java
Wednesday, June 18, 2014
the Korean traditional caning
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/goumon.html
매질 (체벌)
위키백과, 우리 모두의 백과사전.
매질은 나무 막대기 등으로 된 매로 때리는 것을 말한다.
태형매로 때리는 형벌을 태형(笞刑)
拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアッピールしている。
又ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難しているている。その一部を左記に示す。
地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。
しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。
朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。
1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。
この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1
監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2
朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3
次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。
シャルル・ダレ 「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4
朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。*5
脚注
*1 『法政 二〇〇〇年六月号』「法政大学の歴史三一 韓国統監府に於ける法政大学出身の法務補 佐官」巻末
*2 『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一六九-一七一頁
*3 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一五〇-一五一頁
『斉藤実伝』
*4 日韓二〇〇〇年の真実
*5 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一三二-一四二頁
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi049.html
日清戦争前夜の日本と朝鮮(13)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
(朝鮮風俗)笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。
笞刑は世界で広く見られた刑罰の一つであるが、日本では明治5年(1872)に笞と杖の身体刑は「懲役刑」に取って代わった。しかし朝鮮では五刑の一つとして永く用いられ、日本による併合時代に至っても対象を朝鮮人男子に限り年齢制限を設けて暫らく継続し、大正9年(1920)3月に廃止された。(朝鮮笞刑令中廃止制令案)
以下はその廃止理由である。
『笞刑は、古来朝鮮に於て広く施用せられ民度に恰適する刑罰なるを以て、明治四十五年四月、内、鮮、外人に対する刑事法規を整理統一するに該り、暫く旧制を襲踏し軽微なる犯罪の制裁として之に存知したり。然れども、本刑の如く肉体に直接の苦痛を与うるものは、現代文明思想に基く刑罰の性質と背馳する点あるのみならず、近時朝鮮人は著しく向上自覚し、其の民度は復昔日の観にあらざるが故に、笞刑を廃止し基本刑たる懲役又は罰金等を以て之に蒞(のぞ)むも、刑政上毫も支障なしと認めたるに由る。』
身体刑を併合後も継続したのは朝鮮伝統文化を尊重したと言うわけでもなかろうが、犯罪者に対する慣習としての朝鮮人の制裁感情を考慮したということもあろう。そもそも刑罰と云うものは、人々が犯罪に対する制裁とその抑止を求めたものであるが、つまりは人間社会共同体で守られるべき「掟」を担保するものであろう。よって改変するには人々の意識の変革が伴わねばならないはずである。日本による統治が始まって10年、啓蒙によって朝鮮人の民度は向上し、それに伴い廃止する時期が来たということであろう。
無論、朝鮮人に対する不平等云々といった性質の問題ではない。
日本人取締規則の改正
明治18年8月、かつて明治16年に布告した「清国及朝鮮国在留日本人取締規則」の内、第一条を以下のように改正することとなった。
(明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則第一条改正ノ件)
旧 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」
新 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとし、若くは風俗を壊乱せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害し若くは風俗を壊乱するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」
下線部分が追加されたものであるが、風俗壊乱とは、要するに売買春のことである。
その上申理由は、
「上申の旨趣は清国及朝鮮国在留人民、密売淫取締の儀、巡査寡少にして充分ならず。殊に清国各港は各国人雑居し、我警察権の行われざることあるが為めに、明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則を以て密売淫を論ぜんと欲するに在り。右は不得已儀に付御採用相成可然と認む。」
であった。
性を罪悪視するものと言えば、キリスト、イスラム、仏教、儒教による観念があろう。
その点日本人は本来、性に関しては大らかなものであった。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話からしても、その性描写はリアルなものである。
それは人間の営みの事実を素直に見詰めただけに過ぎないものであろうし、おそらくは人類文化初期からの宗教観念とも関連するものでもあろう。
しかし西洋では、例えば売春婦は最も古い職業の一つであるとされたが、陰湿なイメージが伴うどこまでも日陰の存在でしかなかった。
それに比して日本では、例えば大名から庶民までが通う遊郭の世界を作り出すなど、エンターテインメントとして、日本人の遊びの文化、美の文化の一つにまで昇華させた。
しかしそういう文化は他国では受け入れられないものであったのだろう。
撮影年代不明。朝鮮の笞刑は、女にも容赦なく行われた。写真とは関係ないが、明治7年4月の森山理事官の記述には「殊に其の妻懐胎なりしに猶笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると」とある。(「朝鮮始末(一)」p125)
朝鮮では、朝鮮人が居留地の日本人と性的関係を持った場合は、笞刑どころか、斬首さらし首の刑であった。(「日朝の交際歴史の補填資料」の「康熙癸亥制札」。なお、いつ廃されたかは不明。)
一方、日本の外国人居留地には遊郭が設けられ、外国人が自由に出入りしていた。(後の長崎事件は、清兵が遊郭で遊んだ時に起こしたトラブルが発端である。)
あるいはまた、京城・仁川に居留する西洋人や清国人に雇われている日本人女性の内、ドイツ人と清国人の妾となった者もおり(京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/8 総人員調査簿 2)、中には母親も同居したりしている。
見えてくるのは逞しく生活する日本人の姿である。
朝鮮政府、刺客池運永を派遣
明治19年(1886)3月、兵庫県令から、「朝鮮人池運永なる者が神戸港に来着し、かつて朝鮮政府通商事務衙門主事として来日したこともあったが、今回は何の目的で来たのかを捜査中である。」と井上馨外務大臣宛に上申があった。
その後、再び兵庫県令は地運永に関して、「同人は明治15年事変に乱を避けて神戸港に暫らく滞在し、また17年6月に朝鮮人金東境を伴って来て神戸港に於て写真の業を修め、18年4月に一旦帰国した者で、今回は写真器械購入の為に来たようで、金塊を200余円と両替した。今回は全くの私人として来日した。」と報告した。
更に4月、池運永は張殷奎と同伴して旅行視察に行き、大阪、奈良、大仏、春日神社と見物し、京都に来て張殷奎は神戸に帰り、池運永は東京に向かった。両名は大阪にあっては昼間に外出するを好まず、頗る人の目を憚るようで差し向かいで朝鮮語で会話し日本地図2、3帖も所持し、又日本地史略なども読み、またより詳細な地図を買い求めんとするようであった。目的はただ遊歴に来たということであったが、所持金等は十分な様子に見受けられ、或いは朝鮮政府から内密で日本事情視察のために渡航したのではないかとも思われた。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)
ところが5月になって朝鮮人地運永が、金玉均暗殺の目的で来日していることが発覚した。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p3より現代語に。)
警視庁からの報告別紙
芝区南佐久間町参丁目参番地丸木駒方に止宿の朝鮮人地運永は、金玉均暗殺の目的で渡航したとの旨、朝鮮在留のある日本人[井上角五郎であろうと云う説あり]の談により、金玉均へ密報したということは過日に報告いたしましたが、右の地運永なる者は両三日前より、夜中金玉均の宿所近傍に来て付狙う様子で、金の従者、山田、中原等(いずれも朝鮮人の日本偽名)に於てこれを認めて一層注意していたところ、今朝もまた近傍を徘徊して挙動不審であることから、山田等はこれを取押えて其宿所[中原の止宿等を云う]へ連れ行き、所持品等を取り調べると短刀を懐中していたようで、山田等がこれを取り揚げて詰問すると、地運永は終にその事実を告げ、目下、神戸在留の張殷奎と謀って朝鮮政府の刺客となり、金玉均を暗殺するために渡来したとの意味の事を吐露したことを以て、中原等はこれを金玉均に通知した。しかし金に於てもその始末を公然日本政府に訴え出ることも致し難いとて、地運永を小林ヨシ方に留置き、其処分に当惑しているとのことを聞込いたしましたので、真偽はわかりませんが、取り敢えずこの事を報告いたします。
