조선과 그 이웃 나라들
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2009.08.09 Sunday
0908bird-chousen.jpg 今日はイザベラ・バード著「朝鮮紀行—英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けします。
まだ読んでいる途中なんですが、すでに付箋いっぱい(^^ゞ。たぶんシリーズ化すると思います。
引用を始める前に、いくつか補足を。
まずはこちらの写真をご覧下さい。クリックすると新規画面で拡大します。
0908bird-soul.jpeg
これは「朝鮮紀行」73ページに掲載されている写真です。
キャプションには【ソウル、《南通り》[南大門路]】とあります。
この写真、朝鮮史関連のサイトをよく回られている方でしたら、一度はご覧になったことがあると思います。
たとえばこちらのHPにも掲載されています(上から2つ目)。
このソウルの写真が長年私の記憶にずっとあったんですが、今回「朝鮮紀行」のソウルの町並みに関する記述を読んでみて、まさに写真通りだったんだなと再確認できた思いです。
「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性です。
1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。当時60代。パワフルですねー(≧∇≦)
当時の朝鮮は開国直後でした。
バードが最初に朝鮮入りした1894年の8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
3分の2ほど読み進めたところでの印象は、バードは朝鮮や朝鮮人に対してかなり辛辣な筆致です。もちろん良い面についても少しは記述していますので、そのへんも含めて引用したいと思います。
また、日本がこの時代、朝鮮に大きく関わっていたこともあり、日本や日本人に関する記述もよく登場します。全体的に評価した記述が多いのですが、政治絡みでは批判的な記述もかなり出てきます。
閔妃殺害事件では特にその傾向が強いです。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したと思われます(当時の外国人旅行者の中でもとりわけバードは閔妃に信頼されていたようです)。
他に、バードの記述には西洋的あるいはキリスト教的な価値観による偏見めいた箇所、もっとありていに言えば「東洋を下に見た」箇所も多少ありますが、まあ当時としては仕方のないことでしょう。これは「朝鮮紀行」だけでなく「日本紀行」*1にも当てはまることです。
*1 バードは日本も旅行しています。1878年(明治11年)のことです。日本での体験を記した著書は1880年(明治13年)に出版されています。全訳版は現在日本でも読むことができ、講談社学術文庫から「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」として出版されています。この中身については拙ブログの「外国人から見た日本と日本人」シリーズ(現時点での最新エントリーこちら)で断続的に紹介しています。
基本的に朝鮮で見聞きしたこと、感じたことを素直に書いているなという印象ですが、それにしてはバードは当時の政治的状況なんかもよく把握しています。
まえがきで「協力をいただいた朝鮮在住の友人たち」が紹介されており、その中に駐朝イギリス総領事ウォルター・C・ヒリアー卿、朝鮮税関長J・マクレヴィ・ブラウン氏、ロシア公使ウェーベル氏などの名前があるので、おそらくはこういった筋から情報をもらったのだろうと推測します(もちろんバード自身が帰国後に当時の情勢を調べて記した部分もあるでしょうが)。
前置きが大変長くなりました。
以下、イザベラ・バード「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居〈ちっきょ〉しており、きわめて劣った地位にある。(p.25)
●朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。とはいえそれは一〇〇〇年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文〈オンムン〉[ハングル]は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。もともと諺文は女性、子供、無学な者のみに用いられていたが、一八九五年一月、それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ、新しい門出となった。これは重要な部分を漢字であらわしそれをかなでつなぐ日本の文章の書き方と似ている。(p.32-33)
●開国の一〇年前に朝鮮国王は宗主国である清の皇帝に対し「教育ある者は孔子と文王の教えを守り実践している」と書き送っているが、このことこそ朝鮮を正しく評価するための鍵である。政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。日清戦争以降朝鮮人は清に援助を期待するのはやめたとはいえ、清に対しては好感をいだいており、崇高な理想や尊ぶべき伝統、道徳的な教えを清に求めている。朝鮮人の文字、迷信、教育制度、祖先崇拝、文化、考え方は中国式である。社会は儒教を規範とした構造をとっており、子供に対する親の権利や弟に対する兄の権利は清においてと同じく一〇〇パーセント認められている。
このように旧態依然とした状況、言語に絶する陳腐さ、救いがたくまた革新のないオリエンタリズムの横溢する国に、本家には国をまとめる民族の強靭さがあるのに、それを持たない清のパロディたる国に、西洋による感化という動揺がもたらされたのである。(p.34)
●釜山の居留地はどの点から見ても日本である。五五〇八人という在留日本人の人口に加え、日本人漁師八〇〇〇人という水上生活者の人口がある。日本の総領事は瀟洒〈しょうしゃ〉な西洋館に住んでいる。銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行われている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒造、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った。(p.39)
●朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。平均身長は五フィート四・五インチであるものの、ゆったりした白服がそれよりも高く見せ、山の高い帽子をいつも忘れずかぶっているのでさらに高く見える。(p.40)
●(釜山の)旧市街はみすぼらしいところだとわたしは思ったが、朝鮮の一般的な町のみすぼらしさはこの町と似たり寄ったりであることをのちの体験で知った。狭くて汚い通りを形づくるのは、骨組みに土を塗って建てた低いあばら屋である。窓がなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり、個体および液体の汚物やごみがたまっている。疥癬〈かいせん〉で毛の抜けた犬や、目がただれ、ほこりでまだらになった半裸や素裸の子供たちが、あたりに充満する悪臭にはまったくおかまいなしに、厚い土ぼこりや泥のなかで転がりまわったり、日なたで息を切らせたり、まばたきしている。(p.41)
●一年後に会ったとき、三人(引用者注:朝鮮にキリスト教の伝道に来ていたバードの友人のオーストラリア人女性たち)は相変わらず元気で幸せそうだった。東学〈トンハク〉党の乱や日清戦争が引き起こした朝鮮人のあいだの動揺も、戦争そのものも、三人には外界のできごとだった。日本軍が近くに野営しており、許可を得てこの長屋の井戸を使っていたが、兵隊の態度はいつも丁重だった。(p.43-44)
●日本人居留地はこれ(引用者注:清国人居留地)よりはるかに人口も多く、街も広くてもったいぶっている。領事館は公館としては充分に立派である。街には小さな商店のならぶ通りが何本かあるが、扱っている商品はおもに自国の人々の需要を満たすものである。というのも外国人はアー・ウォングとイータイ(引用者注:清式の旅館「スチュワーズ」の支配人)をひいきにしており、三世紀にわたる[豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の]憎悪をいだいている朝鮮人は日本人が大嫌いで、おもに清国人と取り引きしているからである。しかし貿易では清国人に凌駕されてはいるものの、朝鮮における日本人の立場は、日清戦争前ですら影響力のあるものであった。(p.47-48)
●読者は済物浦〈チエムルポ〉(引用者注:ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)には朝鮮人はいないのだろうかと疑問に思われるかもしれない。彼らはあまり重要でなく、わたしもつい忘れてしまうところだった。増えつつある現地の人々の街はソウルに通じる道路が貫いている日本人居留地の外側にあり、英国教会の建っている丘のふもとに丸く集まっていて、さらに丘の中腹に散らばっている。岩棚ごとにそこから生えたような土壁の小屋があり、不潔な路地でつながっている。路地には汚い身なりのおとなしい子供たちが群がり、父親たちのふがいなさのむこうを張るように街道を眺めている。朝鮮的といえば、丘の頂上にある役所も朝鮮的である。朝鮮人には独特の処罰方法があって、役所の雑卒が容赦のない笞打〈むちう〉ちを行い、罪人を死ぬほど打ちすえる。罪人が苦痛に叫ぶ声は近くのイギリス伝道館の中にまで聞こえてくる。朝鮮にも収賄と汚職はあり、ここばかりではなくほとんどどこの官庁も不正で腐敗している。(p.49-50)
●景観は緑が少なく単調である。果樹とひょろひょろの松以外に樹木はない。姿形の美しさもまったくなければ、景色になんらかの風格を与えてくれる門や塀といった排他のしるしもなにひとつない。こういったところがわたしの受けた第一印象だった。しかしのちの旅行でわたしは、朝鮮の冬独特の澄んだ光を浴びたとき、この道から眺めた景色にさえ、思い返してもうれしくなるほどの美しさと魅力があるのを知るようになった。またソウルの場合、一種ふしぎな趣という点では他のどの首都と比べても優劣つけがたい。ただし、どこにでもしゃしゃり出てくる土ぼこりを大きな特徴のひとつとするそのオリエンタリズムは、急速に地表から失われつつある。(p.52-53)
●わたしは昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、ことばにならないみすぼらしさと色褪せた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点ではほかに比類のない中世風の行列、人で込んだ路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押しよせる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みを知っている。が、人ははじめからそのように「呑みこめる」ものではない。一年かけてつき合ったのち、わたしはこの都を評価するにいたった。すなわち、推定人口二五万のこの都市が世界有数の首都に値すること、これほど周囲の美しさに恵まれた首都はまれなことを充分に悟ったのである。(p.55)
●城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興〈シャオシン〉へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのだから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬〈かいせん〉持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしている。(p.58-59)
●南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には茶屋、劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ五〇〇〇人の日本人居留地がある。ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。女は顔を隠していないし、着物に下駄ばきの人々は日本と同じように自由に動きまわっている。ここではまた下っぱの兵士や憲兵、それにスマートな帯剣の将校も見られる。将校は一定間隔で警備を交代するが、朝鮮では反日感情が根づよいためこのような警戒が必要で、日本公使館員が戦いをまじえつつ海まで逃げざるをえなかったことが二度あった。(p.64)
●ソウルの「風光」のひとつは小川というか下水というか水路である。ふたのない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した排泄物やごみのあいだを、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物をひしゃくで手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯をしている貧困層の女性の姿に、男ばかりの群衆を見飽きた目もあるいは生気を取りもどすかもしれない。これはソウルに特有であるが、女性たちは一様に緑の絹のコート——男物のコート——を着ており、「衿」を頭にかぶって目の下で押さえ、耳のところから幅広の長い袖をたらしている。朝鮮の女性はあだっぽい美女ではないので、顔や体を隠すのはむしろけっこうなことである。(p.65-66)
