梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和 [単行本]
小田部 雄次
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梨本宮伊都子妃の日記 その1
梨本宮妃伊都子は、明治15年佐賀藩主:鍋島侯爵家に生まれた。
鍋島侯爵家は永田町に2万坪の敷地を有し、それぞれ300坪の西洋館と日本館とがあった。
西洋館は3階建てで、日記にダンスを楽しむ様子が書かれている。
伊都子は琴、ピアノ、フランス語、和歌を習い、テニスを楽しんだ。
梨本宮守正27歳、伊都子19歳の時に結婚。伊都子は華族から皇族になったのである。
父は伊都子の結婚に当たり宝冠・首飾り・腕輪・ブローチ・指輪など宝石一式をパリに注文した。
宝冠一つだけでも2万数千円。
当時の内閣総理大臣の年俸が9千8百円であるから恐ろしい値段である。
武家の娘だからなのか、明治の女だからなのか、
出産と流産の記述が詳細だが淡々としているのが目を引く。
夫など、彼女が産気づいたら2階に移動して寝直しているほど無関心。
日本赤十字社は皇族と密接な関係にあり、
戦時の包帯製造や傷病兵の慰問などは皇族妃の仕事であった。
伊都子も赤十字でかなり具体的な教育を受けており、看護学修業証書をもらっている。
おりしも日露戦争が始まり、せっせと包帯製造のために病院に通っている。
腕や脚を無くしたり、両目を潰された兵隊の包帯の取りかえもしている。
出産と同じく気丈だ。これも武家の娘ゆえか。
また傷病兵の慰問にも熱心に行っている。
日露戦争が収まった後、伊都子は夫の留学先パリに洋行する。
ドリアンを切った時のそのくさいこと、くさいこと。
何ともいひ様がなく、尿のくさった様な匂ひ故、
屋上にて切って食べさせてくれた。
これも話の種。味が良いので大さわぎ。
船に持って帰へるのは御ことわりとのことであった。
はじめて欧州に足を踏み入れたうれしさ。キョロキョロしてをる。
汽車で急行。とてもとても早くて、景色なんか何にも見えず停車した時だけ。
実に田舎者の驚き。巴里に着く。
アーーーこれが巴里であるかと目をパチパチしてながめる。
日本では何でもあるデパートは三越だけであったから、
巴里に来てみると毎日のように通ひ、色々買い物をする。
ぞくぞくと誂えた衣装その他ができてきた。
モードの本から抜け出た様なあでやかなるものばかり。
日本で作ってきたものなど、そばにもよりつかれず。
外国に来て日本人の曲芸を見るとは実に不思議。
スペイン皇帝・皇后、ご見物中にて、
日本人の曲芸どうかうまくやってくれと心の中で祈り続けた。
初めての海外ではしゃぐ様子がかわいい。
しかし帰国後、日本はどんどんと傾斜していく。
第二次世界大戦中の皇族親睦会で
皇族ばかりの内輪の寄り合いとはいへ、
時節柄まじめになさればよいものを。
八時ごろ食事も終わったが、レコードをかけ踊りがはじまる。
これも一寸ならばよし。
しかしひつこく何度も何度も繰りかへし踊り、その上ダンスが始まり、
しかも年甲斐もなく朝香宮と東久邇宮が御始めになる。
いつも遊ぶことを初言なさるは竹田宮。
それがまた何度も何度も続くので、東伏見周子妃と御相談して、
もうこのぐらいお付き合ひしたからよいだろうと御先に引き上げて帰へつた。
いつもいつも酒飲みはこれだからだらしがなく、
皇族がこれでは今後が思ひやられる。
何でも親睦といふ事は酒飲んで騒ぐことだと心得てゐられる。
雲上人も宴会となると下々と変わりませんなあ。
そして敗戦。
華族制度が廃止される。ただの平民となるのである。
さらに追打ちが襲う。
GHQは元華族の財産に財産税をかける。
最高で全財産の9割を税金に取られるという華族解体である。
梨本宮家も財産の売却に奔走する。
おちょこちょいの様な洋服を着てゐた姿を見た。
あれで社長さんかと思はれる。
あんな人が富士の別荘に入るのかと思ふと癪にさわる。
いまにバチがあたる。