明治十九年五月二十九日夜
6月1日になって金玉均は以下のように、井上馨外務大臣宛に書簡を送り、地運永が朝鮮政府の刺客であること、その委任状を所持していた事などを述べ、それら書類や刀剣等の証拠を以て日本政府に訴え出るべきかを問い、また日本政府の保護を願い出るに至った。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p6より抜粋して現代語に。)
(略)
さて、拙者の一身上の事に付き、敢てここに賢慮煩いのことを奉ります。
そのわけは、この頃から朝鮮政府より池運永なる者を以て当国に渡来させ、当時芝区元佐久間町旅店に客となっている同人の事に付ては、屡々怪しい挙動があるようで、拙者からも百事心を配って同志者をして悉く探偵を尽くさせましたところ、果して本国よりの命を奉じて刺客全権として来た者に相違なく、就ては、右刺殺の委任状その他剣類并に書類等十分の証拠を得、[証拠中に日本国に対し関係のこともあり。]その証拠類は総て皆ほとんど手許に来て正に所持致しています。
このような状況であることを以て、近頃、拙者の一身の危いことは実に愁眉の急であって、薄氷を踏むに異ならないありさまです。就てはその証拠を以て日本政府へ訴えます方がよいか、もしその際に当って拙生の一身に対して、聊か日本政府から御保護くだされましょうか。
又この起訴は却て不都合でしょうか。もし起訴も成り難く、又いささかの保護もくだされない以上は、実に拙者の一身生命に関する事なのでその他の方法に依て便を求めるより外なく、・・・。
(以下略)
よって金玉均がこのことで井上外務大臣に内々でも直接面会して詳細を述べたいと要望した手紙であった。
朝鮮人と日本官憲
後に入手した委任状とするものには、
「特に汝に命じて海を渡り賊を捕えしむ。臨時に計画するは一に其便宜に任す。国の事務を処するに至ても亦全権と為す。軽挙事を行う勿れ。御寶(国王印)」(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p31)
とあった。
井上は先の警視庁からの報告もあり、直ちに京城高平公使に命じてその実否を朝鮮政府に糾させ、池運永召喚の事を議政府に依頼させた。
朝鮮政府は委任状は贋物であると言い張ったが、勧告を受け容れて召喚の事を日本政府に依頼し、帰国命令書を託した。
しかし池運永は帰国命令を受けて横浜港まで来たが出立しようとしない。よってその理由を問うと、旅費がないとのことであった。(おいおい)
後に提出した本人の手記には、
「国に難事多く逆賊が未だ滅していないことを憂え、大いに憂国の心を募らせ、一刀を作らせて一人修練に励み、明治18年11月3日に閔丙奭の家を訪問してその志を打ち明けた。閔氏はこれに感じて政府に上申し、それより王宮に呼ばれて統理軍国事務衙門主事に任じられ、『斬賊大使』の全権を委任された。また国王自らその全権委任状に押印されて与えられ資金5万円を給された。その後、閔応植らの招きにより袁世凱にも面会し、袁世凱も大いに期待して即刻日本駐在清国公使にその旨を報せた。それより美濃丸に乗船して日本に向かい、長崎、神戸、奈良の大仏、京都滞在一週間、大津、伊勢と巡り、天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た。尾張、三河、遠江、駿河、相模を経て箱根の温泉に浴し、その後東京に到った。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p34)」
とある。また、東京では吉原に行き遊興に耽ったとのこと。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p4)
「全権の斬賊大使」という名称も笑うところか。また五万円はあまりにも高額過ぎる。五百円としても十分過ぎる額であるし、おそらくは法螺であろう。
しかし、奈良の大仏、春日、京都見物、箱根温泉、東京吉原での遊びと、かなりの豪遊だったらしく、遂に旅費どころか宿屋の宿泊代も払えない状態となっていた。為に神奈川県がそれを立て替え、後に朝鮮政府に請求している。
日本の美しさに魅せられ観光に耽った「全権の斬賊大使」と。刺客よりも写真師の要素が強かったのだろうか。天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た、と記すところが一段と微笑ましい。
これに関連して、このような時に日本の官憲が、朝鮮人に対してどう接していたかを窺うことが出来る文章があるので掲載する。
(「韓人池運永関係ノ件/1 〔明治〕19年6月7日から明治19年7月16日」p14より抜粋して要約現代語に。)
号外
朝鮮人池運永処分の義に付上申
(略)
その後数日を経ても本人が出発した模様がなく、それで内密に取り調べましたところ、同人は朝鮮国人金玉均の従者である同国人鄭蘭教外二名から本人の旅館であるクラブホテルの一室に擁閉され、始終監視されていることを探知いたしました。それで本人は出立する意があっても出来ないようです。
それで延引することになるかもしれないと考えまして、その辺を尋問のために本県官吏を同人の旅館へ派遣しましたところ、本人は前述のように一室に擁閉され、前記三名の者がその左右にあって、前もって金玉均から申し付けられているようで、我が官吏が同人へ面会するのを拒み、再三に渡って説諭を加えましても遂にそのことが叶いませんでした。
よって本月十九日、更に同人を公然召喚する手続きを尽し、もし右の三名が抵抗する場合は、断然これを制止する積りで警察官を付けて官吏を同館へ差し向け、更に面会を求めましたところ、ここに至って鄭蘭教等に於ても別に拒むことなく面会が出来ましたので、更に(池運永に)当庁への出頭を命じ、小官が自ら本人の出発が遅れている理由を尋問しましたところ、別紙第一号の通り、旅費が欠乏して出発出来ないこと、並びに当面鄭蘭教等と一緒に居るのを厭い、故に他の宿に移りたいとの事で、もし鄭蘭教等が同居を求めるならば、我政府の保護を以てこれを差し止められたいと乞うので、よってその求めに応じて本人を当港の新柗樓なる旅亭に移して止宿せさました。
然るに翌二十日、本人が小官宅に来て別紙第二号の通り申し出ました。(略)
(池運永はここで朝鮮政府から金玉均殺害を委任された事などを自供した。以って自首したと見なされている。)
よって、右の第四号書面(自供書)中に記載あります通り、同人は朝鮮国王から逆賊金玉均輩を殺戮する委任状を受けて渡来したと明言致しました。
それで熟考しましたのに、右金玉均等は目下現に本港二十番グランドホテルに止宿しており、右様の委任状を受けて渡来しました上は、何時同人に対して殺傷を試みるかも計り難く、その時は忽ち本港の平和安寧妨害となる容易ならないことと思量致しました。
それでその翌二十一日、再び我が官吏を本人(池運永)の宿所へ派遣して以下のように申し述べさせました。
去る十九日に同人を召喚するために本県の官吏に帯剣の警部を同行させたのは、本人を捕捉するためではなくて、朝鮮政府から速やかに帰国すべき電信を伝達してから数日を経過しても出発の報がないので、その尋問のために再三官吏を派遣して面晤を求めたが、鄭蘭教等が本人に面会するを拒み、よって往復すること数回に及んだが終に要領を得ないこととなった。つまるところ、これは全く鄭蘭教等が同人の自由を奪って妨害したことにより、これらの者を制止するために同行させたまでである。ついては、朝鮮政府から委任状を所持しているのを示されたいと。(この時、本人は委任状を示さなかった。後に入手。)
(略)
よって本邦滞在の金玉均等に対して何時殺傷を行うかも計り難く、本港の治安を害することも少なくないので、命令状を発して我が警察官を以って外出を禁止し監視いたしております。 (略)
明治十九年六月廿二日 神奈川県令 沖守固
現代と同じである。
いきなり連行することもせず、一旦引き揚げて手続きを踏んで令状を以て訪れ、然るべく処置をし、要望に応じて別の宿を斡旋し、また面会を拒むのを往復数回にわたって説得するなど、現場の巡査たちの苦労が感じられるほどである。
ここには「差別」とか「横暴」とか微塵もないことが窺われる。
さて、かくも手の掛かる無一文「大使」はその後6月22日に内務大臣山縣有朋から正式に送還命令が神奈川県令に伝えられ、それにより23日に出航の横浜丸で巡査数名が付いて朝鮮に護送された。
井上外務大臣は京城の高平公使へ、朝鮮政府に池運永を引き渡す事についての訓令として次のように申し渡した。
(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p43より抜粋。)
(略)
一 朝鮮政府が果して今回のような事を池運永に訓令したことについて、池運永が必ず同政府の訓令書状等を所持しているはずであると、同人を詰問して委任状等を探求し、これを根拠として厳格に朝鮮政府に照会に及ぶことを当然とするも、この事をせずにただ地運永を送還するのみとする処分は実に寛大と云うべきである。
まして池運永が陳述したことが果して事実ならば、朝鮮政府は万国公法に違反し、我国を蔑視していること甚だしいだけでなく、又大いに両国の友誼厚情に背反するところがあるについてはなお更の事である。
然るに6月14日付貴官の電信中に、朝鮮国王は池運永へ委任状等を交付したことを承知しない旨記載があるによって、日本政府はこれに信を置いて問題を生じないように注意し、正当に池運永を詰問追及する手段にも出ないようにして朝鮮政府の責任を軽くするように勉めた。
これは即ち寛大中の寛なるものであることは明らかである。故に貴官に於ては、右の趣意を重々朝鮮政府に説明あるべし。
(略)
金玉均に国外退去を命じる
日本政府は、このようにして朝鮮政府に対しては「寛大中の寛」で処理し、日朝間に新たな問題が噴出する事を避けた。
しかし問題は、金玉均が日本に滞在している限り、今後もこのような事件が繰り返されるだろうことであり、また日本人の中にも金玉均に同情し、あるいはそれに乗じて企てを計らんとする者もいることであった。
まして、金玉均がこの事によって大人しく隠遁するでもなく、6月1日の書簡のように却って日本政府に公然訴え出る態度を示したことであった。
井上馨はこれを以って金玉均に対して厳しく処する事を決心したようである。
即ち金玉均が書簡を送った翌日の6月2日、在清国特命全権公使塩田三郎と京城の高平公使に対して、遂に金玉均を国外退去とすることに決定したことを通知し、また9日には内務大臣山縣有朋に、その旨警視総監を通して金玉均に申し渡した事を伝えている。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p20より現代語に。)
機密 外務大臣より
在清特 命全権公使塩田三郎殿
