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Monday, June 4, 2012

Empress Myeongseong had a beautiful double eyelid

Empress Myeongseong queen Min 명성황후

http://naver007.blog.so-net.ne.jp/2007-08-27
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=77993
明成皇后・肖像画~.宮女論難写真と類似 [閔妃]




http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=77993&servcode=400§code=400

Empress Myeongseong had a beautiful double eyelid

a Portrait taken the face of Empress Myeongseong and korean imperial family at the end of Joseon era(Chosun, 1392 ~ 1910) has been discovered.

published in 10 september 1894(meiji 27th year)
publisher "the issuer ;Tachikawa Yoshi,12 Kitamoto Kyobashi-ku, Tokyo
printed Shinyo-do,
3 chomeme Kojimachi Yurakucho Tokyo


However, there is also opposite opinion.
Pr.Han Young-u in Hallym University ( 68, studies history of korea) as an expert researcher of costume in Joseon Dynasty,predicates "she is not Empress Myeongseong".
because of her wig and cloth is not for queen, nor her impression is much younger rather than 43-year-old woman at the time in the portrait.

also he stressed that its not followed custom in Joseon dynasty, only the king and ministers could be drawn, never be painted only upper half of the body"




◆中央日報
「明成皇后は二重美人だった」

明成皇后(1851~1895)の顔が描かれた朝鮮(チョソン、1392~1910)末期の皇室家族の肖像画が発見された。

月刊中央は、18日に発売した8月号で、明成皇后(王妃閔氏と記載)、朝鮮26代王の高宗(コジョン)、大院君(テウォングン)が描かれた「朝鮮国貴顕肖像」というタイトルの肖像画の画集をカナダ・トロントで発掘した、と公開した。大きさは横55センチ、縦40.4センチ。保存の状態が良好なほうであることが肉眼で確認できる。絵の下の部分には、漢字で発行・印刷した時期・住所・作家・出版社などが記されてある。

明治27年(1894)日本で制作されたこの肖像画は今年6月上旬、トロント在住の中国人が所蔵していたものを、江原(カンウォン)道民日報のソン・クァンホ北米特派員が見つけたもの。発見した当時、競売市場に出る直前だったもようだ。所蔵者の中国人は、この絵の出所について約6年前に米ボストンの競売会社スキナーで購入した、と説明している。肖像画に描かれた明成皇后ははっきりとした二重など美しい顔だち。

肖像画の右下には「板権所有・明治二七年九月十日、印刷・同年同月十日に発行」と記されてある。印刷・発行日が9月10日で同じだ。記された発行日通りならば明成皇后が死去する13カ月前だ。明成皇后が日本人によって殺害された「乙未事変」は、1895年10月8日のことだった。下の中間あたりには「印刷画作兼発行者・東京京橋区北楨拾弐番地・タチカワヨシ(キチ)チロウ」となっている。

絵の左下には、印刷所が「東京麹町区有楽町三町目信陽堂」と記されてある。明成皇后研究の権威者、ソウル大・李泰鎭(イ・テジン、64、国史学)教授は「この肖像画はこれまで発見された写真や絵のうち年代が最も早く、日本から出てきた資料との点から大きな価値がある」と述べた。

また「作家の名前まで分かった場合は初めて。日本の出版社が3人の人物を1枚の絵に盛り込み帯の装飾などをして普及版を作っていたのも初めて確認されたもの」と指摘。李教授は、続いて「1894年当時は日本のイラストレーターが朝鮮の宮廷を往来していた時期」とし「王妃の髪にのみカンザシをさすことができたことから、明成皇后であることを示すもう一つの資料、と考えられる」と評価した。

しかし、正反対の見方もある。翰林(ハンリム)大学・韓永愚(ハン・ヨンウ、68、国史学)教授は「朝鮮時代の衣装研究専門家として、肖像画の服とカツラは王妃の服装ではなく、明成皇后の印象も当時43歳の顔にしては若すぎる」とし「明成皇后ではない」と断定。また「肖像画は王と大臣だけを描き、決して半身の肖像は描かない」という朝鮮時代の慣行を強調した。

月刊中央・特別取材チーム

2006.07.19 15:45:22

◆参照

http://japanese.joins.com/article/993/77993.html?sectcode=400&servcode=400






【質問】
この写真の人物は閔妃か?
is she queen Min?

answer;

abigail
in the article of Japanese or Western materials  , the description of this photo were written as "Madam wearing formal" ,"ladies of the court" or " maid"  in previous Japan's annexation of the Korean Peninsula (1910).
there is no document entirely written as "Queen Min".

in the convention of Joseon royal family, queen didn't weave the hair to Kunmori.
Despite of them, at the actual situation, it has been widely circulated as "Queen Min"
From that, she is maid not Queen Min.

