★「竹林はるか遠く」につづく衝撃の引き揚げ体験記。終戦時の朝鮮半島で何があったのか?少年は見た!耐えた!逃げた!「忘却のための記録」(清水徹著)ハート出版から発売。
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「竹林はるか遠く」を出版して間もないころのことだ。
編集担当者が、鄭大均(てい たいきん)氏(首都大学東京・特任教授)から終戦時の朝鮮脱出記なら、こういう隠れた良書がありますよ」とある書籍をわたされた。
少し赤茶けた新書版であった。
「忘却のための記録」という題名で、愛知県にある老舗の版元・精文館書店から昭和55年に刊行されたもので絶版になっていた。
担当者が読んで感動したというので社内で回し読みが始まった。
この本の著者は、「竹林」のヨーコさん家族と同じで終戦時に朝鮮の羅南(らなん)に住んでいた。当時小学校6年生だったヨーコさんよりちょっと上、羅南公立中学校の3年生。
つまり今度は当時の少年の目から見た壮絶な終戦時の朝鮮半島脱出記である。
息が詰まるような命がけの体験の連続である。ソ連軍の爆撃から始まり、復讐、襲撃、略奪、強姦、飢餓、極寒、病気、そして38度線の脱出――たとえようのない凄惨な記録をありありと描写している。
「・・・ある屋敷から朝鮮人が荷車を引いて出てくのを見た。
車には家具類はもちろん、マキの類から漬物ダルまで積まれていた。白昼の公然たる泥棒――しかし訴えるべき警察はいない。そう知ると、急に恐ろしさを感じた。どこを見回してもぼくの味方らしいものはいない。これまで、ぼくはどんなところにいても、こんな恐ろしさを感じたことはなかった。それを意識するとしないかかわらず、警察が厳として存在し、大日本帝国という国家権力があったからではなかったろうか――。
しかし、現実は無警察状態にあり、大日本帝国は少しもぼくたちの頼りになりそうもない。ぼくはそのとき、目に見えない国家権力の力がその民族にとってどんなに大切なものであるかをつくづく思い知らされた(本文より)・・・」
読み出したら止まらない。涙なしには読めない内容だった。
主人公・トオル少年にとっては、忘れてしまいたい記録であるが、日本人だけでなく世界がわすれてならない戦争の記憶である。
すぐ弊社からの出版が決まった。今週末から書店に並び始める。
著者が描いた挿絵の一部
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◆「忘却のための記録」書いた著者・清水徹(しみず とおる)の略歴。
1930(昭和5)年、京城府錦町に生まれる。京城竜山小学校~清津国民学校を経て羅南中学3年時に終戦。城津、咸興で抑留生活、昭和21年5月、38度線を脱出。静岡県へ引き揚げる。
帰国後、三ヶ日実業学校を卒業。豊橋市の新聞人・杉田有窓子の知遇を得て「東三新聞」(現・「東日新聞」)に入社。34歳のときに結婚、一男一女をもうける。新聞記者の後、衆議院議員秘書として東京に移る。後に出版事業を経て、豊橋市に戻り、東三河開発懇話会常務理事・事務局長、東三河地域研究センター専務理事などを務める。
著書に『われらが豊川』(建設省中部地方建設局豊橋工事事務所、1986年)、『県境を越えた開発-「三遠南信トライアングル構想」から』(共著、日本放送出版協会、1989年)、『激動・昭和の豊橋』(編著、豊橋座談倶楽部、1991年)などがある。
詳しくは↓
忘却のための記録 1945-46恐怖の朝鮮半島」
http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-970-7.html
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◆この本の解説を書いていただいた鄭大均(ていたいきん)教授は、数々の著書で有名であるが、弊社では初めてなので、プロフィールを少し長いがフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。
鄭 大均(てい たいきん(정대균、チョン・ テギュンとも)、1948年 - )は、日本の学者。首都大学東京都市教養学部特任教授。専攻は東アジアのナショナル・アイデンティティ、日韓関係論、在日外国人。韓国系日本人。