在朝鮮 臨時代理公使高平小五郎殿 但し各通
金玉均処分のことは先般来から計画したこともある。しかし先ず今日までは、そのままにしていたことは貴官も御承知の通りであるが、別紙で御承当のように、事情が切迫致している事に付いては、最早何分かの処置を決行しないわけにいかない時期となった。よって考えるのに、彼が我国に住居していては始終日清韓間の交誼を阻碍する素因となるだけでなく、この度のように本邦治安を妨害するような結果となるようなことにもなる。
しかしながら、李鴻章並びにその外の請求のように、金玉均を捕縛して清政府又は朝鮮政府に引渡すが如きは元より行うべき筋ではなく、且つ彼を誘導して清国に渡航させるようなこともまた行えないことである。
よってこの際、断然我が国境から退去することを申し渡すことに決定し、このことを清国公使へも篤と申し談じたところ、同公使に於てもよく我が論旨を了解して異論が無いので、本日、警視総監に於て金玉均を召喚して右の主意を申渡し、何れへ向けてなりとも日を期して我国境を退去するように申し渡した。尤も、右を本日申し渡した事に付いて、退去する方向等は未だ分らず、しかし兎に角遠からぬ内に我国を退去させるので、このことを御通知するものである。
明治十九年六月二日
なお、ここでの金玉均への申し渡しは口頭で伝えたものである。
その後井上は、9日には内務大臣山縣有朋に、池運永と金玉均の処分のことを併せて、その後入手した刺客の委任状なるものや金玉均の書簡などの資料を添えて通知し、2日の日に警視総監から金玉均に国外退去するように口頭で申し渡した事を伝え、正式に命令状を発するように依頼している。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p11。)
その事を受けて山縣有朋は11日に神奈川県令に対して金玉均に国外退去を正式に申し渡すように通達した。
「命令書送達の翌日より起算して十五日以内に日本皇帝陛下の領地を去り、而して後、命令書の取り消しのあるまでは、再び我領地内に入らざる事」と命じ、同時に警視総監並びに各府知事県令に金玉均追放の事を通知した。
なお、もし金玉均が去らない時には、抑留して速やかに必要なる処置をして追放するように言い渡し、またその際、次の執行者の心得なるものを訓令している。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p17より現代語に。)
朝鮮国人金玉均退去のことで、別紙訓令に及ぶについては、精密に注意取締をし、処分上最も鄭重にすることを旨とすべし。よって心得の為に左にその取り扱い手続きを示す。
一 本命令書は、制服を着した警察官が金玉均の住所に臨み、その正本を示して謄本を渡し、その領収書を徴収するべし。
一 本命令の期限内に立ち去らないことを以って、これを抑留したときは、直ちに電信を以って外務大臣にその処分方を伺うべし。
一 抑留の性質は通常の犯罪人の拘留に異なり、相当の待遇をなすべし。
一 外国人が家宅に居るときには、府知事県令から本命令書を添え、その国の領事に照会し、領事から引渡しを受けた上で、第二項に従って処分すべきものとする。
国内世論を考慮してでもあろうか、国事犯金玉均の扱いには結構気を使ったようである。
かくて6月12日、正式に退去命令が伝えられたのであるが、金玉均は退去期限が迫っても一向に去る気配を見せなかった。
金玉均の不満
金玉均は6月14日には自ら神奈川県庁に来て県令に面会を請い、県令と警部長との間で以下の問答をした。
金 「前日に領した退去命令書について熟慮した事に、文中に『現朝鮮政府に不快の感覚を起さしむるのみならず、又我邦の治安を妨害し且つ外交上、平和を障碍するの虞あり』との字句があるが、自分が日本に居るために朝鮮政府の交誼を害して外交上の妨害となるだろうことは、自分も信じて疑わないことである。しかしその為に日本国内の治安を妨害する云々に至っては、決してそのような事の理がないのは最も明瞭であると信ずる。もしこの命令書を甘受するなら自分は他日欧米各国に赴く事があっても、自分が朝鮮の国事犯というだけでなく、併せて日本国の治安を妨害した者であるとの指斥されることになる。自分の面目に関すること大である。そして日本政府に於て自分が日本の内政に妨害を与えなかったことを知られれば、たとえこの治安妨害の一句を削られても、自分を国外に退去させることに何の妨げとなろうか。願わくばこの一句を削除ありたい。又、追放の二文字がある。頗る面目に関る文字である。これを少しく穏やかな文字に改正されたい。」
県令「そもそも治安を妨害する云々の字句は、同人の行為を指定した文意ではない。ただ治安妨害の虞ありと日本政府が信認したもので、言わば日本政府の意志を写し出したに過ぎないものであるので、同人の面目に関する憂いはないはずである。しかしこの命令書は、内務大臣の発せられたものなので、本官に於いてこれを説明すべきものではない。まして命令書の更改削除するなどのことは無論本官の権内のことではない。強いて請求があるなら一応本官から内務大臣に具申してもよいが、大臣に於てもこれを更改削除されることはないだろう。」
警部長「追放の二字は、もし貴下が命令書指定の期限内に立ち去らない時には公力によって追放の処分に及ばん事を予告したものであり、即ち次点の処分を示したものなので、貴下が期限を誤らないなら無論のこと追放の処分には及ばないことなので、いささかも差し支えはないはずである。」
金 「追放の字についてはただ今の御弁解により了解した。ただ、日本の治安を妨害するとの点についてはどうにも甘受し難い。なにとぞ貴官から内務大臣に伝達されるよう御尽力あることを切望する。」
県令「承諾した。」
それに対しての山縣内務大臣の回答は、
「金玉均が現に我が国の治安妨害の所為があると言うのではないが、そもそも本人が我が国に滞留するなら必ずその虞がないことを保証出来るものではない。現に大井憲太郎の事件などは、たとえ本人がその事情を知らないとしても、彼等は金玉均の名を借りて事を挙げんとした。これはつまりは金玉均が滞在するからである。よって単に滞留するときはその虞あり、という趣旨であって、その字句があっても金氏において顧慮するに足りないものである。」
であった。(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)
山縣は、先の大阪事件についての警視庁の探偵によれば、当初は事件に関っていたではないか、とまでは言わなかったようである。
仏国公使、金玉均の引き取りを申し出る
6月23日、金玉均は、「ヘンリー チャーレス リッチヒールト(Henry Charles Litchfield)」なる代人を使って横浜軽罪裁判所に池運永を正式に告訴した。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p28)
それに対して検事局は、地運永が既に朝鮮に送還されているので受理する必要も無かったが、提出書類のみは受け取った。
また、退去期限の6月27日には、金は神奈川県令に、旅費が無く負債の返済も覚束ないと、7月中旬までの退去期限延長を願い出た。
よって神奈川県令は7月13日の米国サンフランシスコ港行郵船が出帆する日までの延期を申し渡した。
井上外務大臣はそれに対して7月13日を経過すればいよいよ抑留する旨通知するよう命じた。
しかし13日までに更に退去の様子なく、ついに神奈川県令は抑留処置の手続きに入った。
7月13日、県令は金玉均が宿泊する横浜グランドホテルがフランス人経営であるところから、在横浜仏国領事に面晤して抑留の事情を話したところ、領事は東京の仏国特命全権公使の意向として、金玉均を仏国郵船会社の郵船に搭乗させたいとのことであると話した。
驚いた神奈川県令は、重大事であるから正式な書面で照会するように求めると、領事は、正式な書面を出せる性質のものではないと答え、この話はそれ以上進まなかった。
その後、仏国公使からそのことについて書簡があった。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p36)
外務大臣伯井上馨殿 仏国特命全権公使 シエン キエ ウヰツ
仏人所属の旅館に止宿する朝鮮人金玉均抑留のことについて、神奈川県令から在横浜仏国領事に協力を請求したことは、同領事ルクーより本月13日付けで拙者に通知があった。また、右朝鮮人は横浜市街並びにその近傍を自在に散歩していることも申し添えていた。
金玉均の日本管轄地退去の事は、とにかく貴国政府には御切望なられているが、その望みを実行する手段がないことは拙者も承知しているので、予め神奈川県令と協議をした上で、右朝鮮人を仏国郵船会社の郵船に乗せることを我が領事へ勧告して置いた。
もっとも、もし金玉均が郵船に乗るのを拒むことがあるならば、拙者は他の手段に依頼するつもりである。
しかしながら別紙書面によって御承知なられる通り、不幸にも沖氏(神奈川県令 沖守固)はその方略についてルクー氏と熟議するのを拒んだ。
又、他方からこれを察するに、日本政府に於ては、金玉均を抑留されようとする気は更に無いように見える。
右朝鮮人を仏国郵船に乗せることについて、閣下には御異論あろうか。前日の状況がこのようだったので、ただこの事に付いて閣下に御問合せして貴意を得たいと思う。
敬具
千八百八十六年七月十七日東京に於て
よって外務省は神奈川県に問い合わせ、先の照会の事由を得て仏国公使に説明し、それにより公使は再び領事に命じて仏郵船搭乗の事を進めんと金玉均に面晤させた。
しかし金玉均は領事のその話に、外国に行くとなれば諸準備の為になお1ヶ月は猶予が必要であると述べただけであった。
その事を神奈川県令が領事から聞いたのは7月22日であった。
もはや抑留執行すべし
またその前日21日には、内務大臣山縣有朋から井上外務大臣に宛てて次のような書簡が送られている。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p33より現代語に。)
二百十八号
金玉均処分の事に付いては、かつて御協議の上で十五日以内に我が国を立ち去らせるべき旨を地方官に命令いたしたが、その期限に迫って止むを得ない事情によって暫らく猶予したいとの神奈川県令から具申があったので、なお又御協議の次第もあり、本月13日頃までは延期し置くとしたのであるが、その日を過ぎても処分の運びにならず、過日来数回秘書官を以って青木次官と協議したわけであるが、今もって断然処分することになっていない。
しかるに先頃よりこの一件は内外の新聞に散見し、甚だしきは、自分から地方官に下付した命令書までも紙上に掲載して議論を試みるものまである。
このまま日数を経過するなら、単に本官の命令の信用を失うかもしれないだけでなく、幾らかは政府の体面にも関係が及ぶことになると思われる。もとより等閑に付せられてはいないだろうが、尽力されて取り急ぎ処分の運びとなるようお取り計らいされたい。