In addition, according to the site, photos of Queen Min is not existed.



【回答】
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

によれば,

・日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では,この写真の説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり,「閔妃」とするものは全くない.
・朝鮮王室の慣例では王妃はクンモリをしないと推測できる
・にも関わらず,「閔妃」であると広く流布されているのが実状
ということから,閔妃ではなく女官である可能性が高い.

また,同サイトによれば,閔妃の写真は存在しないという.

さらに,
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi051.html


the photo is seemed had been published in the book,
the Photo Album in world manners No.20 (published in 1901).
believing the description, court maids were worked with weaving the hair to Kunmori from the usual.
it might like Chinese foot-binding.


によれば,世界風俗写真帖 第二十図(1901年発行)に掲載されていた写真なのだそうで.
記述を信用すると,普段からクンモリをして働かせていたということでしょうか.
纏足みたいなものかもしれません






韓国社会の歴史
韓 永愚:著, 吉田 光男:訳
Han Young-u 박정희 著
한림대학교(翰林大學校, Hallym University)

97年初版以来,韓国で5万部を超えたベストセラー。韓国中堅層が身に付けているネガティブな韓国史像を,高い文化水準と「文民政治」の伝統に彩られた誇るべき歴史像として豊富な図版とともに描き出す。韓国人の歴史認識を知るうえで必須の薫り高い翻訳書。
韩国前期史学史硏究、韩永愚着、ソウル大出版部刊、
1981Jeon-gi sa hag sa yeon-gu(A Study of Historiography in the Early Yi Dynasty)



http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi051.html

日清戦争前夜の日本と朝鮮(15)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)


(写真[1][2]は、説明文の順序に従い左右の配置を入れ換えた。)
「世界風俗写真帖 第1集」明治34年(1901)11月19日発行、坪井正五郎・沼田頼輔編、東京:東洋社。「第二十図」より。()は筆者。

世界風俗写真帖 第二十図
[二十]韓人の服装[甲]

図中の[1]は第二の王妃と称せらるゝ厳貴宮にして、今上(高宗)の寵妃なり。写真にては仮面にてもかぶれる様に思わるれ共、実際は粉装の甚だしきためなり。頭上の髪は、仮に宮中式とも云うべきか。一の付け髷も思われざれど、韓人の佳人と称するは、邦人の見る所と其の趣を異にし、目付鼻付の如何を問わずして専ら額の大なるを喜ぶ故に、男女共に額瀬の生えぎわを抜き広げる風あり。従って先天的の分界を知ること難けれども、斯る習慣は邦人の富士額を愛すると反対にて、韓人は此種の者を貧相と云いて常に忌み嫌い、其広く大なるを富貴の相として喜び好む。試みに見よ此の写真中の女子は何れの人物も額ぎをの相似たる風を示せることを。右は(これは)支那風の移れるならんかと思いしが、支那人は之と異り古来半月形の生えぎわを好み、今日にても当に斯く為すを見れば、全く特殊の旧慣なるべし。衣服の内、其上着の襟短きは、元来上衣の短少なるが為めにして、又日本の女子が着する折襟と云う類のものなし。下に着たるは即ち裳[チマ]と称する品にて、何人も用いるものなるが、斯る大なるは嘗てなし。惟うに上流社会の婦女子に限れる風ならん。猶此の裳の下には下袴あり。図に就て見るも、其の上絹の薄く透ける為め、足首を結束せる具合を認め得るならん。又右手に持ちたるは団扇にて、形状は我邦の水団扇に彷彿たり。

she is courtesan of Gojong,called "secound Queen"
she might be killed with poisoning by Queen Min.
고종/高宗/Gojong
厳貴宮

[2]は、宮中に奉仕する侍女の風にて、其頭上に戴けるは娘姿[ナグチャ]とて木製の品なるが、一見蟒[うわばみ]の如くにして最重きものなりと云う。而して横に挿したるは簪(かんざし)にて、普通一般に行わるゝ形状の品なり。右の簪は全く支那式なるが、多くは真鍮又は錫の類にて製し、儀式其の他盛装を為す場合は、銀製の品を用いる。図の如く長きは稀にして、大略五寸位に過ぎざるなり。扨て何故に斯る重きものを頭上に戴くやと云うに、これは平素其の躰度をおもおもしくなさしめんが為にて、他に例なき風と云うべし。勿論結婚の際は、類似の頭髪に結べること有れども、此の場合は所謂入れ毛に過ぎずして、木などを用いることなし。又衣服の如き、腹巻の如き、皆一般の風と異り。凡て支那の古式なれば、当時の有様は却って之を現時の韓国土俗中に認むるを得可し。

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