●路地は疥癬〈かいせん〉持ちの犬の天国である。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。(p.67-68)
●イギリスを発つ前に朝鮮から届いた手紙で、わたしは、朝鮮国内を旅行するのは容易ではない、信頼できる従者を探すのはむずかしいし、信頼できる通訳となるとまず見つからないと知らされていた。((中略))何人もの候補者にわたしは面接した。全員英語はあやふやで、態度はおどおどして煮え切らず、使いものになりそうになかった。旅に同行する意欲充分の候補者もいてなかば契約しかけても、翌日になるとばつが悪そうに椅子のはじでもじもじしながら、母親からむこうにはトラがいるから行くなと言われたとか、三カ月の旅行は長すぎるとか、家からあまり遠くは離れられないとか言う。ようやくこの程度ならと思える英語のできる若い男があらわれたものの、この男は場馴れしたようすで会釈して部屋に入ってくるや、安楽椅子にどっかと腰を下ろし、アームにかけた足をぶらぶらさせたものである!彼は旅についていろいろ質問し、ソウルを離れるのは長期になりそうだから、荷物を運ぶのと自分が乗るのにそれぞれ馬が一頭ずつ必要だと言った。わたしは、旅のわずらわしさを解消するには荷物を極力制限しなければならないと答えた。この男は最低九組の着替えを持たなければ、旅行には出られないという!外国人は二組しか持っていかないものだし、わたしも二組に減らすつもりだと述べると、この男は「ええ、でも外国人は不潔ですからね」と答えた。朝鮮人がこのようなことを言おうとは!そこでわたしはいましばらくソウルに落ち着いて友人たちの世話になり、事態が「好転する」のを信じるしかなかった。(p.70-71)
●この国に典型的庶民生活があるとすれば、それは首都にしか存在しない。イギリスの農業地帯ではロンドン志向がつよいが、朝鮮ではソウル志向がそれよりもつよい。ソウルは中央政府の所在地であるばかりでなく、官僚の生活の中心地でもある。官職いっさいの中央であり、官職に就く唯一の道である文官試験の行われる場所なのである。ソウルに行けばなにかに「ありつけるかもしれない」という期待がつねにある。したがってソウルをめざす風潮は、恒常的なものにしても一時的なものにしてもたえずあり、午後の日和のなか、両班〈ヤンバン〉の歩きぶりをまねつつ広い通りをぶらぶらしている若者の大部分は、是が非でも官職に就きたくてたまらないのである。世論などないとはいえ、流行が世論のごとく見なされる現象はソウルにしか見られない。(p.84)
●ソウルに住む人々はその生活程度を問わず、たとえ数週間でもそこを離れるなど金をもらってもいやだと考える。朝鮮人にとって、ソウルは生活するに値する唯一の場所なのである。とはいえ、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、コドゥン[行幸](引用者注:国王と従者、官僚、兵士らが町中を行進する儀式)というまれな例外をのぞいて、見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない!(p.85)
●清国と同じように孔子廟とその教えを記した碑があるのはべつにして、ソウルには公認の寺院がひとつもなく、また僧侶が城内にはいれば死刑に処せられかねなかったので、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物のあたえる迫力がここにはない。《南大門》外に軍神をまつった小さな堂があり、とてもめずらしいフレスコ画が描かれているが、参拝者に出会ったことはめったになかった。寺院がないのは朝鮮の他の都市の特徴でもある。仏教は李王朝が創建される以前、千年にわたり大衆に好まれた宗教だったが、一六世紀以来「廃止」されており、実質的に禁止されてしまった。聖職者に対して過酷な法律が制定されたのは、三世紀前に日本が侵略してきたとき、日本人が仏教僧に変装して都に入る許可をもらい、守備隊を虐殺したからだと朝鮮人はいう。*1 その真偽はいずれにせよ、朝鮮ではよほど探さなければ仏教の形跡は見つけられない。(p.85-86)
*1 引用者注:Wikipediaによれば、李氏朝鮮時代(1392-)に入ると儒教が国教となったため、仏教は徹底的に弾圧。第4代の世宗の時代(在位1418-1450)までに仏教の勢力は著しく衰退。以降、朝鮮王朝末期まで強い迫害を受けた、とある。
またこちらのサイトによれば、仏教僧がソウルへの出入りを禁止されたのは第11代の中宗(在位1506-44)の時代であり(入れたのは土木工事で使役される際のみ)、秀吉の朝鮮出兵(1592-1598)より明らかに前である。が、朝鮮人が主張するところのこの種の話(「昔、日本人に○○を盗まれた」という種の明らかな言いがかり)は「朝鮮紀行」には幾度となく登場する。
●朝鮮が宗教を持たず、外国人からもたらされた宗教をいそいそと受け入れる国だという考えは捨てるべきである。朝鮮人の受け入れる宗教は、努力せずに金を得る方法を教えてくれる宗教である。無関心がはなはだしく、宗教的機能が欠如しており、興味をそそられる宗教理念が皆無で、孔子の道徳的な教えはどの階級にもたいして影響をおよぼしていない。朝鮮人に言わせれば、自分たちは宗教がなくともとてもうまくやってきたのだから、宗教などにわずらわされたくない、とくにこの世でなにもしてくれないくせに束縛と犠牲をしいる宗教なんぞでわずらわされるのはまっぴらだというわけである。(p.91-92)
●通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称三二〇〇枚で一ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。一〇〇円分の穴あき銭を運ぶには六人の男か朝鮮馬一頭がいる。たった一〇ポンドなのにである!(p.93-94)
●舟の乗組員は、舟の持ち主であるキムとその「雇い人」のふたりだった。キムは背が高く屈強で、貴族的な風貌の絵になる老人で、雇い主は口をきくのを二度しか耳にしたことがない。二度ともひどく酔っぱらったときで、そのときはたいへんな饒舌ぶりを発揮した。概してふたりは折り目正しくもの静かだった。わたしは四六時中ふたりのすぐそばにいたわけであるが、一度として彼らのふるまいにいやな思いをしたことがない。キムは舟の借り賃として月に三〇ドル支払っていたが、彼のものぐさぶりはみごとだった。のらりくらりすごす、舟は遅く出し早めにつなぐ、のろのろ進む、櫓なり棹を使うときは労力を最小限に抑える。これがキムのポリシーなのである。一時間棹を動かしたら舟をつないでたばこを一服、ときには半日かけて米を買う、疲労困憊〈こんぱい〉のふりをして雇い主の感受性に訴える、不精者のよく口にする言い逃れをことごとく用いる。これがキムの習性なのである。契約では三人雇うことになっていたが、キムはひとりしか連れてこず、曖昧な弁解でごまかした。しかしせめてこれくらいは悪く言わせてもらいたい。なにしろ彼らは一日に一〇マイル以上進んだことがなく、七マイルしか行かないこともしばしばで、激しい早瀬に来るといつも引き返したがったのである。(p.99)
●漢江沿いの山々には、ヒョウ、カモシカ、数種のシカが見られる。傑出したものはここでもやはり朝鮮全国の例にもれず、トラである。最初わたしはトラとその略奪行為についてはたいへん懐疑的だった。((中略))けれどもトラにまつわるうわさ話はたえず耳に入るし、村人たちのこわがりようをこの目で見たり、馬夫〈マブ〉[馬丁]やクーリーから暗くなって旅するのを拒否されたり、またたしかに最近数カ所で人や家畜がいなくなったこと、元山〈ウオンサン〉のこぎれいな地域においてさえ、わたしの到着する前の日に少年と幼児がさらわれ、町を見下ろす山の斜面で食べられてしまったことから、わたしも信じざるをえなくなった。(p.103)
●貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくない。自分たちばかりか、朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めてくる、だれもかれもを満たせるだけの生活必需品はある。負債はおそらく全員がかかえている。借金という重荷を背負っていない朝鮮人はまったくまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資に貧窮しているのである。彼らは怠惰に見える。わたしも当時はそう思っていた。しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」とうわさされた者、たとえそれが真鍮〈しんちゅう〉の食器で食事をとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流された者は、強欲な官吏とその配下に目をつけられたり、近くの両班から借金を申しこまれたりするのがおちなのである。とはいえ、漢江流域の家々はかなり快適そうなたたずまいを見せていた。(p.110)
●小集落はべつとして、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校といっても私塾である。家々でお金を出しあって教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。諺文〈オンムン〉[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、わたしの観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。(p.111)
●(舟の持ち主である)キムのなまけ癖と言い逃れのうまさ、激しくはないものの頻繁にあらわれる早瀬、それにどうしても必要な食料探し——こういったもののおかげで舟の進み具合はのろく、旅に出てはじめのちょっとした町であり、亡き王妃の生誕地でもある驪州〈ヨジュ〉に着くのに四月一九日までかかった。わたしにとって驪州は、敵意はないものの騒々しくて不愉快な群衆に囲まれたはじめての場所として忘れられない。「見せ物」になりながら、それがなんの益にもならないのは屈辱的なことである!だれにもじゃまされずにプリズムコンパスを使えないものかと河のなかの岩まで行けば、あやうく水中へ突き落とされそうになるし、門楼に入れば、よく見える場所という場所にどやどやと野次馬がのぼってきてコンパスを激しく動かすので、精巧に平衡のとってある針はいっこうにじっとしない。人々は汚く、通りは臭くてさびれており、しかも最悪なのは役所で、機会があってそこへ行ったものの、慇懃〈いんぎん〉な応対すら得られないほど関子〈クワンジャ〉*2にはなんの効力もないことがわかった。(p.119)
*2 関子〈クワンジャ〉=「旅行者は領事館を通して外務省から関子という全国の政府役所に宛てた書状がもらえる。これをたずさえた者は手厚く世話せよ、とくに食べ物、交通、金銭の面倒を見よという書状である。しかし旅行者がソウルできちんと金を払い込んでいるのに、下級官吏が外国人の金銭を立て替えても、政府から返してもらえないことがままあり、この制度は官吏にとってきわめて不愉快なもので、わたし(バード)は金銭のためにはこれを利用しないとイギリス領事に約束した」(p.94)
●(驪州の役所について)庁舎は場所もすばらしく、王室の使う構えも大きくて装飾も多い建物をその敷地内に擁していながら、子供たちの遊び場に使われており、廃屋のようなありさまだった。木造部はくずれ、梁や棟は落ち、塗料ははげ、戸にはった紙は破れてはためき、すすけた壁からは石膏がたれさがり、かつては立派だった門楼も欠けた脚部の上に立っている。中庭の敷石はあるものは沈下し、あるものは浮き上がり、ブタクサとペンペングサがそのすきまにふてぶてしく生えている。貧困と投げやりと憂鬱が極度にはびこっていた。門内には朝鮮の庶民の生き血をすする者たちがおおぜいいる。チロリアンハットに青色の多い粗織り綿の制服を着た兵士、わんさといる雑卒、書記、警官、送達吏がただいま仕事中のふりをしているし、数ある小部屋ではさらに多くの男たちがすずりや筆をそばにおいて床にすわり、長いキセルでたばこを吸っている。(p.119)
●(前項のつづき)お世辞にも礼儀正しいとはいえない吏員がわたしの関子を受け取り、きわめて不作法にわたしたちを二室ある小部屋のほうへ案内した。そのうち内側にある部屋で地方長官は床にすわり、年長の人々が何人かそのまわりにいた。わたしたちはふたつの部屋のあいだにある入口にとどまるよう指示された。うしろには野次馬がぎっしりつめかけている。わたしは深々とおじぎをした。なんの関心も払われなかった。従者のひとりが長官にキセルをさしだし、自分では火もつけられないほど長いその着せるで長官はたばこを吸った。ミラー氏(引用者注:バードと共に旅行している若い宣教師)がご機嫌うるわしく存じますとあいさつした。返事はなく、視線が彼のほうに向く気配もまるでなかった。ミラー氏がこの町周辺のことで少し情報がほしいと、訪問の目的を告げたが、簡略きわまりない返事がひと言あっただけで、長官は部下のひとりのほうを向いて話しはじめた。そして粗野な意見がめぐるなかで、わたしたちは一般的ないとま乞いのあいさつを朝鮮語で述べて退出した。むこうからあいさつは返ってこなかった。(p.119-120)