明治十九年七月廿一日 内務大臣伯爵山縣有朋
外務大臣伯爵井上馨殿
山縣の「俺が悪者にされとるっちゃ」とでも言ってるかのような不満顔が見えるようである。(笑)
7月25日、もはや抑留執行すべしと外務省から神奈川県令に伝達。日曜日であったので翌26日に抑留処置を決行。仏領事共々横浜グランドホテルに向かい、領事自らホテル館主に令状を示し、神奈川県官吏は金玉均に命令状を交付した。
金玉均を人力車に乗せて宮崎町の共衆園に送致。
7月29日、神奈川県警部長、外務課長らは共衆園に赴き、金玉均の従者4人が共に宿泊していることに対し、従者が昼に会うは自由であるが宿泊は許さないことを伝え、更に、この後、金玉均が諸外国に去ることを望むなら我が政府はその意に任せ、又その為の旅費は支出する事を告げる。
それに対し金玉均は、
「自分は去る7月13日の期限に遅れ、結局は貴政府の処分に任せる他は無いと考えていたが、その事を聞いて更に熟考して計画の上、速やかに何らかの返答をしたい。」
と答えた。
7月31日、神奈川県警部長は金玉均に、8月3日に米国行郵船が本港を出発する事を告げ、どうするかを問うた。
金は、「資金を工面しているがとても3日までには成し得ない。13日までにはその事をして米国に向かいたい。また旅費は支弁するとのことであるが、日本を去る以上は旅館の宿料その他各商家の買掛金などを支払い終えないなら大いに面目に関る。また外国に到着してもその日から路頭に迷うようなことはしたくない。よって3日の郵船に乗る事は出来ない。」
と答えた。
警部長は、つまりはそれは見通しが立たないので、結局は日本政府に処分を任せると言う意味か、と問うと、金は、その処分に任せる他は無いと述べた。
8月1日、神奈川県知事は、井上外務大臣に稟議してその指揮を得て再び警部長をして金玉均に告げさせた。
警部長「もし来る8月3日の米国行き郵船に搭乗することが出来ないとするなら、我が政府は断然5日の日には小笠原島に送致するのでその旨了解するように。なお生活上の必需の費用に限り支給する。又、従者が従うも内地に居るも自由であるが、もし同行を願い出るならそれを許し同様支給する。」
金 「自分の信じる道理と日本政府の処置と反対であると思量する点があるが、一国政府の権力を以って処分されるものに対し、多言を以って論難するも無益である。謹んでその処分を受けよう。」
警部長「4日までに資金を得て外国に行く確証を出すなら、13日の出航する日までは猶予するが。」
金 「今、内外友人に百方金策を頼んでいるので、事成れば島流しの恥を免れるのであるが、期限が大いに短縮したので必至成り難いことである。」
警部長「金策を依頼した人名を知るなら、間接にその事を促して助ける手段もあるが。」
金「御好意は感謝するが、依頼した友人は自分との交誼によって周旋しているので、それを他人に話しては却って交誼を損ずる。故に氏名は告げられない」
(以上「金玉均本邦退去ノ件/2 明治19年7月24日から明治19年8月10日」p23より抜粋)
8月3日、山縣内務大臣は、小笠原島送致のために本日付で金玉均を東京府に引渡すように命じた。
しかし神奈川県は、東京府知事から7日午後4時に横浜碇泊日本郵船会社の帆船秀郷丸に護送されたいとあり、また、金に4日中の金策期限を伝えてある事から、5日付けで命令書を発したい旨を内務大臣に稟議してその裁可を得、よって命令所の日付に3日とあるを5日と変更した。
8月5日、神奈川県は警部長をして内務大臣命令書を伝達させた。
警部長が命令書正本を示し、その謄本を交付すると、金玉均はそれを拒んで、
金 「日本政府は先に自分を外国に追放する命令を発布されたのに、今更に小笠原島へ護送すべき旨の命令があるのは何事ぞや。必ずその理由があるはずである。その理由を命令書中に御明示ないならこれは受領し難い。まして小笠原島に護送されるような事は決して甘んじて承服し難い。」
と言った。
よって警部長は一旦県庁に戻ってそのことを告げたので、県知事は外務、内務両次官の訓示を得て、翌6日午前に再び警部長に命じて金玉均に言わせた。
警部長「小笠原島に護送の事は先の命令書に記する処分を変更したものではない。即ち、命令書中の抑留処分の一部に外ならない。外国追放のことは追って執行されるも図り難い。」
金 「そのことは了解した。しかし、そもそも島に配流されるようなことは、刑の最も重いものであるから、明らかにその罪名を示されないなら承服し難い。」
警部長「この処分は行政処分であり、刑法上のものではないので、罪名を記す筋のものではない。」
金玉均はこれを承服せず、遂に命令書の受領を拒否した。
警部長は、「命令書受否にかかわらず、明日7日午後4時を期して船に護送する」と伝えた。
同6日午後、金玉均は人をして、「いよいよ資金が調達できる見込みなので、直ぐに米国行きの乗船切符を買い、これを証として出願するので、小笠原島行きのことは見合わせられ、次回の米国郵船で米国に渡る事を聞き届けられたい。」との願い出があった。
神奈川県ではこれに対し、到底信じられるものではないとしたが、金策を周旋している日本人、朝吹英二なる者から、資金3千円を以って負債償却は勿論、必ず次回の米国行きの郵船で出発させる、との願い出もあるので、外務課長を東京に派遣して、外務、内務両次官の指揮を問うた。
よって、外務次官からは、
「乗船切符だけではその証は薄い。別に若干の金銭と米国に必ず渡るとの証書を提出させ、出航の日まで知事の手許に預かり置くことが整うなら、そのことは聞き届ける。」
との指示があった。
(またこの日、金玉均の従者の一人が東京に至り、米、露、英、仏、独、伊、清の7ヶ国の公使館を訪問して封書を一通ずつ差し出している。(「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p2))
7日朝、外務課長はその指示を得て帰庁。
同日午前9時、警部長は共衆園に至り、金玉均に昨日の願い出に対する指示を伝え、午後1時までに答えるように伝えた。
午後3時、警部長は返答を求めて再び共衆園に。
金「次回の郵船で米国に渡航するとの証書と切符のことは何時でも差し支えなく、その保証も朝吹に依頼して承諾を得た。しかし同人が保証した上は、自分の抑留を解き、自由を許されるか。」
警部長「朝吹の保証はただ小笠原島護送を見合わせて、米国行きをする為である。日本政府は例えその保証があっても出立の日までは抑留を解くことは出来ない。」
金 「抑留を解かない以上は、朝吹が保証してくれても自分をこれを依頼するを好まない。」
警部長「保証を依頼する、しない、は貴殿の都合であって日本政府は関係無いことである。もし保証を依頼しないのであれば、直ちに政府の命令を決行するのみ。それならば最早予定通りに船に護送する外はない。
公力行使す
これに於いて神奈川県知事は、東京府に電報して速やかに受取り官の出張を促し、護送に着手するため、警部長、外務課長、以下警部巡査10余人を共衆園に派した。
先ず警部長が出発の事などを告げ、従者が願い出るなら共に小笠原に行く事を許可すると述べ、金玉均に同行するかを問うた。
しかし従者4名は、政府の命令書に罪名を掲げないのは不服である、との旨を口々に言い募るばかりであった。
また、金玉均に出発を促しても悄然として動かず、唖然として一語も発せず、以って警部長は更に警部、巡査等を呼び寄せ、いよいよ自ら出発しないなら止むを得ずに公力を用いて執行する、その時は身体に警察官吏が手を掛けることになる、よって速やかに応じるべきである、と再三求めたが、何等の返答も無かった。
よって警部に命じて引き立てに着手させたが従者が立ちふさがって妨害し、百方説諭したが止めないので巡査をしてこれを引き離させ、更に金玉均を引いて馬車に乗せ、弁天橋から小蒸気船を以って本船秀郷丸に護送した。
やがて従者らも静まり、別れを告げたいと懇願したのでそれを許し、荷物などを片付けさせて共に再び小蒸気船を以って本船まで送った。
本船出航は10日までに延期されていたが、内務次官の訓令を以って東京府知事と協議し、直ちに抜錨することに決した。
夜、東京府から出張の警部が受け取り、同行を願い出た一人の従者李允果なる者と共に金玉均を乗せた秀郷丸は、翌8日午前5時、横浜港を出航して品川沖に停泊。9日午前6時を以って小笠原島に向けて航行した。
(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)
チャンスを繰り返し与えて延期に次ぐ延期、更に旅費も支給する、或いは小笠原島での生活費も支給する、従者にも支給すると。
もしこれが、朝鮮と日本の立場が逆であったらどうしたろうか。おそらくは即座に本国に送還したか、「病死」とでもしたであろう。
朝鮮人は人情に厚い、などと言う者があるが、日本人の方が遥かに情け深く仁義に厚いと思われる一件であったと筆者には思える。
国内事情と金玉均
さて以上の、大阪事件、地運永事件、金玉均の国外退去と一連の流れで見ていくと、当初金玉均を支援していた旧自由党の日本人有力者は次々と彼から離れて行き、国外退去を口頭で告げられた6月2日には、すでに日本人援助者もほとんどおらず、金員も無く、商店には買掛金が溜まり、宿泊料支払いも出来ず、それでも横浜グランドホテルなる超高級ホテルに滞在し続けて人をして金策に走らせていたと。
この後、ホテル代などを日本政府が払ったかどうかまでは分からない
水溜内の暴風
佐党[土佐]がふっとうして
外にこぼれると
いけないから
皆様気を
御つけなさいよ
狂歌
職人が佐党乃加減とりそこね、味わるくせし
この自由糖
喰べるわけもいかなければ
仕方がないから
南洋群嶋えでも押流し
金玉糖[金玉均]乃仲間え入れてやろう
土佐の国
気を付けよ 監督しようよ
(「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/4 TOBAE〔第24号〕」p6より。)
上の絵は、仏人画家ビゴーの諷刺画であり、明治21年(1888)2月号「TOBAE(鳥羽絵)」に掲載されたもの。
当時の自由民権運動などの昂りを、薩長政府に対する土佐勢力の沸騰として描いていて興味深い。伊藤、井上、山縣、森、などお馴染みの顔が並んでいる。
アジ歴簿冊「新聞雑誌出版物等取締関係雑件 第一巻」には横浜の外国人居留区で定期刊行されていたビゴーの「狂画雑誌TOBAE」から抜粋されたいくつかの諷刺画が収録されている。
内容はともかく、ビゴーの絵は味わいがあり絵画として面白い。
散々なまでの日本政府政策批判と大臣達への中傷が満載されているが、日本文を添えることによって日本人の間にもよく売れたらしい。
あまり過激なので神奈川県知事が1月に、「日本語の文章を入れて日本人に供するものとなっており、我が国の治安に関る虞あり」として取締を上申している。
