitive ouster and the execution of Song Si-yeul (Ki-baek 1984).
In 1712, Sukjong's government worked with the Qing Dynasty in China to define the national borders between the two countries at the Yalu and Tumen Rivers.
King Sukjong had three Queens and three concubines, three sons and six daughters (see family tree below). He died after in 1720 after reigning for 46 years. He was buried in Myeongnyeung in Gyeonggi province, Goyang City inside Western Five Royal Graves: Seo(west) Oh(five) Reung(royal graves).
King Sukjong's Family
Queen Kim In-Kyeong (仁敬王后; 1661-1680)
Daughter of Kim Man-ki. She was married at age ten and titled Crown Princess Consort to then Crown Prince (King Sukjong). In 1674, she became the Queen. She had three daughters, all of whom died at birth. In October 1680, she showed signs of smallpox and died eight days later, at the age of 20, in Gyeongdeok Palace. She was buried in Ik-rueng in Gyeonggi province.
Queen Min In-Hyeon (仁顕王后; 1667-1701)
Daughter of Min Yoo-jung, she became King Sukjong's second queen by marriage in 1681. She is perhaps one of the best known queens of the Joseon dynasty, and her life has been the subject of many Korean historical dramas. When So-ei (third highest title for king's concubines) Lady Chang (given name Ok-Jung) produced a son (later Kyungjong) in 1688, it created a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk. During this time, the king wanted to give his eldest son the title of Crown Prince and wanted to promote Lady Chang from So-ei) to Hee-bin (the highest title for the king's concubines). This action was opposed by the No-ron party (the Westerners, headed by Song Si-yeol, of which the queen's father was a member); and was supported by the So-ron party (the Southerners, of which Chang Hee-Jae, Lady Chang's older brother, was a member). King Sukjong became angry at the opposition, and many Westerners were killed, including Song Si-yeol. Many including Queen In-hyeon and her family were forced into exile. Lady Chang became the queen. Later, in 1694, the King, feeling remorseful, gave in to a movement led by So-ron party (Gapseol Sahwa) to re-instate Queen In-hyeon. She was brought back to the palace and re-named queen. (Lady Chang was demoted to hee-bin). In 1701, at age 35 she became ill and died of an unknown disease. It was said that Lady Chang brought a Shamanist priestess into the palace and prayed for the Queen's death. When this was discovered by the king, she was executed for her actions. One of the queen's lady’s maids wrote a book called In-Hyeon Wanghu Jeon (Queen In-Hyeon's Biography) which still exists today. She is buried in Myeong-reung in Kyeonggi Province, and the King was later buried near her in the same area.
Queen Kim In-won (仁元王后1687-1757)
Daughter of Kim Joo-shin, she married and became the third queen of King Sukjong in 1702, at the age of 15, after Queen In-hyeon's death. She survived smallpox in 1711. She became Dowager Queen (Wangdaebi) after her husband's death in 1720, and Daewangdaebi in 1724 after Kyungjong (her stepson by Lady Chang (Hee-bin) died and Yeongjo (her other stepson by Lady Choi (Sook-bin)), whom she favored, became King. She had no children and died in 1757 at age of 70. She was buried near King Sukjong and Queen In-hyeon in Kyeonggi Province.
Lady Chang Ok-jeong (hee-bin status) (1659-1701)
Her given name was Ok-jeong. She is only known as the niece of a tradesman Chang Hyeon, and there are no records of who her father was. However, there are rumors that her father was Cho Sa-seok, Queen Jang-ryeol's brother, because Ok-jeong's mother was his well-known mistress.
Ok-jeong became lady’s maid to Queen Jang-ryeol (King Injo's second queen) at the recommendation of Dongpyunggun (King Sukjong's cousin). In 1686, King Sukjong discovered her during a visit to his step-grandmother (Dowager Queen Jang-ryeol) and made her his concubine, giving her the title of Sook-won (fourth class). In 1688, she was promoted to So-ui (third class) and in 1689 she gave birth to a son (later Kyeongjong) and was made Hee-bin (first class). Queen In-hyeon was forced into exile in May 1688, and Chang Ok-jeong was made queen and her son was titled the Crown Prince after a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk.
In 1694, Lady Chang was demoted to Hee-bin, when Queen In-Hyun was reinstated. In 1701, Queen In-Hyun died of an unknown disease and Lady Chang was discovered by King Sukjong in her chambers, with her brother Chang Hui-jae and a shaman priestess, praying for Queen In-hyeon's death and her reinstatement. Lady Chang, her brother, and everyone involved was arrested and sentenced to death by poisoning—she was 43. She had two children, Kyeongjong and a princess.
After this incident King Sukjong made a law prohibiting concubines from being allowed to become Queens. Lady Chang is the subject of many folk stories about her greed for power, including a famous story involving involving her son, then the Crown Prince (future Kyeongjong), which took place just before her death.
Lady Choi (Sook-bin)
There are no records of her life before she became King Sukjong's concubine. She was a water maid in the palace. One night, she was praying in her chamber for Queen In-hyeon's health when King Sukjong, who was passing by after a trip outside of the palace, heard her and, moved by her kindness towards the queen towards whom he regretted being so harsh, made her his concubine. She became Sook-bin after the birth of a son (the future King Yeongjo) in 1694 and had two princesses.
Lady Park (Myeong-bin)
There are no known records about her except that she was a daughter of nobility (yangban). She had one son, Prince Yeun-rueng.
King Sukjong’s Posthumous Name
King Sukjong Hyeoneui Gwangyun Yeseong Yeongryeol Yumo Yeongun Hongin Jundeok Baecheon Habdo Gyehyu Dokgyung Jeongjung Hyeopgeuk Sineui Daehun Jangmun heonmu Gyungmyung Wonhyo the Great of Korea
숙종현의광윤예성영렬유모영운홍인준덕배천합도계휴독경정중협극신의대훈장문헌무경명원효대왕
肅宗顯義光倫睿聖英烈裕謨永運洪仁峻德配天合道啓休篤慶正中協極神毅大勳章文憲武敬明原孝大王
Changjeolsa Shrine
Changjeolsa Shrine contains the memorial tablets of some of the loyal followers of King Danjong (1452-1455) of Joseon (1392-1910), the child king who was dethroned by his uncle, King Sejo (1455-68). The first tablets to be enshrined there were those of the Six Loyal Martyrs, who were killed because of their involvement in a plot to restore King Danjong to the throne. In 1685 (the eleventh year in the reign of King Sukjong), Hong, Manjong(1643~1725), the governor of Gangwon-do, asked the Court to enlarge the shrine of Danjong because it was too small. Sukjong ordered Jo Ihan, the governor of Yeongwol at the time, to build "Sayuksinsa," a monument to the "Six Loyal Martyrs," next to the shrine. The scholar Song Siyeol (1607~1689) wrote the hanging board for Sayuksinsa. The mortuary tablets of Eom, Heu Eom Heungdo and Park Simmun, two officials who risked King Sejo's displeasure to take care of Danjong, were enshrined together with those of the Sayuksin. When Danjong was posthumously restored to his throne in May, 1699 (the twenty-fifth year in the reign of King Sukjong), it was no longer appropriate for the Sayuksinsa to be located in the precincts of the shrine in Jangneung. In 1705 (the thirty-first year in the reign of King Sukjong), it was moved to its present location. In 1709 (the thirty-fifth year in the reign of King Sukjong), at the request of Eom Yangyeong, a Confucian from Yeongwol, the monument was given the name, Changjeolsa. A new hanging board was written by Gwon, Sangha (1641~1721). In 1791, two of the so-called “Six Loyal Survivors” who were involved in the plot to restore the throne to Danjong, were added. Changjeolsa is a designated cultural asset of Korea, and memorial services are held there every spring and autumn. [1]
Painting of Dongnaebu Operations
A painting called “Dongnaebu Operations” designated as Korean National Treasure No.392 on September 2, 1963, was first painted in 1709 (the thirty-fifth year of King Sukjong). The painting depicts a battle that took place at Dongnaeseong fortress on April 15, the twenty-fifth year of King Seonjo (1592), in which the general Sangheon Song was killed. The scene is a bird’s-eye view of the fortress, with the soldiers and the Korean people fighting Japanese soldiers at the risk of their lives. The composition and the quality of the painting are unexceptional, but it is valued as a symbol of the Korean peoples’ fight against oppression. The scene, created on silk 96cm wide and 145 cm, was repainted in 1760 (the thirty-sixth year of King Yeongjo) by Byeon Bak, from Dongnae.
Sukjong of Joseon
숙종 肅宗
Birth name 이순 李焞
Sukjong (August 15, 1661 – 1720, reigned 1674 - 1720) was the nineteenth ruler of the Joseon Dynasty in what is now Korea. He was a brilliant politician and presided for 46 years over a period of relative peace and prosperity. His reign, however, was characterized by the rigid factionalism among the court nobility that gradually paralyzed the bureaucracy and alienated many neo-Confucian intellectuals.
King Sukjong’s reign is most remembered in Korean history and folklore for the circumstances surrounding a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk, which arose when he attempted to invest his first son, Kyeongjong, born of his favorite concubine, Lady Chang, as Crown Prince. The investiture was supported by the “Southern” faction and strongly opposed by the “Western” faction, which included the scholar Song Si-yeol and the father of the reigning queen. Angered by the opposition to his wishes, King Sukjong deposed and exiled Queen In-Hyeon, and replaced her with Lady Chang. In 1694, he repented his actions and restored Queen In-Hyeon to her former status, but she died soon afterwards. A book called In-Hyeon Wanghu Jeon (Queen In-Hyeon's Biography), written by one of the queen's lady’s maids, and folk tales about Lady Chang’s avarice and ultimate demise, have been the subject of numerous traditional Korean dramas, songs and poems.
King Sukjong was born “Yi Soon” on August 15, 1661 to King Hyeonjong (현종 顯宗the eighteenth monarch of Joseon) and Queen Myungsung (明聖王后) Kim in KyungDuk Palace. In 1667, at the age of seven, he became Crown Prince, and in 1674, at the age of 14, he became the nineteenth ruler of the Joseon Dynasty.
King Sukjong was a brilliant politician, but his reign was not all peaceful. The Joseon Dynasty was characterized by factional strife within the government (tangjaeng) which first arose in 1575 as a dispute between two political cliques, the Easterners (Tongin) and Westerners (Soin) over appointments to powerful middle-level positions in the Ministry of Personnel (Ki-baek 1984).The dispute became a hereditary conflict, passed from one generation to another, and from Confucian teachers to their students. The Easterners quickly gained dominance over the Westerners, but developed an internal split between Northerners (Pugin) and Southerners (Namin) over the successor of King Sonjo (1567 – 1608), the fourteenth ruler of Joseon, who had no legitimate heir. The Northerners supported King Kwanghaegun (1608 – 1623), the fifteenth ruler, but when he was deposed for misrule in 1623, the Westerners backed King Injo (1623 – 1649). During the reign of his successor, King Hyojong (1649 – 1659), the Westerners continued to dominate under the leadership of the king’s former tutor, Song Si-yeul. When King Hyojong died, a dispute over the appropriate length of the mourning period to be observed by his mother caused the Westerners to lose their influence and be replaced by the Southerners, led by Kim Suk-joo, who was Queen Myungsung's cousin), in 1674. King Sukjong did not have an heir after man years of marriage, and when he proposed to invest the newborn son of his favorite concubine, Lady Chang, as Crown Prince, the unyielding opposition of the Western faction brought about their definitive ouster and the execution of Song Si-yeul (Ki-baek 1984).
In 1712, Sukjong's government worked with the Qing Dynasty in China to define the national borders between the two countries at the Yalu and Tumen Rivers.
King Sukjong had three Queens and three concubines, three sons and six daughters (see family tree below). He died after in 1720 after reigning for 46 years. He was buried in Myeongnyeung in Gyeonggi province, Goyang City inside Western Five Royal Graves: Seo(west) Oh(five) Reung(royal graves).
King Sukjong's Family
Queen Kim In-Kyeong (仁敬王后; 1661-1680)
Daughter of Kim Man-ki. She was married at age ten and titled Crown Princess Consort to then Crown Prince (King Sukjong). In 1674, she became the Queen. She had three daughters, all of whom died at birth. In October 1680, she showed signs of smallpox and died eight days later, at the age of 20, in Gyeongdeok Palace. She was buried in Ik-rueng in Gyeonggi province.
Queen Min In-Hyeon (仁顕王后; 1667-1701)
Daughter of Min Yoo-jung, she became King Sukjong's second queen by marriage in 1681. She is perhaps one of the best known queens of the Joseon dynasty, and her life has been the subject of many Korean historical dramas. When So-ei (third highest title for king's concubines) Lady Chang (given name Ok-Jung) produced a son (later Kyungjong) in 1688, it created a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk. During this time, the king wanted to give his eldest son the title of Crown Prince and wanted to promote Lady Chang from So-ei) to Hee-bin (the highest title for the king's concubines). This action was opposed by the No-ron party (the Westerners, headed by Song Si-yeol, of which the queen's father was a member); and was supported by the So-ron party (the Southerners, of which Chang Hee-Jae, Lady Chang's older brother, was a member). King Sukjong became angry at the opposition, and many Westerners were killed, including Song Si-yeol. Many including Queen In-hyeon and her family were forced into exile. Lady Chang became the queen. Later, in 1694, the King, feeling remorseful, gave in to a movement led by So-ron party (Gapseol Sahwa) to re-instate Queen In-hyeon. She was brought back to the palace and re-named queen. (Lady Chang was demoted to hee-bin). In 1701, at age 35 she became ill and died of an unknown disease. It was said that Lady Chang brought a Shamanist priestess into the palace and prayed for the Queen's death. When this was discovered by the king, she was executed for her actions. One of the queen's lady’s maids wrote a book called In-Hyeon Wanghu Jeon (Queen In-Hyeon's Biography) which still exists today. She is buried in Myeong-reung in Kyeonggi Province, and the King was later buried near her in the same area.
Queen Kim In-won (仁元王后1687-1757)
Daughter of Kim Joo-shin, she married and became the third queen of King Sukjong in 1702, at the age of 15, after Queen In-hyeon's death. She survived smallpox in 1711. She became Dowager Queen (Wangdaebi) after her husband's death in 1720, and Daewangdaebi in 1724 after Kyungjong (her stepson by Lady Chang (Hee-bin) died and Yeongjo (her other stepson by Lady Choi (Sook-bin)), whom she favored, became King. She had no children and died in 1757 at age of 70. She was buried near King Sukjong and Queen In-hyeon in Kyeonggi Province.
Lady Chang Ok-jeong (hee-bin status) (1659-1701)
Her given name was Ok-jeong. She is only known as the niece of a tradesman Chang Hyeon, and there are no records of who her father was. However, there are rumors that her father was Cho Sa-seok, Queen Jang-ryeol's brother, because Ok-jeong's mother was his well-known mistress.
Ok-jeong became lady’s maid to Queen Jang-ryeol (King Injo's second queen) at the recommendation of Dongpyunggun (King Sukjong's cousin). In 1686, King Sukjong discovered her during a visit to his step-grandmother (Dowager Queen Jang-ryeol) and made her his concubine, giving her the title of Sook-won (fourth class). In 1688, she was promoted to So-ui (third class) and in 1689 she gave birth to a son (later Kyeongjong) and was made Hee-bin (first class). Queen In-hyeon was forced into exile in May 1688, and Chang Ok-jeong was made queen and her son was titled the Crown Prince after a bloody dispute called Gi-Sa Hwanguk.
In 1694, Lady Chang was demoted to Hee-bin, when Queen In-Hyun was reinstated. In 1701, Queen In-Hyun died of an unknown disease and Lady Chang was discovered by King Sukjong in her chambers, with her brother Chang Hui-jae and a shaman priestess, praying for Queen In-hyeon's death and her reinstatement. Lady Chang, her brother, and everyone involved was arrested and sentenced to death by poisoning—she was 43. She had two children, Kyeongjong and a princess.
After this incident King Sukjong made a law prohibiting concubines from being allowed to become Queens. Lady Chang is the subject of many folk stories about her greed for power, including a famous story involving involving her son, then the Crown Prince (future Kyeongjong), which took place just before her death.
Lady Choi (Sook-bin)
There are no records of her life before she became King Sukjong's concubine. She was a water maid in the palace. One night, she was praying in her chamber for Queen In-hyeon's health when King Sukjong, who was passing by after a trip outside of the palace, heard her and, moved by her kindness towards the queen towards whom he regretted being so harsh, made her his concubine. She became Sook-bin after the birth of a son (the future King Yeongjo) in 1694 and had two princesses.
Lady Park (Myeong-bin)
There are no known records about her except that she was a daughter of nobility (yangban). She had one son, Prince Yeun-rueng.
King Sukjong’s Posthumous Name
King Sukjong Hyeoneui Gwangyun Yeseong Yeongryeol Yumo Yeongun Hongin Jundeok Baecheon Habdo Gyehyu Dokgyung Jeongjung Hyeopgeuk Sineui Daehun Jangmun heonmu Gyungmyung Wonhyo the Great of Korea
숙종현의광윤예성영렬유모영운홍인준덕배천합도계휴독경정중협극신의대훈장문헌무경명원효대왕
肅宗顯義光倫睿聖英烈裕謨永運洪仁峻德配天合道啓休篤慶正中協極神毅大勳章文憲武敬明原孝大王
Changjeolsa Shrine
Changjeolsa Shrine contains the memorial tablets of some of the loyal followers of King Danjong (1452-1455) of Joseon (1392-1910), the child king who was dethroned by his uncle, King Sejo (1455-68). The first tablets to be enshrined there were those of the Six Loyal Martyrs, who were killed because of their involvement in a plot to restore King Danjong to the throne. In 1685 (the eleventh year in the reign of King Sukjong), Hong, Manjong(1643~1725), the governor of Gangwon-do, asked the Court to enlarge the shrine of Danjong because it was too small. Sukjong ordered Jo Ihan, the governor of Yeongwol at the time, to build "Sayuksinsa," a monument to the "Six Loyal Martyrs," next to the shrine. The scholar Song Siyeol (1607~1689) wrote the hanging board for Sayuksinsa. The mortuary tablets of Eom, Heu Eom Heungdo and Park Simmun, two officials who risked King Sejo's displeasure to take care of Danjong, were enshrined together with those of the Sayuksin. When Danjong was posthumously restored to his throne in May, 1699 (the twenty-fifth year in the reign of King Sukjong), it was no longer appropriate for the Sayuksinsa to be located in the precincts of the shrine in Jangneung. In 1705 (the thirty-first year in the reign of King Sukjong), it was moved to its present location. In 1709 (the thirty-fifth year in the reign of King Sukjong), at the request of Eom Yangyeong, a Confucian from Yeongwol, the monument was given the name, Changjeolsa. A new hanging board was written by Gwon, Sangha (1641~1721). In 1791, two of the so-called “Six Loyal Survivors” who were involved in the plot to restore the throne to Danjong, were added. Changjeolsa is a designated cultural asset of Korea, and memorial services are held there every spring and autumn. [1]
Painting of Dongnaebu Operations
A painting called “Dongnaebu Operations” designated as Korean National Treasure No.392 on September 2, 1963, was first painted in 1709 (the thirty-fifth year of King Sukjong). The painting depicts a battle that took place at Dongnaeseong fortress on April 15, the twenty-fifth year of King Seonjo (1592), in which the general Sangheon Song was killed. The scene is a bird’s-eye view of the fortress, with the soldiers and the Korean people fighting Japanese soldiers at the risk of their lives. The composition and the quality of the painting are unexceptional, but it is valued as a symbol of the Korean peoples’ fight against oppression. The scene, created on silk 96cm wide and 145 cm, was repainted in 1760 (the thirty-sixth year of King Yeongjo) by Byeon Bak, from Dongnae.