人物[編集]岩手県生まれ。父親は1922年、当時の京城から東京にやってきた朝鮮人で、1923年に出版され、朝鮮人によって書かれた最初の日本語小説として知られる『さすらひの空』の著者である鄭然圭。母親は岩手県和賀郡黒沢尻町(現在の北上市)出身。結婚してしばらくは東京に住んでいたが、1944年に空襲を避けて岩手県に疎開。大均はその地で戦後に生まれた。岩手県立黒沢尻北高等学校、立教大学文学部および法学部を卒業。1973年から74年にかけてアメリカ合衆国東部で暮らす。1978年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校修士課程修了(M.A、アジア系アメリカ人研究)。履歴については自叙伝的作品である「在日の耐えられない軽さ」(中公新書)に詳しい。
米国から東京に戻り、英語学校で教えながら1980年頃から在日論を書き始める。その後70年代に東京で会った留学生・崔吉城の誘いを受け、慶南大学校師範学部(韓国馬山市)、東亜大学校人文学部(韓国釜山市)、啓明大学校外国学学部(韓国大邱市)で14年間教鞭をとる。
啓明大学校副教授から転じ、1995年に東京都立大学(現首都大学東京)人文学部に助教授として着任、1999年に教授、2013年3月に定年退職。同年11月から特任教授となる。2004年に日本に帰化。妻は韓国の大学教員。
妹は鄭香均。香均は、日本国籍でないことを理由に東京都の管理職選考試験の受験を拒否されたとして都を訴え、二審で一部勝訴(慰謝料支払のみ認定)するも、最高裁において(最大判平成17年1月26日民集59-1-128)敗訴が確定した(東京都管理職国籍条項訴訟)。これに関し、鄭大均は正論やニューズウィーク日本語版の誌上等で妹に苦言を呈している。
日韓関係を集団アイデンティティの視点から分析。従来の歴史・道徳史観濃厚の日韓関係論とは異質の議論を展開。在日韓国・朝鮮人論も、その被害者性を強調する従来の在日論とは異質の議論を展開している。在日コリアンに日本への帰化を勧めるとともに、韓国系日本人(元在日外国人)の立場から、永住外国人への地方参政権付与に反対し、国会で参考人招致を受けた際も反対論を展開している。
著書
日韓のパラレリズム――新しい眺め合いは可能か』(三交社, 1992年)/「韓国のナショナリズム」に改題、(岩波書店[岩波現代文庫], 2003年)
『韓国のイメ-ジ――戦後日本人の隣国観』(中央公論社[中公新書], 1995年)
『日本(イルボン)のイメ-ジ――韓国人の日本観』(中央公論社[中公新書], 1998年)
『在日韓国人の終焉』(文藝春秋[文春新書], 2001年)
『韓国ナショナリズムの不幸――なぜ抑制が働かないのか』(小学館][小学館文庫], 2003年)
『在日・強制連行の神話』(文藝春秋[文春新書], 2004年)
『在日の耐えられない軽さ』(中央公論新社[中公新書], 2006年)
『韓国のイメ-ジ――戦後日本人の隣国観 増補版』(中央公論社[中公新書], 2010年)
『姜尚中を批判する』(飛鳥新社, 2011年)
『韓国が「反日」をやめる日は来るのか』(新人物往来社, 2012年)
共編著[編集](川村湊)『韓国という鏡――戦後世代の見た隣国』(東洋書院, 1986年)
(古田博司)『韓国・北朝鮮の嘘を見破る――近現代史の争点30』』(文藝春秋[文春新書], 2006年)
http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-970-7.html
忘却のための記録
1945-46 恐怖の朝鮮半島
清水 徹 著 2014.01.24 発行
ISBN 978-4-89295-970-7 C0095 四六並製 296ページ 定価 1600円(本体 1680円)
少年は見た!耐えた!逃げた!
ソ連参戦からはじまる爆撃、復讐、襲撃、
略奪、強姦、飢餓、極寒、病気そして脱出
「解説」(鄭 大均 首都大学東京特任教授)より一部抜粋
忘却のための記録
『忘却のための記録』の著者・清水徹は一九三〇年、現在のソウル市龍山区に生まれた「外地」二世である。徹の父はやがて朝鮮半島最北の咸境北道の機関区に勤務するようになり、避難行がはじまったとき徹は羅南中学三年生だった。本書はその避難行を著者が回顧的に綴った作品で、非業の死を遂げた同胞を哀悼するとともに、そのいまわしい思い出を拭い去るために書いたものだという。
引揚げ者のなかでも、ソ連軍占領地域からの引揚げ者には特有の困難と痛ましさがあった。
とりわけ大きな悲劇に見舞われたのは満州在住の日本人であったが、清水家のように、北朝鮮在住の日本人の運命も過酷であった。なによりも不運であったのは、引揚げが一年以上も先送りされ、出国の自由が奪われたということであろう。
それがやっと開始するのは四六年十二月に入ってからのことであるが、多くのものはそれ以前に自力脱出を試み、しかし、その行路で餓死・凍死・伝染病死で亡くなったものが三万五千人ほどもいる。