しかし、散々その諷刺の対象にされている伊藤博文、山縣有朋、大隈重信らは、外国雑誌を取り締まることも難しく、また治安を乱すまでに至っていないとして放置して差し支えないと、2月に神奈川県に通達。もっとも、今後の内容次第では取り締りとなるかもしれないとした。
ところが山縣は、2月の伊藤への書簡では「中には幾分かの誹謗の意を写したような点もあるが、こと更に険悪の意を以って治安を妨害せんとする手段に出たものとも認め難い。要するに、異様奇譚の絵画を掲げて、購買者の歓笑を買わんとするに他ならないと思う。」と、余裕だったのが、7月になると「号を重ねるうちに度がひどくなり、掲載の文字も甚だしく誹謗と偽りのものであり、人心を激昂させるところもある。このまま継続するなら将来に治安妨害の虞がある。」と大隈に照会を出している。
さて、山縣が「もう勘弁ならん!」と思ったのは、何号のどの絵であろうか。(笑)
それでも、フランス公使と折衝した大隈重信は、「ビゴーは公使館にも全く近寄らず、住所も特定出来ず、且つ外国人のことであるからどうしようもない。雑誌は荒唐無稽のことを記して見る者の笑観に供するだけであって、施政上差し支えることもないだろう。」と山縣に返事して、結局のところそのまま放置となっている。
これはビゴーが大隈のことは余り悪く描いてもいないようであるからだろうか。(笑)
(以上「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/1 横浜於テ仏国人「ジエー、ビゴー」ノ刊行スル「トバエ」雑誌禁止ノ件 明治21年1月14日から〔明治21年7月14日〕」より。)
本文の流れとはあまり関係ないが、たまたま金玉均の名が出てきたので・・・。
その他エピソード
入国して来る朝鮮人には警視庁などが探偵を付け、その行動等を詳細に報告しており、朴泳孝や金玉均とその従者たちは勿論、地運永など彼等に接近する者など、或いはそれ意外の様々な朝鮮人も監視対象となっている。
例えば、
・公使館設置に関して来日している者(李源兢)とその従者。
・鬱陵島で伐採して木材を米国人に売る者。
・朝鮮国王妃(側室)の弟と称し、日本語に堪能で洋服和服を着こなし、日本人博徒や不良の士族と交際し豪遊する者。
・神戸港で金銭尽きて困窮し食を人に求めんとするまでになっていたが、神戸の新聞社員に拾われて新聞職工として雇われ、日本人社員宅に同居を許された者。
・日本郵船会社の船を買い入れに来ている者。
などが報告されている。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」、「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)
中に金玉均の挙動監視報告の中でより詳細なものがある。
(「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」p26~より抜粋、要旨)
明治十九年二月十日午前十時、巡査二人を金玉均の挙動視察のために熱海温泉旅館の小林屋に入浴させた。
午後六時十五分、同家召使の者が表帳場で人に語るのを聞く。
「朝鮮人が泊まっているから忙しい。この朝鮮人は日本で言うと参議位の人で朝鮮では第一の人であり、至って立派な人で、そのコックでさえ余程立派な人です。今その人は一番室におります。黒田さんが前に天子様と何か争いをして終に気が合わないところから、日頃この熱海へ入浴にお出でで一昨日にその朝鮮人が連れと共に五人でここへ来たから、何か黒田さんと話でもすると思って東京から巡査が追跡して来たと知らせがあった。しかし外のことでもなく旦那衆と入浴に来ただけのことで、一緒に付いてきた碁打ちの先生は日本第一の人[土屋秀栄]で、昨夜も旦那や朝鮮人や碁打ち先生や平岡さん[陸軍大佐]などで午前二時まで打ち続いた。」と。
金玉均は、本日午前十時三十分から翌朝八時までの間には更に入浴したのを見ず、且つ室内から出たのを見なかった。
碁を共にする者たちが集まって会が開かれた。
金玉均のコックの部屋を訪れて雑話する。今後の滞在を問うに二三週間の見込みという。
金玉均は土屋と終日碁をしている。
廊下を歩く金玉均の面体を確かめようと脇の便所に入ってそこから見た。身長は五尺五六寸(166センチ~168センチ)、色白く、顔大きく少し長く平顔で、体形は肥えている方である。
入浴中の土屋に、今日の勝敗は如何か、と問うと、相変わらず不首尾である、と答えた。
華族中山信徴(元常陸松岡藩の初代藩主)も碁会に訪れていた。
金玉均はその後、黒田清隆伯爵が泊まる相模屋を訪れ面会を求めたが、従者は断り名刺も黒田に届けず。
次に、宮中顧問官の川村純義伯爵(元海軍卿)に面会を求めたが、同様断られた。
名目として碁を共にする者の集まりであったが、金玉均はここではほとんど部屋を出ず、碁のことで会いたいと来る者にも風邪と称して断っている。行動を共にしたのは土屋と平岡ぐらいである。
おそらく、黒田や川村など政府の人間に接近することが目的であったのだろう。
しかし囲碁界でよく知られている、金玉均と本因坊土屋秀栄との交友についての記録でもある。
明治18年2月「朝鮮政府ヨリ受入填補金中不通用ノ洋銀欠損払ノ件」
明治15年の朝鮮事変での填補金として領収した10万円の内、洋銀による5万ドル(日本円換算5万円)の中に通用しない、俗に「音止まり」と称する欠陥貨幣が6百ドル(日本円換算6百円)あった。ために大蔵省はこれを鋳潰して銀地金として売却したが、592円81銭となり、差し引き7円19銭が不足となった。
すでに確認して受け取っているので今更朝鮮政府に不足分を請求するわけにもいかず、外務省支出とするも、結局国庫の支出となることに変わりは無いところから、大蔵省で不足分を補うこととなった。
「音止まり」がどのような状態の貨幣かは分からないが、銀地金になっているから偽造貨幣ではなかったようである。
また、偽造貨幣と言えば、明治17年に次のように日本人が朝鮮国の貨幣を偽造した事件があったことを示唆する記録がある。
明治17年7月「日本人朝鮮国通用貨幣を偽造する者処分方の件」
(「日本人朝鮮国通用貨幣ヲ偽造スル者処分方ノ件」より現代語に。)
本邦人民、朝鮮国に於て彼国通用の貨幣を偽造する者処分の儀に付伺
本邦人民が朝鮮国に於て朝鮮国で通用の貨幣を偽造した者の処分に付いて、朝鮮国駐在領事から伺い出る事件がありました。
これは、(外国貨幣)偽造の廉は刑法中に条項無く、不問とするべきかとも考えましたが、日韓修好条規付録の第七款に、「両国人民、私に銭貨を鋳造する者あれば、各其国の法律に照して処断すべし。」との明文があり、その「私に銭貨を鋳造する」とは、我が人民が彼の国の銭貨を偽造し、彼の人民が我が国の銭貨を偽造するを指すものであって、又「各其国の法律に照」するとは、その本国の銭貨を鋳造することを罰する法律に照らす、との意味であるべきです。なぜならば、我が人民が我が国の貨幣を偽造する者は我が国の法律に照らして処断すべきは論を俟たないことで、修好条規中特に明言するを要しないからであります。よって本件偽造の罪は、右修好条規付録第七款に依り、刑法に照らし内国通用の貨幣偽造を以て処断してしかるべきと、考量します。しかし、外交上にも関しているので、一応伺うものであります。
右は差し掛かった事件なので、至急何分かのご指令を仰ぎます。
明治十七年七月三十日 司法卿 山田顕義
太政大臣三条實美殿
伺の通
明治十七年八月八日
日本の場合、問題を起こすのは大抵民間人である。領事が困惑して司法省に処罰の法的根拠を求める様子が窺える。
明治19年6月 「公使館修築費残額を恤給填補等に転用」
明治17年朝鮮事変における死傷者の恤救と商民損害補填として、朝鮮政府から受領した恤給填補金の分配に際して調査の結果、11万円では足らず、なお5千円の不足が生じた。それで、公使館修築費用として受領した2万円の内、実際に要した費用との差額9千円が残っているので、これから不足額を補うこととした。
また、当時の官員で薄給の者も困難な状態にあり、残額を以て相当の給費を計ることとした。
(朝鮮政府ヨリ受領セシ公使館修築費残額ヲ恤給填補等ニ移用スルヲ許ス)
明治19年6月 「御国旗保管の儀に付照会」
明治15年の朝鮮事変の時に、京城公使館に掲げていた日本国旗は、花房公使一行と共に日本に帰り、その後外務省で保管されていた。一行が公使館を決死の覚悟で突出した時に鈴木金太郎が掲げて走ったあの日の丸である。
それを、明治19年6月に陸軍省所轄の九段遊就館内で保管できないだろうか、との相談が外務次官青木周蔵から陸軍省に照会があり、よって陸軍省はそれを受領した。
当時は「御国旗」と「御」の字を冠して称していたようである。今は政府内でも「国旗」と呼び捨てであろう。
九段遊就館に保管されている当時の「御国旗」を見てみたいものである。
明治15年 朝鮮暴動記 神山清七 豊原国周筆
http://www.singpao.com/zt/cwkls/201303/t20130329_426624.html
鞭落皮開肉綻哀嚎震天
2013-03-29 05:30:00 来源: 香港成报
核心提示:貪官酷吏被剝掉衣裳,光着屁股在架上受刑,一鞭下去,皮開肉綻,哀嚎震天,着實痛快!讓人能有如此遐想,要歸功於一名人大代表,今年1月在廣東省人代會分組討論中,建議引進新加坡「鞭刑」。原來,鑑於廣州刑案日多,該名敢言的警官倡以嚴刑峻法對付刑事犯人,「永遠給罪犯震懾,讓他不敢違法」。
日本侵佔朝鮮時期,發布「朝鮮笞刑令」和「朝鮮笞刑令施行規則」,以嚴酷的笞刑對付半島人民。
貪官酷吏被剝掉衣裳,光着屁股在架上受刑,一鞭下去,皮開肉綻,哀嚎震天,着實痛快!讓人能有如此遐想,要歸功於一名人大代表,今年1月在廣東省人代會分組討論中,建議引進新加坡「鞭刑」。原來,鑑於廣州刑案日多,該名敢言的警官倡以嚴刑峻法對付刑事犯人,「永遠給罪犯震懾,讓他不敢違法」。
鞭刑存在於歷史上各個時期,無論是猶太人、埃及人、敘利亞人、波斯人還是斯巴達人和羅馬人,都用過這種刑罰。鞭刑在中國也叫笞刑,始於東漢文帝,為古代「五刑」之一,是以竹、木板責打犯人背部、臀部或腿部的輕刑,針對輕微犯罪而設,或作為減刑後的刑罰。日本古代有仿自中國唐律的笞刑,明治維新後廢止,但在侵佔台灣和朝鮮時曾施行笞刑,都是打屁股,限打16至60歲的男性。
鞭刑也是一種酷刑,可使犯人斃命。鞭刑官都要經過培訓,執行鞭刑的獄警知道怎樣才能在犯人身上製造最大程度的疼痛,同時產生最小程度的永久傷害。如果有個受過合格培訓的鞭刑官行刑,犯人整個屁股上九成九的皮肉都會破裂,他們能讓每一鞭都打在不同地方,避開破裂之處,這樣能造成最大的痛苦。
