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Thursday, October 10, 2013

Lee Ok Seong,the ex-comfort women

Lee Ok-Seong,
Yi Ok-sun 李玉善(イ・オクソン、이옥선)
慰安婦(いあんふ、위안부[1]、Comfort Women)

自称・元慰安婦ら2人が渡米し国際社会に訴え!「日本政府が責任を否定し歴史を歪曲している!」
2013年07月10日 02:29 コメント(3) 慰安婦問題
1: そーきそばΦ ★ 2013/07/09(火) 02:08:50.51 ID:???0
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【広州聯合ニュース】
ソウル近郊の社会福祉法人「ナヌムの家」(京畿道・広州)は8日、同所で共同生活する元旧日本軍従軍慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さんと姜日出(カン・イルチュル)さんが10~23日に米国を訪れ、自身の悲惨な体験を国際社会に訴えると明らかにした。

11日にはニューヨーク市立大学クイーンズボーロコミュニティ・カレッジのカッファバーグ・ホロコースト・センターで開かれる旧日本軍従軍慰安婦とホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)被害者の共同行事に出席する。

17日にはワシントンで、日本政府に慰安婦問題での歴史的責任を認めるよう求めた下院決議採択6周年の記念式典に参加する。
同決議採択で中心的な役割を果たしたマイク・ホンダ下院議員らとも再会する。
式典には民主党のナンシー・ペロシ下院院内総務、エドワード・ロイス下院外交委員長らも出席する予定。

元慰安婦の被害女性らがいずれも80代という高齢を押して長時間の移動を伴う訪米に乗り出すのは、残された時間が少なくなり存命中に解決したいとの切実な思いからだ。

ナヌムの家のアン・シングォン所長は、日本政府が責任を否定し歴史を歪曲(わいきょく)していると批判し、「日本の変化を促すために米国の役割が一層必要な時期だ」と強調した。

聯合ニュース

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/08/2013070802276.html


http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20130603/1374257113
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従軍慰安婦 | 03:05

イ・オクソン(李玉善)・ハルモニの証言(<特集>戦後60年・ポスト北京の10年)

女性学評論 [巻号一覧]

女性学評論 20, 69-78, 2006-03-31

神戸女学院大学

イ・オクソン(李玉善)・ハルモニの証言

私は韓国のナヌムの家から参りましたイ・オクソンと申します。年は80になります*1。

皆さんにこういうお話をすることに、私はとても申し訳ない気持ちもございます。申し訳ないし、恥ずかしいことも沢山あります。けれども、私が死ぬまでにこうした歴史的事実を皆さんにお伝えしたいし、残していかなくてはいけないと感じております。こういったことは、二度と戦争が起こらないようにするためにも必要なことだと、私は感じております。

私は韓国人です。釜山で生まれました。15年間釜山で育ちました。7歳のころ、とても学校に通いたかったんですけれども、家庭事情があまりよくなかったので、学校に通うことができませんでした。

15歳くらいで、家庭事情によって、蔚山(ウルサン)という韓国の南にある所へ養女に出されました。そこで暮らしている時に、ある日、そこの主人のお使いで市内に出ました。けれども、市内に出たところで、知らない男2人に連れて行かれました。その時の男性2人は、日本人なのか朝鮮人なのかわかりませんでした。1人は日本語を喋っており、もう1人は朝鮮人かなと思われました。15歳の幼い子どもでしたから、到底抵抗しきれずに捕まえられて、腕を引っ張って連れて行かれました。行ったら角のところに大きなトラックがあり、トラックは中から外が見られないように、テントなどが張られていました。私は荷物のように投げ込まれました。

荷台に打ち付けられたので、あまりにも痛くて泣き出すほどでした。泣き終わって起きて見たら、その中は私だけではなくて、他の5人がいて、私を合わせて6人の女性がいました。

泣きながら家に帰してくれと訴えたけれども、そうすればするほど、手を縛られたり、足を縛られたりしました。晩に汽車に乗ってどこかへ連れて行かれました。乗っている間は、アメリカ行きの汽車なのか、中国行きの汽車なのか、日本行きの汽車なのかも知らされておらず、その汽車はどこにも止まらず、結局中国行きだったんですね。

中国に到着したのは、図們(トムン、吉林省)というところです。そこに到着して寝たのが、コンクリートではられた暗くて、寒い牢屋のような部屋だったんです。とても寒くて寂しかったです。6人一緒に行ったんです。けれども、あとの5人は一緒に過ごして、私だけが1人部屋に入れられたんですね。別に日本に対して悪い事など一つもしていないにもかかわらずです。一人にされて15歳の私としては、とても寂しくて怖かったです。その時あまりにも寒くしんどかったので、私は足を痛めてしまいました。連行されたにもかかわらず、自分の足で行ったのではないか、と誤解されたりしました。(私たちは)12歳から15歳で「慰安所」に連れられて行ったわけで、「慰安所」がどういうことをやっているかもわからなかったです。