とにかく成金で、相当の財産を持っているらしい。
あんな田舎者のババーや青二才に
この家を勝手に使はれるのかと思ふとくやしくてくやしくてたまらない。
彼女のアイデンティティーは皇族/華族であるということにあったのだと思う。
皇族/華族であるからこそ、天皇家に仕える気持ちが湧く。
皇族/華族であるからこそ、夫を尊敬できる。
皇族/華族であるからこそ、下々の者に親切にできる。
持てる者であるからこそ人に与えることができるのだ。
華族制度というシステムの上に成立していた共同幻想なのである。
妹の娘の秩父宮は存続して皇族妃のままである。
自分の娘の李夫婦は皇族からはずれ、今後の国籍も不安定な状態。
その自分の中の大黒柱が無くなった今、伊都子は共同幻想に初めて怒りを噴出させる。
皇后の名代を果たした彼女は御反物として金百五十円を賜る。
今の世に百五十円の反物は何があるだろう。
銘仙でさへ四百円もするものを。
宮様も何かにつけて気むづかしくおなりで実に困る。
昔のように何もかもくるくると出来ないのに、
何かにつけてそれはそれはやかましい
どうしてそう角々しくおっしゃるの。
そんなにうるさければ、わたしがゐない方がよいでせう。
カーッとなってしまった。早く死にたい。
つまらぬ世の中。アーーいやだいやだ。
しかし伊都子は運のいい人だと思う。終戦時にすでに64歳。
華族として皇族として一番いい時期に彼女は若くて美しかったのだから。
さて問題の箇所、現在の美智子皇后に対する批判。
もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、
憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。
日本ももうだめだと考えた。
これぐらいのことは書くだろう。日記なんだし。伊都子ももう80歳である。
私はこんな婆さん、好きだ。とても付き合ってくれないだろうけど。
さて日記になんと書かれるか(笑)
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梨本宮伊都子妃の日記 その2
この日記で驚いたのは「悲劇の王妃」といわれる娘方子のこと。
日朝友好のための犠牲となった政略結婚であると言われているが、
実は、もともと梨本宮家は適齢期となった方子の相手をあちこち探しており、李垠を望んだのである。
大正5年7月25日
かねがねあちこち話合いおりたれども色々むつかしく、
はかばかしくまとまらざりし方子縁談の事にて、
ごく内々にて朝鮮総督を以って申こみ、
内実は申こみ取り決めたるなれども、
都合上表面は陛下思召しにより、
御沙汰にて方子を朝鮮王族李垠殿下へ遣す様にとの事になり、
有難く御受けして置く。しかし発表は時期を待つべしとの事
同年8月3日にこの縁談がもれ、新聞にスクープされる。「こまる」と日記にある。
私は方子は嫁いだ後、すぐに朝鮮に渡り、そこで亡くなるまで生活した思い込んでいた。
が、李夫妻は戦前・戦中・戦後を通してずーっと日本にいたのである。
戦後は華族制度の廃止により平民となる。さらに日本国籍も失って在日外国人となる。
李夫妻が韓国への永住を許されたのは昭和38年、実に方子62歳の時である。
方子自身は本当に知らなかったのかもしれない。政略結婚であったのかもしれない。
しかしだからといって、これのどこが「悲劇の王妃」だというのだ。
朝鮮王朝高宗国王の第7王子李垠は、留学という名目で人質として11歳で日本に連れてこられ、
日韓併合の際に皇族扱いとなった。
昭和35年に脳梗塞で倒れ、韓国へ移住した際にはもう意識ははっきりしていなかったという。
悲劇というならこっちの方だ。「悲劇の王子」だ。
さらに李垠の妹・徳恵姫も日本に連れてこられ、伯爵家へ嫁いだ。
夫婦仲は良かったものの、精神を病み結局朝鮮に戻った「悲劇の王女」だ。
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