當今世界仍有十數個國家實施鞭刑,包括新加坡、北也門、沙特、巴拿馬和阿聯酋等。1993年,一名美國青年費伊在新加坡塗鴉而被判笞刑。費伊為首名判笞的美國公民,此事演變為國際事件,雖然時任美國總統克林頓出面求情,費伊照樣要捱打,只是由六鞭減為四鞭。1986年在北也門,一男子因淫亂罪而被當衆鞭笞1,000下致死。1989年在沙特,四名涉參與聖城麥加炸彈謀殺案的男子被判一人鞭笞1,500下,另三人每人鞭笞1,000下,他們實際上也就是判了死刑。
在香港殖民地時期,笞刑主要針對中國人,英國人因此經常濫用,犯人受罰過程通常吸引大批人圍觀,有人因而受創致死。正如本報報道,1877年港英廢除公開笞刑,但監獄內卻繼續執行,1950年代港府加強監管,以防被濫用,規定未滿14歲的犯人不得鞭打超過6下,未滿16歲不得鞭打超過12下,未滿21歲不得鞭打超過18下,直到1990年才正式廢除笞刑。
話說回來,上述那位人大代表「建言」時,引發哄堂大笑。按其邏輯,如使用嚴酷鞭刑能大幅降低暴力犯罪,並使貪官污吏不再腐敗瀆職,下一步是否為抑制性犯罪的高發而恢復宮刑? 澹軒
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-date-20100118.html
支那には南京虐殺事件の資料館があり、朝鮮には日帝支配資料館があります。
下の写真は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形で、展示してあるものです。
ちゃんとハングル文字で開設もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が、我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてある。
残酷な仕打ちをしているのは、日本統治時代の憲兵や警察官であり、殴られているのは朝鮮人だとしています。
要するに韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だという強烈な印象を訪問者に植え付けようとしています。
独立記念館の拷問の蝋人形
独立記念館の拷問の蝋人形
韓国では、この記念館が小中学生の修学旅行の定番コースとなってます。
当然、ここにやってきた韓国の小・中学生たちは、当然日本への恐怖と憎しみをかきたてられる。
というか、こういうものを小中学生に見せようとする神経がそもそも異常です。
ところが、です。
実際には、ここに展示してある日本軍の服を着た憲兵や、征服警官が、実は拷問を受けている朝鮮人と同じ朝鮮人だと知ったら、彼らはどう思うのでしょうか。
憲兵も警察官も、地域の防犯を担う者です。犯罪の予防を図り、犯人を捜し、検挙し、尋問するのは、言葉や地理に詳しい朝鮮人が採用された。つまり日本は、朝鮮人を補助員として起用したのです。
なぜかというと、言葉が通じない。ですから直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人にやらせていたのです。つまり、展示の拷問をしていたのは、朝鮮人であるにほかならない。
日本は、明治43(1910)年の日韓併合のとき、韓国の警察制度の近代化を図りました。
警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化したのです。
なぜ軍の憲兵と警察の一元化を図ったかというと、朝鮮人官憲による横暴、拷問、暴力、強姦が、あまりに無差別に行われていた。
さらには、当時「義兵」などと称して朝鮮人達が行った山賊団による犯行、親日派韓国人へのテロ行為を防ぐためには、断固とした措置が必要でした。
ですから日本は、朝鮮を統治するにあたり、警察力と軍事力を融合させたのです。
そして憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。
当時、日本人の憲兵は、1007人。韓国人の憲兵補助員が1012人です。
日本人の巡査は2265人、韓国人の巡査は3428人です。
いずれも韓国人の方が多かった。
そして日本は、法律をつくって拷問を禁止しました。
にもかかわらず、法の執行を行うべく採用した朝鮮人補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らそうとした。そして同胞であるはずの朝鮮人たちに、過酷な暴行をはじめてしまいます。
実は、それが上にある蝋人形の実際の姿だったのです。
下の写真は、朝鮮の警察官の名簿・名刺です。
朝鮮人ばかりです。
朝鮮の警察官の名簿・名刺
今村鞆は、「歴史民俗朝鮮漫談」(昭和3年)で「朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる」と述べています。
さらに中川八洋著「歴史を偽造する韓国」には、次のような記載があります。
すこし長いですが、当時の姿を明確に著わしていると思うので、引用します。
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近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、李氏朝鮮を引き継ぐ「旧韓国」の司法は「近代以前」というより「文明以前」であった。
スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が、1904年に朝鮮国内を旅行取材した「悲劇の朝鮮」は、監獄内を自分の眼で見たときのムチ打ち刑の執行の光景と、チュリの刑と呼ばれる拷問死刑の光景を記録しているので、この「文明以前」がよくわかる。
拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の間にはさみ死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く。次に腕と肋骨を折る。最後に絹紐で首を絞める、というものであった。
チュリの刑を受ける囚人
(両脚の間に二本の棒を差し込まれている)
チュリの刑を受ける囚人
死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、当時の日本では信じられないことであった。が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。
マッケンジーの「朝鮮の悲劇」(原著1908年)も次のように記しでいる。
死刑囚でない単なる禁固刑のものも、監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。
「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された」
しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。
例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。
が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「旧韓国」の「刑法大全」(1905年〉にも定められている。
しかも「刑法大全」は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。
朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、「刑法大全」は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。
しかし日本は、3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して・・・
つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。
このため、朝鮮笞刑令第4条は、「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。
当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。
それほど高額な1円が笞1で済むのである。
すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。
また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。
笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。
また、笞の長さは1尺8寸(55cm)、厚みは2分5厘(7.6mm)となった(「施行規則第11条」)。
痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。
臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。
それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸(106cm)、厚みは2分7厘(8.2mm)であった。
日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。
しかし、この笞刑令をもって「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。
あるいは「反日」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された)
李氏朝鮮時代の拷問機器
李氏朝鮮時代の拷問機器
朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。
文化の相違であろう。
例えば、死刑に際して、面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする(シャルル・ダレ「朝鮮事情」)。
福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた金玉均が、1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。
日本が定めた笞刑令(1920年に廃止)を中傷し歪曲する暇があるなら、残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。
首かせを付けられた李氏朝鮮時代の犯罪者
首かせを付けられた李氏朝鮮時代の犯罪者
朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。
食事はおかずなしの雑穀のみであった。
さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。