●(前項のつづき)驪州には「名門両班」が多いと聞いており、また戸数たった七〇〇の町の長官が高位の者であるはずはなさそうだった。うわさでは、長官が地元に帰ってくると、まわりは彼に「ぞんざいなことば遣い」で話し、目下扱いをしてあれこれ指図する。したがって彼はおもにソウルに住み、廃屋化した広大で凝った造りの庁舎でふんぞり返っている男が代わりに仕事を行い、官職の役得を仲間に割りあてる。好き勝手にやられても、「両班」はまるであずかり知らないのである。しかしこれはここに限ったことではない。漢江沿いの郡守はほとんどすべてがおもに不在地主で、彼らは時間も俸給も搾り取った年貢も首都で使う。わたしはほかにも三人の郡守から同じような応対を受けた。三円を穴あき銭に両替してほしいと頼んだだけであったが、そのたびに金庫は空っぽだと断られた。わたしの関子は外務省発行のもったいぶった文書であるものの、用途は両替のみで、これがあればこそ、鶏をなかなか売ってはもらえない町でも高値で買えるのである!(p.120)
_________________________「朝鮮紀行」引用ここまで
李朝末期の朝鮮については、イザベラ・バード以外にも様々な外国人が一様に、その貧しさや民度の低さを指摘しています。
たとえば——
「朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に二度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の六、七月、次いで粟類の取り入れ前の九、一〇月である。(中略)彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である」(フランス人宣教師、シャルル・ダレ著「朝鮮事情」)
「朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞の外で夜を過ごすことは大変危険だった。城塞の外には人命をハエの命ほどにも思わぬ山賊やならず者で溢れていた」(スウェーデンのジャーナリスト、アーソン・グレイブスト著「悲劇の朝鮮」)
皆さんご承知の通り、朝鮮半島の歴代王朝はずっと支那の「属国」でした。
そして19世紀以降アジア諸国はほとんどが欧米列強の植民地に転落し、朝鮮の宗主国の清国でさえアヘン戦争後にはイギリスの半植民地状態に陥っていました。
日本にとって当時最大の脅威は南下政策を進めていたロシアでした。安全保障の観点から、日本は朝鮮が支那から独立して近代国家になることを望んでいました。
が、朝鮮は「小中華」から脱却しようとせず、またロシアの脅威にも気付きませんでした。
「朝鮮紀行」の序文は、1897年(明治30年)10月付で駐朝イギリス総領事のウォルター・C・ヒリアーという人が書いているのですが、そこにこのような記述があります。
「朝鮮についていくらかでもご存じのすべての人々にとって、現在朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗しきった行政という重荷に朝鮮はあえぎつづけている。かつては清が、どの属国に対しても現地の利害には素知らぬ顔の態度をくずさぬまま、助言者と指導者としての役割を担っていたが、清国軍が朝鮮から撤退後は日本がその役目を請け負った。最も顕著な悪弊を改革する日本の努力は、いくぶん乱暴に行われはしたものの、真摯であったことはまちがいない」
その後、文章はこう続きます。
「日本の着手した仕事は状況の趨勢からロシアが引き継がざるをえなくなり、恐怖に駆られた国王は、国王にあらずとも強靭果敢な人間が充分におびえかねないテロ行為からの救出をロシア公使に訴えた」
「ロシア公使の誠意ある支援と協力のおかげでなしえた改革もある。とはいえ、依然手をつけられていない問題も多い。発展をめざした前進——公正を期すためにいま一度繰り返すが、始動させたのは日本である」
このようにヒリアーは朝鮮が他国の保護状態におかれることが絶対的に必要であると述べ、日本が果たした役割もそれなりに評価しています。
こうした評価はバード自身も行っています。彼女は「朝鮮紀行」の最終章で以下のように記しています。
「朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない」
「日本がたいへんなエネルギーをもって改革事業に取りかかったこと、そして新体制を導入すべく日本が主張した提案は特権と大権の核心に切りこんで身分社会に大変革を起こした」
「一年有余、失敗はままあったにもかかわらず日本は前進をつづけ、有益かつ重要な改正を何件かなしとげ、またその他の改革を始動させた」
「朝鮮がひとり立ちをするのはむりで、共同保護というようなきわめてむずかしい解決策でもとられないかぎり、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない」
19世紀末の朝鮮は官僚システムが腐敗しきっており、さりとて自浄能力もなく、また王室も意志の弱い高宗(国王)のもと、大院君(国王の父)と閔妃(国王の妃)一族との間で権力闘争が絶えず、さらに先ほど述べたように宗主国である清の衰えも明らかでした。
まさに崩壊寸前の状況だったのです。
ですから、バードやヒリアーのような見解は当時の外国人にとっては共通の認識だったと言えるでしょう。
朝鮮民族にとっては今でも絶対に認めたくないことでしょうが。
……というわけで、第2弾につづく!?……
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2009.09.13 Sunday
イザベラ・バード著「朝鮮紀行—英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第2弾です。
※第1弾はこちら。
8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
0908bird-chogori.jpeg これは「朝鮮紀行」158ページに掲載されている絵です(クリックすると新規画面で拡大します)。バードが撮影した写真をもとに画家が挿画用に描いたものです。
キャプションには【朝鮮の母親の衣装】とあります。いわゆる「乳出しチョゴリ」というやつでしょうか。
第1弾で掲載したソウルの「南大門路」の写真もそうでしたが、朝鮮史関連のサイトをよく回られている方でしたら、こういった朝鮮女性の衣装の写真や絵を一度はご覧になったことがあると思います。
——「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。当時60代。
当時の朝鮮は開国直後でした。
バードが最初に朝鮮入りした1894年の8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
その他詳細は第1弾の前書き及び後書きをご覧下さい。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●大きくてゆたかなたたずまいの川陽〈チヨニヤン〉の村で、わたしたちは村人から、「サーカス」があるから見にいこうと誘われた。行ってみて、場所が手入れもよく羽振りもよさそうなかわら屋根の大邸宅の中庭であると知り、引き返しかけたところへ、家にお入りくださいと心安く呼びかけられ、わたしは侍女たちに(文字どおり)捕まえられて、女たちの住まいのほうへ連れていかれた。わたしを取り巻いたのは、若いのもいれば年寄りもいて、妻もいれば妾も召使いもいるという四〇人は超しそうな女たちの集団で、だれもが晴れ着で装っていた。正妻はとても若く、インドかどこかの装身具をつけており、とても美人で、なんともいえずきめ細かな肌をしていた。が、四〇人を超すこの集団は、ひとり残らず礼儀に欠けていた。女たちはわたしの服を調べ、わたしを引っ張りまわし、帽子を取ってかぶり、髪をほどいてヘアピンを試し、手袋をはずさせてきゃあきゃあ笑いながらそれをはめた。そしてさんざんわたしをさかなにしておもしろがったあとその種も尽きると、自分たちの住まいを見せてもてなすことを思いつき、みんなしてかかえ上げんばかりの勢いでわたしに群がった。案内されたのは順につながった一四室ある部屋で、ほとんどどの部屋もせっかくのすらばらしい寄木張りの床が、ひどく醜いアニリン染めの「けばけばしく」て悪趣味なブラッセルカーペットで全面もしくは一部が覆われていた。安っぽい金ぴかの縁をした大きな鏡が淡い色合いの壁でぎらぎら輝き、フランス製の時計がどの部屋でも成り金的な趣味の悪さを発揮していた。(p.121-122)
●(前項のつづき)ホストは一八歳の若者で、朝鮮政府要人の長男である。((中略))この政府要人の息子はわたしのカメラの中を見たがり、写真を撮ってほしいと言った。そこでわたしたちは写真を撮るために、いまやたいへんな人数にまでふくれあがり、ますます不作法でうるさくなりつつあった野次馬を避けて屋敷の裏手におもむいた。わたしはホストの若者に朝鮮人の口には下品に見える外国製葉巻より、この国らしい長ギセルをくわえてもらった。ちょうどそのときホストの友人が何人かやってきた。その友人たち、つまりこの若者の取り巻きは、最近行われた試験で彼が優秀な成績をおさめたので祝宴を張っていたらしく、すぐさま出ていけと粗野なことば遣いでわたしたちを追い払おうとした。明らかに、礼儀を逸した好奇心が満たされたいまは、わたしたちがいることも、わたしたちが丁重にもてなされていることも彼らにはおもしろくないわけである。取り巻きのリーダーが荒っぽく話しかけると、ホストは政府首脳の息子であり、亡き王妃の近い親戚でもあるのに、わたしたちに背を向け、すごすごと自分の居室のほうへ引き上げてしまった。まさしく「捨てられたおもちゃ」となったわたしたちは、いくぶん屈辱的な思いで退去するしかなかった。(p.122-123)
●(前項のつづき)概して安ぴかの外国製品を大歓迎する風潮は、自由に使える金のある若い「名士」のあいだで急速に広まっている。彼らは朝鮮的な簡素さをばかにし、後輩たちにあくまでも自己本位でしかも度を越した乱費の手本を示しているのである。あちこちに庭のある邸宅は新しくて立派で、どこをとってもカネ、カネと叫んでいるようだった。わたしはよろこんで粗末な舟に帰り、「簡素な生活」に「高尚な思考」がうまくともなってくれればと願ったものである!(p.123)
●(漢江の湾曲部にできた平野のまん中に立つ粗く削った大石を積んだ石塔の近くで)何人もの男がひどく酔っぱらっており、過度に酒を飲むしきたりが多少なりとも目につかない日はほとんどなかった。舟乗りは夕方からの休息を大酒を飲んで祝い、わたしたちが舟をつなぐころになると岸に集まってくる人の群れは、必ずなかにひとりやふたりは酩酊して騒々しくふざける男がいて、いつもにぎやかだった。漢江遡行中とそのあとに観察したところによれば、酔っぱらいは朝鮮の大きな特徴であるといわざるをえない。そしてまた、酔っぱらっても恥ではない。正気を失うまで酒を飲んだとしても、粗野だとは見なされない。偉い高官が満腹するまで食事をとり、食事の終わったころには酔いつぶれて床に寝転がっていても、地位を失うことはなく、酔いが覚めれば、このような贅沢ができるほどゆとりがあるのはすばらしいと目下の者から賛辞を受けるのである。(p.125)
●清風(引用者注:町の名前)にかぎらずどこにおいても、一般庶民は、好奇心はすさまじいものの粗野ではなく、わたしたちが食事をするのを眺めるときでもたいがいある程度離れて見物していた。しかし庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い不作法な行為を何度も受けた。わたしの居室のカーテンを勝手に開けて中をのぞき、やめていただけないかと慇懃〈いんぎん〉に頼んでいる船頭に威嚇する者までいた。それとは逆に、無学な階層の男たちはこまやかな親切をさまざまな形でわたしたちに示し、早瀬でロープを引っ張るのをよく手伝ってもらった。(p.128)
●美しい地にあるパガミの村には、一本の柱にこう大書してある。「パガミを通る両班〈ヤンバン〉の従者は、礼儀正しく品行方正であれば問題ないが、素行が悪ければなぐられる」。なんと痛快な主張であることか! というのも、朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。パガミのはり札の意味もこれで説明がつくわけである。(p.137)
●非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎日笞〈むち〉で打たれる。あるいは捕らえられ、金が用意されるまでは両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである。(p.138)
●漢江を横切り、永春〈ヨンチユン〉の船着場に着いた。((中略))必ずしも礼儀をわきまえているとはいえない野次馬が郡庁までわたしたちのあとをついてきた。わたしは郡庁で金剛山〈クムガンサン〉へ行く内陸ルートの情報がすこしでも得られるのではないかと期待していた。郡庁構内へはいっていくと、下級官吏たちはとても横柄で、その無礼な応対ぶりをしばらくがまんしてようやくなかの部屋へ通された。そこには郡長代理が喫煙具をかたわらに、床にすわっていた。腹黒そうな、人をばかにしたような人相の男で、わたしたちのほうをちらりとも見ず、口をきいてくれたとしても部下を通して短い答えが返ってくるだけで、その間わたしたちは部屋の入口の前に、ついてきた群衆に押し倒されそうになりながら立たされたままである。東洋では内密に面談するということがめったにできない。わたしが朝鮮の役所を訪ねたのはこれが最後になった。(p.139-140)
●(郡庁から)町にもどるときも野次馬は文人階級の「名士」数人を先頭に、わたしたちにぴったりくっついてきた。若い男がひとり、わたしのうしろに来てくるぶしを蹴飛ばし、ちょっと下がる。そしてまた近づいてきて同じ動作を繰り返した。さらにもう一度蹴飛ばしかけたとき、ミラー氏(引用者注:バードと共に旅行している若い宣教師)がおもむろにうしろを向き、あわてず騒がずそのちんぴらの胸ぐらに的確な一撃をくらわせた。男はすっ飛び、道のそばの麦畑にひっくり返った。群衆はげらげら笑い、男の仲間がミラー氏に、どうかもうこれ以上手荒なまねはしないでくれと請うた。群衆は散り、ちんぴらはやはりちんぴらの例にもれず卑怯でずっとうしろに退いてしまい、わたしたちは渡し場まで気持ちよく散歩した。渡し場では渡し船のなかで長いこと待たねばならなかったものの、野次馬はおらず、船頭も乗客もきわめて礼儀正しくて親切だった。ミラー氏は手荒にふるまわざるをえなかったことを残念がっていた。たしかに私刑ではあったが、即決の処罰であり、まったく冷静に実行されたので健全な印象を与えたと思う。(p.140)
