Sunday, December 2, 2012

the licensed quarters in Kyoto and Edo

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京と江戸の遊廓

三大遊廓にかぞえあげられた京と江戸の遊廓はどのようにして成り立ったのか。その黎明を簡単に追ってみたい。

        島原の地図:クリックで拡大
京に公許の遊廓ができたのは豊臣時代の天正17年(1589)で、原三郎左衛門と林又一郎の願いにより二条万里小路(にじょうまでのこうじ)に設けられ、「柳町(やなぎまち)」と呼ばれた。その後、江戸時代の慶長7年(1602)に六条坊門に移され「三筋町(みすじまち)」と呼ばれたが、市街地が拡大していくなかで風紀が問題になり、寛永18年(1641)、将軍家光の時代に当時としては辺鄙な地であった朱雀野(しゅしゃかの)へ移された。これが「嶋原(島原)遊廓」である。嶋原という名称は、俗称で正式名称は西新屋敷といい、「中の町」「上の町」「中堂寺町」「太夫町」「下の町」「揚屋町」の6町で成り立っている。移転命令が急であったため、その混乱ぶりを「島原の乱」になぞらえてつけられた、といわれている。また、この時に現在唯一の揚屋遺構である「角屋(すみや)」も三筋町から揚屋町に移ってきている。廓の大きさは、東西が約200メートル、南北が約240メートル。土塀で囲まれた廓は、東側に大門が設けられた。

京都唯一の公許遊郭として元禄時代に最も繁栄した。また、江戸時代の嶋原は遊宴の場にとどまらず、嶋原俳壇が形成されるなど文芸の花が咲いたことでも知られている。

島原への入り口は当初、東の大門一つだけであったが、享保17年(1732)に西門が設けられ、その後、天保13年(1842)現在地に移された。西門は昭和52年(1977)と平成10年(1998)に自動車の接触事故により倒壊し、今は記念碑のみが往時の様子を伝えている。

江戸の吉原では遊女が郭外へ出ることを厳格に制限されていたが、島原では西門ができると比較的自由に出入りすることができるようになり、一般の男女も自由に出入りすることができた。これは大坂の新町遊郭も同様で、当初遊女は廓外へ出ることを厳格に制限されていたが、後になると制限は緩和されて比較的自由に出入りできるようになっている。

幕府公許の遊廓として、おもに公家や武家など身分の高い者の遊宴の場として栄えた嶋原であったが、時代の流れとともに気軽に遊べる祇園等が町衆に喜ばれるようになり、また都から離れていたこともあり、しだいにさびれていった。特に明治になり政治の中心が東京に移るといっそうさびれ、その表舞台は祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街に取って代わられていった。

明治30年(1897)も過ぎると島原は娼妓を抱える女郎屋が主だったものとなり、それは昭和33年(1958)4月1日からの売春防止法刑事罰適用まで続いた。


揚屋での遊び。江戸時代に描かれた絵図。
現在島原で遊宴の場を営んでいるのは、お茶屋の「輪違屋(わちがいや)」のみで、現役の太夫を抱える置屋も兼業している。また近所に揚屋の遺構である「角屋(すみや)」や「嶋原七つの文芸碑」が点在しているのでそれを見て回るのも一興であろう。

角屋は、こちらからどうぞ。
輪違屋は、こちらからどうぞ。
島原遊郭 文芸碑めぐりは、こちらからどうぞ。
島原における家数の変遷
年  次 揚 屋 数 傾 城 屋 数 茶 屋 数 合 計
元禄15年(1702) 24 33 20 77
宝暦07年(1757) 19 13 12 44
天明04年(1784) 12 24 15 51
天保13年(1842) 21 20 245 286
傾城屋とは女郎屋の事で、高階位の太夫や天神を抱えて揚屋へ送り込む傾城屋と、端女郎を抱え置く傾城屋があった。しかし、端女郎を抱え置く傾城屋は祇園等の新地勢力が勢いを増すにつれて衰退していった。
島原における遊女数の変遷
年  次 太 夫 天 神 鹿 恋 端 合 計
元禄15年(1702) 13 57 54 184 308
宝暦07年(1757) 22 46 85 153
天明04年(1784) 34 15 13 74 136
大坂新町遊廓における遊女の階級はこちらからどうぞ。