日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。
総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。
李氏朝鮮時代の牢屋(動物園ではない)
李氏朝鮮時代の牢屋02
国分三亥(こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、次のように回想している。
「監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。
(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を創設して監獄は司法部に所管を移されたけれども、(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出している。
「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。
1坪(畳2枚分)に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて横臥せしめた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
しかし、日本の努力で1910年末にはすべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を3分の1の「約5人以内」に下げたのである。
そして1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。
「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。
ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵が拷問のことを回想しているので紹介しておきたい。
裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。
中村竹蔵は1907年に平理院(「旧韓国」の最高裁判所)に配属となり、ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
「平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して之を廃止するよう厳重に要求すると、院長は午後遅くなって出勤するようになつた。
私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。
島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)は回想する。
「私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。
私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました。
その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となつて表われた」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
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いやはやなんともすさまじい限りです。
最後にもうひとつ。
謝永光さんが書いた「日本軍は香港で何をしたか」という本があります。
その本に、香港で実際にあった出来事として、次のような話が出てきます。
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最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。
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要するに彼ら朝鮮人は、当時の日本という虎の威を借りて、好き放題の横暴を働いていたのです。
そして戦後、日本がおとなしくなる(=弱くなる)と、途端に手のひらを返したように日本人への暴行を始め、さらには自分たちが行った悪辣非道な振舞を、全部日本人がやったこととして宣伝しはじめた。
いまの日本に、韓国や北朝鮮が居丈高になり、竹島を勝手に領有宣言したり、日本人を拉致したり、領海を越えてゴミの不法投棄をしたり、在日コリアンが児童公園を勝手に横取りしたり、日本人の土地を奪って駅前でパチンコ屋を営んだり、政治を壟断しようとしたりするのは、要するに「日本弱し」「日本人はやさしいから、何をやっても許される」と思われているからです。
支那人や朝鮮人が、なぜ西洋人には媚びたのか。
それは彼らが徹底的な報復をする民族であることを、支那人や朝鮮人たちが良く知っているからです。元の統治手法と同じです。
おもしろいもので、虎の威を借りるタイプの人間というものは、自分より弱い者には居丈高になり、自分より強い者には、いやらしいほど卑屈になります。
要するに獣(けもの)と同じです。
やさしさはとても大切なことです。
しかし力のないやさしさは、身近な人の犠牲を伴うものであることを、日本人は学ぶべきです。
力なき正義は、ごまめの歯ぎしりでしかない。
というわけで、今週から40年ぶりに柔道の稽古を始めた、ねずきちでした(*^▽^*)b
【出典・参照】
http://photo.jijisama.org/IHall.html
http://mirror.jijisama.org/kankoku_heigou2.htm#goumon
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/7398/higeki.htm
http://ameblo.jp/dreamtale/theme4-10004057437.html
笞刑に関する整理(四) ~韓国司法及監獄事務委託~
2007-08-23 22:00:00
テーマ:笞刑
さて、今日からは再び笞刑に関する整理に話を戻します。
ってことで、「韓国司法及監獄事務委託」のお話。
この話、元々は1907年(明治40年・光武11年)7月24日の所謂『第三次日韓協約』とその『覚書』が基本になっています。
っつうか、あまりに当たり前過ぎて、これまでウチのブログでちゃんと取り上げて無ぇ・・・。(笑)
ま、取りあえず条文は東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室の『日韓協約』の部分でもご覧になって下さい。
で、その流れを受けて、1909年(明治42年・隆煕3年)7月12日の覚書によって、韓国の司法と監獄事務が日本に委託される事になります。
そんでは、アジア歴史資料センターの『枢密院文書・議事・明治二十一年~昭和四十五年/七十七 日韓覚書(司法監獄)報告ノ件附覚書写(レファレンスコード:A06050090200)』の5画像目から。
覚書
日本国政府及韓国政府は、韓国司法及監獄事務を改善して韓国臣民并に在韓国外国臣民及人民の生命財産の保護を確実にするの目的と、韓国財政の基礎を鞏固にするの目的を以て、左の条款を約定せり。
第1条
韓国の司法及監獄事務の完備したることを認むる時迄、韓国政府は司法及監獄事務を日本国政府に委托すること。
第2条
日本国政府は、一定の資格を有する日本人及韓国人を在韓国日本裁判所及監獄の官吏に任用すること。
第3条
在韓国日本裁判所は、協約又は法令に特別の規定あるものの外、韓国臣民に対しては韓国法規を適用すること。
第4条
韓国地方官庁及公吏は、各其の職務に応じ、司法及監獄の事務に付在韓国日本当該官庁の指揮命令を受け、又は其の補助を為すこと。
第5条
日本国政府は、韓国の司法及監獄に関する一切の経費を負担すること。
右各其の本国政府の委任を承け、覚書日韓文各2通を作り之を交換し、後日の証とする為記名調印するものなり
明治42年7月12日
統監子爵 曽禰荒助
隆煕3年7月12日
内閣総理大臣 李完用
まずは前文。
韓国の司法と監獄事務を改善して、韓国臣民と在韓外国臣民と人民の生命財産の保護を確実にする目的と、韓国財政の基礎を強固にする目的から、左の條款を約定する、と。
在韓外国人について、政体によって「臣民」と「人民」が呼び分けられてるんでしょうね。
第1条は、韓国の司法事務と監獄事務が完備したと認められるまで、韓国政府は司法と監獄事務を日本国政府に委託する、と。
wikipediaの第三次日韓協約の項なんかを見ても、「また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。」なんて書かれてますが、これは厳密に言えば間違いで、実質的な掌握はしているものの、委任されたのは今回の「覚書」以降ということになります。
1909年10月まで法部大臣は居ますしね。
ま、どっちにしろ「韓国の司法事務と監獄事務が完備したと認められる」前に併合になっちゃうんですが。
で、第2条では、日本国政府は一定の資格を有する日本人か韓国人を、在韓国の日本裁判所及び監獄の官吏に任用すること、と。
司法事務と監獄事務が委託されましたので、任用も日本政府が行い、施設は在韓国「日本」裁判所及び監獄という括りになるわけです。
第3条が今回のポイントですね。
「在韓国日本裁判所は、協約又は法令に特別の規定あるものの外、韓国臣民に対しては韓国法規を適用すること。」、と。
ここで、日本への司法権委任後も、韓国人には刑法大全を始めとする韓国法規が適用されることが謳われるわけです。
第4条。
勿論、司法権が委任されたと言っても、単独では執行していくことは不可能なわけで、韓国政府側の協力が必要となりますね。
ってことで、韓国の地方官庁や公吏は、それぞれの職務に応じて司法・監獄事務に関して在韓国日本当該官庁の指揮命令を受けたり、補助すること、と。
最後の第5条では、前文の「韓国財政の基礎を鞏固にするの目的」も踏まえて、韓国の司法及び監獄に関する一切の経費は日本政府側の負担、と。
「韓国軍解散(二)」のときに、韓国軍解散詔勅にも触れました。
「朕惟ふに、国事多難なる時に値り、極めて冗費を節略し、利用厚生の業に応用するは今日の急務なり。窃に惟ふに、我現在軍隊は傭兵を以て組織せるが故に、未だ以て上下一致、国家完全の防衛と為すに足らず。」という、要するに歳出削減しなきゃ駄目なんだから、居ても無駄なだけの旧式軍隊を飼ってる暇は無ぇという、ある意味酷い詔勅なわけですが、これを司法制度に当てはめれば、「朕惟ふに、国事多難なる時に値り、極めて冗費を節略し、利用厚生の業に応用するは今日の急務なり。窃に惟ふに、我現在司法制度は前近代的であるが故に、未だ以て治外法権の撤廃を為すに足らず。」ってとこかな。(笑)
