http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5911/1/02-1_HAN%20Hyung-Ju.pdf
朝鮮初期における王陵祭祀の整備と運営*
ハン・ヒョンジュ
(翻訳:金子祐樹)
The Administration and Maintenance of Royal Tomb Rituals in the Early Joseon Dynasty
HAN Hyung-Ju
朝鮮王陵の研究は,風水地理学と美術史学などにおいて行われてきたが,国家儀礼からのアプローチはほとんどなかった。そこで本稿では祭礼を対象に,朝鮮時代初期における王陵祭祀の制度的整備と儀式,宗廟との差別性,そして陵幸の政治的意味などに注目し,国家儀礼における王陵の位置づけについて考察した。 朝鮮王陵は,太祖の即位後,追尊された四代王と王妃,そして神懿王后の齊陵が造営され,祭祀が施行されることに始まり,陵祭の整備は,実母である神懿王后韓氏の齊日に太宗が行幸したことを受けて行われたが,太宗代における太祖の死亡を機に本格化した。厚陵と獻陵が造営された世宗代には,祭祀の細部項目と拜陵儀が修正・補完され,その内容は世宗の死後『世宗実録』五礼の凶礼条と吉礼条に収録され,部分的な修正を経て『国朝五礼儀』に収録された。 王陵祭祀は,四孟月の時祭と朔望,俗節など多様であるが,これは当時の宗廟および原廟である文昭殿において施行されたものと同じであった。これは高麗時代からの伝統と思われるが,中国にも類例が見られる。しかし高麗の陵祭が国家祀典の大祀に組み込まれていたのに対し,朝鮮のそれは「俗祭」という大中小祀とは異なる体系に属しており,また大祀に属する「宗廟」祭祀とも区別されていた。また陵祭が凶礼であった中国とは異なり,王陵にかかわる儀式を凶礼と吉例に区分して組み込んだという独自性も見られる。 太祖~成宗にかけての100年間における国王の親祭は,宗廟に対しては41回に過ぎなかった反面,王陵や原廟(文昭殿)に対しては毎年2 ~ 5 回行われた。原廟はその後,壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)の際に破壊されて復旧されず,王陵における四時祭も仁祖代に廃止された。王陵祭祀はその後,俗節祭(.日を除く)を中心に運営された。 朝鮮時代において,王が祭祀に直接参加した例は意外に多くなく,宗廟の場合でもおおよそ2~3年に一回程度であったが,王陵の親祭は,毎年数回にわたって行われた。累代の先王が集る昏殿よりも,肉身が安置された個々の陵に親近感を覚えたことや,
*本稿は,2010年7 月2 日に高麗大学校で開催されたフォーラム「陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁―」にて著者が行なった報告をまとめ,韓国の学術誌『歴史民俗学』33号に掲載された論文に基づいていることを明記しておく。
俗祭であり儀式が簡略であったことなどがその背景にあろう。いっぽう荘厳な儀仗を備えた陵幸は,都城を出て民に自分たちの「王」を知らしめる重要な政治行為であった。
キーワード: 王陵(royal tomb),健元陵(Geonwolleung tomb),凶礼(funeral ceremony),吉礼(celebrations),拝陵儀(rituals for paying respects at tombs),陵幸(official visits to royal tombs)
はじめに