●このささやかな旅の素描は、旅の暗い部分が強調されることになりそうなので、朝鮮国内の旅行にはとても不快な面があること、「世界駆け足旅行家」にはまったく適さないこと、専門家ですら出発に大いに二の足を踏みかねないことがおわかりになろうかと思う。
わたしにとって朝鮮の宿で不快きわまりなかったのは、人々とくに女性の不作法でどうにも御しがたい物見高さだった。今回旅したどの地域でも人々はこれまで西洋の女を見たことがなく、わたしはそれ相応のいやな思いをした。四方巨里〈サバンコリ〉はその典型といえるかもしれない。(p.166)
●(前項のつづき)わたしの部屋は不潔で人のごった返している中庭をはさんで馬たちとは反対側にあった。((中略))わたしの部屋には紙をはった格子戸が三枚あった。壁のない空間はあっという間に男や女や子供でぎっしり埋まった。戸の紙は引きちぎられ、汚れた蒙古人種の顔がいっぱいその破れ目からのぞく。キャンブリックのカーテンをたらしたが、そのカーテンも長い棒で部屋のまん中までつつかれてしまった。人々は戸のこちらになだれこみ、狭い部屋は人でぎっしりいっぱいになった。女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰かけ、わたしの服を調べ、部屋ピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォン(引用者注:バードの従僕で元サンパン乗りの清国人)に三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p.167)
●(前項のつづき)いっしょにやってきたのはゆたかな髪をまんなかで分け、長いおさげに編んでうしろにたらした、家の外で唯一見かけられるきれいな「女の子たち」、つまり未婚の男子である。押し合いへし合い、ほどをわきまえないなれなれしさ、騒々しいおしゃべり、そして汚れた衣服の臭い。こういったものを室温華氏八〇度[摂氏二七度]の部屋で展開されたのでは耐えられなかった。ウォンがこれで四度目の掃除をしながら、今度彼らが押しかけてきたら、ベッドにすわって拳銃を磨いていたらどうでしょうと提案した。わたしはこの提案を受け入れた。まだウォンが部屋から出ていくかいかないかのうちに、またも彼らは押しかけてきたが、さすがに今度はたちまち逃げだしていった。そしてそのあとの時間、わたしは悩みの種から解放されたのだった。好奇心をむき出しにした同じように強引でがまんできないできごとは毎日三度三度起き、このような具合ではいつもにこやかにしているのはむずかしかった。(p.167-168)
●旅人が馬または徒歩で進むペースはいずれの場合も一時間に三マイルで、道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、均〈なら〉してない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝生だけでできており、七月はじめの雨で流されてしまう。そして一〇月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。(p.169)
●(金剛山の長安寺にて)修行僧たちはひどく無学で迷信深い。みずから信仰している宗教の歴史や教義についてほとんどなにも知らない。経文の意味についてもそれは同じで、彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。漢字を知っている者もなかにはいるものの、また朝鮮では漢字の読み書きとはすなわち「教育」であるとはいえ、礼拝の際には彼らには意味などちんぷんかんぷんのサンスクリット語あるいはチベット語の文句をつぶやいたり唱和したりするのである。大半の修行僧からわたしが受けた印象は、彼らはなんの意味もなく宗教的な儀式や作業を行っており、何人かの例外をのぞいて、信仰を持っていないというものであった。朝鮮人は一般に僧をはなはだしい放蕩者だと考えており、たしかに大きな寺院のひとつではそんな僧もいると気づかずにはいられなかったが、しかしロマンチックで古雅な環境や、見るからに秩序のある平穏なその生活ぶり、安心して世話を受けている老人や困窮者に対する慈善の心、それにやはりこの身に受けた好意や親切を考えると、わたしは彼らがなんらかの魅力を持っていると認めずにはいられない。そしてまた、その欠点よりも美徳のほうを忘れずにいたいと思う。(p.187-188)
●(金剛山の長安寺にて)ほんのひと握りの例外をのぞき、修行僧全員が頭陀袋〈ずだぶくろ〉を下げ鉢を手に徒歩の旅に出て、ぬかるみと土ぼこりだらけの険しい道を歩き、不潔でむさ苦しい宿に泊まり、その坊主頭と信仰をさげすむ人々に物乞いし、最下層の人々からも「目下に対することば遣い」をされなければならないのである。((中略))このあたりの寺院で仏教の生みだした文化全般、そして親切なもてなしや配慮、やさしい態度は、この地以外の儒教信奉者を自称する朝鮮人のなかで目撃した尊大な横柄さ、傲慢さ、慢心ときわめて対照的である。(p.196-197)
●大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもつぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンド(引用者注:1ポンド=約454グラム)はゆうにある肉を食べるのを見たことがある。「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのは間違いない。朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。(p.203-204)
●距離の魔法がとけるにつれ、磨釵洞〈マチヤドン〉(引用者注:全国的に有名な八つの景勝地のうちの一つ、侍中台〈シジユンデ〉の西にある淡水湖)の村落はパープルから地味なグレーの色調に変わって味気ないその実体をあらわし、美しい海辺で休息をとるというロマンチックな夢は消えた。長くてゆがんだ、狭くわびしい通りからはさらに狭い横道が分岐し、魚の腐肉とごみの山で豚と、毛が抜けて目のにごった犬と、皮膚病にかかった子供たちがいっしょくたになって転げまわっている。水たまりには茶色い浮きかすが厚く張り、ふたのない下水になりさがってしまった小川にはどろどろした緑色の汚水がどんよりと流れている。白砂の浜は干してある魚で黒くなり、魚をならべる枠がそこかしこにある。あたりには耐えがたいにおいがたちこめ、男も女も子供もだれもかもが体も服も汚れ放題で、わたしたちの行くほうへ集まってくる。そして宿屋は朝鮮で泊まったなかでも不潔きわまりないことこの上なく、この夜の記憶はわたしの脳裏に完全に刻みこまれてしまった。(p.206-207)
●磨釵洞をはじめ、手ごろな海岸で船を退避させられるところなら必ずある海岸沿いの村落は、その存在理由を沿岸漁業とする。八〇〇〇人を超える日本人漁師が釜山周辺の沿岸漁業で生活を営んでいるという事実は、きわめて豊富な漁獲量があることを示している。朝鮮の漁民は意欲にはなはだしく欠けるとされており、オイセン氏は一八九一年度の元山(ウオンサン)に関する税関報告で「幼稚なわなを沿岸に仕掛けておいて、毎日一時間かそこら見張っていればとれるような漁獲高で満足している」と朝鮮の漁民を非難している。とはいえ、わたしが通りがかった各村落には七隻から一二隻の漁船があり、海に出ていたことを言っておかねばならない。航海には適さない舟であるから、沿岸から離れないのもむりはない。漁業が停滞しているのは、ほかの諸産業と同じく、労働者の所得がまったく不安定でしかも官僚が搾取しているからであり、朝鮮の漁民はどうせなにかと口実を設けて取り上げられてしまう金銭なら、儲けようという気にはならないのである。(p.208)
●(村落チンプルにて)作物は整然と植わっており、畦〈あぜ〉や灌漑用水路もよく手入れされている。日本と土壌がきわめてよく似ているのであるから、しかも朝鮮は気候には日本よりはるかによく恵まれているのであるから、行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。(p.211)
●長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまやかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。夏のあいだは除草しておくべきなのにそれがされていないし、石ころが転がったままの地面も多く、また畑の周辺や畦は手入れが行き届いていなくて、石垣がくずれたままになっているのは目ざわりである。農地を通る小道はかなり傷み、両側には雑草が生えていて、畑のうねはあまりまっすぐではない。それでもさまざまなことから予想していたよりは、概して耕作はずっと良好であるし、作物ははるかに清潔である。(p.211)
●(釈王子〈ソグワンサ〉にて。釈王子は朝鮮仏教の隆盛期に李朝最初の王・太祖が教えを受け、暮らした所)でっぷり太って陽気な中世の修道士を思わせる僧侶が、古風な建物の入口にあわられ、わたしたちを迎えてくれた。この住職と修行僧たちは来客用広間でハチミツ水をふるまってくれたが、それと同時に来客簿を取りだし、わたしたちにいくら払ってくれるかと尋ねて、答えた金額をしっかり記帳した。強引にお金を巻き上げられた馬夫たちをして「どろぼうになりさがった」と言わしめたこの修行僧たちの強欲なやり方は、同じ聖職者でも金剛山の修行僧たちのあの親切な思いやりとは対照的で、これが歩いてほんの一日の距離にある条約港の悪しき影響でなくてなんであろう!(p.220)
●日中のいちばん暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。((中略))路地の悪臭はすさまじく、土ぼこりはまったくひどいもので、哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのにいは完全に胸が悪くなった。屠殺方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソウルでもほかの町でも外国人は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧〈ちょうな〉を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。(p.223)
●わたしたちは朝鮮国内で最も整然として魅力的な町に入っていた。一八八〇年に日朝貿易に対して、一八八三年に海外貿易全般に対して開港した元山条約港の日本人街である。
通りは広くて手入れが行き届き、波止場は整然とし、家々はこぎれいかつじょうぶで、つんと取り澄まして諸事にうるさい日本人の性格をあらわしている。和洋折衷の大きくてとても目立つ日本領事館、日本郵船会社「NYK」の社屋(NYKは極東に住む西洋人にとって「P&O」[英国最大の海運会社、ペニンシュラー&オリエンタル汽船会社]と同じくらいなじみのある略称なのである)、定評のある日本の銀行、こぎれいな読書室のある税関の建物、西洋の品物が手ごろな値段で購〈あがな〉えるこぎれいな日本の商店、洋装の教師のいる大きな学校、ちょこまか動く矮人〈こびと〉の男たち、歩き方はぎくしゃくとしているもののベールなどで顔を隠さない、しとやかな女たち。こういったものを特徴とするこの気持ちのいい日本人居留地は、幸運にも歴史を持たず、その発展は急速ではないものの、平和でおだやかで、朝鮮その他の外国との軋轢〈あつれき〉に損なわれてはいない。先ごろの戦争[日清戦争]ですら、清国領事とわずかにいたその同国人を退去させたとはいえ、それは人口からいえば微々たる数で、この町にはこれといった爪痕を残さなかった。例外といえば、日本人の支払う莫大な賃金のおかげで、荷役夫が穴あき銭ではなく円でギャンブルができるようになったことくらいである!(p.223-224)
●外国人のなかにも東学〈トンハク〉党に共鳴する声はあった。なぜなら悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態で、あまりな搾取に対し、よくある農民蜂起を超えた規模で武装抗議するための時は熟していると考えられたからである。
しかしまさにこういったことがさしたる関心もなく元山で語られていたとき、既成のものごとの秩序に対する恐るべき脅威が形をとりつつあった。そして数日のうちに東学党は葬り去られてしまい、世界じゅうがこのちっぽけな半島に注目する結果となったのである。
わたしは六月一七日に汽船で元山を発ち、一九日に釜山に到着したが、釜山港に日本の砲艦が停泊しており、その朝、肥後丸から二二〇人の日本人兵士が上陸し、丘の上の寺に宿営していること、東学党が釜山・ソウル間の電信線を切断したことを知っても驚きはしなかった。
釜山に在住するわずかな西洋人のあいだに動揺はなかった。大規模な商業街を持っている日本人は防衛手段に多大な関心を示しており、それはまた当然至極な反応といえた。日本軍が済物浦〈チエムルポ〉(引用者注:ソウルの海港。漢江(ハンガン)の河口にある)に上陸したといううわさはまったく軽視されていた。