私たち女は、山に草取りに行った時に連行された人もいれば、水汲みに行った時に女の子が連行された場合もあれば、学校で勉強している最中に連行された人もいれば、ただ、家で家事をしている間に連行された人もいれば、いろんな意味で、自分の意思ではなくて、突然連れられていったわけです。男性も女性も沢山人が連れられていきました。穀物などは、供出する場合がありますね。国家に供出する場合があるんですけれども、人間を供出するなんてことはありません。私たちは(ある意味で)人間が供出されたわけです。男は連れられていって強制奉仕をする軍人になりましたし、女性は「慰安婦」にさせられました。日本人の軍人がいるところであれば、どこにでも「慰安婦」がいたと思います。日本は朝鮮の少女たちを強制的に連行しておきながら、そんなことはないと、うそを言いつづけています。

こうやって連れられていって、図們で一晩寝た後、あまり食べさせてももらえず、ずっとおなかを空かせていました。日本人兵士たちは食堂で、おいしそうなおかずでご飯を食べたりしていました。けれども、私たちはおなかを空かせたままで、連れられていった時の夏服のままで寒さをこらえなければいけませんでした。6人だったんですが、その中で4人はまた別のところに移されて、私を含めて2人はまた汽車に乗ってどこかに行かされました。

汽車に乗せられて連れていかれたところは、延吉(ヨンギル)という所です。延吉に到着して、東飛行場の中で肉体労働をさせられました。その場所は電気の流れる鉄線で囲まれていて、逃げることが出来ず、逃げようと何度か試みても、電気が通っているので怖いし、焼け死んだ犬の死体などが置かれていたりしました。強制的に働かされ、一切お金をくれたりはしていません。

こうして電線の張られた場所の中で、強制的に仕事をさせられました。軍人たちがずっと見張っていて、逃げるにも逃げられませんし、死にたくても死ねない状況でした。着るものも連れられていった時の服だったので、夏物ですし、履物もありませんし、仕事をするときに、ちゃんと仕事をしないということで、毎回鞭で打たれたりして、いろんなことろが血まみれな状態で過ごしました。死にたくても死ねませんし、逃げたくても逃げられません。こういう状況で働いておりました。けれども、日本人たちは、ハルモニたちがお金儲けのために「慰安所」へ行ったのではないかと言います。これはどういうことなのかと、私は問いたいです。

連れて行かれてからあまり食べさせてももらえず、たまに小麦で作られた饅頭を1つくらい貰いました。けれども、まだ歳も幼い成長期だったので、小麦で作られた饅頭1つではとてもおなかが空きました。とても寒かったし、鞭で打たれながら仕事をして、仕事も大変忙しかったので、体はくたくたな状態でした。仕事は大変忙しかったけれども、晩にはみんなで集まって、どうやって逃げられるかという討論、議論もしたりもして、逃げるための試みも何度か試みました。けれども、逃げようと思ったら、電線に犬の焼け焦げた死体などあったりして、見たら怖くて逃げようとする勇気さえなくなりました。

仕事が余りにも忙しくて逃げることも出来ず、闘争に励みました。こぶしで壁を打ったり、水を打ったりしながら闘争していたら、軍人たちが来て、私をどこかに連れて行ったんです。その時私はこれで家に帰されるんだと思って、喜んだわけです。飛び跳ねながら喜びました。けれども、家に帰されたわけではなくて、その時に入れられた所が「慰安所」なんです。その時点から「慰安所」に入れられたのです。私は「慰安婦」が何をするところかも知らず、連れられて来たのです。けれども、格好は血まみれになっているし、服は汚いし、泥だらけだし、髪の毛も汚いので、「慰安所」に連れて来られたとき、慰安所の主人は、こんな汚い格好では「慰安婦」として働かせられないと言って、主人のお金で、着物や下駄や足袋を買ってくれたんです。私たちはお金がなかったので、買ってくれるのは、ただでくれるのかなぁと思ったんです。けれども、あなたたちがお金がないから代わりに買ってあげるわけで、あなたたちが「慰安婦」の仕事をして働いて返しなさいという形だったんです。ところがこの借金を返すにしても、私たちは一切お金もらう事はありませんでした。

その当時13歳から15歳の私たちは、強制的に連行され「慰安婦」にさせられて、一日に40人から50人にあたる軍人の相手をさせられました。話をちゃんと聞いてなかったり、言っていることを聞いてない時は、人を皆立たせておいて刀で刺したり、それでも話を聞いていない時は、その人を刀で刺して死なせたりするわけです。それを私たちが見ているところでその人を刀で死なせたりして、死なせた人を埋葬もせずに、ただ町に捨てるわけです。犬が食べられるようにという意味で、捨てられるわけです。こんな悔しいことがあると思いますか。