Queen Min In-Hyeon 仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)
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韓国時代劇トンイの主要登場人物として、日本でもにわかに脚光を浴びている仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후) 彼女についてまとめてみた。
仁顕王后(1667~1701)は第19代朝鮮王・粛宗(スクチョン:숙종)の継妃(ケビ:계비)として1681年に入宮した。
継妃(ケビ:계비)とは2度目以降の后という意味で、仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후:1661~1680)が粛宗の最初の妃である。
徽號(フィオ:휘호)は孝敬淑聖莊純元化懿烈貞穆仁顯王后(효경숙성장순원화의열정목인현왕후:ヒョギョンスクソンチャンスンウォンファウィヨルチョンモクイニョンワンフ)といい、これをもって仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)という。
閔維重(ミン・ユジュン:민유중)と恩城府夫人 宋氏(ウンソンプブイン ソンシ:은성부부인 송씨의)の娘。
母の宋氏はあの朱子学の大家・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)と同族であるため、父は彼の門下となった。このことからも、家系は西人(ソイン)の中心勢力であることがわかる。
本貫は驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)。 この一族は高麗時代に中国から帰化した名門で、第3代太宗(テジョン:태종)の后で第4代世宗(セジョン:세종)の母・元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후)、後世になると日本人に暗殺された明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후)や、大韓民国最後の皇帝・純宗(スンジョン:순종) の后・純明孝皇后(スンミョンヒョファンフ:순명효황후)も驪興閔氏で、歴代で4人の王妃を輩出している。
粛宗の母后の明成王后金氏(ミョンソンワンフ キムシ:명성왕후 김씨)と実家の親戚で西人の実力者・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)の推挙により中殿(チュンジョン:중전)に選ばれる。
嘉禮(カレ:가례:婚姻のこと)当初から粛宗の愛情を受けることができなかったといわれている。
また、明成王后により宮外へ追い出されていた張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)を、母后の死後ふたたび宮中へ呼び戻した粛宗は、仁顕王后(イニョンワンフ)にかまうことなくチャン・ヒビンを寵愛した。
仁顕王后(イニョンワンフ)はチャン・ヒビンを牽制するために、西人の領袖・金壽恒(キム・スハン:김수항)の家系の寧嬪金氏(ヨンビンキムシ:영빈 김씨)を後宮に入れたが徒労に終わった。
1688年、チャン・ヒビンが正2品昭儀(ソウィ:소의)へと昇進した。そして、同年10月27日、王室待望の王子昀(ユン:윤:後の景宗)を生む。
1689年(粛宗15年)1月15日、その功労により内命婦の品階で最高の嬪(ピン:빈)に冊封し「禧嬪(ヒビン:희빈)と号された。張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)の誕生である。 昀は元子に冊封された。元子定号(ウォンジャジョンホ:원자정호)
さらに1689年(粛宗15年)5月2日、仁顕王后は廃され宮外の安国洞(アングクドン:안국동)にある私邸に蟄居することとなる。その後、張氏が王妃に冊立された。
この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれた、替って南人派が権力を握ることになった。
これを己巳換局(キサファングク:기사환국)という。
Queen Min In-Hyeon (仁顕王后; 1667-1701)
韓国時代劇トンイの主要登場人物として、日本でもにわかに脚光を浴びている仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후) 彼女についてまとめてみた。
仁顕王后(1667~1701)は第19代朝鮮王・粛宗(スクチョン:숙종)の継妃(ケビ:계비)として1681年に入宮した。
継妃(ケビ:계비)とは2度目以降の后という意味で、仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후:1661~1680)が粛宗の最初の妃である。
徽號(フィオ:휘호)は孝敬淑聖莊純元化懿烈貞穆仁顯王后(효경숙성장순원화의열정목인현왕후:ヒョギョンスクソンチャンスンウォンファウィヨルチョンモクイニョンワンフ)といい、これをもって仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)という。
閔維重(ミン・ユジュン:민유중)と恩城府夫人 宋氏(ウンソンプブイン ソンシ:은성부부인 송씨의)の娘。
母の宋氏はあの朱子学の大家・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)と同族であるため、父は彼の門下となった。このことからも、家系は西人(ソイン)の中心勢力であることがわかる。
本貫は驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)。 この一族は高麗時代に中国から帰化した名門で、第3代太宗(テジョン:태종)の后で第4代世宗(セジョン:세종)の母・元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후)、後世になると日本人に暗殺された明成皇后(ミョンソンファンフ:명성황후)や、大韓民国最後の皇帝・純宗(スンジョン:순종) の后・純明孝皇后(スンミョンヒョファンフ:순명효황후)も驪興閔氏で、歴代で4人の王妃を輩出している。
粛宗の母后の明成王后金氏(ミョンソンワンフ キムシ:명성왕후 김씨)と実家の親戚で西人の実力者・宋時烈(ソン・シヨル:송시열)の推挙により中殿(チュンジョン:중전)に選ばれる。
嘉禮(カレ:가례:婚姻のこと)当初から粛宗の愛情を受けることができなかったといわれている。
また、明成王后により宮外へ追い出されていた張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)を、母后の死後ふたたび宮中へ呼び戻した粛宗は、仁顕王后(イニョンワンフ)にかまうことなくチャン・ヒビンを寵愛した。
仁顕王后(イニョンワンフ)はチャン・ヒビンを牽制するために、西人の領袖・金壽恒(キム・スハン:김수항)の家系の寧嬪金氏(ヨンビンキムシ:영빈 김씨)を後宮に入れたが徒労に終わった。
1688年、チャン・ヒビンが正2品昭儀(ソウィ:소의)へと昇進した。そして、同年10月27日、王室待望の王子昀(ユン:윤:後の景宗)を生む。
1689年(粛宗15年)1月15日、その功労により内命婦の品階で最高の嬪(ピン:빈)に冊封し「禧嬪(ヒビン:희빈)と号された。張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)の誕生である。 昀は元子に冊封された。元子定号(ウォンジャジョンホ:원자정호)
さらに1689年(粛宗15年)5月2日、仁顕王后は廃され宮外の安国洞(アングクドン:안국동)にある私邸に蟄居することとなる。その後、張氏が王妃に冊立された。
この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれた、替って南人派が権力を握ることになった。
これを己巳換局(キサファングク:기사환국)という。
Queen Min In-Hyeon (仁顕王后; 1667-1701)
marriage women's seventh duties or evils reason for leaving home 七去之悪
「七去之悪」とは、
第1に「舅姑」夫の父母に従わない「不順舅姑」であり、
第2に「無子」で男児を産まねば、嫁の資格を失った。
第3が「淫行」で夫以外の男性と話すのも、眺めるのも禁忌となっていた。
第4は「嫉妬」である。夫が妾を持っても嫉妬してはならなかった。
第5が「悪疾」である。重い病にかかったら、追放された。
第6が「口舌」で口論したり、他人を誹謗してはならなかった。
第7が「盗竊」で盗みであった。pilferage
http://heavysweetheaven.web.fc2.com/cyborg.html
儒教の教えで、’不幸・不妊・淫行・嫉妬・悪疾・多弁・窃盗’を<してはならない七カ条>として、嫁に行く女性へ定められたもの。
http://blogs.yahoo.co.jp/hangul_yamato/9590164.html
朝鮮の風習(妾を拾う)
最近のある時代劇(韓国ドラマ)で面白い話が出たので、今日はそれについて話させて頂きます。
朝鮮時代には「拾妾」と言う風習があったそうです。
妾を拾うって意味です。
朝鮮時代の人達は女性は男性に従属されてる者だと思っていました。
女性達の行動にも色んな制限があったので女性にはかなり不自由な時代でした。
外に出る時は顔を見せちゃ行けないとか、再婚は駄目とか。。。
また「七去之悪」と言う(妻と離縁するための七つの理由)がありました。
・旦那の親に素直に従わない事
・息子がいない事
・いやらしい事
・嫉妬をする事
・持病がある事
・良くしゃべる事
・盗む事
この「七去之悪」に一つでも当てはまったら家から追い出されて、
一生旦那がいないまま一人で生きるしかなかったのです。
けど、このような女性を助ける一つの風習がありました。「拾妾」と言う物です。
日本の神社のようなものが韓国にもありまして、
こういう女性が夜明けに神社の前に立っていたら、
その道を通る一番最初の男性にはこの女性を妾に迎える義務がありました。
男性の身分が貴族ではなくても、奴隷であっても関係なく一番最初に会った男性の妾になるのです。
これが妾を拾う「拾妾」です。
男性の義務だったんですよね~! *^0^*
しかも、夜明けだから女性の顔も良く見えないだろうし、
一応女性を家に連れて来た後、明るいところでよ~く見たらまずかったってことになったら?
それでも義務だから仕方なかったんでしょうね。^0^
http://www.geocities.jp/namu_mauru/tyousen2.htm
朝鮮王朝実録②肝っ玉の太い女達
「 韓国の雑誌 月刊朝鮮より」
여자 사관(史官) 임금이 결사반대
조선시대는 엄격한 유교사회로서 칠거지악과 유교적 신분질서로 속박을 당했지만 재기발랄하고 활달하며, 스스로의 삶을 즐기는 여성들도 상당수였다. 사대부 여자가 돈을 위조하고, 자신의 미모와 권세로 일가친족이나 애인을 출세시키는가 하면 승승장구하는 사대부 관리들을 섹스 스캔들로 파멸시키는 간 큰 여성들의 삶도 발견된다. 한편에선 국가 자존의 명분을 위해 중국으로 끌려가는 여성들도 많았다.김용삼
女史官(歴史の記録編修をする者) 王様決死の反対
朝鮮時代は厳格な儒教社会として七去之悪と儒教的身分秩序によって束縛されていたが才気溌剌、闊達で自らの生き様を楽しむ女性達もけっこう居た。士大夫の女が金を偽造し美貌と権勢によって一家眷属や愛人を出世させたかと思えば日の出の勢いの官吏達をセックススキャンダルで破滅させる肝っ玉の太い女性達の生き様も見られる。一方では国家存立の名分の下に中国へ連れて行かれた女性達も多かった。キムヨンサム記者
七去之悪とは父母に従わないこと、不妊、不貞、嫉妬、悪疾患、多弁、泥棒の七つを言い、夫が妻を一方的に離婚できる妻の罪
조선 500년은 어느 시대 못지 않게 남성 지배구조가 절정을 이룬 시기다. 남성 중심의 사회였던 만큼 여성들은 관직에 진출할 기회가 박탈됐고, 극히 일부를 제외하고는 직업인으로서 활동이 제약됐다. 그러나 조선왕조실록은 갖가지 서슬 퍼런 유교 도덕률과 가부장(家父長)적 신분질서에도 불구하고 여성들은 꿋꿋하게 자신들의 삶을 영위해 갔음을 전해주고 있다. 말하자면 속박의 굴레에도 불구하고 사회를 뒤흔든 ‘간 큰 여자‘들이 너무나 많았던 것이다. 조선의 통치 이데올로기는 유교였던 만큼 기록을 중시했다. 이러한 기록정신의 진수(眞髓)가 조선왕조실록이다. 그런데 이 시절에 사관(史官)이 접근하지 못하는 임금의 사생활을 감시, 기록하기 위해 여자 사관(女史)을 도입하려 했던 사실이 밝혀졌다. 다음은 중종 14년(1519) 4월 22일 실록.
朝鮮500年はどの時代にも劣らず男性支配構造が絶頂を迎えた時期だ。男性中心の時代だけに女性達は官職に進出する機会を奪われおり、極めて一部を占めてはいたが職業人としては活動が制約されていた。しかし、朝鮮王朝実録は各種の凄まじい儒教道徳律と家父長的身分秩序にもかかわらず女性達は怯まず自分達の生を営んで行ったことを伝えている。言うならば束縛の頚木にも拘らず社会を揺るがす「肝っ玉の太い女達」がとても多かったのだ。
朝鮮の統治イデオロギーは儒教であっただけに記録を重視した。このような記録精神の真髄が朝鮮王朝実録だ。ところでこの時代史官が近づけない王様の私生活を監視し、記録するために女史官を導入しようとした事実が明らかになった。次は中宗14年(1519年)4月22日の記録。
<김안국(金安國):“여사(女史:여자 사관)는 규문(여자가 거처하는 방) 안에서 임금의 거동과 언행을 기록하므로 외부 인사가 그 일을 알 수 있으며, 사책(史策)에 기록함으로써 후세 사람이 그것을 보고 선악을 알 수 있습니다. 우리나라에서 규문 안의 일을 자세히 알 수 없는 것은 여사(女史)가 없기 때문입니다. 신의 생각에는 여사(女史)를 두어 (임금과 왕비의) 동정과 언행을 기록하는 것이 좋다고 생각합니다.“> 이 의견에 여러 대신들은 찬성했지만 임금 입장에서는 청천병력이 아닐 수 없었다. 가뜩이나 사관의 감시 때문에 불편하던 차에 구중궁궐 깊숙한 사생활까지 여자 사관에게 감시당해야 한다는 말에 정이 떨어진 것이다. 이를 물리치는 임금의 답변이 여간 궁색하지가 않다.
金安国:
女史官は女部屋で王様の立ち居振る舞いと言行を記録するので外部の者が王様の様子をを知ることが出来るし、史記に記録するので後世の人がその記録を見て善悪を知ることが出来る。わが国に於いて女部屋の中のことを詳しく知りえないのは女史官がいないからだ。わたしの考えでは女史官を置いて王様と王妃の動静と言行を記録するのがよいと思います。
この意見に大勢の大臣達は賛成したが王様の立場からは青天の霹靂というほかは無かった。多くの史官の監視によって不便をかこって来た上に宮中の奥深くの私生活まで女史官に監視されなければならない話に気がなえたのだ。これを退けようと答える王様の困惑振りは一通りではなかった。
<“옛날에는 여자들이 글을 알았으므로 올바른 여사(女史)를 얻어서 규문 안의 일을 기록할 수 있었으나 지금은 글에 능한 여자가 적으니 사람 얻기가 어려울 것 같다.“> 이 답변에 김안국은 “밖에서는 좌우에 시종과 사관이 있으면서 안에는 여사(女史)가 없으니 통치에 큰 흠이 된다“고 했으며 이청(李淸)이란 관리도 “어찌 문자(한문)로만 기록해야 할 필요가 있겠습니까. 언문으로 기록해도 해로울 것이 없습니다“라고 발언했다.
”昔は女達が文字(漢字)を知っていたたので心根の正直な女史官を得て女部屋の中で記録することが出来たが、今は文章に秀でた女が少ないから人材を得るのが難しいと思う。”
この答弁に金安国は”外には左右に待中と史官がいるうえに、中は今まで女史官がいなかったので統治に大きな力になる”と言い、李清という官吏も”どうして漢文だけで記録する必要がありましょうか。諺文(ハングル)で記録しても害になることはありません。”との発言をした。
<임금:“여자 사관은 선악을 기록하는 것이니 마음이 올바른 여자를 얻은 뒤라야 가능하다.“ 이청:“여사(女史)와 사관은 다릅니다. 여사(女史)는 규중 안에서 임금의 일상을 기록하는 것뿐입니다.“> 결국 여자 사관 제도 도입은 임금의 강력한 반대로 좌절되고 말았다. 임금 입장에서는 천만다행이었을 것이고, 후대의 역사 연구가들에게는 매우 안타까운 일이었다. 만약 여사(女史)가 임금의 사생활을 적나라한 필치로, 그것도 한문이 아닌 한글로 기록해 놓았다면 우리의 조선왕조시대 역사 연구가 얼마나 더 풍부해졌을까.
王様:”女史官は善悪を記録するものだから心正しい女を得た後なら可能だ”
李清:”女史官と史官は違います。女史官は女部屋の中で王様の日常を記録するだけです”
結局女史官制度の導入は王様の強力な反対によって挫折した。王様の立場からはすごく良かったことだろう。後世の歴史研究家たちには非常に残念なことだった。万一女史官が王様の私生活を赤裸々な筆致でそれも漢文ではなくハングルで記録しておいたならば我国の朝鮮王朝時代の歴史研究はどれほど実り多かったであろうか。 입력날짜 : 2008-04-14 (14:33)
第1に「舅姑」夫の父母に従わない「不順舅姑」であり、
第2に「無子」で男児を産まねば、嫁の資格を失った。
第3が「淫行」で夫以外の男性と話すのも、眺めるのも禁忌となっていた。
第4は「嫉妬」である。夫が妾を持っても嫉妬してはならなかった。
第5が「悪疾」である。重い病にかかったら、追放された。
第6が「口舌」で口論したり、他人を誹謗してはならなかった。
第7が「盗竊」で盗みであった。pilferage
http://heavysweetheaven.web.fc2.com/cyborg.html
儒教の教えで、’不幸・不妊・淫行・嫉妬・悪疾・多弁・窃盗’を<してはならない七カ条>として、嫁に行く女性へ定められたもの。
http://blogs.yahoo.co.jp/hangul_yamato/9590164.html
朝鮮の風習(妾を拾う)
最近のある時代劇(韓国ドラマ)で面白い話が出たので、今日はそれについて話させて頂きます。
朝鮮時代には「拾妾」と言う風習があったそうです。
妾を拾うって意味です。
朝鮮時代の人達は女性は男性に従属されてる者だと思っていました。
女性達の行動にも色んな制限があったので女性にはかなり不自由な時代でした。
外に出る時は顔を見せちゃ行けないとか、再婚は駄目とか。。。
また「七去之悪」と言う(妻と離縁するための七つの理由)がありました。
・旦那の親に素直に従わない事
・息子がいない事
・いやらしい事
・嫉妬をする事
・持病がある事
・良くしゃべる事
・盗む事
この「七去之悪」に一つでも当てはまったら家から追い出されて、
一生旦那がいないまま一人で生きるしかなかったのです。
けど、このような女性を助ける一つの風習がありました。「拾妾」と言う物です。
日本の神社のようなものが韓国にもありまして、
こういう女性が夜明けに神社の前に立っていたら、
その道を通る一番最初の男性にはこの女性を妾に迎える義務がありました。
男性の身分が貴族ではなくても、奴隷であっても関係なく一番最初に会った男性の妾になるのです。
これが妾を拾う「拾妾」です。
男性の義務だったんですよね~! *^0^*
しかも、夜明けだから女性の顔も良く見えないだろうし、
一応女性を家に連れて来た後、明るいところでよ~く見たらまずかったってことになったら?
それでも義務だから仕方なかったんでしょうね。^0^
http://www.geocities.jp/namu_mauru/tyousen2.htm
朝鮮王朝実録②肝っ玉の太い女達
「 韓国の雑誌 月刊朝鮮より」
여자 사관(史官) 임금이 결사반대
조선시대는 엄격한 유교사회로서 칠거지악과 유교적 신분질서로 속박을 당했지만 재기발랄하고 활달하며, 스스로의 삶을 즐기는 여성들도 상당수였다. 사대부 여자가 돈을 위조하고, 자신의 미모와 권세로 일가친족이나 애인을 출세시키는가 하면 승승장구하는 사대부 관리들을 섹스 스캔들로 파멸시키는 간 큰 여성들의 삶도 발견된다. 한편에선 국가 자존의 명분을 위해 중국으로 끌려가는 여성들도 많았다.김용삼
女史官(歴史の記録編修をする者) 王様決死の反対
朝鮮時代は厳格な儒教社会として七去之悪と儒教的身分秩序によって束縛されていたが才気溌剌、闊達で自らの生き様を楽しむ女性達もけっこう居た。士大夫の女が金を偽造し美貌と権勢によって一家眷属や愛人を出世させたかと思えば日の出の勢いの官吏達をセックススキャンダルで破滅させる肝っ玉の太い女性達の生き様も見られる。一方では国家存立の名分の下に中国へ連れて行かれた女性達も多かった。キムヨンサム記者
七去之悪とは父母に従わないこと、不妊、不貞、嫉妬、悪疾患、多弁、泥棒の七つを言い、夫が妻を一方的に離婚できる妻の罪
조선 500년은 어느 시대 못지 않게 남성 지배구조가 절정을 이룬 시기다. 남성 중심의 사회였던 만큼 여성들은 관직에 진출할 기회가 박탈됐고, 극히 일부를 제외하고는 직업인으로서 활동이 제약됐다. 그러나 조선왕조실록은 갖가지 서슬 퍼런 유교 도덕률과 가부장(家父長)적 신분질서에도 불구하고 여성들은 꿋꿋하게 자신들의 삶을 영위해 갔음을 전해주고 있다. 말하자면 속박의 굴레에도 불구하고 사회를 뒤흔든 ‘간 큰 여자‘들이 너무나 많았던 것이다. 조선의 통치 이데올로기는 유교였던 만큼 기록을 중시했다. 이러한 기록정신의 진수(眞髓)가 조선왕조실록이다. 그런데 이 시절에 사관(史官)이 접근하지 못하는 임금의 사생활을 감시, 기록하기 위해 여자 사관(女史)을 도입하려 했던 사실이 밝혀졌다. 다음은 중종 14년(1519) 4월 22일 실록.
朝鮮500年はどの時代にも劣らず男性支配構造が絶頂を迎えた時期だ。男性中心の時代だけに女性達は官職に進出する機会を奪われおり、極めて一部を占めてはいたが職業人としては活動が制約されていた。しかし、朝鮮王朝実録は各種の凄まじい儒教道徳律と家父長的身分秩序にもかかわらず女性達は怯まず自分達の生を営んで行ったことを伝えている。言うならば束縛の頚木にも拘らず社会を揺るがす「肝っ玉の太い女達」がとても多かったのだ。
朝鮮の統治イデオロギーは儒教であっただけに記録を重視した。このような記録精神の真髄が朝鮮王朝実録だ。ところでこの時代史官が近づけない王様の私生活を監視し、記録するために女史官を導入しようとした事実が明らかになった。次は中宗14年(1519年)4月22日の記録。
<김안국(金安國):“여사(女史:여자 사관)는 규문(여자가 거처하는 방) 안에서 임금의 거동과 언행을 기록하므로 외부 인사가 그 일을 알 수 있으며, 사책(史策)에 기록함으로써 후세 사람이 그것을 보고 선악을 알 수 있습니다. 우리나라에서 규문 안의 일을 자세히 알 수 없는 것은 여사(女史)가 없기 때문입니다. 신의 생각에는 여사(女史)를 두어 (임금과 왕비의) 동정과 언행을 기록하는 것이 좋다고 생각합니다.“> 이 의견에 여러 대신들은 찬성했지만 임금 입장에서는 청천병력이 아닐 수 없었다. 가뜩이나 사관의 감시 때문에 불편하던 차에 구중궁궐 깊숙한 사생활까지 여자 사관에게 감시당해야 한다는 말에 정이 떨어진 것이다. 이를 물리치는 임금의 답변이 여간 궁색하지가 않다.
金安国:
女史官は女部屋で王様の立ち居振る舞いと言行を記録するので外部の者が王様の様子をを知ることが出来るし、史記に記録するので後世の人がその記録を見て善悪を知ることが出来る。わが国に於いて女部屋の中のことを詳しく知りえないのは女史官がいないからだ。わたしの考えでは女史官を置いて王様と王妃の動静と言行を記録するのがよいと思います。
この意見に大勢の大臣達は賛成したが王様の立場からは青天の霹靂というほかは無かった。多くの史官の監視によって不便をかこって来た上に宮中の奥深くの私生活まで女史官に監視されなければならない話に気がなえたのだ。これを退けようと答える王様の困惑振りは一通りではなかった。
<“옛날에는 여자들이 글을 알았으므로 올바른 여사(女史)를 얻어서 규문 안의 일을 기록할 수 있었으나 지금은 글에 능한 여자가 적으니 사람 얻기가 어려울 것 같다.“> 이 답변에 김안국은 “밖에서는 좌우에 시종과 사관이 있으면서 안에는 여사(女史)가 없으니 통치에 큰 흠이 된다“고 했으며 이청(李淸)이란 관리도 “어찌 문자(한문)로만 기록해야 할 필요가 있겠습니까. 언문으로 기록해도 해로울 것이 없습니다“라고 발언했다.
