(mochi notes)
http://miyazaki-sensokiroku.jp/modules/addon_html/index.php/24/index.html
慰問袋 comfort bag for japan imperial soldier
戦地の兵士を勇気づけ、また慰めるために、慰問文や日用品を入れて送られた袋。昭和12年(1937年)の日中戦争勃発以後盛んに送られるようになった。 石鹸、キャラメル、絵はがき、便箋などの日用雑貨に、少年少女たちは慰問文や人形を入れたり、時には主婦たちによる千人針も納められた。戦局が厳しくなると慰問袋自体がスフ(化学繊維)となり、入れる品物も不足し、かつ隣組や婦人会を通じての強制色が強まって批判も出て、19年秋からの空襲下にあっては慰問袋どころの話ではなくなり、自然立ち消えとなった。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/honnkansennjiseikatu.html
「慰問袋」と出征の「のぼり旗」
中央の慰問袋は未使用品。戦地へ手紙や生活雑貨などを詰めて送り兵隊さんに喜ばれた。
左端の慰問袋は、戦地に送られ、帰還した大変珍しいもの。
送り主は「岩手県江刺郡愛宕村」(現・岩手県奥州市江刺区愛宕)で、袋は岩手県盛岡市のデパート「川徳」製
http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/w_2006_01/hitosyo060412.html
「支那事変国債購入各大字割当表」及び「慰問袋募集配分表」(十市郡多村)
多村のもの。慰問袋の作成や、支那事変国債の購入を村内で割り当てている様子が伺われる。
十市郡多村(現、磯城郡田原本町)の村内各大字で、国債の購入額を割当てた表。
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/museum/aminokyodoshiryokan/syuzouhin/chirashi/chirashi.htm
戦時中のチラシ
網野町郷土資料館では明治時代から昭和初期にかけての町内に所在していた旧町村役場文書が約2000点所蔵されています。現在整理中で目録の作成を行っています。その他には当時配布されていたチラシやパンフレット、図面も含まれています。今回は主に町内で発行されたチラシ類を紹介します。
「慰問袋を送りませう」
木津信用販売購買利用組合発行。慰問袋に入れる商品の価格表。
http://touhen03.exblog.jp/8366864/
慰問袋と兵士
2008年 07月 26日
こちらは軍事郵便とは書かれていませんが、陸軍の星のマーク入りです。愛國恤兵財團助成會發行(原文右横書き)とあります。兵隊さんへの慰問に使われた絵葉書でしょうか。慰問袋は戦地の兵隊に、日用品や手紙などを入れて送ったものです。当時の子供たちも手紙など書いて送りました。百貨店にも、缶詰やキャラメルなど、慰問品コーナーがあったようですが、戦況の悪化とともに、慰問袋の中身も変化していったそうです。それにしても、この兵隊さんたち、不思議な雰囲気ですね。宝塚っぽいといいますか、まさか男装の麗人では? この絵葉書はたくさん出回ったのでしょう、ネット上でも時々同じ葉書を見ることがあります。
http://www.city.omuta.lg.jp/kouhou-web/06-08-01/karutakkusu.htm
公袋と慰問袋
奉公袋は、召集に備え必要な物を入れて準備しておくための袋です。袋の中には軍隊手帳や教本・勲章などを入れておき、召集の際に持参しました。
慰問袋は、出征した兵士を激励するために国防婦人会を中心に作られ始め、食料品や日用品・千人針・手紙などを詰めて贈った袋です。
奉公袋と慰問袋
国民総動員よくさんカルタ
(昭和16年)
http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/W_2008_02/hitosyo06.html
国防婦人会、慰問袋収集の写真
昭和17年、20歳未満の未婚者を除いた全ての日本人女性を組織するために、愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本連合婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が設立された。出征兵士の見送り、戦死者遺族への見舞いなどとともに、彼女たちによって慰問袋収集活動がなされた。慰問袋やその中に入れられた手紙は、戦地にいる兵士の心の支えとなるものであった。
http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/aikokufujinnkai.html
戦時下の団体①
愛國婦人會
あいこくふじんかい
~兵隊さんは命がけ!私たちは襷がけ!~
愛国婦人会とは?
愛国婦人会は、近代における日本で最初の全国的規模の婦人団体であった。日本国内にとどまらず、朝鮮・台湾・樺太・満州・南洋諸島など日本の植民地のみならず、サンフランシスコ・ハワイ・バンクーバーなどにも地方本部や支部を広げていた。また愛国婦人会は、20世紀の初年1901(明治34)年に創設され40年以上にわたって存在した婦人団体であり、最盛期には700万人以上の会員を持つ、世界的に見ても大きな婦人団体であった。
また、「国防婦人会」との対比され、ご立派な「愛国婦人会」、庶民的な「国防婦人会」などと述べられる場合も多いが、地方によっては並立している場合もあったので必ずしも対称的な団体ではない。また、設立当初はともかく、満州事変以降の戦時体制下に於いては銀色の会員章と襷がけの姿で銃後の守りの為、街頭活動を繰り広げている。
(未完)
資料1 愛国婦人会水沢支部「銃後の日本大丈夫 皇軍慰問絵葉書」(現・岩手県奥州市水沢区)
恐らく支那事変での慰問絵葉書であろう
絵葉書の袋 名前を書いて慰問袋に入れたのであろうか?
絵葉書の図柄は全国共通のようである
愛国婦人会=農業 ではない。これは地方向けのハガキである。
毛布献納運動のPRを兼ねている。有名な標語「兵隊さんは命がけ 私たちは襷がけ」
愛国婦人会水沢町分会 のスタンプが戦時下の郷土資料としての価値を高めている。
2009年/2669年?平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館
無断転載厳禁
http://blogs.yahoo.co.jp/kanemaru1967/folder/1455229.html
「山口の絵葉書 室積町婦人会慰問袋発送の光景」
2007/1/27(土) 午後 2:19中国四国の絵葉書と風景山口県
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画像は昭和初期の絵葉書
室積町は現在の山口県光市。
まだ戦争はそれほど激しくなっておらず、
比較的内地にも余裕があった時期だと思われる。
慰問袋の中身は画像では缶詰くらいしか確認できないが
他にどんなものが入っていたのだろうか?
http://www.archives.go.jp/exhibition/haru_aki/01aki.html
町内会で戦地への慰問袋作り
http://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/records/publication/125_years/chapter3_2.html
3-54 慰問袋 出征兵士を慰めるために日用品、手芸品、絵画、手紙などを入れて送った。1937年の日中戦争期に盛んに行われた(1938年ころ)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/D22/D222.htm
慰問袋づくり
今庄小学校裁縫室で、国防婦人会・女子 青年団などによって行われた。黒板の文字から慰問袋にはドロップやたばこ・便せん・ちり紙などが入れられたことがわかる。あわせてた家族の写真が入れられることもあった。 今庄町 島崎文治氏蔵
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