軍人たちは私たちにここで話の出来ないようなこともさせます。しかし、私たちがその言うことを聞かなかったら、刀で体を切り刻んだり、痛めつけたりします。ある日少尉がやってきて、嫌がる私に無理やり相手をさせようとしましたので、反抗すると私のことをひどく殴りつけはじめました。気を失いそうになっても殴られ、それでも私が言う事を聞かないと、今度は刀で私の体を切りつけたのです。(右足の刀傷を会場に向けて見せる)今ご覧になったような傷が、体の中に沢山あります。こういう風にひどい目にあわせるのに、私たちが自分の意思で「慰安所」に行くわけがないです。それなのに、私たちがお金儲けで自分の足で行ったのではないかと日本人たちが言うのは、話にならないと思います。「慰安所」というところが何をするところかも知らず、軍人と遊ぶところなのか、お話をするところなのかもわからない「慰安婦」なのに、自分の足で行ったということはありえないですし、話をしようとしても通じないし、刀で切り刻みながら、暴力的な形で(強姦が)行われる所とも知らないのに、自分の足で行くとは考えられないのに、日本人の方はお金儲けで、売春のために自分で行ったのではないかという話があるのですね。考えられません。

とても息苦しくてこれでは生きられない、親も兄弟も親戚にも会えず、これでは死んでしまうのではないかと思い、一回機会を見て逃げようと思ったのです。逃げようと思っても逃げられなかったのですが、ある日、機会を見て逃げようと試みたわけです。「慰安所」の中庭はとても広くて、平日はそんなに多くの軍人が来るわけでもなく、中庭に軍人が全部納まるくらいでした。けれども、週末は軍人の休日なので、週末ともなれば、沢山の軍人が来て、中庭いっぱいでは納まらず、門を大きく開いて外まで並ぶわけです。沢山人が並んでいる隙を見て私は逃げようとして、一回逃げました。逃げて外に出てきたら、持ってきたお金は一銭もないし、おなかはすいているし、広い中国の中で道はわからないし、道をさまよいながら逃げました。けれども、逃げてる最中、あちこち道をさまよっている間に軍人に見つかって、「慰安所」に戻されました。逃げられず戻されたわけだから、ひどい目にあうわけです。鞭で殴られたり、すごくひどく殴られながら、「もう逃げないか?」と問いただされましたが、私は、あなたたちがまたこんなにひどいことをするのだから、逃げないわけがないでしょうと思い、「また逃げてやる」と言い返しました。すると、「逃げるのか?」というように、再び鞭で打ったりしました。それでも、降伏しなかったら、今度は憲兵を呼んで、殴ったり蹴ったりするわけです。憲兵の殴り方というのはひどくて、普通の殴り方ではなくて、人間扱いの、規律を違反した罰としての殴り方ではなくて、「朝鮮人は死ね!!!」といわんばかりのようなひどい殴り方です。

15歳で中国に連れて行かれたわけですから、58年経ちました。2000年になってやっと韓国に戻って来たのですが、お父さんもお母さんももう亡くなっておりますし、親戚も誰もいませんし、私自身も死亡届が出ていて、国籍もない状態でした。一度、元「慰安婦」の人にほんの少しのお金が出されたということから、売春という形で、お金儲けのために「慰安所」に行ったのではないかという話があります。一時間あたりいくらという形でお金をくれるわけですけれども、そのお金はすぐ管理人に渡さなければなりませんし、私たちが渡されたのは、こんな小さな紙切れ1枚だけです。お金儲けに行ったというのはありえない話です。日本人たちはどうして私たちに対してそういうふうに言って、罪を犯した記録を出さないのか、私は問いたいです。私を「慰安婦」として連れて行って強制労働させて「慰安所」に送ったわけだから、私に関する記録があるはずです。「慰安所」にいる時は、日本人の「トミコ」という名前もありましたし、そういう記録が残っているはずなんです。そういう記録はきっと日本の軍隊や部隊で管理しているはずなんですけれども、そういう記録を出さないでいるわけです。さっきの学生さんたちのお話で、記録は焼かれたということを聞きましたが、どこかに残っているその記録を出してほしいです。日本はなぜ隠そうとするのですか。60年経った今でも、私の戦争は終わっていないのです。

私は戦争が終わったことも知らされず、置き去りにされました。それから55年も、韓国に戻ることができませんでした。戦争が終わって60年以上経ったわけですが、日本では今何をしているのでしょうか。ハルモニたちが皆死ぬことを待っているのでしょうか。ハルモニたちは皆もう80歳を過ぎ、90歳を越えた人もいます。今年でさえも17人のハルモニが死んでいきました。ハルモニたちが死んでいなくなれば、日本人の罪もなくなるとでも思っているのですか。自分たちの罪に対して、ハルモニに謝罪するべきだと思うんです。どうして謝罪しないのですか。日本の政府は、お金の賠償はしていません。日本はお金がないのでしょうか。そうではないでしょう。今きっと日本は、私たちに賠償しないで、私たちに賠償するお金で、新たな戦争をするための準備でもしているのではないのですか。私を含めて、ナヌムの家の人たちに賠償してほしいです。私の場合、ナヌムの家がなかったらどうやって生きていたと思いますか。帰ってきた当初は、戸籍もなければ、両親をはじめ姉妹兄弟のほとんどが亡くなっていました。戸籍を戻したいと思ったんですが、戻すことも出来ませんでした。私をこんな目に合わせて、家族と離散させて、こういう状態にした日本の人たちは、どうして自分たちの罪を認めないのでしょうか。