ところが、二一日の早朝に済物浦に到着すると、きわめて刺激的な事態が展開していた。日本の軍艦六隻、合衆国の旗艦、フランスと清の軍艦が各二隻、ロシアが一隻という大艦隊が外港に待機していたのである。(p.229-230)
●わたしが済物浦に着く二、三日前のできごとはこの局地的な動乱を陰へ追いやってしまったのである。なんと好都合な干渉の口実を東学党は日本にあたえてしまったことか、それを明らかにしたい一心で、わたしはいま、もはや過去の歴史となってしまったできごとをこのささやかな章で思い返している。
朝鮮にとって国の存亡に関わり、外交的に最重要な意味合いを持つ疑問は、「日本の目的はなにか。これは侵略ではないのか。日本は敵として来たのか、味方として来たのか」であった。(p.233-234)
●極東政治情勢の学徒ならだれしも、この日本軍の巧妙かつ常軌を逸した動きが済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものでもないことがわかっていたはずである。ぐらついた日本の内閣が失墜か海外派兵かの二者択一を迫られたのだとさまざまなすじは言い、またそう信じた。しかしこれはまったくのこじつけである。日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地がない。朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食糧についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを測り、三カ月分の米を朝鮮で備蓄していたのであるから。そしてその一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にまでも足を運んで清国の強みと弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミーの銃器、旧式で鋳〈い〉ぞこないの多いカロネード砲について報告していたのであるから。彼らは清国各地方からどれだけの兵士を戦場に動員できるか、いかにして彼らを教練し武装させるかを清国人以上に知っていた。また、腐敗と不正がはびこり、そこに愛国心の欠落が結びついて、兵站部など書類上でしか存在しないも同然の状態になりはてている清国が、戦闘を維持するのはおろか、まともな軍隊を戦場に送りこむことすらとうてい不可能であることも知っていたのである。(p.234-235)
●厳格に統制された折り目正しい矮人〈こびと〉の大隊は着実にソウルへと進軍しつつあった。当時とその後しばらくのソウルの状況はつぎのとおりである。国王は人目の届かぬ王宮に隠れ、名ばかりの政府はすでに瓦解していた。イギリス総領事のヒリアー氏は休暇で本国にもどっており、総領事臨時代理のガードナー氏は朝鮮に赴任してまだ三カ月しかあっていなかった。合衆国公使はそれよりさらに日が浅かった。フランスとドイツの領事は保護には関心がなく、あったとしても微々たるものであるから、考慮に入れる必要はほとんどない。九年にわたりロシアの代表を務めてきた有能かつ慎重な外交官であり、外国人社会全体から信頼を得ていたウェーベル氏は、北京駐在代理大使に任命され、その前の週にソウルを離れていた。したがって、あと残って相対していたのは、臨時の任務で来朝していた北京駐在日本公使の大鳥[圭介]氏、そしてソウル在住清国弁理公使を数年務め、清国皇帝の信任も絶大に厚い人物袁世凱〈ユアンシーカイ〉だった。袁世凱は外国人たちからたいへんな勢力をもった如才のない辣腕家と目され、「王位の陰の力」と一般に見なされていた。(p.236)
_________________________「朝鮮紀行」引用ここまで
この後、バードはイギリス副領事の忠告により済物浦(ソウルの海港。漢江(ハンガン)の河口にある)をあとにせざるをえなくなりました。荷物を元山に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と記しています。
満州(馬賊、満州族の特徴、奉天で遭遇した洪水など)の記述を経て、その後はいよいよ日清戦争、そして王室——李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした——の記述に入ります。
このあたり、かなり政治色が濃くなっていくのですが、続きはまた次回ってことで<(_ _)>
——それにしても、朝鮮の野次馬の不作法は限度を超えてますね(T^T)。バードが「ベッドに座って拳銃を磨いて」彼らが寄りつかないようにしたという箇所を読んだ時は、正直苦笑いしてしまいました。
もちろん朝鮮の人々全てが粗野だったり不作法だったりというわけではないようですが……。
付け加えると、同じ朝鮮人でも、とりわけ貴族や役人や知識層など地位の高い人は概して態度が悪いようです。
また、庶民が上流階級から「搾取」されているという種の記述は何度も何度も出てきます。
李朝末期の役人や貴族はひどく腐敗していたと聞きますが、それはやはり間違いではないようです。
ちなみに彼女は朝鮮旅行をする十数年前(明治11年)に日本を旅行しており、その体験記は1880年(明治13年)に出版されました。
全訳版は現在日本でも読むことができ、講談社学術文庫から「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」として出版されています。
(この中身については拙ブログの「外国人から見た日本と日本人」シリーズ(現時点での最新エントリーこちら)で断続的に紹介しています)
「日本紀行」での日本に対する記述は「朝鮮紀行」での朝鮮に対する記述とは対照的です。日本の庶民にかなり好意的ですし、日本の統治システムや役人・警官等の振る舞いについても高評価です。
以下、「イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)」より引用。
「わたしの受けた第一印象は、この国はよく統治されているというものです。上陸したとたん、サンパンや人力車の料金表、掲示板の公告文、きちんとした警察官、乗り物の提灯、外国貨幣の拒絶、郵便規則などなど、「規則」に出会うのですから。それにこれも言わなければならないでしょうか。ぼられることがまるでないのです!」(横浜にて)
「この町に外国人は多いのに、わたしたちはおもしろいもの、あるいはめずらしいものとしてじろじろ見られました。ハリー卿がたいへん快活に外交経験のなにがしかを回想しているあいだに、わたしたちのまわりにはひとりでに野次馬が集まり、口を開けて黒く染めた歯をのぞかせ、とても黒い目でぽかんとわたしたちを見つめました。でもそれがあまりに丁重なので、見つめられているという気はしませんでした」(吹上御苑にて)
「だれもが清潔できちんとした身なりであること、みんなきわめておとなしいこと、昼日中に何千人もの人々がお寺に押しよせているのにみんな礼儀正しくて秩序が保たれていること、ひとりの警官もその場にはいなかったこと。こういったことに私は深い感銘を受けました」(浅草観音寺にて)
「『ふつうの人々』がどのように振る舞うかをとても見たかったので、三等車に乗りました。車両は肩の高さより上は仕切りがなく、たちまち日本人の最も貧しい階層の人々で完全に満員になりました。三時間の汽車の旅でしたが、わたしは乗客の彼ら同士やわたしたちに対する親切心と全体的な礼儀正しさにつくづく感心しました。非常に行儀がよくてやさしく、それはみごとなもので、故国の大きな海港都市あたりでおそらく見られるものとはとても対照的です。それに日本人はアメリカ人のように、きちんとした清潔な服装をして旅し、自分たちや近所の人々の評判に気を配るのです。わたしたちの最良のマナーも優美さと親切さの点で彼らに及びません」(神戸−大阪間の汽車内にて)
「どの店でもわたしが腰を下ろすと、野次馬が店先に集まります。野次馬は主に女性と子供たちで、ほとんど全員が赤ん坊を背負っており、まじめな顔で黙ってぽかんとこちらを見つめるので、わたしはどこか落ち着きません」(日光、入町にて)
「この日本の野次馬たちは静かでおとなしく、乱暴に押し合いへし合いすることは少しもありません。相手があなたでなければ、彼らのことでこんな愚痴をこぼすこともなかったでしょう。警官のうち四人がまたやってきて、町の外れまでわたしを警護してくれました」(会津平野、高田にて)
「わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クヮイ——野蛮な鬼——と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました」(会津平野、津川にて)
「その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイルを危険な目に遭うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う」
バードはこのように日本では、珍しがられて野次馬にじろじろ見られるということはあっても、それ以上無礼な目には遭ったことがなく(もちろん例外はあったでしょうが)、朝鮮で体験したような、たとえば宿の部屋に大勢で押しかけられたりとか、ましてや暴力を振るわれたりということはなかったようです。
また、日本の場合、都会では(少なくとも日光までは)ある程度、宿も人間も清潔であるものの、田舎の方は衛生状態が悪いという記述が目立ちます。
ところが朝鮮の場合は、首都ソウルですら衛生状態が悪いと記述されているのです(8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)を参照。ちなみにバードが日本を旅したのは1878年、朝鮮を旅したのは1894年〜1897年)。
「日本紀行」と「朝鮮紀行」を読み比べた時、日本人に対する好意的記述・批判的記述の割合を7対3とすれば、朝鮮人に対するそれは真逆で3対7といったところでしょうか。
「まじめで大人しく礼儀正しい日本人」「見栄っ張りで騒がしく礼儀知らずな(特に上流階級)朝鮮人」という、ステレオタイプともとれる図式がそのまま当てはまってしまう印象を、残念ながら私は受けました。
……というわけで、第3弾につづく!……
【バードが旅したルート。画像をクリックすると新規画面で拡大します】
「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。
当時の朝鮮は開国直後でした。
1894年8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
この第3弾では、日清戦争や朝鮮王室にまつわる記述をメインにお送りします。政治色が強く、やや重たい感じですが、ついてきて下さいね(^^ゞ
バードが最初に朝鮮入りした1894年初め頃、すでに東学党(主体は農民)は動き始めていました。本格的な内乱となったのは春で、6月、清が朝鮮側の要請により軍を派遣。それを見た日本も軍を派遣します。
戦争が迫り来る中、バードはイギリス副領事の忠告によって済物浦〈チエムルポ〉(ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)をあとにせざるをえなくなります。
バードは秋の旅に備えた荷物を元山〈ウオンサン〉に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と述べています。
満州の後は奉天、長崎、ウラジオストクでの記述を経て、その後いよいよ王室――李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした――の記述に入ります。
閔妃殺害事件(乙未事変)のくだりでは日本批判がかなり多くなっています。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したものと思われます。
とはいうものの、バードの記述には閔妃を批判した部分、日本を擁護した部分も少なからずあります。
「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)でも紹介した通り、そもそもバードは日本による朝鮮の改革そのものは大変評価しているのです。
その改革をことごとく潰したのが、他ならぬ閔妃でした。
閔妃殺害事件の経緯をざっと振り返りますと――
閔妃は自分の一族の政権登用を乱発し、大勢の大院君派を国政から追放、流刑あるいは処刑にするなど強権を振るっていました。
また、宗主国の清を後ろ盾とし朝鮮の改革を嫌っていた事大党を重用したことにより、政治改革はことごとく閔妃によって潰されてしまっていました。
やがて閔妃は親露に傾いていったため、それに不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国にいっそう警戒されることになります。
このような情勢の中、1895年(明治28年)10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって、景福宮にて閔妃は暗殺されました。
この時、日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられました。日本は国際的な非難を恐れ、三浦らを召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放。
朝鮮政府はこれとは別に李周会、朴銑、尹錫禹の3人とその家族を、三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑しています。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗(閔妃の夫)は、露館播遷(ろかんはせん。1896年2月11日から約1年間、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)の後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)ら6名の処刑を勅命で命じています。