”昔は女達が文字(漢字)を知っていたたので心根の正直な女史官を得て女部屋の中で記録することが出来たが、今は文章に秀でた女が少ないから人材を得るのが難しいと思う。”
この答弁に金安国は”外には左右に待中と史官がいるうえに、中は今まで女史官がいなかったので統治に大きな力になる”と言い、李清という官吏も”どうして漢文だけで記録する必要がありましょうか。諺文(ハングル)で記録しても害になることはありません。”との発言をした。
<임금:“여자 사관은 선악을 기록하는 것이니 마음이 올바른 여자를 얻은 뒤라야 가능하다.“ 이청:“여사(女史)와 사관은 다릅니다. 여사(女史)는 규중 안에서 임금의 일상을 기록하는 것뿐입니다.“> 결국 여자 사관 제도 도입은 임금의 강력한 반대로 좌절되고 말았다. 임금 입장에서는 천만다행이었을 것이고, 후대의 역사 연구가들에게는 매우 안타까운 일이었다. 만약 여사(女史)가 임금의 사생활을 적나라한 필치로, 그것도 한문이 아닌 한글로 기록해 놓았다면 우리의 조선왕조시대 역사 연구가 얼마나 더 풍부해졌을까.
王様:”女史官は善悪を記録するものだから心正しい女を得た後なら可能だ”
李清:”女史官と史官は違います。女史官は女部屋の中で王様の日常を記録するだけです”
結局女史官制度の導入は王様の強力な反対によって挫折した。王様の立場からはすごく良かったことだろう。後世の歴史研究家たちには非常に残念なことだった。万一女史官が王様の私生活を赤裸々な筆致でそれも漢文ではなくハングルで記録しておいたならば我国の朝鮮王朝時代の歴史研究はどれほど実り多かったであろうか。 입력날짜 : 2008-04-14 (14:33)
Sunday, January 29, 2012
reading books of Isabella L. Bird イザベラ・バード『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』の記述
http://japonism2ch.blog57.fc2.com/blog-entry-172.html
イザベラ・バード『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』の記述(part29スレ)
- 2010/04/27(Tue) -
18 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 18:14 ID:f/Itw7oH]
ようやくいろいろ最近評判の、イザベラ・バード『日本奥地紀行』、
『朝鮮紀行』を読み終えた。面白く読めた。
日本については、東北・北海道(特にアイヌ)についての詳細な記述は貴重だ。
過去スレでもあったと思うが、農村では眼病や皮膚病が多く、
都市部のような衛生観念は発達していなかったようだ。
とてもくたびれたしかし親切でやさしい人たち。
(彼女は日本で外国の女性が一人旅をしても安全だと確信している。
これは幾分留保が必要だろうと思うが)
山形(立派な町並み)・秋田(素晴らしい病院と学校)など印象に残る。
青森の弘前もそうだ。当地の少し英語が話せるクリスチャンの青年の一人は、
いままで日本で見た中で最も明るく最も知性的に見えたそうだ。
東奥義塾ではクリスチャン教育がされ、アメリカ人の校長がいる。
中央からみてまさに奥地であっても、それなりに開かれている。
徒歩や馬での各都市間の交通は時に非常な困難をともなう。
それなのにどうやって日本の文化が各地に浸透していったか、
単純に不思議に思った。
19 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 18:15 ID:f/Itw7oH]
朝鮮については、彼らは一般に無気力にみえるが、
それには理由があると彼女は考えている。
朝鮮には盗む側と盗まれる側しかなく、下層階級は
生活に必要最低限以上の儲けや収穫があると、
支配層がそれを借りるという名目で搾取してしまうため、
余分に働かないようにしているのだと。
貸しは返されることはなく、貸さなければ罰せられる。
しかし無気力が朝鮮人の矯正できない本来の気質とはみていない。
利益に公正に得られるロシア領(だったかな?)での彼らは
勤勉だったからだそうだ。
20 名前:さまよえる亡国人 ◆KZpq9jlrYI mailto:sage [04/07/19 18:34 ID:oAbPl/+/]
>>19
そう。そしてバード女史が未来を見た、沿海州の朝鮮人は、
スターリンによって丸ごとドン流域の中央アジアへと強制移住させられ、
いまなおそこに住んでいる。
そして現在再び北朝鮮からウラジオストクに出稼ぎが多く出ていると聞く。
今度こそ彼らに幸あれと願う。
21 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 19:47 ID:K5Nm0yaZ]
>>18-19
読了乙。
朝鮮紀行における、半島に進出してる日本人、軍人の描写。
半島から帰ってきた時の日本の描写。
庶民レベルでの半島人と日本人の社会的気質の違い。
現時点での日本と、半島両国家の違いってのは、この時代からはっきりと
見えていたって事を伝える良書ですな。
広く読まれて欲しい。
22 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 20:05 ID:Uk+Ka7hG]
イザベラは決して日本だけを持ち上げてるわけじゃないけどね。
朝鮮人の体格の良さを日本人と比較して持ち上げてるし、
語学習得力も日本人や中国人より勝ってて頭がいいと評してる。
24 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 21:36 ID:vFzendcc]
>>22
これはネタなのだろうか?
25 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 22:03 ID:f/Itw7oH]
>>24
『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)の24頁、40頁。
外国語習得が早く流暢でアクセントが優秀と言ってる。
しかし「頭が良い」と書いているところは見つけられないな。
まあなんにせよ、これらの本の中で、
それぞれ各自で見つけたいものを見つけうるだろう。
26 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:32 ID:hhakSkBe]
257 名前: [] 投稿日:03/11/30 13:59 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P29 序章 朝鮮人の体格
しかし朝鮮人は、
最も近い隣国人である中国人や日本人の両者とは著しく異なっている。
朝鮮人には人相学上注目すべき多様性があり、
その単調な服装のために、それは一層きわだっている。
日本と中国で、よそ者[外国人]につきまとい、
悩ませている人を見分ける難しさは、朝鮮にはない。
258 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 13:59 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P30~31 序章 朝鮮人の体格
目は黒いが、濃褐色から薄茶色まである。頬骨は高い。眉毛には流行が
認められ、しばしば高貴で知的である。耳は小さく、よく整っている。
表情は通常、ちょっと理解できないところがあるが、陽気である。
人相学上では、一番良い顔付きをした時、意志の力強さよりむしろ
もの判りの良さを示している。朝鮮人は確かに立派な人種である。
朝鮮人の歩きぶりは、素晴らしく申し分ない。
朝鮮人は、優れた知力を気前よく授けられている。
外国人教師は朝鮮人の機敏さともの判りの良さに就いて喜んで証言する。
朝鮮人は天分があって言語をとても速く習得し、
中国人や日本人よりも流暢に、またずっと良い発音で話せる。
27 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:33 ID:hhakSkBe]
259 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:00 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P35 序章 地理的形状
気候は疑いなく世界で一番素晴らしく、健康のためにも最適である。
外国人でも気候の弊害で悩まされる事は何一つ無い、
ヨーロッパ人の児童は、朝鮮半島のあらゆる地域で健全に育てられている。
七月、八月そしてしばしば九月前半は暑くて雨が多い。
しかし、その暑さは、いつでも運動が出来る程に海のそよ風で和らげられている。
一年の九か月間、空はたいてい晴れている。
朝鮮の冬は、しんと静かな大気、曇りのない晴れて青い空、
穏やかでからっからに乾いた日照り、爽やかで冷ややかな夜と、
全く素晴らしい。
260 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:01 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P51 第1章 朝鮮の第一印象 日本人の企業
朝鮮人は目新しい印象を作り出している。中国人にも日本人にも似ないで
そのどちらよりもずっと立派に見える。
その体格も日本人よりずっと素晴らしい。
28 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:34 ID:hhakSkBe]
261 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:02 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P42 序章 朝鮮文学
朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
しかし、それは古風な一千年昔の中国様式のもので、
今、清国で話されている中国語の発音とは完全に異なっている。
諺文(オヌムヌ)[一四四三年(世宗二十五年)に創製、
頒布された訓民正音。
反切、国文、ハヌクルともいう。人工的に意図的に製作された表音文字。
人類が持っている七種類の文字のうちで最も科学的で合理的なもの、
と言われている]
---朝鮮文字は教育を受けた人達にまるで軽蔑されている。
彼らの唯一の教育は中国の古典にある。
朝鮮人は優秀で、東アジアでアルファベット[字母のある唯一の文字]を
使っている。
262 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:02 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P138 第6章 漢江とその周辺 村の学校
部落とは区別される漢江上の村々には学校がある。
しかしその学校は民衆に開放されてはいない。
家族連合同好会が協力して、教師をひとり雇う。
文理にある中国の学問[儒教]だけが教えられる。
これは、あらゆる朝鮮人の大望である官職への手段になっている。
諺文(オヌムヌ)は軽蔑され、
教育ある階級の書き言葉には使われない。
しかしながら私は、川上に居る下層社会の男の人たちが、
朝鮮固有の筆記文字[諺文]を読める事に気付いた。
29 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:35 ID:hhakSkBe]
271 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:47 ID:U7uFdMcC
このイザベラバードコピペって何?内容本物なの?
今まで見てきたイザベラバードのコピペと内容が真逆なんだが。。。
275 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 15:07 ID:L7w0doO1
>>271
平凡社の東洋文庫「朝鮮奥地紀行1」の中にある、
記述をそのまま抜粋しています。
ハン板では有名な本ですが、
朝鮮のマイナスの部分だけが抜粋される事が多いようなので、
逆に意識的に朝鮮を誉めている所、
ハン板的にはあまりうれしく無い所だけを選んであります。
278 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 15:40 ID:L7w0doO1
>>277
文庫サイズで2巻に別れています、両方合わせると6千円くらい。
私は図書館から借りて来て読んでいる最中です。
基本的には100年以上も前に
イギリス人女性が東洋を旅行した記録ですから、
日本人にとっても朝鮮人にとっても耳が痛い内容ではあるわけです。
とは言え、当時の朝鮮の実情を知る上では第1級の資料ですから
日本ではちゃんと妙訳、完訳揃って誰でも読めるようになっています。
上記にあるような「日本人にとっては不愉快な内容」も完訳には
きちんと収められています。当り前の事ですが。
韓国では翻訳も出版もされていないそうです
31 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:08 ID:w2x31b8n]
>>29
誤解があるといけないので補足しとくが、今では文庫で安く買える。
上げといて落とす、を実践してるな、イザベラ女史は。
社会制度とかについては、朝鮮はもうボロクソ。
32 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:14 ID:f/Itw7oH]
同じ話題がしつこくてすまんが、いま挙げられたとこを
講談社学術文庫版(時岡敬子訳)で2、3見てみると
平凡社と訳し方が異なりそれにより印象が違うように自分には感じる。
平凡社のものは朴尚得訳でいいのかな。
33 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:18 ID:D+YWT9hE]
>>29
> 上記にあるような「日本人にとっては不愉快な内容」も完訳には
漏れは別に上記の内容は別に不愉快ではない。
それどころか、朝鮮の上層部さえちゃんとしていたら、日本と手を結べる
先進国家になれる可能性さえ見出せる。
でも、
> 韓国では翻訳も出版もされていないそうです。
こんなことではたぶんその可能性は無さそうだ。
34 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:33 ID:KrUTi7s7]
>>32
その朴尚得という朝鮮人はまともなの?
36 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 23:41 ID:Uk+Ka7hG]
>>32
そんなことだろうと思った。朝鮮人が意訳しまくってるのか?
講談社版の前述の個所の翻訳うっぷして~!
35 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:40 ID:f/Itw7oH]
対応箇所は原文と平凡社を持ってないので違っていたらすいません。
平凡社東洋文庫(P29)→講談社学術文庫(P22)
「(…)朝鮮人は隣邦の清国人とも日本人とも著しく異なっており、
顔だちにはたいへんバラエティがあって、しかも衣服が画一的なので
いっそうそれが目につく。日本や清で外国人を悩ませる、
現地の人々を識別するむずかしさは朝鮮には存在しない。」
37 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:47 ID:f/Itw7oH]
平凡社東洋文庫(P30~31)→講談社学術文庫(P23~24)
「目は暗色であるが、濃い茶色から薄茶色までさまざまである。
頬骨は高く、ひたいは帽子その他で隠れていないのを目にしたかぎり
では、広くて知的なひたいがとても多い。耳は小ぶりで形がよい。
一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔立ちから察せられるのは、
最良の場合、力あるいは意思力よりも明敏さである。
朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である。」
「所用中の庶民の小きざみでしっかりした足取りにせよ、
朝鮮人男性はよく歩く。」
(「歩きぶり」の話はこの箇所だろうか?)
「知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」と
いわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは
外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、
清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。」
原文と平凡社のものを確かめられないのであくまで参考程度に。
38 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:05 ID:IuBUYWDX]
>>28
講談社版の該当箇所と思われる部分。P32~33.
朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。
知識階級は会話の中に漢語を極力まじえ、
いささかでも重要な文書は漢語で記される。
とはいえそれは1000年も昔の古い漢語であって、
現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。
朝鮮文字である諺文(オヌムヌ)[ハングル]は
教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。
朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。
(以下ハングルが1895年に官報に採用された事等の記述。
それが日本の文に似てる等)
----------------------------------------------------------------
なんかニュアンスがかなり違う。こちらにない表現は、
>朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
>[一四四三年(世宗二十五年)に創製、頒布された訓民正音。
>反切、国文、ハヌクルともいう。
>朝鮮人は優秀で、
等。
39 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:09 ID:jHE4NrTH]
>>27
平凡社東洋文庫(P35)→講談社学術文庫(P26)
「気候は疑問の余地なく世界で最もすばらしく、かつ健康によい部類に入る。
外国人が気候による疾患にかかることはなく、また西洋人の子供たちは
朝鮮半島のどの地においてもつつがなく育てられる。
ときには九月前半も含め、七月と八月は暑く雨が多いものの、
暑気は海風でなごめられるので、運動はいつでも可能である。
一年のうち九ヶ月は概して晴天である。また朝鮮の冬は大気が安定し、
空は雲もなく青く澄みわたり、空気がきわめて
乾燥しているのに不快さはなく、霜が降りる寒さの夜はさわやかで、
申し分なくすばらしい。」
平凡社東洋文庫(P51)→講談社学術文庫(P40)
「朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、
そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。」
40 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 00:10 ID:ihrW4jvP]
>>38
thx。ハングルの説明個所はまだわかるけど、
>朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
>朝鮮人は優秀で、
やっぱこのあたりの補足は蛇足、いや捏造だな。さすが韓国人、期待を裏切らないw
41 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:12 ID:nnJzw6rj]
別に朝鮮人のマイナス面をあげつらうのがハン板の喜びと思われても困るがな。
古今東西が朝鮮人に多大な迷惑を被っていて、しかもそれが隠蔽されているから
それを晒していこうというのがあそこの態度だ。
42 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:19 ID:FEuyvFbH]
つーか、ハン板の住人ほど半島を愛している日本人はいないと思うよ。
45 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:47 ID:cB1m6d+J]
平凡社の東洋文庫版読んだことがあるんですが、分かりづらかったですよ。
訳者はあとがきで「創氏改名」とか「差別」とか愚痴たれてますし、
大学は出てるけど、英文専攻でも、英語で教育受けたわけでもなさそうでした。
本文中に朝鮮に関しての注釈が長々とあって読みづらいです。
46 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:49 ID:jHE4NrTH]
>>28
平凡社東洋文庫(P138)→講談社学術文庫(P111)
「小集落は別として、漢洪沿いの村々には学校がある。
ただし学校といっても私塾である。
家々でお金を出しあって教師を雇っているが、
生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、
これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。
諺分[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。
とはいえ、わたしの観察したところでは、
漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。」
50 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 02:49 ID:6mjPbdk8]
そもそも、このイザベラ・バードって、どんな人なの。
現地に溶け込み、旅行先の文化や人々と触れ合うのが楽しいというタイプなのか、
文明人が、未開の地を探検し、
住人がいかに野蛮か観察してやろうというタイプなのか。
53 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 08:43 ID:DYkwtyRV]
>>50
この時代にあえて日本奥地、中国奥地、朝鮮奥地へひとりで
行ってるなんて、アジア文明に興味があるわけじゃないだろう。
今で言えば、アフリカ奥地、アマゾン奥地探検記みたいなつもりじゃないの。
確か東北旅行のあと、函館のイギリス領事館で
シャワーをあび、食事をして、
久しぶりに人間らしい生活ができたみたいなことを言ってなかったか。
58 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 12:49 ID:nnJzw6rj]
>>50
イザベラ・バードに関しては俺も>>53のいうことがちょっと気になる。
この人日本、朝鮮、中国、チベットへと旅行しているのだけど、
例えば朝鮮へはソウルや平壌ばかり何度も行ってるくせに、
日本はわざわざ東北奥地から北海道の僻地に旅行して、
そこの貧民を観察しては、それを一般日本人として
まぁなんて日本人はみすぼらしいのでしょ、とやってる。
勘ぐるならば、自分がアジア人に対して優越感持てる場所を探し出して
旅行してるように見えるんだな。
59 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 12:56 ID:UHNziHAR]
この時代の白人は有色人種&非キリスト教徒を人間としてみてないからね。
多少の偏見は仕方がない。
60 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:03 ID:LpD4Ikjg]
エジプトやケニアで、ビル群を映さないのと同じような事かもな。
62 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:27 ID:FYAm8YWO]
>>58
「日本奥地紀行」に関して言えば、
まず横浜東京などの都市をさらっと通った記述の後に、
日光→北陸→東北→北海道となってる。
都市部(関東、京都等)に関しては
「みなさん十分ご存知でしょうから」という感じではしょってるな。
逆に言えば当時の日本の都市部は、
海外でも結構知られてたのか、という見方もできる。
通訳の日本人が「日本にまだこんな所があるなんて_| ̄|○」
となる描写も多々あるんだが
そういった遠慮のない観察があるからこそ、
それらよりも多い日本への高い評価が生きてくるのだと思う。
この本、どれだけ欧米で売れたのかねえ?
63 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:38 ID:VEUbZZvB]
東北地方はずっと貧しかったからね。昭和に入るまでほっとかれたし。
ま、その東北にかけるべき金を、朝鮮に投入してた訳なんだが。
64 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 14:32 ID:1TIZxBgW]
226事件だって東北の貧困が根底にあるわけだし
今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
実際はそんなわけないのはわかってるけど、イメージが・・
66 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 14:45 ID:QOVllLLp]
>>64
>今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
>実際はそんなわけないのはわかってるけど、イメージが・・
それって、欧米人が日本に抱くイメージギャップと同種のもんじゃね?
日本人でも東北は少し遠いからちょっと前のイメージが残る。
欧米人だと日本は凄く遠いからもの凄く前のイメージが残る。
69 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 15:50 ID:x4S2hbJ1]
>>63
>ま、その東北にかけるべき金を、朝鮮に投入してた訳なんだが。
今も本来なら東北・北海道に来るはずだった工場が
東南アジア・中国に逃げております_| ̄|○
70 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 16:06 ID:VR9xVpg4]
>>69
これはマジ、問題提起しなければいけない問題だな。
でも最近は序々にですが回帰しつつ有るのですが、とくに#と松下。
でも申し訳ないんですけど
両方とも関西に工場を建てているんですねえ。申し訳ない。
71 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 16:30 ID:1TIZxBgW]
>>70
回帰の理由は技術流出を防ぐ為だよね?
#は偉い目にあってるし。
72 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 16:44 ID:VR9xVpg4]
>>71
勿論そうです。
松下も同じ理由で関西の尼崎にPDPの工場を900億円を掛けて立ててます。
関西の臨海工業地帯も、最近は過疎化の一途だったのですが、
松下の案件で息を吹き返しつつあります。
79 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 17:52 ID:vXBQ7jGu]
>朝鮮人は目新しい印象を作り出している。
>中国人にも日本人にも似ないで
>そのどちらよりもずっと立派に見える。
>その体格も日本人よりずっと素晴らしい。
それ分かる。
例えばマリナーズのイチローとマーリンズのチョイ
あまりにも体格違ってて唖然とするよ。
チョイの方が体格よくてかっこいいもんな。
80 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 17:59 ID:eeRT1ZhP]
成績はイチローが比較にならないほど勝ってるがな
81 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 18:01 ID:WzzbPIQ7]
>>79
0点。それでは釣れない。
82 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 18:13 ID:vXBQ7jGu]
ちがう釣りじゃないって。
チョイはそこらへんのアメ人より体格いいんだよ。すごすぎ。
カリスマのあるイチローでさえ、隣に並んだら一瞬で存在感かすむだろう
ってなくらい見事な肉体してるんだもん。勝てないわこりゃ。
84 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 18:40 ID:iZs7tFLX]
>>82
野球が体格を競うもんならそれでもいいだろうけどなあ。
成績を見たら十把一絡げだわさ。
109 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/21 00:40 ID:VdpgVo6C]
>>64
> 今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
そんなこと言ってたら、大阪と広島にはヤクザしかいないイメージになるぞ;
>>71
ごめん、#のエライ目って?
技術流出とか?
111 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/21 00:57 ID:cYORXvLB]
>>109
>大阪と広島にはヤクザしかいない
えっ、違うの?