ハルモニたちは日本の犬よりも下の身分です。日本で暮らしている犬のほうがよっぽど幸せだと思います。日本の家庭では犬が死んだらちゃんと犬のお墓を作って、私の家族、私たちの犬という形で墓までも造るんですね。けれども、ハルモニたちにはどういうことをしたんですか。いったい何人のハルモニたちが死んでいったと思いますか。何十万人が死んでいきました。死んでいったハルモニたちは、墓もなく死んでいったんです。日本が過去の歴史を認めず、謝罪もせず、こうやっているのはどうしてなんでしょうか。日本の歴史を考えてみてください。さらに最近の日本の事情を見てみてください。最近の日本の学校で学生をレイプしたり、いろんな悪いことが起こっているではないですか。日本人の男性というこのは、どういう人たちなんですか。ちょっと考えてみてください。またさらに、日本で暮らしている在日朝鮮人の学生のことですが、日本でずっと暮らしながら学校にも通っていて、日本で生まれ育ったにもかかわらず、朝鮮人であるということで迫害されたりしているではないですか。日本で生まれ育ったら、同等の権利を与えられるべきではないですか。日本人と同等の権利も与えないのは、在日朝鮮人を余りにも見下しているのではないか、と問いたいです。こういう話を全部含めて戦争と平和を考えてください。ずっと戦争ばかりしていくのですか。平和の道を歩んでほしいです。平和の道を歩むためにも、がんばってほしいです。

今でも、「慰安婦」として連行されたハルモニたちが中国に残されています。解放を迎えたことも知らず、お金もなく道もわからず、ずっと過ごしていたわけです。解放した後もも余りにも生活が苦しくて、中国で同じく軍隊勤労奉公隊という、軍隊で来た韓国人と結婚して家庭を築いたり、また中国人の男性と家庭を築いたりして、今に至っているわけです。解放を迎えた後、日本の軍人たちは自分たちだけ日本に戻りました。連れて行った時は強制的に「慰安婦」として連れてきたくせに、戻るときはハルモニをそこに置き去りにしたまま、自分たちだけ逃げたというか、戻ったんです。そういうことがあって、「慰安婦」生活をしたハルモニたちは中国にまだ未だに沢山残っているわけです。そういうハルモニたちを、連れて行く時に強制的に連れて行ったのと同じように、今連れ戻してくるのも、日本の政府がやるべきことではありませんか。日本の政府は私たちが嘘をついてると、何を言っているんだ、そんな事実はないんだと歴史を偽っていますが、私たちは嘘をついているわけではありません。嘘をついているのだったら、私のこういう傷はどういうふうに説明すればいいんですか。

また、ハルモニたちが自分の名誉を回復しようと思って、水曜集会みたいな運動に行ったら、どういうことになるかというと、町中で後ろ指を差しながら、あの人たちが「慰安婦」だった人たちなんだ、あの人たちは今精神がまいっているのだというふうに言われるわけです。私が精神がまいっているのでしょうか。精神がまいっているのであれば、呆けているのであれば、私ははたしてこういう場所に来て、こんな証言ができるでしょうか。私が嘘を喋っていると思いますか。ここにお集まりになった皆さんも考えてみてください。はたして皆さんには責任がないのでしょうか。ここにお集まりになった皆さんにも、私たちハルモニの、ナヌムの家のハルモニの問題に対して、解決を見出す責任があるのではないでしょうか。

ただ単純にお金をくださいと言っているのではありません。皆さんが責任をもって私たちの問題が解決できるように、力を合わせてほしいです。私を応援してほしいです。ここに集まった皆さん一人ひとりが責任を感じて、私たちを応援してくれることが、私たちの問題解決に一歩近づくのではないでしょうか。

日本は韓国を脅迫し侵略して36年間も支配したわけです。血の涙が流されました。その36年間の支配というのは血まみれの支配であり、解放を迎えて60年になった今でも、日本は自分たちの行った悪行を謝罪しないでいるのではないでしょうか。日本は、はたしていくらで補償できるんだと思いますか。36年間の血まみれの歴史を一体いくらで補償できるんだと思っているのですか。それをお金に換算できると思いますか。日本政府はハルモニたちのところに来て土下座をして謝罪するべきです。お金で換算できないわけでしょう。せめてハルモニたちの前に来て土下座して謝罪してほしいです。この36年間流した血に対する賠償をしなければならないと思います。

私は中国に行って58年間ひどい生活を送ったわけです。山に登って首吊り自殺を試みたこともありますし、薬を飲んだこともあります。結局自殺せずに済んだわけですが、このような私の歴史も悲惨なものです。朝鮮人も日本人も人間としてなら同じです。日本の人は良心があるのなら謝罪するべきですし、補償すべきです。ハルモニたちが死ぬことを待ち望んでいるのですか。ハルモニたちが死ぬまで待っているんですか。聞きたいです。ハルモニたちは歳をとっていくし、もう大分高齢になっています。ハルモニたちの“恨(ハン)”を解くという意味において、賠償するべきだと私は思います。そういうことのために、この場でお集まりになった皆さん一人一人に解決の責任があると言いたいです。私たちを応援してください。闘ってください。補償を働きかけてください。補償してください。

http://ci.nii.ac.jp/els/110005050294.pdf



講演

2006年11月19日

元「従軍慰安婦」にさせられ、今は「ナヌムの家」で共同生活をする李玉善(イ・オクソン)さんの講演に行ってきました。

【写真は李玉善ハルモニに駆け寄る若い女性たち】

「戦争を超え、平和に向かって手をつなごう!」という講演でした。

ハルモニ(朝鮮語でおばあさんの意味)に会いに、会議室いっぱいの200人が参加し、立ち見の人もたくさんいました。ユメウツツも立ち見です。李玉善さんは79歳の女性です。

