Sunday, December 2, 2012

the knowledge of public health law and customs in 19th century Paris

http://www.geocities.jp/georgesandjp/articles/demimondepublichealth.html

19世紀パリの風俗法と公衆衛生的知識

19世紀の英国の医師であったライアン博士は著書のなかで、

「フランスの風俗法は先進的でどの国から見ても羨ましいほど効果的である。取り締まりの観点だけでなくその他の公序良俗の保持、公衆衛生の観点からも効果は一考の価値がある。」

噂話掲示板の中で私は「風俗法の効果」によって国の文明度を推し量ることが出来るような見解を書いた覚えがあるが、まさに、19世紀でもそれは明らかであったようです。

モラルの厳しいといわれた英国ヴィクトリア朝社会でも実は、売春、性病、人身売買、児童労働と娼婦をめぐって起こる殺人・娼館での強盗が後を絶たず、政府と警察は「モラルの締め付け」だけでは何の解決にもならないことを意識させられていました。
今�でもよく知られている「切り裂きジャック」もヴィクトリア時代末でしたが、とくに話題になったのは「娼婦が殺されたから」ではなく医学的知識のある方法でおこなわれた残虐さがヴィクトリア朝の「ヒポクリシーを象徴していたから」です。

それとは対照的にフランスでは人間の歴史が始まって以来の「最も古い職業」を、必要悪と認め単に取り締まるだけでなく関わるものの登録制度を導入、健康診断などを頻繁に行い犯罪・病気などが広がるのも制限することに成功していました。

良識のある一般社会は街角で売春婦を見かけることもなく、登録許可のある娼館では一応安全に<商売>が行われており、店に属さない「独立者」も当局の発行した身分証明書と健康診断書を所持していました。
健康診断で何か症状が見つかれば専用の病院に収容され治療が行われていました。(あまり日本的な病院は想像しない方が正確かもしれませんが。)

売買春に関わる上でのやはり当時最大の恐怖は梅毒に感染することで、その症状の残酷さ、末期には精神異常をきたして死ぬという恐ろしさを利用してライアン博士は公衆の買春を減少しようとしました。

ところで、予防の方法はあったのか?

リストの伝記の中でウオーカーは「特に避妊方法などはあまりなかった」と言及していて私も信じていたのですが、18世紀には英国で宮廷医師が羊の腸の一端を結束した「コンドーム」が発明されて19世紀には一般にも使用されるようになっていました。
特に感染を予防するには現在でもこの方法以外にはありません。
名称が仏語では「英国製レインコート」(現在でもレインコートは英語で通じることがあります)英語では「フランス語の手紙」と呼ばれ1820年代にはパレロワイヤルの商店街で購入できるようになっていました、その後19世紀後半になるとたばこ屋や当然、娼館でも50サンチームほどで販売されていたようです。

20世紀になるまで絹や動物の腸を使用したものが生産されていたのですが、実は19世紀末にグッドイヤー氏が熱処理したゴムを使ってほぼ現在の「商品」と同じものを発明しているのです。(あのタイヤのグッドイヤーは車のタイヤよりもしかしたら先に作�っていたかも。)

そのほか、現在でも使用されているありとあらゆる方法のほとんどが当時ではすでに一般にも知られており、つまりホルモン療法以外の避妊方法は19世紀には確立されていたといえるようです。特に弱酸性溶液を使用した洗浄方法は、簡単、安価でそのわりに成功率が高く街の薬局でも「衛生用具」という名目の元に販売されていました。
(米国に行って初めて存在を知った私。やはり日本は遅れているのか?それとも教育に欠陥が?)