清水家の場合も無傷ではなかった。五人家族のうち、日本に無事たどり着いたのは四人で、父は、四六年二月二十日、咸興の収容所で亡くなっている。
本書に記されている引揚げ体験はもう半世紀以上も前のできごとであり、したがって忘れられて当然のことといってもよいが、しかし、これは日本人が経験した最後のグローバル体験といえるものであり、ここには今日の私たちの歴史観や世界観に資するところが少なくない。本書に記されている清水家の体験は、今日でいったら、内戦の過程で国外への脱出を余儀なくされた二百二十万人以上のシリア人難民や、貧困や内乱や干ばつに絶望してヨーロッパに向かうアフリカ人難民の体験に似通ったものであり、また北朝鮮が舞台というなら、これは今日いう「脱北者」の先駆けのような体験であった。
にもかかわらず、引揚げ者たちの体験は今やえらく矮小化されて眺められているのだなと思わされたのは、赤尾覺氏(『咸北避難民苦難記』著者)からある体験を聞かされたからである。
氏は最近、朝日新聞の取材を受けたが、北朝鮮地域で、なぜかくも多くの犠牲者が出たのかの問に、「餓死・凍死・伝染病死」と答えたところ、「炊き出しなど食料供給があり、衣料・寝具などの配給があるのに何故?」と反問され、絶句したという。「避難民とは、東日本大震災の被災者と同程度に考えているのだなと、がっくりきました」と氏はいう。
これではたしかにがっくりくるであろう。被災者といっても、東日本大震災の被災者が国民の支援に支えられているとしたら、北朝鮮からの引揚げとは、帝国崩壊の過程でいまや異郷となった戦場の地を逃げ惑う体験であり、収容所や避難所で生活するといっても、それは昼夜の別なくソ連兵が襲ってくる体験であり、家族や同居者が高熱にうなされ、土色の皮膚に変わり、ある日、ある一家が消えるように死んでいく体験であった。
そのような体験を東日本大震災の被災者と同程度のものと考えているとしたら、それはこの時代の被災者たちの体験を著しく矮小化している。というだけではなく、今日のシリア難民やアフリカ難民の体験をもその程度に眺められていることを暗示しているのであり、だとしたら、私たちは今や世界の人びととの共感帯を失いつつあるのではないか。
『忘却のための記録』に戻るが、この本は静の本というよりは動の本である。
たしかに同書には悲しみの記述があり、死の記述があり、やがて死に無感動になる記述がある。
しかし徹は「今日もおれは生きているぞ!」と命の力を感じる少年であり、生活に必要なものは何でも拾ってやろうと野良犬のように目を光らせて歩く少年であり、母を助けるためにソ連軍の司令部に残飯拾いに行く少年であり、また生きるために母の作ったかぼちゃ羊羹を道端で売る少年でもあった。
この本はなによりも、清水家の人々が不幸の合間に動き、働いていたことを教えてくれる本なのである。
目次
第一章 運命の岐路
一、ソ連軍、奇襲を開始
二、中学生も銃をとれ
三、母校よ、さらば
四、崩れた神国日本
五、敗戦とは何か
六、降参してもなお銃撃
第二章 亡国の民
一、日本人は早く帰れ!
二、朝鮮のものを盗むな
三、先頭部隊に捕えられて
四、老兵士の体臭
五、「蘇連邦万歳」
六、宿題も授業もなく
第三章 マダム・ダワイ
一、“男は皆殺し”
二、略奪始まる
三、血に飢えた囚人部隊
四、ノッポの兵隊
五、「メイファーズ」
第四章 民族受難
一、「裸にもどるさ」
二、無意味だった同化政策
三、ボロぎれのような避難民
四、責任者は前へ出ろ
五、復讐のムチはうなる
第五章 落ち穂
一、収容所の生活始まる
二、毒牙の犠牲者
三、しのびよる飢餓
四、乙女心と平和と……
五、朝鮮人民自身の朝鮮
六、洗脳
第六章 生存の条件
一、農家での労働
二、怨しゅうを超えて
三、栄養失調
四、死の訪れ
五、プライドとのたたかい
六、残飯と、反抗と、拷問と
七、夢みる“内地”
八、天皇の御代
第七章 この世の地獄
一、これこそ残虐行為だ
二、青春無惨
三、死骸はムシロにくるまれて
四、生か死か、強制隔離
五、世界一えらいお父さん
六、眉毛だけを残して
七、おにぎりが笑った
八、凍死体とビーナス
九、氷点下にシーツ一枚
十、 九死に一生を得て
第八章 早春の哀歌
一、生きるためには
二、咸興名物かぼちゃ羊羹
三、流浪の親友に出会って
四、ソ連軍と朝鮮の学生
五、春は公平にやってくる
六、蹴とばされた春の幸
七、屈辱の涙
八、日本人共同墓地
第九章 ああ、三十八度線
一、お前たち、死ね!というのか
二、文川からの脱出
三、山賊現わる
四、亡霊の行進
五、保安隊にもいじめられ
六、ある農家の温情
七、絶対絶命
八、おお、朝だ!
解説 鄭 大均
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