1942年(15歳のとき)、買い物に行く途中に日本人と中国人の男に捕まり、トラックの荷台に押し込まれ汽車で中国の延吉にある日本軍飛行場に連れて行かれました。そこで重労働の傍ら強姦されました。

逃げようとしたり泣いたりしたら、しばられ、足を蹴られ、今でもハルモニはその足の傷が痛みます。1943年、今度は延吉市内の慰安所に連れて行かれ、「トミコ」と名づけられ、日本の着物を着せられ「慰安婦」として働かされました。コンドームを使わない将校を拒否すると気を失うまで殴られました。

死ぬほど殴られて歯が折れました。

逃げようとしたり反抗すれば、刀で切られる、刀先で突かれそのままえぐられる、足を刺される。

ハルモニはいくつか残る腕と足の傷を見せてくれました。

ハルモニのいた「慰安所」で、逃げようとしたため裸にされ、胸を刀で切り取られ、刺し殺された女性がいたそうです。自殺者もたくさんいたそうです。1945年8月、「解放」の日を迎えるものの、「慰安婦」らは解放されません。日本軍は「慰安婦」らを置き去りにしました。ハルモニは、生きるために現地で結婚しました。

故郷や両親のことを思って帰りたくとも帰れず、字が書けないため手紙もおくれませんでした。夫が亡くなった2000年、58年ぶりに祖国、釜山に帰りました。

両親とは会えませんでした。

今は「従軍慰安婦」にさせられたハルモニたちが暮らすナヌムの家で共にくらしています。ハルモニは、怒りを込めて講演でうったえられました。

『日本軍は少女に対し何をしたのか。一体どんな思いか、日本政府はわかるのか。朝鮮人「慰安婦」は子どもばかりだった。結婚もしていない、男性の相手もしたことのない子どもに何をさせたのか。少女が1日に10人も数十人も男性に性暴力を受けることがどういうことかわかるのか。なぜ私がみなさんの前でこんなことを言わなければならないのか。』

http://aanduosaka.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_cfab.html
2013年7月報道

記事入力 : 2013/07/17 09:47

慰安婦:「慰安所はと殺場のようだった」

李玉善さんが訪米、慰安婦としての体験語る

慰安婦:「慰安所はと殺場のようだった」

「15歳のとき、近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された。それから3年間いた場所は、人が住む所ではなく『と殺場』だった」

米国ニュージャージー州バーゲン郡庁舎の会議室で15日午前(現地時間)、元慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さん(86)が70年ほど前のつらい経験を打ち明けた。李さんは「筆舌に尽くし難い苦痛を被った。家族と連絡を取ることができず、毎日強制的に日本軍人の相手をさせられた。自殺さえできなかった」と振り返った。

慰安所から逃げ出して捕まり、連れ戻されたこともあったという。日本軍の憲兵は「二度と逃げられないようにしてやる」と言って軍刀を李さんの腕や足に打ち下ろした。李さんが袖をまくると、右腕に4-5センチの刀痕が2本くっきりと現れた。

証言を聞いていたキャサリン・ドノバン郡長たちの目に涙がにじんだ。ドノバン郡長は証言を終えた李さんに花束を手渡し、肩を抱いた。

李さんは在米韓国人の利益団体「市民参与センター」の招きで訪米。この日、ドノバン郡長の案内で、バーゲン郡の裁判所前に建立された慰安婦犠牲者を追悼する「慰安婦の碑」を訪れた。李さんは花を供えた後、しばらく無言で碑石を見詰めていた。碑石の銅板には英語で「第2次世界大戦の際、日本帝国主義の軍隊により性的奴隷にさせられた韓国と中国、台湾、フィリピン、オランダ、インドネシア出身の数十万人の女性と少女たちを追悼する」と記されている。

この慰安婦の碑は昨年10月に来韓したドノバン郡長が元慰安婦たちと面会し、建立を約束したもので、今年3月に設置された。同裁判所の前には米国の奴隷制度の犠牲になった黒人、ナチスに虐殺されたユダヤ人、英国の収奪に苦しめられたアイルランド人など全世界の人権被害者を悼む碑石が置かれている。

ドノバン郡長は庁舎で李さんを迎え入れながら「韓国での約束を守れてうれしい。李さんを案内できて光栄だ」と語った。李さんは「日本からの謝罪がないことがずっと無念だったが、米国でこんな風に私たちを記憶してくれて感謝する。恨みがずいぶん晴れた」と答えた。李さんは同日午後、ニュージャージー州パリセイズパーク市にある米国で最初に設置された慰安婦の碑も訪問した。