朝鮮王朝時代,王(妃)が死去すると,遺体は地に埋められ,陵が造成された。そして,三年喪が過ぎると,その魂は国家の祠堂である宗廟に奉安される。両者はどちらも国家の最高統治者である王(妃)を対象として儒教的な「孝」を実践する象徴であるという共通点を持つ。しかし,王陵と宗廟は死者の肉体と精神が分離され別々に奉じられる場所であり,後者が祭礼の対象に限定される一方,前者は喪礼と祭礼のどちらも行なわれるという点に根本的な違いがある。 朝鮮時代の国家理念である儒教の実践の場として,最高権力者を対象としたその象徴的存在が,今尚ほぼ完全に残っているという事実は,宗廟と王陵に対する関心を小さからぬものとしている。とくに,1995年の宗廟に続き,2009年に王陵が世界文化遺産として認定されたことで世間の関心がいっそう高まった。ところで,学界の関心はというと,両者でそれぞれ異なって表出した。宗廟の研究が1990年代以降,歴史学界を筆頭に建築学・音楽史の分野で着々と成果を出してきたのに対し,王陵研究の実情は全く異なっている。 目下,朝鮮時代の王陵に関する研究は,建築物の築造様式,風水学的な立地,および王陵周辺に置かれた石造の造景物に対する美術史的解釈など,ハードウェア的なアプローチが大半である1)。歴史学分野では王陵全体および一部の陵に関する築造・管理・遷葬といった概括的なアプローチや,18世紀後半に正祖が挙行した陵幸の政治史的意味を扱った論考がある2)。一方,国家儀礼という観点からの検討は,王
1)金永彬「風水思想から見た朝鮮王陵園墓の造成技法に関する研究(上)(下)」(『韓国伝統文化研究』4 ,暁星女大韓国伝統文化研究所,1988・1989)。金元龍「李朝王陵の石人彫刻―李朝彫刻様式の変遷―」(『アジア研究』2-2,高麗大学校アジア問題研究所,1959年)。洪慶振「朝鮮前期における王陵および石造物の様式変遷に関する研究」
(慶煕大学校碩士学位論文)。裵允秀「朝鮮時代における王陵の石獣についての研究」(梨花女子大学校碩士論文,1983) 。チャン・ギョンヒ「朝鮮後期における山陵都監の匠人研究―王陵の丁字閣と石儀物の製作過程を中心に
―」(『歴史民俗学』25,韓国歴史民俗学会,2007)。キム・ウンソン「朝鮮後期王陵における石人彫刻研究」(『美術史学研究(旧:考古美術)』249,韓国美術史学会,2006)。チャン・ウンミ,パク・キョン「朝鮮時代における王陵の空間的分布特性」(『韓国GIS学会誌』14-3,韓国GIS学会,2006)。クォン・ヨンオク「朝鮮王朝王陵の文人石像の服飾形態に関する研究」(『服飾』4 ,韓国服飾学会,1981)
2)金九鎮「朝鮮初期の王陵制度―世宗大王の旧英陵遺蹟を中心に―」(『白山学報』25,白山学会,1979)。韓永愚『正祖の華城行次,その8 日間』(ヒョヨン出版社,1998)。鄭崇教「正祖代における乙卯園幸の財政運営と整理穀の整備」(『韓国学報』82,一志社,1996)。金文植「18世紀後半における正祖の陵幸の意義」(『韓国学報』23,一志社,
陵が造られる段階までの喪礼の過程を説明した李範稷の論文が唯一であり3),しかも長期的・持続的な性格の祭礼を題材としての研究は皆無であった。このように,従来の研究が正祖代(18世紀後半)における陵幸の政治的意義に集中しているのは,王陵研究に先立って理解されるべき国家儀礼の研究成果が不足しているという現状による。 そこで本稿では,15世紀において王陵で施行された国家儀礼,なかでも祭礼に着目して検討を行なう。まず,朝鮮時代の王陵祭祀が制度的に整理される過程を概観する。次に,王陵祭礼の内容を祭儀の検討および祭期が変化する様相を中心に明らかにしたい。最後に,講武〔朝鮮時代の王によって催された,軍事教練を兼ねる狩猟大会〕と関連づけられた陵幸の政治史的意味と宗廟および文昭殿の相関性も検討する。 朝鮮時代の国家運営は,儒教的な「礼治」としてよく説明される。この「礼治」は人間の基本感情の一つである「孝」に基づくものであり,先王を祀る宗廟・王陵での正しい儀礼を通じて第一義に表現された。このことから,王陵儀礼の内容やその運営方式を検証するという作業を行なうことで,朝鮮時代の「礼治」の性格を究明する一定の手掛かりの提供が可能となるだろう。また王陵に対する新たな儀礼的・政治的アプローチは,今後,同分野における研究の多様化に一助となるところがあるものと期待する。