113 名前:日出づる処の名無し [04/07/21 01:06 ID:LzTJg8dG]
>>111
大阪にはお笑い芸人もいますよ
広島はヤクザ、暴走族、プロ市民がいます。
115 名前:日出づる処の名無し [04/07/21 01:09 ID:LzTJg8dG]
>>109
こないだのシャープとジャスコのトラブル。
台湾製液晶テレビ。
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コメント
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キリスト教=文明人
非キリスト教=野蛮人
後は、食習慣の違いに、余りに非寛容だね。
肉食が殆ど無い日本で、肉食人種が不満を持つのは
致し方無いでしょう。
朝鮮人が一番、彼女を許せないのは、朝鮮が結局
自力では近大化できず、日本か露西亜の保護国に
なるしか進歩の道が無いと言い切っているところで
しょうね。
日本人は、中国人からも小日本といわれているように
背が低いです。 貧弱な体格は、両国と比較しても
ほとんど肉食をしないという、食生活にあるでしょうね。 ご飯にタクワン一切れ、水っぽい味噌汁だけでは
身体は大きくなりません。
2010/09/12 21:05 | URL | #WpB2m58s[ 編集] | ▲ top
- -
今の韓国の海産物利用は、歴史的には比較的新しいんじゃないだろうか?
具体的に言えば日韓併合時に、新しい物産利用が加わった部分が相当多い気がする。
何故かと言えば、韓国生活で見た海草、スルメ、塩辛、干物など全て日本の物より雑で、素人ながらこうすればもっと品質が良くなるのに~と思う事が良くあるから。
2010/04/29 23:32 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
>韓国はどうして日本のように魚主体の食生活が発達しなかったのかと尋ねると(以下略)
とにかく日本を悪者に仕立てたいんだろうが、ツッコミどころ満載だな。
1.日本だって、内陸部など地域によっては魚主体ではない。(これは質問側の問題か)
2.海沿いでなくても淡水魚を食べればいい。日本なら鮎やワカサギ。南米ならピラルクとか。
2010/04/29 22:59 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
司馬遼太郎が韓国で何を食べたのか分からない言っている。
倭寇を恐れて、海産物を利用していないとしたら。
講談社学術文庫版「朝鮮紀行」第3刷の
粗織り白もめんのはぎれ、もめん糸、わら靴、木製のくし、キセルとたばこ袋、
干し魚と海藻、飾りひも、粗い紙、上質紙、色が黒に近い麦芽糖など (P.42)
※釜山の旧市街の市で、地面に広げたむしろの上の商品。
海藻はどう説明するのかな?
2010/04/29 13:45 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
>司馬遼太郎の「街道をゆく」に「韓のくに紀行」がある。
これも食事に言及しない。偏食で幼稚な人間らしいけどな
少しある。
韓国はどうして日本のように魚主体の食生活が発達しなかったのかと尋ねると「倭寇ですよ。それが怖くて皆海辺から離れて暮らした。それで肉主体の食生活になった」と言われた
・・・と言う記述があったような記憶が
2010/04/29 08:44 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
>徒歩や馬での各都市間の交通は時に非常な困難をともなう。
>それなのにどうやって日本の文化が各地に浸透していったか、
>単純に不思議に思った。
参勤交代ぐらいは小学生でも知っているだろうに。
当時は、キリスト教のおかげで自分達は発展する事が出来、
愚かな異教徒を支配して当然だと思っていた。
最近でも、一神教が優れた宗教だと言い出す奴が居る。
お前らの文化のベースを創ったのは、多神教のローマ人だけどな。
「朝鮮紀行」を読んだのは、当時の朝鮮人の食生活を知りたかったから。
英国人らしく食に対して興味も知識も無い様で、分からなかった。
司馬遼太郎の「街道をゆく」に「韓のくに紀行」がある。
これも食事に言及しない。偏食で幼稚な人間らしいけどな。
2010/04/29 06:22 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>宗教関係者は女史を含めて、自分に甘いな。
仏教とキリスト教では根本が真逆の気がする。
自己抑制と人間の強欲を正当化する教義では、共存は到底無理っぽい。
2010/04/28 23:49 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
当時の朝鮮人の体格が良かったのは事実。他の人達の記述でも見られる。
その理由は、美食ではなく、異常な大食。
講談社学術文庫版「朝鮮紀行」第3刷から。
・これといって味に特徴のないこのごはんをおいしくさせる料理がほかにつく。
そのなかには突きくだいたトウガラシ、醤油、ひどいにおいのするさまざまなソース、 一種のザワークラウトであるキムチ、海藻、塩漬けの魚、
塩漬けの海藻に衣をつけて揚げたものなどがある。(P.203)
※P.202~205で、朝鮮人の極端な大食を紹介。赤ん坊の時から大食をしつける。
通川手前の中台里の不潔でみすぼらしい集落でも、同様の大食。
大食出来るのは、赤ん坊にまで食べさせる莫大な量の唐辛子と結論。
ただ食事で体格が変わるので、戦国時代の日本人は戦闘民族として体格が良かった。
そんな奴らが突然やって来て、あっという間に拠点を作ったりしたら怖かっただろう。
何百年たっても、秀吉が怖くてしょうがない。腰抜けはなかなか克服出来ない。
当時のロンドンは公害と子供を働かせて酷い状態のはずだが、
宗教関係者は女史を含めて、自分に甘いな。
2010/04/28 21:58 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- その2 -
体格については食糧事情に左右される。
…当時の朝鮮半島が日本よりはるかに食糧事情が良
かったなんて裏づけが無い限りは何書いてあろうと
眉唾物。
あと当時の日本国は肉食解禁から日が浅くまた殺虫剤
つまり農薬も無く窒素肥料も空気からは作れない時代
だったため栄養状態が悪かった。
というより食糧事情や衛生状態、医療環境が改善され
たのは本当にここ最近、昭和も後半になってきてから
の話で、ここを踏まえないで「当時の○○は縄文時代
と変わらない」とか書いてるのは何か間違った行い
だろう。そういうこと書くヒト多いけど、どこの国にも。
2010/04/28 20:46 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
平凡社の東洋文庫版は相当大きい本屋の歴史・紀行の
コーナーに行かないと揃ってないハードカバー。
講談社学術文庫版は名前の通りの文庫本サイズで
中くらいの大きさの本屋なら大抵ある。
で、この女史が日本に来た頃の日本の人口は三千数百万人、アイヌ含まず。
太平洋戦争どころか日露戦争さえまだ二十年近く先の話。
ゆえに抗生物質も殺虫剤も量産どころか発明さえされて
いないので、蚤がどうのシラミがどうの南京虫がどうの
ゴキブリがどうの、といった記述が頻繁に出てくる。
これは日本奥地も朝鮮半島も変わらない。
あと男が全裸全裸ってよく表現に出てくるがこれは多分
ふんどし一丁の姿を見て言っているのではなかろうか。
2010/04/28 19:50 | URL | その1 #-[ 編集] | ▲ top
- -
>成りすまし倭寇の間違いだよね?
そうでした。すみません。
韓国、朝鮮併合に付いては、まあ、難癖付けられるだろうと覚悟して渡韓しましたが、若い世代が秀吉の朝鮮進出まで、あんなに激高するほど洗脳教育されてるとは思わなかったw
2010/04/28 16:31 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
外国語に関しても他国の言葉をすぐに覚えられる・体格が良い
命令しやすく体格が良いってw
この時期の西洋人の感覚だと労働・奴隷に適しているかどうかだろ。
2010/04/28 16:21 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
真下の書きこみですが情報ありがとう。
なるほど、確かにガタイはいいみたいだね。
でも野球は体格が良ければいいってもんじゃないですしね。
チョイと聞くとどうしても格闘ゲームの
チョイ・ボンゲしか浮かばなくて
2010/04/28 14:26 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
- -
「ビッグ・チョイ」こと崔煕渉では無いの?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%92%E3%82%BD%E3%83%97
2010/04/28 13:46 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
>チョイ
検索しても画像が見当たらんので
誰か知ってる人はおられませんか?
2010/04/28 13:08 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
- -
チョイってイチローが「勝てないわ、こりゃ」って言われるほどすごいの?
ぜんぜん知らないけど
2010/04/28 11:05 | URL | . #-[ 編集] | ▲ top
- -
>成り済まし元寇
成りすまし倭寇の間違いだよね?
2010/04/28 09:44 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
- -
女史の朝鮮紀行は講談社学術文庫版で図書館で読んだ。
地図が付いているので、それを参照しながら読んでも、
女史がどこに居て、時期はいつなのかが分かり難い。
帰国してから纏めたと言い訳しているので、自覚はあるようだ。
大きく言うと2回の朝鮮旅行に分けられる。
・1894年4月ソウル発-同年6月元山着の旅。
同年2月長崎を出発して、釜山経由でソウルに入っている。
この旅の詳細は、南漢江で永春までさかのぼった後、戻って、
北漢江から金剛山経由で元山に戻る。
元山から釜山経由で、ソウルに戻るが、日清戦争を避けて清国へ。
日清戦争開戦は同年7月。
その後、満州に渡り奉天まで行った後、北京等で過ごし長崎に戻る。
ウラジオストクに渡り、元山へ。釜山、長崎経由でソウルへ。
・95年1月のソウル。2月にソウルを出て、清の南部と中央を旅して、
夏に日本に戻り、10月に閔妃暗殺のうわさを聞き、ソウルに戻る。
11月にソウルをたち、平壌から徳川まで足をのばし、
平壌経由で12月頃にソウルに戻る。クリスマスにソウルを発ち、
清国西部、日本を旅し、96年10月にソウルに戻る。
97年3月、ソウルから上海に向かい、この旅は終わる。
実際に旅したのは、釜山と、ソウル・平壌・元山を結ぶ三角に大体収まる。
女史が朝鮮全土を歩いた訳ではない。
>七月、八月そしてしばしば九月前半は暑くて雨が多い。
これは伝聞だと思う。この時期に女史は朝鮮に居た形跡が無い。
平凡社版は恣意的記述が多いようだな。
2010/04/28 07:12 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>全部日本のせいにしてるのは同じなのよね
元寇も倭寇退治が目的で、日本が悪いって言われた。
自分の記憶では、倭寇の方が元寇の後で、しかも元寇も途中からは成り済まし元寇が多かったなんて説には、全く聞く耳を持たないで火病ww
2010/04/28 03:46 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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>>ただ当の韓国人が李朝の悲惨さを認めないんだよな。国ぐるみで洗脳されてるからしょうがないんだろうけど。
これで思い出した
朝鮮紀行だと日帝36年の前なんだけど
「秀吉のせいニダ」で全部日本のせいにしてるのは同じなのよね・・・DNAに刻み込まれるってこういう事を言うのか?って思えるほど見事なもんです
2010/04/28 00:42 | URL | ? #-[ 編集] | ▲ top
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江戸時代というのは、世界と比べても日本が優れていた時期なのに対し、李朝ってのは中世レベルまで文明が後退した時代だからね。
この両者を比較して本質的に日本が優れ韓国が劣ると判断するのはフェアじゃない。
ただ当の韓国人が李朝の悲惨さを認めないんだよな。国ぐるみで洗脳されてるからしょうがないんだろうけど。
2010/04/27 23:15 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>いろんな国に滞在経験のある人がブログで、
>「大抵植民地になった国の人は宗主国の言葉を流暢に話すのに、何十年経ってもちっとも英語が上達しない日本は、ある意味凄い」とか言ってた。
散々言われていることだが、英語を話さなくても生活が成り立つからね
英語を話さなければ生活の向上が望めない国と比較しても仕方ない。
2010/04/27 22:54 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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いろんな国に滞在経験のある人がブログで、
「大抵植民地になった国の人は宗主国の言葉を流暢に話すのに、何十年経ってもちっとも英語が上達しない日本は、ある意味凄い」とか言ってた。
2010/04/27 21:53 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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え?え?と思ったら6年前のスレか
たった6ねんでこんなに・・・
ふぅ・・・頑張ろう!!
2010/04/27 21:25 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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私が読んだのは講談社学術文庫版だけどさ
閔妃を気に入ってるから朝鮮を好意的に書きたいけど書く内容が無いから風光明媚な自然を描写してる所が多いと感じた。
朝鮮人の描写を見てる限り現代と変わらんと思うのは私だけかな?
語学と言うべきかその場限りでの話題のそらし方や自分の得意な部分への話の持ってく「口先三寸」の能力は確かに高いと思うからねぇ
2010/04/27 20:55 | URL | ? #-[ 編集] | ▲ top
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日本のバレー女子選手は大きくても女性らしさはある。
が、岸和田悪子のようにDNA異常の人三化け七的なのは日本人には居ない。
2010/04/27 20:47 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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体格に関しては議論の余地はなさそう。
日本は大体粗食を由とする風土で、かの国のように犬や猫・堕胎胎児まで常食してた訳ではないから当然だ。
2010/04/27 20:42 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
重要なのは明らかな朝鮮サイドに立っている人間でも
隠せない部分があるということだから、かえって好都合って思っている。
むしろその部分は強調すべきかも。
単に両論記述しているってだけで、バランスが取れて公平な意見なんて思い込む輩も多いだろうし。
でもやれば出来る子扱いなんだ、な感じかな。
古今東西相も変わらず。
2010/04/27 20:11 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
体格が良い(=背が高い、ゴツイ、ムキムキってこと?)とか外国語をすぐ覚えられる、って、これは誉めてるのかな?
体格がよければスポーツとか肉体労働とかには有利かもしれないけど、それだけといえばそれだけだし。
戦争とかは、技術とか統制とかも重要だし。
健康面なんかも考えてみれば、長生きで燃費が良くて器用で小回りのきく日本車タイプの民族って凄く自慢できるんじゃないだろうか。
外国語に関しても他国の言葉をすぐに覚えられるのがそんなに良い事なのか? ってのがまず疑問。
だって日常生活で外国語なんてほとんど必要ないし。
日本語で全て事足りる、っていう環境はこれはこれで誇れるものだと思う。
別に相手を貶すつもりもないんだけど、長所として(単に特徴として?)上げてるところが余り羨ましく思えなかったもので、つい書き込んでしまいました。
2010/04/27 19:54 | URL | #mQop/nM.[ 編集] | ▲ top
- -
昔の朝鮮人は体格良かったみたいだね
今の韓国人見ると日本人と大して変わらない様に見えるけど
2010/04/27 19:08 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
その通りです@広島
2010/04/27 17:59 | URL | 愛車は774RR #-[ 編集] | ▲ top
イザベラ・バード『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』の記述(part29スレ)
- 2010/04/27(Tue) -
18 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 18:14 ID:f/Itw7oH]
ようやくいろいろ最近評判の、イザベラ・バード『日本奥地紀行』、
『朝鮮紀行』を読み終えた。面白く読めた。
日本については、東北・北海道(特にアイヌ)についての詳細な記述は貴重だ。
過去スレでもあったと思うが、農村では眼病や皮膚病が多く、
都市部のような衛生観念は発達していなかったようだ。
とてもくたびれたしかし親切でやさしい人たち。
(彼女は日本で外国の女性が一人旅をしても安全だと確信している。
これは幾分留保が必要だろうと思うが)
山形(立派な町並み)・秋田(素晴らしい病院と学校)など印象に残る。
青森の弘前もそうだ。当地の少し英語が話せるクリスチャンの青年の一人は、
いままで日本で見た中で最も明るく最も知性的に見えたそうだ。
東奥義塾ではクリスチャン教育がされ、アメリカ人の校長がいる。
中央からみてまさに奥地であっても、それなりに開かれている。
徒歩や馬での各都市間の交通は時に非常な困難をともなう。
それなのにどうやって日本の文化が各地に浸透していったか、
単純に不思議に思った。
19 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 18:15 ID:f/Itw7oH]
朝鮮については、彼らは一般に無気力にみえるが、
それには理由があると彼女は考えている。
朝鮮には盗む側と盗まれる側しかなく、下層階級は
生活に必要最低限以上の儲けや収穫があると、
支配層がそれを借りるという名目で搾取してしまうため、
余分に働かないようにしているのだと。
貸しは返されることはなく、貸さなければ罰せられる。
しかし無気力が朝鮮人の矯正できない本来の気質とはみていない。
利益に公正に得られるロシア領(だったかな?)での彼らは
勤勉だったからだそうだ。
20 名前:さまよえる亡国人 ◆KZpq9jlrYI mailto:sage [04/07/19 18:34 ID:oAbPl/+/]
>>19
そう。そしてバード女史が未来を見た、沿海州の朝鮮人は、
スターリンによって丸ごとドン流域の中央アジアへと強制移住させられ、
いまなおそこに住んでいる。
そして現在再び北朝鮮からウラジオストクに出稼ぎが多く出ていると聞く。
今度こそ彼らに幸あれと願う。
21 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 19:47 ID:K5Nm0yaZ]
>>18-19
読了乙。
朝鮮紀行における、半島に進出してる日本人、軍人の描写。
半島から帰ってきた時の日本の描写。
庶民レベルでの半島人と日本人の社会的気質の違い。
現時点での日本と、半島両国家の違いってのは、この時代からはっきりと
見えていたって事を伝える良書ですな。
広く読まれて欲しい。
22 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 20:05 ID:Uk+Ka7hG]
イザベラは決して日本だけを持ち上げてるわけじゃないけどね。
朝鮮人の体格の良さを日本人と比較して持ち上げてるし、
語学習得力も日本人や中国人より勝ってて頭がいいと評してる。
24 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 21:36 ID:vFzendcc]
>>22
これはネタなのだろうか?
25 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 22:03 ID:f/Itw7oH]
>>24
『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)の24頁、40頁。
外国語習得が早く流暢でアクセントが優秀と言ってる。
しかし「頭が良い」と書いているところは見つけられないな。
まあなんにせよ、これらの本の中で、
それぞれ各自で見つけたいものを見つけうるだろう。
26 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:32 ID:hhakSkBe]
257 名前: [] 投稿日:03/11/30 13:59 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P29 序章 朝鮮人の体格
しかし朝鮮人は、
最も近い隣国人である中国人や日本人の両者とは著しく異なっている。
朝鮮人には人相学上注目すべき多様性があり、
その単調な服装のために、それは一層きわだっている。
日本と中国で、よそ者[外国人]につきまとい、
悩ませている人を見分ける難しさは、朝鮮にはない。
258 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 13:59 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P30~31 序章 朝鮮人の体格
目は黒いが、濃褐色から薄茶色まである。頬骨は高い。眉毛には流行が
認められ、しばしば高貴で知的である。耳は小さく、よく整っている。
表情は通常、ちょっと理解できないところがあるが、陽気である。
人相学上では、一番良い顔付きをした時、意志の力強さよりむしろ
もの判りの良さを示している。朝鮮人は確かに立派な人種である。
朝鮮人の歩きぶりは、素晴らしく申し分ない。
朝鮮人は、優れた知力を気前よく授けられている。
外国人教師は朝鮮人の機敏さともの判りの良さに就いて喜んで証言する。
朝鮮人は天分があって言語をとても速く習得し、
中国人や日本人よりも流暢に、またずっと良い発音で話せる。
27 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:33 ID:hhakSkBe]
259 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:00 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P35 序章 地理的形状
気候は疑いなく世界で一番素晴らしく、健康のためにも最適である。
外国人でも気候の弊害で悩まされる事は何一つ無い、
ヨーロッパ人の児童は、朝鮮半島のあらゆる地域で健全に育てられている。
七月、八月そしてしばしば九月前半は暑くて雨が多い。
しかし、その暑さは、いつでも運動が出来る程に海のそよ風で和らげられている。
一年の九か月間、空はたいてい晴れている。
朝鮮の冬は、しんと静かな大気、曇りのない晴れて青い空、
穏やかでからっからに乾いた日照り、爽やかで冷ややかな夜と、
全く素晴らしい。
260 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:01 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P51 第1章 朝鮮の第一印象 日本人の企業
朝鮮人は目新しい印象を作り出している。中国人にも日本人にも似ないで
そのどちらよりもずっと立派に見える。
その体格も日本人よりずっと素晴らしい。
28 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:34 ID:hhakSkBe]
261 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:02 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P42 序章 朝鮮文学
朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
しかし、それは古風な一千年昔の中国様式のもので、
今、清国で話されている中国語の発音とは完全に異なっている。
諺文(オヌムヌ)[一四四三年(世宗二十五年)に創製、
頒布された訓民正音。
反切、国文、ハヌクルともいう。人工的に意図的に製作された表音文字。
人類が持っている七種類の文字のうちで最も科学的で合理的なもの、
と言われている]
---朝鮮文字は教育を受けた人達にまるで軽蔑されている。
彼らの唯一の教育は中国の古典にある。
朝鮮人は優秀で、東アジアでアルファベット[字母のある唯一の文字]を
使っている。
262 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:02 ID:L7w0doO1
朝鮮奥地紀行1 イザベラ・バード
P138 第6章 漢江とその周辺 村の学校
部落とは区別される漢江上の村々には学校がある。
しかしその学校は民衆に開放されてはいない。
家族連合同好会が協力して、教師をひとり雇う。
文理にある中国の学問[儒教]だけが教えられる。
これは、あらゆる朝鮮人の大望である官職への手段になっている。
諺文(オヌムヌ)は軽蔑され、
教育ある階級の書き言葉には使われない。
しかしながら私は、川上に居る下層社会の男の人たちが、
朝鮮固有の筆記文字[諺文]を読める事に気付いた。
29 名前:ハングル板より転載 mailto:sage [04/07/19 22:35 ID:hhakSkBe]
271 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 14:47 ID:U7uFdMcC
このイザベラバードコピペって何?内容本物なの?