外国人がフランスに行くと必ずといっていいほど頭をかしげる「ビデ」も17世紀末には発明されていました。
4歳の時にビデが何かを母に尋ねたことがあるのですが明確な答えが帰ってこなかったのを良く覚えています。(爆笑)

19世紀「デミ・モンド」を知る上で。「一般市民の経済」

19世紀フランスの「デミ・モンド」の説明抜きにして当時の文化、芸術を語ることは出来ません。
「デミ・モンド」―一般的には「表の社交界」と「底辺の風俗」の中間として見られているようですが、当時この単語の意図するところはタダ単に「高級娼婦の集まり、またはそれに象徴される社会」というだけでなく、世紀半ばの急変しつつある社会の鑑でもあったわけです。
表向きのモラルと厳しいマナー、と同時に紛れもなく存在していたありとあらゆる俗悪(児童労働、売春、人身または奴隷売買などなど)、フランスだけでなくヴィクトリア朝に代表されるのヒポクリシーは当時でも周知の事実でありました。

帝国の崩壊のあと、スタンダールの「赤と黒」などに象徴されるように経済力と才能によって「生まれのよさ」または、その不在をカバーし、補い「成り上がること」が可能になった欧州社会。
前出のロスチャイルドファミリーはそれだけを頼りに名実ともに「表の社交界」に出入りする権利を獲得します。(オーストリア皇帝から男爵号を受理)。

リストやショパンなど平民出身の音楽家が貴族と対等に交流できるようになったのも偶然ではありません。

貴族と黒人混血奴隷の私生児であるアレクサンドル・デュマ(父)は、自家用馬車に伯爵家の紋章をわざとこれ見よがしに掲示したりしたのは、どこかに「肌の色の違いを補うものがあるのだ」、「私はただの物書きというだけではない」という主張でもあったようです。「三銃士」の作者が黒人であったことを知っているか居ないかで彼の作品の意味合いをより深く理解できるのではないでしょうか。(「三銃士」の映画を見たことのある米国人がどれだけこの事実を知っているのかは非常に疑問です。)

***
そこで「当時のパリ労働者はどれぐらいの収入があったか。」

Top Menuにある「ピアノ決闘」などやリストの収入などを議論する際に、これはいつも基本になります。
非常に困難な金銭の単位の互換性。現代と19世紀の経済状況の明確な相違点から、単純に現代の平均収入と換算することは困難ですが、日に4フランというのを基本にしたいと思います。

19世紀半ばには12フランで絹のドレスをオーダーできたということですから、それが安いかというよりも「労働費」が低かったと考えることも出来ます。
肉体労働(燃料用薪わり)に一時間50サンチームという記録もあるので一日4フランは少し低いかもしれませんが、薪わりは定職ではないという事も考慮する必要があります。

ここで注目していただきたいのは「男性の給金」であるということ。女性の収入は半分、またはそれ以下であったという事です。

労働者階級の女性の仕事とは
・中流階級以上の住み込みまたは通い「メイド」
・洗濯婦(これにもいろいろな階級があります)
・お針子
・花屋の店員
などが主なものでした。

生家が貧しければ貧しいほど、子供たちの労働年齢が低いことにも注目しましょう。「赤と黒」の最初の辺りにも少し描写されていますが「家業」があるならなおさら、「勉強よりも労働」というのは当たり前のことでいわゆる現代でいう学齢になるころには多かれ少なかれ「労働に携わる」のが普通でした。
そのなかで、当然虐待ともいえるようなことは日常茶飯事だったわけでもし「家業」がなければ健康な子供を「弟子入り」という名目で売却することも行われていたわけです。
女児の場合も同様で住み込みメイド、洗濯婦見習い、またはお針子見習いとして遅くとも十代はじめに仕事を始めました。
良識のある雇い人、または家に住み込むことの出来たものは運がいいのですが、よく考えればそういう場所はもともと知人や名士の紹介状のあるものだけしか雇わないし現実の厳しさは簡単に想像できます。


「デミ・モンド」 当時の労働者階級の女性「グリセット」

1847年9月5日、ロシアに滞在中のリストは母アンナに宛てある買い物を頼みます。

「母上、細心の注意を払ってある貴婦人にふさわしい帽子を選んでいただきたいのです。(中略)でもそこらの{グリセット}のにふさわしいような派手で下品なものを買わされないように絶対に気をつけて下さい。」