1 .王陵祭祀の成立
太祖李成桂は,建国直後,自身の四代祖を王に追贈,彼等の墓を王陵とし,その地位を高めた。彼は,即位(1392年)の翌月に李方遠〔五男。後の第3 代国王,太宗〕を東北面〔咸鏡道〕に送り,先祖4 代の墓に即位を告げて,桓祖〔父〕のものを定陵,桓祖妃〔母〕のものを和陵,度祖〔祖父〕のを義陵,度祖妃〔祖母〕のを純陵,翼祖〔曾祖父〕のを智陵,翼祖妃〔曾祖母〕のを淑陵,穆祖〔高祖父〕のを徳陵,穆祖妃〔高祖母〕のを安陵とした4)。この際,定陵・和陵・義陵・純陵は咸州,智陵は安邊,淑陵は文州,徳陵と安陵は孔州に,それぞれ分置されている。これにともない,太祖の最初の妻,神懿王后韓氏の陵である斉陵もつくられた5)。そして,各陵に陵直として権務2 名と複数の守陵戸を定め,斎宮を建てさせることで6),建国して間も無い時期に9 つの陵を備えることとなる。これらの陵への祭祀は翌年の正月から,四孟月〔1 , 4 , 7 ,10月〕と臘日〔冬至後3 度目の戌の日〕に宗室と大臣を遣わして挙行させ,朔望日と俗節には都巡問使がこれを行なうよう定めた7)。
1997) ,同「1779年の正祖の陵幸と南漢山城」(『韓国実学研究』8 ,韓国実学学会,2004)。イ・ヒジュン「17, 8
世紀におけるソウル周辺の王陵の築造・管理および遷陵論議」(『ソウル学研究』17,ソウル学研究所,2001)。シ
ン・ビョンジュ「文化:王陵に見たる幸せな王,不幸な王」(『ソンビ文化』12,南ソウル大学校南冥学研究院,2007)
3)李範稷「朝鮮時代における王陵の造成およびその文献」(『韓国思想と文化』36,2007)
4)『太祖実録』巻1 ,元年8 月丁己
5)『太祖実録』巻4 , 2 年9 月庚申
6)『太祖実録』巻2 ,元年10月丙子
7)『太祖実録』巻2 ,元年12月丁未
太祖5(1396)年8月,王妃の姜氏が死去した8)。そこで聚賢坊に王妃陵を設け9),王妃の尊号を神徳王后,陵号を貞陵と定めた10)。太祖は,在位中のみならず譲位以後も,貞陵によく行幸した11)。そして貞陵社の塔殿で7日間仏事を催し12),貞陵で精勤法席を設ける13)など,継妃の姜氏への追慕を絶やさなかった。逆に,前妻韓氏への追慕作業は特に行なっていない。 太祖のこうした行動は,韓氏を生母とする定宗や太宗の反発を生んだ。太宗6年,太祖が死亡する前まで,定宗〔次男。第2 代国王〕と太宗(世子であったときの2 回を含む)は,15回も斉陵に参拝している。ところで祭祀への参加は,上王である定宗の方が多く,太宗は斉陵の施設を充実させたり管理に没頭する傾向をみせている。斉陵の碑を新たに建てて権近に碑文を書かせたのも14),それまで無かった石室を築造して15)石欄や石人を作ったのも16),碑亭を建てた17)のも全て太宗であり,外形的造成を次々と行なうことに力を費やした。同時に,斉陵の管理にも尽力し,特に太宗3 (1403)年4 月に1 万人以上の人員を動員して一人当たり3 升ずつマツケムシ〔マツカレハの幼虫〕を捕まえて埋めさせたという事実18) は,彼がいかに斉陵への追慕に傾倒していたかを示す端的な例である。 それとは反対に,貞陵については関心が無いどころか,規模の縮小を行なうほどであった。彼が即位時に宗廟・文昭殿とともに貞陵で祭祀を行なって以降,太宗はただの一度も貞陵祭祀に参与しなかった。逆に同王6(1406)年には,貞陵の兆域が広すぎるとして百歩以内に縮小し,残りは家を建てることを許したため,権勢家が競って土地を独占しようとする事態を招いた19)。さらに,太祖が死去すると,その翌年に貞陵を都城の外,沙乙閑の麓に遷葬した20)。世宗〔第4 代国王〕代には,貞陵の祭祀を族親〔喪に服す義務を有する親族〕に主管させるようにし21),これによって国行祭祀から排除した。 一方,太宗代には,王陵祭祀の対象が拡大し,前王朝の王が含まれるようになった。太宗元(1401)年,門下府郎舍から,高麗太祖が東民〔東国つまり朝鮮の民〕に功績があるため,その陵である顕陵に属戸と柴地を定めてその属戸の賦役を免除し,樵牧を禁止するよう請われたものの,当時,王は返答しなかった22)。しかし太宗6(1406)年には高麗太宗と恵王・成王・顕王・文王・忠敬王・忠烈王・恭愍王