今まで見てきたイザベラバードのコピペと内容が真逆なんだが。。。
275 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 15:07 ID:L7w0doO1
>>271
平凡社の東洋文庫「朝鮮奥地紀行1」の中にある、
記述をそのまま抜粋しています。
ハン板では有名な本ですが、
朝鮮のマイナスの部分だけが抜粋される事が多いようなので、
逆に意識的に朝鮮を誉めている所、
ハン板的にはあまりうれしく無い所だけを選んであります。
278 名前: [sage] 投稿日:03/11/30 15:40 ID:L7w0doO1
>>277
文庫サイズで2巻に別れています、両方合わせると6千円くらい。
私は図書館から借りて来て読んでいる最中です。
基本的には100年以上も前に
イギリス人女性が東洋を旅行した記録ですから、
日本人にとっても朝鮮人にとっても耳が痛い内容ではあるわけです。
とは言え、当時の朝鮮の実情を知る上では第1級の資料ですから
日本ではちゃんと妙訳、完訳揃って誰でも読めるようになっています。
上記にあるような「日本人にとっては不愉快な内容」も完訳には
きちんと収められています。当り前の事ですが。
韓国では翻訳も出版もされていないそうです
31 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:08 ID:w2x31b8n]
>>29
誤解があるといけないので補足しとくが、今では文庫で安く買える。
上げといて落とす、を実践してるな、イザベラ女史は。
社会制度とかについては、朝鮮はもうボロクソ。
32 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:14 ID:f/Itw7oH]
同じ話題がしつこくてすまんが、いま挙げられたとこを
講談社学術文庫版(時岡敬子訳)で2、3見てみると
平凡社と訳し方が異なりそれにより印象が違うように自分には感じる。
平凡社のものは朴尚得訳でいいのかな。
33 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:18 ID:D+YWT9hE]
>>29
> 上記にあるような「日本人にとっては不愉快な内容」も完訳には
漏れは別に上記の内容は別に不愉快ではない。
それどころか、朝鮮の上層部さえちゃんとしていたら、日本と手を結べる
先進国家になれる可能性さえ見出せる。
でも、
> 韓国では翻訳も出版もされていないそうです。
こんなことではたぶんその可能性は無さそうだ。
34 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:33 ID:KrUTi7s7]
>>32
その朴尚得という朝鮮人はまともなの?
36 名前:日出づる処の名無し [04/07/19 23:41 ID:Uk+Ka7hG]
>>32
そんなことだろうと思った。朝鮮人が意訳しまくってるのか?
講談社版の前述の個所の翻訳うっぷして~!
35 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:40 ID:f/Itw7oH]
対応箇所は原文と平凡社を持ってないので違っていたらすいません。
平凡社東洋文庫(P29)→講談社学術文庫(P22)
「(…)朝鮮人は隣邦の清国人とも日本人とも著しく異なっており、
顔だちにはたいへんバラエティがあって、しかも衣服が画一的なので
いっそうそれが目につく。日本や清で外国人を悩ませる、
現地の人々を識別するむずかしさは朝鮮には存在しない。」
37 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/19 23:47 ID:f/Itw7oH]
平凡社東洋文庫(P30~31)→講談社学術文庫(P23~24)
「目は暗色であるが、濃い茶色から薄茶色までさまざまである。
頬骨は高く、ひたいは帽子その他で隠れていないのを目にしたかぎり
では、広くて知的なひたいがとても多い。耳は小ぶりで形がよい。
一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔立ちから察せられるのは、
最良の場合、力あるいは意思力よりも明敏さである。
朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である。」
「所用中の庶民の小きざみでしっかりした足取りにせよ、
朝鮮人男性はよく歩く。」
(「歩きぶり」の話はこの箇所だろうか?)
「知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」と
いわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは
外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、
清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。」
原文と平凡社のものを確かめられないのであくまで参考程度に。
38 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:05 ID:IuBUYWDX]
>>28
講談社版の該当箇所と思われる部分。P32~33.
朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。
知識階級は会話の中に漢語を極力まじえ、
いささかでも重要な文書は漢語で記される。
とはいえそれは1000年も昔の古い漢語であって、
現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。
朝鮮文字である諺文(オヌムヌ)[ハングル]は
教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。
朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。
(以下ハングルが1895年に官報に採用された事等の記述。
それが日本の文に似てる等)
----------------------------------------------------------------
なんかニュアンスがかなり違う。こちらにない表現は、
>朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
>[一四四三年(世宗二十五年)に創製、頒布された訓民正音。
>反切、国文、ハヌクルともいう。
>朝鮮人は優秀で、
等。
39 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:09 ID:jHE4NrTH]
>>27
平凡社東洋文庫(P35)→講談社学術文庫(P26)
「気候は疑問の余地なく世界で最もすばらしく、かつ健康によい部類に入る。
外国人が気候による疾患にかかることはなく、また西洋人の子供たちは
朝鮮半島のどの地においてもつつがなく育てられる。
ときには九月前半も含め、七月と八月は暑く雨が多いものの、
暑気は海風でなごめられるので、運動はいつでも可能である。
一年のうち九ヶ月は概して晴天である。また朝鮮の冬は大気が安定し、
空は雲もなく青く澄みわたり、空気がきわめて
乾燥しているのに不快さはなく、霜が降りる寒さの夜はさわやかで、
申し分なくすばらしい。」
平凡社東洋文庫(P51)→講談社学術文庫(P40)
「朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、
そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。」
40 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 00:10 ID:ihrW4jvP]
>>38
thx。ハングルの説明個所はまだわかるけど、
>朝鮮語には、どのような記述の文学でも全て揃っている。
>朝鮮人は優秀で、
やっぱこのあたりの補足は蛇足、いや捏造だな。さすが韓国人、期待を裏切らないw
41 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:12 ID:nnJzw6rj]
別に朝鮮人のマイナス面をあげつらうのがハン板の喜びと思われても困るがな。
古今東西が朝鮮人に多大な迷惑を被っていて、しかもそれが隠蔽されているから
それを晒していこうというのがあそこの態度だ。
42 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:19 ID:FEuyvFbH]
つーか、ハン板の住人ほど半島を愛している日本人はいないと思うよ。
45 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:47 ID:cB1m6d+J]
平凡社の東洋文庫版読んだことがあるんですが、分かりづらかったですよ。
訳者はあとがきで「創氏改名」とか「差別」とか愚痴たれてますし、
大学は出てるけど、英文専攻でも、英語で教育受けたわけでもなさそうでした。
本文中に朝鮮に関しての注釈が長々とあって読みづらいです。
46 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 00:49 ID:jHE4NrTH]
>>28
平凡社東洋文庫(P138)→講談社学術文庫(P111)
「小集落は別として、漢洪沿いの村々には学校がある。
ただし学校といっても私塾である。
家々でお金を出しあって教師を雇っているが、
生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、
これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。
諺分[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。
とはいえ、わたしの観察したところでは、
漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。」
50 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 02:49 ID:6mjPbdk8]
そもそも、このイザベラ・バードって、どんな人なの。
現地に溶け込み、旅行先の文化や人々と触れ合うのが楽しいというタイプなのか、
文明人が、未開の地を探検し、
住人がいかに野蛮か観察してやろうというタイプなのか。
53 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 08:43 ID:DYkwtyRV]
>>50
この時代にあえて日本奥地、中国奥地、朝鮮奥地へひとりで
行ってるなんて、アジア文明に興味があるわけじゃないだろう。
今で言えば、アフリカ奥地、アマゾン奥地探検記みたいなつもりじゃないの。
確か東北旅行のあと、函館のイギリス領事館で
シャワーをあび、食事をして、
久しぶりに人間らしい生活ができたみたいなことを言ってなかったか。
58 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 12:49 ID:nnJzw6rj]
>>50
イザベラ・バードに関しては俺も>>53のいうことがちょっと気になる。
この人日本、朝鮮、中国、チベットへと旅行しているのだけど、
例えば朝鮮へはソウルや平壌ばかり何度も行ってるくせに、
日本はわざわざ東北奥地から北海道の僻地に旅行して、
そこの貧民を観察しては、それを一般日本人として
まぁなんて日本人はみすぼらしいのでしょ、とやってる。
勘ぐるならば、自分がアジア人に対して優越感持てる場所を探し出して
旅行してるように見えるんだな。
59 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 12:56 ID:UHNziHAR]
この時代の白人は有色人種&非キリスト教徒を人間としてみてないからね。
多少の偏見は仕方がない。
60 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:03 ID:LpD4Ikjg]
エジプトやケニアで、ビル群を映さないのと同じような事かもな。
62 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:27 ID:FYAm8YWO]
>>58
「日本奥地紀行」に関して言えば、
まず横浜東京などの都市をさらっと通った記述の後に、
日光→北陸→東北→北海道となってる。
都市部(関東、京都等)に関しては
「みなさん十分ご存知でしょうから」という感じではしょってるな。
逆に言えば当時の日本の都市部は、
海外でも結構知られてたのか、という見方もできる。
通訳の日本人が「日本にまだこんな所があるなんて_| ̄|○」
となる描写も多々あるんだが
そういった遠慮のない観察があるからこそ、
それらよりも多い日本への高い評価が生きてくるのだと思う。
この本、どれだけ欧米で売れたのかねえ?
63 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 13:38 ID:VEUbZZvB]
東北地方はずっと貧しかったからね。昭和に入るまでほっとかれたし。
ま、その東北にかけるべき金を、朝鮮に投入してた訳なんだが。
64 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 14:32 ID:1TIZxBgW]
226事件だって東北の貧困が根底にあるわけだし
今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
実際はそんなわけないのはわかってるけど、イメージが・・
66 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 14:45 ID:QOVllLLp]
>>64
>今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
>実際はそんなわけないのはわかってるけど、イメージが・・
それって、欧米人が日本に抱くイメージギャップと同種のもんじゃね?
日本人でも東北は少し遠いからちょっと前のイメージが残る。
欧米人だと日本は凄く遠いからもの凄く前のイメージが残る。
69 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 15:50 ID:x4S2hbJ1]
>>63
>ま、その東北にかけるべき金を、朝鮮に投入してた訳なんだが。
今も本来なら東北・北海道に来るはずだった工場が
東南アジア・中国に逃げております_| ̄|○
70 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 16:06 ID:VR9xVpg4]
>>69
これはマジ、問題提起しなければいけない問題だな。
でも最近は序々にですが回帰しつつ有るのですが、とくに#と松下。
でも申し訳ないんですけど
両方とも関西に工場を建てているんですねえ。申し訳ない。
71 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 16:30 ID:1TIZxBgW]
>>70
回帰の理由は技術流出を防ぐ為だよね?
#は偉い目にあってるし。
72 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 16:44 ID:VR9xVpg4]
>>71
勿論そうです。
松下も同じ理由で関西の尼崎にPDPの工場を900億円を掛けて立ててます。
関西の臨海工業地帯も、最近は過疎化の一途だったのですが、
松下の案件で息を吹き返しつつあります。
79 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 17:52 ID:vXBQ7jGu]
>朝鮮人は目新しい印象を作り出している。
>中国人にも日本人にも似ないで
>そのどちらよりもずっと立派に見える。
>その体格も日本人よりずっと素晴らしい。
それ分かる。
例えばマリナーズのイチローとマーリンズのチョイ
あまりにも体格違ってて唖然とするよ。
チョイの方が体格よくてかっこいいもんな。
80 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 17:59 ID:eeRT1ZhP]
成績はイチローが比較にならないほど勝ってるがな
81 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 18:01 ID:WzzbPIQ7]
>>79
0点。それでは釣れない。
82 名前:日出づる処の名無し [04/07/20 18:13 ID:vXBQ7jGu]
ちがう釣りじゃないって。
チョイはそこらへんのアメ人より体格いいんだよ。すごすぎ。
カリスマのあるイチローでさえ、隣に並んだら一瞬で存在感かすむだろう
ってなくらい見事な肉体してるんだもん。勝てないわこりゃ。
84 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/20 18:40 ID:iZs7tFLX]
>>82
野球が体格を競うもんならそれでもいいだろうけどなあ。
成績を見たら十把一絡げだわさ。
109 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/21 00:40 ID:VdpgVo6C]
>>64
> 今でも東北っていうとわらぶきの家で寒さに震えてるイメージがあるね。
そんなこと言ってたら、大阪と広島にはヤクザしかいないイメージになるぞ;
>>71
ごめん、#のエライ目って?
技術流出とか?
111 名前:日出づる処の名無し mailto:sage [04/07/21 00:57 ID:cYORXvLB]
>>109
>大阪と広島にはヤクザしかいない
えっ、違うの?
113 名前:日出づる処の名無し [04/07/21 01:06 ID:LzTJg8dG]
>>111
大阪にはお笑い芸人もいますよ
広島はヤクザ、暴走族、プロ市民がいます。
115 名前:日出づる処の名無し [04/07/21 01:09 ID:LzTJg8dG]
>>109
こないだのシャープとジャスコのトラブル。
台湾製液晶テレビ。
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コメント
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キリスト教=文明人
非キリスト教=野蛮人
後は、食習慣の違いに、余りに非寛容だね。
肉食が殆ど無い日本で、肉食人種が不満を持つのは
致し方無いでしょう。
朝鮮人が一番、彼女を許せないのは、朝鮮が結局
自力では近大化できず、日本か露西亜の保護国に
なるしか進歩の道が無いと言い切っているところで
しょうね。
日本人は、中国人からも小日本といわれているように
背が低いです。 貧弱な体格は、両国と比較しても
ほとんど肉食をしないという、食生活にあるでしょうね。 ご飯にタクワン一切れ、水っぽい味噌汁だけでは
身体は大きくなりません。
2010/09/12 21:05 | URL | #WpB2m58s[ 編集] | ▲ top
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今の韓国の海産物利用は、歴史的には比較的新しいんじゃないだろうか?
具体的に言えば日韓併合時に、新しい物産利用が加わった部分が相当多い気がする。
何故かと言えば、韓国生活で見た海草、スルメ、塩辛、干物など全て日本の物より雑で、素人ながらこうすればもっと品質が良くなるのに~と思う事が良くあるから。
2010/04/29 23:32 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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>韓国はどうして日本のように魚主体の食生活が発達しなかったのかと尋ねると(以下略)
とにかく日本を悪者に仕立てたいんだろうが、ツッコミどころ満載だな。
1.日本だって、内陸部など地域によっては魚主体ではない。(これは質問側の問題か)
2.海沿いでなくても淡水魚を食べればいい。日本なら鮎やワカサギ。南米ならピラルクとか。
2010/04/29 22:59 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
司馬遼太郎が韓国で何を食べたのか分からない言っている。
倭寇を恐れて、海産物を利用していないとしたら。
講談社学術文庫版「朝鮮紀行」第3刷の
粗織り白もめんのはぎれ、もめん糸、わら靴、木製のくし、キセルとたばこ袋、
干し魚と海藻、飾りひも、粗い紙、上質紙、色が黒に近い麦芽糖など (P.42)
※釜山の旧市街の市で、地面に広げたむしろの上の商品。
海藻はどう説明するのかな?
2010/04/29 13:45 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>司馬遼太郎の「街道をゆく」に「韓のくに紀行」がある。
これも食事に言及しない。偏食で幼稚な人間らしいけどな
少しある。
韓国はどうして日本のように魚主体の食生活が発達しなかったのかと尋ねると「倭寇ですよ。それが怖くて皆海辺から離れて暮らした。それで肉主体の食生活になった」と言われた
・・・と言う記述があったような記憶が
2010/04/29 08:44 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
>徒歩や馬での各都市間の交通は時に非常な困難をともなう。
>それなのにどうやって日本の文化が各地に浸透していったか、
>単純に不思議に思った。
参勤交代ぐらいは小学生でも知っているだろうに。
当時は、キリスト教のおかげで自分達は発展する事が出来、
愚かな異教徒を支配して当然だと思っていた。
最近でも、一神教が優れた宗教だと言い出す奴が居る。
お前らの文化のベースを創ったのは、多神教のローマ人だけどな。
「朝鮮紀行」を読んだのは、当時の朝鮮人の食生活を知りたかったから。
英国人らしく食に対して興味も知識も無い様で、分からなかった。
司馬遼太郎の「街道をゆく」に「韓のくに紀行」がある。
これも食事に言及しない。偏食で幼稚な人間らしいけどな。
2010/04/29 06:22 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
>宗教関係者は女史を含めて、自分に甘いな。
仏教とキリスト教では根本が真逆の気がする。
自己抑制と人間の強欲を正当化する教義では、共存は到底無理っぽい。
2010/04/28 23:49 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
当時の朝鮮人の体格が良かったのは事実。他の人達の記述でも見られる。
その理由は、美食ではなく、異常な大食。
講談社学術文庫版「朝鮮紀行」第3刷から。
・これといって味に特徴のないこのごはんをおいしくさせる料理がほかにつく。
そのなかには突きくだいたトウガラシ、醤油、ひどいにおいのするさまざまなソース、 一種のザワークラウトであるキムチ、海藻、塩漬けの魚、
塩漬けの海藻に衣をつけて揚げたものなどがある。(P.203)
※P.202~205で、朝鮮人の極端な大食を紹介。赤ん坊の時から大食をしつける。
通川手前の中台里の不潔でみすぼらしい集落でも、同様の大食。
大食出来るのは、赤ん坊にまで食べさせる莫大な量の唐辛子と結論。
ただ食事で体格が変わるので、戦国時代の日本人は戦闘民族として体格が良かった。
そんな奴らが突然やって来て、あっという間に拠点を作ったりしたら怖かっただろう。
何百年たっても、秀吉が怖くてしょうがない。腰抜けはなかなか克服出来ない。
当時のロンドンは公害と子供を働かせて酷い状態のはずだが、
宗教関係者は女史を含めて、自分に甘いな。
2010/04/28 21:58 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- その2 -
体格については食糧事情に左右される。
…当時の朝鮮半島が日本よりはるかに食糧事情が良
かったなんて裏づけが無い限りは何書いてあろうと
眉唾物。
あと当時の日本国は肉食解禁から日が浅くまた殺虫剤
つまり農薬も無く窒素肥料も空気からは作れない時代
だったため栄養状態が悪かった。
というより食糧事情や衛生状態、医療環境が改善され
たのは本当にここ最近、昭和も後半になってきてから
の話で、ここを踏まえないで「当時の○○は縄文時代
と変わらない」とか書いてるのは何か間違った行い
だろう。そういうこと書くヒト多いけど、どこの国にも。
2010/04/28 20:46 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
平凡社の東洋文庫版は相当大きい本屋の歴史・紀行の
コーナーに行かないと揃ってないハードカバー。
講談社学術文庫版は名前の通りの文庫本サイズで
中くらいの大きさの本屋なら大抵ある。
で、この女史が日本に来た頃の日本の人口は三千数百万人、アイヌ含まず。
太平洋戦争どころか日露戦争さえまだ二十年近く先の話。
ゆえに抗生物質も殺虫剤も量産どころか発明さえされて
いないので、蚤がどうのシラミがどうの南京虫がどうの
ゴキブリがどうの、といった記述が頻繁に出てくる。
これは日本奥地も朝鮮半島も変わらない。
あと男が全裸全裸ってよく表現に出てくるがこれは多分
ふんどし一丁の姿を見て言っているのではなかろうか。
2010/04/28 19:50 | URL | その1 #-[ 編集] | ▲ top
- -
>成りすまし倭寇の間違いだよね?
そうでした。すみません。
韓国、朝鮮併合に付いては、まあ、難癖付けられるだろうと覚悟して渡韓しましたが、若い世代が秀吉の朝鮮進出まで、あんなに激高するほど洗脳教育されてるとは思わなかったw
2010/04/28 16:31 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
- -
外国語に関しても他国の言葉をすぐに覚えられる・体格が良い
命令しやすく体格が良いってw
この時期の西洋人の感覚だと労働・奴隷に適しているかどうかだろ。
2010/04/28 16:21 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
真下の書きこみですが情報ありがとう。
なるほど、確かにガタイはいいみたいだね。
でも野球は体格が良ければいいってもんじゃないですしね。
チョイと聞くとどうしても格闘ゲームの
チョイ・ボンゲしか浮かばなくて
2010/04/28 14:26 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
- -
「ビッグ・チョイ」こと崔煕渉では無いの?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%92%E3%82%BD%E3%83%97
2010/04/28 13:46 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
- -
>チョイ
検索しても画像が見当たらんので
誰か知ってる人はおられませんか?
2010/04/28 13:08 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
- -
チョイってイチローが「勝てないわ、こりゃ」って言われるほどすごいの?
ぜんぜん知らないけど
2010/04/28 11:05 | URL | . #-[ 編集] | ▲ top
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>成り済まし元寇
成りすまし倭寇の間違いだよね?