ニューヨーク=張祥鎮(チャン・サンジン)特派員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/17/2013071700733.html



http://dailynews.sina.com/bg/news/int/chosun/20130717/00594755861.html





慰安婦紀念碑在美樹立 受害者悲痛證言
http://news.sina.com 2013年07月17日 00:59 朝鮮日報
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“15歲那年在村子裡闲逛時,被日軍強行帶走。此后3年裡呆過的地方根本不是人住的地方,而是‘屠宰場’。”

當地時間15日上午10時30分許,在美國新澤西州卑爾根縣政府辦公樓會議室裡,86歲的李玉善(音)老奶奶講述了70多年前所經歷的悲痛往事。她說:“經歷了難以用語言表達的痛苦。無法與家人聯繫,而且每天還要面對日軍的強迫。想要自殺也不能。”



▲日軍慰安婦受害者李玉善(右)老奶奶,15日在美國新澤西州卑爾根縣法院前,正和卑爾根縣行政長官凱瑟琳•多諾萬(牽着李玉善手的人)一起向慰安婦紀念碑鮮花。照片=市民參與中心提供李玉善稱,曾逃離慰安所,但又被抓了回去。日軍憲兵稱“我讓你再也跑不了”,並用軍刀砍了李玉善的胳膊和大腿。當李玉善卷起衣袖時,右臂上兩道4、5厘米長的刀疤清晰可見。
聽着老奶奶的故事,卑爾根縣行政長官(最高行政負責人)凱瑟琳•多諾萬和議員波斯留下了眼淚。凱瑟琳•多諾萬將花束獻給講完證言的李玉善老奶奶,並擁抱了她。

李玉善應在美國國內伸張韓人權力的團體——市民參與中心的邀請來到美國。她在凱瑟琳•多諾萬的引導下來到在卑爾根法院前樹立的慰安婦受害者紀念碑前。向紀念碑獻花的李玉善,默默地注視着紀念碑一句話也沒有說。在紀念碑銅板上用英文刻有“悼念二戰時被強迫充當日軍性奴隸(sexual slavery)的來自韓國、中國大陸、台灣、菲律賓、荷蘭、印度尼西亞等地的數十萬女性和少女”的字樣。



▲刻有慰安婦紀念碑意義的銅板。照片=市民參與中心提供今年3月樹立了該紀念碑。凱瑟琳•多諾萬去年10月訪問韓國時曾向慰安婦受害者承諾樹立紀念碑。在樹立該紀念碑的法院前“榮譽之環(Ring of honor)”處,還立有紀念因奴隸制度而犧牲的黑人、被納粹屠殺的猶太人、因英國的掠奪而飽受煎熬的愛爾蘭人等全世界人權受害者的碑石。
凱瑟琳•多諾萬當天在辦公樓內迎接李玉善時表示:“很高興能夠兌現在韓國做出的承諾,能夠接待老奶奶感到非常榮幸。”李玉善也表示:“沒能讓日本道歉是平生之憾,感謝美國還記得我們。感覺彌補了不少遺憾。”當天下午,李玉善還瞻仰了位於新澤西州帕利塞茲公園內的美國第一個慰安婦紀念碑。



元慰安婦、米国で新証言「慰安所は屠殺場(食肉処理場)のようだった」

李玉善さんが訪米、慰安婦としての体験語る
「15歳のとき、近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された。それから3年間いた場所は、人が住む所ではなく『と殺場』だった」

米国ニュージャージー州バーゲン郡庁舎の会議室で15日午前(現地時間)、元慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さん(86)が70年ほど前のつらい経験を打ち明けた。
李さんは「筆舌に尽くし難い苦痛を被った。家族と連絡を取ることができず、毎日強制的に日本軍人の相手をさせられた。自殺さえできなかった」と振り返った。

慰安所から逃げ出して捕まり、連れ戻されたこともあったという。
日本軍の憲兵は「二度と逃げられないようにしてやる」と言って軍刀を李さんの腕や足に打ち下ろした。
李さんが袖をまくると、右腕に4-5センチの刀痕が2本くっきりと現れた。
証言を聞いていたキャサリン・ドノバン郡長たちの目に涙がにじんだ。
ドノバン郡長は証言を終えた李さんに花束を手渡し、肩を抱いた。

李さんは在米韓国人の利益団体「市民参与センター」の招きで訪米。
この日、ドノバン郡長の案内で、バーゲン郡の裁判所前に建立された慰安婦犠牲者を追悼する「慰安婦の碑」を訪れた。李さんは花を供えた後、しばらく無言で碑石を見詰めていた。
碑石の銅板には英語で「第2次世界大戦の際、日本帝国主義の軍隊により性的奴隷にさせられた韓国と中国、台湾、フィリピン、オランダ、インドネシア出身の数十万人の女性と少女たちを追悼する」と記されている。