8)『太祖実録』巻10,5 年8 月戊戌
9)『太祖実録』巻10,5 年8 月戊申10)『太祖実録』巻10,5 年9 月癸未11)『太祖実録』巻11,太祖6 年正月戊辰。6 年2 月壬寅。6 年4 月辛卯。巻12,太祖6 年10月甲辰。巻13,太祖7 年正
月庚午。太祖7 年4 月丁丑。『定宗実録』巻4 ,定宗2 年4 月癸丑。巻6 ,定宗2 年10月乙卯12)『定宗実録』巻4 , 2 年4 月癸丑13)『定宗実録』巻6 , 2 年10月乙卯14)『太宗実録』巻7 , 4 年2 月癸丑15)『太宗実録』巻14,7 年10月戊子16)『太宗実録』巻15,8 年3 月癸未17)『太宗実録』巻19,10年3 月甲申18)『太宗実録』巻5 , 3 年4 月丁卯19)『太宗実録』巻11,6 年4 月丁卯20)『太宗実録』巻17,9 年2 月丙申21)『世宗実録』巻1 ,即位年8 月丁酉22)『太宗実録』巻1 ,元年正月甲戌
の8 陵に対し,新たな指針を設けた。太祖陵である顕陵には3 戸,他の7 陵には2 戸の守護人を設け,それぞれの戸に田一結を与え,樵採と火焚を禁止するよう措置したのである23)。さらに同王16年には,中国において歴代帝王の陵寝を奉祀した制度にならい,前朝8 陵の祭祀を仲春と仲秋の2 度行なうが,守陵は全て2戸として他の役務を免除し,常に樵採を禁じるよう具体化した24)。合わせて,恭譲君を王と見なして25)陵号を与えたが26),そののち世宗3 年には恭譲王の娘に陵戸1 戸を支給して祭祀を享受できるよう措置した27)。こうした前朝9 陵への祭祀制度の整備は,『世宗実録』五礼で高麗始祖廟への祭祀について太祖の神位〔位牌のこと〕に顕宗と恭愍王の神位を附祭せしめ28),『経国大典』や『国朝五礼儀』において太祖の神位に顕宗・文宗・忠敬王(元宗)の神位を附祭するよう定めた事実29)とも結びついており,当時の高麗継承意識や歴代国王の評価を垣間見ることができる。 太宗8 (1408)年5 月,太祖崩御。翌月に埋葬地を楊州の倹巌に定め30) ,諸道の軍丁6,000人を徴発,
7月末日に造営を始めた31)。太祖の健元陵は石室で造成される。死者の冥福を祈るための寺である願刹として建立された開慶寺には奴婢150口・田地300結を定屬させることとなり32),同じく守護軍は100戸と定められた33)。また,周囲に松を植える34)など,諸般の処置がなされた。太祖の棺は死後4 ヶ月経って葬られたが35),翌年7 月26日には喪が明けて神主が宗廟に安置され〔これを.廟という〕36),翌月,健元陵の祭祀で喪服を脱ぐときが来たこと〔免喪という〕を告げることで37), 3 年喪が終えられた。 太宗10(1410)年以後,健元陵への祭祀が本格的に整備されるのと並行して関連事項の整理も始められる。太宗14(1414)年,健元陵・文昭殿・宗廟・社稷祭の蔬菜は典祀寺で供給し,国賓への接待には礼賓寺から供給されたものを使うようにし38),草木が繁茂すると突然の野火に対処しにくいため,陵の禁火地以外での耕墾が民に許された39)。それにともない,同王17(1417)年11月には,『大明律』失火條を根拠として,失火した者を杖80・徒2 年に処するよう規定された40)。
23)『太宗実録』巻11,6 年3 月甲寅24)『太宗実録』巻31,16年6 月丁亥25)『太宗実録』巻32,16年8 月甲子26)『太宗実録』巻32,16年9 月丁己27)『世宗実録』巻11,3 年正月丙子28)『世宗実録』卷130,五礼,吉礼序例,神
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