が、事件の全容は未だ明らかになっておらず、現在も論争が絶えません。ただ、日本政府による計画的な策謀でなかったことは判明しています。
「朝鮮紀行」の閔妃殺害事件に関する記述が、学術的に価値があるのかどうか私は知りません。ただ、少なくとも当時の雰囲気が読み取れるという意味で、それなりに貴重な資料ではないかと思います。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
※なお、この第3弾では「訓練隊」という名称が何度も登場しますが、これは日本人が教官の朝鮮人部隊です。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●東学〈トンハク〉党は朝鮮の官軍を何度か打ち負かしており、朝鮮国王は逡巡を重ねたすえ、清に援軍を要請した。清はこれに対して即座に応じ、一八九四年六月七日、朝鮮へ自軍を送る旨、日本に通告した。両国とも天津条約により、当時のような状況下では派兵できる権利を同等に有していたのである。同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉〈ヨー〉[志超〈チーチャオ〉]提督は三〇〇〇の兵を率いて牙山〈アサン〉に上陸し、また日本軍は済物浦〈チエムルポ〉とソウルを武力で占領した。
急送外交文書では清は二度朝鮮を「わが国の属国」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。(p.265)
●七月二五日、輸送船高陞〈コウシン〉号がイギリス国旗を掲げて一二〇〇名の清国兵を運ぶ途中、日本の巡洋艦浪速〈なにわ〉に撃沈されて多くの人命が失われ(引用者注:当初イギリスで対日批判が起こったが、真相が判明するとともに日本側の正当性が認められた)、その四日後には日本軍が牙山の戦いで清国軍を撃退した。七月三〇日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣告したが、これはすなわち自国に対する清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。八月一日、宣戦が布告された。これら一連のできごとの結末については、いや、できごと自体についてすら、わたしたちはほとんどなにも知らず、七月上旬まで奉天は「悠々自適の道」を歩んでいた。(p.266)
●八月一日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満州を通って進軍せざるをえず、吉林、斉斉哈爾〈チチハル〉その他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日一〇〇〇人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。外国人に対する憎悪は奉天から四〇マイル離れた遼陽〈リヤオアン〉で最高潮に達し、満州族兵士は聖堂を破壊したあとスコットランド人宣教師のワイリー氏を撲殺し、「洋鬼子」と親しいからという理由で行政長官に危害を加えた。(p.267-269)
●奉天に向かうすべての道路は(引用者注:清国軍の)兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらした歩き方で、一〇人ごとに絹地の大きな旗を掲げているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかいない。ライフル銃一丁持たない屈強な体つきの連隊すらある! ((中略))正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送りだすのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。だからこそ西洋人を見ると「こいつら洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」ということばが出てくるのであり、総督の宮殿に大群で押しかけて護衛から撃つぞと威嚇されたとき、「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したのである。(p.269-270)
●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない――この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)
●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)
●朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシアの)沿岸州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(p.307)
●シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山〈ウオンサン〉で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていることと、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、商取り引きに活気があること、木造の哨舎〈しょうしゃ〉に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。戦時中は一万二〇〇〇人の日本兵が元山経由で平壌に向かったのである。つぎにわたしが上陸した釜山には二〇〇人の日本兵がいて、新しい浄水所ができ、丘の上にある軍墓地に立つおびただしい墓碑は、大量の日本兵が死んだことを示していた。(p.319)
●その前年(一八九四年)の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取りもどした国王はそのような状況を容認し、王妃(引用者注:閔妃のこと)は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。(p.322)
●(前項のつづき)一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史の広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇〈しゃしょくだん〉]前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの警告をしばらく延期しており、式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山〈プツカンサン〉のふもとの鬱蒼〈うっそう〉とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。(p.322)
●国王の宗廟誓告文
((中略))今後わが国は他のいかなる国にも依存せず、繁栄に向けて大きく歩を踏み出し、国民の幸福を築いて独立の基礎を固めるものとする。その途において、旧套〈きゅうとう〉に陥らず、また安直もしくは怠惰な手段を用いることなく、ただ現状を注視し、国政を改め、積年の悪弊を取りのぞいて、わが祖先の偉大なる計画を実行できんことを。((後略))(p.326)
●国政改革のための洪範一四カ条
一、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、国王は正殿において事を見、みずからら大臣に諮〈はか〉って国務を裁決する。王妃ならびに王族は干渉することを許されない。
四、王室の事務と国政とは切り離し、混同してはならない。
五、内閣[議政府]および各省庁の職務と権限は明らかに定義されねばならない。
六、人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、地租の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする。
八、王室費は率先して削減し、各省庁ならびに地方官吏の規範をなすものとする。
九、王室費および各省庁の費用は毎年度予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
一〇、地方官制度の改革を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
一一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
一二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制度の基礎を確立する。
一三、 民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
一四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方とを区別せず広く登用するものとする。(p.326-327)
●(前項のつづき)現在朝鮮の改革は日本の保護下では行われていないとはいえ、進行中のものはほとんどの段階においても日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。
日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しかわたしの眼中にはなかった」と述べたと報じている。一八九五年当初においてはこのような結論が正当だったのであり*1、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。(p.327-328)
*1 引用者注:残念ながら朝鮮の国政改革は「洪範一四カ条」の通りには進まず、この後も延々と宮廷内の闘争が続く。特に閔妃は国政よりも王宮経営、それも自分と親族の権力や利権を守ることに必死な上に、相変わらずの浪費家であり、日本側が苦労して朝鮮兵や文官たちの給料を調達したり国家予算のほぼ全額を貸与したりという中に、幾度も宴会を開いていた。閔妃が支援を請うたロシア公使ですら、「若し君主が内閣の権力を奪取り、余り自身に之を振過ぎるときは、国家滅亡に至るべし」と述べている。詳細はこちらを参照。
●(バードが王妃に最初に謁見した際)王妃は皇太子の健康についてたえず気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々さらされていた。頻繁に呪術師を呼んだり、仏教寺院への寄付を増やしつづけたりといった王妃の節操を欠いた行為のなかには、そこに起因したものもあったにちがいない。謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた。(p.332)
●その後三週間にさらにわたしは謁見をたまわった。二度目は前回と同じくアンダーウッド夫人(引用者注:王妃の侍医であり懇意な友人でもあるアメリカ人医療宣教師)とごいっしょし、三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた。どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君〈テウオングン〉を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵のすべてを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。多くの命を粛清してきたとはいえ、そのために朝鮮の伝統と慣習を破るということはなく、また粛清の口実として、国王の即位直後に大院君が王妃の実弟宅に時限爆弾をひそませた美しい箱を送り、王妃の母、弟、甥をはじめ数名の人間を殺害したという事実がある。その事件以来大院君は王妃自身の命もねらっており、ふたりのあいだの確執は白熱の一途をたどっていた。(p.334-335)
●(前項のつづき)王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。わたしは国王が心底ではその知力と相応に愛国的な君主であると信じている。国王は国政改革にもむしろ乗り気で、申しだされる提案のほとんどを承認してきている。しかし不幸にも、また国にとってはさらに不幸にも、その声明が国の法となる立場の人間にしては、彼はあまりにも人の言いなりになりすぎ、気骨と目的意識に欠けていた。最良の改革案なのに国王の意志が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシアチブのもとに行われないかぎり成功は望むべくもない。(p.335)
●(前項のつづき)国王は四三歳で、王妃はそれよりすこし年上だった。国王がまだ未成年で例にもれず中国式の教育を受けているうちは、国王の父であり、ある朝鮮人作家の評するところによれば「鉄のはらわたと石の心」を持つ大院君が、摂政として一〇年間きわめて精力的に国を統治した。一八六六年には二〇〇〇人の朝鮮人カトリック教徒を虐殺している。辣腕〈らつわん〉であり、強欲であり、悪を省みない大院君の足跡は常に血に染まっていた。彼はみずからの息子すら亡き者にしている。摂政時代が終わってから王妃暗殺まで、朝鮮政治史はおもに王妃およびその一族と大院君の激しい確執の歴史であった。わたしは宮殿で大院君に拝謁し、その表情から感じられる精気、その鋭い眼光、そして高齢であるにもかかわらず力づよいその所作に感銘を受けた。(p.335-336)