江戸では城の普請の際に遊女町の一つであった柳町が幕府の御用地として召し上げられることになったため、これを機会に各所に散在する遊女町を一ヶ所にまとめてもらいたいと幕府に願い出た者がいた。柳町の庄司甚内であったが、この時は認められなかった。慶長10年(1605)のことである。
慶長17年(1612)になって、庄司甚内は3つの条件を添えて再び願い出た。その条件は、遊女屋を隠れ蓑にする不審人物は直ちに奉行所へ届け出る、などであったが、これに対し幕府は元和3年(1617)、5つの条件を付けて許可した。5つの条件とは

一、廓外で遊女屋をしてはならない。廓外へ遊女を派遣してはならない。
二、遊女を買う客は一泊のみであること。それより長く逗留させないこと。
三、遊女に贅沢な衣装を着用させてはならない。
四、遊女屋の建物は質素にすること。
五、不審者は奉行所へ届け出ること。

こうして各所に散在していた江戸の遊女屋は、当時湿地帯であった日本橋葺屋町に集められた。しかし約40年後の明暦2年(1656)、人口増とともに市中が拡大する中で、郊外への移転命令が言い渡され浅草寺裏の日本堤、俗にいう浅草田圃へ好条件のもと移転が決まった。その好条件とは、土地面積は今までの5割り増し、移転料として1万5千両の支給、などであった。これが「新吉原」で、それ以前を「元吉原」と呼んで区別する。また、面白いことに、大坂・京・江戸の三大遊廓、いや実際には諸国ほとんどの遊廓の開基は武家出身者であるということである。

吉原における遊女の階位
元吉原初期 元吉原末期 新吉原初期以降 新吉原元禄以降 宝暦中頃以後
 階 位 太夫 太夫 太夫 太夫 ―
格子女郎 格子女郎 格子女郎 格子女郎 ―
端女郎 局女郎 散茶女郎 散茶女郎 呼出
端女郎 局女郎 昼三
切見世女郎 切見世女郎 附廻
梅茶女郎 座敷持
部屋持
切見世女郎 切見世
上の表を見ればわかる様に吉原では時代によって遊女の階位が変化していった。上述のように宝暦中頃に太夫、格子の位が無くなり、散茶女郎が最上位になったが、それがさらに3つに分れた。梅茶女郎は座敷持と部屋持になった。
▼嶋原の揚屋「角屋」


  


角屋(すみや)は大坂新町の吉田屋等と比肩しうる揚屋で、嶋原を代表し、昭和60年(1985)まで営業が続けられた。室内は照明用の行灯により、煤けているが、趣向を凝らした豪奢な造りは、往時を偲ばせるには十分の風格を漂わせている。建物は揚屋建築としては唯一の遺構で昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定された。
吉原では宝暦期中頃(1757年頃)に太夫、格子の位が無くなり、歌舞などの諸芸を披露しない、娼妓としての「花魁」が高級遊女となった。また揚屋も無くなり、揚屋が残ったのは、大坂新町と京嶋原のみとなった。
角屋は新撰組が利用したことでも知られている。京の私娼地としては、宮川町、五番町、先斗町、六波羅、高台寺山などがあった。
 

▼吉原の若柳花魁による道中


  

吉原では花魁が妓夫の肩に手をかけながら(左写真では花魁が左手を男衆にあずけている)外八文字で花魁道中するが、新町や嶋原では妓夫の肩を借りずに内八文字(うちはちもんじ)で太夫道中する。
また、花魁は帯を前にだらりと垂らしているが、上方の太夫(最上位の遊女)は帯びを前で心の文字に結んでいる。京都島原の太夫はこちらからどうぞ。
花魁という言葉は、従えている禿(かむろ)や女郎が「おいらの姉さん」と呼んだことにはじまる。
写真をクリックすると拡大できます。
新町の太夫道中はこちらから。

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