2010/04/28 09:44 | URL | #CtWoh.26[ 編集] | ▲ top
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女史の朝鮮紀行は講談社学術文庫版で図書館で読んだ。
地図が付いているので、それを参照しながら読んでも、
女史がどこに居て、時期はいつなのかが分かり難い。
帰国してから纏めたと言い訳しているので、自覚はあるようだ。
大きく言うと2回の朝鮮旅行に分けられる。
・1894年4月ソウル発-同年6月元山着の旅。
同年2月長崎を出発して、釜山経由でソウルに入っている。
この旅の詳細は、南漢江で永春までさかのぼった後、戻って、
北漢江から金剛山経由で元山に戻る。
元山から釜山経由で、ソウルに戻るが、日清戦争を避けて清国へ。
日清戦争開戦は同年7月。
その後、満州に渡り奉天まで行った後、北京等で過ごし長崎に戻る。
ウラジオストクに渡り、元山へ。釜山、長崎経由でソウルへ。
・95年1月のソウル。2月にソウルを出て、清の南部と中央を旅して、
夏に日本に戻り、10月に閔妃暗殺のうわさを聞き、ソウルに戻る。
11月にソウルをたち、平壌から徳川まで足をのばし、
平壌経由で12月頃にソウルに戻る。クリスマスにソウルを発ち、
清国西部、日本を旅し、96年10月にソウルに戻る。
97年3月、ソウルから上海に向かい、この旅は終わる。
実際に旅したのは、釜山と、ソウル・平壌・元山を結ぶ三角に大体収まる。
女史が朝鮮全土を歩いた訳ではない。
>七月、八月そしてしばしば九月前半は暑くて雨が多い。
これは伝聞だと思う。この時期に女史は朝鮮に居た形跡が無い。
平凡社版は恣意的記述が多いようだな。
2010/04/28 07:12 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>全部日本のせいにしてるのは同じなのよね
元寇も倭寇退治が目的で、日本が悪いって言われた。
自分の記憶では、倭寇の方が元寇の後で、しかも元寇も途中からは成り済まし元寇が多かったなんて説には、全く聞く耳を持たないで火病ww
2010/04/28 03:46 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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>>ただ当の韓国人が李朝の悲惨さを認めないんだよな。国ぐるみで洗脳されてるからしょうがないんだろうけど。
これで思い出した
朝鮮紀行だと日帝36年の前なんだけど
「秀吉のせいニダ」で全部日本のせいにしてるのは同じなのよね・・・DNAに刻み込まれるってこういう事を言うのか?って思えるほど見事なもんです
2010/04/28 00:42 | URL | ? #-[ 編集] | ▲ top
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江戸時代というのは、世界と比べても日本が優れていた時期なのに対し、李朝ってのは中世レベルまで文明が後退した時代だからね。
この両者を比較して本質的に日本が優れ韓国が劣ると判断するのはフェアじゃない。
ただ当の韓国人が李朝の悲惨さを認めないんだよな。国ぐるみで洗脳されてるからしょうがないんだろうけど。
2010/04/27 23:15 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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>いろんな国に滞在経験のある人がブログで、
>「大抵植民地になった国の人は宗主国の言葉を流暢に話すのに、何十年経ってもちっとも英語が上達しない日本は、ある意味凄い」とか言ってた。
散々言われていることだが、英語を話さなくても生活が成り立つからね
英語を話さなければ生活の向上が望めない国と比較しても仕方ない。
2010/04/27 22:54 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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いろんな国に滞在経験のある人がブログで、
「大抵植民地になった国の人は宗主国の言葉を流暢に話すのに、何十年経ってもちっとも英語が上達しない日本は、ある意味凄い」とか言ってた。
2010/04/27 21:53 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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え?え?と思ったら6年前のスレか
たった6ねんでこんなに・・・
ふぅ・・・頑張ろう!!
2010/04/27 21:25 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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私が読んだのは講談社学術文庫版だけどさ
閔妃を気に入ってるから朝鮮を好意的に書きたいけど書く内容が無いから風光明媚な自然を描写してる所が多いと感じた。
朝鮮人の描写を見てる限り現代と変わらんと思うのは私だけかな?
語学と言うべきかその場限りでの話題のそらし方や自分の得意な部分への話の持ってく「口先三寸」の能力は確かに高いと思うからねぇ
2010/04/27 20:55 | URL | ? #-[ 編集] | ▲ top
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日本のバレー女子選手は大きくても女性らしさはある。
が、岸和田悪子のようにDNA異常の人三化け七的なのは日本人には居ない。
2010/04/27 20:47 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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体格に関しては議論の余地はなさそう。
日本は大体粗食を由とする風土で、かの国のように犬や猫・堕胎胎児まで常食してた訳ではないから当然だ。
2010/04/27 20:42 | URL | ky #-[ 編集] | ▲ top
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重要なのは明らかな朝鮮サイドに立っている人間でも
隠せない部分があるということだから、かえって好都合って思っている。
むしろその部分は強調すべきかも。
単に両論記述しているってだけで、バランスが取れて公平な意見なんて思い込む輩も多いだろうし。
でもやれば出来る子扱いなんだ、な感じかな。
古今東西相も変わらず。
2010/04/27 20:11 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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体格が良い(=背が高い、ゴツイ、ムキムキってこと?)とか外国語をすぐ覚えられる、って、これは誉めてるのかな?
体格がよければスポーツとか肉体労働とかには有利かもしれないけど、それだけといえばそれだけだし。
戦争とかは、技術とか統制とかも重要だし。
健康面なんかも考えてみれば、長生きで燃費が良くて器用で小回りのきく日本車タイプの民族って凄く自慢できるんじゃないだろうか。
外国語に関しても他国の言葉をすぐに覚えられるのがそんなに良い事なのか? ってのがまず疑問。
だって日常生活で外国語なんてほとんど必要ないし。
日本語で全て事足りる、っていう環境はこれはこれで誇れるものだと思う。
別に相手を貶すつもりもないんだけど、長所として(単に特徴として?)上げてるところが余り羨ましく思えなかったもので、つい書き込んでしまいました。
2010/04/27 19:54 | URL | #mQop/nM.[ 編集] | ▲ top
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昔の朝鮮人は体格良かったみたいだね
今の韓国人見ると日本人と大して変わらない様に見えるけど
2010/04/27 19:08 | URL | #-[ 編集] | ▲ top
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その通りです@広島
2010/04/27 17:59 | URL | 愛車は774RR #-[ 編集] | ▲ top
THE KOREAN PHYSIQUE 朝鮮人の体格
Lost korea (19 Century ~ 20 Century)
i wonder which is concerned Korean reformer Kim Ok-gyun and height....but i try to check the book...
quotes from "Korea and Her Neighbours" by Isabella Bird Bishop
THE KOREAN PHYSIQUE
from wiriness to silkiness. Some men have full moustaches and large goatees, on the faces of others a few carefully-tended hairs, as in China, do duty for both, while many have full, strong beards. The mouth is either the wide, full-lipped, gaping cavity constantly seen among the lower orders, or a small though full feature, or thin-lipped and refined, as is seen continually among patricians.
The eyes, though dark, vary from dark brown to hazel; the cheek-bones are high; the brow, so far as fashion allows it to be seen, is frequently lofty and intellectual; and the ears are small and well set on. The usual expression is cheerful, with a dash of puzzlement. The physiognomy indicates, in its best aspect, quick intelligence, rather than force or strength of will. The Koreans are certainly a handsome race.
The physique is good. The average height of the men is five feet four and a half1 inches, that of the women cannot be ascertained, and is disproportionately less, while their figureless figures, the faults of which are exaggerated by the ugliest dress on earth, are squat and broad. The hands and feet of both sexes and all classes are very small, white, and exquisitely formed, and the tapering, almond-shaped finger-nails are carefully attended to. The men are very strong, and as porters carry heavy weights, a load of
' The following are the measurements of 1060 men taken at Seoul in January 1897 by Mr. A. B. Stripling:-
http://www7.plala.or.jp/juraian/korrepalt.htm
韓国人は斬新な印象を与えた。彼らは中国人とも日本人とも似ておらず、その両民族よりずっと美貌である。韓国人の体格は日本人よりずっと良い。……韓国人は非常に明敏で聡明である。韓国人たちはスコットランドで言うところの「言葉の意味を聞き分ける聡明さ」に相当に恵まれている。外国人教師たちはもっぱら口をそろえて、韓国人たちの熟達し機敏な認知能力と、外国語を素早く習得する卓越した才能、さらには中国人や日本人より韓国人がずっと良い抑揚でより流暢に話すという事実を証言する。(イサベラ・バード・ビショップ『韓国とその近隣諸国』)
韓国人の日常的表現は、当惑を感じさせるほど活気に満ちている。顔つきは最も美しい人を基準に見て、力や意志の強靭さよりは鋭い知性を表す。韓国人は確実に美しい種族である。体格も良い方である。成人男子の平均身長は163.4㎝である。女子の平均身長は確認できないが、世界中で最も醜悪な衣服のためその欠点が誇張され、女子の姿はずんぐりして平べったい。男子は力がきわめて強く、荷役人夫に45㎏の荷は普通である。家族生活は大家族制で、道徳的に至極健康である。(イザベラ・バード・ビショップ)
100 pounds being regarded as a moderate one. They walk remarkably well, whether it be the studied swing of the patrician or the short, firm stride of the plebeian when on business. The families are large and healthy. If the Government estimate of the number of houses is correct, the population, taking a fair average, is from twelve to thirteen millions, females being in the minority.
Mentally the Koreans are liberally endowed, specially with that gift known in Scotland as " gleg at the uptak." The foreign teachers bear willing testimony to their mental adroitness and quickness of perception, and their talent for the rapid acquisition of languages, which they speak more fluently and with a far better accent than either the Chinese or Japanese. They have the Oriental vices of suspicion, cunning, and untruthfulness, and trust between man and man is unknown. Women are secluded, and occupy a very inferior position.
Unbeaten Tracks in Japan
日本奥地紀行
http://www.gutenberg.org/cache/epub/2184/pg2184.html (all of texts)
poor boy...3:18 the young great noble yangban is 金玉均 Kim Ok-gyun...he passed examination first,studied modernization in japan,he tried to change corrosive joseon dynasty,but killed cruelly by Empress Myeongseong's relations. last Joseon was like today's north korea and Kim families.
朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun (korean real Samurai)
/watch?v=OKiawHiNuWA
sakura0jp0aikidodesu 1 日前
@sakura0jp0aikidodesu north korea average tall is 158 cm.joseon is 164 cm (isabellad bird bissob). he is i- mu.
Wkwmdsk95 1 日前
i wonder which is concerned Korean reformer Kim Ok-gyun and height....but i try to check the book...
quotes from "Korea and Her Neighbours" by Isabella Bird Bishop
THE KOREAN PHYSIQUE
from wiriness to silkiness. Some men have full moustaches and large goatees, on the faces of others a few carefully-tended hairs, as in China, do duty for both, while many have full, strong beards. The mouth is either the wide, full-lipped, gaping cavity constantly seen among the lower orders, or a small though full feature, or thin-lipped and refined, as is seen continually among patricians.
The eyes, though dark, vary from dark brown to hazel; the cheek-bones are high; the brow, so far as fashion allows it to be seen, is frequently lofty and intellectual; and the ears are small and well set on. The usual expression is cheerful, with a dash of puzzlement. The physiognomy indicates, in its best aspect, quick intelligence, rather than force or strength of will. The Koreans are certainly a handsome race.
The physique is good. The average height of the men is five feet four and a half1 inches, that of the women cannot be ascertained, and is disproportionately less, while their figureless figures, the faults of which are exaggerated by the ugliest dress on earth, are squat and broad. The hands and feet of both sexes and all classes are very small, white, and exquisitely formed, and the tapering, almond-shaped finger-nails are carefully attended to. The men are very strong, and as porters carry heavy weights, a load of
' The following are the measurements of 1060 men taken at Seoul in January 1897 by Mr. A. B. Stripling:-
Highest | Lowest | Average | |
Height Size round chest Size round head | 5 ft. ¼ in 39 ¼ in 23¼ " | 4 ft. 9½ in. 27 in. 20 " | 5 ft. 4½ in. 31 in. 21½ " |
http://www7.plala.or.jp/juraian/korrepalt.htm
韓国人は斬新な印象を与えた。彼らは中国人とも日本人とも似ておらず、その両民族よりずっと美貌である。韓国人の体格は日本人よりずっと良い。……韓国人は非常に明敏で聡明である。韓国人たちはスコットランドで言うところの「言葉の意味を聞き分ける聡明さ」に相当に恵まれている。外国人教師たちはもっぱら口をそろえて、韓国人たちの熟達し機敏な認知能力と、外国語を素早く習得する卓越した才能、さらには中国人や日本人より韓国人がずっと良い抑揚でより流暢に話すという事実を証言する。(イサベラ・バード・ビショップ『韓国とその近隣諸国』)
韓国人の日常的表現は、当惑を感じさせるほど活気に満ちている。顔つきは最も美しい人を基準に見て、力や意志の強靭さよりは鋭い知性を表す。韓国人は確実に美しい種族である。体格も良い方である。成人男子の平均身長は163.4㎝である。女子の平均身長は確認できないが、世界中で最も醜悪な衣服のためその欠点が誇張され、女子の姿はずんぐりして平べったい。男子は力がきわめて強く、荷役人夫に45㎏の荷は普通である。家族生活は大家族制で、道徳的に至極健康である。(イザベラ・バード・ビショップ)
100 pounds being regarded as a moderate one. They walk remarkably well, whether it be the studied swing of the patrician or the short, firm stride of the plebeian when on business. The families are large and healthy. If the Government estimate of the number of houses is correct, the population, taking a fair average, is from twelve to thirteen millions, females being in the minority.
Mentally the Koreans are liberally endowed, specially with that gift known in Scotland as " gleg at the uptak." The foreign teachers bear willing testimony to their mental adroitness and quickness of perception, and their talent for the rapid acquisition of languages, which they speak more fluently and with a far better accent than either the Chinese or Japanese. They have the Oriental vices of suspicion, cunning, and untruthfulness, and trust between man and man is unknown. Women are secluded, and occupy a very inferior position.
Unbeaten Tracks in Japan
日本奥地紀行
http://www.gutenberg.org/cache/epub/2184/pg2184.html (all of texts)
four foreigners seeing before the annexation of Korea 4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html#1
外国人から見て、併合前の朝鮮がどのような国であったか、次の4冊の本をもとに紹介する。
1.イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行』講談社学術文庫1998年
イザベラ・バードはイギリスの旅行作家で、世界各国を旅行しその旅行記を残している。結婚後ビショップと改姓した。従ってビショップ夫人としての文献引用も多い。1894年から1897年にかけ4度にわたり朝鮮旅行をした。その旅行記である。尚彼女は1881年日本奥地紀行を出版したが、この本も平凡社学術文庫に入っている。
2.F・A・マッケンジー著、渡辺学訳『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫1973年
マッケンジーはカナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者として1904年と1906年の2回韓国を訪れている。この本は1908年(韓国併合の2年前)に出版されたものである。ジャーナリストの目で見た韓国併合に至る朝鮮の歴史であり、朝鮮に同情的な論調で、日本を痛烈に非難している。
3.シャルル・ダレ著、金容権訳『朝鮮事情』平凡社東洋文庫1979年
この本はシャルル・ダレの『朝鮮教会史』の序論部分である。ダレ自身は朝鮮に入国したことはなく、主としてダブリュイ主教(1866年ソウルで処刑された)が収集した資料を基礎に、他の宣教師の手紙等をまとめ、整理した物である。前2書と異なり、朝鮮とはどのような国であるかを紹介するものである。従って目次も自然地理、歴史、国王、政府、法廷、科挙、朝鮮語、社会身分、女性の社会的地位、家族、宗教、性格、娯楽、住居、科学と整理されている。
4.『韓国誌』龍渓書舎復刻1996年
本書はロシア大蔵省が調査した資料を日本の農商務省山林局が抄訳した物で、1905年日露戦争に勝利した年に東京書院から発行された物の復刻版である。前書に比べ産業関係の記述が多い他、前書同様朝鮮社会制度の分析書である。
1.第一印象、住居等
イザベラ・バード:1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。58-60頁
「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず…」
「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」
「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」
シャルル・ダレ、住居の項にて:289頁
「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」
「2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです」
韓国誌 573-574頁
「貴顕紳士の家にありては通常瓦葺きの門ありて廣き邸宅の入り口をなし、門に対して主屋あり。主屋は南に向きて……。家屋の高さは人の身長よりやや高きのみにして……」
「平民の家は前に記すものと著しく相違し、憫なる小屋にして、粘土よりなり、低矮なるが故に注意せざれば頭天井に触撃せらるべし。家の広さは最も大なるもの約4坪余りにして、3坪を超えざる物甚だ多く、外面の高さは僅かに4尺7寸とす。
マッケンジー 29-30頁、32頁
(開国後)「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。」
「当時の朝鮮人の生活を鮮やかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってもそれがあまりに悪いとは言えないというくらいの状態であるが、一方地方の民衆に関する限りでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持していると言って大過ないであろう。……この国では乞食は殆どおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは……貧民救済制度はその必要がない。」
杉本コメント
マッケンジーは乞食は殆どいないと書いているが、ダレは「乞食もかなりいる。……女乞食の組合がある。」と書いている。(265頁)
戻 る
2.道路
韓国誌 239-240頁
「国民生活の動脈とも称すべき道路の不完全なること、韓国の如きは地球上他に之を見ることを得ざるべく、韓国の道路は昔日も今も只内地住民に必要なるだけのものにして、恐らくは数世紀を経由するも尚改良する所なかるべし。」
「韓国の道路は次の3等に公定する。
1.大街道 幅20フィート乃至30フィートにして両傍に溝渠あり
2.中街道 幅8フィート乃至10フィートにして溝渠なし
3.小街道 狭隘なる歩道
右の内大街道は国中僅かに6個にして、皆京城を基点として北は慶興(きょんふん)、義州(ういじゅ)、南は釜山(ぷさん)、康津(かんじん)に通ず。然れども1等道路にも処によりてはその幅準則に適合せざる部分あり、2等道路、3等道路は半島南部に多く、北部は概して甚だ少なし。」
シャルル・ダレ 315ー316頁
「道路は理論的には少なくとも3等級に分けられています。私が王の道と翻訳した第1級の道路は、普通4人が並ぶに十分な広さです。地方には車両がないので、歩行者と乗馬者には丁度ふさわしい広さです。……しばしば大きな石や岩塊によって道路が3/4に減っていたり、雨によって道の一部が流されたりしています。勿論誰もそのような不都合を修復しようとする者はいません。……主要な道路としてはソウルから中国の国境に到るものがあります。もう一つ長さは8リューしかありませんが、かなり立派なものに宮廷から王陵に通じるものがあります。
2級道路について言えば、その状態と道幅、それに交通の便利さは日ごとに変化します。悪い小径としか見えなくても「これもまた大路ですか」と聞くと、人々はきっぱり「そうです」と答えます。……
しかし3等道路については何と言ったらいいでしょう。その広さはせいぜい30センチで、道案内人の聡明さの如何によって見えたり見えなかったりするし、水田を横切るときはしばしば道は冠水しており、山中では絶壁に肌が触れるのです。
橋について私は2種類のものを知っています。一つは小川の所々に大きな石を投げ込んで作ったものです。これが最も一般的なものです。もう一つの種類は、川に杭を打ち込んで作ったものです。これは上に板のようなものをかぶせて土でおおってあり、しばしば穴があいているが、それでも橋の形をしています。夏にはよくあることですが、水かさが増すと川の氾濫によって、すべての橋は流されるか水に漬かるかしてしまいます。……最後にソウルには石橋が一つありますが、壮麗なもので、おそらくこの国の逸品の一つでしょう。少しでも大きな川は舟で横切ります。」