●日本人はかつてイギリスがエジプトに対して行ったように、朝鮮の国政を改革するのが自分たちの目的であると主張した。たしかに自由裁量が許されていたなら、彼らはそれをなし遂げたはずだとわたしは思う。とはいえ、改革事業は予想をはるかに越えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態にあることは明らかだった。伯爵は「使える道具がなにもない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を二年の予定で日本に留学させた。最初の一年は勉学に努め、つぎの一年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。(p.342-343)
●(前項のつづき)日本のさまざまな要求は当初は国王の譲歩を得ながらも、受け入れなかった。しかし一八九四年一二月、ついに井上伯はそのうち五件の要求を即座に実行するという正式の誓約を手に入れた。
(1)一八八四年[甲申政変]の陰謀者全員を赦免する。(2)大院君および閔妃は今後国務に干渉しない。(3)王家の親戚はいかなる官職にも就かない。(4)宦官と「側室」の数を最小限に減らす。(5)身分の区別――貴族と平民――を廃止する。
以上のうちいくつかについては官報で勅命が発され、また「側室」ともども多くの宦官が荷物をまとめて夜間ひっそりと宮殿をあとにした。しかし広大な住まいにいた国王は「側室」や宦官がいないとどうにもさびしく、翌朝にはすぐさまもどらないと厳しく罰するという命令を出した。そしてその命令は即刻守られた!(p.343)
●(前項のつづき)朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、ほんとうの意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈〈ばっこ〉していた。
このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階級が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じてのならわしであり、どの職位も売買の対象となっていた。(p.343-344)
●外国人の意のままになる国王には忠誠を誓うことはできないと謹みをもって訴え、あらたな王を規定していた東学党は、一月はじめに壊滅しており、その首領の首がある律儀な郡守によりソウルへ送られた。その首が《西小門》外の《北京街道》にあるにぎやかな市場にさらされているのをわたしは見た。首は三本の棒をキャンプのやかんかけのようにぞんざいに組み合わせたものに、もうひとつの首とともにつり下げられていた。少し離れたところにそれまでさらされていたまたべつのふたつの首は、棒からはずれて土ぼこりのなかに転がり、うしろ側を大きく犬にかじられていた。その顔には最期の苦悶の表情がこわばったまま残っている。そばに転がっていたかぶらを小さな子供がふざけて刻み、首の黒ずんだ口にさしだしていた。このむごたらしい首は一週間さらされたものだった。(p.345)
●「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化はよい方向をめざしたものであったとはいえ、制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。(p.347)
●わたしが朝鮮を発った時点(引用者注:1895年2月)での状況はつぎのようにまとめられよう。日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、実質的には俸給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、政治は国王の名において一〇省庁の長官でなる内閣に司られていたが、そのなかには「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。(p.350)
●一八九五年一〇月、長崎に着いたわたしは朝鮮王妃暗殺のうわさを耳にし、駿河丸船上で、事態収拾のため急遽ソウルにもどる合衆国弁理公使シル氏からうわさの真偽を確認した。そして済物浦〈チエムルポ〉からソウルに直行し、ヒリアー氏の客としてイギリス公使館に滞在し波瀾〈はらん〉の二カ月を過ごした。(p.351)
●(井上伯が帰国前に国王夫妻と面談した時の様子を政府に報告した文書より。下線はバードによる)【わたしはこれからのことについてできうるかぎりの説明をして王妃の疑心を解いたあと、朝鮮独立の基盤を確固たるものにする一方で、朝鮮王室を強化するのが日本国天皇および日本政府の心からの願望であることをさらに説いた。それゆえ、いかなる王室の一員が、さらにはいかなる一般朝鮮人が王室に対して大逆行為を企てようとも、日本国政府が武力をもってしても必ずや朝鮮王室を守り、朝鮮国の安全を確保すると請け合った。このことばは国王夫妻の心を動かしたらしく、夫妻の将来に対する不安は大いに軽減したようだった。】
日本の傑出した政治家であり、信頼と敬意をもって接すべき相手だと認めていた人物からかくも率直に請け合われたのであるから、国王夫妻がその約束をあてにして当然と考えたのはむりからぬことであろうし、またそれであるからこそ、一カ月後にあの運命の夜がやってきたときもある種の油断が入り、危険の兆候が最初にあらわれても王妃は逃げだすことを考えなかったのである。(p.352)
●(以下は1895年10月8日の閔妃殺害事件について、広島地裁の判決文にそった形でのバードの記述)三浦子爵*2は大院君とのあいだに結んだ周知の取り決めをいよいよ決行に移すときが来ると、王宮の門のすぐ外にある兵舎に宿営している日本守備隊の指揮官に、訓練隊(教官が日本人の朝鮮人軍隊)を配置して大院君が王宮へ入るのを護衛し、また守備隊を召集してこれを助けるよう指令を出した。三浦はまたふたりの日本人に、友人を集めて大院君派の王子が当時住んでいた漢江〈ハンガン〉河畔の竜山〈ヨンサン〉へ行き、王子が王宮へ向かうのを警護するよう頼んだ。その際三浦は、二〇年間朝鮮を苦しめてきた悪弊が根絶できるかどうかは、今回の企ての成功いかんにかかっているのだと告げ、宮中に入ったら王妃を殺害せよとそそのかした。三浦の友人のひとりは非番だった日本人警察官に、私服を着て帯刀し、いっしょに大院君の住まいへ来るよう命じた。(p.352-353)
*2 引用者注:三浦梧楼。井上馨は事件の1カ月前に帰国し、後任が三浦だった。
●(以下はダイ将軍(アメリカ人)とサバティン氏(ロシア人)の陳述と数種の公式文書からバードが「読者の興味を引きそうな箇所」を記したもの)七日の朝、訓練隊は日本人教官とともに行進と反対行進を行い、王宮を包囲する形となって王宮内に不安を引き起こした。ダイ将軍とサバティン氏は八日未明に非常召集を受けた。このふたりは門のすきまから外をのぞき、月の光のなかで多数の日本人兵士が着剣して立っているのを見て、そこでなにをしているのかと尋ねたところ、兵士たちは左右に散り、物陰に隠れてしまった。塀のべつのところには二〇〇名を超す訓練隊が隠密の行動をとっていた。ふたりの外国人がどうすべきかを相談しているところへ、大門のほうからなにかを激しく連打する音が聞こえ、銃声がそれにつづいた。
ダイ将軍は侍衛隊(引用者注:王宮直属の軍隊でダイ将軍はその教官)を呼び集めようとしたが、襲撃者の群れは五、六発銃を乱射したあと、ふたりの外国人を跳ねとばさんばかりの勢いで国王の住まいを通りすぎ、後宮へと突進した。そのあとのできごとについてはこれまで明確な記述が一度としてなされたことがない。(p354)
●事件そのものは一時間ほどのできごとだった。皇太子は自分の母親が剣を持った日本人に追いかけられて廊下を駆け逃げるのを見た。また、暗殺団は王妃の住まいに殺到した。王女は上の階に数人の官女といるところを見つかり、髪をつかまれて切りつけられ、なぐられたあと階下へ突き落とされた。王妃が服を着て逃げだそうとしていたところをみると、宮内大臣李耕植〈イギヨンシク〉が危急を知らせたものらしい。暗殺団が部屋に入ると、宮内大臣は両手を広げてうしろにいる王妃をかばい守ろうとしたが、それは相手にだれが王妃かを教える結果となってしまった。両手を切り落とされさらに傷を負いながらも、彼は身を引きずるようにベランダから国王のもとへ行き、そこで失血死した。
暗殺団から逃げだした王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。が、ある報告書は、そこでやや回復し、溺愛する皇太子の安否を尋ねたところへ日本人が飛びかかり、繰り返し胸に剣を突き刺したとしている。(p.355-356)
●事件当夜が明けてまもなく、大院君はつぎのような二文を布告した。
第一の布告文「王宮内に卑劣な輩がおり、人心が乱れている。ゆえに大院君が政権にもどって国政改革を行い、卑劣な輩を排除し、かつての法を復活させて国王の威信を守るものとする」
第二の布告文「予は国王を補佐するため、卑劣な輩を排除し、善を成し、国を救い、平和をもたらすため王宮に入った」
王宮の門は着剣した反逆的な訓練隊が警護しており、門からは三々五々朝鮮人が出てきていた。旧侍衛隊の残兵で、制服を脱ぎすて武器を隠していたが、門を出る際にはひとりひとり身体検査を受けねばならなかった。((中略))国王の信任の厚かった者はほとんどすべてが地位から追放され、政府要職のいくつかには訓練隊上層部の指名する者が就いた。(p356-357)
●その日は各国公使が国王に謁見した。国王はひどく動揺しており、ときとしてむせび泣いた。王妃は脱出したものと信じており、自分自身の身の安全をひどく案じていた。なにしろ国王は暗殺者の一団に囲まれており、その一団のなかでもいちばん非道な存在が自分の父親(引用者注:大院君)だったのである。慣例を破って国王は各国公使の手を握り、今後さらにこのような暴動が起きないよう国王派に好意的な人々の協力をあおげないものかと頼みこんだ。国王は訓練隊に代わって日本軍が王宮警備に就いてくれることを切望していた。その日の午後、各国公使は日本大使館を訪ね、日本人が深く関わっている今回の事件について三浦子爵から事情説明を聞いた。(p.358)
●(前項のつづき)事件から三日後、国王と一般大衆が王妃はまだ生きているものと信じているなかで、残虐な暗殺行為に追い打ちをかけて王妃を貶める、詔勅なるものが官報に発表された。国王はこの詔勅に署名を迫られ、署名するくらいなら両手を切られたほうがましだと拒否したが、布告は国王の名前でなされ、宮内大臣、首相、その他六人の大臣の署名が入っている。
【詔 勅
即位して三二年になるも、朕の統治力は広きにおよんでいない。閔〈ミン〉妃はその親族を王宮に入れて要職に就け、それにより朕の良識をにぶらせ、人民を財物強要にさらして朕の政治を乱し、官爵位を売買させていたるところに盗賊をはびこらせた。かかる状況において、わが国の礎は危機に瀕している。朕は閔妃を邪悪のきわみと知りながら、一派を恐れまた無勢でもあり、これを排除し罰することができなかった。
朕は閔妃の権勢を抑止することを切に願う。昨年一二月、朕は閔妃とその一族ならびに朕の親族が二度と国務に介入しないことを宗廟の前に誓った。これにより閔妃一派が態度を改めることを願った。しかし閔妃は邪悪な行為をやめず、一派とともに愚劣な輩が朕に対して謀叛を起こすのを助け、朕の動静を察して国務大臣の引接を妨げた。さらにはわが忠実なる兵隊を解散する令を捏造して騒乱をそそのかし、いざ騒乱が起きると壬午軍乱*3のときと同じく王宮を脱出した。その行方を探しだそうと試みたが、みずからはあらわれいでず、朕は閔妃が妃という位にもとるばかりか、罪科にあまりあると確信するにいたった。このような者とともには王家祖先の栄光を継承できない。よってここに王妃の身分を剥奪し、庶民に格下げする。】(p.358)
*3 引用者注:壬午軍乱=壬午事変。1882年7月23日、大院君らの煽動を受けて、漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件。学生等無関係な日本人も殺害された。事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。詳細はWikipedia等を。
●事件の翌日早くに浮かんだ疑問は、「三浦子爵は事件に関与していたのか、いないのか」であった。この件に関して仔細に触れる必要はない。王宮での惨劇から一〇日後、日本政府は、三浦子爵、杉村書記官、岡本朝鮮軍務顧問官を召還、逮捕し、政府自体はこの凶行にまったく加担していないことをただちに証明した。以上の三名は数カ月後、他の四五名の被告とともに広島第一審裁判所で裁判にかけられたが、「いずれの被告も彼らが独自に企てた犯罪を実行したとする証拠は不充分である」という法的根拠のもとに無罪となった。この犯罪とは判決文によれば、被告のうち二名が「三浦の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)*4他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」ことである。(p.361)
*4 引用者注:この「中略」は原文ママ。引用者(くっくり)によるものではない。