※下記リンクより、一部抜粋。続きはソースで
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/17/2013071700733.html




http://blog.livedoor.jp/hitkot/tag/%E6%9D%8E%E7%8E%89%E5%96%84

2013年09月07日09:00
【慰安婦】ドイツで激白!新証言!「11歳少女が日本軍にナイフでメッタ切りに」[09/05]


1 カーフブランディング(チベット自治区) 2013/09/06(金) 07:54:08.69 ID:nUd2mQX6P
イ・オクソンおばあちゃん「日本の慰安婦蛮行」証言紹介
全世界は彼女の話を聞かなければならない。その時何が起こったのか。

世界的に有名なドイツの週刊誌シュピーゲルは、先月28日からドイツの都市を回って日本軍の慰安婦蛮行を告発しているイ・オクソンおばあちゃんを紹介し、このように強調した。
20130905202509996
http://www.fnnews.com/images/fnnews/2013/09/05/20130905202509996.jpg

「第2次大戦の強制売春 日本の恥」というタイトルの4日の記事で、シュピーゲル誌は、このおばあちゃんが15歳の時に私服姿の日本の兵士によって強制的にトラックに載せられ、中国の延吉の慰安所に連行されるようになった過程から慰安所の中での体験した苦難と目撃した惨状を伝えた。

木造建築である慰安所には、マットレスの一つと洗面器のだけがあって、そこで働く9人の少女の中にはわずか11歳の少女もいた。このおばあちゃんは一日40人から50人にのぼる日本軍を相手にしなけれだった。当時11歳の少女は、日本軍によってナイフでメッタ切りにされた状態で強奪され、ついに亡くなったとシュピーゲル誌は、このおばあちゃんの証言を詳細に伝えた。

シュピーゲル誌は、韓国が当時、日本の植民地であり、日本はドイツのナチ政府の同盟国として、中国と米国の戦争を繰り広げていた背景を説明した。1945年8月15日戦争が終わっても、このおばあちゃんの話は終わっていなかったと付け加えた。

このおばあちゃんは、日本政府の謝罪を待っているが、日本政府は、残虐行為をまだ認められておらず、今後もそのようにすることもないようだとシュピーゲル誌は説明した。シュピーゲル誌は、去る5月、日本最大の都市の一つである大阪市の橋下徹市長が、慰安婦問題について謝罪するどころか「兵士の士気高揚のために必要だった」と慰安所運営を擁護したと批判した。


またドイツで写真家として活動する元朝日新聞の写真記者である矢嶋宰(ヤジマツカサ)さん(42)が2003~2005年京畿道(キョンギド)光州市ナヌムの家でボランティアをしていた背景もシュピーゲル誌は紹介した。矢嶋氏は、シュピーゲル誌に「慰安婦に関する日本の蛮行を知ってからも衝撃的だった」と話した。彼は引き続き「学校で学んだことは、日本が原子爆弾の投下をされた2次世界大戦の犠牲者だったというのがすべてだった」とし、日本政府の歴史歪曲を糾弾した。

元朝日新聞の写真記者矢嶋宰HP http://www.tsukasayajima.com/

以上


“위안부 강제매춘…일본의 수치”슈피겔
기사입력 2013-09-05 20:17기사수정 2013-09-05 20:25 트위터페이스북미투데이싸이월드확대 축소 프린트


http://www.fnnews.com/view?ra=Sent1101m_View&corp=fnnews&arcid=13090520171082&cDateYear=2013&cDateMonth=09&cDateDay=05


“위안부 강제매춘…일본의 수치”<슈피겔>

이옥선 할머니 ‘일본의 위안부 만행’ 증언 소개

(베를린=연합뉴스) 박창욱 특파원 = “전 세계가 그녀의 이야기를 들어야 한다. 그때 무슨 일이 일어났는지.”

세계적으로 이름난 독일의 주간지 슈피겔이 지난달 28일부터 독일 도시를 돌며 일본군의 위안부 만행을 고발하는 이옥선 할머니를 소개하며 이같이 강조했다.

‘2차 대전의 강제매춘, 일본의 수치’라는 제목의 지난 4일 기사에서 슈피겔은 이 할머니가 15살 때 사복 차림의 일본 군인에 의해 강제로 트럭에 실려 중국 옌지(延吉)의 위안소로 끌려가게 된 과정부터 위안소 내에서 겪은 고초와 목격한 참상을 전했다.

목재 건물인 위안소에는 매트리스 한 개와 세숫대야 한 개만이 있었고 그곳에서 일하는 총 9명의 소녀 중 불과 11살 소녀도 있었다. 이 할머니는 하루 40명에서 50명에 이르는 일본군을 상대해야 했다.

당시 11살 소녀는 일본군에 의해 칼로 난도질당한 상태에서 겁탈을 당했고 끝내 숨졌다고 슈피겔은 이 할머니의 증언을 자세히 전했다.

슈피겔은 한국이 당시 일본의 식민지였고, 일본은 독일 나치 정부의 동맹국으로 중국과 미국에 전쟁을 벌였다고 배경을 설명했다. 1945년 8월 15일 전쟁이 끝났어도 이 할머니의 이야기는 끝나지 못했다고 덧붙였다.