イザベラ・バード 元山(うぉんさん)への幹線道路にて 169ー170頁
「道はともかく悪い。人口の道は少なく、あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけで出来ており、7月始めの雨で流されてしまう。そして10月半ばまで修復されない。地方によっては川にさしかかったら浅瀬を渡るか、渡し船に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れが伴う。首都に中心をおく6大道路ですら、橋は普通渡る前にまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の河床に丸石をばらまいたもの以外の何者でもなく、最良の場合でも冬場のソウル・済物浦間のように、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートに及ぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、私も廣くたどったが朝鮮の発展の大きな障害の一つである。その内最悪なのはソウルから元山に至る幹線道路の山間部分で、………」
戻 る
3.商業
シャルル・ダレ 313頁
「自分の家に店を開いている商人はごく僅かで、殆どすべての取引が定期市、即ち場市で行われている。この定期市は政府によって指定されており、地域(ほぼ郡県の範囲)毎に5つ立ち、さまざまな町や都市で開かれている。この5つの場所で、それぞれ定期市が5日ごとに開かれている。つまり今日はここ、明日はあそこと、いつも同じ順序で巡回し、毎日その地域のいずれかの場所で定期市が開かれている。商品の為にはテントが張られている。
商人が用いる度量衡の単位は、穀物に対しては合である。100合が1斗で、20斗が1石である。液体については鉢で量る。重量の単位は中国の斤で、中国製の秤だけが使用されている。長さの単位は尺であるが、地方によって異なるのでこれは商人の言いなりになってしまう」
韓国誌 77ー78頁、98頁
「住民は古来これらの谷地に小社会を形成し、舟楫を通すべき河川の不足と、僅かに駄獣の通行を許すのみなる断崖多き経路の外、殆ど便利なる道路の皆無なるとにより、相互の交通甚だ疎にして、惟り農耕に従事し、産物の販路を見いだすに由なく、その事業は幼稚の域を脱することなく、只一局部の住民の需要を目的として労働せり。然れども漢江、大同江、及び洛東江等の如く、僅少なる河川の舟行に堪ふるものありて、その沿岸地方に住居する人民は、山地の単調子なる生活状態とややその趣を異にして、河川の便を利用して生産の剰余を比較的大なる市場、特に開港場に輸出し得べき処は凡て耕地の面積迅速に増加し、商業も又盛んなり。然れどもこの如き土地は甚だ少なし。
天然の地勢既に商業に適せざるのみならず、古来人為の障害ありて亦之に加わり、その一部分は今も尚行わるるものあり。その尤も大なるものは官吏の暴貪に制限なき制度にして、為に労働の安全に保証なく、各人貧困に陥らざるもの殆ど之なきに至る。その外官吏が交通の便利を無視すること、盗賊公行して危険多きこと、貨幣制度の紊乱したること、金融機関の殆ど皆無なること、階級上の迷誤及びその他の事情によりて上級の人民に商業を禁じ、且つある種の実業を疎滞せしむること、工業の発達せざること、商人の階級夥多にして専売権の濫用行わるること、、是皆内外商業の発達の妨害ならざるはなし。」
「韓国の普通店舗は何れも一様に少量の雑貨を並べたるものにして、店舗には必ず土地産の煙草、長き吸い口を有する韓国式烟管、粗綿布、韓国産麻布、その他の織物、紙、アニリン染料、糸、燐寸、……等あり。韓国は稠密なる首府に於いてすら、売買の規模小さくして、日本産の燐寸は10個若しくは20個の包み、木炭は二三片の包みにて販売するが如き貧困なる状態なるが故に、この如き小店舗も猶十分に土地の需要を充たすに足るなり。然れども京城その他の大都会に於ける店舗中には一種属の商品をもって営業するものもあり。これらは皆商会に属するものにして皿、金だらい、茶碗、及びその他陶器並びに金属製器具等を販売するものあり。皮革及び履き物等を販売するものあり。又もっぱら食品を販売するものあり。……」
イザベラ・バード ソウルにて 60頁
「商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部買っても6ドル程度の店が沢山ある。ソウル市内は女1人で歩いていても危害を加えられることはまずないものの……店には文字通り記すに値するような特徴がない。何も特徴がないのが特徴である。……その他にある安価な灯油ランプ、手鏡、安物臭い花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらない物ばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味の極みとしか言いようがない。」
戻 る
4.通貨
シャルル・ダレ 313-314頁
「商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。……合法的に流通している唯一の通貨は銅銭である。その小さな銅銭には亜鉛か鉛が混じっており、その価値はおよそ2或いは2.5サンチームである。それは真中に穴が明いており、一定の数を集めて紐を通す……。相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは百両或いは百通銭(約200フラン)は、一人分の荷物になるからである。北部地方ではこの貨幣すら流通していない。……
朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然と思っている。最も一般的なのは5割、6割で時には10割もの利子が要求される。……
最近では次々に貨幣が鋳造され、それがだんだんと悪質になっている。昔の銭は銅製で、僅かに不純物が混じっていたのに対し、新しい貨幣は殆ど鉛になって急速に質が落ちている。しかしそこで利益を得るのは政府ではない。政府は必要なだけの銅を鋳造業者に供給するが、業者は銅を鉛に代えて、戸曹判書(大蔵大臣)或いは特別に検証の役にあたる官吏と利得を分けあうのである。」
韓国誌 92-93頁
「韓国の重量多き銅銭はその転送甚だ不便なるに拘わらず、前にも記せし如く、この国には送金の方法なく、為替の如きは之を用ゆるもの極めて稀にして、しかもその範囲は京城、義州、釜山及び大邱の如き主要なる商業地に限られ、そこにては時に他の商業地に支店もしくは特約者を有する商店に就き、3分の手数料を払いて為替券を買うことを得。又韓国には銀貨及び紙幣少なく、且つ是等の金銭は殆ど凡て開港場にて使用さるるが故に、屡々所要額全部を銅貨にて送らざるべからざることあり。而して銅貨は凡ての貨物と同じく、擔夫若しくは駄獣にて之を運び、之が為大なる困難を生ず。カールス氏その事情を説きて曰く「旅人あり。ある時24,000文即ちその時の相場で約30ドルの貨幣を京城より内地に送る必要にあいたるが、是等の金銭2頭の馬に駄載し、一包みの重量約6ポンドとなりたり。而してこの貨物は2人の兵士之を護衛したるが、行くこと幾ばくもならずして、兵士等は京城に引還りて尚支那人1人を付せんことを乞い、遂には人員6,馬4より成立する隊商を編成して護衛する事となれり。支那人は騎乗のために1頭、荷物のために1頭を使用せり。この如き多人数の護衛あるに拘わらず、其の旅人は尚貨物の安全に関し始終警戒を要するの境遇を経たり。この如く困難なる事情あるにより、その不便を除くの目的を以て一種の旅客取扱組合起こり、あらかじめ旅費を預かり、旅客をして現金を携帯することなく、途中の必要を充たさしむるの方法を取るに至りたり。」
「貸金業者の利息は之を欧人より見れば甚だ高率にして、利子計算期間は時に一年とする事あるも、10ヶ月を通例とす。只完全なる信用を有するものの借り得べき最低利息は10ヶ月2割にして、その他は3割、4割甚だしきは5割を貪らるること屡々にして、カトリック教宣教師の言によれば10割の高利に及ぶこともあり。
イザベラ・バード 93-94頁 南漢江(なむはんがん)旅行に際して
「通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行するものを例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取って貰える貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないで又それも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶのに6人の男か、朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである。」
マッケンジー 109頁
「古い制度下の貨幣は、世界中の悪貨の内でも最たるものであった。或イギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは韓国の貨幣は良貨、良い偽造貨、悪い偽造貨、あまりにも粗悪なので暗いところでしか通用しないような偽造貨の4つに分類することが出来る、としているが、これは必ずしも作り話ではない。(日露)戦争の起きる前までは、相当量の貨幣を受け取る場合には、貨幣を点検するエキスパートを雇って最悪の偽造貨を選り出すということをせねばならなかった。」
杉本コメント
朝鮮はソウル、平壌等中央部を除き、物々交換の時代に止まっていた。従ってこれらの地域では一個1厘の葉銭しか通用しなかった。この葉銭の運搬の苦労については、上記各書が記述している。開港後外国商品の流入により、次第により高額の貨幣が必要となり、1個2銭5厘の白銅貨が発行された。この白銅貨の鋳造権を、上納金を取り政府高官に与えたため、各高官は品位を下げ発行し鋳造利益を確保した。この為非常に品種が増え、マッケンジーが書いてるような状態となったのである。1904年財政顧問として赴任した目賀田種太郎により整理された。
この商業の未発達が台湾との違いである。台湾では日本商人は台湾商人に押さえられ、末端経済に進出できなかった。それに対し朝鮮では日本商人に押さえられ、より小さい規模の企業にしか進出できなかった。
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5.官吏と徴税
マッケンジー 28-29頁
「一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は、政府の2大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司(かむさ)や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁盛して富裕になった一は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は特に秋の収穫の豊であった農民の所へやってきて、金品の借用を申し出る。もしその人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせた上、日に1,2回の笞刑を加えるのであった。勿論善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官衙はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。ある朝鮮の農民が、ある時私に尋ねた。「私がなぜもっと多くの穀物を栽培し、もっと多くの土地を耕作しないのかって?」「なぜ私はそうしなければならないと言うのか。より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに」
「貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってもう一つの重荷であった。貴族即ち両班は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利があると考えていた。高官の子息が成人すると、その父は国王に収租地の特許を申請した。この収租地というのは、おそらく、どこかの川の歩いて渡れる所を通る人たちに多額の賦課をする権利とか、或いはなんらかの特殊地区内での課税権というようなたぐいのものであったろう。そしてこの収租権者は逆に国家に対しては実際上何らの奉仕をすることもなかった。……イギリスでの荘園に対する領主の特権、(とどこが違うのか)」
シャルル・ダレ 71頁、74頁
「官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと努め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至るまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使(おさ、監察官)すらも極度の破廉恥さでその特権を利用している。」
「朝鮮の宮廷は非常に貧しく、国庫はさらにもっと貧弱です。宦官やその仲間である国王の妾、宮中の侍女たちは、もし大臣の地位や、又時には他の幾つかの高官職を売って得る金がなくなれば、きっと打撃を蒙るでしょう。従って権力の座にあるものは、贈り物を次々と与えては機嫌をとり、これらすべての貪欲な吸血鬼をいつも満腹にしておかなくてはなりません。特に今までに増して国王の寵愛を獲得しようとする時には、巨額の金が必要になります。
所が金炳国(きむぴょんごく・国王の義兄弟)は、幾つかの官職をかなり高く売り、朝鮮人参の専売権を引き受けたのだが、それでも尚必要とされるすべての人々に富を行き渡らせて、地位を買収するだけの金を得ることができなかったのです。昨年の真冬に、金炳国のおかげで多くの地位と富を得た1人の男が金炳国を訪ねてきて、「最高権力を握りたいとは思わないですか」と尋ねたのです。「答えるまでもないでしょう。しかしそれを得るためにはとにかく金がいるのというのに、私にはそれがありません」と国王の義兄弟は答えました。「それでは私に王国の南部地方の租税を徴収する職を下さい。そうすれば必要なお金を手に入れて差し上げましょう」「よろしい」と大臣は答え、すぐさまその男の指示に従って対策を講じたのです。南部地方の租税は主に米で、それは海路を通じてソウルに運搬されていました。くだんの男はこれらの米をみんな集めて船に積み込み、中国まで運搬し、朝鮮で売る4倍の価格で売りさばいたのです。帰国した彼は租税に必要な米を再び買いととのえました。こうした値段の差額によって、国王の義兄弟は、宮中にあふれている一群の宦官と侍女の支持を一手に獲得することができたのです。そして彼は自分の競争相手を罷免し、すべての権力を独占しました。いかなる穀物を輸出しても、それは極刑にかけられる犯罪になります。ましてや王室の維持費のために徴収された米を売るものは許し難い国事犯なのです。この密輸出が原因となって、とうとうこの年は幾つかの道にとっては深刻な飢えの年となったのです。しかし彼にとって何の関係があるでしょう。彼が権勢を得、豊になった以上、誰が彼の行状を問い正そうとするでしょうか」
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6.身分制度、両班の横暴
6.1両班
韓国誌 302頁、311-312頁
「1894年の改革前には5箇の階級存在したり。即ち貴族(両班)、地方両班、中等民、平民、奴隷是なり。……然れどもこの条例は今日まで多くは死文に属し、……奴隷の1897年に至も猶公然存在するは其の一例なり。」
「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認する物は遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、之を払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人として之に信おく者なし。両班平民より土地家屋等を買い入れたるときは、多くはその代価を払うことなく、又物件を借りたるときも多くは之を返す事なきも平民は一人として決然之に抗する者なし」
シャルル・ダレ:実話として 193-194頁
「みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が郡衙の近くを通っていた。そこへ泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶっしつけな尋問をした。すると両班は答えた。「はいそうです。私の家までついて来て下されば、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます。」捕卒たちがついて行ったところ、この両班は家に帰り着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕らえさせ、さんざん殴りつけた。その後その3人からは両眼をえぐり取り、残る一人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを帰した。「この野郎ども、分かったか。これからはよーく見て歩け。おまえ等が郡衙に帰れるように、目の玉一つだけ残してやったのだ」
杉本コメント
ダレによると1857年の法令改正により、それまで認められなかった両班の庶子も両班として扱われるようになつた。(190頁)これにより両班は急増した。一説によると併合時両班の数は40%に達したと言われる。(未確認)両班は官吏以外の職に就くと、その後永久に両班の特権を失うので、彼らは失業しても決して他の仕事をしようとしなかった。又彼らは極度に労働を蔑視して、キセルに煙草を詰めるのさえ従僕にさせたといわれる。このように無為徒食する大量の両班を養うため、常民の生活は大変だったようである。
6.2.奴隷
韓国誌 319頁
「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」
シャルル・ダレ 210頁
「奴婢の数は今日では昔より遙かに少なくなっており、尚減りつつある。少なくとも中部地方の有力な両班の家以外では、もう奴婢を殆ど見かけることはない。
「最も蔑視されている同業者組合は、牛の屠殺業者(白丁)のそれである。……屠殺業者は誰が見ても奴婢よりも更に低い別個の1階層をなしている。彼らは一般の村落内に住むことが出来ないので、彼らを忌み嫌っている村人たちの圏外に住んでおり、自分たちの社会だけで通婚している。……話のついでに注意を促しておくが、一般人の蔑視は屠殺業者にだけ向けられていて、肉の販売を目的とする肉屋には何ら関係はない。」
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7.取り調べ、監獄、
シャルル・ダレ 112-114頁、118-119頁、122-124頁
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
「大きな邑には、捕卒から報酬を受けている盗賊の頭目が数人いつもおり、人々が彼らの行為に耐えられなくなった時か、守令がいつになく強い脅しをかけた時に、法廷に突き出されてくる。彼らを逮捕する時にも、比較的軽い犯罪については合意が出来ていて、それから捕卒が告発し、被告が是認する。重大な問題に関しては、すべて堅く沈黙が守られ、真犯人が自分の犯罪に対してそれ相応の懲罰を受けるようなことは稀である。のみならず政府は必要なときに備えて大胆で図太い補助者を自らの手元に確保しておくため、世間に名の知れた数多くの泥棒を自由にさせておく。」
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
マッケンジー 27ー28頁、33頁、79頁、119-120頁
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」
国王のロシア大使館逃避後。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
1906年夏(韓国を保護国化してから1年後)「二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは18人の男と1人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は6年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。
次の監獄、宣川(そんちょん・平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」
杉本コメント
マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。
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8.結 び
イザベラ・バード ロシア国境部のロシア側を旅行して 305-307頁
「クラスノエセロとノヴォキエフスクの間にある村々は朝鮮系ロシア人定住地の典型といえた。道路はまずまず良く、水路の手入れも行き届いている。衛生上の規則が厳しく課され、村の衛生に関しては村長が責任を負っている。朝鮮半島の不潔で荒れた貧しい村々とは異なり、この定住地の家々は同じ朝鮮家屋でも立派である。木舞を使った土壁に漆喰を塗り、屋根は良い状態を保ち、敷地や農作業用の庭は漆喰壁の塀かきれいに葦を編んだ高い塀で囲ってあり、毎朝掃いているかの如くきれいで、農作業小屋は頑丈できちんと手入れされている。豚小屋からも警察署長の目の鋭さが察せられる。住居の多くは4間か5間、時には6間ある。部屋には壁紙を張り、天井があって、白い薄紙を張った格子戸と窓がある。床には上質のござが敷いてあり、朝鮮本国では高級官僚の家ですらめったに見られないような家具がふんだんにある。……
朝鮮にいたとき、私は朝鮮人というのはくずのような民族で、その状態は望みなしと考えていた。処が沿海州ではその考えを大いに修正しなければならなかった。自らを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から、勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々であった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みを私に抱かせる。
マッケンジー 150頁
「北部地方の人々は、ロシア領ウスリー地方では、容易な生活条件と公正な行政と無差別とを獲得できることをよく覚っていた。東部シベリアにおける韓国人の生活条件、つまり繁栄と平和と満足感は、韓国国内の日本統治下でのそれらとは驚くべきコントラストをなしていた。」
杉本コメント
マッケンジーは日本統治を非難しているが、マッケンジーがこの書を書いたのは1908年で、韓国併合前である。伊藤博文が統監となり、韓国の内政に関与し始めたのは1905年、ハーグ密書事件で関与を強めたのは1907年である。従って日本統治の成果が発揮されようがない。
従ってこのマッケンジーとイザベラ・バードの話から明らかなことは、韓国人は自国に暮らすより、ロシア領内へ移った方が幸せになったということである。つまり異民族支配だから悪だということが偏見に過ぎないことを示している。
日本は韓国官僚、両班の横暴、搾取から一般人を救い、悪習を正し、今日の韓国発展の基礎を築いたのである。私はこの理由により、韓国・北朝鮮に謝罪する必要を認めない。又ここで一言追加すると日本は韓国を人治国家から法治国家へ変えたのである。日本が韓国を併合し、中国を侵略せざるを得なかったのも、一にかかってこの人治主義、法の無視が一因となったのである。日本は欧米との不平等条約の解消に40年かけ法整備をした。中国は未だにリース代金を踏み倒し、差し押さえようとすると、武装警官により阻止されるような国である。(産経新聞平成12年11月8日「日中再考」)中国は日本を一方的に非難するが、このような事実につき真摯に反省しなければ、将来の国際社会で相手にされないのではなかろうか。
外国人から見て、併合前の朝鮮がどのような国であったか、次の4冊の本をもとに紹介する。
1.イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行』講談社学術文庫1998年
イザベラ・バードはイギリスの旅行作家で、世界各国を旅行しその旅行記を残している。結婚後ビショップと改姓した。従ってビショップ夫人としての文献引用も多い。1894年から1897年にかけ4度にわたり朝鮮旅行をした。その旅行記である。尚彼女は1881年日本奥地紀行を出版したが、この本も平凡社学術文庫に入っている。
2.F・A・マッケンジー著、渡辺学訳『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫1973年
マッケンジーはカナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者として1904年と1906年の2回韓国を訪れている。この本は1908年(韓国併合の2年前)に出版されたものである。ジャーナリストの目で見た韓国併合に至る朝鮮の歴史であり、朝鮮に同情的な論調で、日本を痛烈に非難している。
3.シャルル・ダレ著、金容権訳『朝鮮事情』平凡社東洋文庫1979年
この本はシャルル・ダレの『朝鮮教会史』の序論部分である。ダレ自身は朝鮮に入国したことはなく、主としてダブリュイ主教(1866年ソウルで処刑された)が収集した資料を基礎に、他の宣教師の手紙等をまとめ、整理した物である。前2書と異なり、朝鮮とはどのような国であるかを紹介するものである。従って目次も自然地理、歴史、国王、政府、法廷、科挙、朝鮮語、社会身分、女性の社会的地位、家族、宗教、性格、娯楽、住居、科学と整理されている。
4.『韓国誌』龍渓書舎復刻1996年
本書はロシア大蔵省が調査した資料を日本の農商務省山林局が抄訳した物で、1905年日露戦争に勝利した年に東京書院から発行された物の復刻版である。前書に比べ産業関係の記述が多い他、前書同様朝鮮社会制度の分析書である。
1.第一印象、住居等
イザベラ・バード:1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。58-60頁
「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず…」
「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」
「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」
シャルル・ダレ、住居の項にて:289頁
「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」
「2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです」
韓国誌 573-574頁
「貴顕紳士の家にありては通常瓦葺きの門ありて廣き邸宅の入り口をなし、門に対して主屋あり。主屋は南に向きて……。家屋の高さは人の身長よりやや高きのみにして……」
「平民の家は前に記すものと著しく相違し、憫なる小屋にして、粘土よりなり、低矮なるが故に注意せざれば頭天井に触撃せらるべし。家の広さは最も大なるもの約4坪余りにして、3坪を超えざる物甚だ多く、外面の高さは僅かに4尺7寸とす。
マッケンジー 29-30頁、32頁
(開国後)「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。」
「当時の朝鮮人の生活を鮮やかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってもそれがあまりに悪いとは言えないというくらいの状態であるが、一方地方の民衆に関する限りでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持していると言って大過ないであろう。……この国では乞食は殆どおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは……貧民救済制度はその必要がない。」
杉本コメント
マッケンジーは乞食は殆どいないと書いているが、ダレは「乞食もかなりいる。……女乞食の組合がある。」と書いている。(265頁)
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2.道路
韓国誌 239-240頁
「国民生活の動脈とも称すべき道路の不完全なること、韓国の如きは地球上他に之を見ることを得ざるべく、韓国の道路は昔日も今も只内地住民に必要なるだけのものにして、恐らくは数世紀を経由するも尚改良する所なかるべし。」
「韓国の道路は次の3等に公定する。
1.大街道 幅20フィート乃至30フィートにして両傍に溝渠あり
2.中街道 幅8フィート乃至10フィートにして溝渠なし
3.小街道 狭隘なる歩道
右の内大街道は国中僅かに6個にして、皆京城を基点として北は慶興(きょんふん)、義州(ういじゅ)、南は釜山(ぷさん)、康津(かんじん)に通ず。然れども1等道路にも処によりてはその幅準則に適合せざる部分あり、2等道路、3等道路は半島南部に多く、北部は概して甚だ少なし。」
シャルル・ダレ 315ー316頁
「道路は理論的には少なくとも3等級に分けられています。私が王の道と翻訳した第1級の道路は、普通4人が並ぶに十分な広さです。地方には車両がないので、歩行者と乗馬者には丁度ふさわしい広さです。……しばしば大きな石や岩塊によって道路が3/4に減っていたり、雨によって道の一部が流されたりしています。勿論誰もそのような不都合を修復しようとする者はいません。……主要な道路としてはソウルから中国の国境に到るものがあります。もう一つ長さは8リューしかありませんが、かなり立派なものに宮廷から王陵に通じるものがあります。
2級道路について言えば、その状態と道幅、それに交通の便利さは日ごとに変化します。悪い小径としか見えなくても「これもまた大路ですか」と聞くと、人々はきっぱり「そうです」と答えます。……
しかし3等道路については何と言ったらいいでしょう。その広さはせいぜい30センチで、道案内人の聡明さの如何によって見えたり見えなかったりするし、水田を横切るときはしばしば道は冠水しており、山中では絶壁に肌が触れるのです。
橋について私は2種類のものを知っています。一つは小川の所々に大きな石を投げ込んで作ったものです。これが最も一般的なものです。もう一つの種類は、川に杭を打ち込んで作ったものです。これは上に板のようなものをかぶせて土でおおってあり、しばしば穴があいているが、それでも橋の形をしています。夏にはよくあることですが、水かさが増すと川の氾濫によって、すべての橋は流されるか水に漬かるかしてしまいます。……最後にソウルには石橋が一つありますが、壮麗なもので、おそらくこの国の逸品の一つでしょう。少しでも大きな川は舟で横切ります。」
イザベラ・バード 元山(うぉんさん)への幹線道路にて 169ー170頁
「道はともかく悪い。人口の道は少なく、あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけで出来ており、7月始めの雨で流されてしまう。そして10月半ばまで修復されない。地方によっては川にさしかかったら浅瀬を渡るか、渡し船に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れが伴う。首都に中心をおく6大道路ですら、橋は普通渡る前にまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の河床に丸石をばらまいたもの以外の何者でもなく、最良の場合でも冬場のソウル・済物浦間のように、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートに及ぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、私も廣くたどったが朝鮮の発展の大きな障害の一つである。その内最悪なのはソウルから元山に至る幹線道路の山間部分で、………」