ついでですんで、ここでこの覚書に関して、当時の韓国統監であった伊藤博文の具状を見てみましょう。
アジア歴史資料センターの『公文別録・韓国併合ニ関スル書類・明治四十二年~明治四十三年・第一巻・明治四十二年~明治四十三年/韓国司法事務ノ委托〇監獄事務ノ委托〇司法及監獄事務費ノ負担ニ付公爵伊藤博文具状ノ件(レファレンスコード:A03023677200)』の5画像目より。
韓国財政及経済上の状況を熟察するに、全然帝国政府の補助を要せざる時期に到達するには、尚ほ数多の歳月を要すべし。
然らば、両国の為め最有益なりと認むる事項に付、年々相当の補助を為すの外なし。
即ち、両国将来の便宜し、慮り、彼に在て為し得べからざる事項を我に委托せしめ、我に於ても亦彼を保護するに必要なる責務を負担することとし、我力の及ぶ限りを盡して以て扶植誘発の途を講ぜざるべからず。
左に此見地に基き、愚見を披瀝すると共に、別紙協約案を起草し、敢て廟議の採納を乞はんとす。
一 司法事務の委托
韓国保護政策を貫徹し、其効力を普及せんと欲せば、到底治外法権を撤去せざるべからず。
然らば、今日の急務は韓国の司法事務を改良し、先づ韓国臣民及在韓外国人の生命財産の保護を確実にするの方法を講じ、以て条約改正の準備に供せざるべからず。
然るに、韓国に在て積年政治紊乱の主因たる法治の欠点を補はんが為めには、一面法官を養成し、一面国民の法治的習慣を馴致せざるべからずと雖、是一朝一夕の能くする所に非らず、■くも一生期の歳月を俟たざるべからず。
然るに、韓国統治上の一大障礙たる治外法権の撤去を数十年間遷延し、之を等閑に付せば、或は形勢の変移に依り、終に其の目的を達し能はざるに至るやも未だ■■るべからず。
故に、寧ろ今日に於て司法に関する事務を挙て、韓国政府より帝国政府に委托せしめ、純然たる帝国政府の責務として、着々之が改善を図り、一日も速に条約改正の準備を完成せざるべからず。
二 監獄事務の委托
司法事務の改善、予期の如く成功すと雖、監獄の制度之に伴って完備するに非ざれば、未だ以て文明国民をして甘じて韓国に於ける日本の裁判に服従せしむるに足らず。
故に、所謂画龍不点晴の憾なからしめんと欲せば、監獄事務の委托は、我に於て啻に不得已のみならず、寧ろ当然の要求と云はざるを得ず。
三 司法監獄事務費の負担
去る明治40年度以来、帝国政府は6ヶ年に亘り金1,960余万円(内、経常費に属するもの初年度に於て150万円、次年度より年々300万円、臨時費に属するもの最初3年間に合計310余万円)を韓国政府に無利息無期限にて貸与す。
是れ、韓国財政の現状に顧み、保護の目的を達する上に於て実に不得已に出づ。
而して、其貸借の形式を採れるは、単に手続上の便宜に基くが為めにして、事実は即ち同国政府に対する交付金に外ならず。
而して、此貸与金は、明治45年度に至れば契約の期限に達すべしと雖、韓国財政・経済の状況は、今後暫くは到底我補助金を全廃する能はざるが故に、結局補助の必要ありとせば、寧ろ進で本協約に依て帝国政府に委托せしめたる司法監獄に関する経費を帝国自ら負担し、在韓国の裁判所を名実共に日本裁判所と為すに如かず。
韓国の現状を見れば、日本の援助無しにやっていくには、更に相当の歳月を要するという前提で、司法事務の委託と監獄事務の委託と、それら経費に関する意見。
つうか、「彼に在て為し得べからざる事項」って。(笑)
司法事務については、治外法権の撤廃を主眼に司法事務の改良を訴え、法官の養成と国民に法治的な習慣を身につけさせる事を指摘し、でもそれには長い年月がかかる。
しかし、そんなに長い期間かけれないから、寧ろ司法事務を日本に委託させて、日本の責務として改善して、一日も早い条約改正の準備を完成させなければならない、と。
で、監獄事務については、司法事務が改善したとしても監獄制度が伴っていなければ意味無いわけで、やむを得ないというより当然の話、と。
最後に、日本は明治40年から6ヶ年にわたって1,960万円あまりを韓国政府に無利息無期限で貸与してる。
これは手続きの便宜上賃借の形式を採ってるけど、実際には韓国政府に対する交付金だ、と。
で、明治40年から6年間ですので、明治45年になればその期限になるわけだけど、現状の韓国財政や経済の状況じゃ、補助金打ち切るのは無理なわけで、結局補助の必要があるなら、日本に委託しさせた司法監獄に関する経費は日本が負担し、在韓国の裁判所を日本裁判所にしちゃった方が良いでそ、と。
ま、この史料はこの史料で、他との関連で結構面白い史料なんですが、取りあえず今回御紹介しておきます。
兎も角、こうして司法・監獄事務が委託され、韓国人には刑法大全を始めとする韓国法規が適用される事になったわけですね。
おまけのせいで長くなりましたが、今日はここまで。
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2230 併合前の記憶を忘れた韓国人 pinknohat 2010/01/13 472 1
拷問大好き朝鮮民族。
両班の趣味である拷問の伝統を展示したものがこのソウル西大門刑務所。
朝鮮伝統の拷問道具。
拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。
そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアピールしている。
また、ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難している。
その一部を示す。
地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。
部屋には明かりもなく通風窓もなかった。
ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。
そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。
手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。
男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。
彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。
彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。
しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。
朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。
1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。
第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。
この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、
遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。
それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。
赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1
監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。
又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2
朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。
朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。
この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。
1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。
執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3
次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。
シャルル・ダレ
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。
殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。
一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、
「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。
守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。
「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。
2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって
「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。
その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。
伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。
この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。
当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。
しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。
さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4
朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。
朝鮮伝統の骨折させる拷問方法。(日本には無い)
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