これはプリンセスカロリーネに送るための帽子をパリから取り寄せようというリストの依頼ですがそれよりもこの{グリセット}という単語に注目して下さい。

英語にも日本語にも翻訳できないこの単語、Grisette。語源はGri(フランス語のグレー、お針子さんの制服が安価なグレーの生地であった)、そしてその制服を着ているお針子という意味であったようですが、実はこの当時ではパートタイムの娼婦などを指す意味に使用されているのです。

前回の日記の最後に説明したように女性の給金は男性の半分以下、特別に住む場所に困らないし、飢えたりはしないが、若い女性は友人とお茶を飲んだり、流行の帽子やショールを買ったりする余裕などは無かったのです。
そこで、小遣いを稼ぐためにパートで売春に関わるのが教育のない女性には一番手っ取り早い方法だったのです。
当時パリでは風俗取締法が厳しく、娼婦たちは公認の娼館で働く以外は街角で客を誘うことが出来ませんでした。
ところがこの頃までには暗黙の了解のシステムがすでに出来上がっており、テイラー「仕立て屋」が「お針子紹介所」のようになっていたのです。
このような仕立て屋はパリの学生たちなどの集まる場所に位置しており、いわゆる「プロではない普通の女の子的」な女性と人目を気にせずに出会えるという事が大きな魅力でした。

中流、または上流階級出身の子息で医師や弁護士になるために大学に行っている者、またはまだ自分では結婚できるほど事業を確立していないが将来の明るい独身男性で底辺の娼館などには行きたくないが、かといって自分と同じ社会階級に属している女性は「いわゆる結婚相手」であるために、”表向き”は婚約者でも婚前交渉はなく「グリセット」の存在はどこかに「買春行為」ではないから、という口実も成り立っていたようです。(どこかの国の援助交際と完全に同じロジック)

高級な商品(絹のドレスなど)を仕立てたり、上流家庭の洗濯ものを扱うグリセットや洗濯婦たちは、身体を清潔に保つことなども仕事上必要であったのと、出入り客の応対のマナーなど�も雇用者に仕込まれていることなどが、中流の子息などを引き寄せる主要な理由であったものとも思われます。
雇用者自身が「グリセット出身」でそれで得た金を元に自分の「仕立て屋」「花屋」などを始めて独立したものも居たはずで、当然、紹介するごとに「紹介費」を取っていたので客と女性だけでなく紹介者の経済にも加担していました。
彼女たちにとってはあくまでも「若いうちに臨時的に少ない給料を補給」するために「生活援助してくれる愛人」がいるだけで、そのうちに自分の属する労働者階級の男と結婚し家庭を持ち子供を育てることになるのが普通でした。

普通の売春婦・娼婦たちとこのグリセットたち、または「美容師」「マニキュアリスト」「ピアノ教師(愛人?)」などまでも含めて「ロレット」という名称も使用されていたようです。

***
それでは、その女性がどの「階級」に属しているか、という判断に基準はやはり、「どの程度の収入を得ているか」=「つまり彼女たちにどれだけ選択の余地が有るか」というある意味では「経済社会における基本」がここでも成り立っていました。
つまり底辺の売春婦たちは「もらえるだけ」もらえれば選り好みは出来なかった。それとは逆にロレットたちよりも上で「彼女たちの頂点」に属する高級娼婦たちは客層も上流なら収入をそれ以上であることが当然、またどの客がどれだけ払うか、というのも彼女たちが自分で判断していました。

ここで言う高級娼婦たちがいわゆる「デミ・モンド」に属する女性たちで、宮廷などに出入りを許されるもの、名門貴族もうらやむような豪華な生活する者たちもいて、労働者階級の若い女性にとって唯一の「成り上がり」方法であったことは否定できません。
そのようなチャンスを最初に提�示された時に彼女たちにとってモラル上「拒否する理由」はなかったからです。

No comments:

Post a Comment