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3.商業
シャルル・ダレ 313頁
「自分の家に店を開いている商人はごく僅かで、殆どすべての取引が定期市、即ち場市で行われている。この定期市は政府によって指定されており、地域(ほぼ郡県の範囲)毎に5つ立ち、さまざまな町や都市で開かれている。この5つの場所で、それぞれ定期市が5日ごとに開かれている。つまり今日はここ、明日はあそこと、いつも同じ順序で巡回し、毎日その地域のいずれかの場所で定期市が開かれている。商品の為にはテントが張られている。
商人が用いる度量衡の単位は、穀物に対しては合である。100合が1斗で、20斗が1石である。液体については鉢で量る。重量の単位は中国の斤で、中国製の秤だけが使用されている。長さの単位は尺であるが、地方によって異なるのでこれは商人の言いなりになってしまう」
韓国誌 77ー78頁、98頁
「住民は古来これらの谷地に小社会を形成し、舟楫を通すべき河川の不足と、僅かに駄獣の通行を許すのみなる断崖多き経路の外、殆ど便利なる道路の皆無なるとにより、相互の交通甚だ疎にして、惟り農耕に従事し、産物の販路を見いだすに由なく、その事業は幼稚の域を脱することなく、只一局部の住民の需要を目的として労働せり。然れども漢江、大同江、及び洛東江等の如く、僅少なる河川の舟行に堪ふるものありて、その沿岸地方に住居する人民は、山地の単調子なる生活状態とややその趣を異にして、河川の便を利用して生産の剰余を比較的大なる市場、特に開港場に輸出し得べき処は凡て耕地の面積迅速に増加し、商業も又盛んなり。然れどもこの如き土地は甚だ少なし。
天然の地勢既に商業に適せざるのみならず、古来人為の障害ありて亦之に加わり、その一部分は今も尚行わるるものあり。その尤も大なるものは官吏の暴貪に制限なき制度にして、為に労働の安全に保証なく、各人貧困に陥らざるもの殆ど之なきに至る。その外官吏が交通の便利を無視すること、盗賊公行して危険多きこと、貨幣制度の紊乱したること、金融機関の殆ど皆無なること、階級上の迷誤及びその他の事情によりて上級の人民に商業を禁じ、且つある種の実業を疎滞せしむること、工業の発達せざること、商人の階級夥多にして専売権の濫用行わるること、、是皆内外商業の発達の妨害ならざるはなし。」
「韓国の普通店舗は何れも一様に少量の雑貨を並べたるものにして、店舗には必ず土地産の煙草、長き吸い口を有する韓国式烟管、粗綿布、韓国産麻布、その他の織物、紙、アニリン染料、糸、燐寸、……等あり。韓国は稠密なる首府に於いてすら、売買の規模小さくして、日本産の燐寸は10個若しくは20個の包み、木炭は二三片の包みにて販売するが如き貧困なる状態なるが故に、この如き小店舗も猶十分に土地の需要を充たすに足るなり。然れども京城その他の大都会に於ける店舗中には一種属の商品をもって営業するものもあり。これらは皆商会に属するものにして皿、金だらい、茶碗、及びその他陶器並びに金属製器具等を販売するものあり。皮革及び履き物等を販売するものあり。又もっぱら食品を販売するものあり。……」
イザベラ・バード ソウルにて 60頁
「商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部買っても6ドル程度の店が沢山ある。ソウル市内は女1人で歩いていても危害を加えられることはまずないものの……店には文字通り記すに値するような特徴がない。何も特徴がないのが特徴である。……その他にある安価な灯油ランプ、手鏡、安物臭い花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらない物ばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味の極みとしか言いようがない。」
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4.通貨
シャルル・ダレ 313-314頁
「商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。……合法的に流通している唯一の通貨は銅銭である。その小さな銅銭には亜鉛か鉛が混じっており、その価値はおよそ2或いは2.5サンチームである。それは真中に穴が明いており、一定の数を集めて紐を通す……。相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは百両或いは百通銭(約200フラン)は、一人分の荷物になるからである。北部地方ではこの貨幣すら流通していない。……
朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然と思っている。最も一般的なのは5割、6割で時には10割もの利子が要求される。……
最近では次々に貨幣が鋳造され、それがだんだんと悪質になっている。昔の銭は銅製で、僅かに不純物が混じっていたのに対し、新しい貨幣は殆ど鉛になって急速に質が落ちている。しかしそこで利益を得るのは政府ではない。政府は必要なだけの銅を鋳造業者に供給するが、業者は銅を鉛に代えて、戸曹判書(大蔵大臣)或いは特別に検証の役にあたる官吏と利得を分けあうのである。」
韓国誌 92-93頁
「韓国の重量多き銅銭はその転送甚だ不便なるに拘わらず、前にも記せし如く、この国には送金の方法なく、為替の如きは之を用ゆるもの極めて稀にして、しかもその範囲は京城、義州、釜山及び大邱の如き主要なる商業地に限られ、そこにては時に他の商業地に支店もしくは特約者を有する商店に就き、3分の手数料を払いて為替券を買うことを得。又韓国には銀貨及び紙幣少なく、且つ是等の金銭は殆ど凡て開港場にて使用さるるが故に、屡々所要額全部を銅貨にて送らざるべからざることあり。而して銅貨は凡ての貨物と同じく、擔夫若しくは駄獣にて之を運び、之が為大なる困難を生ず。カールス氏その事情を説きて曰く「旅人あり。ある時24,000文即ちその時の相場で約30ドルの貨幣を京城より内地に送る必要にあいたるが、是等の金銭2頭の馬に駄載し、一包みの重量約6ポンドとなりたり。而してこの貨物は2人の兵士之を護衛したるが、行くこと幾ばくもならずして、兵士等は京城に引還りて尚支那人1人を付せんことを乞い、遂には人員6,馬4より成立する隊商を編成して護衛する事となれり。支那人は騎乗のために1頭、荷物のために1頭を使用せり。この如き多人数の護衛あるに拘わらず、其の旅人は尚貨物の安全に関し始終警戒を要するの境遇を経たり。この如く困難なる事情あるにより、その不便を除くの目的を以て一種の旅客取扱組合起こり、あらかじめ旅費を預かり、旅客をして現金を携帯することなく、途中の必要を充たさしむるの方法を取るに至りたり。」
「貸金業者の利息は之を欧人より見れば甚だ高率にして、利子計算期間は時に一年とする事あるも、10ヶ月を通例とす。只完全なる信用を有するものの借り得べき最低利息は10ヶ月2割にして、その他は3割、4割甚だしきは5割を貪らるること屡々にして、カトリック教宣教師の言によれば10割の高利に及ぶこともあり。
イザベラ・バード 93-94頁 南漢江(なむはんがん)旅行に際して
「通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行するものを例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取って貰える貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないで又それも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶのに6人の男か、朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである。」
マッケンジー 109頁
「古い制度下の貨幣は、世界中の悪貨の内でも最たるものであった。或イギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは韓国の貨幣は良貨、良い偽造貨、悪い偽造貨、あまりにも粗悪なので暗いところでしか通用しないような偽造貨の4つに分類することが出来る、としているが、これは必ずしも作り話ではない。(日露)戦争の起きる前までは、相当量の貨幣を受け取る場合には、貨幣を点検するエキスパートを雇って最悪の偽造貨を選り出すということをせねばならなかった。」
杉本コメント
朝鮮はソウル、平壌等中央部を除き、物々交換の時代に止まっていた。従ってこれらの地域では一個1厘の葉銭しか通用しなかった。この葉銭の運搬の苦労については、上記各書が記述している。開港後外国商品の流入により、次第により高額の貨幣が必要となり、1個2銭5厘の白銅貨が発行された。この白銅貨の鋳造権を、上納金を取り政府高官に与えたため、各高官は品位を下げ発行し鋳造利益を確保した。この為非常に品種が増え、マッケンジーが書いてるような状態となったのである。1904年財政顧問として赴任した目賀田種太郎により整理された。
この商業の未発達が台湾との違いである。台湾では日本商人は台湾商人に押さえられ、末端経済に進出できなかった。それに対し朝鮮では日本商人に押さえられ、より小さい規模の企業にしか進出できなかった。
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5.官吏と徴税
マッケンジー 28-29頁
「一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は、政府の2大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司(かむさ)や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁盛して富裕になった一は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は特に秋の収穫の豊であった農民の所へやってきて、金品の借用を申し出る。もしその人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせた上、日に1,2回の笞刑を加えるのであった。勿論善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官衙はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。ある朝鮮の農民が、ある時私に尋ねた。「私がなぜもっと多くの穀物を栽培し、もっと多くの土地を耕作しないのかって?」「なぜ私はそうしなければならないと言うのか。より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに」
「貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってもう一つの重荷であった。貴族即ち両班は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利があると考えていた。高官の子息が成人すると、その父は国王に収租地の特許を申請した。この収租地というのは、おそらく、どこかの川の歩いて渡れる所を通る人たちに多額の賦課をする権利とか、或いはなんらかの特殊地区内での課税権というようなたぐいのものであったろう。そしてこの収租権者は逆に国家に対しては実際上何らの奉仕をすることもなかった。……イギリスでの荘園に対する領主の特権、(とどこが違うのか)」
シャルル・ダレ 71頁、74頁
「官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと努め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至るまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使(おさ、監察官)すらも極度の破廉恥さでその特権を利用している。」
「朝鮮の宮廷は非常に貧しく、国庫はさらにもっと貧弱です。宦官やその仲間である国王の妾、宮中の侍女たちは、もし大臣の地位や、又時には他の幾つかの高官職を売って得る金がなくなれば、きっと打撃を蒙るでしょう。従って権力の座にあるものは、贈り物を次々と与えては機嫌をとり、これらすべての貪欲な吸血鬼をいつも満腹にしておかなくてはなりません。特に今までに増して国王の寵愛を獲得しようとする時には、巨額の金が必要になります。
所が金炳国(きむぴょんごく・国王の義兄弟)は、幾つかの官職をかなり高く売り、朝鮮人参の専売権を引き受けたのだが、それでも尚必要とされるすべての人々に富を行き渡らせて、地位を買収するだけの金を得ることができなかったのです。昨年の真冬に、金炳国のおかげで多くの地位と富を得た1人の男が金炳国を訪ねてきて、「最高権力を握りたいとは思わないですか」と尋ねたのです。「答えるまでもないでしょう。しかしそれを得るためにはとにかく金がいるのというのに、私にはそれがありません」と国王の義兄弟は答えました。「それでは私に王国の南部地方の租税を徴収する職を下さい。そうすれば必要なお金を手に入れて差し上げましょう」「よろしい」と大臣は答え、すぐさまその男の指示に従って対策を講じたのです。南部地方の租税は主に米で、それは海路を通じてソウルに運搬されていました。くだんの男はこれらの米をみんな集めて船に積み込み、中国まで運搬し、朝鮮で売る4倍の価格で売りさばいたのです。帰国した彼は租税に必要な米を再び買いととのえました。こうした値段の差額によって、国王の義兄弟は、宮中にあふれている一群の宦官と侍女の支持を一手に獲得することができたのです。そして彼は自分の競争相手を罷免し、すべての権力を独占しました。いかなる穀物を輸出しても、それは極刑にかけられる犯罪になります。ましてや王室の維持費のために徴収された米を売るものは許し難い国事犯なのです。この密輸出が原因となって、とうとうこの年は幾つかの道にとっては深刻な飢えの年となったのです。しかし彼にとって何の関係があるでしょう。彼が権勢を得、豊になった以上、誰が彼の行状を問い正そうとするでしょうか」
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6.身分制度、両班の横暴
6.1両班
韓国誌 302頁、311-312頁
「1894年の改革前には5箇の階級存在したり。即ち貴族(両班)、地方両班、中等民、平民、奴隷是なり。……然れどもこの条例は今日まで多くは死文に属し、……奴隷の1897年に至も猶公然存在するは其の一例なり。」
「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認する物は遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、之を払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人として之に信おく者なし。両班平民より土地家屋等を買い入れたるときは、多くはその代価を払うことなく、又物件を借りたるときも多くは之を返す事なきも平民は一人として決然之に抗する者なし」
シャルル・ダレ:実話として 193-194頁
「みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が郡衙の近くを通っていた。そこへ泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶっしつけな尋問をした。すると両班は答えた。「はいそうです。私の家までついて来て下されば、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます。」捕卒たちがついて行ったところ、この両班は家に帰り着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕らえさせ、さんざん殴りつけた。その後その3人からは両眼をえぐり取り、残る一人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを帰した。「この野郎ども、分かったか。これからはよーく見て歩け。おまえ等が郡衙に帰れるように、目の玉一つだけ残してやったのだ」
杉本コメント
ダレによると1857年の法令改正により、それまで認められなかった両班の庶子も両班として扱われるようになつた。(190頁)これにより両班は急増した。一説によると併合時両班の数は40%に達したと言われる。(未確認)両班は官吏以外の職に就くと、その後永久に両班の特権を失うので、彼らは失業しても決して他の仕事をしようとしなかった。又彼らは極度に労働を蔑視して、キセルに煙草を詰めるのさえ従僕にさせたといわれる。このように無為徒食する大量の両班を養うため、常民の生活は大変だったようである。
6.2.奴隷
韓国誌 319頁
「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」
シャルル・ダレ 210頁
「奴婢の数は今日では昔より遙かに少なくなっており、尚減りつつある。少なくとも中部地方の有力な両班の家以外では、もう奴婢を殆ど見かけることはない。
「最も蔑視されている同業者組合は、牛の屠殺業者(白丁)のそれである。……屠殺業者は誰が見ても奴婢よりも更に低い別個の1階層をなしている。彼らは一般の村落内に住むことが出来ないので、彼らを忌み嫌っている村人たちの圏外に住んでおり、自分たちの社会だけで通婚している。……話のついでに注意を促しておくが、一般人の蔑視は屠殺業者にだけ向けられていて、肉の販売を目的とする肉屋には何ら関係はない。」
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7.取り調べ、監獄、
シャルル・ダレ 112-114頁、118-119頁、122-124頁
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
「大きな邑には、捕卒から報酬を受けている盗賊の頭目が数人いつもおり、人々が彼らの行為に耐えられなくなった時か、守令がいつになく強い脅しをかけた時に、法廷に突き出されてくる。彼らを逮捕する時にも、比較的軽い犯罪については合意が出来ていて、それから捕卒が告発し、被告が是認する。重大な問題に関しては、すべて堅く沈黙が守られ、真犯人が自分の犯罪に対してそれ相応の懲罰を受けるようなことは稀である。のみならず政府は必要なときに備えて大胆で図太い補助者を自らの手元に確保しておくため、世間に名の知れた数多くの泥棒を自由にさせておく。」
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
マッケンジー 27ー28頁、33頁、79頁、119-120頁
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」
国王のロシア大使館逃避後。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
1906年夏(韓国を保護国化してから1年後)「二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは18人の男と1人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は6年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。
次の監獄、宣川(そんちょん・平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」
杉本コメント
マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。
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8.結 び
イザベラ・バード ロシア国境部のロシア側を旅行して 305-307頁
「クラスノエセロとノヴォキエフスクの間にある村々は朝鮮系ロシア人定住地の典型といえた。道路はまずまず良く、水路の手入れも行き届いている。衛生上の規則が厳しく課され、村の衛生に関しては村長が責任を負っている。朝鮮半島の不潔で荒れた貧しい村々とは異なり、この定住地の家々は同じ朝鮮家屋でも立派である。木舞を使った土壁に漆喰を塗り、屋根は良い状態を保ち、敷地や農作業用の庭は漆喰壁の塀かきれいに葦を編んだ高い塀で囲ってあり、毎朝掃いているかの如くきれいで、農作業小屋は頑丈できちんと手入れされている。豚小屋からも警察署長の目の鋭さが察せられる。住居の多くは4間か5間、時には6間ある。部屋には壁紙を張り、天井があって、白い薄紙を張った格子戸と窓がある。床には上質のござが敷いてあり、朝鮮本国では高級官僚の家ですらめったに見られないような家具がふんだんにある。……
朝鮮にいたとき、私は朝鮮人というのはくずのような民族で、その状態は望みなしと考えていた。処が沿海州ではその考えを大いに修正しなければならなかった。自らを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から、勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々であった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みを私に抱かせる。
マッケンジー 150頁
「北部地方の人々は、ロシア領ウスリー地方では、容易な生活条件と公正な行政と無差別とを獲得できることをよく覚っていた。東部シベリアにおける韓国人の生活条件、つまり繁栄と平和と満足感は、韓国国内の日本統治下でのそれらとは驚くべきコントラストをなしていた。」
杉本コメント
マッケンジーは日本統治を非難しているが、マッケンジーがこの書を書いたのは1908年で、韓国併合前である。伊藤博文が統監となり、韓国の内政に関与し始めたのは1905年、ハーグ密書事件で関与を強めたのは1907年である。従って日本統治の成果が発揮されようがない。
従ってこのマッケンジーとイザベラ・バードの話から明らかなことは、韓国人は自国に暮らすより、ロシア領内へ移った方が幸せになったということである。つまり異民族支配だから悪だということが偏見に過ぎないことを示している。
日本は韓国官僚、両班の横暴、搾取から一般人を救い、悪習を正し、今日の韓国発展の基礎を築いたのである。私はこの理由により、韓国・北朝鮮に謝罪する必要を認めない。又ここで一言追加すると日本は韓国を人治国家から法治国家へ変えたのである。日本が韓国を併合し、中国を侵略せざるを得なかったのも、一にかかってこの人治主義、法の無視が一因となったのである。日本は欧米との不平等条約の解消に40年かけ法整備をした。中国は未だにリース代金を踏み倒し、差し押さえようとすると、武装警官により阻止されるような国である。(産経新聞平成12年11月8日「日中再考」)中国は日本を一方的に非難するが、このような事実につき真摯に反省しなければ、将来の国際社会で相手にされないのではなかろうか。
1885 - 1908 Old KOREA photos before Japanese Annexation
1885 - 1908 Old KOREA photos before Japanese Annexation
대한 제국
Imperial Korean Army Soldiers.JPG
대한 제국
- Korean royale family persisted in thier power and executed these able young koreans.They just worshiped Sinocentrism,couldn`t imagine the independence from China.However,China(Qing) was defeated by British and Frence imperials and invaded Rosso imperial.So Japan had to hold back western waves in Manchuria and Korean peninsula.Therefore,the modernization and the independence of Korea were indispensable.But Korean royale family couldn`t understand the world situation at all.AGKranranru 15 時間前 3
- Chosen royale family couldn`t understand the meaning of modernization at all.these young Korean yangbang group with Japan`s support carrued out a coup d'état and made the government consent to promote reform and modernization in 1884."IN1884" This revolution was called Gapsin Coup(甲申政変).After this,金玉均(김옥균) and young Korean politicians announced 甲申綱領,this platform declared "Modernization" and "Independence from Qing(Manchurian Empire)"AGKranranru 15 時間前 3
- @frce68 This is wrong.These greedy royale family purged and oppressed Gaehwapa(開化派) like 金玉均(김옥균),朴泳孝(박영효),李東仁(이동인),金弘集
(김홍집)...These gueen,king and his father loved bribes,minted a bad money called "当五銭" and confused Chosen economy.And Korean poors and slaves rebeled against Chosen dynasty more than 100 times.Finally these rebels defeated Chosen govet and declared the local autonomy in 1893.AGKranranru 16 時間前 3 - @frce68 Chosen was much poorer than Ethiopia.I understood you think African are barbarians but All African nations except Ethiopia were European colonies.And these countries(colonies) were much richer than Chosen.And no one said "Koreans were barbarians".And Japan hadn`t import Korean culture over 1,950 years.Let`s learn true history.AGKranranru 16 時間前 3
- Japan had contributed to Korea after Treaty of Ganghwa in 1876.This video gives wrong massage that Japan didnt exist in Korea before the annexation.This video is clearly misleadingAGKranranru 16 時間前 2
- No one said these photos are fake.Koreans are misleading.1. There is no structures that Koreans built by themselves in this video.2. There is no caption about things which Japan contributed to Korea in this video.(Japan designed the streetcar,organized and trained Korean army,paved the road.improvedarround Sungnyemun.3.These structures were improved by Japanese money not korean money.AGKranranru 16 時間前
- 한국군은 베트남 전쟁에서 강간을 반복했다, 결과 3 만 명의 전쟁 고아가 발생. 한국 정부는 베트남 정부에 사죄와 배상을해야한다. 일본 정부는 한국 정부에 사죄와 보상을했다. 전쟁을하지 않기 때문에 본래 그것은 필요 없었다.South Korean soldiers in the Viet war repeated the rape. 30000 war orphans generation at the result. Korean government should make apology and compensation, to the Viet government. Japanese government made apology and compensation to the Korean government. Since the war has not, originally it was not necessary.Martian12if 1 日前
- 제 이차 세계 대전 후 66 년 전부터 한국에서는 반일 정책. 일본은 한국을 합병했다. 그러나 전쟁은하지 않았습니다. 그러나 한국과 평화 (1951 년)의 조약은 총 20 억 달러 예외적인 수준의 프리미엄을 지불했다. 일본은 한국에 남아있는 자산 53 억 달러를 요구하고 있지 않습니다. 한국 정부는 국민에게 국가 보상을 배포하지 않습니다. 한국 정부는 국민 전후 보상금을 지불할 필요가있다.Martian12if 1 週間前
- South Korea anti-Japanese policy from 66 years ago after the WW2. Japan annexed Korea. but war did not. but the Treaty of Peace with korea (1951 year) paid a compensation of total $ 2 billion exceptional level. Japan is assets left in Korea, not requested $ 5.3 billion. Korea government are not distributed the national compensation to people. Korean government must pay compensation to korea people.Martian12if 1 週間前
Imperial Korean Army Soldiers.JPG
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