●(前項のつづき)三浦子爵の後任大使には有能外交家の小村[寿太郎]氏が就き、そのしばらくあとに井上伯が悲運の朝鮮国王にあてた日本国天皇の弔辞をたずさえて到着した。日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけられた事件はなく、日本国政府には同情の余地がある。というのも事件関与を否定したところでそれは忘れられ、王妃殺害の陰謀が日本公使館で企まれたこと、銃と剣で武装して王宮襲撃に直接関わった私服の日本人のなかには朝鮮政府顧問官が数名いたこと、そのほかにも日本の守備隊はべつにして、日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢六〇名の日本人が含まれていたことが、いつまでも人々の記憶に残るからである。(p.361-362)
●外国人のあいだで宴会の催されることはなくなった。混迷はあまりに深く悲嘆はあまりに切実で、冬のソウルのささやかな浮かれ気分すら控えられた。王妃の侍医であったアンダーウッド夫人や親しい友人であったウェーベル夫人をはじめ、どの外国人女性も王妃の死を身近な存在の死として受けとめていた。王妃が政治の場で見せた東洋特有の非人道的な性質は、その死にまつわる惨劇が恐怖の戦慄を引き起こしたために忘れられた。(p.364)
●王妃暗殺からほぼ一カ月後、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では暗殺の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に、訓練隊を武装解除し、朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。しかし井上伯は日本軍が武装して王宮を再度占拠するという方策は、国王の身の安全を確保するという目的のためとはいえ、重大な誤解を受けやすく、またきわめて深刻な紛糾を招きかねないと考え、即答を避けた。列強が日本に対してはっきりと要求しないかぎり、このような発案が考慮されるはずはなかった。電信機が待機し、しかるべき根回しが行われ、一一月七日に北部への旅行に発ったわたしは、平壌に着いたとき、諸外国公使の見守るなかで重大なクーデターが首尾よく遂行されたというニュースが待っているものと思っていた。ところが、日本は井上伯と新公使の小村氏がふたりして働きかけたにもかかわらず、王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった。なかでも日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使なのであるから、日本が各国大使の提案を受け入れていれば、現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか。たしかにロシア政府は訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求したのである。その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身から出たさびといわざるをえない。(p.364-365)
●国王の復権を主張し王妃暗殺の連係者を処罰するという解決策(引用者注:列強による解決策)はうまく運びそうだった。ところがそれは侍衛隊と、ろくでもない輩の混じる多数の朝鮮人とが企てた「愛国的陰謀」により御破算となってしまったのである。この陰謀は国王の解放と、訓練隊に代えて官軍を置くことを目的としていた。そしてそれは前途有望な謁見のあった二日後、失敗に帰すのであるが、事前に発覚したためにその結果は惨憺たるもので、要人多数を巻きこみ深刻な疑惑を生んだ。また外国人への反感を増大させ、外国人数人(アメリカ人宣教師)が事前共犯ではないとしても計画を事前に知っていたとされて、社会全般の混乱をもたらし、五週間後にわたしが朝鮮を発ったときには混乱脱出の見通しはまるでなかった。国王は以前にも増して囚人さながらだった。取り囲む者はなれなれしくまた横柄になり、暗殺の恐怖はつねにあった。外国人との交流も王宮へ入る公的な資格を持っている者以外にもはやなく、そういった人々も次第に王宮へは近づかなくなっていた。
最も緊迫しているこのようなとき、毎日新しい事件があってうわさが流れ、重大なクーデターが起きると信じられているときに、ソウルを離れて内陸旅行に出るのはとても残念だった。しかし清西部への長期旅行を控えていたわたしには、自由にできる時間がほとんどなかった。(p.366)
_________________________「朝鮮紀行」引用ここまで
皆さんすでにお気づきでしょうが、閔妃殺害事件が起こった時、バードは朝鮮にはいませんでした。
上で引用した通り、彼女は長崎にいた時に「朝鮮王妃暗殺」のうわさを耳にし、合衆国弁理公使シル氏からうわさの真偽を確認しました。
また、事件後の国王(高宗)の様子等についても直接見たわけではありません。
事件にまつわるバードの記述は、日本側の主張(首謀者とされた三浦梧楼以下が裁かれた広島地裁の判決文)、ダイ将軍(アメリカ軍を退役後、王宮を護衛する侍衛隊の教官を務めていた)およびサバティン氏(歩哨の監視役として臨時に雇われていたロシア人)の陳述と、数種の公式文書からの引用とされています。(p.353)
ただ、三浦らの公判中(事件から11日後)に朝鮮政府が実行犯として朝鮮人3人とその家族を処刑した件について、バードはなぜか一言も触れていません。また訓練隊の大隊長で、閔妃殺害事件の際、訓練隊動員の責任者だった禹範善(後に国王の勅命により処刑を命じられる)の名前も出てきません。
バードの手元にはこういった情報が来ていなかったのでしょうか?それとも触れられない事情でもあったのでしょうか?
閔妃殺害までの経緯(なぜ彼女は暗殺されなければならなかったのか?について)は、「気ままに歴史資料集」さんの資料を順を追って見ていくと分かりやすいです。特に以下の3点。
・日清戦争後の日本と朝鮮(1)
・日清戦争後の日本と朝鮮(2)
・日清戦争後の日本と朝鮮(3)
時間に余裕のある方は「日清戦争下の日本と朝鮮」も。目次からたどって下さい。
また、閔妃の評価については韓国人も含めいろんな国の人が行っています。そのまとめはこちらを。
・大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」閔妃暗殺
ところで、「釜山でお昼を」さんの考察によれば、韓国人は日本人が以下のような神業(かみわざ)が出来たと信じている人が多いようです。
「王宮に入ることのできない身分の少人数の日本人の壮士が日本刀だけを持って、深夜に次々と堅固な門を破り、初めて入る複雑な王宮内で、鉄砲を持った多人数の護衛兵と戦闘したが全員無傷で勝利して、迷うことなく正確に王妃の部屋まで短時間で進入できて、多くの官女・使用人、後宮の妃など多くの女性の中で、見たことも無い写真もない閔妃を正確に暗闇の中に見分けて殺害した」
そう、朝鮮人も行動を共にしていたことは意図的に無視しているのです。
この韓国人の認識を何の疑いもなく垂れ流した日本のテレビ番組が、少し前にありました。
テレ朝「報道ステーション」で8月24日に放送された「“114年後の氷解”王妃殺害事件・日韓で子孫が再会」なる特集です。
私がまず引っ掛かったのは、古館キャスターやナレーションによってくり返し述べられた、「この事件が反日感情の原点にあると言われている」という言葉です。
何をおっしゃいますやら。それよりずっと前から朝鮮人が反日だったのは、バードのこの「朝鮮紀行」ひとつ読んでも明らかです。
また、なぜ日本が朝鮮半島に進出したのか、なぜ日清戦争に至ったのか、そのへんの背景の説明も全くありません。日本=侵略者というイメージを視聴者に植え付ける、いつもの印象操作です。
ところが、閔妃については「国を守ろうとロシアに接近していた」などと、めちゃ「いい人」扱い。はぁ?閔妃が国のことを思ってたって?
閔妃びいきのバードですら、閔妃が息子を溺愛しすぎて「節操を欠いた行為」(浪費)をくり返していることや、「政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった」ことや、「政治の場で見せた東洋特有の非人道的な性質」(大院君一派など敵対勢力や改革派勢力の粛清、処刑、暗殺…)を見せていたこと等々、批判しているのに。
「報ステ」は、閔妃にとって都合の悪いことは全てスルーしました。
それだけならまだしも、何と、事件の中心人物として絶対に無視できないはずの大院君の「大」の字も出さず、さらには実行犯の中に朝鮮人がいたことも無視したのです。
とにかく事件は完全に日本の仕業で、「全部日本が悪いのよ」という、あまりにも偏向した内容になっていました。
が、「朝鮮紀行」と照らし合わせると、「報ステ」の報道には明らかに矛盾があります。
まず、事件の翌日、怯えきった国王は「訓練隊に代わって日本軍が王宮警備に就いてくれることを切望」しています。
国王は閔妃殺害の現場にいたとされているのですが、自分の妻を襲撃したのが日本人主体の集団だったとして、当の日本側に警備を頼もうなどと普通考えるものなんでしょうか?
それに「国王は暗殺者の一団に囲まれており」、その中にはもちろん日本人もいましたが、「その一団のなかでもいちばん非道な存在が自分の父親(大院君)だった」とバードは断定しているのです。(p.358)
何より、その後日本は列強各国から非難を受けるどころか、各国公使たちが「朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠してはどうか」と勧めたとあるのです。なかでも「日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使」だったと記述されています。(p.364)
「報ステ」の言うように事件が全て日本側の仕業であるなら、このような展開にはならないと思うんですが……。
仮に事件が全て日本側の仕業であるなら、各国大使のこの申し出はまさに渡りに船、一気に王宮を占拠してしまってもおかしくないのでは?(ちなみに日本軍は1884年、金玉均ら開化派が起こした甲申政変の際にも王宮を占拠したことがある)
にもかかわらず、日本軍は「王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった」とバードは記述しています。(p.364)
ついでに言えば、バード自身も、「日本が各国大使の提案を受け入れていれば」、すなわち日本軍が王宮占拠をしていれば、「現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか」と、日本側の対応を批判しているのです。
それどころかバードは、ロシア政府が「訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求した」にも関わらず、「その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身から出たさびといわざるをえない」とまで言っているのです。(p.364-365)
もちろんバードの記述が全て正しいとは言えないでしょうし、他の文献も調べてみないと何とも言えませんが、少なくとも「報ステ」の報道と「朝鮮紀行」の記述に大きな齟齬があることだけは確かです。
ところで、「報ステ」でこの特集が放送される直前の韓国の報道によれば、「閔妃殺害実行犯」子孫の韓国謝罪訪問には「明成皇后を考える会」というのが絡んでるらしいんですが、これは「平和憲法を活かす熊本県民の会」というのが元の組織であると。
やっぱりプロ市民が絡んでましたか……(T^T)
また、「実行犯」の一人とされる国友重章の孫に当たり、韓国へ謝罪訪問を2005年以降続けている開業医の河野龍巳さんについて、「報ステ」では、「熊本にある歴史研究会(「明成皇后を考える会」か?)の呼び掛け」により訪れた、つまり自らの意思で謝罪訪問を始めたように伝えていました。
ところが、当時の韓国の新聞にはこう書かれてあるのです。
【明成皇后殺人犯の後孫達の謝過訪韓は、フリーランサーのドキュメンタリーPDチョン・スウン(鄭秀雄・62・写真)ドキュソウル代表の執念が作り出した‘作品’である。
チョン氏は今年8月頃にSBSと日本NHKで放映される2部作ドキュメンタリー‘明成皇后弑害事件,その後孫達 110年ぶりの謝罪’の製作の為に、去る1年間、日本の熊本にだけでも13回も行き来した。
その過程で彼は甲斐利雄(76)氏等の良心的な退職教師達を知るようになり,‘明成皇后を考える会’を組織して弑害犯の外孫子の河野龍巳氏の訪韓を成功させた。
“河野氏は始めは韓国の人間だと言ったら、とても警戒したのです。それで河野氏の病院の患者まで動員して接触を継続した結果、彼を説得することができたのです。”
彼は“ドキュメンタリー‘東アジア 激動20世紀’の製作を構想しながら明成皇后弑害事件に関心を持つようになった”とし、“日本の知識人達が主軸となった、いわゆる浪人達が隣家国の皇后を殺害した前代未聞の事件を糾明しなくては、到底その時代をまともに眺める事はできない”と言った。
チョン氏は “弑害事件の主犯である三浦梧樓(1846~1926) 当時の日本公使の後孫も捜し出して謝罪訪韓を成功させる”と言った。
http://www.donga.com/fbin/output?n=200505110242
【「散歩道さん」>05/5/14付:それは、脅迫と言わないですか?より引用】
閔妃がいくら朝鮮の近代化にとって邪魔な存在だったとしても、それを暗殺というやり方で排除を図ったことについては、韓国ではもちろん日本でも批判の声はあるでしょう(あくまで現代の価値観に照らしての話ですが)。
ただ、だからと言って、史実を正しく伝えない偏った報道はやはりどうかと思いますし、そんな報道は韓国人にとっても、長い目で見れば決してプラスにはならないでしょう。
……というわけで、第4弾につづく!?……
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