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引き揚げ時の朝鮮半島
朝鮮は日本統治され、発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
戦時中は、共に戦いましたが、日本が負けた事を知ると日本人を虐殺したり、日本人女性が強姦されたりした事は、紛れもない史実です。
台湾にいた日本人は、台湾人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは、命からがら逃げて来たのです。
終戦1週間前の1945年8月8日、
ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。
満州に侵攻してきたソ連軍
窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。
「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘が次々にまずソ連兵に犯され、ついで、韓国の保安部隊に引き渡されて、更に散散にいじめられたうえ、虐殺される光景であった。
朝鮮保安部隊の略奪と暴行は、残虐を極めた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
皆、ソ連兵を韓国人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。韓国人の男女が数十名の団体で押しかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の「提供」を要求した。
正論 2005 年11月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。
筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。
牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。
そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
生きて祖国へ5 死の三十八度線 引揚体験集編集委員会編
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私達若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。
私の三十八度線突破記録 梶山緑
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる
事になった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、
暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。
富坪の避難民3000名中、その半数が死亡した。
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。
やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗に
ささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、人々は南に辿り着いた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄
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