이 할머니는 일본 정부의 사과를 기다리고 있지만 일본 정부는 만행을 아직 인정하지 않고 있고, 앞으로 그렇게 하지도 않을 것 같다고 슈피겔은 설명했다.

슈피겔은 지난 5월 일본 최대 도시 중 하나인 오사카시의 하시모토 도루(橋下徹) 시장이 위안부 문제에 관해 사과하기는커녕 “군인들의 사기 진작을 위해 필요했다”며 위안소 운영을 옹호했다고 비판했다.

아울러 독일에서 사진작가로 활동하는 전 아사히 신문 사진 기자인 야지마 츠카사(42)씨가 2003~2005년 경기도 광주시 나눔의 집에서 봉사 활동을 한 배경도 슈피겔은 소개했다.

야지마씨는 슈피겔에 “위안부에 관한 일본의 만행을 알고 나서 너무 충격적이었다”고 말했다.

그는 이어 “학교에서 배운 것은 일본이 원자폭탄 투하를 당한 2차 세계대전 희생자였다는 것이 전부였다”며 일본 정부의 역사 왜곡을 규탄했다.

pcw@yna.co.kr




http://female.jxnews.com.cn/system/2007/03/09/002443549.shtml


前慰安妇讲述亲身经历日军暴行
http://www.jxnews.com.cn 2007-03-09 07:40
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  韩国2名前“慰安妇”回忆日军当年暴行。1942年十几岁的李玉善在大街上被日军抓走送往中国充当日军“慰安妇”。李说,当年拒绝服从日军的“慰安妇”不是遭毒打,就是被刀刺。当“慰安妇”死于“慰安所”时,她们的尸体会被扔到大街上喂狗。


  朝鲜半岛的一条大街上,一名十几岁的女孩向前走着。突然,两名陌生男子闯到她身旁,不容分说地把她架走。就这样,光天化日之下,这名花季少女被强征为日军的“慰安妇”。

  这是韩国老妇李玉善(音译)20世纪40年代的一段恶梦般经历。许多被征为日军“慰安妇”的妇女也都曾置身于类似场面。当年的她们可能不知道,恶梦刚刚开始。李玉善与另外一名前“慰安妇”回忆了日军当年的残暴行径。

  白天抢人

  李玉善现年79岁,眼下正同8名前“慰安妇”生活在韩国光州市。李玉善说,自己1942年秋被日军抓走。

  当时,15岁的她生活在朝鲜半岛的蔚山地区,在当地一家餐馆工作。一天,在她上班途中,两名身材高大的男子突然出现在她面前。接下来,两男子一人抓住李玉善的一只胳膊,强行把她架走。李玉善拼命叫喊,双腿不停地踢,但没人来救她。

  之后,李玉善被扔进一辆卡车,车里还有其他5名同她年纪相仿的朝鲜半岛女子。接着,她们被运上火车,送往中国。

  “当时,他们(日军)抢走其他人的年轻女儿,只是把她们打死,让她们病死或者任凭她们饿死,”李玉善说。

  伤痕累累

  日本首相安倍晋三本月1日说,“没有证据”证明存在强迫行为。

  “现在,他们(日本政府)说,当年我们不是被迫。他们如此恶毒,”李玉善说。说话时,她的声音有些含糊,因为她的一些下门牙已脱落。她说,自己当“慰安妇”时曾遭毒打受伤,致使牙齿逐渐脱落。

  李玉善说,当年,拒绝服从日本军人的“慰安妇”不是遭到毒打,就是被刀刺。说着,她向美联社记者展示了自己右臂和右脚上的伤疤。当“慰安妇”死于“慰安所”时,她们的尸体会被扔到大街上喂狗。

  由于当“慰安妇”期间长期挨日本军人打,李玉善如今几乎丧失全部听力。因为癌变,所以李玉善的子宫已被切除。她说,那是被迫当“慰安妇”的副作用。

  韩国光州市一所博物馆里有一个当年日军“慰安所”房间的等比例模型。它面积仅4平方米,里面只有一张铺着硬床垫的木床和一个锡制脸盆,棚顶是一颗发出昏暗光亮的电灯泡。

  毁人一生

  历史学家说,共有至少40万名妇女当年被强征为日军的“慰安妇”,成为日本军人的性奴。博物馆展品显示,通常,每名“慰安妇”每天都被迫接待多达30名日本军人。

  二战结束、日本战败后,“慰安妇”重获自由。但她们当中绝大多数无法嫁人,因为她们受过太多伤害,心中已被打上深深的烙印。

  韩国老妇文必基(音译)15岁时受骗成为“慰安妇”。当时,她还以为自己将被送去读书。“这不是我的错,但我还是感到羞耻,”文必基说,“你知道自己整个青春被偷走有多痛苦吗?他们(日本政府)把我们变成了残废。”她还说,如果见到安倍晋三,她会让他理解一些人之常情。

  如今,韩国尚有113名前“慰安妇”健在。自1992年起,她们每逢周三都会到位于韩国首都首尔的日本大使馆门前抗议,向日本政府索赔,同时要求日本政府为过去的暴行道歉。

来源: 新华网
编辑: 沈璐萍

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