http://blog.goo.ne.jp/kisawai_2007/e/443be44a5ab1650a5a5f05f08e14df12
小田島雄次『李方子ー一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房、2007年
李王家皇太子妃である李方子(り・まさこ/イバンジャ、[1901-89])の評伝です。
梨本宮守正と(鍋島)伊都子の子として生まれ、20歳で李王家最後の皇太子であった李大王の子・李垠(リ・ウン)と結婚した方子(1920)。彼らの結婚は戦前の日本が韓国を支配する政策の一環としての国策でした。このことによって「日韓融和」が喧伝されましたが、実際には朝鮮人の同化、日本人化の推進に利用されたのでした。
方子の結婚は、本人がそのことを知る前に新聞紙上の記事から知ったというものでした(李垠は1907年に満11歳で伊藤博文が教育目的に日本に連れて来ました)。
彼らの結婚には、悲劇が付きまとっていました。予定されていた結婚が李大王の急死で延期されましたし(毒殺説があります)、最初の子・晋は朝鮮での覲見式、宗廟への奉審の儀にともなって行われた晩餐会の後に急死しました(これも毒殺説があります)。
関東大震災、戦中の苦労。敗戦後、日本国憲法施行の前日に公布された皇室令第12号によって王皇族としての地位と身分の喪失、さらに戦後は李承晩から疎まれ、1963年まで韓国への帰国が許されませんでした。
帰国後、李垠と方子とは大韓民国国民となります。方子が輝くのは、夫の死後(1970年)、韓国で始めた、慈善・福祉活動によってでした(身体障害者のための明暉園の設立など)。
母であった伊都子の「日記」と方子の著作『流れるままに』を下敷きに、方子の波乱万丈の人生を、大正、昭和の出来事、歴史的事件をふんだんにもりこみながら、たどった異色の評伝です。
「第1章・梨本宮方子の日々」「第2章・李王族の一員に」「第3章・動乱の時代」「第4章・流転」。巻末の「李方子年譜」は重要です。
http://hmpiano.net/riwakino/princess_masako.html
朝鮮李王朝最後の皇太子妃となった日本人女性
今朝、寝床の中で「日韓皇室秘話・李方子妃」(渡辺みどり著・中公文庫)を読み終え、溢
れる涙で枕を濡らしました。
外国に嫁がれた唯一の日本皇族の女性の物語は以前にも読んだことがあるのですが、
今回は年を取ったせいでしょうか、それとも今の日本がはなはだ情けない大人達で充ち
満ちている危機感からでしょうか、この数奇な運命に弄ばれながら高貴さと、良質さを失う
ことなく立派に生き抜いた大和撫子の存在に魂を揺り動かされるような感動を受けたので
す。
私が若いころから王族のような高貴な身分の人に深い関心を持ち続けたのは、このよう
な精神の気高さを身につけた人を頻繁に見出すからなんだろう、とこの本を読んで改めて
思いました。
梨本宮家の王女である方子妃は日韓併合後、人質として11歳で日本に連れてこられた
韓国王太子李垠と政略結婚をさせられますが、日韓の軋轢の中で様々な苦労を重ねな
がらも二人の中はむつまじく、最後まで添いとどけるのです。朴大統領が政権をとってから
初めて夫と共に韓国に迎え入れられたときは、反日感情の激しさもあいまって「チョッパリ
!」「異国の女」と韓国民の反感を買うのですが、夫の死後も韓国に留まって慈善活動に
従事し、19年後の平成元年に87歳で世を去ったとき、韓国政府は准国葬の扱いをし、韓
国民の多くが喪に服したのです。
「方子妃の葬列は1キロにも及び、チマチョゴリの女子学生が持つ韓国の国旗を先頭に立
ち、その後を全州李氏の幟(のぼり)がおよそ二百本続いた。その後から李王朝の伝統的
な衣裳に身を包んだ女官や楽士の列が続き、この葬列は李王朝残影とでもいおうか、李
王朝最後の伝統文化を次の世代に継承するという趣があった」と同書は記しています。
平成元年のこの葬列で女官たちが舞を舞いながら葬列に続く様を目撃したサンケイ新聞
ソウル支局長(当時)黒田勝弘氏は「韓国の人たちの方子妃に献げる哀悼、涙無しに見る
ことができなかった」とそのエセー集に記しています。
それにしても我が国は何と素晴らしい女性を多く生み出しているのだろうか、と改めて感じ
入りました。それと同時に敗戦後、多くの皇族から皇族の身分を奪った愚かさを強く感じま
す。方子妃殿下のような良質の方々がいくらでも今でも皇族として残っておられたでしょう
から、お世継ぎ問題ももっと色んな選択肢を見つけることができたことと思います。
今からでも遅くはありません。旧宮家を復活させることに私は賛成です。
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